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第一章みなみは『マネジメント』と出会った

目次

プロローグ

川島みなみが野球部のマネージャーになったのは、高校二年生の七月半ば、夏休み直前のことだった。

それは突然のことだった。

ほんの少し前まで、みなみはまさか自分が野球部のマネージャーになるとは思っていなかった。

それまでは、どこの部活にも所属していないただの女子高生にすぎなかった。

野球部とは縁もゆかりもなかった。

ところが、思いもよらない事情から野球部のマネージャーをすることとなった。

そのため、二年生の夏休み前という中途半端な時期ではあったが、野球部に入部したのである。

マネージャーになったみなみには、一つの目標があった。

それは、「野球部を甲子園に連れていく」ということだった。

彼女はそのためにマネージャーになったのだ。

それは夢などというあやふやなものではなかった。

願望ですらなかった。

明確な目標だった。

使命だった。

みなみは、野球部を甲子園に連れて「いきたい」とは考えていなかった。

連れて「いく」と決めたのだ。

しかし、そう決めたはいいものの、どうしたらそれを実現できるか、具体的なアイデアがあるわけではなかった。

前述したように、これまで野球部とは無縁の生活を送ってきた。

だから、野球部はおろか、マネージャーのこともよく分かっていなかったのだ。

しかしみなみは、それを全く気にしていなかった。

なんとかなる――と単純に考えていた。

彼女にはそういうところがあった。

考えるより先に、まず行動するのだ。

野球部のマネージャーになったのもそうだった。

「どうやったら野球部を甲子園に連れていけるか」と考える前に、まず「野球部を甲子園に連れていく」と決めてしまった。

そして、そう決めたらもう考えるのをやめ、すぐ行動に移したのである。

第一章みなみは『マネジメント』と出会った

1みなみが通っていたのは、「東京都立程久保高校」という公立の普通高校だった。

程久保高校――通称「程高」は、東京の西部、関東平野が終わって多摩の丘陵地帯が始まる、大小さまざまな丘の連なる一角にあった。

校舎は、そんな丘の一つ、見晴らしのよい高台の上に建っていた。

教室の窓からは、遠く奥多摩の連山や、晴れた日には富士山まで見通せた。

その一帯は、昭和の半ばに山林を伐り開いてできたベッドタウンで、周辺にはまだ雑木林も多く残り、東京とはいえ自然豊かなところだった。

程高は進学校だった。

偏差値は六十を超え、大学進学率はほぼ百パーセントで、毎年数名の東大合格者を出すほどだった。

それに比べると、スポーツの方はさっぱりだった。

部活動そのものは盛んだったが、全国大会に出るような強豪は一つもなかった。

それは野球部も同じだった。

けっして弱くはなかったが、強くもなかった。

甲子園を狙えるようなレベルにはなかった。

これまでの最高は、もう二十年以上も前に一度だけ五回戦(ベスト16)に進出したことがあるだけで、いつもはよくて三回戦止まりだった。

そのことはみなみも知っていた。

だから、もともと今の野球部に大きな期待をしていたわけではなかったが、それでも、いざ入部してみると愕然とさせられた。

現状が、あまりにもお粗末だったからだ。

これでは、甲子園はおろか、一回戦を勝ち抜くのさえどうかと思わされた。

みなみがマネージャーになったのは、夏の都予選に負けて三年生が引退した直後だった。

だからというのもあったが、この時期の練習にはほとんどの部員が参加していなかった。

別に休みというわけではなかった。

練習はちゃんと行われていた。

それにもかかわらず、多くの部員がほとんどなんの理由もなしに、またなんの報告もなしで、練習をサボっていたのである。

この頃の野球部には、そういう雰囲気があった。

出るのも休むのも全くの自由。

自由というと聞こえはいいが、単に規律がないだけであった。

いくら休もうと、いくらサボろうと、なんのおとがめもなしだったのである。

みなみが初めて練習に参加した日、出席していたのはたったの五名だけだった。

部員は全部で二十三名だったから、四分の三以上が欠席していたことになる。

しかも、そういう状態が約一週間続いた。

そうして、あっという間に夏休みが目前に迫った。

それで、さすがにみなみも少し焦った。

このまま何もせず夏休みに入ってしまうのはいやだった。

せめて自分の思いくらいは誰かに伝えておきたかった。

そのうえで、自分の考えに賛同してくれたり、協力を申し出てくれる仲間を募りたかった。

そこで彼女は、監督と、出席していた数少ない部員たちに対して、こう打ち明けた。

「私は、この野球部を甲子園に連れていきたいんです」すると、それに対してさまざまな答えが返ってきた。

真剣に聞いてくれた者もいれば、軽く受け流した者もいた。

中には、ほとんど要領を得ない答えもあった。

しかし、その全てに共通していたのは、どれも否定的なことだった。

監督の加地誠は、こう言った。

「それはさすがにムリじゃないかな。

甲子園大会が始まってもう九十年以上になるけど、西東京地区で都立校が甲子園に出場したのはこれまでたったの一校、都立国立高校だけだからね。

それでなくとも西東京は、私立の強豪がひしめく激戦区で、桜美林、日大三高、早稲田実業と、甲子園優勝経験校が三つもある。

甲子園に出場するには、そうした私立の強豪をいくつも倒さなければならないんだよ。

その目標は、あまりにも現実とかけ離れているよ」キャプテンの星出純は、こう言った。

「それは正直厳しいよ。

うちの部員たちは、甲子園に出るために野球をやってるわけじゃないからね。

身体を鍛えたり、仲間を作ったり、高校時代の思い出を作るためだったり……後は、子供の頃からの惰性とか、他にやることがないからってやつもいるし。

そういう連中に『甲子園を目指そう』と言ったって、誰もついてこないんじゃないかな」野手の要、キャッチャーの柏木次郎はこう言った。

「あのさ、それはやっぱり難しいと思うよ。

気持ちは分かるけど、へたに甲子園なんか目指したりすると、かえって行けなかった時のショックが大きくなるんじゃないかな?だったら、初めから大きなことは言わないで、三回戦突破くらいを目標にしておいた方が無難だよ」それから、一転して声を潜めると、こんなふうに尋ねてきた。

「ところで、おまえ、本気なのかよ。

本気でマネージャーをやるつもりなのか?前のことはもういいのか?……だって、前はあれほど野球を嫌って――」しかしみなみは、次郎のことをジロリとにらむと、言葉を遮るように言った。

「誰かに余計なことしゃべったら、許さないからね」「それは……分かってるよ」と、次郎はひょいと首をすくめてみせた。

最後に尋ねた一年生女子マネージャー、北条文乃はこう言った。

「え?あ、はい。

甲子園ですか?え、あ、はい。

そうですね……いえ、あの、別に……。

あ、はい……」そう答えたきり、彼女は何も言わなくなってしまった。

結局、みなみの考えに賛同したり、協力を申し出たりする人間は、一人もいなかった。

それでも、彼女はへこたれたりはしなかった。

逆にモチベーションを高めていた。

面白い――とみなみは思った。

誰にも相手にされないからこそ、逆にやりがいもあるというものだ。

みなみには、そういうところがあった。

逆境になればなるほど、闘志をかき立てられるのだ。

それに、みなみには全くなんの味方もないわけではなかった。

この頃までに、彼女は一つの強力な味方を得ていた。

2野球部のマネージャーになって、みなみがまず初めにしたことは、「マネージャー」という言葉の意味を調べることだった。

それがどういう意味かということさえ、彼女はよく知らなかったのだ。

そこで、家にあった広辞苑を引いてみた。

すると、そこにはこうあった。

マネージャー【manager】支配人。

経営者。

管理人。

監督。

また、すぐ隣にはこんな言葉も載っていた。

マネージメント【management】管理。

処理。

経営。

これを読んで、みなみは「マネージャー」というものを「管理や経営をする人――つまりマネージメントをする人」だと理解した。

次に、今度は近所の大型書店に出かけていった。

そこで、マネージャー、あるいはマネージメントについて、何か具体的に書かれている本を見つけようとしたのだ。

本屋さんまでやって来た彼女は、店員にこう尋ねた。

「何か『マネージャー』、あるいは『マネージメント』に関する本はありますか?」するとその若い女性店員は、一旦店の奥に引っ込むと、すぐに一冊の本を手にして戻ってきた。

それを差し出しながら、彼女はこう言った。

「これなんかいかがでしょうか?これは『マネジャー』あるいは『マネジメント』について書かれた本の中で、最も有名なものです。

世界で一番読まれた本ですね。

もう三十年以上も前に書かれたものなんですけど、今でも売れ続けているロングセラーです。

これは、その要点を抜き出した『エッセンシャル版』です。

『完全版』というのもあるんですけど、初めての方にはこちらをお薦めしています」そこでみなみは、その本を手にとって見てみた。

タイトルには、そのものズバリ『マネジメント』とあった。

著者はピーター・F・ドラッカーで、編訳者は上田惇生、出版社はダイヤモンド社となっていた。

そうして彼女は、中身も見ずにその本を買い求めた。

値段は二千百円と少し高かったものの、世界で一番読まれた本というのが気に入った。

それに、あれこれ考えてもしょうがない――という思いもあった。

――もともと「マネージャー」という言葉の意味さえ知らなかったのだ。

そんな自分に、本の良し悪しなど分からない。

こういう時は、あれこれ考えず、まずは買って読んでみるに限る。

本を買ったみなみは、家に帰ると早速それを読み始めた。

しかし、読んですぐに後悔し始めた。

本の中に、野球についての話がちっとも出てこなかったからだ。

それは、野球とは無関係の、「企業経営」について書かれた本だった。

おかげで、みなみは自分にうんざりさせられた。

――せめて、野球について書かれているかどうかくらいは確認すればよかった。

せっかちにもほどがある。

今度からは、少なくとも中身くらいは確認しよう。

それでも、すぐに気持ちを切り替え、その先を読み進めた。

――せっかく二千百円も出したのだから、読むだけは読んでみよう。

野球に関係なくても、「世界で一番読まれた」ことには変わりないわけだから、何かの参考にはなるだろう。

そんなふうに、みなみには反省してもすぐ気持ちを切り替えてしまうところがあった。

おかげで、落ち込むことが少ない代わりに、せっかちな性格が改善されることもなかなかなかった。

ところが、そうやって読み進めてみると、その本は意外に面白かった。

また、単に「企業経営」についてだけ書いてあるわけではないというのも次第に分かってきた。

そこには、企業を含めた「組織」の経営全般についてが書かれていた。

そして、それなら野球部に当てはまらないこともなかった。

野球部も、広い意味での組織だった。

だから、組織の経営について知ることは、野球部の経営を知ることにもつながった。

それが分かって、みなみはホッとした。

――この本も、全くのムダではなかったのだ。

ただ、そうしたことは抜きにしても、その本は面白かった。

みなみは、そこに書かれていることを完全に理解できたわけではなかったが、何かとても重要な、だいじなことが書かれているというのはよく分かった。

言葉の一つひとつが、とても重く、また貴重なものとして受け止められた。

それに魅了されたみなみは、夢中になって読み進めていった。

ところが、三分の一ほどのところまで来た時だった。

不意に、心にコツンと小石のぶつかるような感覚を覚えた。

それは、本の中に書かれていたある言葉に目が留まったからだった。

そこにはこう書かれていた。

マネジャーの資質(一二九頁)それで、ドキッとしたのである。

この言葉は、「マネジャー」という章の中にあったものだった。

マネジャーについてあれこれ書かれている中にあった、見出しの一つだった。

これを見て、みなみは思った。

――きっと、ここにはマネジャーになるために必要な資質が書かれているに違いない。

そして、こう心配した。

――もし、私にそれがなかったらどうしよう!みなみは、それだけは絶対に避けたいと思った。

それは、自分にマネジャー失格の烙印を押されるようなものだと思ったからだ。

そして、野球部を甲子園に連れていくという自分の目標も、無理だと宣告されるようなものだと思った。

おそらく、他の誰かからそうしたことを言われても、ほとんど気にしなかったろう。

事実、野球部のみんなには否定されたが、ちっとも気にしていなかった。

しかし、この本からだけは、そうしたことを言われたくなかった。

それは、この本が世界で一番読まれているものだということもあったけれど、みなみ自身、この本に大きな魅力を感じていたからでもあった。

もっといえば、この本を好きになりかけていたのである。

だから、その好きになりかけていた本から自分のマネジャーとしての適性を否定されるのは、絶対に避けたいと思ったのだ。

それで、みなみはドキドキしながらその先を読み進めた。

すると、そこにはこうあった。

人を管理する能力、議長役や面接の能力を学ぶことはできる。

管理体制、昇進制度、報奨制度を通じて人材開発に有効な方策を講ずることもできる。

だがそれだけでは十分ではない。

根本的な資質が必要である。

真摯さである。

(一三〇頁)その瞬間、みなみは電撃に打たれたようなショックを覚えた。

そのため、思わず本から顔をあげると、しばらく呆然とさせられた。

しかし、やがて気を取り直すと、再び本に目を戻し、その先を読み進めた。

すると、そこにはこうあった。

最近は、愛想よくすること、人を助けること、人づきあいをよくすることが、マネジャーの資質として重視されている。

そのようなことで十分なはずがない。

事実、うまくいっている組織には、必ず一人は、手をとって助けもせず、人づきあいもよくないボスがいる。

この種のボスは、とっつきにくく気難しく、わがままなくせに、しばしば誰よりも多くの人を育てる。

好かれている者よりも尊敬を集める。

一流の仕事を要求し、自らにも要求する。

基準を高く定め、それを守ることを期待する。

何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。

真摯さよりも知的な能力を評価したりはしない。

このような資質を欠く者は、いかに愛想がよく、助けになり、人づきあいがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。

そのような者は、マネジャーとしても、紳士としても失格である。

マネジャーの仕事は、体系的な分析の対象となる。

マネジャーにできなければならないことは、そのほとんどが教わらなくとも学ぶことができる。

しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、始めから身につけていなければならない資質が、一つだけある。

才能ではない。

真摯さである。

(一三〇頁)

みなみは、その部分をくり返し読んだ。

特に、最後のところをくり返し読んだ。

――才能ではない。

真摯さである。

それから、ポツリと一言、こうつぶやいた。

「……真摯さって、なんだろう?」ところが、その瞬間であった。

突然、目から涙があふれ出してきた。

それで、みなみはびっくりさせられた。

自分がなんで泣くのか、よく分からなかったからだ。

しかし、涙は後から後からあふれてきた。

それだけでなく、喉の奥からは嗚咽も込みあげてきた。

おかげで、みなみはもうそれ以上本を読み進めることができなくなってしまった。

そのため、本を閉じると机の上に突っ伏し、しばらく涙があふれるのに任せていた。

読み始めてからだいぶ時間が経ち、もう日も暮れかけて薄暗くなった自分の部屋で、みなみは一人、しばらくさめざめと泣き続けていた。

3終業式の日、学校を出たみなみは、家には帰らず、バスを乗り継いで市の中心部にある大きな総合病院へと向かった。

そこに入院している友人を見舞うためだ。

友人の名前は宮田夕紀といった。

夕紀は、みなみにとって程高の同級生であり、また幼なじみでもあった。

病室を訪れると、夕紀の母の宮田靖代が出迎えた。

「あら、みなみちゃん。

いらっしゃい」「おばさん、こんにちは」しかし、夕紀の姿は見えなかった。

「あれ、夕紀は?」みなみは、靖代とも幼い頃からの顔なじみだった。

そのため、今では自分の親と変わらないくらい、ほとんど気兼ねなく話すことができた。

「今ね、ちょっとお散歩に行ってるのよ」それで、みなみは「え?」と驚いた。

「お散歩なんて、していいの?」「ちょっとだけならね。

でも、もうそろそろ帰ってくる頃よ、あ、ほらちょうど――」みなみが振り返ると、入り口のところにジャージ姿の夕紀が立っていた。

「あら、みなみ。

いらっしゃい。

いつ来たの?」「ちょうど今。

それより、大丈夫なの?お散歩なんかして、暑くなかった?」「うん、私は大丈夫。

ほら、これ――」と夕紀は、自分の頭を指差してみせた。

そこには、真新しい麦わら帽子が載っていた。

「あ、可愛い」「でしょ?これをかぶりたくて、ちょっと外へ出てみたんだ」それでみなみは、納得してうなずいた。

「そうなんだ。

そうだよね。

たまにはお洒落して、外出でもしないとね」「お洒落といっても、下はジャージだけどね」そう言うと、夕紀はいたずらっぽく微笑んでみせた。

そんな夕紀に、靖代が言った。

「あ、じゃあお母さん、ちょっと買い物に行ってくるから」。

それから、みなみに向き直るとこう言った。

「みなみちゃん、後はよろしくね」「はぁい、行ってらっしゃい」靖代が出ていくと、みなみは勝手知ったるというふうに自分で冷蔵庫を開け、コップに麦茶を注ぐと、ベッドの前のパイプ椅子に腰かけた。

そんなみなみに、ベッドに戻った夕紀はこう切り出した。

「それで、どう?野球部の方は」「うん。

まあ、まだ始めたばかりだけど、なかなか……ね」「みんな、あんまり練習に来てないんじゃないの?」「そうなのよ。

もうずっと――いつも四、五人という感じで」「この時期はいつもそうね。

去年もそんな感じだったもん」「そうなんだ」この夕紀も、実は野球部のマネージャーだった。

しかも彼女は、みなみとは違って、一年生の時から活動しているベテランだった。

ところが、夏の都予選に負けてすぐ、急に体調を崩して入院してしまったのだ。

しかも、その病状は軽くなく、長期の入院が必要で、場合によっては手術するかもしれないとのことだった。

これには、夕紀はもちろん、みなみも大きなショックを受けた。

みなみにとって夕紀は、幼なじみであると同時に、文字通りの親友でもあったからだ。

しかし一方で、そうした事態は、二人にとっては慣れっこなところもあった。

というのも、夕紀は幼い頃から身体が弱く、小学生の頃には、それこそ毎年のように入退院をくり返していたからだ。

入院するのは、いつもこの市立病院と決まっていた。

おかげでここは、二人にとっておなじみの場所でもあった。

それでも、みなみがここを訪れるのは久し振りのことだった。

夕紀は、中学に入ってからは比較的健康で、病気こそあったのだけれど、入院したことは一度もなかった。

だから、ここへきて再び入院したことは、二人にとってはやっぱりショックなできごとだった。

それでも夕紀は、そうした落胆はおくびにも出さず、比較的淡々と、明るく入院生活を送っていた。

そんな夕紀に、みなみは鞄から本を取り出すと、それを開きながら言った。

「実は、今日は聞きたいことがあって来たんだ」「何、その本?」「いいから聞いて。

質問に答えたら教えてあげる」「ん、分かった」「じゃあ、質問です――野球部とは、一体なんでしょう?」「え?」「野球部とは何か?野球部の事業とは何か?何であるべきなのか?」「ちょ、ちょっと待って。

いきなり何言ってるの?」。

夕紀は、怪訝そうな顔をして言った。

「ちゃんと説明して。

どういう意味か、全然分からないよ」「いや、あのね――」とみなみは、本の表紙を見せながら言った。

「実は、こういう本を買ったんだけど……」

「『マネジメント』?」「そう。

マネージャーをやるにあたって、何か参考になる本はないかなと思って買ったんだ」「へぇ。

どうなの、それで。

参考になる?」「ん……まだ分からないんだけどね。

でね、これに書いてあったんだけど、マネジメント――マネジメントというのはマネジャーの仕事ね――をするためには、まず初めに、『組織の定義づけ』から始めなければならないんだって」「組織の定義づけ?」「そう。

『マネジメント』には、こうあるわ」あらゆる組織において、共通のものの見方、理解、方向づけ、努力を実現するには、「われわれの事業は何か。

何であるべきか」を定義することが不可欠である。

(二二頁)「つまり野球部をマネジメントするためには、まず野球部はどういう組織で、何をするべきか――を決めなければならないのよ」「ほほぅ。

ふうむ……なるほど、それで『野球部とは何か?』って聞いたわけね」「うん、そうなの。

でね、これが決まらないと先へ進めないんだけど、それがさっぱり分からなくて……」「野球部って、野球をするための組織じゃないの?」夕紀は、何気ない調子でそう言った。

しかしみなみは、残念そうな顔をしながらこう答えた。

「それが違うらしいのよ。

『マネジメント』には、こうあるわ」自らの事業は何かを知ることほど、簡単でわかりきったことはないと思われるかもしれない。

鉄鋼会社は鉄をつくり、鉄道会社は貨物と乗客を運び、保険会社は火災の危険を引き受け、銀行は金を貸す。

しかし実際には、「われわれの事業は何か」との問いは、ほとんどの場合、答えることが難しい問題である。

わかりきった答えが正しいことはほとんどない。

(二三頁)「つまり、『野球をすること』というのは、ここでいう『わかりきった答え』なのよね。

だから、それはたぶん違うと思うの」「あ、そうなんだ。

ううん……難しいのね」「そう。

だから私も、ここで行き詰まっちゃったんだ。

野球部って、一体なんなんだろう?――って。

それで、夕紀に聞けば何か分かるかもしれないと思って、今日聞きに来たんだけど……」それから二人は、色々と考えてみた。

お互いに思うことを言い合って、意見を交換した。

しかし、いくら考えてみても、納得のいく答えは見つからなかった。

そこでみなみは、気分を変えようと、今度は別の質問をしてみることにした。

「そういえば、夕紀はどうしてマネージャーになったの?」4みなみは、夕紀とは幼なじみだったが、彼女が野球好きというのは、高校に入るまで知らなかった。

高校に入った時、いきなり「野球部に入りたいんだけど」と言われ、そこで初めて知ったのだ。

しかし、その時はマネージャーになろうと思った理由を尋ねなかった。

そして、それ以降も二人の間でこの話題が出ることはなかった。

だから、みなみはこの時まで、夕紀がどうしてマネージャーになろうと思ったのかを知らなかった。

ところが、その質問を受けた夕紀は、なぜか顔色を青くした。

ひざにかけていたタオルケットの端をぎゅっと握ると、みなみから顔を背け、ベッドの横の壁を見つめた。

それでみなみも、夕紀の様子がおかしいことに気がついた。

「夕紀?」しかし夕紀は、みなみの言葉など聞こえなかったかのように、しばらく何も答えなかった。

それから間があって、ようやくそろそろと振り向くと、こう言った。

「……実は、みなみに聞いてもらいたいことがあるの」「え?」夕紀は、みなみの顔を真っ直ぐに見つめると、一言一言、噛みしめるように言った。

「これは、本当はもっと早く話したかったんだけど、でも、勇気がなくて、これまでずっと言えなかったんだ。

だけど、今決心した。

私、そのことをみなみに言う。

だから、みなみもそれを聞いてくれる?」「え?う、うん、もちろん。

だけど、いやだったらムリに話さなくても……」「ううん」と夕紀は、即座に首を振って言った。

「本当に、私は聞いてもらいたいの。

だけど、これを言うと、みなみに嫌われるんじゃないかと思って――みなみを傷つけるんじゃないかと思って、だから、今までずっと言えなかったの」「え?何?やだなぁ、おどかさないでよ」みなみは、なるべく明るく、茶化すような口調でそう言った。

しかし、夕紀が深刻そうな表情を変えることはなかった。

そのため、場の空気はかえって重くなった。

夕紀は、再びみなみから顔を背け、しばらく目の前の虚空をじっと見つめていた。

しかし、やがて何かを決心したようにみなみの方を振り向くと、ゆっくりと話し始めた。

「みなみは、覚えてる?小学校の時の、市の大会の決勝で、その……みなみがサヨナラヒットを打ったのを」「あ……」とみなみは、そこで初めて分かった。

その時ようやく、夕紀が何を言おうとしているのかを悟った。

それと同時に、苦い思いも込みあげてきた。

それは複雑な感情だった。

一つには、夕紀が語ろうとしたことへの苦い思い出。

もう一つは、夕紀に気を遣わせたことへの申し訳なさだった。

――私はなんと鈍感なのだろう。

みなみは、自分にうんざりさせられた。

夕紀の気持ちに、これまでちっとも気がつかなかった。

それでもみなみは、今度も明るく、さらりと返事をしようとした。

ところが、そうした思いとは裏腹に、口調はなぜかぎこちないものとなってしまった。

「あ……う、うん。

覚えてる……よ」それに対し、夕紀はなおも続けた。

「私ね、その試合を、次郎ちゃんと一緒に、ベンチの横のところで見ていたんだ。

そうしたら、みなみ、あの打席で、最初の球を、空振りしたでしょ?それも、バットとボールがこんな離れてて、タイミングも全く合ってなくて」「……うん」「私ね、それを見て、すごく心配になったの。

だって、全然打てそうになかったんだもん。

野球をしたことのない私にも、それは分かった。

みなみ、全然タイミング合ってないって。

それにね、隣にいた次郎ちゃんが、こんなふうに言ったの。

『ああ、あんなに大振りしてちゃ、打てないよ。

もっと、狙い球を絞っていか

なきゃ』って。

それで、私、ますます心配になって――」「あいつ、そんなことを言ったんだ」と、みなみは苦笑いのような表情を浮かべた。

「あれは演技だったんだ。

相手を油断させるために、わざと空振りしたんだよ」「知ってる」と夕紀は真顔でうなずいた。

「後で、みなみからそれを聞いたもん」「そうだっけ?」「うん。

だけどね、それを聞くまで、私は、それが演技だなんてこと、もちろんちっとも分からなかった。

だから、本当にすごい心配して、ハラハラドキドキしながらその打席を見守ってたんだ。

そうしたら、みなみは、その、二球目を、二球目を……ああ、みなみ。

私、その時のことを思い出すと、自然と涙が出てきちゃうの」それで、みなみはびっくりして夕紀の顔を見た。

すると、その目には本当に涙が浮かびあがっていた。

「私ね、本当に感動したの!」。

夕紀は、涙声になりながら、絞り出すように言った。

「あの打球が右中間を抜けていく時、私は、生まれてからそれまで、一度も味わったことのないような感動と興奮を覚えたの。

本当に嬉しかった!あの時のことは、きっと一生忘れないわ。

本当に、それくらい嬉しかったの!」

みなみは、何も言えなかった。

彼女はただ、涙を流す夕紀をじっと見つめるだけだった。

「それがね、私が野球部のマネージャーになりたいと思ったきっかけなの。

そのことが、私、ずっと忘れられなくて、その時の感動を、また味わいたいと思って。

だから野球部に入ったの。

だからマネージャーになったの。

マネージャーになったら、もしかしたらまた、あの時と同じような感動を味わえるかもしれないと思って。

それで……それで私……野球部に……ごめんね、みなみ!」夕紀は、突然叫ぶように言った。

「私、もし私がその時のことを言い出したら、みなみを傷つけてしまうんじゃないかと思ったの!それで、それでずっと言えなかったの!」「バカだなぁ」とみなみは、また苦笑いのような表情を浮かべて言った。

「そんなことで、私が傷つくわけないじゃん」「私はね、聞いてほしかったの!」。

夕紀は、なおもすがるような眼差しを向けながら言った。

「私、みなみにそのことを知ってほしかったの!私が、みなみを見て本当に感動したっていうことを、ずっとずっと伝えたかったの!ずっとずっとみなみに言いたかったの!みなみにそのことを知ってほしかったの!でも、言えなかったの。

言う勇気が持てなかったの。

ごめんね、ごめんね……」そう言うと、夕紀は慟哭して、それ以上何も言えなくなってしまった。

そのため、みなみは、慌てて夕紀の背中をさすってやった。

そうして、彼女が落ち着きを取り戻すまで、その背中をさすり続けていた。

 

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