序
すでに私は、経済の実社会に在ること六十余年になります。その間、多種多様の経営者の方々から限りない教訓をうけました。
私が二十余年の経営者としての任務をなんとか果たせたのも、それらの教えによるところがきわめて大であったといえます。
いまにして、すべての教えを集約しますと、
仁(忠・恕o人格)
智(創造・知識)
勇(果断の勇)の三つになります。
仁・智・勇は、古今東西、優れた指導者に共通するもので、この三条件をそなえた指導者が将の将としての器といえましょう。
しかし、そうした人は稀で、 一、二に欠ける人も少なくないものです。それでいながら将の将たるの任務を果たしているのは、それを補うに足るスタッフを用いています。また欠けている条件を、生来のものとしてあきらめてしまっている人も少なくありません。しかし、これは誤りであることも、成功した経営者や歴史の教訓から学ぶことができます。
かつて関係した会社で組織を小規模化して分社したとき、大企業と小企業の格差がどうしてできたのか、と考えたことがあります。その理由の最たるものは、指導者の「志」の違いにある、ということでした。「大器は人を求め、小器は物を求む」という言葉からも、おおよそのことは理解されましょう。
また現職時代に、組織の活性化は「恕」にある、とよく言ったものですが、歴史から学んだ古い言葉が、現代にも生きていることは、会社を再建した私の体験が証明してくれました。
この本は、これまで私が書いた十余冊の集大成とすべく七章九十四項におよんでおり、その各所に中国歴史からの教訓がでてきます。それらは私の現職中、なにかの機会に実際に用いたものばかりで、いわば私の経営哲学といえるものです。その幾らかでも、経営に役立てていただくなら幸甚です。
本書出版に際し、日本経営合理化協会の本間編集長はじめ皆様のご高配をいただきました。ここに厚くお礼申しあげます。
平成元年二月十日
井原隆一
※本書は一九八九年に出版した「社長の帝工学」の新装版である。
徳
は
てつろう
鉄牢よりも強し
徳のない者は経営者としての資格がない。
経済社会のつながりの凡ては「信」によって結ばれ、組織内の人々は「敬」(己を慎み人を敬う)によって結ばれているからである。いかに能力o財力があり、権力があっても、人格に劣る徳のない人間に心から従うものはない。一時は権力・財力につられて従うにしても、いずれは去り行くものである。
長期にわたって従ったとしても、本心は「心ならずも」ということであって心服してのそれではない。古今東西、徳に反する者が、国、事業を長らえたものはない。個人にして有終の美を飾るものもない。標題の「徳は鉄牢よりも強し」は王遵の詩を引用したものである。
「秦、長城を築いて鉄牢に比す、蕃戎敢て臨眺を過ぎず、焉んぞ知らん万里連雲の勢、及ばず尭階三尺の高きに」(秦は万里の長城を築いて、鉄の牢屋のように匈奴を閉じこめてしまったので、臨眺からこちらに入ってこなくなった。このように延々雲に連なるような長城も、理想の帝王といわれた尭帝が土階三段の低い官殿によって立派に太平の世を築いたことにくらべると、まったく比較にもならない愚かなことであった)。
中国古代の名君、尭帝は治世よろしきをえたため、武力に頼ることなく五十年間も治めたが背く者もなかった。
秦は長城を築いて外敵を防ぐことはできたが、二世胡亥の代になって悪政を重ねたため三代十五年で滅亡している。これに類した例が、後世の隋である。
一
・ ようだい “んてい つうさいとこ えいさいきよ ¨
隋の二世腸帝は父の始祖文帝時代に蓄えた国力で大土木工事を起した。通済渠、永済‐渠なみつどの大運河を造って水上輸送の大動脈としている。「河南熟れば天下足る」といわれたとおり中国南部の物資がぞくぞく北に運ばれ政治経済にも大きく貢献したものである。
それだけに止めておいたとすれば、万里の長城を築いた秦の始皇帝にも劣らないはど大事業をなしとげた偉大な人物として後世にもその名を残したに違いない。
しかし、場帝は運河にそって四十余力所の豪華な離官を築いて贅の限りをつくした。さらに中国統一の勢いに乗って高麗を攻めたが完全に目的を果たすことはできなかった。
これらによって国力を使い果たし、各地の内乱に抗すべくもなく三世、三十七年で隋は亡びている。内乱が各地に起きても都にも帰らず江都の離宮で日夜酒宴にふけっていたというから自分まで忘れていたといえよう。
現代でもトップが徳を失なうようになれば、表面威権は行なわれているようにみえるが、部門内の人々の心は乱れ、ついには反抗心が士気の低下となって会社を窮地に追いこむ。かりに、利につられて部下が協力しているとしても、外部の信用を失なって四面楚歌の苦境に立たされる。
金のサギ商法といわれたT商事の社長は「商売に道徳は不必要」とうそぶいていたが、その幾日か後には刺し殺されている。
企業マンとして利を追うのは当然であるが、人間として踏むべき道を踏み外してもよいということではない。孔子も「利を追うときには義を思え」と教えている。先ごろ故人になったO氏はほとんど無一物から日本一といわれるほどの大金持ちになった。
ためにする人を除いては、容易にまねることのできない人だ、立派なものだ、と賞讃され羨望されていたが、ロッキード事件にかかわりがあったということだけで著しいイメージダウンになっている。徳に背いているからである。
よく、組織内でも上に立つ者は人格に優れていなければならないというが、上下にかかわらず人格に優れていなければ、 一時の繁栄はあっても上昇気流に乗りつづけることはできないものである。
「徳は孤ならず」というが人格に優れた者は孤独になえるが限りない味方がある。不徳の者は、 一時的には華やかにみえるがいずれは孤独になっていくものである。
明の洪自誠が著した菜根諄という本に「道徳を棲守する者は、 一時の寂真たり。権勢に依阿する者は万古に凄涼たり。達人は物外の物を観じ、身後の身を思う。むしろ一時の寂真を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ」(人間としての道を守り通そうとする者は、 一時的には不遇で苦境に立たされることもある。権力におもねり、へつらう人間は一時的には栄進もするし、虎の威を借りて居心地もよいが、やがては永遠の孤独に苦しむことになる……)とある。
昔、魏の武侯が舟を浮べて黄河を下って中流にきたとき兵法家でもある呉起に向かって「山河の見事な堅固さよ。自然の要塞になっている。魏の国の宝である」と話したところ呉起はこう答えた。
「一国の安泰は山河の堅固に依るものではなく、君の徳によるものです。昔、三苗という。種族は山河沼湖の要塞を占めていましたが有徳の夏の高王に亡ぼされ、殷の国は大山大河の堅固の要塞に囲まれていましたが村王が暴虐であったため周の武王に亡ぼされています。もし君が徳を治めないときは、この舟の中もすべて敵国になりましょう」
武侯も感じいったという。「舟中の人皆敵国なり」の故事である。
これを会社におきかえると「社長が徳を治めなければ会社中の人は皆敵になります」ということになる。
「木に縁りて魚を求む」のいわれはこうである。
いまから二千三百年ほど前、孟子が斉の国へ行った。斉の王は、宣王といって立派な器量人であった。
宣王は大志を抱いており、中国統一が夢でもあった。富国強兵を国策としていただけに孟子に対しても、斉の桓公、晋の文公がどのようにして天下を統一したかをきこうとしていた。こうした考えは、孟子の説く王道政治とは手段が違うことになる。
「王は戦争を起されて、部下、人民の生命を危うくし、諸国の怨教を受けることが好きなのですか」と孟子がきいた。王は「いや、好きではないが、あえて自分がするのは私には大望があるからだ」。孟子は再びきいた。「戦いの目的は衣食でしょうか、人生の娯楽でしょうか」「いや、私の欲望はそんなものではない」。
そこで孟子は「王の欲望とは、領上を拡張し、秦、楚などの大国王をひざまずかせ、四方の匈奴などを従えよう、ということでしょう。しかし、いままでのやり方、つまり、武力だけで、そうなさろうとするのは、ちょうど″木に縁りて魚を求む〃木に登って魚をとろうとするのと同じです」と。
宣王もことの意外さに驚いて「それほど無理か」「木に登って魚が得られなくとも、それまでのことです。後々の災難はありません。しかし、武力を用いるだけでは、民を損ない、国を失なう、大災難があればとて、決して好ましい結果は得られません」と説いた。やはり、人徳をもって民を治める政治でなければならない、ということである。
現代でも、強引な商法、誇大な広告など、およそ消費者からかねを強奪するかのようなものも少なくない。なるほど一時は繁昌しているようだが、いつのまにか会社ぐるみ消えている。法にはかなっていても、徳に欠けるようでは長続きすることはないものである。
一一 将の将たるものは
いまから二千年以上も前、西漢の高祖劉邦が天下を統一した後の話である。覇業に協力した韓信が、敵方項羽の臣であった鍾離味をかくまったという理由で捕えられ、楚王から淮陰侯に降格された。そのとき高祖が韓信にきいた。
「自分は何人の将になることができるか」
「陛下はせいぜい十万の将になれるに過ぎないでしょう」
「では貴公は何人の将になることができるか」
「臣は多々益々弁ず」、つまり多ければ多いなりの将になることができる、と韓信は答えた。
「多々益々弁ずる者が、なぜ、十万の将でしかない自分に捕われたのか」と高祖がきくと「陛下は、兵の将になることはできないが、よく将の将たることができます。これが私の捕えられた理由です。そうした陛下の力は天から授かったもので人間の力の及ぶことではありません」と。
「多々益々弁ず」は今も用いられているが、 ″兵の将″と″将の将〃の区分もまた、現代の企業組織にそのままあてはまるのではないか。
会社の各部門を統轄している部長を″兵の将〃とすれば、全部長を率いる社長は″将の将〃といえる。 ″兵の将たるもの〃は、いずれかといえば能力が重視されるが、 ″将の将たるもの″の条件は、能力よりも人格が重視される。能力だけでは、諸将の心をとらえることは困難だが、人格はその心をとらえて協力させることができるからである。劉邦については、こんな記録もある。
劉邦が項羽を破って天下統一を果たしたとき、忠臣たちと宴を開いた。劉邦は集まった諸将にたずねた、「自分が天下を得た理由、項羽が破れたわけは何か」と。王陵という臣が答えた。
「陛下は、城を攻めおとせば功者に与え、地を得れば民に与えるなど、天下と利を同じくしたのに対し、項羽は功ある者は害し、賢者を疑い、功あっても地を得ても人に与えず、すべて私したからである」
これを聞いた劉邦は、それは一を知って二を知らないものであるとして、
「夫れ筆を帷幅の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、吾、子房に如かず。国家を填め、百姓を撫し、饒飩を給し、糧道を絶たざるは、吾爺何に如かず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。項羽は一の池増有れども、用うること能わず」(陣幕の中で計略を考え、これを千里も離れた遠い場所で実際に用いて勝利を決定づけてしまう能力は、張子房= 張良にかなわない。国家を安定させ、人民を養い兵糧を送り、輸送路を絶やさないことでは自分は爺何に及ばない。百万の大軍を率いて連戦連勝の手腕は韓信に及ばない。私は、これら優れた三人を使いこなして天下を得たが、項羽は、たった一人の滝増も使いこなせなかった)と。
平たくいえば、劉邦は自分より優れた能力をもつ三人を用いたから天下をとれたということになる。また、能力者の協力を得るだけの徳があったということである。
昔の国王は人民あってのもので、国王に徳がなければ、徳のある国王を求めて移り去っていく。現代の会社でもトップが人の道に外れているようであれば、心ある者から去っていく。立派なトップであれば求めずして集まる。時代は変わってもこれに変わることはない。聖人孔子が何人かの弟子と旅したときである。
山を近くにした静かな所へさしかかったとき、婦人のすすり泣く声がきこえてきた。近づくと婦人は三つの粗末な墓の前で泣いている。わけをきくと「この辺は恐ろしいところで、先年私の軍とに当る人が虎に食われて死に、続いて私の夫が殺され、今度は私の子供が食い殺されてしまいました」。
「それほど恐ろしいところと知りながら、なぜ、ここから離れないのですか」
「いえいえ、ここから離れることはできません。ここに住んでいる限り、厳しい税金の取り立てもありませんから」
これを聞いた孔子は弟子たちにこう戒めた。
「苛政は虎よりも猛し」(むごい政治は虎よりも恐ろしい)。
現代でも、いかに権力、財力、学力があったとしても万人の心を包むことはできない。しかし、人徳はなにがなくとも万人の心の隅々までしみ透っていく。前例のように、指導者の徳は虎の住むほどのところにいる無事の老婦にまで及んでいるのである。
菜根諄に「徳は才の主にして、才は徳の奴なり。才ありて徳なきは、家に主なくして奴の事を用うるが如し。いかんぞ魁腫にして猫狂せざらん」(人格は主人公、才能は召使である。才能がいかにあっても人格の裏づけのないのは、家に主人がいないで、召使が勝手気ままにとりしきっているようなもので、せっかくの家庭も妖怪のすみかとなってしまう)とある。
現代の組織内にも、若いころ、なかなか、できる男ということで、いつも第一選抜で出世街道をばく進している人がある。地位が上がるにつれて、 一人落ち、 一人遅れて先頭グループは二、二人にしばられる。落ちた者も、トップグループを走る者も能力に大差はないものである。地位が上がるに従って、人格というフルイの目が粗くなり、高い人格順に残る。この差は人格の差、徳の差といえるだろう。
三 信義は徳の基本
信義は、約束を守る、義務を果たすことで、指導者の条件として格別にとりあげるほどのことではない、と考えがちである。
なるほど日常の商取引きにしても互いの信用から成り立っているもので、至極当然なことと考えているからである。
しかし、文書が取り交わされていたり、法律で定められている約束ごとについての信義であって、それ以外のことについては無視される場合も少なくない。
経済社会で恐ろしいのは、確約されたことに背くよりも、別に確約したわけではないといって信義に背くはうが恐ろしいものである。確約に背く場合はそれなりの代償がある。たとえば手形期日に支払いができなければ、その代償として不渡り、倒産ということになる。しかし、確約のないものに背いても代償を払うことはないが、不信、不徳のそしりを受けることになる。これが恐ろしいのである。
その音、ある大手電機メlヵlは、資金調達のため都市銀行はもちろん地方銀行の大部分にまで取引きを拡大して借入れた。しばらくすると金融が緩和し、自己資本も増加したため取引き銀行の借金を返済し一方的に取引きを中止してしまった。中止された銀行としては、長く取引きしてくれるものと考えて、金融逼迫の際でも貸出したはずである。
それから間もなく、その会社が社債を発行した。当時、社債の大部分は銀行が引き受けていた。したがって、銀行が買わなければ売れ残りになって信用をおとすのみか次の発行も困難になる。
しかし、取引きを中止された銀行が買うわけがない。市場には一ヵ月に何社からも債券が発行されるから、早く売り切るほど信用が高いことになる。その会社の社債は最後まで売れ残り、僅かなことで大恥をかいたことになった。
そのころ、前記会社のライバル会社が、株式を時価発行した。売出価額は六百何十円かであったと思う。ところが、売出価額が発表され、払込期日前に悪材料が出て株価が全体的に大幅値下りしたため、時価発行価額を下回るようになってしまった。払い込めば損になることは明らか。相当部分が売れ残るだろうと思われた。
ところが結果は応募超過になっている。多くの取引き銀行が競って応募したからであった。その会社は、借金返済後も、関係銀行との預金取引きだけは続けていたからである。
関係した会社が膨大な借金を完済した後で管理職全員に次のように話した。「当社は長い間の借金経営からようやく完全無借金会社になった。そこで、これまで助けられた恩を忘れないためにも、銀行との関係をいっそう密にしたい。ついては余裕資金ができたら、従来貸 .してくれた銀行へ預金をしつづけようと思う。当社は創立以来それは膨大な借金利息を払ってきたが、これからは預金利息として取り戻すぐらい預金を増やそう」と。
銀行もビジネスであり、借金利息を払ってきたのだから、その上に恩返しの必要がどこにあるのか、といわれるかもしれない。また、私が銀行の飯を食っていたから贔員したと、思われるかもしれない。
何ごとによらず、恩を授けたことなど忘れ去っているであろう人に恩を返すのが真の謝恩であり信義ではないだろうか。一時の打算で銀行をかえているような会社には、銀行としても義理がない。人情もない。ただ商売のみでつながっているだけで、銀行もまた節操のない会社とみている。人間、思えば思われるということがある。
関係した会社の子会社が成長し、株式上場を目指すほどになったときの話である。その子会社の主力金融機関は、創業以来、地元(群馬県富岡市)の甘楽郡信用金庫であった。しかし、会社の規模も大きくなり手形の支払い場所が信用金庫では、体面にかかわるということで「主力銀行をかえて都市銀行、有力地方銀行にしたいという要望が再三出されていた。そんなあるとき、社長から、「井原さんは、株式に明るいから、上場の節は是非ご協力を」と頼まれた。
そこで、こう話した。「この会社は創立以来、甘楽郡信用金庫を主力として取引きして、今日にまで大きくなった。上場しても、この信用金庫を主力銀行とするならお手伝いしましょう」。
「上場会社が信用金庫をメインバンクとして法律的によいのだろうか」
「法律はどうでもよい。恩義を忘れて経営はできぬ」と乱暴なことをいった。
「生みの親より育ての親というが、信用金庫は生み、育ててくれた恩人ともいえる。自分が出世したから親の名を口にするのも恥かしい、生みの親を取り替えたいという人間はないだろう。たとえ上場会社になっても、当社の主力銀行は信用金庫であると、堂々と発表してもらいたい」と。損得だけで判断すると、ことを誤る。信義という人の踏む道を考慮に入れると誤ることはない。
約束といえば韓非子という本にこんな記事がある。
晋の文公が原という町を攻撃したとき、作戦期間は十日であると部将たちに約束した。
ところが十日を経たが攻略できない。城内に潜入させておいた部下から、あと三日もすれば降服する、という報告があり、参謀たちも降服までの包囲を主張したが、「いや、 十日と話してある。原を攻略しても約束を破ってはなんにもならん」といって引き揚げ命令を出してしまった。
これを伝えきいた原は、それほど約束を重んずる人なら安心してついていける、と進んで降服してきた。
そればかりか、原の隣国の衛も降服を申し出てきた、とあるc三国志に登場する諸葛孔明は遠征して兵が長期に家を留守にする場合は二ヵ月間帰省を許した。
あるとき、敵と対陣して、 一時でも兵を減らすことはできない。しかし孔明は帰省を指示し、将兵たちは戦場にふ教とどまることを熱望したという。信義という徳に応えたからである。
マキタ電機製作所の創業者、後藤十次郎氏が、「その年一年間にやることを正月に発表する。しかも一番難しいことから真っ先に手がけるようにしている」と話してくれたことがある。実際、岡崎に省力工場を建てたときは、 一月四日に発表し、五日には設計に入ったという。社員を前に年内に建てると約束した以上、たとえ一日延びても経営者不信になるからというのである。
こうこく こころざし
四 鴻鵠の志
古今の大成功者をみると、そもそもの出発から大きな志を抱いて、大志を果たすべく努める人と、限りない階段を登るように、 一段ごとに志を大きくしていく人とがある。
「王侯将相寧んぞ種あらんや」と史記にある。「帝王も諸侯も大将も宰相大臣も違った人間ではない。われわれと同じ人間ではないか。男子たるもの努力すれば誰でも偉い人になれるのだ」といって、同僚とともに当時の大国秦に反旗をひるがえしたのは陳勝という男。
陳勝は人に雇われて田を耕していたはどの貧しい百姓にすぎなかった。ある日、耕すのをやめて畔にのばり、長い間、秦の虐政を怨み、自分の不甲斐なさを嘆いていたが、雇い主に向かって「もし私が出世しても、あなたのことは忘れずにいますよ」といった。雇い主が笑って「おまえは人に雇われて田を耕している身分ではないか、なんで富貴の身分なんかになれるものか」。
それをきいた陳勝は大息して「嵯乎、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」(燕や雀のような小さな鳥にコウノトリや大白鳥の志がわかるものか)と言った。
この陳勝は、千人足らずの農民兵で秦を攻め、ついに張楚王と称するまでになっている。いまでも農民蜂起の第一号とされているが、これに呼応して起ったのが劉邦、項羽である。極論すれば一農夫が秦を滅亡に追いこんだといえる。
それにしても、同じ人間であっても上下の差が著しかった時代に「王侯将相寧んぞ種あらんや」と喝破した度胸には驚かされる。それが日先だけではない。現実化しているのである。
現代でも、零細から出発して強敵を食って今日の大をなしているものも少なくない。よく、「それは時代が違う」という声を聞くが、時代が違うのではなく、自分の志が小さいからである。
陳勝と同じ水のみ百姓であった木下藤吉郎は草履とりから天下を得たことは誰でも知っているとおりである。草履とりを精一杯務め、足軽になれば足軽としての最高の務めを果たし、薪炭奉行に出世すればそれに全力を尽くし、小さな志を遂げれば中志、大志と挑みつづけ、段をあがるごとに自らの志を大きくふくらませて天上を極めている。現代でも、なんとしても強敵を食って大を成そうと志している者は、常に前進して彼常に達する。小さな志を抱いて、その達成に満足している者はその小さな成功自体もいつかは消え去る。満足しては進歩が止まるからである。
これは私事になるが、第二の会社に関係して間もないころ、社員も幹部も誰彼の区別なく小成に満足している空気であった。幹部何人かと雑談していて、「入社にあたって何か抱負でもあるのか」ときかれて、「別に抱負といえるものはないが、当面二桁の法人税を納められるようになったら、私の任務は終りだ」と答えた。「いま当社は借金で首が回らない状態だ。その赤字会社が二桁の税金といえば、単位は百万か千万円か。十万円でも二桁だが」。「億だ」「十億円ということか」。
あきれ顔してきき流しているようであった。後日、「今度きた井原という人は、どう考えても頭が狂っている」といっていたという。また幾日か後、こんな批判も耳に入ってきた。
「とんでもない人間に舞いこまれた。税金をできるだけ多く納めようと考えている男だ」と。それに対し「税金を恐れて会社を大きくすることはできない。二桁どころか、三桁、四桁納めるぐらいの気概をもて」と話した記憶がある。
よく私は「当り前を守り、破れ」と後輩に話してきた。 ″当り前″には二通りあって、法や人間としての道を守るのは当り前。一方に、大志をもつ障害となる″当り前〃がある。破るべき″当り前″である。
小さいから大きいものに負けるのは当り前、有名校卒業でないから出世できないのは当り前、赤字のときに税金の支払いに考えがおよばないのは当り前。こうした″当り前″は破れ、と。大志は、当り前のうちからは決して生まれないのである。
さて、「王侯将相寧んぞ種あらんや」といっても、学びもせず、汗も流さずに大志を達成できるというものではない。「人の何倍、何十倍の努力をすれば」という条件つきであることを忘れてはならない。
それに、短い人生で王侯将相の位を得るには、最短距離を歩む必要もある。彼岸に着いて日が暮れたのでは、悔いを残そう。
そのためには「温故知新」である。
「子曰く、我生まれながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏にして以て之を求めたる者なり」(孔子が言うには、自分とても生まれながらにして″道″を知っていたのではない。昔のことを好んで、懸命に求めたのである)。
人間誰にもある知識は生まれながらにして備わっていたものではない。学び行ないながら身につけたものである。
一″昔のことを好んで、懸命に求めた″から得られたもので、昔のことなどは現代に通用しない、役に立つことはない、と決めてかかったのでは得ることはできない。さらに「子曰く、述べて作らず。信じて音を好む」(孔子が言うには、自分は在ったことをのべているのであって、新たに創り出しているのではない。古を信じ、古を好んでいるからだ)。
いかにも先賢の言葉を好み、信じるだけで、自説を作らない。言い換えれば、古い説にとらわれて、保守的に凝り固まっているように思えるが、実に、こうして孔子は、自分自身の学問の基本を作りあげたのである。次の言葉を知れば理解されると思う。
「子曰く、故きを温ねて新しきを知る。以て師とすべし」(孔子がいうには、古を学んで、そこから新しい価値を見いだすような人なら、師と仰いでもよい)=温故知新。とかく、音の話を聞け、歴史を学べなどというと、時代のへだたりだけが先にきて、陳腐な学問としてかえり教ようとしない。
また、史書を読んでも、講談本でも読むかのように、面白かった、つまらなかった、だけに終ってしまう。こうした人は、故きは温ねるが、新しいことを、その中から知るとか、新しいことに役立たせることのできない人であって、どうにも救いようがない。屁理屈は並べ
るが、故いことが、現在にどういうことを教えているかを知ろうとしないのである。たとえば「蛍の光、窓の雪」の主人公は、東晋の車胤と孫康で苦学力行の士である。
孫康は家が貧しく燈油を買うかねがなかったため、つねに、雪を窓外に積み、その明りで本を読んだ。彼は清廉潔白で、後に官へ出て、百官の不正をただす長官に出世した。
また、車胤は、やはり貧しく油が買えなかったので絹の袋に、たくさんの蛍をいれ、その明りで読書に励み、後には、いまでいう人事院の総裁になったと話したとする。
「雪の降らない地方の人はどうして勉強するのだ。いまどき蛍など、どこを探してもいない。どうするのだ」などと理屈を並べる。
「それなら雪も蛍もいらない昼間本を読め」といえば「遊ぶ時間がなくなる」とくる。
「蛍雪とは、そうした苦労をしても勉強した手本としての話だ」というと一いまは電燈があるから」。
これでは、どこまで行っても平行線になる。
故きを温ねて、新しきに生かすためには、まず、故事は新しきを知る貯蔵庫であることを自覚すること。第二は、自己の経営、あるいは処世に、なにを教えているかをさぐること。
第三に、その教えから、経営・処世にどうすれば役立つかを考えることである。たとえ、素晴しい大志を抱いたにしても、彼岸に達せられる努力がなければ、人はそれを″大言壮語″ ″虚言癖″というだけである。
五 企業の格差はどこでつくのか
人は、生まれながらにして成功者・勇者であったわけではない。孔子ですら生まれながらにして聖人であったわけではない。
世界に誇る現代の大企業も、創業からすでに大を成していたわけではない。いずれも、小や弱から出発しているわけで、スタートの時は違っても、生まれながらにして大という企業はない。もっとも小売業などは小規模から出発できるが、製鉄・製油・電気や鉄道のように零細では力不足ということもある。こうした条件を別にすれば、出発の時は違ってもスタート時の条件に変わることはない。
にもかかわらず、次第に大小・強弱の差が大きくついてくる。さらに大には大なりに、小にも小なりにそれぞれに優劣・強弱の差がついていく。では、どこで差がつくのかということである。
これらについて私なりに考えたことがある。
企業に格差が生ずる原因は、つきるところは、人と士心の差ということになるのではないかと。
その最大のものは、経営する人の「志」の差である。「志あれば道あり」とか。小さな目的しかもたない人に大きな道が開かれることはない。大志あってこそ大道は開かれるものである。 一家の生活が支えられれば満足という人に、大事業を計画する考えは出ない。高い理想を掲げて努めれば、及ばずとも、水準を高めることができる。
小で満足してしまう者は、満足すれば現状を守ることを重点に考える。進歩に自らブレーキをかけるのに対し、大を志す人は、常に守り三分、攻撃七分の姿勢をとる。ここからも小志に差をつけることになる。また、小さく守ろうとする者は、城を守るにしても、まず、肉 狩親、親戚などを味方にするため、それ以外の者には、経営に介入することを許さない。これでは、将来ある人材の協力を求めることはできない。
大志ある者は、むしろ一家一族を退けても優れた人材を強く求める。ここに人的格差が生じてくる。これは、私情を先にするか、会社の発展という公事を優先するか、経営する者の意識の差とも考えられよう。次に経営者の素質の問題がある。
大、中小企業の経営者に人格、能力、指導力、先見力など生まれながらの素質に後でみるほどの大きな格差があるとは考えられない。問題は、その補給にあるといえる。
たとえば、大企業の場合、役員の交替は、二期四年、三期六年が限度で、短ければ一期二年の短期である。ということは、技術革新時代、国際化時代といえば、それに対応できる人材を登用している。トップの任期も短い。いずれも「後進に道をゆずる」としているが、端的にいえば「時代に合った人」に、「時代に対応できる知恵と勇気のだせる人」に席をゆずるということである。日は悪いが、疲れたエンジンを最新エンジンに取り替えるということである。
これに対して、中小の場合は、経営者の任期が長い。いかに優れた人であっても、知力体カにも限界がある。進歩の激しい時代には気力だけでは用は足らなくなる。大企業が、近代的な感覚をもつ、新進気鋭のリレー選手をくり出してくる。それに対して、長い間走りつづけてきた人間が競走をするのである。長い間走る人間が、新時代に即応するだけの才知を次々に補給しつづけるなら、ついていくだけはできようが、それまで怠っているとしたらその勝敗は明らかといえるだろう。ここで大と小の差はますますついてくることになる。
さらに、中小の大に遅れる理由の一つに、社内における、自己研鑽の差がある。
たとえば、中小の場合、多くは、中間管理職、役員登用についても、社長のおめがねにかなえばよい。長く、まじめに勤めれば役にありつけるぐらいに社員が考えている。社長にしても、良い物を多く生産し、より多く売り、利益を出せばよい、という具合で人の研鑽に不熱心である。昔の徒弟制度そのまま、長幼の差が大きい。これでは、いわゆる職人の親方としては十分といえようが、経営者としては不足である。
しかも、中小の場合は経営者の席は与えられるものであって、かち取るものとはしていない。したがって、社員においても、同僚、先後輩と競争することも少なくてすむ。ところが大企業ともなると、そう単純なものではない。
昔は大卒で課長職にありつける者が七、八十%とかいわれていたが近年では二、三十%に 一低下しているだろう。課長を卒業して部長になれる者にかけられる、フルイの目はさらに大きくなる。その目にとまった者が取締役候補者ということになる。それらは、長年切磋琢磨された一騎当千のつわものだけとなる。大企業ともなれば、 一騎当千どころか、 一騎万にあたる者が役員に選ばれる。自然に椅子が回ってくる場とは大きく違ってくる。ここらからも人的格差がついてくるのではないかと思う。
しかし、大企業にも人的に悩みがある。いわゆる精神病の一種で、最近流行の大企業病である。この病気に冒されることなく、大に向かって進むことが最も賢明な策といえるだろう。
いずれにせよ、中小の経営者にとっては、素質補給のハンデを頭に入れながら、その差を少しでもつめられるように研鑽しつづけることが大事ではないか。要は、経営者の士心次第ということになる。
六 大志は人を集める
大志を抱いても協力する者がなければ、「力は山を抜き気は世を蓋う」の気概だけになり、馬さえ協力しないことになる。
ところが大志を遂げようとする者には不思議なことに協力しようとする人物が集まってくる。大志にはそれなりの魅力があるといえるだろう。
人間は誰しも現在に満足するものはない。すべて大きくなろう、豊かになろうと願っているのである。
そのためには大きくなろうと志している人と行をともにすることは欠かせない。
たとえば、 一国一城の主で満足している主に仕えていたのでは、いつになっても城主となることはできない。しかし、その城主が全土を制する大志があれば、主に協力することによって自らも城主になることができる、ということである。
現代でも社長の志が小さく、小企業の現在に満足していたのでは、人材を集めることはできない。将来を期している若い人材が、社長個人の生活を守るため、社長の個人財産を増やすために、身を粉にして働こうとするだろうか。
よく、人が思うように集まらないとか、入社しても長く続けてくれる者がない、という向きがあるが、会社の規模が小さいからではない。経営する人間の志が小さいからである。三国志の劉備玄徳が諸葛孔明の協力を得るために、孔明の住んでいた草の慮を三度訪れてまで礼をつくしたことは、 ″三顧の礼〃として今も知られている。
孔明が後でこのいきさつについて述懐するに、「先帝、臣の卑部なるを以てせず、猥りに自ら柾屈して、臣を草慮の中に三顧し、臣に諮るに当世の事を以てす。これによりて感激し、遂に先帝に許すに駆馳を以てす」(大きな志をもっていた先帝は、卑しい身分の私に対して極めて謙虚にふるまい、しかも三度も訪ねてくれ現在なすべきことを下間された。これに感激し懸命にお仕えすることにした)と。
そのとき劉備は曹操に追われ荊州の劉表のもとで居候をしていて、年も五十に近い。現代でいえば晩年である。しかし劉備の志は漢の再興という義にかない、しかも大きい。もし一国の城主ていどの望みであったら百度訪れても孔明は応じなかったろう。
西漢の高祖劉邦と天下を争った項羽は、若いころ叔父の項梁のもとにいた。書を学ばせようとすると、書は自分の名前が書けさえすればよい、といって学ばない。剣道を教えようとしたら、 一人の敵を相手にするだけだ、と断る。それよりも万人を相手とする戦術を学びた ・いというので、項羽に兵法を学ばせたという。すでに大志を抱いていたといえよう。いo よう
たと 対する劉邦も、地方の下っ端役人であったころ、首都の成陽へ賦役に出たときに、秦の始皇帝の豪華な行列を見て、
「嵯乎、大丈夫当にかくの如くなるべし」(男と生まれたからには、こうならねばならない)と志をかためている。後に、劉邦が兵を進めて秦の三世子嬰を降し成陽城に入ったときのことである。豪奢な宮殿、山積みの財宝、数知れない美女。劉邦も気の緩みがでたのか、城に居座って遊興にふけろうとした。これを諌めたのが剛将の焚噌。しかし劉邦は耳を傾けようとはしない。そこをさらに諌めたのが知将の張良。
「一介の農民でしかない貴方が、王官に入ることのできたのは秦が虐政をしたからです。これからの貴方の任務は天下のために秦を亡ぼし、天下の人心を安んずることです。そのためには喪服を着て秦に苦しめられた民衆に弔慰するぐらいの心がけが欲しいところです。にもかかわらず財宝や美女に目がくらみ、ここに居つづけようとすることは悪王の代表といわれている夏の条王の手足となって一層暴虐を行なうようなものです」と。さすがの劉邦も翻然と悟り、王官を去って覇上に野陣をしくことにした。これを知った項羽の知将乳増は、
「劉邦は田舎にいたときは物財を貪り、美女には目がなく、人にも怨まれたが、ここにきては財宝を見捨て、美女を遠ざけている。劉邦の志は決して小さいものではない、必ず天下を得ようとしているのである。早く殺さないと天下は劉邦のものになる」と項羽に告げ、直0月JDシ,Flσ.会:キで劉邦暗殺を計るが、劉邦の忠臣張良・焚噌の気転で危機を脱することになる。一方の項羽は、劉邦が手をつけなかった成陽に攻め入って降服した子嬰を殺し、宮殿を焼き払い、財宝や美女を奪って故郷に引きあげようとした。そのとき韓生がこの地は軍略上からも天下を得るのに最適の都となるからとどまるようにと諫めたが、項羽は「富貴にして故
郷に帰らざるは、繍を衣て夜行くが如きのみ」(位が高く、財産を得て故郷に帰らないのは、豪華なものを身につけて夜歩くようなもので、自分の成功を人に見せられない)と、しりぞけている。
韓生は項羽を評して「楚人は沐猥にして冠す」(楚人は猿が冠をつけているようなものだ、猿は長い間冠をつけていられない)、つまり楚の人は粗暴で遠い 慮 がないの喩えである。このため韓生は項羽の怒りをかって烹殺されている。
これでもわかるように、大志の前には、 一時の邪欲など打ち消してしまうぐらい、己に克つ心が必要といえるのである。それでこそ人はついてくる。
若き天才項羽は、己に克てず大志を全うする寸前で劉邦に敗れている。もし劉邦が忠言に従わず贅におばれたとすれば、大志を小志に変えたことになり、人をひきつける魅力を失なうばかりか、天下も取り損ねていたろう。
七 大器は人を求め小器は物を求む
昔、斉の威王が魏の恵王と郊外で会合した。
恵王が「斉の国には何か珍しい宝物がありますか」ときくと「何もありません」と威王が答えた。恵王は、いかにも自慢げに「私の国は小国ですが、それでも直径一寸ばかりの珠で、これを車の上に置きますと前後十二台ずつ計二十四台の間を輝き照らす珍しい宝物があります」と言った。
それに答えて威王はこうのべた。
「私の国の宝物は、王のいう宝物とは違っていますが、私の臣に檀子というのがおります。この男は、南の国境の城を守らせますと、彼の武勇におそれて楚もけっして洒上の付近に侵入して乱暴をしなくなったばかりか、十二諸侯がみな入朝して、臣下としての礼をとるようになりました。
また、吟子という者がおりますが、西方の高唐という所を守らせましたら、趙の人々は自分の国の東の国境の黄河へ出て漁をしなくなりました。
また、治夫という者がおりますが、彼に徐州を守らせましたところ、その威風におそれて、燕の人は北門で、趙は西門で神を祭って、攻めないようにと祈っているありさまです。さらに種首という者がおりますが、これに盗賊を取りしまらせましたところ、道に落し物があっても拾う者がなくなりました。
この四人の家臣の威光は、まことに千里の遠くまで照らすもので、たったの兵車十二台を照らすものと比べものになりましょうか」と。恵王は、すっかり赤面してしまったという。
優れた人材を求め、育てれば自分を助け、事業を発展させることができる。そうすれば、物財はたくまずして得ることになる。物財を先に人を後にすれば、人は育たず、育った者まで去り、結局は物まで失なうことになりかねない。現代の経営者にして、この理屈を知らない者はない。
ところが、なすことは人材よりも物財を先にしている社長が少なくはない。ある業界随一といわれた会社の社長は、インフンヘッジには物に限ると、書画o骨とう・盆栽・名石などを集めまくり、その額は数十億円にも及んだ。しかし経営の破綻によって倒産したとき、社長を補佐する者は皆無に等しかった。優れた者は一人減り二人減りして、最後には伝臣一人だけとなったわけである。一方、集めた物財は、私財提供という形で処分されたが、倒産を支えるだけの力はなかった。
よく環境に恵まれたり、 一つの商品がヒットしたりして一時の花を咲かせる会社があるが、そこで人を求めず物財を求めていたのでは有終の美は飾れない。
物財などというものは人の力によって、どうにでもなる。物はいかに貴くても志ある人を動かすことはできない。この点によく心をとめて経営にあたることも欠かせない。
中国の戦国時代、群雄が立って天下を狙ったが、力を蓄えるためと、人材が敵方に行くのを止めるためか、大貴族たちは一芸一能に通じた者を競って客分として招き集めた。これが食客である。
斉よの名相孟)嘗i君そ|まん食客千人その中ンこ|ま後でのベる長;鋏i帰らんかの馬;膳カもいれャ「鶏鳴狗盗」の故事で知られるコソ泥の名人、物まねの名人も入っていた。また趙の平原君も食客数千人に及び、また楚の春申君、魏の信陵君はともに三千人の食客
を数えていたという。そのころ強国秦の相国(総理大臣)となった呂不葦もまた食客集めに負けておられないとばかり、かねに糸目をつけず人を求め、またたく間に三千人を数えたという。
不葦はまた、各国の賢者が書を著していることをきき、よし、そのほうも負けまい、ということで、食客たちに命じ二十余万言に及ぶ大冊をものにした。そして「この中には天地万物古今のすべてが入っている。こうした大事業は、わしでなければできぬことだ」と自慢し、自分が作ったものということにして『呂氏春秋』と題をつけた。
しかもその大作を、成陽城の門の前に陳列させて、大きな札を出した。「能く一字を増損する者あらば千金を予えん」、つまり、この本の文章を添削できた者には一字について千金の賞を出すと。
実は、これも、食客を呼び集めるための手段だったわけで″一字千金″のいわれである。唐の大宗は有名な儒者を多く集めて博士、助教とし、学舎を千二百室にも増築させて人づくりに力をつくしている。
わが国でも、ある大名が重だった家臣に、自慢のできる宝物を持参致せ、と命じたとき、三人の男の子を連れて行き、殿から随一の宝としてお褒めをいただいたという話がある。現代のように千変万化とまるところを知らない時代に対応できるものは、物ではなく人であることを知るべきである。
八 大器は己を補う人を用う
ある小会社を創立した人から相談をうけた。
「会社を大きくしたいと考えているが、私は文字どおりの浅学非才の身、いま二十数人の会社を十倍、百倍にしたくても力が及ばない。自ら省みて、ここらが当社発展の限界かとも思うが、どうか」ということであった。
企業の大小、発展の速度など、すべては社長の器量で決まる。俗に「蟹は甲に似せて穴を掘る」というが、十の能力の社長は十の企業が限界、百の能力者は百が限界という人がいる。残念だがそのとおりだ、と思う人も少なくない。
しかしこの考え方は誤りである。
相談された社長にこう答えた。「浅学非才は私も同じだ。自分の才能のなさを嘆くに足らない。十の才能で百の事業にしたければ、九十の能力者の協力を得ればよい。十の能力者を九人求めても百になる。育てるか、他から求めるか、あるいは求めながら育てるか、方法はいくらでもある。社員でなくても、社外に能力を貸してくれる人もあれば施設もある。もし社長が大志を遂げようとするなら、自分の非力を嘆かず、能者を求め用いる雅量の足りないのを嘆くべきではないか」と。
蛇のロミシン中興の祖といわれた嶋田卓弥さんから生前きいた話だが、松下幸之助さんと会ったとき、「小学校五年きり出ていないような私は、松下さんにお目にかかれるような人間じゃありません」というと、松下さんは「嶋田さん、私は四年しか行ってない。五年は立派なことです」といわれたのが強く心に残っている、と。
世界の鉄鋼王カーネギーにしても学校に行けず紡績会社の糸巻工から出発している。カーネギーの墓石に「自分より優れた人の協力を得る天才がこの下に眠っている」と刻まれているという話はよく知られている。カーネギーには優れたスタッフが二十八人もいたとか。人間に完全・万能はない。それで完壁を要求される経営を営もうとすることじたい無理な話である。技術面は得意だが営業は苦手な社長、営業は得手だが財務は苦手な社長というのが普通で、各分野に文句なく明るいという社長はそういないものである。
「大器は己を補う人を用う」というが、中国の歴史をみても、大成している者のすべては、己の足らない点を補う人傑が得られるまで求めに求めつくしている。すでにのべたとおり、劉邦が天下を得たのは、張良・爺何・韓信という自分に欠ける専門能力者の協力を得たからである。また三国志の雄、蜀の劉備は、 一騎万を敵とする豪傑関羽・張飛に加えて、知将として諸葛孔明を得るため三顧の礼を尽くしている。
三国志の一方の雄、魏の曹操は、司馬仲達を首に縄をまいてでも引っばってこい、といわんばかりの熱意で得ている。さらに呉の孫権も、赤壁で三万の兵をもって八十万の曹操の大軍を破った周喩はじめ、魯粛・諸葛瑾・呂蒙・陸孫などの今に名をとどめる名将の協力を得ている。蜀・魏・呉の三国が、天地人を比べ相当の格差があったにもかかわらず数十年間の鼎立を可能にしたのは、それぞれが優れた能者の協力を得ていたからともいえるのである。三千年も昔、殷を亡ぼして天下を得た周の武王の弟に周公がいた。
周公はわが子伯禽が魯の大名に封じられると戒めて言った。「私は天下を得た武王の弟であり、現在の成王の叔父にあたる。しかし、自分は髪を洗う間も、何回も洗いかけた髪を掴んだまま来客と会い、 一度の食事のときでも三度も口中の食物を吐き出し、待たせることなく会うようにして、賢士を待遇した。それでも天下の賢者を失ないはせぬかと心配している。おまえも、魯に行ったら、 一国の君主となるからといって、人民に騎りたかぶってはならない」と。「三度哺を吐いて王師を迎う」の教えである。
このようにしてまで自分に協力する人傑を求めたものである。もし、社長が大志を果たそうとするなら謙虚に人に接し、その助言をきくことである。
本田技研を興した宗一郎氏は藤沢武夫氏を用いている。藤沢がいなければ今日のホンダはなかった、とまで言っている。ソニーの創立者井深大氏は盛田氏を用いて大をなし、トョタは神谷正太郎氏を用いて営業基盤を固めている。
このように大志の前には物財でなく、己を助ける人材を求めているのである。
わが国の歴史をみても、木下藤吉郎は、加藤清正・福島正則など武将はいたが知将がいない。軍師、竹中半兵衛を得るため、七度足を運んでいる。もし、足軽頭程度の志であったら考えも及ばなかったろう。
いかに天分が備わっているとしても、自ら限界がある。その限界を突き破るにはまず、人を求め用いて自信をつけ、着実に志を大にしていくことが肝心である。
「輔車相依り、唇亡ぶれば歯寒し」という諺がある。どちらも欠くことができない、密接な関係をいうことである。
これは、晋の献公が、虞と続の国を亡ぼしたときの話である。
献公は、まえまえから続を伐とうと考えていたが、それには虞の領土を通らねばならない。かつて虞公には賄賂を贈って通してもらったことがあるので、今度も領地内の道を借りたいと申し入れた。
虞の国では、その申し入れに反対する賢臣の官之奇は真剣に虞公を諌めた。
「続と虞は一体です。税が亡びたら虞も亡びることになります。唇歯輔車とは、車の両側を挟む木と車とが一緒になって物を運ぶのだし、唇と歯は別々のものだが切り離すことはできないと申しますが、ちょうど続と虞の関係と同じです。仇ともいえる晋の国の軍を通すなどはもってのほかです」と反対した。
しかし、賄賂に目のくらんだ虞公は、いくら説いてもきかず通過を許してしまった。そこで官之奇は、災いが身に及ぶのを恐れて、 一族を引きつれ国を去った。そのとき「晋』
は続征伐のついでに、かならず、わが虞までも亡ぼすだろう」と予言した。果たして晋は虞の領土から攻め入って続を亡ぼし、帰途、虞に宿営し、不意を襲って虞を亡ぼしてしまった。
車と木が離れ、唇と歯が分かれては用をなさない。企業経営も同じで、相より、相補ける者が一体となるところから力はでるのである。
九 三年蛮ばず、鳴かず
楚の荘王は、位についたが政令一つ出さず、日夜遊び楽しんでいた。そして国中に布告し、「あえて意見をのべようとする者は死刑に処す」と。これでは諌めるものがない。ところが伍挙という臣が、婉曲に、王を鳥にたとえて風刺した。
「丘の上に鳥がいますが、三年たつのに飛びもしないし、鳴きもしませんが、どうしたことでございましょう」。それに対し王はこう答えた。「三年も飛ばずにいるのは一度飛んだら天をつき上げるはど高くとぶためだ。また三年も鳴かずにいるのは鳴いたら最後人々を驚倒させるためである」と。暗に、大志をとげるために英気を養っているのだと自分の気持ちを現わした。
次に、蘇従という臣が諌めたところ王は、その忠誠をよろこび蘇従の手をにぎり、右手で腰の剣を抜き、日夜遊びに使っていた鉦や太鼓の釣り紐を断ち切り、「よく諫めてくれた、いまから遊びをやめて政務に励む」といって、伍挙と蘇従を重く用いたため楚の人々は大いに喜んだ。かくて荘王は春秋時代の名君五人のうちの一人に数えられるようになった。「大器は人を求む」というが、それにしても人材発掘もここまで徹底した例は稀である。
中国春秋時代の名君五人を春秋五覇といっているが、その中でも筆頭にあげられるのが斉の桓公である。これも名宰相管仲の補佐によるものとされている。その管仲も年老い、政務をとることもかなわず家にひきこもるようになった。そんなある日桓公は管仲を見舞って尋ねた。
「もし、不幸にして再起不能となった場合後を誰に任せたらよいか」
「老いの身では、どう答えてよいかわかりません。しかし″臣を知る者は君に如かず、子を知るは親に如かずとか。意中の人物がおりましたらおきかせ下さい」
「飽叔矛はどうかな」
「なりません。あれは剛情で頑固な性格です。それに妥協することを知りません。剛情であれば、人民を乱暴にあつかい、人心が離れます。妥協することを知らなければ大衆を使いこなすことはできません。こういう強気一点張りの人間は補佐役には不適当です」
「竪弓ではどうか」
「なりません。人間は誰でも体を大切にするものです。ところがあの男は、あなたが女好きで、嫉妬深いと見てとると、自分から進んで去勢して、後官の宦官になりました。自分の体も大切にできない者が、なんで自分の主君を大切にいたしましょう」
「それなら、衛の公子開方ではどうか」
「なりません。あの男は、わが国から衛まで、僅か十日の道のりですが、あなたの歓心をかいたいばかりに、ここ十五年の間、 一度も両親のもとに帰っておりません。これは人の道に反します。両親さえかえりみない男がどうして主君を大切にいたしましょう」
「それなら易牙にしたいと思うがどうか」
「それもなりません。あの男は料理番をつとめておりますが、山海の珍味にあきた君に、いまだ食べたことのない人肉を賞味させたいといって、自分の長男を蒸しやきにして差しあげました。人間は誰しも子を愛しているものです。ところが、あの男は、わが子を蒸しやきにして君の食卓に供しました。自分の子供さえ愛さない男が、どうして主君を愛することができましょう」
「それでは、誰にせよというのか」
「曝朋がよいと思います。かれは志が堅いうえに、行ないが清廉で、大きな仕事もまかせることができます。また私利を求めず、信義を重んずる人物で人々の手本になります。信義を重んずる人物なら、隣国と争いごとを起す心配もありません。まさに、内政外交、うってつけの補佐役といえましょう」それから一年後に管仲は死んだ。しかし、桓公は後任宰相に限朋ではなく、竪可を用いた。
それから三年後である。桓公が南方へ遊びに出た留守につけこんで竪「は易矛、開方などと語らって反乱の兵を起した。桓公は驚いて都に帰ったが捕えられ幽閉され、飢えと渇きに苦しんで死んだ。死体は三ヵ月も放置され、ウジ虫が部屋からあふれ出るほどであった、という。覇者の筆頭になったほどの人物が、賢臣の言を用いなかった咎めといえるのである。
現代経営でも同じで、優れた人を求め、用いることを欠いては千載に悔いを残すことになスつ。
そこで、名君は、どのような条件を備えた者を補佐役である宰相として選び、用いているかを考えてみた。
もちろん、仁・智・勇に優れた人材であることはいうまでもないが、特にいえることは、第一に、己を捨てて、国や君主に誠を尽くしていることである。現代でもよく用いられている言葉に「列頸の交わり」がある。
紀元前二百八十年ごろ、中国の戦国時代である。趙の恵文王が持っている″和氏の壁″という宝玉を秦王が熱望し、城十五城と交換したいと申し入れてきた。応じなければ攻められ、応じても壁は取って城を渡すまい。
このとき、王の寵臣の食客でしかなかった蘭相如が申し出た。自分が秦に使いし、万一の場合でも壁を完うして帰りますと。
相如が秦王に会ってみると果たして壁は取りあげたが城を渡そうとしない。相如は偽って壁を手にすると大声で叫んだ。「約束を破るならこの壁と自分の頭を同時に砕く」と。秦王はその勇に感じ、壁を持ち帰ることを許した。この功により相如は上大夫となり、その後の
べιら しようけい れんば
池池の会で、秦王から趙王が恥をかかされるのを救った功で上卿に任じられ、名将の廉頗より上になった。
廉頗はいたく憤慨し、今後相如に会ったら恥をかかせてやる、といきまいていた。これを知った相如は廉頗に会うことを避け、朝廷にも、席次争いになるのを恐れて欠席し、外で出会うと車をわき道にそらせた。
相如の家臣のうちには、それを恥として暇をもらいたいと申し出る者がいた。
相如は、これを引き止めてきいた。
「廉将軍と秦王とどちらが恐ろしいか」「もちろん秦王です」
「私はその秦王を恐れるどころか、叱りとばし、居並ぶ群臣をも辱しめてきた。その私がなんで廉頗将軍一人を恐れようか。思うに、いま秦がわが国に攻撃をかけないのは、廉将軍と自分がいるからだろう。ここで両虎争えば、いずれか倒れる。自分が廉将軍を避けているのは、国家の危急を先にして私讐を後にしているからだ」と。
これを伝え聞いた廉頗は、上半身を裸にして刑に用いるトゲのある茨を背負い、これでム ・チ打ちの刑を受けたいという気を現わして相如を訪ねた。そして友人のためには自分の首を 侶はねられても悔いはないという交わりを結んだという。 .
昭和の例頸の交わりは、権力と金の交わりで、自分の利を先にした交わりであつたが、故事にあるそれは国の利を先にした交わりである。趙の恵文王は名君だけあって「国家の危急」を先にし、個人的な怨みを後にしている人を重く用いている。つまり自分を捨てきれる人を重く用いる、ということである。
十 どのような人を求めるか
さて、名君に選ばれた名宰相は、どのような人材を求めたか。歴史上の名宰相の、人材としてあげた条件を考えてみると、現代のそれと表現が変わるだけで違うところはない。
その第一は、執念である。
ある経営者は、現代企業■ ンの条件として「執念」をあげているが、 一念岩をも通す、やり遂げるものこそ人材ということである。
学あり、地位あり、財力があっても、やり遂げる根性のないものは結果を得ることができない。
執念のある者は、知らなければ学び、足らなければ借り、補ってことを果たす。経営は結果である。結果の得られない者は企業マンとはいえないのである。
第二は、自分の専門以外から発想のできること。つまり、創造力である。ある著名会社の社長は「わが国の産業が世界を征服したのは、そこに働く人たちが専門以外の勉強をしたからだ」といっている。機械設計の専門家が専門外の食料品工場を見て、機械製作に役立つ新しいことを考え出せる人、という意味である。
創造は専門から生まれるよりも、別の面から生まれることが多い。多く学べば創造の源も多くなるからである。ことに変化を予測するためには、現在の自分の仕事以外からヒントを得ることが多いものである。第三の人材の条件として抽象論や過去の事例などを具体化して成果の得られることである。
具体的事例を示さなければわからない人間は、人の真似きりできない人間である。知恵をだせ、意欲をだせ、根性を発揮しろなどいずれも抽象論でしかない。これを具体化して企業に役立つことを考えだせる人である。また、ことわざ、故事など過去のものであるが、これを新時代に活用して成果の得られる者が、これからの人材としている。
現代では、通常の仕事は機械におきかえられ人力を必要としない。つまり、機械ではできないことのできる人間だけがこれからの人材といえるのではないか。さて、前職時代、貯蓄推進委員会の会長でもあり、日中関係改善に尽くしていた岡崎嘉平太さんと話し合ったときのことである。
「自分が旧制高校の学生であったころ、郷里の先輩でもある、日露海戦当時の参謀、藤井大佐を友人とお訪ねしたことがある。大佐は退役されて少将であった。私はこわいもの知らずで閣下にこういうことを言った。
強大なロシアのバルチック艦隊が東に向かい、わが国艦隊と決戦することは必至となった。
敵艦隊が、対馬海峡を通過して日本海に入るか、遠く津軽海峡を通るか、旗艦三笠艦上で開かれた参謀会議でも、津軽通過説が大勢を占めた。対馬通過を主張したのは藤井大佐一人。その結果、連合艦隊司令長官の東郷大将は軍議決定とし、全艦に、○日○時○分、津軽に向け抜錨すべし、という密令を出した。
これを知った藤井大佐は再び会議を開くよう進言した。会議は再開されたが、ことここに至って主張を変える参謀はない。それに遅れてきた一人に東郷大将は、貴官はどう思うか、ときいた。その答えが、藤井参謀と同じということであったので、大将も、しばらく待とう、ということになった。
しばらくして入ったのが″敵船見ゆ″の信濃丸からの電報。対馬に向かうことがわかり、ここで迎撃態勢に入る。
敵船見ゆの報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し、の電報が大本営に発せられたのもこのときであろう。かくして、対馬通過を目指したバルチック艦隊を完膚なきまでに撃破したのである。
とすれば最後まで対馬直進を主張した藤井大佐は、海戦大勝の最高殊勲者ということになると」。それを岡崎さんは藤井大佐の前で言ったわけだ。すると藤井閣下は厳しい目をして「お上からお手当をいただいている参謀が自分の考えをのべただけだ。なにが殊勲なのか」といわれ、首をすくめたという。
現代でも、心ある将というものは、あくまで所信を貫くような人を選ぶものである。それを是と考えれば、それに従い、非と思えば従わないまでだ。要は、所信ものべない人間や、唯唯諾諾族などは近寄らせもしないということである。
十一 九側の功を一生貝に庸く
殷の村王を攻め亡ぼし、武王が周朝を開いたのは紀元前一千百年ごろで、いまから三千余年も前になる。
周の威令は四方に及び各地からいろいろな献上物があった。西方の旅という国からは薬という高さ四フィートにも及ぶ大犬が贈られてきた。葵はよく人の意を解するという珍獣であったので武王は大いに喜び、その珍しさに心を奪われ政務を怠るほどであった。これを憂いた召公は、周の創業を危うくしてはならないと考えて大いに諌めた。その中の言葉である。
「耳目に役せられざれば、百度惟れ貞し、人を玩べば徳を喪い、物を玩べば志を喪う。鳴呼夙‐夜勤めざるあるなかれ、細行を衿まずんば、終に大徳を累せん。山を為ること九初、功を一賞に庸く」(耳目の欲、即ち物質的な欲望に溺れてはならない。人をもてあそべば徳を失ない、物をもてあそぶと志を失ないます。王者たる者は朝から晩まで徳を積むことにはげまなければなりません。小さなことだからといって慎まないと、大きな徳をも失なうことになります。丁度高い山を築くのに最後の一籠の土を怠っても山が完成したといえず、いままでの功績を失なってしまうのと同じく、せっかく周朝を始めながら葵に心を奪われているようでは創業の功も無駄になってしまいます)と。
九初の初は八尺(八フィート)で、九初なら七十二フィートの山ということだが、高い山という意味である。
現代でも、顛難を重ねて会社を始めながらちょっとした油断で倒産した場合などに「九初の功を一管にかいた」といっている。
ことを志す者にとっての心得として短い文句の中にすべてをいい現わした名言といえるもので、私もこれを心に銘記しているわけである。
会社のトップが部下や周囲の信用を失なう第一は人を玩ぶことである。私利私欲、私情につながる人間を近づけ用いる。へつらい人間、イエスマンの言に耳を傾ける。あるいは血縁を近づけ、能者でもそれ以外は遠ざける。用なき者に禄を多く、能ある者に少なくなど、広くいえば玩ぶ類である。
トップがこれであれば、威権を失ない、権力も通ぜず、人の心まで失なうことになる。次に、物を玩ぶ類は限りなくある。トップの趣味に合った投資をする。倒産したら美術館が開けるほどの古美術品が出てきたとかの例もある。あるいは本業以外の物に投資し見栄のためにかねを使う。はなはだしくは女性に心を奪われて社長の椅子を失なった人さえある。まさに「小器は物を求む」である。
だいたい、会社が行き詰まったり、過ちを犯した場合、スタッフの誰かは諫言しているものである。それに耳を傾けなかったために大事にいたっている。
人間は神ではない。ときには誤った道を行くこともある。それにブレーキをかける勇臣を側臣とすることも必要だし、大志を全うするためには、それに耳を傾けることも欠かせない。
あえてトップに苦言を呈しようとする者には私心がない。トップの気を損じて首になるかもしれない。いわば身命を賭しての苦言である。そうした忠臣を退けるようではすでにトップとしての資格を失なった者といえるだろう。いまでもよく使われる言葉に「折檻」がある。
せいてい かんがん
いまから二千年ほど前、前漢第九代の成帝のとき、宮中にあった外戚の王氏一族や、宦官たちが勢力をえ、忠臣は追われ、官吏や人民までが非難するにいたった。しかし成帝は反省もせず、かえって王氏一族を重用していた。
これを憂えた朱雲という知事が、帝の前へ進み「願わくばご秘蔵の斬馬の剣を賜りたい。悪人の首を刻ね、他の者のみせしめにしたいと思います」といった。それは誰かときかれ「王氏に味方する張高です」。
帝は激怒して「朕の師を侮辱するとは」と、死刑を命じた。捕吏が朱雲を捕えようとしたが手すりを握り離さない。ついに手すりは折れて二人はこわれた手すりとともに地面に落ちた。それでも「臣の身はどうなろうとかまいません。ただ陛下の御世が気にかかるばかりです。どうか御明察を」と叫びつづけた。
これを見ていた辛慶忌という将軍が、朱雲のそばに飛び降り、額を地面にたたきつけ、血を流しながら、朱雲を殺してはならないと諫めた。
帝も二人の国を思う真心に感じ、「悪かった。あたら忠臣を失なうところであった」とい一って機嫌をなおした。
後に、手すりを直そうと願い出たとき「あれを見るたびに朱雲を思い出し、政治を正す戒めにしよう」といったという。
しかし、この忠臣の功も無駄になるときがくる。王氏一族の専横は帝の死後ますます激しさを増し、王奔は帝位を奪い前漢は亡びることになる。
「巧言令色鮮し仁」(口先が巧教で、角のたたない表情で、いわば猫なで声で、へつらい言をいうような人間に、誠実な者はない)。
これは論語にある言葉だが、現代の組織内にも少なからず見かけるところをみると、浜の真砂とともに尽きることがないのかもしれない。こうした人間を近づけている人間がいるから絶えないわけで、言う者、聞く者を両成敗しないかぎり尽きることはない。
これを逆にいえば、飾り、へつらいの心をもたない人間は、誠実であるから近づけるべきであるが、こうした人にも自ら欠点がある。それは往々にして礼を欠くということである。公のためになることを、ずけずけ言うことはよいとして、その言い方、やり方に礼を欠くようでは、聞く者としては、昔流でいえば「無礼者、下がりおろう」ということになる。つま ・り、直言にも徳がなければならないということである。ごうき ぼくとつ
ある会社に、全く飾ることのない、剛毅木訥ともいえる取締役がいた。利己的な打算もなければ、媚び、 へつらう心など微塵もない。
そのため、会社のためになると考えたことは、社長がいようと誰がいようと遠慮なく発言する。私も何度となく会っているが、理論も正しい。
しかし、その主張が用いられたことがない。会議の席上の発言にしても、○○節が始まったぐらいできき流される。社長以下幹部も、「いいことを言っているのだが」ということだけである。
これは、平たくいえば、発言に重みがないということである。なぜ重教がないのか。会社の欠点は目につくが、取締役でいながら、自分が率先して改めようとしないからである。会社の改めるべき点を、自ら買って出ても改めようとするなら、社内の人々は言を待たず改めるだろう。
剛毅・誠実を示すのに口先だけでは巧言令色とそれほど変わるものではないということである。
ことを志す者にとって、巧言令色にまどわされて、九初の功を一賞に膚くことのないよう心したい。このことを、日で言うのはやすいが、実際となると案外に難しいことは、歴史が教えるとおりである。
さか
十二 耳に逆らう言を聞けば
前職時代、私が課長のころの話である。トップが参院選挙の再出馬に担がれ、居ながらにして当選確実とまでいわれていた。
そんなある日、私一人が呼ばれ、再出馬の是非をきかれた。「社員代表と思って素直なところを答えてほしい。改選にあたり、たいした運動をしなくても再選確実というので、多くの人が推せんしてくれている。今度も出馬すべきかどうか」と。即座に「私は反対です」といってしまった。二足のわらじはなんとやら、本業専心が筋と思います、とつけ加えた°トッブとしては、私が「大賛成で私たちも微力を尽くします」とでも言うことを期待していた
のではなかったか。案に相違したのであろう、「反対は君だけだ」と吐き捨てるようにいって席を立ってしまった。
四、五日して会ったら「やめたよ」の一言だった。
Jれも前職時代、私が経理部長のころの話である。ある支店の新築現場に立ち寄ったとき、二階なし、いわゆる吹き抜け天井の設計に気がついた。建築担当者に「いまは採光・空調のすべてを機械がやる時代、吹き抜けは時代遅れで、二階を造って効率よく運用すべきではないか」と口走った。
ぞうけい
それがトップに伝わり、電話で烈火の如く怒られた。そのトップは建築にも造詣が深く、自ら店舗設計に筆を加えるほどで、無関係な一部長がとやかくいう筋ではない、というわけである。百雷一時に落ちたかの怒り方に、電話で平身低頭してもはじまらない。私は左遷を覚悟していたところ、何日かして建築担当者が召集され、井原部長も加えろという指示。
その日は屠所にひかれる羊の思いで出席した。トップが現われ「今日集まってもらったのは、今後の店舗新築についてだが、吹き抜け設計は中止し、天丼の高さは九フィートにする。以上」といって腰をあげ、私の顔をみながら「井原くん、これでいいんだろう」とにっこり笑いながら出ていかれた。
自然に頭が下がった。いい分をききとどけてくれたトップの雅量に対してである。
「耳中、常に耳に逆らうの言を聞き、心中常に心に払るの事あれば、わずかにこれ徳に進み、行を修むるの砥石なり。もし言々耳を悦ばし、事々心に快ければ、すなわち此の生を把って帰毒の中に埋在せん」(諌言、忠言は耳に逆らうものであるが、……耳をよろこばせるような媚び、へつらいなどの甘言に満足しているようでは人生を猛毒の中に沈めてしまうことになる)と菜根諄にある。
社長にとって、諌言、忠言ほど耳ざわりなものはない。それが正論であればあるほど、相手をうとましく思い、生意気なことを、わかった風なことを言うな、何様だと思っているんだ、などと己の感情を損ねるものである。しかし、周囲の者からの諌言、苦言を私的な感情から退けたり、相手を遠ざけていては、私を捨てて諫言する者もいなくなるばかりか、雅量のない将として、かえって部下から退けられることになる。
古今東西、長い歴史の中で忠言に耳を傾けて誤らずにことを成し遂げた人物は多いが、逆に、甘言に迷って業を失ない、己を失なった者もまた多いのである。権力者とて生身の人間、独断専行、横道へそれようとしたとき、身を挺して軌道修正する者を周囲にもたなくては、企業は奈落の底に落ちこむ危険さえ生じてくるだろう。
アメリカの実業家W ・B ・ギブンは、部下に「冒険をおかす自由、新天地を開拓する自由」とともに「反発の自由」を与えて、大を成したという。わが国でも、ある大手スーパーの社長が「よろしく争臣たれ」といっている。
上に立つものは、人の話をきくときは虚心坦懐、わだかまりのない気持ちできくべきであス)。
中国の戦国時代、魏の宰相である、瀧葱が太子とともに趙の部耶への人質として行くことになったとき、王に話した。
「一人の男が、市場に虎が現われたといってきたら王はこれを信じますか」
「信ずることはない」
「では二人の人が同じことを言ってきたらどうですか」「一応疑ってみるだろう」
「では二人が市場に虎が出ると言ってきたらどうですか」
「それは信ずるだろう」
「市場に虎が現われることなど全く考えられないことですが、二人が言うと、実際に現わ
者がありましょうが、どうか信じないようにお気をつけ願います」「安心するがよい。自分は自分の日以外は信じないことに致す」ところが、鹿葱が出発すると、早々に王にざん言する者が現われた。
後日人質が解かれて帰国する段になり、太子は帰れたが、瀧葱の入国は許されなかった(二人市虎をなすの故事)。
人のことばというものは、あてになって、ならないもの。よほど、トップ自身がしっかりしていないと一寸先まで闇にされてしまうものである。
江戸末期の儒者、佐藤一斎が書いた言志四録に「諌を聞く者は、固より須らく虚懐なるべし。諌を進むる者も亦須らく虚懐なるべし」(諫言をきく者は、虚心坦懐、わだかまりのない気持ちで聞き、諫言する者もまた同じである)とある上を諫めるにも道がある。ただ諌め言をいえばよいということではない。
韓非子に次のような話がある。
魏の文侯に仕えた西門豹は県知事に抜燿されたが、清廉潔白で私欲に走ることもなく、侯の側近にとり入ろうともしなかった。そのため側近からは目の敵にされていた。一年後に治政報告書を提出したが、成績不良の理由で知事を免職となった。
西門豹は、その取消しを願い出た。「はじめての知事で、どう治めてよいか見当もつかず免職になりました。今になってわかりましたので、もう一度知事をやらせて下さい。もし再び成績不良でしたら首を列ねられてもかまいません」。文侯はこれを許した。
任地へ戻った西門豹は、税金を重くし、びしびしと取り立て、側近たちには抜かりなく機嫌とりに努めた。
一年後に報告に帰ったとき、文侯は直々に出迎えて、その功をたたえた。そこで門豹は文侯に言った。「先年、私は君のために栄を治めましたが成績不良のかどで免職処分になりました。今度は側近の方々のために治めてみましたらお褒めにあずかりました。もうこれ以上知事の職にとどまる気にはなれません」と辞表を提出した。
しかし文侯は自分の不明を詫びて辞表は受け取らなかった。極めて有効な諌言といえよう。次に、詩に託して兄を諌めた故事がある。
三国志に登場する一方の雄、魏の曹操の長男は曹玉、その弟が曹植である。この兄弟幼いころから仲が悪く、曹茎が魏の文帝と称するころには次弟の曹彰を毒殺し、次の弟曹植をも殺そうと計ったはどだった。あるとき曹不文帝は弟の曹植に、七歩あゆむ間に詩を作れ、できないときは勅命に背いたものとして厳罰に処すと命じた。曹植を痛めつけようとしたのである。
曹植は兄の声に応じて立つと、直ちに次の詩を作った。
「豆を煮て持して羹を作る。鼓を漉して以て汁と為す、真は釜底に在って燃え、豆は釜中に在って泣く、本是れ同根より生ず、相煎る何ぞ太だ急なる」(羹を作ろうとして豆を煮、味噌をこして汁をつくるのに、真は釜の底で燃え、釜の中の豆は熱いので泣きながら言うには、豆も真ももとはといえば同じ根から育った問柄なのに、こんなに急いで煮るのはあまりといえばつれない仕打ちではないか)。
つまり、父母を同じくした兄弟。本来なら協力して父曹操の遺業を全うすべきはずなのに、なんで弟の私をこんなにつれなくするのですか、ということを詩に託したわけである。さすがの文帝も弟の切ない気持ちを察して恥じるところがあったという。「七歩の詩」「七歩の才」ともいわれている故事である。兄の曹不は一国の君主でありながら弟いじめをするはど狭量な人間だったらしいが、それでも反省したという。
ところが現代でもみられることだが、反発、諫言されると権威を犯されたかのように思いこんで、その人間を根に葉に思う執念深い者もある。あの社長に呪まれたら百年目というのがある。
趙の名君、簡子は周舎という臣が死んだあとは政務をとるにも浮かない顔をしていた。わけをきくと「つまらない千枚の羊の皮は、 一匹の狐のわきの下の皮に及ばない(千羊の皮は一狐の腋に如かず)というがそのとおりだ。多くの大夫たちが毎日朝廷に出仕してくるが、自分の言うことをはいはいときくだけで周舎のように堂々と直言してくれる者がない」(周合の詳譜)と。
私も長い間何人もの権力者に仕えたが、譜々して目の敵にされた人もあれば、譜々に大抜櫂してくれた人もある。人の度量というものには大海もあれば小さな池もあることを知らされたものである。
十三 雅 量
「黄河は細流を選ばず」という。
中国の大河である黄河は、どんなに細い川の水をも受け入れたからあれだけの大河となっているという意味である。また秀峰泰山は土を選ばず積み上げたから大山になった、ともいっている。
人間にしても、少々気に入らないからといって遠ざけたり、耳に逆らうことを言われても己の非を改めることができずに逆に不快の念をいだくようでは、心が小さい。自らの狭量を露しているようなものである。
「自分の片腕にしようと思って目をかけていた社員が、理由も告げずに辞めてしまう。幹部が居つかないのはどうしてだろうか」。ある社長からの相談である。中小企業ではあるが、社長の経営手腕については定評もあり、業績もまずまずの会社、それなのに優秀な社員がなぜ社長から離れてしまうのか。そこで冒頭にあげた「黄河は細流を選ばず」の話をしたところ、話の途中から「どうも頭にカチンとくる説教」という。この程度のことでカチンとくるようでは幹部も居たたまれなかったろう。とかく権力の座にある者は、わずかなことで感情をむき出しにしたりしては、人はついてこない、小人物と思われて志のある人間は去るものである。
言志四録に「人を容れる雅量のある人だけが人を責める資格がある。雅量ある人から責められれば相手も責を受け入れる。雅量のない人は人を責める資格がない。責めたとしても相手はそれを受け入れない」とある。
会社で、僅かな失敗をとりあげ叱りとばしたり、 一人を責めればすむのに全員に当り散らしている社長を見うける。これでは、いかに社長に大志があろうと、それを認めて協力する人がいなくなり、志を全うできないのではないか。
かつて金沢へ講演旅行した際、個人タクシーの運転手さんから俳人の加賀の千代女の話をきいたことがある。
加賀百万石の前田公から城中に召され、公が「加賀の千代、何にたとえん鬼瓦」と詠んだ。千代女は、悪びれもせずに「鬼瓦天主閣をも下に見る」と返句した。並み居る家臣たちが驚いた。足軽ふぜいの女房に百万石の天主閣を下に見られては、ただではすむまい、と思って。ところが前田公、今日は千代女にしてやられたといって褒美を与え帰した、という。千代女の権力も恐れない反発の勇気と、公の雅量に教えられたわけである。
その運転手さんの好きな千代女の句は「破る子のなくて障子の寒さかな」だといっていた。夫を亡くし、子を失ない、 一人暮しの淋しさ、愛児を思う心の現われた句である。私はこれを聞いて、企業も障子を破るはどの勇者がいなければ温室育ちになってかえって会社は寒さを感じるようになる、と経営に結びつけてきいていたのであるから、無粋人間のそしりはまぬがれない。
次に、小さな雅量が大きな役を果たした、といえそうな故事がある。
別項でものべたが、中国の戦国時代、斉の宰相、孟嘗君は三千人もの食客を養っていた。ある日、草履ばき、粗末な衣服、持ち物といえば長い剣だけ、という男が遠方から来た。わが国でいえば食いつめた素浪人というところだったろう。それを三等宿舎へ入れることにした。
十日はどたって宿舎の管理人にきいてみると、その潟駐という男、長剣のつかを叩きながら「帰って行こうか、わが長剣よ、ここの食事にゃ魚もない」(長鋏よ帰らんか、食らうに魚なし)と歌っているという。そこで今度は魚の出る二等宿舎に移してやった。満足しているだろうと思ってきいてみると「帰って行こうか、わが長剣よ、外へ出るにも馬車がない」と歌っているという。
それなら、ということで最上宿舎へ移してやった。そこには馬車もあるし、なんの不足もあるまいと思って。
ところが「帰って行こうか、わが長剣よ、妻子もなければ家もない」と歌っている。孟嘗君は居候の分際でともいわずに最高の待遇をしたが、これ以上はできないとしばらく放っておくことにした。
さて、孟嘗君が三千人もの居候を養う費用も大変。これを補うために領民に金を貸しつけ、その利息を当てようとしたが、 一年たっても利息どころか元金の回収さえ怪しくなってきた。そこで、その取り立て役に潟駿を選んだ。
領地に赴いた馬罐は、かき集めた十万銭の利息で借り主全員を集めて盛大な宴を張った。そして一人一人、返済できるかどうかを確かめ、返せる者には支払日を約束させ、返済困難と判断した者の証書はその場で焼き捨ててしまった。
これを帰って報告したところ、さすがの孟嘗君も怒った。馬腋は「ない者から十年待っても取れるものではありません0取れない証書はなんの役にもたちません。私は金の代わりに君の慈悲を領民に刻みつけ、君の名誉を高めてまいったつもりです」と。孟嘗君はかえって礼をのべたという。
この孟嘗君が、後にざん言によって宰相の位を追われたとき、三千人もの食客はそのもとを去っていったが馬罐は最後までとどまったのみか、強国秦に計略を用い、斉王を説いて再び孟嘗君を宰相に返り咲きさせている。
人間は大きな施しにも感激しないこともあるが、小さな雅量に大きく感激することがある。唐三百年の基礎を築いた名君、二代目太宗の重臣の用い方もまた雅量あふれるものであっ
ぼうげんれい と しよかい 一
た。創業の重臣といえば、知謀に優れた房玄齢と決断に長じていた杜如晦の智と勇の名コンおうけヽ う せo 一きちようビが知られているが、さらに王珪・李靖o魏徴などの有能な人材が唐の繁栄を支えていた。
その王珪が、太宗の前で「私は、真剣に国家に奉仕し、知れば必ず実行するこ之では房玄齢に及ばないし、いつも諌言を心がけ、自分の仕える天子が中国古代の名君である尭・舜の聖天子に及ばないことを恥じている点では、魏徴に及ばない。才能は文武を兼ね、出でては将軍となり、入りては宰相の任を果たす点では、李靖に及ばない」と、他の重臣たちを讃えている。
さて、このうちの李靖は、もと隋の場帝に仕えていたが、隋が亡びる際、唐の李淵(高祖)に捕えられ、斬られようとしたところを李世民(後の大宗)に助けられて、その幕下に加えられるようになった。
次に、李靖は、高祖李淵の命をうけて江陵の敵を討伐したが、僅かな兵きり与えられなかったため敵にはさまれて一歩も進めなかった。李淵は、わざと戦いを避けているものと誤解して、長官の許紹に李靖を斬れと命じた。敵方に身をおいた者は、いつまでも疑いをかけられるようである。この時は、李靖の才能を惜しんだ許紹のとりなしで断罪はまぬがれた。李靖が李淵から譜代の臣と同じ扱いをうけるようになったのは次の功があってからである。
異民族の反乱を鎮圧するために皇室のある一族が討伐に向かったが、撃退され、李靖が代わることになった。李靖は僅か八百の兵で、賊の首領を斬り、兵五千を捕えて鎮圧した。
李淵はこれを知って群臣に言った。「功を使うは過を使うに如かず」(功をたてた者を使うよりは、過失を犯した者を使うほうがうまくいく)。過失を犯した者は名誉奪回のために懸命に努めるからだ。
そのとき李淵は、自ら親書をしたため、「既往は咎めず、旧事は吾久しくこれを忘れん」
(昔のことは、とがめだてせず忘れよう)。敵に身をおいた者であっても、己のために役立つなら味方である。罪を犯した人であっても改まれば真人間と同じ。高祖とともに唐創業にあたった二代目太宗は、これらの重臣をよく用いて三百年の安定を築いたのである。上に立つものは、敵を味方にし、悪を善に改めさせるよう努める心が必要ではないか。それでこそ、ひろい心の持主といわれるのである。
十四 成功と感謝
前職時代、雑誌の依頼でのべ四十人はどの創業経営者や各界の成功者と対談する機会に恵まれた。
成功者の一家言を伺う、ということで、創業のいきさつ、経営哲学、成功の秘訣など多岐にわたっての話し合いであった。それぞれから素晴しい話を伺ったが、共通していることは、「恩を知り、報いる心が極めて強い」ということであった。全員が一人のこらず「自分の今日あるのは何々のおかげ」ということを話してくれた。
東京上野にある小泉グループの社主、故小泉市兵衛氏は、子会社の社名が「東天紅」に代表されるように鳥にちなんでいる。創立者である小泉氏のお母さんの干支が酉年であったから、というわけである。母に対する感謝である。
そういえば私の甥が医療器械会社を創立した際、社名を「はなこメディヵル」としている。母の名、はなこを社名にしたものである。
また、イトーヨーカ堂の本社ビルの完成式に招かれたことがある。十時の開店のとき、テープカットを誰がするのか、注目していた。
東京の政財界の大物でも加わるのではない力、と思っていたところ、伊藤社長は、お母さんを誘い母一人のカットであった。無言の感謝といえるだろう。大阪の高槻市にあるムネカタ株式会社の宗形社長のネクタイは万年無地の真紅色である。
創業早々本業に行き詰まり、自殺を覚悟して遺書を七通書いた。今夜こそ淀川へとび込もうと考え、見納めのため空家同然の工場を夜遅く覗いてみた。そこに意外なものを見た。二十才前の若い見習工三人が明日の倒産も知らずに、機械の修理をしている。ふと考えた。自分は死んでしまえば、それですむが、あの若い工員たちの将来はどうなるだろう、と。これは自分だけが死ぬわけにはいかない、と考えついた。その瞬間、彼らの上にあった薄暗い電燈の光が赤く輝いてみえた。それをネクタイにしたのであって真紅色の無地は若い工員に対する感謝である。
作曲家の遠藤実氏は奥さん、 コメディアンの故左卜全さんは「私はゴマ粒一つ落しても拾って食べないと気がすまない」といっている。かねで買ったものだからもったいない、ということではない。人の口に入るすべては自分の生命を人間のために犠牲にしたものであるから、という、物に対する感謝である。
スポーツの美津濃の創立者水野利八氏と話し合ったとき、昔読んだ本にあった、といってこんな話をしてくれた。
アメリカのある農婦は男の子供三人を養うために苦闘していた。ある年、秋の収穫を予想してみると、自分が三食たべたのでは子供に三食与えることはできない。そこで一日二食に 一した。収穫までの半ばで計算すると、二食では不足することがわかり一日一食としてしまった。
これを知った子供たちは、発憤し、 一人は大統領、 一人は大学教授、あとの一人も出世したという。母への謝恩である。
夫が妻に対する感謝に「糟糠の妻」の故事がある。
後漢の始祖光武帝の姉に未亡人の湖陽公主がいた。大司空の職にあった宋弘と結ばれたいと願っていた。これを知った帝は、姉を隣室に呼び、宋弘の意をさぐろうとした。
「身分が高くなれば交わりを易え、富裕となると妻を易える、といわれているが貴公はどう思うか」。宋弘は答えた。
「いや私はそうは考えません。貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず」(地位も低く貧しかったころの友を忘れてはならないし、粕や糠を食うほどの難難をともにした妻は富み栄えるようになっても粗末に扱ってはならない、と考えるのが正しいと思います)。これでは見込みなしと、姉の再婚をあきらめたという。友や妻に対する感謝である。
さて、成功者に共通している点は感謝の念が強い、ということであるが、これも人として当然にもつべき道である。しかし、往々にして自分一人で育ち、成功したかのように考える。悲しいのは「婆抜き」などといって自分の夫を生んだ母親まで抜き捨てようとしている。そして、あなたは成功してくださいと願う。一人の母さえ養うことのできない人間が何人何十人の上に立つことはできないのである。
さて、それなら、感謝の念と成功に何のかかわりがあるのか、これを理論的に解明することはできない。思うに、発憤の動機になり、信条、根性の糧となるなど、精進の鞭となるからである。
これは、NHKの人生読本で話した私の恥ともいえるものである。
貧農の長男として生まれた私は、小学三年、十才の晩秋、父に本を買うかねをねだった。父は前の畑の一隅にある柿を指さして、あの実を採って売り、かねをつくれといわれ、売り先の地図を書いてくれた。
翌早朝、三十一コもぎ取り、ザルに入れてニキロほど離れた浦和市内にある″八百久〃という生鮮食料品屋へ行った。雨戸が締まっている。しばらくして主人の石塚久蔵さんが戸を一枚あけた。そこに、うずくまっている私を見つめながら確かめるように人定尋間を受けた。了解した久蔵さん、柿のヘタの近くの皮を爪でとってなめた。渋が残っている。「すぐ売り物にはならないが、かねを何に使うのだ」「本を買う」「それじゃ買ってやろう。よく勉強するのだぞ」といって、ギザのついた十銭銀貨三コを手に握らせてくれた。生まれて初めて自分で稼いだかね、喜び勇んで帰りながら考えた。いまにえらくなったらあのおじさんのところへお礼にいこうと。
それから四十年。ちょうど私の五十才のとき銀行の取締役に就任した。株主総会が終るのを待って八百久さんへ行き久蔵さんに面会を求めた。十年前に亡くなられたという。若主人に昔話をしても、その話はきいたことがないという。ようやく納得してもらい仏前で礼をのべた。四十年ぶりに思いを果たしたわけであるが、その柿はいまだに残っている。毎年同じ実をならせているが、 ヘタ近くの渋はいまだに昔と同じである。四十年間私を励ましてくれた人は石塚久蔵さんではなかったろうか。
最後に、妻に対する感謝で、こんな剰軽な話がある。前漢武帝のころである。武帝は、広く天下から有能な士を募った。
そのとき、簡贖三千枚に書いた上申書を提出し、自分を推せんする者があった。武帝は二ヵ月もかかって全部読んでみたが筋も通り文章も堂々としていたので郎という役を与えた。と,まうきく
名を東方朔といったが、機知にもとんでいたので、帝のお気に入りになった。やることなすことも人とは違い、たとえば帝から時々食事を賜ったが、食べ終ると、余った物をさっさと懐に入れて帰るので衣服は汚れて台なしになる。かとり畠を下賜すると、肩に無雑作にかけて持ち帰る。それを見る人たちから半ば気違い扱いされていた。当時、三伏の夏には帝から廷臣に肉を下賜するならわしがあった。
その日、朔が肉を分ける場所へ行ったが、切り割いて分ける担当者がきていない。朔は腰の剣を抜いて肉を切り懐に入れて引きあげてしまった。これを知った武帝に呼び戻された東方朔は、武帝の詰間に冠をとり平伏して答えた。
「まことにもって詔を待たず、勝手に肉をいただくとは、なんと無礼なことでしょう。剣を抜いて肉を切る、なんたる壮烈。切り取った肉はほんの僅か、なんと廉直なことでしょう。持ち帰った肉は細君に贈る。なんと愛情あふれるわざでしょう」
これには武帝も笑い出して、酒一石と肉百斤を贈り、「帰って細君につかわせ」と。これから、妻のことを細君というようになったという。この東方朔はわが国の落語にも顔を出す「厄払い」という落語で賜る。感謝といえば、西漢の劉邦を補けた韓信にこんな話がある。
さら韓信は仕事もなく毎日川で釣りをしていたとき、川で数人の女たちが木綿を晒していた。
その中の一人が韓信の飢えている様子を見て、飯を与えた。それが晒し作業が終るまで数十日間もつづいたので韓信は大いに喜び「いつか必ず、ご恩返しをします」と礼をのべた。女は、それに文句をつけた。「大の男が自分で食うこともできない、あわれな者だと思って食わせてやっただけだ。お礼なんか欲しくて恵んでやったわけではない。ばかなことをいいなさるな」と。
また、あるとき、居殺場のやくざ者から、なんくせをつけられた。「体ばかり大きく、長い剣だけは下げているが度胸はないんだろう。どうだ、その剣を抜いて殺す度胸があるならやってくれ。それができないなら股をくぐれ」。韓信はしばらくして地に這って股をくぐった。見ていた人々は、臆病者とののしつた。
また、韓信は一時南昌の亭長の家に居候していた。それも数力月もつづいたので亭長夫婦もいや気がさした。ある朝、自分たちは早起きして朝食をすませてしまい、韓信が起きてきてもしらん顔をしていた。これに怒った韓信は以来亭長の家との交際を断ってしまった。
さて、後日諄となるが、韓信は、楚王に封じられ故郷に着任すると、早速、木綿晒しの女を招いて千金を与え恩に報いた。
次いで、股くぐりをさせられた屠殺人夫を呼び出して将校に取り立てた。居候してきらわれた亭長には百銭を与え、貴公は使気のない人だ、面倒をみるなら最後までなるべきだった、と語ったという。
辱しめられた股くぐりの人夫など、こらしめてもよさそうなものだが、将校にした際「辱しめられたのを耐え忍んだから今日の自分があるのだ」という意味のことを言っている。大器を思わせる言葉である。十五 心中の賊を破る
権力のある者は、常に権力をより強大にしよう、永続させようと願う。
財力も、これで満足というものはない。さらに増大しようと考える。こうした限りない欲望は前進のエネルギーになるものであるが一歩誤ると、企業を亡ぼし、己をも失なうことになる。
といって欲望を抑えれば前進はやむことになる。しかし、危険も少なくなる。ブレーキを緩めれば前進はするが過ちを冒す危険も多くなる。これらの調整をどうするか、人間の良識にまつ以外にない。
ところが、この良識なるものは、好調に恵まれたり、地位が上がり財産ができてくるにつれて怪しくなってくる。「貧すれば鈍す」とか、貧乏になると頭までバカになるというが、それ以上のバカになるのが名利を得てからといえるだろう。
しばらく前の池田勇人総理は「貧乏人は麦を食えばょい」といって失脚したが、もし「金持ちになったら麦を食え」といったら心ある経営者などから喝朱を受けたのではないかと思ゝ^ノ。
ある人は「金持ちになったら、吝薔にならないように心がけることと″ノー″という言葉を覚えることだ」と教えている。「ノー」とは誰にいうのか。うまい話を持ちこんでくる人と、出したがっている自分の心に言いなさい、ということである。
陽明学の始唱者である王陽明は江西各地の匪賊討伐にあたっていたとき、門人の場仕徳に、戦果を知らせるとともに教訓を手紙で書き送っている。
「私が江西の取るに足らない匪賊をすべて取り除いたからといって大きな手柄とはいえない。もし、おまえたちが自分の心腹の中にわだかまっている、人欲という寇賊を一掃し、きれいに平定の功を取ることができたとするならば、それこそ大丈夫としての稀になる偉業というべきです」というものである。
現代でも、逆境や、内外の競争相手に勝つよりも自分の心にある邪念邪欲に克つことのほうがはるかに難しい、といえるのではないか。業なかばで挫折した者もあるし、有終の美の飾れなかった者の多くは自分に破れたものといえるだろう。己の心を締める鍵は誰しもゆずってくれないものである。自身で作る以外にない。経営を志す者が何よりも先に作らなければならないのは、この鍵といえるのである。この鍵を作らせまいとする人、作った鍵を奪おうとする者が毎日のように押し寄せる。これを撃退することも怠ることはできない。
「和して同ぜず」という言葉がある。志のある者は、誘った人に同調しているようであるが、心から同調することはないものである。
卑近な例が、幾分でも貯蓄ができたり、 一時に大金が入ったりすると、憐れなを乞いにくる者、義侠心にすがりにくる者、さては、儲けさせてあげます、といってくる奇特な人まである。いずれも、持っているかねを奪いにくるものである。
また、うまい話を持ってくる。話には欠点がないから、つい引っかかってしまう。それも自分の心に欲がある。それに負けてしまうのである。 .
「絶対に儲かります」といわれたら「そう言っているあなたが絶対儲かるのか、私が儲かるのか」と反問するくらいでないとかねは守れない。私にも「このチャンスを逃がしては二度と巡ってきません。いますぐに」といってきた。そこで「三度とチャンスがこないことになると御社は閉鎖ですね」といったら電話をきられた。「いますぐ」という者にかねを出していたのでは、いくらあっても足らないのである。
韓非子に「トップが身を亡ぼす十の過ち」というのがある。
一、小さな忠義にこだわると大きな忠義を見失なう。
二、小さな利益にとらわれると大きな利益をそこなう。
三、気まま、でたらめで外国に無礼をするとわが身を亡ぼす。
四、政治を怠って音楽に熱中すると自分を苦境に追いこむ。
五、欲に目がくらんで利益だけを追求すると、国も自分もともに亡ぼす。
大、女の歌舞に熱中して国政を顧みないと国を亡ぼす。
七、国を留守にして遠方に遊び、部下の諌言に耳をかさないと、身を危うくする。
八、過ちを犯しながら忠臣の意見をきかずあくまで意地を通そうとすれば、せっかくの名声を失ない、世間のもの笑いになる。
九、自分の力をわきまえず、外国の力をあてにすれば、国を削られる。
十、小国のくせに、他国に無礼をはたらき、部下の諫言に耳をかさなければ地位を保つことができない。
いずれも己に克てないからといえよう。
このように考えてくると、「経営とは、己に克つことである」ともいえそうである。
また、克己心は経営者の欠くことのできない条件ともいえよう。菜根諄に「魔を降す者は、まず自心を降せ。心伏すれば則ち群魔は退き聴く。横を駅する
者は、まず此の気を駅せよ。気平らかなれば則ち外横は侵さず」(魔性のものを降服しようとする者は、なによりも先に自分の心に打ち克つようにせよ。自分の心にある煩悩や妄想を退治すれば、本心が明らかになって、さまざまな悪魔も心伏し退散してしまう。
また、横着な人間を制御するには、まず、己の心を制御すべきである。自分の心にわだかまる勝心や、客気を退ければ、心も平静になって外道も恐れ入って退散することになる。自分に克つ心が強ければ、魔性も、横着者も屈服させることができる)。一魔性は相手にもあるが、むしろ自分にある。
身近なことだが、かね儲けの場には、無知、無能な小羊を餌食にしようとしている魔者が .横行している。その魔者は遠くに見える美しい山々や、青々とした平和な草原の話はするが、決して、そこへ案内しようとしない(つまり、儲かる話はするが、そこへ案内すれば、転落の危険がある険しい山、猛獣、毒蛇が潜んでいることがばれてしまうからだ)。
いかにも、悪魔のような人たちと思うが、彼らにしても暴力をふるっているわけではない。それら魔性に引きこまれ餌食になってしまうのは自分の心の中にも魔性が潜んでいるからである。新聞種によくなっているが、法を犯すような手口でだまし取られている。だまされる人が多いから跡を絶たない。己の心の中に潜む魔性を取り去れば、人をだますような魔性もなくなるはずである。
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