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第一章 事業経営とは「市場活動」である

目次

まえがき

経営コンサルタントになって三十四年目、長いようで、過ぎてしまえば早いものである。この間、様々なことにぶつかっている。そのなかから、感銘深かったこと、意外だったこと、特に社長の皆様にお知らせしたかったことなどを、報告させていただく。

したがって、特定のテーマについての論文ではなく、メドレー式に報告させていただくものである。その主なものは、四つある。

第一には、「環境整備(清潔・整頓・安全。衛生など)」で、これは、全く意外であっただけではなく、私の考え方まで変えてしまった。これを徹底すると、人間までも変えてしまう。

そこにあるのは、ク人間革命クともいえるものである。

私のコンサルティングは、環境整備に始まる。これ以外に何もしないのに、業績が上がっていく。後はすべて、自然とうまくいく。詳しくは本文を読んで、さらに立派な会社になっていただきたい。

第二には、「ワンマン経営」の徹底である。本当のワンマン経営は、多くの人々が考えているものとは、似ても似つかないものである。

ワンマン経営は、世に言われる独裁、独断、ガミガミとは正反対のものである。

真のワンマン経営者は、会社の責任を一身に負う。自らの状況判断に基づいて目標設定を行い、お客様の要求をいかにして満たすかということだけを考えて、それを実現していくことを使命としている。

第二には、社長自らのお客様訪間である。社長自らのお客様訪間のないところに、本当の意味での事業の発展はないのだ。

第四には、社長自ら経営計画書を作成することである。「小さな会社だから、経営計画書などいらない」と思うのは、大きな誤りである。どんなに小さな会社だろうと、絶対に必要である。

反対に、「こんなに大きな会社で、やることが山のようにあるのに、そのうえに社長自ら経営計画書を書くヒマなどない」というのも、大きな間違いである。経営計画書を、必ず自らの手で書き上げることこそ、社長として絶対にやらなければならないことである。これなくして、会社の繁栄を実現するのは難事中の難事である。経営計画書こそ、ク会社の守り神クである。そして、社長の雑用を無くすものは経営計画書であり、社長は本当の意味で会社の将来だけを考えればよいことになる。

論より証拠、私のお手伝いしている多くの会社の社長たちは、かつては身体がいくつあっても足りないほどであったのに、現在はより大きな会社に成長しながら、悠々として仕事をしているだから、一倉教の社長さん方は、回その正体は、何であろうか……。を揃えて、経営計画書をク魔法の書クと呼んでいる。

多くの人々を立派に使う法こそ、リーダーシップである。リーダーシップの要諦は、「自らの意図を明らかにする」ことであり、それを最も効果的に発揮する法は、ク明文化″である。これが、経営計画書のク魔法クの正体である。

「口頭による指令は忘れられ、文書による指令は守られる」― ―これが、私が経営計画書の作成を社長に強力に進言する理由である。経営計画書を作成し、その発表会で社長が経営方針の説明をし終えると、役員、管理職、社員を問わず、眼の輝きから言葉も態度も、全く違ってしまうということを発見する。

そして、それ以後、毎日、方針書の一節ずつを声に出して全員唱和することにより、短期間に社長の方針が全社に徹底する。これが環境整備の効果と相候って、会社は完全に生まれ変わってしまうのである。

三年目の経営計画書発表の頃には、元の会社の姿は、驚くほど素晴らしいものに変わってしまっている。まさに、ク奇跡クとしか言いようがないのである。

この時、多くの社長が私にもらす言葉が、これまた完全に一致する。それは、「この頃、経営計画の方針書を書くことが恐ろしくなりました。私が間違った方針書を書いたら、会社全体が間違った方向に行ってしまうからです」という。経営計画書を最も手早く作る道は、私が年二回沖縄で行う「経営計画書実習ゼミ」に参加されることだ。期間は、足掛け八日である。

このゼミでは、初参加の人も、数回から、実に十数回も参加している人も一緒になって、勉強と交友と情報交換が行われる。そこには、全くの別世界があり、これが計り知れない大きな効果を生み出している。

社長というものは、ク毛並みクのよさを絶対に必要とする。毛並みというものは、氏素姓や教養だけではなく、行動半径の大きさ、そして立派な友、しかも異業種の友を多くもっていることが大切である。

特に社長には、社運を決めるク決定クという大事がある。これは、重要なことであればあるほど、社内の人には相談できないものだ。

このような時に、経営計画書実習ゼミのメンバーは、この上ない相談相手なのである。それだけではない。これらの人々は、互いに平素から交友し、経営計画の発表会には出席し合う。奥様同士の交友を行っている人たちも多い。何ともユニークな交友が、常時、行われているのである。

以上の四つが、事業経営の土台となり、柱となっている。

それらの上に事業経営が乗るのであるが、本書に何もかも書くわけにはいかないので、そのうちの、特に盲点となっている「年計グラフ」や「直接原価計算」「資金運用計画」「ランチェスター販売戦略」「会社内部の最小限管理」「コンピュータ」などに的を絞り、日常の経営活動のなかで最も重要な留意点として記述することにした。

一九九七年四月吉日

一倉 定

事業経営とは「市場活動」である― 私のこの言葉を聞いた人は、ク青天の露墨クとか、″ショッキングな言葉″というような感想をもたれる。それくらい、ク事業の経営クということを知らない人が多いのである。

多くの人は、経営とは夕内部管理クのことと思っている。これくらい、ク経営クということに関する多くの人々の認識は、的を外れているのだ。事業というものは、そこから収益をあげなければならないのだ。

内部管理からは収益は生まれない。収益をあげることができるのは、市場しかないことを考えていただきたいのである。

それが理解され、行動に移されて、収益を手に入れることができ、会社の存在が可能になることを認識してもらいたいのである。

天動説がまかりとおる

第一話

ある大企業から、「役員むけに販売促進に関する話をしてもらいたい」という依頼を受けた。

私は、この会社のあるディーラーの社長から、「あの会社のサービスは非常に悪い。ディーラーのことなどまったくといっていいほど考えず、自分の会社の都合だけしか考えない。まさにク天動説´そのものですよ」ということを聞いていた。私が言うク天動説″という言葉は、この社長から聞いたのを借用したものである。あまりにも見事に、事の本質をついているク名言クである。

集まった役員を前にして、私の出だしの言葉は、「あなた方の会社の商品を、お客様が買ってくださらなければ、あなた方の会社はつぶれてしまう」というものであった。

私にとっては、あまりにも当り前のことを、あまり力も入れずに話しだしたのである。話を終って、役員の方々のご感想をお伺いしたところ、大部分の方が、「出だしの私の言葉は″青天の諄塞″だった」とのことであった。

天動説のために、どんなことが起こるのだろうか。天動説の考え方は、「世の中は我社を中心にして回っている」というのである。だから、我社は動く必要がない。会社の役員は、役員室に座っていればいいわけだ。

世の中の動きや、お客様の要求の変化、さらにはライバル会社の状況などにはまったく関部長や課長の報告書や説明を聞いて決裁していればいいと思いこんでいる。何しろ「会社は絶対につぶれない」と思いこんでいるからである。万一、つぶれそうになったら、それは社員の怠慢だから、社員を叱りとばすより外に何もできないのである。

第二話

あるローカルの酒問屋へお伺いした時の話である。ライバル間屋の大幅なディスカウントによって、次々とお客様を奪われているという時であった。

社長は、セールスマン全員を集めてガナっていた。「お前たちは、いったい何をしているのか。次々にお客様をとられてゆくのに、何の策も立てていないではないか。怠慢もはなはだしい。早急に新しい戦略を立てて、相手をやっつけよ」というのである。

セールスマンは全員、下を向いてお説教をきいているだけだった。社長は自分では動かず、まわりの社員を動かそうとする。このお説教の成果はゼロであった。

第三話…天動説を捨てなかったトーハツの倒産

今から四十年前、私はトーハツの下請企業に勤めていた。そこでの体験が、わがク一倉教クの原点であり、そこから「事業経営とは何か」についての開眼を得たことは、どんなに強調しても、強調しすぎることはない。トーハツとは、東京発動機のことである。トーハツは、オートバイの名門業者であった。

戦後、いち早くオートバイの生産に踏みきった。その素早い決定のために、製品はよく売れた。

戦争によって、何もかも失ってしまった日本にとって、オートバイは乗用車としてだけでなく、運搬車― うまリトラックとしての需要も、いくらでもあった。そのために、断然トップに立って、独走的な成果をあげたのであった。

しばらくすると、復興にともなってオートバイメーカーが雨後の筍のように生まれたが、いずれも、中小業者なるがゆえに、トーハツの牙城に迫ることはできなかった。

しかし、いつまでも安泰を謳歌しているわけにはいかなかった。大手自動車会社のオート三輪の発売であった。これが、トーハツのオートバイの需要を奪ってしまった。これは、トーハツにとってはかなりのダメージであった。

このような状況になった時に、当然、トーハツは自らの事業の見直しと、将来の方向づけを考えなければならないはずである。

しかし、トーハツの経営者は何の対策も立てずに、従来の路線を走り続けるだけだった。これがトーハツの没落をもたらしたのである。

トーハツのオートバイは、二輪車としての機能と、トラックとしての機能(頑丈さ)を兼ね備えた武骨な車体をもった垢抜けないデザインだった。

世の中は急速に復興が進み、オートバイの運搬機能は三輪車だけでなく、四輪車が出現して、もう二輪車の運搬車としての機能はほとんど完全に消えてしまった。

これと並行して、多くのオートバイや乗用車は、乗用車としての新しいデザインに変わっていった。トーハツは、その傾向の中でも、デザインを変えようとはしなかった。そのために、トーハツのオートバイは、他の二輪車メーカーにもお客様を奪われはじめたのである。

それだけではない。この頃になると、数ある二輪メlヵlは次第に淘汰され、 一九五五年頃(終戦は一九四五年)には、新興のホンダ技研は月産五千台にも達してトーハツに追いつトーハツのデザインは、当初とあまり変わらぬ垢抜けないものなのに、ホンダは颯爽としたスピード感のあふれるデザイン、ヤマハはレジャー性をとり入れたシャレたデザインだった。トーハツの敗北は目に見えていた。

それにもかかわらず、トーハツは近代的とはお世辞にも言えないデザインを変えようとはしなかった。

その当時、私はトーハツの下請企業に勤めていて、不安と憤りでこの有様を眺めていたのである。

一九五七年、ついにトーハツは大ピンチに襲われた。売上げが一気に半減してしまった。製品在庫は急増し、下請会社への支払いは滞り、私たちは給料遅配に泣いたのである。

このような事態を生む数年前から、トーハツのディーラーは、トーハツに対して、デザインの近代化を要求し続けていたのだが、トーハツの首脳は、これを聞く耳を持たなかったのである。トーハツ首脳の信じられないような無能が、ここにあったのだ。あとは、ズルズルと倒産への道を辿ったのである。

私は、世の中の変化に対応できない企業の運命、すなわちトーハツの倒産の一部始終を、給料遅配という生活のピンチのなかで見ていた。この体験が、後に私がコンサルタントとしての道を歩むようになった時に、普通では、したくともできないような体験として非常に大きな強味となったのである。

コンサルタント修業のために、あるコンサルタント会社に入ったが、そこの社長はじめ幹部も、会社の倒産などにはまったく何の関心も示さず、日常の次元の低い繰り返し仕事の合理化指導にのみ関心を示すだけなのを見て失望し、こんなコンサルタント会社では何の勉強もできないと、すぐに退社してしまったのである。

私は、トーハツの下請会社に入る前に勤めていた会社でも、社長の無能を体験させられていた。その後、三社に勤め、そのうちの一社は、社員三十名ほどの小会社で、月商の四カ月分の赤字を背負い、資金繰りの苦しさに高利の金を借りており、その上、融通手形を発行していたという、とんでもない会社だった。社長は無能を二乗したような人で、その再建は、専務役の私が行い、 一年後には売上げを三倍にして一人前の黒字にした。

その再建には、もともとの私の専門である生産技術を使わなかった。それまでの経験で、生産技術の効用を知りながら、これを使っても会社の再建はできないと感じ、再建過程では一切使わなかった。

生産技術というものは、黒字会社の生産性向上に大きな威力を発揮することは、自らの体験で知っていたのだが、その生産技術も、赤字会社の再建には何の役にも立たないことを、その再建過程で知ったからである。その会社も、社長と意見が真っ向から対立し、身を引くことになってしまったのである。

もう一社の体験がある。この会社は社長がワンマンコントロール型で、ワンマンコントロールは会社にとっては百害あって一利ないことを学んだ。ワンマンコントロールというものは、単なる内部管理の、しかもその最も低次元のものでしかないことを知ったのである。この会社もつぶれた。

以上のような体験は、いやでも私に、「事業経営とは何か、そしてお客様の大切さ」というものを痛切に感じさせた。

開眼

私は、夢中になって「事業経営とは何か」に焦点を合わせて勉強した。最も参考になったのは、現実の会社と、経営者の経営哲学や行動であった。それらの勉強から、やっと分かったことは、「事業とは市場活動である」ということだった。

現在、曲がりなりにも、社長専門のコンサルタントとしてやっていけるのは、私がつとめた四社が全部つぶれてしまっているからだ。特に、トーハツの破綻を見せつけられ、「社長が、こういうことをすると会社はつぶれる」ということを、自らの体験で知ったことが大きな財産となっているのである。

この経験は、いくら望んでもできない貴重なものだった。「会社は絶対にツブしてはいけない」ことを学ぶことができたからである。

売れないものを押しつけていた…天動説より地動説ヘ

T社は、家庭薬のメーカーであった。私がお伺いした時には、売上げ減で赤字であり、その赤字は次第に大きくなっていた。

強敵のA社のヒット商品は、その宣伝力によって、売上げを急伸中で、T社はこれに食われていただけでなく、新興のD社も、テレビを利用しての独得巧妙な販売で、これまた売上を順調にのばし、T社を急追していた。その二社に挟撃されての売上げ低下だった。とはいえ、T社の商品はその優れた効力ゆえに、販売さえ順調にいけば、巻き返しは可能であるというのが、私がお伺いして調べた結果の感触だった。

それは、社長も役員も、誰一人として蛇口(小売店)回りをしていなかったからである。販売不振の原因は、ここにあるというのが私の感じだったのである。

私は、T社長に対して、様々な例をあげながら、小売店訪間を、社長一人だけで行うことを進言したのである。

私の進言を入れて、社長ただ一人でのお客様訪間を行った。お客様といっても、商社や問屋ではなく、必ず小売店でなければならない。小売店でなければ、正しい販売不振の原因はここで一言、注意しておくが、小売店訪間ではあらかじめ商社や問屋に小売店訪間の目的を話し、了解をとりつけておくほうがよい。

商社や問屋がどうしても小売店訪間を許してくれない場合があるが、これは分からず屋ではなく、商社や問屋がかつてメーカーに小売店を教えたために小売店を横取りされたというにがい経験をもっているためであって、悪いのはメーカーの方である。

だから、メlヵlはその間屋と取引したいならば、こういう横取りはやってはいけないことである。話をもとにもどそう。

一人で小売店を訪問したT社長は、社内にいたのではまったく分からない意外な事実を、お客様から間かされてしまったのである。それが会社を倒産寸前にまで追い込むという事態を引き起こしていたのである。

まず第一には、小売店は、「アイテムが多すぎて、何を仕入れていいか分からない」ということである。

そこで、セールスマンに、「売れ筋商品だけを置いていけ」と言うと、「これこれが売れ筋です」と言って置いてゆくが、あまり売れ行きはよくない。「もっと売れる商品をつくれ」と小売店から社長は言われた。

もっと驚いたのは、セールスマンが置いていった商品は、売れ筋はわずかで、売れ行きの悪い商品の方が多かったことである。どこの店でも、同じようなことを言われた。

社長は、はじめて販売不振の原因をつかんだのである。かなりのセールスマンは、売れる商品を売ろうとせず、売れない商品を優先するのである。

アイテム別売上高ABC分析表を作ちておいたのが役立ったのである。あとは簡単だった。ク商品別売上高ABC分析表クにより、上位の商品の売上げに力を入れたのである。その結果は、売上げ急増であった。

増産も、そのABC分析表によって、「何を作ったらよいか」が簡単に分かるようになった。問もなく、T社は黒字転換した。

売上高ABC分析表を検討した結果、下位の商品を大幅にカットしても売上げ減少はごくわずかであることも分かった。しばらくすると、三百五十アイテムを百五十アイテムにまで減少することができた。

私は、社長だけでなく役員も、お得意先回りをすることをお勧めした。役員の天動説打破のためである。

社長命によって役員のお得意先回りが始まったところ、営業部門からこれについてのクレームが起こった。役員のお得意先訪間をやめてくれ、というのである。その理由というのは、役員が小売店で威張るために、薬局の主人から怒りのクレームが続出したからである。

ここに、無知な役員の認識の誤りが明らかになった。それは、「薬局の主人は、我社の家来である」と思いこんでいたからである。「天動説ここにあり」である。社長は、あわてて役員教育をしなければならなかった。

このような現象は、単にT社だけでなく、大手企業にはしばしば見られる。代理店に対する電話では、横柄な口をきく。代理店訪間をク民情視察″と思いこんで、駅頭まで代理店の社長に出むかえを命ずる。応接間に入ると上座に座る…という非常識に気づかないというようなことは、枚挙にいとまがないのだ。

お客様に対してク消費者クという社長。お客様をク加入者クとよんでいた電々公社では、真藤社長から「電々語だ」と叱られたのは有名な話である。

ク供給先クという業界もある。このような天動説はかなり多い。中小企業にはみられないことだ。

松下幸之助氏は、代理店の宴会ではク下座クに座って挨拶をしたという話をきいたことがあるが、これが本当なのである。

ある化粧品会社の代理店会議では、社長訓示にそなえてリハーサルをやっていたことがある。「社長」と書いた高札を持った社員が、「社長がここに来た時に一斉に頭を下げてくれ」というのである。私の知人は、このリハーサルの時に、頭の下げ方が足りないと、そこの社員に頭をおさえられて深く礼をするように注意された。彼は激怒して、そのまま会場から飛び出してしまった。そして、即日、その会社と縁を切ってしまったのである。

アサヒビールの樋口社長が、得意先訪問時に九十度頭を下げて、四十五度しか頭を下げなかった私の友人が恐縮してしまった話を後に紹介させていただくが、社長にも、どうにもならない阿果がいて、それが自分の会社の売上げを落としてしまっていることに気がつかないのである。いくら偉くなっても、″礼節″は忘れたくないものである。実るほど、頭を下げる稲穂かなである。

T社長のお得意先訪間には熱がはいり、お客様のクお叱り″やク要望″には即時に手が打たれていった。全社をあげてのお客様サービスが実行されるようになった。T社長のお人柄と熱意の結果である。

それから二年後、T社長にお目にかかった時に、ますます好調ということで、嬉しかった。

T社長のお話しによると、役員会議の内容がまったく変わってしまったという。以前は、営業部門の主だった人を呼んで状況を報告させるだけで、それに対しての質疑にも熱が入らなかったが、今はまったく違ってしまった。営業会議というよりは、販売戦略会議に変貌してしまったという。

再建

「ク事業の経営″は誰がするものか」という設間に答えてくれるのが、これから紹介する二人の名経営者の思想と行動である。

二人の名経営者の思想と行動こそ、われわれが十分に学ばなければならないのである。

ゼネラルモータースの再建

ゼネラルモータースの再建者アルフレッド・スローンが、ゼネラルモータースの社長になったのは一九二三年のことであった。

当時はフォードの最盛期で、T型車の占有率は六〇%以上で、断然たる優位を保っていた。それに対してゼネラルモータースは、占有率が一二%しかないガタガタのボロ会社であった。

ゼネラルモータースの再建には、どうしてもフォードのT型を叩かなければならないのである。スローンの任務は重かった。奇跡でも起こらなければ、それはまったく不可能である。

ところが、その奇跡を起こしたのである。スローンは数人のスタッフとともに全米のディーラーのところを訪問しはじめたのである。このところの事情を、彼の回顧録である『GMとともに』から引用してみよう。

一九二三年〜一九二九年の間に、新車の需要が頭打ちになったので、当然業界の重点が生産から販売へと移行した。

販売面から見ると、それは安易な販売から強力な販売への転換であった。ディーラーの問題が発生した。

この事態に対処するために、私は一九二〇年代と一九二〇年代の初期を通じて直接ディーラーを歴訪することにした。

そこで、鉄道の車輌を一台借りきって、これを事務所に改装し、数人の随行者と一緒に、一日に五軒か十軒の割合でアメリカ全国の殆んどすべてのディーラーを訪ねて廻った。そして現場で直接にディーラーたちに、「戸を閉めた部屋」で面会し、机をはさんで話合い、彼等と会社の関係、製品の性格、会社の政策、消費者需要傾向、将来についての見解、その他自動車事業に関係のある多くの事柄について、綿密なノートをとり、本社に戻ってから、それを仔細に検討した。

私がこのようなことを行った理由は、GMの正規の組織がいかに有能であろうとも、ディーラーと直接に接することに特別な価値があると判断したこと。

さらに会社の最高責任者として、私の関心は一般的な政策にあったからだ。このように多くの時間と努力を費す方法は、当時においては特に有益であった。というのは、業界の流通事情については殆んど知らなかったからである。

我々が学んだ多くのことは、後にディーラーに対する販売契約に反映され、とくに審議会やその他の方法で連絡業務が正規に行なわれるようになった。

この現場査察から、私は一九二〇年代の中。後期を通じて進行中であった歴史的変化を看取することができた。(太字筆者)その歴史的発見とは、何であったのだろうか。

それは、フォード追撃から、これを抜き去ってしまうという大戦略である。それだけではない。この戦略は、単にフォードを抜き去ったというだけでなく、現代の世界の自動車業界の基本戦略として燦然たる光を放っている不動の戦略なのである。

もしも、スローンの十年にもわたるディーラー訪間がなければ、発見することができないものだったかも知れないのである。いや、恐らくはできなかったに違いないというのが私の見解である。

フォード抜き去りの大戦略

スローンのディーラー訪間は、単にゼネラルモータースに関するものだけではなく、当然のこととして、フォードに関する情報も多かった。

ディーラーやコンシューマーの日からでるフォード批判のなかには、フォードの一車種主義に対するものもあったのである。それは、何であったか。フォード車の性能には不満はないが、スタイルに対する不満は多かった。

T型車誕生以来、ただの一度もモデルチェンジなし、黒一色の車体に対する、「もう同じスタイル、黒一色では、アキアキしてきた。少しは目先の変わったスタイルや色あいの車を出さないものか」というものであった。

フォードは、自動車作りは天才だが、お客様の心理にはまったく関心を払わなかったのである。

「どんな車でも作るさ。それが黒である限り…」というのが、フォードの考えだったからだ。フォードは、単一モデル、単一色の車以外には考えなかった。

それがお客様の要望を無視し、長年にわたる「モデルチェンジなし」となっていたのである。お客様の要望を無視するという致命的な誤りを冒していたのである。スローンは、この点を見逃さなかった。戦いは、敵の弱点をつくのが最も効果的である。

スローンの打ちだした戦略は、次のようなものだった。

① ニューモデルを次々に発売して、フォードのT型を心理的に陳腐化する

② ①の戦略から必然的に発生する中古車の市場を再編成する

かつては厄介視された中古車市場は、新たな戦略推進の不可欠な市場に変貌したのである。右の戦略は、現在にいたっても業界の主流を占める基本戦略ではないか。

突然ともいえる壮大な戦略は着々と効を奏し、ついに不可能と思われる占有率大逆転に成功したのである。そして、その優位は、今もって崩れることはないのだ。

ランチェスターの戦いの法則も、フォードが裸足で逃げだす大奇跡も、もしもスローンの十年にもわたる自らのディーラー訪間がなければ、絶対に起こらなかったであろう。

この事は、社長の真の定位置は社長室ではなく、「お客様のところ」であることを雄弁に物語っているのである。

日本中の多くの社長の大部分は、このことをまったく知らないのである。事業経営において、これ以上の大錯誤はないのだ。

事業の経営は、お客様の要求を満たすことによってのみ可能なことを考える時に、お客様訪間を忘れるとは何とも不可思議な現象である。この大錯誤の原因は、どこにあったのか。

それは、テーラーの″科学的管理法クや、ギルブレスのク動作研究ク、メイョーのクホーソン効果″といわれる人間関係論などの内部管理論を、″経営クと思い違いしてしまったところにある。

事業とは、ク市場活動´であり、それは、お客様の要求を満たす活動である。内部管理は大切ではあっても、あくまでお客様の要求を満たし、事業の繁栄に寄与するものでなければ

ならない。ところが、それを忘れて内部管理それ自体を大切にして、お客様を忘れている会社があまりにも多すぎるのである。

この点の反省がなければ、会社はつぶれてしまうことを知らなければならない。フォードがこの典型である。生産能率のみを重視して画一的な車を作り続けて、お客様の要求を無視したためにゼネラルモータースに敗れてしまったのである。

そのフォードでも、後にゼネラルモータースから移って来たリー・アイアコッカによって、″マスタングクが開発され、これが大ヒットした。

これは、アイアコッカが太平洋戦争後のベビー・ブームの新聞記事を見て、 一九六〇年代の中頃には、それらの若者が自動車業界になだれ込んでくるのを知り、それらの若者の要求に焦点を合わせた自動車だったからである。

アサヒビールの蘇生

戦後間もなく、独占禁止法によって、大日本ビールは二つに分割され、アサヒビールとサッポロビールになった。

この分割の時に、両社の社長は戦略を誤ったのではないか、というのが私の見解である。

サッポロビールは東日本、アサヒビールは西日本と日本を三分したテリトリーとしたことである。

当時は限界生産者であったキリンビールは、全国をテリトリーとするという有利な立場に、ク棚ボタ式″でなったのである。大日本ビールに押え込まれていたために苦境にあったキリンビールは、だんぜん有利な立場になった。企業の力は企業規模の二乗に比例するのが市場原理だからである。

サッポロとアサヒは、二つに分割されたために、それまでの大日本ビールを「一〇〇」とした時に、それぞれテリトリーは「半分」に、力は「四分の一」になってしまったのだ。キリンビールは、まさにク天佑クに恵まれたのである。しかも、キリンは、売上高こそまだサッポロやアサヒには及ばなかったが、全国に自由な販売活動を展開できるのに、サッポロとアサヒはキリンの半分のテリトリーでしか活動できないのである。占有率の大きさの差は、テリトリーが半分になったために、帳消しになってしまった。このテリトリーの差は、そのままキリンを有利な立場に立たせて、急速に売上げを伸ばし、ついには六〇%の占有率を手に入れてしまったのである。

アサヒビール再建のために、住友銀行より樋口社長が派遣された時には、アサヒの占有率は九・六%という完全な限界生産者にまで落ちこんでしまっていたのである。当時の村井会長の言をかりれば、「ナイアガラ瀑布から落ちるような占有率の低下」だったのである。

低下の原因は、天動説であることは想像できる。長年の「苦労なしの販売」が、会社の活力を奪ってしまっていたのである。世の中は我社を中心として回っているのだから、客は我社の製品を買うにきまっている、というわけである。そして、当時流行した″CIクに力を入れていたのである。

新任の樋口社長は、社内の意見などきかず、CIなんか問題にしなかった。樋口社長がきいたのは、お客様の声だったのである。

五千人のお客様の意見は、「こんなまずいビールなんかのめるか」だった。CIの効果などゼロに等しかったのだ。

アサヒビールの人たちは、お客様の意見など聞かずに、CIに期待をかけ、天下に冠たるク原価管理クのほうが大切だったのである。

樋口社長は、そんなことはまったく問題にせずに、お客様のお叱りを素直に聞いて、クおいしいビールクをつくることに懸命だった。

試作のビールは、樋口社長自身で数十回もの試飲を行ったのである。そして、ついにうまいビールをつくることに成功した。

しかし、これを売り出さずに、お客様に試飲していただいた。そして、お客様の「よし」の声をきいて、はじめて発売したのである。スーパードライの誕生である。キャッチフレーズは、「コクがあるのにキレがある」だった。このキャッチフレーズは社内で考えたものではなく、お客様の声から生まれたものである。

さきに、お客様の声を伺った時にクコククがない、″キレクがない、というお叱りを受けていたからである。

社内の声など聞く必要はまったくない。お客様の意見だけを聞いていればよいのだ。お客様の試飲会は好評だった。それに力を得て、いよいよアサヒの大キャンペーンの展開であるc

その前に、膨大な流通在庫を完全に廃棄したのである。それは、樋口社長の英断で、「古いビールと新しいビールの混在は許されない」というのである。

キャンペーンは、キャラバン隊による全国縦断イベント、アサヒマン総出の一万軒目標の店頭試飲会、クフォー・リブ・ピープル・キャンペーンクの展開など、樋口新体制のもとに全社一丸となっての大進撃が始まったのである。

広告も一変した。それは、多くの広告が、オドヶ、ヒネリ、オチなど、キャンペーンではなくて、広告それ自体の、というよりは作者自身の趣味に堕して、広告の本旨を忘れてしまっているなかで、真面目で奇をてらわないものだった。

全社をあげての火の玉のような大奮闘は、売上げを急増させて、ク奇跡クといわれるほどになったのである。

その本当の意味での原動力は、樋口社長の徹底したお客様訪間にあったのだ。「社長があれだけの努力をしているのだから、私たちも頑張らなければ社長に申し訳ない」ということである。

社長の努力というのは、徹底したお客様訪間である。昼はお客様へのご挨拶やお礼回り、夜は社長室からディーラー(酒問屋) の社長に電話する。

電話を受けた酒問屋の社長は、ビックリ仰天し、「本当に樋口社長さんですか」と念を押す。本当と分かった瞬間に、その人は樋口社長の熱烈なファンになってしまうのである。私の親友の一人に、あるビジネスホテルの社長がいる。T氏である。

そのT氏のところに、樋口社長から、ホテルでアサヒビールを採用したことに対するお礼の電話が入った。そして、樋口社長自らがお礼に行きたい、とのことであった。

T氏はビックリしてしまった。アサヒビールを採用したという、そんな小さなことに社長自らお礼に参上したい、というのだ。T氏が樋ロファンの一人になったのは、いうまでも約束の日の、約束の時刻に、樋口社長はT氏のホテルの玄関先に現われた。

後で分かったことだが、樋口社長は前日に車の運転手にホテルの場所を確認させ、その上、付近の喫茶店をしらべさせたという。約束の時刻まで、そこで待機するためだという。これが定刻にホテルに姿を見せた秘密だった。

意気投合したお二人は、それ以来、 一カ月に一日、短時間だけだが会う約束までできたのであるc

T氏は後日、私に、「あの日の玄関先でのご挨拶で、樋口社長に、とんでもない非礼をはたらいてしまった」と言うのである。

その、とんだ事というのは、玄関先での初対面の挨拶時に、社員が横から撮った写真に写っ一樋口社長は九十度腰を折っているのに、こちらの方は、社長の私も役員も、四十五度しか腰を折っていないのですよ。こんな恥かしいことはないのだが、証拠写真があるのだからどうにもならない」というのが、T社長なのである。樋口社長の回ぐせは次のようなことだった。

「私の考えていることは、売上高を多くすることではない。占有率を高めることでもない。利益を増大させることでもない。『どうやったらお客様の満足を得られるか』ということだけです」と。

お客様を社長自ら訪問し、お客様の国からご要望事項をお聞きし、我社のいたらぬこと、間違っていることを叱っていただく― ‐これこそ、事業経営の最重要事項であり、最良の情報であることを、樋口社長は熟知していたのである。会社の最重要事項だからこそ社長自らこれを実行している、ということなのである。

そして、これ以上大切なことはないのである。何とも当り前のことが当り前ではなくなっているのが、多くの事業経営者の最大の誤りであり、社長の怠慢これに過ぎるものはないのである。

企業戦争の盲点

何が何でも生き残らなければならない企業の、赤裸々な実態のごく一部が以下にある。あらん限りの力をふり絞り、秘策を駆使して敵に勝たなければ、こちらがつぶされてしまうのだ。

読者諸兄の会社が、いつ、このような戦いに打ちのめされて、つぶれてしまうか分からないのだ。いかなることがあっても、我社をつぶしてはならないのである。

マンホールボックス騒動

K社長から、「重要な相談があるから、次回のコンサルティングには間違いなく来ていただきたい」との念押しのハガキが届いた。

約束の日にお伺いすると、社長と専務が深刻な顔で出迎えてくれた。相談というのは、次の通りであった。K社は、鋳物のマンホールボックスを主製品としていた。その主製品に夕一大事出来クである。

「同業のある小さな会社が、自動鋳造機を新たに設置し、大増産を行うとともに、市価の四〇%引きで発売したのだが、うちには、そんな価格では競争などできない。このままでは、会社はつぶれてしまう」というのである。「いったい、どうしたらいいのか」と、ブルブル震えんばかりの有様だった。

様子をきいてみると、同業は主なもので十四社あり、どこでもこれの対策に困っているという。何としても四〇%安では、どうにもならないというのである。

私は、「まあ落ちつきなさい。いったい、その会社の今までの占有率は何%なのか」と聞いてみると、「小さな会社なので一%だ」という。「では、その新鋭機で、従来の何倍くらいの能力があるのか」と聞いてみると、「従来の倍である」という。つまり、総生産能力がシェアで二%である。

私は拍子ぬけしてしまった。

天地がひっくりかえったような大あわてぶりだが、ねずみ一匹出たよりも小さなことではここに、日本の中小企業の大弱点がある。事態を判断する能力が、足りないのである。ただ、市価の四〇%安ということだけで、あわてふためいて、ただ震えているだけで、何もできないのである。

私は、社長と専務に、「心配など何もする必要はない。いままでの占有率が一%で、それが一%増の二%になっただけの話だ。増加分はたったの一%しかないではないか」と言ってやった。

私に指摘されて、はじめて、事態がのみこめたのである。それで、「ああ、よかった」と、社長は安堵の胸をなでおろしたのである。

私が、「社長、まだ安心するのは早いですよ」と言うと、「どういうことですか」と、ギクッとしたらしい。

私は、「天下の大勢は変わりないけれども、流通業者が、この四〇%を使って、値引き要求をしてきますよ。その時どうしますか」と聞いたところ、返答なし、また少々不安になったらしい。「そんなこと、丁重に断わればいいでしょう」……これは、私の返答。

やれやれ、これで一息いれようかと思っていたら、とんでもないことが持ち上がってしまったのである。

ナンバーワンの会社が、四〇%安におびえてしまい、 一五%の値下げをしてしまったのである。これこそ一大事である。放っておくわけにはいかない。ナンバ12、ナンバ13の会社と、全業者が次々と二〇%〜三〇%の値下げをしてしまった。

この業界には、こんなことさえも正しく対応できない会社ばかりなのか、とちょっとさび日本の中小企業では、職人ばかりが経営をしている職人会社が多い。事態が少しでも変わると、それに対する正しい対応がまったくできないということを、私は多くの会社の実例から知っているのである。

これは国内だけの問題だったからいいとして、外国に対してはそうはいかないで、相手にしてやられてしまう危険が非常に多いのである。

中小企業の社長さん方よ、ボーダレスの時代に、不必要なトラブルがやたらに起こらないように、勉強をしていただきたいのである。

外国人に対しては、日本の常識は通用しないのだ。世界の常識を知っておいていただきたいのである。

プロバン・ダンピング

E社の社長から、強引にゴルフを誘われた。「ハハア、何か相談があるな」と感じたが、好きなゴルフということで、 一日ゴルフを楽しんだ。早目の夕食の時に、やはり相談をもちかけられた。それは、次のようなことだった。

「つい先頃、某プロバン業者が、スポンサーから資金を借りて、だれに押しっけられたかは知らないが、今までにないような大きな詰替所を建設し、猛烈なダンピングで大あばれしている。そのために、すでに数社が廃業のやむなきにいたっている。あと数力月後には、我社も被害を受けることは間違いない。どうしたらいいか」という相談である。

付近の業者は力を合わせて防戦しているが、何しろ、ベラボーな安値なので対抗がむずかしい。防戦側の業者は、毎日交替で、朝の詰替所の門外に待ちぶせて、敵の配送車が出て来ると、これを尾行しているが、敵はこれを振り切ろうと、猛烈なスピードで逃げるという。まるで映画のシーンのようだ。

ある時、尾行を行っていたら、敵は大通りを離れて、山の中に入っていった。そんなところにプロパンエ場などないのにである。

不思議に思いながら尾行をしていったところ、森の中に入って、しばらく行ったところで停車した。何かなと思っていたら、待ち伏せしていた敵に退路を断たれ、あわや血の雨というきわどいこともあったという。

私は社長に、「そんなことをしても、どうにもならないじゃないか。乱闘騒ぎにならないうちにやめたほうがよい」と申しあげたのだが、外になす術がないので、ムダと知りつつ続けているというのである。だから、私にいい案があったら教えてくれというのである。私は笑っていて取りあわない。

そして、「あなたは社長じゃないか。事業の経営では、どんな敵が、どんなことを仕掛けてくるか分かったものではない。そうしたことに対応できてこそ社長なのだ。浪花節ではないが、『何が何して何とやら』、そんなに難しい問題ではないのだから、自分で考えなさい。二日後に東京で私の定期ゼミの時に教えてあげるから、私の言を待たずに解決してこそ名社長だ」

E社長は、「先生は人が悪い。そんなにジラさなくてもいいでしょう」

私は、「ダメダメ、自分で考えなさい。二日後にネタは明かすから、それまでにあなたの会社はつぶれないから心配しなくてよい」

二日後、私の定期ゼミに出席した社長は、さっそく私に解決策の催促である。解決策とは、次のようなものだった。

「敵の発行した書類で、見積書でも納品書でも受領証でもチラシでも、そこに社名とプロパンの価格の書いてあるものなら何でもよいから、そいつを一枚手に入れられないか」と聞いてみたら、「それくらいのものなら、それほど難しくはない」というご返事である。

私は、「その書類のコピーを百枚か三百枚か知らないが、敵の古くからのお得意先、工場でも個人でもかまわないから、郵便受けに投げ込む。これで終り」と、言ってやった。

E社長は、「アッそうか、僕の会社におきかえて考えたらよく分かる。新規参入するには、敵の会社が古いお客様に提供していた価格よりも安いことは分かりきっている。それを見た我社のお客様が、私の会社に抗議を申し入れたら一言もありませんね。分かりました。ありがとうございました」

それから二、三日すると、電話があり、「先生、こちらで反撃の準備中に、向こうでダンピングをやめてしまいましたよ」と、これで万事解決であった。

二〇%ディスカウントをされて

S社は、強カホースメーカーであった。業績はきわめてよく、急成長をしていた。業界は大手数社、中堅三社であった。ある年、中堅三社がS社の急成長に脅威を感じ、共同してS社を葬ろうとした。今やらなければ将来に禍をおよぼすという読みだった。そして、S社のヒット商品二種と外見上よく似たイミテーションを作り、価格はS社より二〇%安である。

中堅三社が共同しての力は、S社にとっては大きな脅威であった。二〇%安というのはS社をつぶしかねないと思われる価格であった。S社長は、私に相談をかけてきた。いろいろ調べてみたが、S社の商品のほうが強力である点が頼みの綱である。このまま価格を下げずに頑張るのか、価格を下げるべきか、という決断をせまられていた。

私は、「三割高でやれるだけやってみる。結果はどうなるかは分からないが、売上げが下がれば、その時点で値下げを検討することにして、現在の価格で頑張る」という決定をした。いままでにも増して、S社長のお得意先訪間は多くなった。ライバルより二割も高いにもかかわらず、売上げは落ちなかった。

反対に、イミテーションは売上げが下がりはじめた。特にそのうちの一社は値下がりが大幅で、ついに生産中止をしてしまった。残った一社も、毒気をぬかれたようになって、ついに生産中止をしてしまったのである。後で調べて分かったのは、イミテーションは品質が悪く、エンドユーザーが買わなくなってしまったのである。ついにS社は勝ったのである。戦いに勝って晴々とした顔で、ディーラーに対するお礼参りをしていた社長に、思いがけない素晴らしいニュースが入った。

どこのディーラーでも、S社長をほめると同時に、お礼の言葉があった。それは、「よく頑張ってくれた。いつ値下げをするかと不安だったが、ついに一文の値引きもしなかったのには、我々は敬意を表する。お陰で、こちらも値下げによる収益減がなかった」というのである。これこそ流通業者の本音だったのである。これを契機として、S社と流通業者との間は一段と親密度が濃くなったのである。

防虫網合戦

F社は、サッシの防虫綱の専門メーカーだった。F社の防虫網は、すべてのサッシに取付け可能な万能型だった。大手のサッシは、すべて自社製サッシ専用のため、問屋ではすべての型のサッシを用意しておかなくてはならなかった。 一方、F社のサッシが一種類あれば、すべてのタイプに使え、業者のニーズに合っていたために、F社は小企業でありながら大企業と堂々と戦うことができるのだった。

私の指導により、文鎮型組織(五二三頁以下参照)に替えて会社を活性化し、販売にはランチェスター戦略(第七章参照)を採用して、F社は小企業でありながらシェアを徐々に高め、業績も確実に向上しっつあった。

ところが、ある一流の建材メーカーのB社が、F社の本命である防虫網と同じものを、市価の二〇%安で市場参入してきた。どうも、F社を乗っ取るか倒産させてしまうのが狙いのように思われたのである。ぐずぐずしていたら大変なことになってしまう。こちらは網戸しかないのだ。単品経営の危険を、社長に警告したばかりなのに、あまりにも早く危険が襲ってきてしまったのである。このピンチを、どのようにして切りぬけるか、といってみたって、サッシしかないのだから、これを助けるしか外に道はないのだった。

こういう場合には、敵の弱点を衝くのが最良なのだが、敵の営業報告書を見ても、業績は素晴らしく、弱点など見つけることはできなかった。

そこで、取扱商品を調べてみた。ドル箱商品は、素晴らしいというよりは超高収益商品で、しかも季節変動もない。年間を通じて安定売上げを確保していた。しかも、これの競合商品もなければメーカーもない。おまけに、オール外注品である。そのために、製造設備も人員も一切不要である。

これ程の決定的な有利さというのは、めったにあるものではない。これがこの会社の超高収益を支えているのだ。弱点どころか、強味ばかりである。どこも弱味がない。私はこの時にヒラめいた。「強味こそ最大の弱点である」と。そこで、このドル箱商品を調べてみた。

まず第一に分かったのは、「パテントはない」ということ。次に、現物を調べたところ、「製品の価格は安い」ということが、手にとってみただけで分かった。この二つで十分である。私の戦略はきまった。さっそく作戦開始である。社長にこの戦略を説明し、社長もオーケーである。

まず第一に、東京都の代表的な五〜六社の建材問屋を選び、この会社にF社が試作したB社のドル箱商品と同じ現物見本二、三本と、差出人を明示した手紙、ならびに、その商品の上代(小売価格)と下代(問屋の仕入価格)を記入したものを送る。この価格は、むろん下代は、間屋に大幅に有利な価格とする。

手紙の中には、選定した五、六社の問屋の名簿を入れておく。こうすると、何が起こるだろうか。当然、間屋どうしの打合せと、そこで決まった新たな希望下代を、B社に送る― と、こうなる。そして、事実その通りだった。

四、五日のうちに、敵は市場に出していたサッシの網戸をすべて引き上げてしまった。まことに水際立った処置である。そして、こちらでは、B社のコピー商品を問屋には、理由をつけて送らなかった。これで、こちらの意図を、B社では了解したのである。

先方では、今回のことについて、F社には誰かブレーンがいると感づいたに違いない。敵もさるものである。

F社長は、「向こうが引っ込んだのだから、こちらの商品を売りたい」と言う。収益性が非常によいからだ。

私は、「そんなことをしたら大変なことになる。先方の最も痛いところを衝くわけだから、今度こそ本当に怒って網戸を売って、あなたの会社をつぶそうとするでしょう。向こうにはそれだけの力は十分にあるのだから、こちらがメチャメチャにやられる危険がある。深追いは危険だから、それは、やめたほうがよい。向こうは、恐らくは三度とあなたの会社を刺戟するようなことはしないでしょう。これで、両方安泰ということになるのである」と、教えてやった。事実、これで、 一段落であった。

これの絵ときをすると、敵はF社の作戦を「ヨシ」として了解したのである。誰か参謀がいるのだ、と気づいたのだ。F社では、見本だけは間屋に送ったが、それでやめてしまっていたからである。

F社とすれば、呪みをきかせていればよい。普通の会社だったら、安価な商品を問屋に売って、相手を怒らせ、相手も網戸を売って泥試合になっていたであろう。

四、我社の事業を定義づける

自分で値段をきめられる事業をしたい

K社は、ビルの塗装業であった。得意先は、ゼネコンと官公庁である。ゼネコンは仕事はあるが、工賃が安く、官公庁は値段はゼネコンよりよいが、仕事が順番待ちである。

これらの仕事をいくら続けても、会社が発展する可能性はない。まったく楽しみのない仕事である。何とかこのような事態から抜け出したい、というのが社長のお話しであった。では、どんな仕事をしたいのか、何か目当てがあるのかを聞いてみると、日当てはないが、どんな仕事でもよい、「自分で値段のきめられる仕事」がしたい、というのである。この願いこそ、小企業経営者すべての願望である。

この願望は、ゼイタクさえいわなければ意外なほど実現が容易である。K社の人員がやや多いので、この人員を生かし、さらに、塗装技術を生かせるものなら、なおいい。いままで、いろいろな仕事をしてきているはずなので、それを洗ってみるのが第一だと思い、この一、二年の間にどんな仕事をしたのか、施工の記録を見せてもらうことにした。持ってきた施工記録をパラパラとめくっているうちに、ふと目にとまった記録があった。

それは、マンションビルの塗りかえであった。三年ほど前のものだった。この仕事は、ゼネコンでも官公庁からのものでもなかったc

私は、「いままで、あなたの会社で塗りかえのキャンペーンをやったことがあるかどうか」を聞いてみると、「そんなことはない」との返答である。

この返答を聞いた私は、ピーンとくるものがあった。こちらから呼びかけたものでないとすると、先方から飛び込んできたものである。とすると、これは″シンデレラクの条件を満たしているからである。

クシンデレラクというのは、こちらから呼びかけて注文をもらった仕事ではなく、先方で何かやってもらいたい仕事があり、施工先を探して、そこに声をかけてくる仕事― うまり、「先方からの飛び込み仕事」のことである。

余程でない限り、そんなことはないから、これはお客様にとっては大切な仕事である。シンデレラというものは、需要があっても、これを満たしてくれるところがなかなか見つからないものである。こういう仕事は、この注文主だけでなく、同様の要求が満たされないでいるお客様が意外なほど多いということなのである。

考えてみると、ビルなんてものは、マンションだけではない。日本中には何十万棟もあり、それがすべて塗りかえ需要をもっているのだから、膨大なマーケットである。それなのに、塗りかえをやってくれる会社を探すとは……ということである。日本人という人種は、新品には飛びつくのだが、メンテナンスや補修にはあまり喜ばない人種である。これがお客様に迷惑をおかけすることになるのである。

ビルのメンテナンスは、隠れた需要をもった膨大なマーケットなのだ。しかも、値段は自分でつけられるのである。

K社は、いままでの仕事の関係上、塗装以外に、建築関係の仕事をする会社全部を知っているという大きな強味をもっている。その有利性を生かしたら、そこには大きな可能性がある有望なマーケットなのである。

このことをK社長に申しあげると、大喜びであった。しかも、今の仕事を続けながらでもできるのであるから、これ以上はないというほどの素晴らしさである。

ここまで話が進めば、あとは楽である。そこで、さっそく基礎調査をおすすめした。それは、次の二つである。

① 現在の東京都に中型ビルが何棟くらいあるか

② 中型のビルやマンションの塗りかえは、何年に一回くらいあるのか、塗りかえ価格は

どのくらいかということである。

あとは、受注活動だけである。施工については、現在の仕事の延長線上にあるのだから、何もすることはないのである。

受注活動は、ク一倉式市場戦略活動´をすればよいのだし、K社長は何回も私の市場戦略のセミナーを聴いているので、何も心配はない。

セールス活動は、中年の女性を一名採用する。条件は、自家用車を持っていることだけである。自動車に関するすべての費用は会社持ちとした。

あとは、 一カ月一回の定期的な管理人事務所へのご挨拶だけである。東京都の当時の中型ビルは二万棟であり、十年に一回の塗りかえとすると、年二千棟のマーケットである。その一%を受注しても、年二十棟である。これで、何棟受注したら会社はやっていけるかが分かる。

一方、 一カ月一回の定期訪間で、 一年では十二回、十年で百二十回訪間となる。これだけの訪問回数だと、受注確率がかなり高いことは想像できる。

一人のセールスが週四日稼働で、 一日十棟訪問(表敬訪問だから一回五分あれば可能)、一回当り移動を含めて三十分とみると、十棟で五時間となる。これは、毎日のことであり、移動時の車の渋滞などもあろうから、一日七、八棟なら可能かもしれない。一日七棟とすると、百二十回は十七日となる。 一人一カ月で二棟弱という計算である。ごく簡単な確率計算ではあるが、およその見当はつく。セールスを二、二人にしたら、かなりの受注が見込めそうである。

右のような仮説をK社長に申し上げたら、社長も納得された。こうして、新たな事業が発足したのである。これで私のコンサルティングは一段落で、あとはフォローだけである。

私はK社長に、「仕事を始めたからといって、すぐに注文があるわけではないことはご存知でしょうが、それにしても一年から一年半は注文がないことを覚悟してください」と申しあげておいたのだ。

ところが、意外に早く、八カ月日に二棟注文があり、それから三カ月日にまた二棟の注文である。 一年半の原理が、八カ月の原理になったのである。いささか、ツキすぎの感があったが、社長は大喜びだった。この調子だと、この事業は当りである。やはり、クシンデレラクであったのだ。もう心配はなさそうである。私がついている必要はなくなったのである。社長も社員も、自分たちの努力が、新しい、しかも将来有望な仕事だとハッキリ感じとったからである。

それからは、二、三カ月に一回くらいゴルフコンペの時を利用して、社長にいろいろ様子をきく機会があった。

そして十年目の十二月、K社長より嬉しい便りがあった。ついに業界の大手四社の仲間入りができたというのである。私は、飛び上がらんばかりの嬉しさであった。これこそ、コンサルタント冥利である。これで、もうすぐ来る正月の酒は、 一段とうまいものになったのである。

それにしても、K社長をはじめ社員の方々はよく頑張ったと思う。下請時代の、まったく将来の分からなかった会社が、今や自分たちの努力で立派な会社になれるという、働く者の冥利を味わうことができるようになったからである。

我社の事業の定義づけ

K社のこの記述を終わらせる前に、もう一つ書き加えたい重要なことがある。それは、はじめての工事の時だった。最初のことではあり、K社長は毎日、施工現場に姿を見せた。ケガや手落ちがないように、社長自ら目を配るためである。K社長の責任感の強さと真面目さが、そうさせたのである。

すると、入居している家の奥様がK社長のところに来て、「社長さんですか」と聞く。「ハイ」と答えると、「実は、お願いがあるのですが」と言って、あちらこちらの修繕を頼まれる。すると、次々に他の奥様が修繕を頼みにくる。

真面目で親切な社長は、これらの頼みを心よく引き受けた。これが奥様方の信頼となって返ってくる。「こんな親切な会社はない」と、奥様方が大喜びであった。

この修繕で分かったことは、社長もビックリするほど多くの修繕個所があったということである。

この有様を知った社長は、建物の塗りかえだけでなく、修繕もしようと決意した。このことを、私に次のように語った。

「一倉さん、私は自らの事業を塗りかえと建物修繕の両方とすることを決心しました。そして、 一倉さんが言うところの、『我社の事業の定義づけ』をしました。それは、『建造物の総合メンテナンス業』ということにしました」と。

我社の事業の定義づけをしている会社は、不思議に立派な会社になってゆくのである。

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