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序章私の会計学の思想

◆まえがき今こそ求められる「経営のための会計学」日本の多くの経営者は一九八〇年代後半から始まるバブル経済の熱狂に踊らされ、過剰投資を繰り返した。そのバブル経済は当然のごとく崩壊し、一九九〇年代初頭よりデフレスパイラルが始まった。その結果、現在では金融業、建設業、不動産業等、あらゆる産業において、不良資産が増大し、日本の経済界は塗炭の苦しみの中であえいでいる。この間、経営者は何をしていたのだろうか。経営のあり方を見直し、抜本的な対策をとろうとしたのは少数であり、多くは不良資産を隠し、業績の悪化を繕うことに努めてきたのではないだろうか。そのため、日本の企業経営は、その不透明さゆえに国際的な信用を失い、多くの不祥事を生み出すことにもなったのである。もし、中小企業から大企業に至るまで経営に携わる者が、常に公明正大で透明な経営をしようと努めていたなら、また、企業経営の原点である「会計の原則」を正しく理解していたなら、バブル経済とその後の不況も、これほどまでにはならなかったはずである。私にはそう思えてならない。恐らく一九八〇年代初頭までの単純な右肩上がりの経済であれば、企業経営は前例に従うだけでよかっただろう。しかし、日本を取り巻く環境は大きく変わっている。日本経済は成熟化し、成長神話は崩れ去り、複雑なグローバル経済の中に組み込まれている。このような時代においては、経営者は、自社の経営の実態を正確に把握したうえで、的確な経営判断を下さなくてはならない。そのためには、会計原則、会計処理にも精通していることが前提となる。ところが日本では、それほど重要な会計というものが、経営者や経営幹部の方々から軽視されている。会計と言えば、事業をしていく過程で発生したお金やモノにまつわる伝票処理を行い、集計をする、後追いの仕事でしかないと考えているのである。また、中小、零細企業の経営者の中には、税理士や会計士に毎日の伝票を渡せば、必要な財務諸表はつくってもらえるのだから会計は知らなくてもいい、と思っている者もいる。経営者にとって必要なのは、結果として「いくら利益がでたか」、「いくら税金を払わなければならないのか」ということであり、会計の処理方法は専門家がわかっていればいいと思っているのである。さらに、会計の数字は自分の都合のいいように操作できる、と考えている経営者さえいる。

私は二十七歳の時に京セラを創業し、ゼロから経営を学んでいく過程で、会計は「現代経営の中枢」をなすものであると考えるようになった。企業を長期的に発展させるためには、企業活動の実態が正確に把握されなければならないことに気づいたのである。真剣に経営に取り組もうとするなら、経営に関する数字は、すべていかなる操作も加えられない経営の実態をあらわす唯一の真実を示すものでなければならない。損益計算書や貸借対照表のすべての科目とその細目の数字も、誰から見ても、ひとつの間違いもない完璧なもの、会社の実態を一〇〇パーセント正しくあらわすものでなければならない。なぜなら、これらの数字は、飛行機の操縦席にあるコックピットのメーターの数値に匹敵するものであり、経営者をして目標にまで正しく到達させるためのインジケーターの役割を果たさなくてはならないからである。このような考え方にもとづき、私は経理部に経営資料を作成してもらい、その数字をもとに経営してきた。その結果、京セラや第二電電もバブル経済に踊らされることなく堅実に発展を続けている。今振り返ってみると京セラ創業時、会計というものをまったく知らなかったため、それを自分で学び、「人間として正しいことを追求していく」という私自身の経営哲学をベースに「会計の原則」を確立できたことが、その要因であると思える。私は会計学の専門家ではない。しかし、自ら学び、つくりあげた会計学の原則が、現状に苦しみ、今何をしていいのか迷っている経営者やビジネスマンに少しでも参考になるのではないかと考え、今回それをまとめてみることにした。本書は、私の考える経営の要諦、原理原則を会計的視点から表現したものであり、少し過激な表現ではあるが、「会計がわからんで経営ができるか」という思いで出版させていただいた。それは、混迷する時代に、血を吐くような思いで叫んでいる、私の叱咤激励であることをどうかご理解いただきたい。本書が「経営のための会計学」を真摯に学ぼうとする多くの方々に読まれ、より素晴らしい経営をするための一助となることを心から期待している。なお、本書は当社の元経理部長(元監査役)、故・斎藤明夫氏が後進のためまとめたものをベースとしている。改めて斎藤明夫氏のご努力に対し心から感謝したい。最後に、出版するに当たってご協力頂いた日本経済新聞社出版局編集部の波多野美奈子氏、西林啓二氏、および現在の当社経営管理本部長・石田秀樹、関連会社育成本部副本部長・高橋幸男、秘書室長・大田嘉仁、経営研究課・木谷重幸に謝意を表すものである。

一九九八年九月稲盛和夫

◆文庫版の発刊にあたってバブル経済の崩壊から約十年、日本を覆っていた経済不況という暗雲にも、ようやく晴れ間が見えはじめた。「景気の底入れ」が実感として捉えられるようになった昨今、拙著『稲盛和夫の実学―経営と会計』を文庫本として発刊したいとの依頼を日本経済新聞社からいただき、まさに時宜を得た企画ではなかろうかと、よろこんでお受けした。何が日本のバブル経済を招いたのか、また、そのバブル経済崩壊後、何故、不況がこのように長引くことになったのか。私はいずれも、企業経営に携わる人間の「考え方」というものが、その大きな要因としてあったと考えている。その意味で、今世紀末における日本の経済不況とは、世の経営者たちに「経営者とはどのような考え方を持つべきなのか」とか「企業経営の原理原則とは何か」を厳しく、問うものであったと言えるのではないだろうか。『稲盛和夫の実学』は、日本経済が不況から脱しきれずにいた、一九九八年十月に初版が出版された。その内容は、もともと技術屋で、経営に関してはまったくの素人でしかなかった私が、京セラを経営するなかで、手探りで見出した経営の原理原則というものをまとめたものである。後に、多くの読者から、「我が意を得た」、「まったく同感だ」「目からうろこが落ちた」等々のお手紙をいただいた。また、経済界からも、直接、間接的に、多数の賛同をいただき、幸運にもビジネス書としては異例のベストセラーにもなった。今回発刊される文庫版は、価格も手頃で、気軽に携帯できることから、さらに多くの経営者、ビジネスマンの方々に、お読みいただき、日々の経営の参考にしていただければと、期待している。猛暑の日照りが続く京都伏見にて稲盛和夫

目次

◆まえがき今こそ求められる「経営のための会計学」◆文庫版の発刊にあたって序章私の会計学の思想1私の会計学はどのようにして生まれたか◆私の経営の原点と会計◆経理部長とのやりとりを通して生まれた私の会計学2私の会計学の基本的な考え方〈本質追究の原則〉◆原理原則に則って物事の本質を追究して、人間として何が正しいかで判断する◆減価償却と原理原則による判断◆常識に支配されない判断基準3私の会計学と経営◆売上を最大に、経費を最小に◆値決めは経営◆夜なきうどんと経営◆会計がわからなければ真の経営者になれない

第一部経営のための会計学 実践的基本原則

目次

序章私の会計学の思想

1私の会計学はどのようにして生まれたか◆私の経営の原点と会計支援してくださる方々のご好意により、京セラを設立したとき、まだ二十七歳の技術者であった私に経営の経験はなかった。それでも前に勤めていた会社で製品の開発から事業化までを担当していたので、新しい製品を開発すること、それを生産に移すこと、そして、それをマーケットで売ること、という三つのことについては何とかやれるだろうと考えていた。だが、「会計」については何も知らなかった。初めて貸借対照表というものを見て、右手には「資本金」というお金があり、左手には、現金・預金というお金がある。そこで「お金が二手に分かれて、両側にあるのだなあ」と思ったほどである。それほど、創業当時の私は会計についても、また経営についても知らなかった。そんな私にできることは、全身全霊をかけて仕事に打ち込むことだけだった。しかし、すべての事柄について部下たちは、経営を任されていた私に判断を仰いでくる。京セラは生まれたばかりの零細企業だったので、一つでも判断を間違えば会社はすぐに傾いてしまう。私は何を基準に判断すべきなのか、いかにして経営にあたるべきなのか、夜も寝られないほど思い悩んだ。もし、経営を進めていくうえで、理屈に合わなかったり、道徳に反することを行えば、経営は決してうまくいくはずがない。そうであれば経営の知識はないのだから、すべてのことを原理原則に照らし判断していこう、直面した一つ一つの問題について「そうだ、こうでなければならない」と心から納得できるやり方で道を切り開いていこう、と決心をした。こうして、原理原則、つまり、世間で言う筋の通る、人間として正しいことにもとづいて経営していこうと決めたのである。今振り返ってみると、それまで経営の常識とされるものに触れたことがなかったということが、かえって幸いしたのだろうと思う。経営のあらゆることについて、一から理解し、納得してから判断しようとしたので、経営とはいかにあるべきかという経営の本質をつねに考えるようになったのである。「会計」についても、まったく同じである。つねにその本質を考えるようにしていたの

で、自分が予想したものと実際の決算の数字とが食い違う場合、すぐに経理の担当者から詳しく説明をしてもらうようにした。私が知りたかったのは、会計や税務の教科書的な説明ではなく、会計の本質とそこに働く原理なのだが、経理の担当者からは、そのような答えを往々にして得ることができなかった。だから私は「会計的にはこのようになる」と言われても、「それはなぜか?」と納得できるまで質問を重ねていた。◆経理部長とのやりとりを通して生まれた私の会計学私の会計学にとって重要な役割を果たしたのは、京セラ創業後八年目に入社していただいた斎藤経理部長である。入社当時彼はすでに五十歳で、戦前に設立された歴史ある企業で豊かな経験を積んだ経理マンであった。それに対してこちらはようやく三十代半ばの技術屋経営者である。当時の京セラの規模はまだ小さく、彼の入社直前の一九六七年(昭和四十二年)三月期の売上は六億四千三百万円、税引後利益は一億二百万円であった。彼が入社したてのころ、私とよく意見が対立し、いつも激論となった。彼にとって私は経理の素人にすぎない。私が社長であるからといって、彼は容易に自分の信ずるところを譲らなかった。しかし、私は、疑問に思ったことはどんな小さなことでも、彼に遠慮なく質問をぶつけた。「なぜ、こんな伝票を使うのか?」、「経営の立場からはこうなるはずだが、なぜ、会計ではそうならないのか?」など、根ほり葉ほり『なぜ』を繰り返したのである。相手が「とにかく会計ではそういうことになっているんです」と音を上げても、「それでは答えにならない。経営者が知りたいことに答えられないような会計では意味がない」と納得がいくまで食い下がった。最初、彼は私のこのような質問に驚き、あきれていたことであろう。経理の専門家を自負する彼にとっては、考えられないような難問奇問の連続だったかもしれない。内心では素人の無理難題と受けとめていたに違いない。しかし、数年を経たころ、突然彼の態度は一変し、私の意見に真摯に耳を傾けてくれるようになった。私が「経営はいかにあるべきか」という立場から会計について発言することを深く受けとめ、これまで触れたことのなかったものの見方を進んでくみ取ろうとするようになったのである。あとで聞くと「社長の言っていることは、会計の本質を突いているのではないか」と気づいたという。彼は自分が得たものを、経理の他の者たちに何とか伝えようと、ことあるごとに勉強会を開いて教え始めた。彼はその後『京セラ経理規程』をまとめ上げたのだが、それは現在も京セラの経理に引き継がれている。この規程の冒頭には、私とのやりとりから彼が学び

とった経営のための会計の本質が「京セラフィロソフィの中から生まれた会計思想」として掲げられている。その後、彼は経理部長として、株式上場、米国での株式発行にあたるADRの発行などにたずさわり、京セラの急激な成長を経験することになる。このような中で、彼は私の良き受け手として京セラの会計システムをより精緻なものへと進化させていった。京セラは一九九八年三月期の連結売上で七千億円を超える企業に成長し、さらに連結売上一兆円企業をめざして事業展開を進めている。また、一九八五年に創業した第二電電は、すでに連結売上で一兆円を超えるまでに成長している。私はこの過程で遭遇したさまざまな会計や税務などの問題に対して、自分の経営哲学にもとづいて真正面から取り組んできた。具体的な事例を納得できるまで掘りさげて、会計・財務のあり方、会計管理のあるべき姿などについて、私なりに得心できる考え方を持つに至った。このようにして形成された会計学は、京セラ独自の経営管理システムである『アメーバ経営』とともに社内に浸透し、京セラ急成長の原動力の一つとなったのである。2私の会計学の基本的な考え方〈本質追究の原則〉ここでは私の経営学、会計学の原点にある基本的な考え方について説明したい。◆原理原則に則って物事の本質を追究して、人間として何が正しいかで判断する物事の判断にあたっては、つねにその本質にさかのぼること、そして人間としての基本的なモラル、良心にもとづいて何が正しいのかを基準として判断をすることがもっとも重要である。二十七歳で初めて会社経営というものに直面して以来、現在に至るまで、私はこのような考え方で経営を行ってきた。私が言う人間として正しいこととは、たとえば幼いころ、田舎の両親から「これはしてはならない」「これはしてもいい」と言われたことや、小学校や中学校の先生に教えられた「善いこと悪いこと」というようなきわめて素朴な倫理観にもとづいたものである。それは簡単に言えば、公平、公正、正義、努力、勇気、博愛、謙虚、誠実というような言葉で表現できるものである。経営の場において私はいわゆる戦略・戦術を考える前に、このように「人間として何が正しいのか」ということを判断のベースとしてまず考えるようにしているのである。何事においても、物事の本質にまでさかのぼろうとはせず、ただ常識とされていることにそのまま従えば、自分の責任で考えて判断する必要はなくなる。また、とりあえず人と

同じことをする方が何かとさしさわりもないであろう。たいして大きな問題でもないので、ことさら突っ込んで考える必要もないと思うかもしれない。しかし、このような考え方が経営者に少しでもあれば、私の言う原理原則による経営にはならない。どんな些細なことでも、原理原則にさかのぼって徹底して考える、それは大変な労力と苦しみをともなうかもしれない。しかし、誰から見ても普遍的に正しいことを判断基準にし続けることによって、初めて真の意味で筋の通った経営が可能となる。経営における重要な分野である会計の領域においてもまったく同じである。会計上常識とされている考え方や慣行をすぐにあてはめるのではなく、改めて何が本質であるのかを問い、会計の原理原則に立ち戻って判断しなければならない。そのため一般に認められている「適正な会計基準」をむやみに信じるのではなく、経営の立場から「なぜそうするのか」「何がその本質なのか」ということをとくに意識して私は問いかけるようにしてきた。◆減価償却と原理原則による判断会計の分野における原理原則に則った判断というものについて、固定資産の減価償却に用いられる耐用年数の例で考えてみたい。たとえば、経理の担当者に「機械を買うとなぜ減価償却が必要になるのか」と尋ねるとする。「機械というものは使っても形を変えずに残っている。原材料のように、使えば製品に姿を変えてなくなってしまうようなものとは違う。それゆえ、何年も動く機械を買ったのに一時にすべて費用として落としてしまうのはおかしい」「そうかと言って、さんざん使ったあげく、捨てるときに初めて費用に落とすというのも明らかに不合理である。その機械がきちんと動き、製品をつくることができる耐用年数を定めて、その期間にわたって費用に計上するのが正しい」という答えが返ってくるであろう。これは納得のいく話である。ところが経理の常識では、その耐用年数について、いわゆる「法定耐用年数」に従って償却することを考える。大蔵省の省令の一覧表にあてはめて償却年数を決めるのである。たとえば、その一覧表によるとセラミックの粉末を成型する設備は「陶磁器、粘土製品、耐火物などの製造設備」の項目に該当し、耐用年数は十二年と定められている。この規定に従えば、非常に硬度の高いセラミックの粉末を成型するため磨耗が激しい機械設備でも十二年で償却することになる。一方、磨耗がそれほど激しくない菓子製造用の砂糖やメリケン粉を練る機械は、「パン又は菓子類製造設備」の項目に該当し、耐用年数は九年

とセラミックより短くなっている。これは容易に納得できることではない。それぞれの機械が正常に機能する期間で費用に計上することが当然であるにもかかわらず、実際には「法定耐用年数」に無理矢理あてはめるという決め方をされて、経営者として平然としていられるだろうか。法定耐用年数というものは、「公平な課税」を重視する税法において、定められたものであり、個々の企業の状況の相違を認めないで「一律公平に」償却させるためのものである。私の経験ではセラミックの粉を四六時中練れば、機械の保守をきちんとして大切に使っても、せいぜい五、六年持たせるのが精一杯である。そうであれば、償却も実際に機械を正常に使える年数で行うべきであろう。しかし、経理・税務の専門家は、「決算処理上六年で償却したとしても、税法上は十二年で償却しなければならない。だから、もしそうすれば最初の六年は償却が増えて利益は減る。ところが、税金計算では法定耐用年数の十二年での償却となるので利益は減ってもその分の税金は減らないことになる。いわゆる税金を払って償却する有税償却になる」と言うであろう。また、「税務上の耐用年数が法令で定められており、みんながこれに従っているのに、わざわざ無理に異なったことをやるのは賢明ではない。実務的にも償却計算が二本立てになって煩雑になる」と主張するかもしれない。このような専門家の意見にたじろいで多くの経営者は「そのようなものか」と思ってしまうのではないだろうか。たとえ、実務上の常識がそうであったとしても経営や会計の原理原則に従えば、有税であっても償却すべきである。六年でダメになるものを十二年で償却したら、使えなくなっても償却を続けることになる。すなわち実際に使っている六年間は償却が過小計上されており、その分があとの六年へと先送りされていることになる。「発生している費用を計上せず当面の利益を増やす」というのは、経営の原則にも会計の原則にも反する。そんなことを毎年平然と続けているような会社に、将来などあるはずがない。「法定耐用年数」を使うという慣行に流され、償却とはいったい何であり、それは経営的な判断としてどうあるべきなのか、という本質的な問題が忘れられてしまっているのである。だから、京セラにおいては法定耐用年数によらず、設備の物理的、経済的寿命から判断して「自主耐用年数」を定めて償却を行うようにした。具体的には製造設備の耐用年数は四年から六年とおおむね税法で定められた年数の半分としているが、変化がとくに激しい通信機器関係の設備では、税法上十年となる耐用年数を大幅に短縮している。このように会計的にはいわゆる「有税償却」を実施し、税務上は税法で定められた耐用年数による償却計算を別途行っている。

◆常識に支配されない判断基準常識とされるものが人の心をいかに強く支配するかということを、私が若いころ実際に経験した例で説明したい。以前、「歩積み・両建て預金(ぶづみ・りょうだてよきん)」というものが一般的に行われていた。昭和三十四年の京セラ創業当時には銀行で手形を割り引くたびに、一定率の「歩積み」預金を行い、銀行に積み立てていくことが当然のことのように行われていた。銀行で受取手形を割り引いてもそれが不渡りになれば、銀行がリスクを負うわけではなく、当社がその不渡手形を抱えなければならない。しかし、なお銀行は当社が約定通り不渡手形を買い戻してくれるかが心配なので、その担保として「歩積み」をとるというわけである。これは「銀行のリスクヘッジのため」と一応の理解をしてみても、その歩積み預金は手形割引とともに積み上げるのみで、手形の割引残高を超えても歩積みから解放されない。社内で銀行の方から申し入れのあった歩積み率の引き上げが話題となった際に、私はむしろ歩積みそのものがどうしても納得できないと考えて会議でその旨発言した。しかし、経理を担当する者をはじめ周囲からは、歩積みをするのは常識であって、それをおかしいなどというのは非常識きわまりないと笑われて相手にもされなかったことがある。その後まもなく、このような歩積みや両建てという慣行は、銀行の実質収入を上げるための方便にすぎないと批判され、廃止された。これを見て私は、「いくら常識だといっても、道理から見ておかしいと思ったことは、必ず最後にはおかしいと世間でも認められるようになる」と自信を持った。また売上に対する販売費・一般管理費の割合にも常識と呼ばれる迷信がある。たとえば、ある業界で販売費・一般管理費が、売上の一五%はかかるということが常識となっているとする。販売組織や販売方法が、各社みな類似していることが背景にあろう。そこで、新しく参入してくる企業が、売上に対して販売費・一般管理費が一五%かかるという常識を前提にして経営すると、意図せず自然のうちに同業他社と横並びの経営になってしまう。これでは、「自社の製品をより効率的に販売するためには、一体どのような販売組織や販売方法をとるべきなのか」という重要な経営課題を根本的に考える機会を自ら放棄し、他社を模倣することになる。

それだけではない。たとえば「この業種でこの規模ならば売上高利益率は税引後で五、六パーセントである」という常識にとらわれてしまえば、どうしても結果として利益はその水準にとどまる。不思議なことに毎年賃金が上昇しても、その水準の利益は出せるが、それ以上の利益はどうしても出せなくなるのである。

これらの例はいわゆる常識というものに、あとで考えれば不思議なほど、簡単にとらわれてしまうものかをよく示していると思う。もちろん、私は常識とされていることをとにかく頭から否定すべきだと言っているのではない。問題は、本来限定的にしかあてはまらない「常識」を、まるでつねに成立するものと勘違いして鵜呑みにしてしまうことである。このような「常識」にとらわれず、本質を見極め正しい判断を積み重ねていくことが、絶えず変化する経営環境の中では必要なのである。以上述べてきたものは、私の思想の原点となる基本的な考え方である。それゆえ、経営においてもすべての考え方の根本となるものであり、会計の分野においても、もちろん貫かれなければならない思想である。3私の会計学と経営前節では私の会計学の基本となる考え方を説明した。会計というのは、あくまでも経営の一分野にほかならないのだが、ここでは、経営における重要な原則とその会計との関連性を明らかにしていきたい。◆売上を最大に、経費を最小に京セラを創業して間もなく、経理について何も知らなかったころ、私は「今月の決算はどうだったか」と経理の担当者に尋ねた。難しい言葉を並べて説明してくれるが、こちらは会計用語などよくわからない。利益といっても何種類もあって、それぞれに減ったり増えたりするという。難しそうな顔をしている担当者にいく度も質問を繰り返したあげく、「わかった。早く言えば売上から費用を引いた残りが利益だから、売上を最大にして、経費は最小にすればいいんだな。そうすればあなたが言ういろいろな種類の利益も、すべて問題なく増えるわけだ」と言った。それに対し経理担当者は「それはそうなんですけれど、簡単に言うことはできないんです」などと答えていたが、私はその瞬間に「売上を最大に、経費を最小に」ということが経営の原点であることを理解することができた。経営者は誰でも利益を追求するのだが、多くの経営者が売上を増加させようとすると当然経費も増えるものと思っている。これがいわゆる経営の常識なのである。しかし、「売上を最大に、経費を最小に」ということを経営の原点とするならば、売上を増やしていきながら、経費を増やすのではなく、経費は同じか、できれば減少させるべきだということになる。そういう経営がもっとも道理にかなっていることにそのとき私は気づいたのである。売上を増やしながら経費を減らすというのは、生半可なことでは達成できることではない。そのためには、智恵と創意工夫と努力が必要となる。利益とはその結果生まれるものでしかないのである。◆値決めは経営事業において、その収益源である売上を最大限に伸ばしていくためには、値段のつけ方が決め手となる。製品の値決めなど、営業担当の役員や部長に任せておけばいいと考える経営者もいるかもしれないが、私は「値決めは経営である」と思い、その重要性を訴えてきた。値決めはたんに売るため、注文を取るためという営業だけの問題ではなく、経営の死命を決する問題である。売り手にも買い手にも満足を与える値でなければならず、最終的には経営者が判断するべき、大変重要な仕事なのである。京セラは創業当時から電子機器メーカーに電子部品を納めていたが、電子部品の業界は新規参入も多く競争が激しいため、当時無名に近かった京セラに対して、いつも非常に厳しい値下げの要求があった。競合品があれば、天秤にかけられて、徹底的に値切られた。また、毎年毎年値段を下げられた。そうなってくると営業は、注文を取るために、いくらでも値段を下げていく。こんなことをしていたらどうにもならないので、私は「商売というのは、値段を安くすれば誰でも売れる。それでは経営はできない。お客さまが納得し、喜んで買ってくれる最大限の値段。それよりも低かったらいくらでも注文は取れるが、それ以上高ければ注文が逃げるという、このギリギリの一点で注文を取るようにしなければならない」ということを社内の営業部門に対して繰り返し強調した。顧客が喜んで買ってくれる最高の値段を見抜いて、その値段で売る。その値決めは経営と直結する重要な仕事であり、それを決定するのは経営者の仕事なのである。つまり、売上を最大にするには、単価と販売量の積を最大とすれば良い。利幅を多めにして少なく売って商売をするのか、利幅を抑えて大量に売って商売をするのか、値決めで経営は大きく変わってくるのである。値決めで失敗すれば、あとで取り返しがつかないこともある。あまりにも安い値段を設定してしまい、どんなに経費を削減しても採算を出せない場合もある。また、高い値段をつけすぎて、山のような在庫をかかえて資金繰りに行き詰まるケースもある。このように、経営において値決めは最終的に経営者自らが行わなければならないほど重

要な仕事なのである。個々の売値の設定を経営上の重大問題とする考え方は、京セラにおいて深く浸透しており、これが在庫評価の考え方、採算管理システムのあり方など、京セラの会計に大きな影響を与えている。◆夜なきうどんと経営売値の決め方に知恵を絞り、経費を最小とするよう努力していく例として、私は会社の幹部にしばしば「夜なきうどんの屋台を引く」という話をした。経営者を育てるためには、極論ではあるが、うどんの屋台を引っ張らせて街角でうどんを売らせるという方法が効果的な実習となるだろうと考えたからである。五万円なら五万円の元手を出して、「しばらく会社に出てこなくてもよろしい。屋台一式を貸すから、一カ月間毎晩、京都のどこかでうどんを売ること。この五万円を一カ月後、いくらにして持って帰ってくるのかが実績だ」と実地訓練に送り出す。まず一番に来るのは仕入の問題である。最初にうどん玉を買わなければならない。製麺所まで買いにいくという方法もあれば、スーパーで売っている生麺を買ってくる方法もある。固い干し麺を買ってきて、ゆがいて出すことも考えられる。次はだしである。いい味を出すためにはだしがポイントとなる。高い鰹節を買ってくる者もいれば、鰹節を削っているところで屑をもらってくる者もいるだろう。同じ美味しいだしを出すにしても、工夫によって全然違う。原価を安くしていかにいい味を出すかの創意工夫が必要となる。「かまぼこ」や「揚げ」や「ネギ」にしても、スーパーマーケットに行って買ってくる者もいれば、工場や農家から直接仕入れてくる者もいるだろう。このように材料の仕入れにしても、いろいろなやり方がある。そして、肝心なのが売値である。一杯三百円の「夜なきうどん」もあれば、五百円のものもある。安ければいくらでも売れるだろうが、利益を得ることはできない。お客さんを満足させて売れるベストの値段を探し出さなくてはならない。このようにうどんの屋台ひとつでも、いろんな選択肢がある。一晩に出てくる差はわずかでも、年間にすればものすごい差になってくる。だから、屋台から大きなフランチャイズ・チェーンに発展させる人もいるし、十何年屋台を引いて何も財産を残せない人もいる。いい商売、悪い商売があるのではなく、それを成功に導けるかどうかなのである。売上を最大にするように正しい値決めができれば、あとは「経費を最小に」を徹底して行っていけば良い。企業の会計は、この「売上を最大に、経費を最小に」という経営の原点を経営者が効率

よく追求できるようにしたものであり、しかもその成果を明瞭に表現しているものでなければならない。これが京セラの会計システムを貫く考え方である。この考え方は京セラの管理会計システムである「採算制度」において、端的な形で表現されている(この点については、後述の第一部第六章「採算の向上を支える」を参照のこと)。◆会計がわからなければ真の経営者になれないわれわれを取り巻く世界は、一見複雑に見えるが、本来原理原則にもとづいた「シンプル」なものが投影されて複雑に映し出されているものでしかない。これは企業経営でも同じである。会計の分野では、複雑そうに見える会社経営の実態を数字によってきわめて単純に表現することによって、その本当の姿を映し出そうとしている。もし、経営を飛行機の操縦に例えるならば、会計データは経営のコックピットにある計器盤にあらわれる数字に相当する。計器は経営者たる機長に、刻々と変わる機体の高度、速度、姿勢、方向を正確かつ即時に示すことができなくてはならない。そのような計器盤がなければ、今どこを飛んでいるのかわからないわけだから、まともな操縦などできるはずがない。だから、会計というものは、経営の結果をあとから追いかけるためだけのものであってはならない。いかに正確な決算処理がなされたとしても、遅すぎては何の手も打てなくなる。会計データは現在の経営状態をシンプルにまたリアルタイムで伝えるものでなければ、経営者にとっては何の意味もないのである。その証拠に急速に発展している中小企業が、突然、経営破綻を起こすことがある。会社の実態を即座に明確に伝える会計システムが整備されておらず、ドンブリ勘定となっているため経営判断を誤り、最終的に資金繰りに行き詰まってしまうのである。中小企業が健全に成長していくためには、経営の状態を一目瞭然に示し、かつ、経営者の意志を徹底できる会計システムを構築しなくてはならない。京セラが急速な事業展開ができたのは、そのような会計システムを、早いうちから整備し、それによって経営を進めることができたからである。そのためには、経営者自身がまず会計というものをよく理解しなければならない。計器盤に表示される数字の意味するところを手に取るように理解できるようにならなければ、本当の経営者とは言えない。経理が準備する決算書を見て、たとえば伸び悩む収益のうめき声や、やせた自己資本が泣いている声を聞きとれる経営者にならなければならないのである。京セラでは、まだ会社が小さかったころから、月次決算資料が部門別に出るようにしていた。私は会社にいるときも、出張に出かけるときも、細かい部門別になっているその資料にすぐに目を通すようにしていた。その部門の売上、経費の内容を見ていくと、ひとつの物語のようにその部門の実態がわかってくる。その部門の責任者の顔を思い浮かべながら、「こんなに無駄な費用を使っている」「材料代が売上に占める割合が大きすぎる」と経営上の問題がひとりでに浮かび上がってくる。このように注意深く月次決算書を見ていると、工場へ行き、問題のある現場を通りかかったときに、「ここは先月こうだったな」と思い起こし、どこが問題なのかを、即座に指摘することができる。その現場の責任者が注意をした通りに対策を打っていると、翌月の月次決算にすぐあらわれる。こうして会社全体の実績が良くなっていくのである。常識的には、月次決算書などの決算資料は、経理が一般的な形でつくるものかもしれない。しかし、それでは本当に経営者の役に立つものにはならない。経営者がまさに自分で会社を経営しようとするなら、そのために必要な会計資料を経営に役立つようなものにしなければならない。それができるようになるためにも、経営者自身が会計を十分よく理解し、決算書を経営の状況、問題点が浮き彫りとなるものにしなければならない。経営者が会計を十分理解し、日頃から経理を指導するくらい努力して初めて、経営者は真の経営を行うことができるのである。

第一部経営のための会計学実践的基本原則

第一部では、経営のための会計学を実践していくために必要な七つの基本原則を、「実践的基本原則」として説明したい。

 

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