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生きがいある人生のために

真実を知る人間は、ものの見方一つで、どんなことにも堪えることができる。どんなつらいことでも辛抱できる。のみならず、いやなことでも明るくすることができるし、つらいことでも楽しいものにすることができる。みな心持ち一つ、ものの見方一つである。同じ人間でも、鬼ともなれば仏ともなるのも、この心持ち一つにあると思う。そうとすれば、人生において、絶望することなど一つもないのではあるまいか。ただ、この、ものの見方を正しく持つためには、人間は真実を知らねばならないし、また真実を教えなければならない。つまり、ものごとの実相を知らねばならないのである。もちろん情愛は大切である。だがかわいそうとか、つらかろうとか考えて、情愛に流され真実をいわないのは、本当の情愛ではあるまい。不幸とは、実相を知らないことである。真実を知らないことである。人間はほんとうは偉大なものである。真実に直面すれば、かえって大悟徹底し、落ちついた心境になるものである。だからおたがいに、正しいものの見方を持つために、素直な心で、いつも真実を語り、真実を教え合いたいものである。

芋を洗うこのごろはあまり街中では見受けなくなったが、それでも、ときどき思わぬところで、昔懐かしい芋洗いの風景にぶつかることがある。大きな木桶に芋をいっぱい入れて、その桶の縁に上がりこんだ若者が二本の丸太棒でヨイショヨイショとかきまわす。その力に押されて、芋は上から下へ下から上へ、そして右に左にと移動して、大芋小芋とりどりの姿が、現われては消え、消えては現われてくる。上にあるものとても、いつまでも上にいるとはかぎらない。また下の芋も、いつまでも下積みでいるとはかぎらない。やがては上にあがってくる。下におりてくる。何だか人生の縮図みたいである。人の歩みには大なり小なり浮沈がつきまとう。上がりっ放しもなければ、下がりっ放しもない。上がり下がりのくりかえしのうちに、人は洗われみがかれてゆくのである。だから、たまたま上にいたとて、おごることはすこしもないし、下にいたとて悲観する必要もない。要は、いつも素直に、謙虚に、そして朗らかに希望をもって歩むことである。おごりの気持ちや悲観の心が出てきたとき、芋洗いの姿を思い出すのも、また何かの役にたつであろう。

年の瀬年の始めがあれば年の終わりがあるのはあたりまえで、だからいまさらになってバタバタあわてる必要もないのだが、やっぱり年の暮れになってみると、あれもこれもとウロウロする。一年三百六十五日の最後のしめくくりをつけておきたいと思うのであろう。人間、生まれたときがあれば死ぬときがあるのはあたりまえで、だから死が近づいたとていまさらあわてる必要もないのだが、さてとなると、やっぱりあれこれと気ぜわしくなる。年の瀬はむりやりにでも越せるが、生命の瀬はそんな具合にはゆかない。年の瀬は、これを越してしまえば年の始めがある。しかし生命の瀬はそれでおしまい。まことに融通のきかない話である。しかし融通がきかないからこそ、人はまた真剣にもなるのであって、融通無碍もいいが、融通のきかないことにもまた一得がある。人はさまざま。事はさまざま。いろいろと気苦労なことであるが、人生の最後には融通のきかない一線があることを知って、つねひごろから心がけをよくしたいもの。こんなことはわかりきったことだが、わかりきったことだけに、何度も自分に言い聞かせておきたいものである。

自分の非人間は神さまではないのだから、一点非のうちどころのない振舞などとうてい望めないことで、ときにあやまち、ときに失敗する。それはそれでいいのだが、大切なことは、いついかなるときでも、その自分の非を素直に自覚し、これにいつでも殉ずるだけの、強い覚悟を持っているということである。昔の武士がいさぎよかったというのも、自分の非をいたずらに抗弁することなく、非を非として認め、素直にわが身の出処進退をはかったからで、ここに、修業のできた一人前の人間としての立派さが、うかがえるのである。むつかしいといえばむつかしいことかもしれないが、それにしても、近ごろの人間はあまりにも脆すぎる。修練が足りないというのか、躾ができていないというのか、素直に自分の非を認めないどころか、逆に何かと抗弁をしたがる。そして出処進退を誤り、身のおきどころを失う。とどのつまりが自暴自棄になって、自分も傷つき他人も傷つけることになる。これでは繁栄も平和も幸福も望めるはずがない。自分の非を素直に認め、いつでもこれに殉ずる──この心がまえを、つねひごろからおたがいに充分に養っておきたいものである。

勤勉の徳天災地変をまつまでもなく、粒々辛苦の巨万の富も、事あらば一朝にして失われてしまうことがしばしばある。形あるものはいつかは滅びるにしても、まことにはかない姿であるといえよう。だがしかし、身についた技とか習性とかは、これは生あるかぎり失われはしない。たよりになるのは、やはり自分の身についた技、身についた習性。だから、何か一つでもいいから、よき技、よき習性を身につけたいものであるが、なかでもいわゆる勤勉の習性は、何にもまして尊いものに思われる。勤勉は喜びを生み、信用を生み、そして富を生む。人間のいわば一つの大事な徳である。徳であるかぎり、これを積むには不断の努力がいる。相撲に強くなるためには、不断に真剣なけいこを積まねばならないように、勤勉の習性を身につけるためには、まず日々を勤勉につとめる努力がいるのである。その努力が重なって勤勉の習性が身につき、その習性からはじめて徳が生まれてくる。おたがいに勤勉の徳を積みたいものである。

知恵の幅賢い人と愚かな人と、その間にはたいへんな差があるように思うけれど、もっと大きな自然の知恵から見たならば、それが人間であるかぎり、賢さにも愚かさにもおのずから限りがあるわけで、どんなに賢い人でも、神や仏ほどの知恵もなければ、どんなに愚かな人でも、ほんとうは犬猫に劣るというほどの人もいない。九十九パーセントまで、大自然から与えられ、大自然の恵みを受けているこの人間の身体である。心である。自分で自分が思うようになるのは、実はホンのわずかである。そのわずかな知恵の幅の中に、さまざまの人があり、さまざまの生き方がある。いささかの賢さを誇り、些少の愚かさを卑下してみても、何ほどのことがあるのであろう。それこそ所詮、稚気に類するというものではなかろうか。わずかな人間の知恵の幅である。賢さの中にも愚かさがあり、愚かさの中にも賢さがひそんでいる。小さな賢愚の中で、小さなおたがいの心を乱すまい。平々淡々、みずからの与えられた人生を、心しずかに歩みたいものである。

まねる徳川家康という人は、ずいぶんえらい人であった。人によっては好ききらいもあるかもしれないが、ともかくも天下を安定させ、三百年の治世の基礎をきずいた。どこかにすぐれたところがあったにちがいない。だからこそ、徳川家康ブームといわれるほどに、その小説が読まれ、愛好されたのである。しかし、家康がえらいからといって、そのままこれをまねようとするのは、これはいささか見当ちがいである。家康なればこそあの道が歩めたのである。たとえ家康以上の人物があったとしても、まねる心だけではおそらく道を誤るであろう。ものをおぼえることは、まねることから始まる。こどもの歩みを見てもよくわかる。しかしウリのつるにナスはならない。柿の種をまけば柿がなり、梅の木には梅の花が咲く。人もまたみなちがう。柿のごとく梅のごとく、人それぞれに、人それぞれの特質があるのである。大事なことは、自分のその特質を、はっきり自覚認識していることである。その自主性がほしい。まねることは、その上に立ってのことであろう。

心を高める禅の修業はなかなかきびしい。ちょっと身じろぎでもすれば、たちまちパンパンと警策がお見舞いする。痛いとも言えないし、苦しいとも言えない。きびしい戒律にとりかこまれて、箸の上げ下げすらも自由でないのである。自堕落になれた人間には、瞬時もがまんがならないであろう。しかしこのきびしい戒律も、回を重ね、時を経るに従って、それがしだいに苦痛でなくなってくる。戒律を戒律と思う間は苦痛である。しかし、その戒律がいつしか身につき、日常坐臥に自然のふるまいとなってあらわれる時、もはやそれは苦痛ではない。そして、このきびしさを苦痛と感じなくなったとき、そこからきたえぬかれた人間の美しさがにじみ出てくるのである。人間は本来偉大なものである。みごとなものである。しかしそのみごとさは、放っておいてはあらわれない。易きにつくのが人間の情であるとしても、易きがままの日々をくりかえすだけならば、そこにはただ、人間としての弱さが露呈されるだけであろう。おたがいに与えられた人間としての美しさをみがきあげるために、きびしさを苦痛と感じないまでに心を高めたいものである。

体験の上にここに非常な水泳の名人がいるとする。そしてこの名人から、いかにすれば水泳が上達するかという講義をきくとする。かりに三年間、休まず怠らず、微に入り細にわたって懇切ていねいに講義を受け、水泳の理を教えられ、泳ぎの心がけをきかされる。それでめでたく卒業のゆるしを得たとする。だがはたして、それだけで実際に直ちに泳ぎができるであろうか。いかに成績優秀な生徒でも、それだけですぐさま水に放りこまれたらどうなるか。たちまちブクブク疑いなし。講義をきくだけでは泳げないのである。やはり実際に、この身体を水につけねばならない。そして涙のこぼれるような不覚の水も飲まねばならない。ときには、死ぬほどの思いもしなければならないであろう。そうしてこそ水に浮けるし、泳ぎも身につく。体験の尊さはここにあるわけである。教えの手引きは、この体験の上に生かされて、はじめてその光を放つ。単に教えをきくだけで、何事もなしうるような錯覚をつつしみたいと思う。

わけ入ればわけ入れば思わぬ道があるというのは、何も野や山の道のことだけではない。いままで、これが一番よいと思っていたものが、やがてもっとよいものができてきて、だから前のものは古くなって、おたがいにさらにゆたかな生活を楽しむことができるようになる。こうしたことは、おたがいの日常の暮らしの上に刻々に見られることであるけれど、それはたとえ自分が考え出さなくとも、多くの人びとのなかの誰かが、もうこれでいいのだ、もうこれでおしまいだなどとあきらめないで、もっとよい方法があるはずだ、もっとよい考えがあるはずだ、という真剣な思いで真剣な努力を重ねてきているからである。長い人類の歴史は、時に曲折はあったとしても、こうしておおむね進歩発展の一路を辿ってきた。今後もまたかぎりなく発展してゆくにちがいない。人間は本当は偉大なものなのである。われわれもまた、この人間の歴史の一コマをになっている。だからこそ、どんなことにも、もうこれでいいのだ、もうこれでおしまいだ、などと安易に考えないで、わけ入れば思わぬ道もあるという思いで、日々ひたすらな歩みをすすめてゆきたいと思うのである。

私たちはおたがい日本の国民でありこの国のすすむべき道をみずから選び決定する主権者自身であることを忘れずにいたい日本はもちろん世界の繁栄のために必要なこと私たち国民の平和と幸福について大切なことをひとつひとつ丹念に正しく見きわめてゆこうこの国日本を働きがいのあるそして能率的な真の民主主義の国にするために──

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