事業の独立に際し、家賃がかからないようにと、自宅を事務所や工場にし、労働力も他人を雇うよりも安くあがるというので親兄弟を頼み、万事に節約をもって事を運ぶ人が多い。そうなると、確かに安く作ることも、安く売ることも可能であるが、そんなことで、本当に良い会社は築けない。立派な会社を創りたいなら、 一年以上そんなことを続けてはならない。一時のことにすべきである。
だいたい、安い値段の商品しか買わない顧客で固めてしまえば、値上げは不可能になり、いつまでも自宅で親兄弟と経営を行わぎるを得なくなる。家業ならともかく、本当の意味で、独立した会社を創業することはできなくなるからだ。甘えて事業をやるのは、 一年が制限時間である。
事業は、独立して採算に乗ることが、最初の大事な課題である。乗らないものは生きていけない。世間水準の家賃を払い、社員を雇用して世間水準以上の給料を払い、それで採算に乗らない会社は存続できない。いわば、 一個の生命体として力強く存続できるように努力することがスタートの大事な視点である。
「他に依頼する心は、家産を滅ぼす心である」と言うが、依頼心こそ事業家にとって最も不必要な心である。
依頼心が強く、いつまでも親の力や兄弟の力を借り、時には親会社の力を借りていたら独立はできない。そんな関係を長い問続けた結果、資本が親会社に移ってしまい、会社が大きくなるにつれて支配権を失う例を数多く見てきた。
残念の極みである。また、親兄弟の力を借りて自立しているように見えた会社が、親を失い、兄や弟の力を借りられないようになって、急に挫折することも多い。
最終的には、持つべきも頼るべきも自分自身の頭と手足であることを寸亀も忘れてはならない。独立不覇の精神が分からない人は、成功するものも成功できなくなる。
私は、若いころに雇われ社長を数社でやったが、依頼を受けた中身は、オーナーの人柄や度量によって、差がだいぶあった。
今、思うと、日本では資本主義の歴史も浅く、欧米に比べ、経験も乏しいというのが実感であった。
社長が病気したというので急に頼まれたり、業績が悪化したので再建のために入ったり、子会社を作ったり、上場を手伝ったり……ということで雇われ社長になった。しかし、なかには、金も無い、人もいないのに、二つ目の会社を作って支配したいからというので、新しい会社を立ち上げるように依頼されたこともあった。不愉快であった。
欧米では、資本主義の歴史が長い。その分、様々な進んだ思想、工夫、システムが存在している。その一つが、会社を所有することと経営することの分離である。つまり、会社の株主であるオーナーが何の不自然さもなく、経営者というプロの専門職に経営を委ねることが少なくない。プロ野球やプロサッカーのように、である。
日本の会社では、オーナー即経営者であり、未上場会社では、これが常識である。日本と欧米では、この点でだいぶ差がある。
今のところ、日本では会社の売買も少なく、株を上場しておきながら、株の買い占めは乗っ取りだと思われたりするほど、オーナーや会社に対する社員の忠誠心は強いし、オーナー社長の社員に対する依頼心も強い。しかし、これからは、欧米の考え方との差が急激に埋まってくる時代にさしかかっていることを忘れてはならない。いつまでも、依頼心だけでは安住できないのだ。
私が雇われ社長を辞めたのは、こういう日本のオーナー即経営者という、いわば、遅れた考え方のせいでもある。努力が報いられない。オーナーの理解度も低かったからだ。私の場合は幸運にも、こういう悶々とした二十四歳の時に、大谷米太郎さんに出会った。
「君は、自分の思う通りの会社を作りなさい。そのためには、まず、『種銭』を蓄えなさい」と、幾度もアドバイスをしてくれた。大谷さんは、「資本金」とも「資本」とも言わなかった。大谷重工の社長室であった。
大谷米太郎さんは、富山県の出身の事業家で、関取から身を起こした苦労人であった。腰を悪くして相撲を諦め、身体を利して馬車引きにでもなろうとしたが金がない。
そこで、リヤカーを買って自らが馬になって荷物を運んだことを話してくれた人である。坂の多い東京では、苦労も尋常一様ではなかったと思う。「種銭」はそういう話の中から出てきた大事なアドバイスであった。
やがて、大谷米太郎さんは、大谷重工を創り、星製薬、星薬科大学を創った。
私も、二十五歳で日本経営合理化協会を設立した。初代会長を引き受けてくれた船田中先生に、「自分が元気な時に財団法人か社団法人にしてはどうか」と、幾度も勧められた。私は、苦労は多いが、政府の援助は受けないことにした。
経営コンサルタント機関として諸々の会社の再建を行うに当たって、役所の力は余りにも無力なことが分かっていたので、 一時の安泰を望むよりは、 一生懸命、自分達だけでお客様に尽くすことにした。事
実、商品開発でも、販売促進でも、資金調達でも、天下って来た人には、現場は余りにも苛酷で難しかった。お客様に頭を下げること一つをとっても、役所の経験がマイナスに働くことが多い。
はじめは、信用も、金も、顧客もなかった私達が、信じて尽くし、勉強した結果、二十五年間生き続け、今では年間十一万を超える会社が、私達の団体の活動を利用されるようになった。慢心をしない。いかなることがあっても、お客様の会社が良くなること、そこに働く方々が豊かに幸福になるように信じて励むことを最優先にしている。
余談だが、大谷米太郎さんとは、その後、幾度も会った。ある時、白い大きな建物の模型を見させてもらったことがある。「これは何ですか」と尋ねると、
「ホテルですよ。これから東京オリンピックが開催されるが、東京にはホテルが少ない。不足しているので、紀尾井町の屋敷をホテルにしてくれと頼まれている。これは、その模型だ」と言うのである。
少し経営のことが分かるようになった私は、大先輩のことが心配になって、「ずいぶん金もかかるでしょう」「オリンピックの後はお客さんが減るでしょう」と、僣越にも聞いた。その時、大谷さんが言った言葉を今でも忘れない。
「もう後へは戻れない。やると決めたからには、五割の成算があればやる。後の五割は、何が何でもやり抜く」という覚悟であった。結果は、オリンピック後の昭和四十年不況が因となって、大谷さんはグループの核であった大谷重工を失い、星製薬を失ってしまった。
現在の五反田にある卸売センターは、星製薬。星薬科大学の跡地である。しばらくして、私は、日本経営合理化協会で開催する大きなセミナーを、恩返しの万分の一のつもりで、ホテルニューオータニで開催し続けたことがある。やがて、ホテルニューオータニの社長を退かぎるを得なくなった大谷米太郎さんの後に、ソ連の大使をやった門脇季光氏が就任した。大谷さんは相談役であったが、門脇さんは偉かった。門脇さんは長く社長を務めたが、退任する時に、大谷米太郎さんの息子である大谷米一氏に社長の座をバトンタッチしてくれたのだ。
しかし、大谷米太郎さんは、その時既に亡くなっていたので、息子の就任は知る由もない。門脇さんは、本当に偉かったと思う。
ともかく、他に頼って成功する例は実に少ない。所有と経営が分離していない日本では、殊の外むずかしい。
信じられる人を得たら、良く用い、報い、互いに人生を尊重し合い、腹を割って話し合うことが幸福を築く急所である。どちらか片方が損をする関係にならないことだ。
幾代も事業を続けていくためには、他人の登用は避けられない。特に、今後の世界の趨勢を考えた時に、システムや習慣や風土が変わることが予測される。これが片方の真実である。
もう一方の真実は、自分の子孫に独立不覇の精神を叩き込むことだ。この精神を幾代にもわたって伝えていくことこそ、いかなる時代でも生き残っていける事業家の思想である。
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