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状態を、たとえる

状態を、たとえる

広い、狭い広い土地がある。その広さを伝えたい。しかし相手をその場所に連れていくことはできず、写真を撮ることもできないとなると、言葉で伝えるしかない。伝えるにはたとえだ。この場合、たとえの作り方で説明した『似た形を探す』方法をとるのが手っ取り早い。同じくらいの面積のものを考え、たとえに利用する。体育館のように広い駐車場のように広いグラウンドのように広いこのようなたとえができる。ただこれではありきたりのたとえであるため、次に『よくある表現をアレンジする』を使う。バスケットボールコートが2面ある体育館のように広い地方のコンビニの駐車場のように広い強豪校のグラウンドのように広いオリジナリティとリアリティを兼ね備えたたとえの誕生だ。一方、狭い場合は『動物を使う』の出番だ。ここでは猫だ。『猫の額のように狭い』という言葉があるように猫の額は昔から狭さのたとえとして有名である。その分、定番中の定番であるから、ここもアレンジを加える。子猫の額のように狭い生まれたばかりの猫の額のように狭い膝の上に来てそのまま眠った猫の額のように狭い今度は定番とかわいさを兼ね備えたたとえの誕生である。ただし、かわいさが勝ると肝心の狭さが伝わりにくくなるので注意してもらいたい。あくまでこれらは一例で、他の作り方でもまったく構わない。いくつか例を挙げよう。

姉が進学で家を出たのでひとりで使えることになった部屋のように広い片づけられた大宴会場のように広い友達が住んでいる最近できた団地の間取りのように広い『北の国から』の五郎が足を伸ばせた風呂のように広いコロンブスがアジアだと思っていた大陸のように広い新館もあるように広い似顔絵で真っ先に描かれるおでこのように広いバブルの頃の服の肩幅のように広い

対向車が来ませんようにと願う道のように狭い路地裏の知る人ぞ知る店のように狭い四人席にもうひとり増えた時のように狭い自転車を無理矢理ねじ込んで停めるように狭い収納術が大活躍するように狭いエアコンの室外機が大半を占めるベランダのように狭い探検家じゃないと進んで入らない洞窟のように狭い「ここではさすがに踊れませんね」とマイケル・ジャクソンが困るように狭い

大きい、小さい大きいものをたとえる時、もしも目に見えるもののサイズをたとえるのならば『著名人を使う』方法を使うのもひとつの手だ。ジャイアント馬場のように大きいアンドレ・ザ・ジャイアントのように大きい白鵬のように大きい髙嶋政宏&政伸のように大きいプロレスラー、ジャイアント馬場の身長は209㎝である。大きいもののたとえとして使いやすく、またイメージしやすい。同じくプロレスラーであるアンドレ・ザ・ジャイアントは身長223㎝であるから、さらに大きいものをたとえられる。しかし、両者とも昭和のレスラーであり、知らない世代が増えてきていることは否めず、伝わりにくくなっている。そこで白鵬を使い、伝わりやすくするのも良いだろう。一方、髙嶋政宏&政伸のたとえはピンとこないかもしれないが、髙嶋政宏は185㎝で髙嶋政伸は180㎝である。プロレスラーや横綱ほどではないにしても二人とも大きいのだ。このたとえは髙嶋兄弟のファンにはうれしいはずであるから、相手が髙島兄弟ファンだと気づいたら使用してみる価値はある。また、あなたが髙嶋兄弟のファンならば、大いに使うべきだろう。これは『得意分野を利用する』方法にあたる。ところで、大きいのは何も目に見えるサイズだけではない。時には「器が大きい」などのような使い方もある。その場合は器が大きいとされている著名人を使えば良い。また「声が大きい」という使い方もあるが、この場合は大声コンテストの結果をたとえに使うのが良い。大声コンテスト第1位のような大きな声声の大きさが伝わってくる。もちろん大きさのたとえはいくつもある。小ささと併せて例を挙げるのでヒントにしていただきたい。

キングサイズ専門店の店頭に飾られたスーツのように大きい日射しからおばさんを守るサンバイザーのように大きい最近のラルフローレンのマークのように大きい丼からはみ出したあなごの天ぷらのように大きい意地悪なおばあさんが選ぶ葛籠のように大きい久しぶりに見る親戚の子どものように大きい夜に郊外のツタヤに来る車のカーステの音のように大きい自分が小さくなった錯覚を起こすように大きい

米に描かれた絵のように小さい友達の家でお父さんが寝ている時の話し声のように小さい赤ちゃんの靴下のように小さい大きな耳がかわいらしいフェネックギツネのように小さい瓶の中の生態系のように小さいささやき女将の声のように小さい昔の人が見た今の携帯のように小さい西川きよしがこつこつやることのように小さい

長い、短い長さをたとえるにもいろいろな方法があるだろうが、ここは『想像力を利用する』方法を選択してみよう。目の前に「長いもの」がある。それがなぜ長いのか、あるいはなぜ長くなったのかを想像するのだ。ギネスに挑戦している高いところのものを取る専用材料をすべて使った大人用オーダーミス嘘をついたら伸びるからこれでも昔より短くなったと言われている念には念を入れたお母さんが気を利かせたこれらに「(の)ように長い」を付ければたとえが完成する。ギネスに挑戦しているように長い高いところのものを取る専用のように長い材料をすべて使ったように長い文章で読むと簡単なように見えるが、自由度が高くて、それゆえ意外と頭を使う。実際にやってみると視点を変えながら想像力をフル活用しなければいけないことがわかるだろう。とはいえ、実際にたとえる時は闇雲にたとえるわけではなく、必ず対象があるもので、特定の長いもの、例を挙げれば「フランスパン」をたとえるわけだから、自由度はない。フランスパンを見て、たとえたいと思うのならたとえる、それが自然な流れである。ただ、想像することを訓練としてやっておくといつかきっと役に立つはずだ。少なくともたとえのストックにはなる。たとえ以外でも必ず出番はくる。

みんなで行った居酒屋のレシートのように長い町おこしで作ったのり巻きのように長い「新発売の唐揚げはいかがでしょうか?」の後に「新発売の唐揚げはいかがでしょうか?」とまたリピートされるように長い夕方のジャングルジムの影のように長い「最後尾はあちらです」と言われた列のように長いお父さんのスキー板のように長い混んでる病院で呼ばれるのを待つように長い生徒が静かになるのを待っている校長先生がガイコツになっているように長い

何も考えずに買ってきたつっぱり棒のように短い変形学生服のように短い下手な人が剥いたリンゴの皮のように短い安土桃山時代のように短い予想以上に切られた髪のように短い勝俣のズボンのように短い2月のように短い星新一が書いたかのように短い

アウェー感、ホーム感地方のビジネスホテルに泊まる。夜、部屋に帰り、テレビをつける。するといつもと違う、知らない番組がやっている。最近見ないタレントさんが出ていたり、初めて見るお笑い芸人さんが出ていたりする。知っている番組もあるが、「この番組ってこの時間にやっているんだ」と発見することもある。「あ、これはもう見たな」ということもある。そして、知らない企業の、知らないホテルの、知らない銘菓のCM。そんなアウェー感。朝、飲んで帰ってくる。覇気のひとつもなくダラダラと惰性で歩く。いつの間にか周りに制服姿が多くなる。この辺りにある学校の生徒たちだ。目標とやることが目白押しの若者たちは、私と歩き方ひとつをとっても違う。私は明らかに浮いている。そんなアウェー感。中学生の時に遊びに行った友達の家。その友達は大人しく、物腰の柔らかい人だった。どちらかといえば、私の後をついてくるようなタイプだった。友達の部屋で遊んでいると、彼の母親が来た。ただ単に私に挨拶に来ただけだったのだが、突然友達が激怒した。「勝手に入ってくるんじゃねーよ!」友達の乱暴な声を初めて聞いた。その後も「うるせー」だの「飲み物持ってこい」だの、とにかく怒鳴っていた。私は「こいつ、家ではこんなに威張っているんだ」と思った。そんなホーム感。風呂上がりにすぐ服を着ない。そんなホーム感。アウェーとホーム。それぞれのたとえを挙げてみよう。

修学旅行生の集団と一緒の旅館に泊まるようなアウェー感店主と常連が話している喫茶店のようなアウェー感個人経営の変わった記念館に足を踏み入れた時のようなアウェー感友達の友達しかいないようなアウェー感バイト初日のようなアウェー感ひとりだけ仮装してきてしまったようなアウェー感友人から借りた整髪料のようなアウェー感初めて行く美容室のようなアウェー感

自分のこたつのようなホーム感「好きなとこ座りなよ」と言えるようなホーム感自分の家と同じ型のリモコンだったようなホーム感どこに何が売ってるか知っているスーパーのようなホーム感この店の料理は辛口でもそこまで辛くないことを知っているようなホーム感ドアを開けるコツを知ってるようなホーム感故郷のアンテナショップのようなホーム感靴下を脱げるようなホーム感

偶然偶然というのは時に残酷である。最も残酷な偶然は、知らない人と服が被ることだ。知り合いならまだ良い。「あ、被ったね」と言えるからだ。しかし知らない人はそうはいかない。見ず知らずの人に近寄って「あ、被ったね」なんて言ったら頭がおかしいと思われる。街を歩いていて向こうから来る人が同じ服を着ていたら、気づくタイミングにもよるが、対処の仕方はいくつもある。横道に入るのも良いし、店に入るのも良いし、店頭にあるサングラスを選ぶふりをするのも良い。だが電車の中ではそうもいかない。被ったとわかったら、さりげなく脱ぐか、さりげなく上着を着るか、はたまたさりげなく次の駅で降りるか、くらいしかない。厄介なのは路上と違って電車の中だと距離が近いので相手も気づいている可能性があるということ。そうなると、自分が行動することによって、相手が「やっぱりあの人も気づいていたんだ」と気にしてしまう可能性がある。逆に相手が服を脱ぎだしたら、同じことを思い、羞恥心はピークに達することは明らかだ。もしも相手が電車から降りたら気をつかわせたみたいで申し訳なくなる。もしくは「私と同じ服であることが気に入らないのかよ!」と怒りも湧く。もしかしたらその人は初めからそこで降りるつもりだったとしても、こちらはそんなことはわからないのでもやもやが残る。よって、電車の中ならお互いに気づいていないふりをするのが一番だ。できるだけ服を見せないようにして自然に振る舞う。どうしても降りたくなったら、いかにも最初からそこで降りる気だったそぶりを見せなければいけない。時には「おっ、着いた」くらいの独り言も必要だ。そこが本当に目的地だったとしても、そのそぶりはすべきだ。これでお互いのもやもやはなくなる。だが、第三者が気づいてしまった場合は少々ややこしくなる。「あの人たち、同じ服だ」と言葉を発せられたら終わりだ。また、こちらの連れが「あの人と服が同じじゃない?」などと要らぬことを言ってしまったら、もう知らないふりはできなくなってしまう。連れは目的地を知っているので途中で降りることもできない。もはや地獄である。電車で自分と同じ服の人がいる時のような偶然偶然のたとえは他にもある。

定食屋の食器が自分の家と一緒のような偶然民家のベランダに干してあるタオルと同じものを持っている時のような偶然知らない高校の全国大会出場の横断幕に自分と同姓同名があったような偶然事件が起きたクルーズにたまたま探偵が観光で乗っていた時のような偶然適当に入った居酒屋なのにEXILE全員が入れた時のような偶然テレビをつけたらちょうどバルスのところだったような偶然小瓶に入れて海に流した手紙を、後日自分で拾ってしまうような偶然幼い子が適当に書いた曲線がタイガー・ウッズのサインと同じだったような偶然

待つ街を歩いているとかなりの確率で遭遇するもの。それはメガネ用の超音波洗浄器。メガネの頑固な汚れを超音波で洗浄するこの器械はメガネ店の店頭には必ずと言っていいほど設置されている。それまで何とも思っていなかったのに、その器械を見た途端、自分がかけているメガネが汚れているように思えてきて、外してレンズを見てみると確かに汚れている。とはいえ、今まで何とも思っていなかったのだから、そのままでも構わないはずなのだが、さっきより景色がはっきりと見えていない気がしてきて、洗浄したくて仕方なくなる。私はメガネを外し、液体の中へとメガネを入れ、続いてスイッチを押す。すると超音波の振動が無数の細かい気泡を発生させ、その気泡がメガネに付いた汚れを落とし始める。私はかすかに聞こえる超音波っぽい音を聞きながら待つ。時折、己の裸眼視力を最大限に使用し、かつ顔を近づけるという物理的な方法も用いて、残り時間を確かめる。デジタルの表示が0へと近づいていく。この器械はメガネ店のサービスであり無料であるわけだが、利用していると店員がこちらへ来ることがある。そのまま洗浄の手伝いをされてしまうこともある。たしかに私よりメガネに精通し、この器械を知り尽くした店員の手を借りた方がより綺麗になるとはわかっているのだが、何ともいえない申し訳なさを感じる。「買うつもりもないのにすみません」そんなことを思う。いたたまれなくなり足早に去りたくなるが、メガネは洗浄中であるために、移動することができない。いわば、店員にメガネを人質にとられてしまったようなものだ。洗浄が終わると店員は慣れた手つきでメガネを拭き始める。さらに申し訳ない気持ちになる。私はじっと待つしかない。メガネを洗っている時のように待つメガネをかけると視界がクリアになり、メガネドラッグ前に置かれた人形がはっきりと見えた。

鼓笛隊が過ぎるまで道路を渡れない時のように待つ笹舟より少し先にいる時のように待つ歯医者で歯に関する絵本を読むように待つお湯になるまで水をしばらく出しっぱなしにするように待つ飛ばせない音声ガイダンスを聞くように待つ「折り返します」と言われた時のように待つSASUKEファイナルステージのゴールボタンのように待つカップラーメンのフタの上にスープの袋をのせるように待つ

絶望わずかな期間ながら学生だった頃、お金などすぐに底を尽き、毎月20日の仕送りを心待ちにしていた。若さに任せてまったく計画的ではなかったから、1週間前にはお金はほぼなくなり、ひたすら仕送りの日を待った。珍しく早起きして、15分くらい歩いて最寄りの駅まで行く。駅前に口座を持っている銀行があり、手数料をとられたくないのでここでおろすのがベストなのだ。朝9時、銀行が開くと同時に残高を確認したが、まだ仕送りは入っていなく、残高は二桁。いくらなんでも母親が朝一に振り込むわけないかと思い、きっと一通り家事を終えてから銀行に行くのだから時間をおいてまた残高を確認することにした。家に一旦帰ってまた出てくるのも面倒で私は駅前にあった花壇の縁石に腰掛けた。それから30分おきに残高照会をした。しかし入っていない。何度か電話で確認しようかと思ったが、それは気が引けた。仕送りを待ち焦がれているような生活をしているところは知られたくなく、きちんと生活しているフリをしたかった。要はカッコつけていたかったのだ。ところが、14時になった頃にはさすがに焦り始めた。15時になっても振り込まれなければ今日の入金はないということになる。もしかしたら忘れているのかもしれない。これは一度連絡した方が良いのではないか。別に「仕送り忘れてない?」などと直接的に言う必要はない。私が電話することによって何かを思い出してくれればよい。14時半。我慢できずに電話するが留守。留守ということは銀行に出かけたということか。いや、仕送りのことなど忘れてどこかに行っている可能性もある。ここからは頻繁に残高を確認するようになる。14時55分。まだ入っていない。完全にあてにしていた仕送りが入ってないなんてもう絶望しかない。仕送りが振り込まれていない時のような絶望14時58分。残高が増えた。入金があったのだ。あっという間に絶望は消える。全額おろして、まずは牛丼屋へと向かう。「何を食べようかなあ」と、もう希望しかない。

楽しみにしていたネプリーグが録画されていないような絶望完全に忘れていた引き落としがあったような絶望公園で弁当を食べようとしたら箸がなかったような絶望ネジ穴がバカになってしまったような絶望実はチェーン店だったような絶望開演時間と開場時間を間違っていた時のような絶望チラシの上に置いた石より風の強さが勝ったような絶望洗濯物すべてに色移りしていたような絶望

別世界高校生の頃に住んでいた町には映画館が数軒あった。当時は必ずと言って良いほど同時上映があって『ぼくらの七日間戦争』の同時上映は『花のあすか組!』で、『名門!多古西応援団』は『シャコタン☆ブギ』、『押忍!!空手部』は『のぞみウィッチィズ』とセットだった。お目当てだった映画よりも同時上映の方がおもしろいなんてこともあった。『ビー・バップ・ハイスクール~高校与太郎哀歌』の同時上映は『BEFREE!』だった。客の入れ替えがなく、時間が許す限り居座ることができたので、ビーバップを観て、同時上映を観て、またビーバップを観ることができた。学校をさぼった身を映画館で隠し、暗闇の中でビーバップのセリフを暗唱できるほど観た。私は映画を観た後に映画館の外へと出る瞬間が好きだった。上映中は光も音もシャットアウトされるために外のことが何ひとつわからない。そのため、外に出ると夕闇であったり、もう真っ暗になっていたり、いつの間にか雨が降っていたり、夏は日の長さを感じたり、冬は雪景色になっていたりと、風景が変化していて、別世界が広がっているのだ。映画館に行くたびに別世界を見た。映画館を出た時のような別世界ところで、もうひとつ好きだったことがあった。同級生の女子と映画を観に行く。映画が終わり、明るくなる。その時に見せる女子の表情が好きだった。そっと隣を盗み見ると、ある時は笑顔で、ある時は泣き顔で、時にはつまらない顔をしていて、暗闇が隠していた素直な表情を見ることができたからだ。一緒に『はいからさんが通る』を観に行った女子が、同時上映の『ビー・バップ・ハイスクール~高校与太郎狂騒曲』を観た後、私が見せていただろう表情とは対照的な表情を見せていたことを今でも覚えている。その映画館はもうない。彼女の名前もおぼろげだ。苗字に「山」が付いたような付かなかったような、そんな感じだ。だけど当時覚えたビーバップのセリフは今でも覚えている。他にはどんな別世界があるんだろうか?

エレベーターを降りるとすぐ店舗だった時のような別世界コールドスリープから目覚めた時のような別世界プリンタ用紙売り場にあるプリント見本の紅葉のような別世界3年生が引退した部活のような別世界川端康成がトンネルを抜けた時のような別世界知らない町から来た転校生と話したような別世界起きたらコマーシャルが年末仕様になっていた時のような別世界「着いたよ」と起こされた時のような別世界

無関係夕暮れの遊園地の出口は笑顔と疲労がマーブル模様のように混在している。疲労しているのは特に大人である。照りつける太陽の下、人混みの中を歩き、列に並ぶ。子どもにとって楽しいアトラクションも大人にはそうではない。ここまで運転してきた人もいるだろう。疲労は当然だ。私もまた疲れ果てていた。とにかく座りたくて、出口付近で座れる場所を探した。空いたベンチに滑りこむように腰掛けると「ふーっ」と大きな息が自然と出た。足の疲労をやたら実感する。遠くに遊園地の賑やかな音を聞きながら、水分を補給した。なかなか立ち上がる気力が出ず、私は座ってゲートから出てくる人たちを観察していた。家族、友人同士、カップルと様々な関係のグループが出てくる。中学生くらいの男女のグループがいたならば、微妙な距離感から、あいつはあの子が好きで、あの子はあっちの子を好きで、などと瞬時に判断したりしていた。やがて母親と子どもが出てきた。母親は自分と子どもの荷物を持っていて、子どもの手にはポップコーンが入った大きめのカップがあった。子どもは駄々をこねていた。まだ帰りたくないのか、乗りたかったものに乗れなかったのか、それとも何か欲しいものを買えなかったのか、とにかくまったく母親の言うことを聞こうとしなかった。「やだ、やだ、やだ!」と子どもの声が響いていた。いつもなら母親もなだめたり、あしらったり、注意したり、無視したりするのだろうが、疲労からくる苛立ちがそうさせなかった。「いい加減にしなさい!」母親は怒鳴り、子どもの頭を叩いた。その瞬間、ポップコーンのカップは子どもの手を離れ、やや宙を舞った後、地面に衝突し、中身が散らばった。突然の事態に子どもは泣き、母親はさらに怒鳴った。その声に子どもはさらに泣いた。見て見ぬふりをして他の家族が通り過ぎて行く。よその子どもが叱られているように無関係薄暗くなった遊園地の出口で、ポップコーンの白さがただただ際立っていた。無関係な鳩が集まってきて、のんきにそれを食べた。

電器店のテレビで知るアーチェリーの結果のように無関係居酒屋前のコンパ終わりの学生集団のように無関係コピー機に忘れられていた楽譜のように無関係道に落ちているキャバクラ嬢の名刺のように無関係Tシャツにプリントされた数字と自分のように無関係行き先の違うバスのように無関係遠くに聞こえるパトカーのサイレンのように無関係知らない学校の指定上履きを売っている店のように無関係

運命的昔住んでいたアパートの部屋は壁が薄かった。部屋を借りる時はそんなこと何もわからなかった。引っ越してから数日経った頃、隣から歌声が聞こえてきた。隣人の男性が歌っているようで、彼が弾いているアコースティックギターの音も聞こえた。「♪この星で一生キミを愛し続ける~」聞いたことなかった曲だったが、私が知らないだけで有名なアーティストの曲かもしれないと、サビのフレーズをネットで検索してみたが何の情報も得られなく、気づくと私は未解決事件のウィキペディアを読んでいた。数日後、また歌声が聞こえてきた。前回より注意深く聞いていると、歌っている途中歌詞を変えて歌い直していたので、彼のオリジナル曲であることがわかった。検索で出てこないわけだ。「♪この星で一生キミを愛し続ける~」それから1年ほど、私はこの歌声と付き合うことになる。強制的に、かつ、ゲリラ的に聞かされる歌声は、平気な時とそうではない時があり、平気な時は、もしも私のような状況の有名音楽プロデューサーがいたとして、壁ごしに聞こえてくる歌声を気に入りスカウトするというような出会いもあるのかな、などと考えたりする余裕があった。ピンポ~ン。「はい、どちらさまですか?」「隣に住む者ですが、デビューしませんか?」そんなことが実際にあったとしたらかなりの運命的な出会いだ。ただ、平気ではない時はただただ苛立つだけだった。聞きたくもないのに聞かなければいけない。そんな歌声はうるさいだけだ。おまけに彼の書くありふれていて、かつこっちが恥ずかしくなるような前向きな歌詞は私の苛立ちをさらに大きくした。やがて平気な時は少なくなり、そうではない時のほうが多くなり、この星で一生この歌を聞き続けるのかと考えて、私は精神的にまいってしまった。ただ一度だけ、彼のシャウトで目が覚めて、遅刻せずに済んだことがあった。それに関しては彼に感謝している。ある意味それも運命か。

朝ぶつかった男子が転校生だったように運命的西村京太郎が初めて時刻表を見た時のように運命的話しているうちに同郷でしかも近所だと知った時のように運命的自動販売機の下に落ちていた小銭が記念コインだった時のように運命的雨の中、捨てられた子犬を抱きかかえている不良を見た時のように運命的「キミも能力者なんだろ」と言われたように運命的昨日の夜たしかに捨てたはずの不気味な仮面が、朝起きたら枕元にあった時のように運命的道で拾ったメガネの度が自分にピッタリだった時のように運命的

その場しのぎその場しのぎ。私はわりとそれを多用してきた。とりあえずその場をしのいで、後のことは後で考えれば良いと考えて行動することが多いのだ。しかもその場しのぎで満足してしまって、そのままにすることも多い。とはいえ、何も絶えずその場しのぎをしようと考えているわけではない。「さあ、今日もその場しのぎをしまくるぞ!」とその場しのぎをする気満々でもない。例えば、20代の頃の引っ越しの時。荷物をすべて新しい部屋に運び、積み上がった段ボールと段ボールの間に布団を敷いて、その日は何もせずに寝ることにした。次の日、信じられないほどの早起きをした。早起きする気などさらさらなかったものの、窓から入ってくる日光が眩しすぎて起きてしまったのだ。カーテンがなかったので、私は朝日を存分に浴びていた。これはカーテンを買いに行かなければと思いつつ、応急措置としてとりあえず服をカーテンレールに掛けた。服のカーテンは日光を遮り、布団の上に服の影ができ、私は再び眠りについた。その日は段ボールを開けて荷物を出し、片づけに明け暮れ、カーテンを買いに行くのを忘れていた。夜に気づいたのだが、とりあえず服を吊るしているから大丈夫だということにした。翌日、また早起きした。服と服の間から日光が入ってきて、光の線が私の瞼を直撃したのだ。どうやら太陽の角度によっては隙間から光が入るようだ。そこで私はできるだけ隙間をなくすようにさらに服を掛けた。カーテン代わりに服を掛けるようなその場しのぎやがてカーテンレールは服を掛ける場所になり、クローゼットのようになった。ある日、服を掛けすぎ、その重みに耐えきれずカーテンレールが外れて落ちた。服はすべて床に落ちてしまった。ずっと掛けっぱなしだった服を見ると日に焼けていた。お気に入りの冬の服は片方の袖の色が変色してしまっていて、落胆した。その場しのぎをやりすぎた代償は大きかった。

透明ランナーのようなその場しのぎ故障した自動販売機の硬貨投入口をガムテープで塞ぐようなその場しのぎエアコンのリモコンが見当たらなくて本体のスイッチを押すようなその場しのぎポスターを貼って穴を隠すようなその場しのぎ乾電池を取り出してもう一度入れ直してみるようなその場しのぎスプーンが入ってなくて箸でゼリーを食べるようなその場しのぎ着ているうちに乾くだろうというようなその場しのぎ後から塩味を足すようなその場しのぎ

流れる知り合いの若者と話していた時のことだ。その若者がアメリカに行くと言うから、私は吉田栄作氏が渡米した話をした。1995年、吉田栄作が役者修業のために渡米。私はそれを昨日のことのように覚えている。しかし、その若者は「吉田栄作の渡米……?」と初めて耳にする言語のような顔をした。どうやら知らないらしい。私は愕然とし、時の流れを知った。別の若者と話していた時のことだ。ベッドを買ったらしいのだが、その若者が住んでいるアパートの構造上、部屋の中に入れることができなかったようだ。私はその話を聞いて、「まるで荒井注のようだな」と言った。1992年、荒井注氏はカラオケボックスを経営しようとしたが、完成した建物の入口が狭すぎてカラオケ機器を中に入れることができず、経営を断念した。しかし、その若者は「荒井注のカラオケボックス……?」と怪訝そうな顔をした。この人は何を言っているんだろうか、そんな表情だった。どうやら知らないらしい。私は愕然とし、時の流れを知った。1998年の漢字は『毒』だった。もちろんこれには理由がある。適当に「毒で良いんじゃない?」と決めたわけではない。まずこの年、和歌山毒物カレー事件が起こった。毒物混入の模倣犯も多く出現した。またダイオキシンが問題となり、テレビや新聞、雑誌を賑わせたのもこの年である。漢字は毎年12月12日の『漢字の日』に発表されるのだが、この年のこの日ドクター・キリコ事件も起きている。時期的にこの事件が漢字の選出に影響を与えたことはないだろうが、これにも毒が関係している。ただ実はこの年もうひとつ毒に関する出来事があった。それは反町隆史のシングル『POISON~言いたい事も言えないこんな世の中は~』の発売だ。これは偶然か、それとも……!?そんな私のとっておきの話をする機会はもうなさそうだ。時は流れている。それは……。

泣きじゃくる子どもの涙のように流れるお椀がテーブルを滑るように流れる排水口へ向かう髪の毛のように流れる帰省ラッシュ時の混んでいない車線のように流れる達筆すぎる文字のように流れるカップ焼きそばの湯切りのように流れる米のとぎ汁のように流れる倒れていくドミノのように流れる

 

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