洗練の作法
六身だしなみについて姿を消した帽子いつの頃からか、大人の男が帽子をかぶらなくなった。今では皇室の人がかぶるもの、という程度の認識かもしれないが、なかなかいいものだった。人としての魅力が何割か嵩増しされていたのではないだろうか。大正のモガ・モボの時代に一般には定着したおしゃれだろうが、昔は男だけではなく、女もかぶっていた。若い頃の私の母はおしゃれで、モガの走りでもあり、洋装にはいつも帽子だった。画家志望だった父の描いた母の肖像画が残っている。帽子といっても、昨今よく目にする、街中なのにまるでハイキングに出かけるような、運動靴にリュック姿の人たちがよくかぶっている、日よけ帽子のことではない。ノンフィクション作家の上坂冬子さんは、講演会などに呼ばれると、「大宮を過ぎると帽子をかぶるのよ」と言っていた。「地方に行くと、大げさにする方が喜ばれるから」と飄々として、東京ではかぶらない派手な帽子をかぶったりしていた。私は昔からさりげないのが好きだったから、自分で帽子をかぶることはあまりなかったが、ちょっとななめに帽子をかぶる人は粋に見えたものだ。日常的なおしゃれとして帽子をかぶる光景がみられたのは、昭和のいつ頃までのことだっただろう。野坂昭如さん愛用の帽子は、今も句会でご一緒するジャーナリスト矢崎泰久さんが手離すことがない。帽子に限らず、今は、楽な恰好、楽な恰好へと、何事も易きに流れているのではないだろうか。変にTPOに縛られるのは窮屈で嫌だけれども、その場所にふさわしい恰好というものが確かにある。さらに遊び心を付け加えるのが、大人の身だしなみというものではないだろうか。それはちょっと派手なネクタイでもいいだろうし、渋い好みのチーフなどでもよい。男も女も、人と同じような、つまらない恰好をしていたってしょうがない。気障なぐらいが丁度いい。姿勢が大事おしゃれの一番の条件は、まず自分の姿勢をきちっと正すことだろう。猫背ではいくら着飾っても、おしゃれには見えない。ただ、日本人男性の場合、オーソドックスなスーツを着こなすのは実は大変に難しい。どんなに高いスーツであろうとも、悲しいかな、大体はダサくなる。自民党の麻生太郎氏も、身につけているものだけは、本当にいいもの、一級品ばかりなのだが──。私はといえば、二十年くらい前から、ここぞという時にはアルマーニを着るようになった。若い頃はともかくとして、やはり五十、六十になると、いいものを着ないと貧相に見える。むやみやたらに高いものという意味では無論ない。アルマーニは姿勢をきちんとしていれば、着ている人間をとてもきれいに見せてくれるのだ。組合せを愉しんでいるから、そんなに沢山持っている必要もない。アルマーニは、デパートではなく、いつも同じ、銀座のアルマーニタワーで買う。そこには私の好みを心得てくれている人がいるので、その人のところに一直線に行く。やはり人である。その人がすすめてくれて、試着してみて、気に入れば買う。信頼できる人がいるかどうか、それに尽きる。同じものを買うにしても、他の人がすすめてくれても納得がいかないのだ。デパートには何でもある=何もない私はデパートには行かない。あんなに疲れるところはないと思っている。目移りして、結局何も選ぶことなど出来ない。デパートには何でもある。だが、何でもあるということは、何もないというのと同じだ。デパートに足を踏み入れるのは、食料品がある、いわゆるデパ地下で連れ合いが買い物をするのに付き合う時ぐらいだろうか。うちは連れ合いが料理好きで食事作りを担当している。だから私一人の時は、スーパーでの買い物もしない。買い物が好きではないのだ。バーゲンにはほとんど行ったことがない。ろくなものがないと思っているからである。福袋も買わない。自分の気に入らないものが入っているかもしれないのに、どうして買わなければならないのか。着るものについては通販も使わない。試着しないで買うということはしない。似合うかどうか、最終的には分からないのに買うことは出来ないからだ。捨てない暮らし私は物持ちがいい方なので、三、四十年前の服を着ていることもある。幸いサイズもあまり変わっていないので、若い頃の服をそのまま着ることが出来る。NHKに入った頃、先輩アナウンサーで後に女優になった野際陽子さんと、森英恵さんのショーでお手伝いをしていた。銀座のサロン形式の走りだったが、後に小澤征爾さんの奥さんになった入江美樹さんことヴェラちゃんや、カルダンのモデルだった松本弘子さんがモデルとして出ていて、私はナレーションを担当していた。モデルが着ていたものを安く買えたので、サイズがあうものを買ったが、今でも着ることができる。熟練の職人さんによる手仕事の服は、今ではもうこんなものは作れません、と言われるほどで、大事にしている。『持たない暮らし』という本を出しているが、持たない暮らし=捨てる暮らしということではない。むしろ「捨てない暮らし」であり、捨てるようなものは買わない暮らしということなのだ。使えるものは捨てない代わりに、滅多に買うこともない。だから、断捨離などする必要がない。アメリカ型消費経済に組み込まれたくはないのだ。捨てて買うのが一番嫌いだ。捨てるぐらいなら買わなければよい。捨てたくなるようなものなら買わなければよいのだ。だから私は捨てない。男もそうだ。あるものをどう利用するのかを考える方が楽しいではないか。二日続けて同じ服は着ない服だけではない。家具にしても、修理したり、きれいにしたりして、ながく使っている。軽井沢にある山荘にも、亡くなった父と母が使っていたソファを張りかえて使っている。新しく買うよりもかえって高くついたりもするが、父母が坐っていたというこだわりがある。山荘にはそういう家具ばかりがおさまっている。買った家具はほとんどない。一つ心掛けていることといえば、昨日と今日、続けて同じ服を着るということはしないようにしている。気分が変らないからだ。もちろん何日かたてばまたその服を着ることはあるが、二日続けて同じ格好はしない。家から出る用事がなくて、二日間、外の人と会うことがないとしてもだ。何かしら着替えて、今日は別
のスカーフを合わせてみようなどと、変化をつけるようにしている。おしゃれ、自体が好きなのだ。あれにこれをあわせてと考えることは楽しいから、時には人の分まで考える。誰かと一緒に街を歩いていても、ショーウィンドウに並んだ服を見て、この人にはあの色が似合うなと思えば心の中で「あれ、あなたに似合うわよ」と呟いている。足すおしゃれ、引くおしゃれ面倒くさがりで、毎日靴をピカピカに磨くといったことは苦手だが、自分の気に入ったもの、自分に似合うものを常に身につけていたい、という気持ちはことのほか強い。それを貫くにはまず、自分を知っておかねばならない。何が似合って、何が似合わないのか、子供のころから敏感だったし、着る物にもうるさかった。大阪の大手前高校に入学した時も、制服があまりにダサいので、自分でいろいろとデザインを考えて、仕立屋さんに改造してもらった。セーラー服の衿はこうして、スカートの襞はこうでと考えるのは楽しかったし、好きだった。あまりに他の生徒の制服と違ったので、先生に呼ばれて「ちょっとは考えてくれよ」と言われ、仕方なく妥協したが、制服のシングルの上衣はダブルにして、スカートの襞は多くした。自分にはどんな色が似合うのか、どの色を着れば映えるのかは、きちんと意識しておいた方がよいだろう。服や靴、カバンの色をあわせるのは大事だし、難しい。今でも、朝、自分が選んだ靴の色がどうもあっていない気がして、出先で靴を脱ぎ捨てたくなる時があるほどだ。年配になってくると、柄物の服は似合わない。特に花柄は。年を重ねたら清潔感が第一である。花柄はスカーフ等小道具にしか使わない。おしゃれには二種類ある。どんどん身につけていくおしゃれと、どんどんはいでいってシンプルになるものと。私の好みは断然、後者である。豪華に飾り立てるのが似合う人もいれば逆の人もいるのだ。黒には勝てないそういう意味で、最強の色はやはり黒だろう。大学時代から黒い服が好きで、上から下まで黒ずくめで「小悪魔」というあだ名がついたこともあるが、今も昔も黒は好きだ。かつてハリウッド女優が集まる華やかなパーティーに、オードリー・ヘプバーンが、一切アクセサリーをつけず、真っ黒のセーターとパンツ姿で現れた時、誰もが圧倒されたという。大きな宝石をごてごてとつけ、派手な色合いのドレス姿の女優ばかりの中で、それは圧倒的に目立っただろうし、最強のおしゃれだったに違いない。昨年、アルマーニのショーを観に行った時のことだ。デザイナーのジョルジオ・アルマーニ氏が十二年ぶりに来日し、もう八十歳を過ぎているので、これが最後のショーになるということだった。東京国立博物館の表慶館で行われ、様々な著名人が集まっていたが、当然、みなアルマーニを着ていた。中でも私が「この人は」と思ったのは女優の草刈民代さんだ。真っ黒のスーツ姿なのだが、胸元に深い切れ込みが入っているかのように、衿元がスーッと下まであいていた。スーツの下には何もつけていない、素肌なのだ。それでいてギリギリのところで見えない。バレエをやっていた方だから姿勢はすっと伸びている。それはそれは恰好がよかった。もう一人、記憶に残ったのは映画監督の河瀨直美さんだ。彼女は真っ黒のシンプルなロングドレス姿だったのだが、片方だけきらめく長いイヤリングをつけていた。肩まで届くそのイヤリングはダイヤだったのか、きりっとした白銀の輝きを放っていた。アクセサリーはそれだけだ。他に色もなく、それが実によく似合っていた。私もその時は黒を着て、朱色のチョーカーをつけて行った。色はそれだけだ。どちらもアルマーニのもので、別々に買い求めた。チョーカーの色はちょっとにぶい光のある、塗り物のような色とでも言ったらよいのだろうか。これで「徹子の部屋」にも出たのだが、知り合いから「何あれ?とってもよかったけど、どこのもの?」などと言われて、みんな洋服しかみていなかったのかと、ちょっとガッカリした。とにかくシンプルに、ゴテゴテしないことを心掛けている。だからアルマーニばかりではなく、ユニクロにも行く。ランジェリーも余分な飾りや柄が入っていないのがいい。よいものとは値段が高いものとは限らない。
七さまになる正装についてニューイヤーコンサートの着物姿に思うこと私の母は着物が好きで、趣味が高じて、晩年には行きつけの呉服屋にそのセンスをかわれ、顧客にどんな着物、帯が似合うのか、組み合わせや着方の助言を頼まれたりしていた。それを仕事にすればいいのにと思ったものだが、そんな着物好きの母に、私も帰宅すると着物に着替えさせられたりしていた。今でも着物は好きだが、着ることは段々に減ってしまい、袖を通すのは、正月ぐらいだろうか。人様には見せないから、帯も自分で結んでいる。連れ合い共々、正月だけは普段着の着物で過ごす。着物というのは、柄によってはダサく見えることがある。野暮ったくなるのだ。私はウィーンフィルのニューイヤーコンサートが好きで、新年に行われるテレビ中継をいつも楽しみに観ているが、あの観客席には必ずといっていいほど着物姿の日本人女性が何人かいる。世界中のクラシック音楽ファンにとって憧れの席に座る晴れがましい気持ちなのはわかるが、そこでただただ日本人だということを示すためだけに、普段は着慣れないお仕着せの、おそらく高額な着物に、これまた高額な帯をしめている。が、たいてい色も柄も、満艦飾よろしく、これでもかと詰め込まれている。頂けないセンスの着物姿ばかりで、正直がっかりする。日本人だということを示す正装は着物しかないというのも、現代では安直に過ぎよう。もしウィーンフィルのニューイヤーコンサートの客席に、真っ黒なアルマーニのドレス姿の日本人女性がいたらどうだろうか。黒髪にシンプルな黒いドレスの方が、どれほど映えることだろう。オペラや演奏会に行く時は、色のどぎつい服は舞台上から見ても気になるので、黒か、もしくは寒色や薄い色ぐらいにとどめておくのがマナーとされている。演奏者の気が散るような、大げさな格好は避けた方がよいのだ。そうした場に行き慣れていない人は、大仰な着物姿や、派手でかさばるドレスで来たりするので、すぐにわかる。やはりシンプル・イズ・ザ・ベストなのである。女の着物の難しさ着物というのは、色柄選びにセンスがいるのもさることながら、その着こなしも、常日頃からそれを着て生活をしているのと、いないのとでは、おおちがいである。着慣れない人や、着付けをしてもらわないと着られない人の場合は、衿元をぐっと詰めてしまって、見ているこちらも何だか息苦しくなってくる。先にも触れた、横浜の三溪園の料亭、隣花苑の女将は常に着物姿なのが、その着こなしでわかった。衿元がぐっと下まであいているのだ。それでいて衿は後ろにぬいてあって、正面からは見えない。私にはあんな着方はできない。すぐに着崩れてしまうだろう。それが隣花苑の女将の場合は、いくら動いても、きりっとしたままなのだ。見事な着物の着方であった。また色柄も地味だが粋でしゃれたものだった。隣花苑で丹後半島の織物の展示会があって、つい藤布の満月を織り出した帯を買ってしまったのも、多分に女将の影響を受けてのことである。『九十歳。何がめでたい』が、タイトル通り九十歳を過ぎて大ベストセラーになった作家の佐藤愛子さんも、シンプルな無地や縞模様の着物姿が粋な人である。昔から着物姿だった愛子先生に、何歳ぐらいから着物で過ごしていれば、それぐらいさまになるのか尋ねたことがある。そうしたら愛子さんは「五十過ぎたらもうダメよ」と仰っていた。五十歳より前から、着物に慣れ親しんでおかないと、なかなか着こなせるものではないのだ。日本の男に似合う袴とタキシード日本の男はスーツだとダサくなる人が多いが、こと着物に関しては、一段も二段も男ぶりが上がる。若い人も年配の人も、あまりに瘦せているとピタリと決まらず、胸回り、腰回りがふっくらしているぐらいの方が、貫禄があって、着物の場合はかえってよい。大体はヤクザっぽくなるか、書生っぽくなるかのどちらかなのだが、私はどちらも好きだ。連れ合いは、月一回、鎌倉までお茶を習いに行っている。家元の茶室で、本物のお道具やら掛け軸やらを見るだけでも愉しいのだそうだ。袴を作ったのだが、私が舞を習っていた梅津流の家元・梅津貴昶さんに選んでもらった。決して安いものではなかったが、品がよくきりっと似合っていて、作ってよかったと心から思えた。日本の男には袴姿もよく似合う。実はスーツとは違って、タキシードも意外と似合う。腹回りが瘦せすぎていると、貧相になるのは着物と同じである。以前、自転車振興会(現・公益財団法人JKA)の会長を務めていたことがある。当時、暮れのグランプリには、その年に活躍した競輪選手の中から九人が登場するが、前夜祭はホテルの会場を借りて、ファンも大勢、招待した。それまでは、九人の選手はみなスーツ姿だった。私は、私が会長でいる間だけは、表彰される選手にはタキシードを着せたいと思った。もちろん貸衣装だったが、それでも構わない。そうしたらどうだろう。競輪選手である彼らは日ごろから肉体を鍛え上げている。がっちりした太ももや腕回り、腰回りで、誰もがタキシード姿がほれぼれするほど似合っていた。中にはヤクザの親分みたいになるのもいたけれど、それだって、同一人物とは思えない男ぶりだった。私自身もロングドレスを着て、壇上で一緒に写真に収まった。一年間がんばった晴れ舞台、そんな気持ちになる場であるよう、また、そんな場であると、彼ら自身にも知って欲しかったからだ。会場内にいたファンの見る目も変わったようだ。「おおっ」という声が聞こえるほど、見違えたのだ。私が会長職を退いてからは、どうなっているのかわからない。またスーツに戻ったのかもしれないが、そうだとしたら残念だ。それぐらい、彼らのタキシード姿は格好良かったのだから。
八群れない生き方について不良の魅力高校時代、一つ上に、極めつきの不良と呼ばれた美しい男子学生がいた。やることなすこと彼の美意識に貫かれていて、女子学生ばかりか、男子学生にも憧れる者が多かった。勉強もしないのに、頭もよくて、進学校でも目立っていた。しかしアウトローが過ぎて停学になり、その後は姿を見かけなかった。風の噂では、関西で本物のヤクザになったのだという。だが、同級生が困っていると助けてくれて、それがまた実にうまくさばくのだと聞いた。出会った人の話では、黒ずくめの格好が美貌と相まって、下手なヤクザ映画の俳優よりも凄みがあったという。紅白にYOSHIKIが出ていた時、その陰のある美青年ぶりに見入ってしまったが、彼とよく似ていると思った。今はどうしているのか、もう噂もきかないが、あの魅力には引き込まれるものがあった。幼い頃は、川島芳子に憧れたこともある。中国最後の王朝となった清朝の愛新覚羅家に生まれ、男装の麗人、東洋のマタ・ハリと呼ばれた女だ。戦後、日本のスパイだったとして中国で処刑されたが、さっそうと馬にまたがる姿は、私が読んでいた少女雑誌のグラビア記事などでもしばしば取り上げられていたほどだった。「何になりたい?」ときかれて「スパイ」と答えたりもした。その格好よさと危険な匂いに憧れたのだ。枠にはまりきらない、不良の匂いがする人は男も女も魅力的だ。素敵な酒吞みNHKにいた時、私も、一つ上の先輩で後に女優になった野際陽子さんも、二人して大好きだった男性のアナウンサーの先輩がいた。私たちを可愛がってくれていて、彼に吞みに誘われると、当時住んでいた独身寮の名をとって「荒田のオロチ」と呼ばれていた私と野際さんはいつでもついて行った。一升瓶をドンと置いて「吞め」と言う。酒には相当に強かった私だが、ある時これはやばいなと思った。天井が回りだしたのだ。だが、彼は酒をすすめはするが、強要するわけではない。ただ、吞むとぐいぐい注いでくれる。無口で、やくざな男ぶりが良く、酒を吞んでも、毅然として乱れるということがまったくなかった。群れない人で、会社の話題などまったく出ない。天井が回りだした挙句に、二人共酔っぱらってしまったので、そのまま彼の家に泊めてもらった。奥さんに「初めまして」と挨拶しながら、「すみません。酔っぱらっていて」というと、「うちので慣れていますから」と何事もなかったかのように、世話して下さった。いい男の奥さんは、いい女なのである。こういう男は、出世はしない。だが、あれほど酒の吞み方がきれいな人もいなかった。第一、かっこよかった。そういう、組織から外れた男が昔から好きだった。連れ合いも、会社の忘年会や新年会からは、いつの間にかスッといなくなる男だった。私はその引き際がいいなと思っていた。出世するタイプではないが、それを欲するような権力欲もまったくない。男のメンツといったものを気にするようなところもない。定年後も、あれやこれやと出かけていて、私の友人や仕事友達とも気楽に付き合っている。素敵なバーや料理店などを見つけるのもうまければ、年下のバーテンダーや料理人ともいつの間にか仲良くなっている。かといってベタベタと付き合うわけでもない。無口だが威張ることもないから、年下の人も付き合いやすいのだろう。一人でいることにホッとする私は小学校二年生の時に、初期の結核と診断された。その頃は、父が軍人で大阪にある陸軍の飛行場勤務だったので、将校住宅のある柏原市に住んでいた。当時は特効薬もないから、栄養をとって自宅で安静にしているしかなかった。やがて学童の集団疎開が始まったが、私は自宅療養のままだった。だが、戦火が激しくなり、私も自宅から疎開することになって、奈良県の朝護孫子寺のある信貴山の山上の老舗旅館である三楽荘(現・信貴山観光ホテル)へ行くことになった。縁故疎開だった。芝生と池のある庭に面した離れ、八畳一間が私の病室になった。ピンポン台をベッド代わりに、その上に布団を敷いて、毎日朝昼三時夜と熱を測ってグラフをつけた。二日に一度、向かいの旅館を借り上げた陸軍病院の軍医が、軍曹を連れて診察に来た。そのたびにヤトコニンという静脈注射をされた。地方の分校に一日だけ行ったら、男の子が蛇を持って追いかけてきたので、二度と行かなかった。だから同年代の友達は一人もいなかった。それが寂しくも悲しくもなく、むしろ一人でいることにホッとした。一緒に疎開した芥川龍之介や太宰治、夏目漱石や宮沢賢治らの書物や、画家志望だった父のものだった泰西名画集などを一枚一枚めくるのにときめいたものだ。白い糸を見事な網に仕上げる蜘蛛は唯一の私の友達だった。それを見ていれば退屈することもなかった。敗戦をむかえて誰も私を構う人がいなくなったら、いつの間にか結核は治っていた。この時の経験で、一人でいることへの肯定感は、以来ずっと私の中にある。孤独死は悲惨なのか七十五歳の史上最年長で芥川賞を受賞した作家の黒田夏子さんは、大学時代の同級生で、同人誌仲間である。彼女は母親を早くに亡くして、学者だった父親と二人暮らしだった。父親が亡くなってからは、書くことに専念するために一人を貫いている。彼女とは『群れない媚びないこうやって生きてきた』という対談集を出したことがある。結局二人共、一人でいることが好きで、一人でいても退屈しないという共通項があった。その本のために五、六回ほど対談をした。収録が終わると毎回、車で東京駅まで彼女を送って行ったのだが、その別れ際が独特だった。彼女は「じゃ」と言って車を降りると、一回もあとを振り返らずに、一瞥もくれずにスタスタと駅の方まで歩いて行くのである。普通なら、車の方を向いて、手を振ったり、頭を下げたりするものだが、彼女は決してそうしなかった。怒ったり、気を悪くしたりしたわけではない。次回会えばまた普通に話している。人によっては変わって見えるだろうが、私にはその独特の別れ際が彼女らしくて、その心持ちがわかる様で、おかしかった。
その黒田夏子さんが、「できれば独りで死にたい」と言ったことがある。「誰にも挨拶なんてしないで、スーッと独りで死んでいる。それも自分の部屋がいい。理想をいえば、老衰のようにだんだん弱ってきて、そのまま、ひっそりと死ねるといい」と、対談の中でも言っていて、私もそれはとてもよくわかる。新聞によく、一人暮らしの老人が、独りきりで部屋で死んでいて、あとで発見されたという記事が出る。可哀そうとか気の毒とか、孤独は悪のような書きぶりが多いのだが、私は独りで死んだからといって、必ずしも不幸だとは思わない。悲惨なケースも無論あるけれど、中には独りで死ぬことを選んだ人もいるだろう。そういう人にとっては、それはそれで幸せだったのではないだろうか。死に方ぐらいほっといて欲しい。死ぬ時ぐらい、自分の好きなように死んだっていいじゃないか。夕焼けが闇に変わる瞬間に、あの世に身をすべらせるのだ。人に迷惑がかからないように、あとの始末は考えておくとしても、私は独りで死にたいと思っている。素敵な人はいつも一人永六輔さんが亡くなった後、お宅に焼香にお邪魔した際、帰りがけに玄関ドアを開けようとしてハッとした。ドアの内側には一枚の紙が貼られていて、こう書かれていた。「戸締りはしたか?ガスは消したか?水道は止めたか?」その他、外出の際にすべきことが、永さんの字で黒々と書かれていた。その字を眺めていると、不意に涙がこぼれた。最後まで一人で生きようという姿勢が感じられた。永さんは、愛妻の昌子さんに先立たれてからは、ほとんど一人暮らしで、他人が家に来るのを嫌がっていた。車いすになってからは、それを押す人が必要だったが、暮らしていたマンションでは最後まで一人だった。ケアマネージャーが足繁く通っていたが、夜は多分一人だったのだろう。全国各地にたくさんの友とファンを持つことで知られていたが、「実は孤独な人だった」と親しかった友人が語っていた。元気な時の永さんと、旅先の列車やホームで会う時があった。そんな時、お互いにいつも一人だった。軽く会釈してすれ違うだけだ。どこへ行くにも一人。ふらりと現れ、ふらりと去っていった。思い返せば、立川談志さんも、樹木希林さんも、小沢昭一さんも、素敵な人は男女を問わずいつも一人だった。
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