心は、創造の達人です。
そして、私たちは心であり、思いという道具をもちいて自分の人生を形づくり、そのなかで、さまざまな喜びを、また悲しみを、みずから生み出しています。
私たちは心の中で考えたとおりの人間になります。
私たちを取りまく環境は、真の私たち自身を映し出す鏡にほかなりません。
ジェームズ・アレン
訳者まえがき 本書は、英国が生んだ謎の哲学者、ジェームズ・アレンによって、ほぼ一世紀前の一九〇二年に書かれたものですが、世界中でいまなお着実に売れつづけているという驚異的なロングセラー書です。
正確な数字はわかりませんが、この世界の歴史上もっとも多くの読者を獲得してきた自己啓発書だと言って間違いないでしょう。
聖書に次ぐベストセラーだとさえ言われています。
いまではオンライン書店でも売られており、日本にいても簡単に買えるようになっています。
ジェームズ・アレンは生涯で十九冊の本を書いていますが、本書は彼の代名詞ともいうべきもので、文字どおり彼の代表作です。
本書はまた、のちの欧米の自己啓発書作家たちに強い影響をおよぼし、かれらの本を通じても無数の人々を勇気づけてきました。
現代成功哲学の祖として知られるナポレオン・ヒル、デール・カーネギー、アール・ナイチンゲールらを筆頭に、ノーマン・ヴィンセント・ピール、デニス・ウェイトリー、オグ・マンディーノそのほか、自己啓発文学に興味をもつ人であれば誰もが知るそうそうたる作家たちが、かれらの成功理論を補強する目的で、こぞって本書の内容を引用しているのです。
「近年の自己啓発書のほとんどは、アレンのシンプルな哲学に具体的な事例をあれこれとくっつけて、複雑化したものにすぎない」と指摘する人たちさえいます。
ちなみに、アール・ナイチンゲールとデニス・ウェイトリーは、本書のオーディオ・カセット版まで作成していて、それもまたベストセラーになっているようです。
私がこの本に初めて出合ったのは一九九〇年のことでした。
その年の正月に訪米した際、アメリカ人のある老婦人から、少し遅いクリスマス・プレゼントとしていただいたのが、この本の原書『 AS A MAN THINKETH』だったのです。
彼女は若い頃から意欲的に人生の意味を探求していた人で、本を私に手渡すときに彼女が言った「何かあって落ち込んだりしたときに読んでごらんなさい。
人生なんて、とても単純なものなのよね」という言葉がいまでも耳について離れません。
さて、これ以上の解説は、アレンの本には必要ないように思います。
あらゆる先入観を排除して、じっくりとお読みになってください。
この本が世界中でいまだに売れつづけている理由も、それでよくおわかりいただけるはずです。
二〇〇三年 三月桜川村にて 坂本貢一
「原因」と「結果」の法則/目次 訳者まえがき はじめに 思いと人格 思いと環境 思いと健康 思いと目標 思いと成功 ビジョン 穏やかな心 訳者あとがき
はじめに
この小冊子は、私の瞑想と体験のなかから生まれたものです。
よって、私はこれを、昔から頻繁に論じられてきた「思考のパワー」の完璧な解説書である、などと主張するつもりはまったくありません。
私がこの本を通じて行っていることは説明というよりも提案であり、その目的は、できるだけ多くの人たちが、みずからの手で、「自分こそが自分の人生の創り手である」という真実に気づくのをうながすことにあります。
私たちは、自分自身が選び、めぐらしている思いによって、自分の人生を創り上げています。
心は、人格という内側の衣と、環境という外側の衣の双方の、熟練した織り手です。
そして、それらの衣は、これまでは暗闇と苦悩のなかで織られてきたかもしれません。
でも、それらは、そもそも光と幸せのなかで織られてしかるべきものなのです。
ジェームズ・アレン
思いと人格
私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られています。
私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません。
「人は誰も、内側で考えているとおりの人間である」という古来の金言は、私たちの人格のみならず、人生全般にあてはまる言葉です。
私たちは、文字どおり、自分が考えているとおりの人生を生きているのです。
なかでも人格は、私たちがめぐらしているあらゆる思いの、完璧な総和です。
植物は種から芽生えます。
それは、種なくしてはあらわれることができません。
そして、私たちの行いもまた、内側で密かにめぐらされる思いという種から芽生えます。
これもまた、その種がなければあらわれることがありません。
意識的に行うことでも、無意識のうちに行うことでも、ひとつとして例外はありません。
行いは思いの花であり、喜びや悲しみはその果実です。
そうやって私たち人間は、自分自身が育てる、甘い、あるいは苦い果実を収穫しつづけるのです。
心の中の思いが 私たちを創っている私たちは 自分の思いによって創り上げられている私たちの心が邪悪な思いで満ちているとき私たちには いつも痛みがつきまとう雄牛を悩ます荷馬車のようにしてもし私たちが清い思いばかりをめぐらしたなら私たちには喜びばかりがつきまとう私たち自身の影のようにして 私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られています。
私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません。
「原因と結果の法則」は、目に見える物質の世界においても、目に見えない心の世界においても、つねに絶対であり、ゆらぐことがないのです。
私たちの誰もが内心では手にしたいと考えている、気高い神のような人格は、神からの贈り物でもなければ、偶然の産物でもありません。
それは、くり返しめぐらされつづけた、気高く、正しい思いの、自然な結果です。
そして、卑しい獣のような人格は、卑しく、誤った思いの、やはり自然な結果です。
私たちは、自分自身の思いによって、自分をすばらしい人間に創りあげることもできれば、破壊してしまうこともできます。
心という思いの工場のなかで、私たちは、自分自身を破壊するための兵器をつくりつづけることもできますし、強さと喜びと穏やかさに満ちた美しい人格を創るための、優れた道具をつくりつづけることもできるのです。
正しい思いを選んでめぐらしつづけることで、私たちは気高い、崇高な人間へと上昇することができます。
と同時に、誤った思いを選んでめぐらしつづけることで、獣のような人間へと落下することもできるのです。
そして、その両極端のあいだにはさまざまなレベルの人格があり、人間はまた、それらの創り手でもあり、主人でもあります。
私たちの魂に響くあらゆる美しい真実のなかで、次の真実ほどに私たちを喜ばせるものはありません。
そのなかには、私たちに対する神からの信頼と約束が込められています。
「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」 私たち人間は、強さと知性と愛を備えた生き物です。
と同時に、自分自身がめぐらす思いの主人なのです。
私たちは、人生で直面するどんな状況にも賢く対処する能力と、自分自身を望みどおりの人間に創り上げるために使うことができる、変容と再生のための装置を内側にもっています。
私たちは、たとえもっとも弱い、もっとも落ちぶれた状態にあるときでも、つねに自分自身の主人です。
ただし、そのときの私たちは、自分の所帯を誤って治めている、愚かな主人です。
私たちは、自分の人生に深く思いをめぐらし、それを創り上げている法則をみずからの手で発見したときから、自分自身の賢い主人となり、自分自身を知的に管理しながら、豊かな実りへとつづく思いを次々とめぐらすようになります。
そのときから私たちは、自分自身の意識的な主人となります。
でも、私たちがそうなるためには、まず、自分の内側で機能している「原因と結果の法則」をはっきりと認識しなければなりません。
そしてその認識は、みずからの試みと経験と分析によってのみもたらされます。
黄金やダイヤモンドは、ねばり強い調査と試掘のあとで、はじめて発見されます。
そして私たちは、自分の心の鉱山を十分に深く掘り下げたときに、はじめて自分自身に関する真実を発見できます。
もしあなたが、自分の思いの数々を観察し、管理し、変化させながら、それらが自分自身に、またほかの人たちに、さらには自分の人生環境に、どのような影響をおよぼすものなのかを入念に分析したならば……忍耐強い試みと分析によって、日常的で些細な出来事をも含む、自分のあらゆる体験の「原因」と「結果」を結びつけたならば……「人間は自分の人格の制作者であり、自分の環境と運命の設計者である」という真実に必ず行き着くことになるでしょう。
人間にとって、自分自身に関するこの真実を身をもって知ることは、悟りであり、知恵とパワーの獲得にほかなりません。
「求めよ。
さらば与えられん」あるいは「扉はそれを叩く者に開かれる」という絶対法則は、ほかのどんな方向にでもなく、この方向にのみ存在しています。
知恵の寺院の扉は、忍耐とあくなき探求なくしては、けっして開かれることがないのです。
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