太宰治が言っていること「人をうわべだけで見る。下品とはそのことだ」「ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである」この言葉は、太宰治の絶筆となった連載随想『如是我聞』に出てくる言葉です。『如是我聞』は次のような書き出しではじまります。〈他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す〉(『青空文庫』底本:『もの思う葦』新潮文庫)『如是我聞』は、晩年の太宰が記者に口述筆記させたものです。1948(昭和23)年3月から『新潮』で連載が開始し、同年6月13日に太宰が玉川上水で入水自殺したあとも、翌月の7月まで4回に分けて掲載されました。その内容は、既成の文壇に対する過激極まりない批判でした。その文中で、太宰はこう書きます。〈私は、或る「老大家」の小説を読んでみた。何のことはない、周囲のごひいきのお好みに応じた表情を、キッとなって構えて見せているだけであった。軽薄も極まっているのであるが、馬鹿者は、それを「立派」と言い、「潔癖」と言い、ひどい者は、「貴族的」なぞと言ってあがめているようである〉ここで太宰が言う「老大家」とは、当時、文壇の頂点に立ち、大きな影響力を持っていた志賀直哉のことです。さらに太宰は、志賀直哉を取り巻く人々に対しても、次のような、恨みにも通じる激しい言葉を吐いています。〈後輩が先輩に対する礼、生徒が先生に対する礼、子が親に対する礼、それらは、いやになるほど私たちは教えられてきたし、また、多少、それを遵奉してきたつもりであるが、しかし先輩が後輩に対する礼、先生が生徒に対する礼、親が子に対する礼、それらは私たちは、一言も教えられたことはなかった〉そして、こう断じるのです。〈ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである〉そもそも、太宰治と志賀直哉の対立は、『文学行動』(1948年1月発行)という同人雑誌に掲載された「志賀直哉広津和郎両氏を囲んで現代文学を語る」と題する座談会で、「太宰治はどうです」と聞かれた志賀直哉が、〈年の若い人には好いだろうが僕は嫌いだ。とぼけて居るね。あのポーズが好きになれない〉と答えたのが最初のきっかけでした。その後も、志賀の太宰に対する批判発言は、続きました。〈二、三日前に太宰君の「犯人」とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思ったね。始めからわかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし……〉(雑誌『社會』同年4月号)〈太宰君の「斜陽」なんていうのも読んだけど、閉口したな(中略)あの作者のポーズが気になるな。ちょっととぼけたような。あの人より若い人には、それほど気にならないかも知れないけど、こっちは年上だからね、もう少し真面目にやったらよかろうという気がするね。あのポーズは何か弱さというか、弱気から来る照れ隠しのポーズだからね〉(雑誌『文藝』同年6月号)こうした志賀直哉の言葉に、太宰が反発したくなったのも当然でしょう。太宰の反発は単に志賀直哉個人に向けられたものではなく、文壇全体に向けられたものであった、あるいは、自分がなかなか認められないことに対して激しい焦燥感を持っていたからだ、などと分析する人もいるようです。『如是我聞』は、読む人によっていろいろな受け取り方がされると思います。いずれにしても文学論議は私の手には余るので、専門家に任せたいと思いますが、私なりに太宰治の立場に立って読み取ることがあるとすれば、「いいものを着て、上品な言葉を使い、いいものを食べて、身だしなみがちゃんとしている人を見れば、それだけでひとかどの人物だと判断してしまいがちだが、そんなうわべのことだけで人を判断するのは、決して品のいいことではない」ということなのではないか、と思うのです。もちろん、外見によって人がつくられる面もあるでしょう。しかし、外見を真似ただけの偽物や、仮の姿というのは、いずれ化けの皮がはがれてしまう……。太宰がいわんとするのは、そういうことではないでしょうか。
「そうじ力」で心を整える「丁寧な暮らし」が品位を生むたとえば、乱暴な言葉遣いや振る舞いをする人、あるいは身だしなみに気を遣うことなくボロボロで不潔な格好をしている人を、「高貴な人だ」などと言う人はいないでしょう。ぞんざいな言動しかできない人には近寄りたくもない、というのが多くの人の正直な気持ちです。つまり、ぞんざいな人の周りにいるのは、本人と同じように品のない人ばかり、ということになってしまいます。また、ぞんざいな言動しかできない人は、ルーズな生活をしていることが多いように思います。生活のリズムがいい加減で、食生活も貧しかったり、部屋の中はゴミだらけで、服も脱ぎ散らかしたままだったり……。いわゆる生活が荒れているのです。ぞんざいな人に見られる大きな特徴は、ついつい「あとでやればいいや」とあと回しにしてしまう性格です。「今、忙しいから」「この仕事が終わったら」などと、あれこれ理由をつけては、問題を先送りにしようとします。しかしその結果、収拾のつかない状態に追い込まれていってしまうのです。それに対して、品がよく丁寧な立ち居振る舞いのできる人は、きちんとした生活を送っています。私は、そういう意味で、〝品位〟とは「丁寧な暮らし」から生まれるものではないかと思っています。常に物を丁寧に扱う人や、同じ物をきれいに長く使っている人を見て、あなたはどう感じますか?人間としての繊細さや、それこそ品のよさを感じませんか?物をいとおしむ気持ちを持ち、そういう暮らしをしていると、人に対しても同じような気持ちが生まれるでしょう。物を傷つけたり壊したりすることがないのと同じように、人に対しても傷つけたり、冷たく接したりはしないのではないでしょうか。実際、持ち物をこまめに手入れしたり、きちんと整理したりする習慣を身につけている人は、人に対しても細やかな心遣いができますし、何より心穏やかで、人に信頼感を抱かせる雰囲気を持っているものです。実業家・コンサルタントの本田直之さんは、心や生活が乱れてきたときは、まず「整理整頓」からはじめるといい、とおっしゃっています。脱いだ靴を揃えるとか、読み終えたあとほったらかしだった雑誌を処分するとか、手をつけやすいところからはじめれば、それをきっかけに、丁寧な暮らしを取り戻していけるのだそうです。物を揃えたり整えたりすることで、気持ちも整い、心地よい暮らしのリズムを手に入れることができます。また、お掃除も効果を期待できそうです。身の回りがきれいに整理されていくのと同時に、心のデトックスもできます。部屋に風を通すことなくほこりだらけにしていると運気が回らない、とも言われますよね。毎日掃除ができればそれに越したことはないのですが、働いているとそうもいきません。1週間に1回、もしくは10日に1回、それも難しいなら1か月に1回でもいいので掃除する、と無理のないルールをあらかじめ決めておいたり、仕事が一段落したら掃除をすると事前に予定を立てておいたりすれば、とりかかりやすいでしょう。「よし、掃除をやろう」と改めて思うことで、心のリセットボタンを押すような感覚になれます。毎日惰性で掃除をするより、よほど効果があるかもしれません。不思議なもので、片づけが終わると、「さあ、次!」という気持ちになれるものです。生活の乱れが整い、きちんとしたリズムの中で生きていけるようになると、周囲の人たちにも、「あの人はとても安定感がある」「どことなく品がある」といった印象を持たれやすくなるものです。『人生がときめく片づけの魔法』の著者である近藤麻理恵さんも、「毎日整理しなくていい」「1か月に1回、お祭りのように整理をするだけで、心がリセットされる」と言っています。私たちもそうやって、少しずつでいいから生活にリズムをつくり、心を整えていきたいものです。「あの人は品がある」と言われる日を目指して……。
一期一会の精神で生きる品がいい人は、人もチャンスも引き寄せる人は、自分ひとりで生きているのではありません。社会生活を送る中で、「自分の居場所=生き方」を見つけていくものです。ましてや最初から完璧な人間なんていません。誰もが多くの人との出会いを通じて成長していきます。いつ、どこで、どんな人と出会うかで、その人の一生が決まると言っても過言ではないでしょう。それを教えているのが、「一期一会」という言葉です。「一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること」を意味するこの言葉は、もともと「どんな茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきである」という茶道の心得からきた言葉です。「生きていれば、どんな出会いがあるかわからない。その出会いの中には一生を左右する出会いがある。だからこそ人との出会いは生涯に1回しかないと考えて、いつも大切にしなさい」という教えだと考えればいいでしょう。そういう意味で、結婚披露宴は、まさに一期一会の場と言っていいでしょう。その日、その場所に集まったメンバーが、再び同じように集まる機会は二度とありません。だからこそ、私たちは誠心誠意お客さまに接するわけですが、みなさんにとっての一期一会の場も、いろいろな場所で生まれているはずです。職場での出会い、趣味の世界での出会い、子どもを通しての出会い……。現代社会を生きる人にとって、生きることは人と出会うことと同じ、と言ってもいいほどです。長く生きていると、出会った人に関わりのある人の中に、共通の知人や友人がいることもしばしばです。ただ、少し踏み込んでその人と話をしなければ、共通の友人を探すことはできません。私は職業柄、はじめて出会った方と少しでも打ち解けるために、共通の話題を見つけ出すことに必死になります。ご出身は?お住まいは?出身校は?相手の様子をうかがいながらですが、聞ける範囲で踏み込んでみます。つい先日も、プライベートで出かけた上海旅行で出会った方が、海外勤務の長い方で、話題も豊富でいらしたので楽しくお話をしていたところ、同年代ということがわかり、何か共通点があるはずだと記憶をたどってみました。その方と同じ会社に就職した大学時代の同級生のことを思い出し、名前を出してみたところ、なんとその方の同期であることがわかり、話は一段と盛り上がりました。出会いのチャンスは誰にでも同じようにあると思います。ただ、その出会いを大切にして、今後につないでいけるかは、自分の振る舞い次第だと思います。パーティーや旅先で知り合った人と、今後会うこともないからとその場しのぎの会話をするのではなく、相手に興味を持って話してみる。丁寧に接してみる。そうすることで、あなたの人生は2倍にも3倍にも広がり豊かになることでしょう。どんな場であっても、どんな人であっても、決してないがしろにせず、相手に敬意を払い、一期一会の精神をもって接することです。それが、あなた自身の人生にチャンスをもたらすと同時に、あなたの品格を高めてくれるのだと思います。
自分へ投資もいいけれど……人のために使ったお金は、自分に返ってくるお金の使い方は人それぞれです。いわゆるケチと言われる人にも、チマチマした感じのかわいらしいケチンボさんもいれば、それこそ「吝嗇」と漢字で書きたくなるような徹底した人もいます。お金は無尽蔵に入ってくるわけではありません。きちんと管理して使うことが大前提で、あと先考えずに浪費する人は、いい加減な人だと思われかねないでしょう。どこかで倹約することは、もちろん必要です。ところで、「倹約」と「ケチ」を混同する人がいますが、私はまったく別だと思います。何か明確な目的を持って無駄遣いを控えているが、必要なときにはしっかりお金を出すような人は「倹約家」だと考えます。一方、軽蔑の気持ちを込めて、「あの人は本当にケチだ」とか「吝嗇家だ」といった厳しい言葉を口にしたくなる相手もいます。それは、人付き合いを軽く見て、自分が得をしないことには絶対にお金を使わなかったり、何をするにもお金に執着したりするような人に対してではないでしょうか。たとえば、会社の仲間が退職することになったとき、送別会が会費制だからと「今月、小遣いがないから行かない」なんて平気で言う人もいます。徹底しているとも言えますが、なんだかむなしいですよね。そんなことを繰り返していたら、真剣に寄り添ってくれる人がいなくなってしまうでしょう。最近の若い人の中には、アルバイトでそれなりに稼いでいるのに、仲間との集まりには「お金がない、お金がない」と騒いで出席しない人もいます。そんな人は、一方で、ディズニーランドの年間パスポートを持っていたり、コンサートへ行ったり、洋服にはお金をかけていたりするのです。また最近の傾向として「自分への投資」と称し、高い授業料を払ってセミナーに行ったり、エステに行ったり、セレブが集うような高級スポーツクラブの会員になったりする人も増えているようです。お金をどこに使うかは、その人の価値観によって違います。立派な家がほしい人もいれば、車にお金をかける人もいますし、身につけるものに費やす人もいるでしょう。ちなみに我が家は、食いしん坊でお酒に目がない夫婦なので、かなりのエンゲル係数です(笑)。好きなことにお金をかけたり、自分に投資したりするのは、悪いことではないと思います。ただ、それだけでは、人情の機微にふれることもなく、わびしい人生になってしまいます。人間関係を広げるために、「人付き合い」にも、ある程度のお金をかけるのは必要なことだと思います。私はさまざまな事情により、金銭的なピンチに陥ったことは、これまで一度や二度ではありません。しかし、そんなときでさえ、いえそんなときだからこそ、人とのお付き合いにはできる範囲でお金をかけていました。さすがに、食事に行ったり飲みに行ったりする機会は減らさざるをえません。が、お世話になった方への盆暮れのご挨拶は欠かしませんでしたし、お世話になった方が退職されるとか、転勤になると聞けば、気持ちですが贈り物を差し上げました。また、送別会があるとわかれば、必ず出席しました。人への気持ちや思いは、形に表さないと意外とわからないものです。物を贈る場合には、高価なものである必要はなく、ひと言メッセージを添えて、思いを託してお渡しすることに意味があると思います。多少無理をしてでも、礼を失することなく、義理を欠くことなく生きていると、本当に困ったときに手を差しのべてくれる人が出てくるものです。たとえば贈り物をした相手から、お礼の電話のついでにと、仕事が舞い込んでくることもあります。困っているときには、ありがたい話です。組織の中で働いていれば、転勤した人がいつかは偉くなって戻ってこないとも限りません。印象に残るような送り出し方ができれば、将来の出世につながるかもしれないのです。もっとも、人とお付き合いをする中で、見返りを求めたり、あてにしたりしてはいけません。損得で動くのは言語道断です。でも人間は、感情の動物です。人のために使ったお金が、いい形になって返ってくるのは、ままあることではないでしょうか。
日々を変える朝10分の過ごし方ガツガツしないこと、バタバタしないこと生きていくためにお金は必要不可欠ですが、だからといってお金の話ばかりする人は、どうにもガツガツした印象が強く、「品位がない」と感じられます。私は司会業のプロダクション業務も行なっており、司会者に仕事を発注します。そのとき、人によっては仕事の内容より先に、「で、ギャラはいくらですか?」と、最初にお金の話をするのです。たしかに大事なことですが、〝まずそれですか!〟と思ってしまうのです。あるいは、「私、これ以下ではやりませんから」と予防線を張る人もいます。一方で、ギャランティーなど関係なく、多少難しい仕事であっても、快く引き受けてくれる人がいます。こういう人には、予定しておいたギャランティーに色をつけたくなるのが人情です。その余裕のある様子には、頼もしさと品のよさが感じられます。余裕がある人、といって私が思い出すのは、ソフトバンクの創始者である孫正義さんです。数多くの事業を展開し、運用する資金は国家レベルと言われ、有利子負債もかなりのものと聞きました。しかし、孫さんにはまったくガツガツしたところがありません。自らの経営方針に対する自信と、頭の中に描かれた壮大なビジョンが、孫氏の余裕と非凡なイメージを生み出しているのかもしれません。そこに納得できるものがあるから、彼の示すビジョンに投資する人が、世界中にいるのでしょう。では、凡人の私たちには何ができるでしょうか。大事なのは、目先の小さな欲にとらわれないことです。たとえば、先の司会業の例の場合、仕事を依頼する側として次回また発注したくなるのは、ギャラにかかわらず引き受けてくれた後者の人です。こういう人こそ、ギャランティーはしっかりお支払いしなければ、と思うものです。もっとも引き受ける側からすれば、ギャランティーが相場からほど遠い場合には、安請け合いをしてはいけません。ただ例外もあり、事情があって通常より少しばかり低い金額であったり、恩のある人からの依頼であったりすれば、迷わず引き受けましょう。その姿勢が、「また次回お願いしたい」という気持ちを相手に抱かせるのです。こういう人は、きっと「将来なりたい自分」を思い描いているのだと思います。一流の司会者になりたい。そのためには経験を積まねばならず、仕事を選んでいる場合ではない……と。目の前のことだけ考えるのではなく、ちょっと先に目を向けてみる。そんな余裕がほしいものです。また、なにかとバタバタする様子も、品がよいとは言えません。時間の使い方を工夫する必要がありそうです。時間に追われると、どうしてもバタバタしてしまいます。追い込まれるにしたがって、心もギスギスしていきます。それを防ぐために、事前に準備するための時間をつくりましょう。たとえば朝10分早く起きる。そんな小さなことからはじめればいいのです。10分早く起きれば、出がけに紅茶を1杯飲む余裕をつくれます。1杯の紅茶で心を整えてから出かけると、ふだん目に入らなかった季節の花に思わず目がとまったり、耳に入らなかった鳥のさえずりが聞こえたり……。あなたを取り囲む風景が、ガラリと変わって見えるはずです。自分自身に余裕を持たせるためには、小さなことの積み重ねが大事になってくるのでしょう。
心に余裕をつくる不思議な言葉「ごきげんよう」と挨拶してみませんか?顔つきや話し方、あるいは態度に、〝トゲトゲしさ=険〟を含む人は、どことなく下品に思えてしまうものです。以前、韓国においてパワハラ問題で大きな話題となった、ナッツ姫・水かけ姫こと大韓航空社長の娘たちが、部下を責めているときの表情や口調には、共通した激しい攻撃性が感じられました。ふつうにしていれば決して悪い印象を受けることはないでしょうし、笑顔もそれなりなのに、キレるとそれこそ鬼の形相になってしまうのです。あまりの迫力に驚きを通り越して、恐怖を感じた人も多いと思います。パワハラの問題は、韓国に限った話ではありません。日本でも国会議員や、各種スポーツ団体の重要ポストにいた人物たちが、パワハラを次々と指摘され、しばしばニュースを賑わせています。実際のパワハラ映像や音声がネット上で拡散されて報道されるケースもあり、あまりにもひどい差別的な発言や誹謗中傷に、なぜそこまで汚い言葉を口にできるのかと耳を疑ったものです。ひどい言動を取る人たちは、きっと不平不満や、不安や、もっとドロドロとした感情を心に抱え込んでいて、ある一線を越えると、相手に対する攻撃を止められなくなってしまうのでしょう。私たちは、彼らの言動を他山の石だと思って、自分は決して同じ過ちを犯さないように、気をつけるしかありません。自分の心にトゲトゲしさをつくらないために、できることはあるのでしょうか。そう考えたとき、ひとつ思いついたことがあるのです。私は千葉県の公立高校を卒業したのち、白百合女子大学に進学しました。事前に、白百合では「ごきげんよう」と挨拶するのだと聞いていたのですが、入学してから、みんなが頻繁に「ごきげんよう」を使っているのを実際に目の当たりして、「アラ本当!」とびっくりしてしまいました(笑)。この「ごきげんよう」は、とてもいい言葉です。友人と意見のぶつかり合いなどしても、別れ際に「ごきげんよう」と口にすると、お互いに不思議と笑顔になって、「また明日ね」という気持ちになれるのです。「ごきげんよう」は、私の心に余裕をくれる、不思議な力を持っている言葉でした。みなさんも、「ごきげんよう」で心の余裕をつくりませんか?朝の挨拶、別れの挨拶を、「ごきげんよう」にしてみましょう。急に使いはじめると周りの人が驚いてしまうかもしれませんから、身近な人には「ごきげんよう」の不思議な力をひととおり説明しておいたほうが無難かもしれませんね。目標は、家族の方や友人も巻き込んで、「ごきげんよう」を浸透させること。丁寧で、品がよく、心を落ち着かせてくれる「ごきげんよう」が飛び交うことで、そこにいる人たちの品格までも高めてくれるはずです。
あえて一歩引くべきとき「奥ゆかしい人」になる五つのポイント「いただきます」「ごちそうさま」をきちんと言える人は素敵です。日本人らしい〝奥ゆかしさ〟を感じられます。しかし最近、食事の挨拶をきちんとしない人が増えているような気がします。家族全員が揃って食事をする家庭が少なくなったことが原因とされていますが、外食の機会が増えていることも大きな要因かもしれません。外食では、自分の前に料理が出てくるタイミングで食べはじめ、食べ終わると店員さんがサッとお皿を下げてくれます。他の人の食事のタイミングは、あまり気になりません。食後は軽く会話を楽しんだりして帰路につく……。要するに、「いただきます」や「ごちそうさま」を言うタイミングが、つかみにくいのです。そんな中でも、ときどき小さな声で「いただきます」「ごちそうさま」をきちんと言う人を目にすることがあります。だからといって、それを誰かに無理強いすることもなく、ただひとり淡々と、当たり前のように、自然と礼儀を尽くしているのです。そういう人にこそ〝奥ゆかしさ〟を感じます。また、「きちんと躾けられて育ったのね」と微笑ましく思います。〝奥ゆかしい〟という言葉は、もともと「深みと品位があって、心がひかれる。深い心遣いが感じられて慕わしい」(デジタル大辞泉)という意味で、男女を問わず使われてきた言葉ですが、近年ではどちらかといえば、もの静かで楚々とした女性に対して使われるようになりました。もっとも、活発で何事にも積極的な女性が増えるにつれて、〝奥ゆかしい〟という言葉は死語になりつつあるようです。たとえば結婚披露宴では、結びに新郎のお父さまが両家を代表して謝辞を述べ、ラストは新郎の言葉で締めるのが、最近の一般的なケースです。ところが、なかには「私も話します」とおっしゃる新婦もいます。新郎が謝辞を述べるのなら、自分も謝辞を述べたいというわけです。もちろん、それを止めることはしませんが、私個人としては、できれば控えたほうがいいと思っています。なぜなら、新郎側のお客さまやご年配の方の中には、最後の最後に新婦が出てきてスピーチすることに、違和感を覚える人が多いからです。そもそも結婚式は、花嫁を中心にしてことを進めていきます。花嫁をいかに引き立てるかが勝負のポイントです。特に最近は、両家というより新郎新婦ふたりの意向で段取りを決めることが多いので、新婦の意見が取り入れられやすいのです。ですから、「最後ぐらいは新郎にまかせたほうがいいのでは……」と思うのです。もちろん私自身、女性が社会進出し、自分らしく生きていくことには大賛成です。しかし、こと結婚式・披露宴の場では、女性はあえて一歩引いて、奥ゆかしさを打ち出したほうが、かえって素敵に見えるものです。たとえば、友人だけを集めてのパーティー(1・5次会)でしたら、新郎と新婦がふたりでスピーチするほうが、むしろ今の時代にあったやり方でしょう。一方、日本の結婚式には、まだまだ〝嫁ぐ〟という文化が色濃く残っています。ですから、その場であえて花嫁が、自分の存在をアピールする必要はないように思うのです。新郎の親御さま、親戚の方、あるいは上司がいる席では、新郎を立てておく。そう判断できる女性のほうが、賢明なように思います。かなり戦略的ですが、ここ一番というときには一歩引くのが、現代版大和撫子の知恵と言えるかもしれません。およそ、奥ゆかしいと言われる女性は、次のようなタイプです。①常に周りの状況をよく見ていて、いろいろなことによく気がついて、細かく気配りができる人②常日頃から落ち着いていて、むやみにはしゃがないし、言葉遣いも丁寧な人③基本的に聞き上手で、自分の話はあまりせず、ましてや自慢話などしない人④日頃は控えめだが、教養があり、必要とあれば知的で的を射た発言ができる人⑤マナーや礼儀がしっかりしていて、必要以上に自分をアピールしなくても、洗練されたイメージを相手に与えられる人ただし、奥ゆかしい人と思われるか、単におとなしい人と思われるかは紙一重です。最終的に両者を分けるポイントは、凛とした自分らしさを持っていて、自分に自信があるかどうかではないでしょうか。それこそが、現代に通用する奥ゆかしさを身につけるために、大事なことなのかもしれません。
節度をわきまえる何事も「ほどほど」なのが品がいい前述の「一歩引く」に通じることですが、品よく見られるためには、「節度をわきまえる」ことも大切です。たとえば、会議の場で上司が発言する前に、自分の主張を声高に並べ立てるような行動に出たりすれば、たとえそれが正論だったとしても、周りの人たちは眉をしかめてあなたを見るでしょう。もちろん、正当な理由があり、そうせざるをえないという覚悟があってのことなら、しっかり主張してください。しかし、そんな場面はそうそうありません。基本的には、どんなときでも、その場がどういう場であり、自分がどんな立場にあるのかを十分に認識した上で、行動すべきです。それが「節度をわきまえる」ということなのです。人との関係において「節度をわきまえる」ために、まずはしっかり相手との距離を保つことです。フランクに接することと、相手のテリトリーにズカズカと踏み込んでいくことは違います。ごく稀に、怖いくらいズカズカと踏み込んでいるのに、相手に嫌な思いをさせることなく、自然に心を開かせてしまう人もいます。落語家でタレントの笑福亭鶴瓶さんのような人です。相手の懐に入るのがうまく、気がつくとみんなを仲間にしてしまいます。素晴らしいと思いますし、あんなふうになれたら素敵だなと思います。もっとも、とても真似できることではありません。一般的には、相手にあまりに近づきすぎると嫌がられるものだと、知っておきましょう。相手との距離感を「ほどほど」に保つほうが、賢いやり方です。この「ほどほど」な距離感は、自分にとっても都合がいいのです。たとえば、よくない噂話に巻き込まれそうになったとき、相手との距離が「ほどほど」に取ってあれば、それを回避することも難しくないでしょう。古代ギリシアの哲学者プラトンは、「己に打ち克つことこそ、最大の勝利である」という言葉を残しています。自制すること、すなわち節度ある行動が大切であると教えているのです。特に注意したいのが、お酒の席。素面のときはまったく問題ない人でも、酔ってくると、予想もしない行動で騒動を起こす人がいます。よくあるのは、「今日は無礼講だよ」という上司の言葉を真に受けて、本当に言いたい放題、やりたい放題の暴挙に出る人です。場を盛り上げるつもりなのか、突然服を脱ぎはじめたり、下ネタを連発したりする人もいます。あるいは、上司や同僚に対して乱暴な言葉遣いをしたり、平気で人格を傷つけるようなことを口にしはじめたりする人もいます。多少のことなら、酒の席のことだから、あの人はお調子者だからと許されるかもしれません。しかし度が過ぎると、その姿はむしろ滑稽であり、ひどい悪印象を周りに与えかねません。百歩譲って、日頃から溜め込んだ不満や怒りが、酔った勢いで一気に表面化してしまったのだとしても、限度があります。そこから品性を感じることはできません。あげくの果てに、相手に手を出すような暴挙に出てしまえば、もうどんな言い訳も通用しないでしょう。信用は失墜し、取り返しのつかないことになります。そうした光景は、結婚披露宴の席などでもよく見かけるのです。お酒を飲んで酔いが回ってくると、相手かまわず近くにいる人にからみ出す人がいます。スタッフがさりげなく会場から連れ出したり、なだめたりして、なんとか大きなトラブルに発展しないように対応するのですが、その方が失った信頼までは取り戻せないのです。楽しいお酒の席を、「ほどほど」にたしなめば、ざっくばらんに本音を言い合える交流の場になります。しかし、節度をわきまえず、暴走してしまうと、取り返しのつかない事態になりかねません。「ほどほど」には、相手を許容する寛容性を持ちつつ、分相応に振る舞うという意味があります。それは、品性ある行動につながるのではないでしょうか。
苦手な人との付き合い方嫌いな人にこそ丁寧に接する、という知恵どんな人でも、嫌いな人、苦手な人のひとり、ふたりはいるものです。そんな人と会話するのは苦痛ですし、できれば避けたいと思ってしまいます。でも世の中、そんなに都合よくいくものではありません。ビジネスをする上でどうしても付き合わなければならないこともありますし、上司や同僚なら、否応なく、日常的に接することになります。そこで必要になるのが、〝嫌いな人、苦手な人にこそ、丁寧に接する〟という知恵です。人間関係は一方的なものではなく、お互いの気持ちの上に成り立っています。そして多くの場合、あなたが嫌いだ、苦手だと思っている相手は、同じようにあなたのことを嫌いだ、苦手だと感じているものです。その関係を放ったままにしていては、決して改善されることはありません。そこで、相手が心を開くように、自分のほうから相手に丁寧に働きかけてみるのです。苦手な人にこそ〝先手必勝〟。苦手意識に無理やりフタをして、自分から声をかけてみるのです。それまでは「お疲れさまです」で終わらせていた会話に、「お忙しそうですね」「寒くなってきましたね」などと、社交辞令的な言葉でいいので、必ずひと言プラスしてみましょう。たったひと言でも、毎回、毎回、言葉をかけ続ければ、相手も「気にかけてくれているのかな?」と思うようになるでしょう。そして、自分を気にかけてくれる人に対して悪い感情を抱き続けるのは、意外と難しいものです。瞬く間に意気投合、というわけにはいかないかもしれませんが、相手の態度は次第に軟化してくるはずです。相手に丁寧に接しよう。その意識を持つだけで、自分が相手に対して抱いているマイナスの感情が暴走するのにブレーキをかけられますし、相手に対する口調も物腰も自然とやわらかくなるので、相手が心を開いてくれるきっかけをつくりやすくなります。それでもダメなときは?残念ですが、諦めて逃げたほうがいいかもしれません。物理的に距離を取り、それ以上無理をして声をかける必要はないでしょう。関係をこじらせてお互いにストレスを抱えるより、「そういう人もいる」と割り切って、距離を置いたほうが、双方にとっていい結果になるはずです。そういった見極めができるようになるのも、おだやかに、余裕をもって日々を過ごすためには、必要なことでしょう。
自分で自分を貶めない「自分」を磨こう、「生き方」を磨こう最近、公共の場でやってはいけないことと、やっても許されることの境目が、あいまいになっているような気がします。以前、渋谷でハロウィンに浮かれた若者たちが車を横転させ、その上で飛び跳ねるなどという、もう呆れるしかない騒ぎを起こしました。もちろん、それが論じるにも値しない下品な行為であることは言うまでもありませんが、どうも最近、日本人の公共の場での立ち居振る舞いが、粗雑になっているような気がしてなりません。振り返ってみれば、私も若い頃、友人と電車の中で大声を出して話していたこともありますし、今でも女子会など親しい仲間との会では、他のお客さまの存在を忘れて盛り上がってしまうこともあるので、反省しきりですが……。私たちは、そうした恥ずかしい行動がいかに自分を貶めることになるかを自覚すると同時に、できるだけそうしないように肝に銘じて、常に意識していくように努力するしかないでしょう。たとえば、身近なところでは、スマホです。少し前に、女子大学生が右手に飲み物を持ち左耳にイヤホンをつけた状態でスマホを操作しながら電動自転車を運転していたために、高齢の方にぶつかって、死亡事故になってしまったことがありました。この場合は、マナーというより明らかにルール違反ですが、ふだん何気なくしている行為が度を越すと、このような事件になってしまう可能性があるという、私たちにとって戒めになるような出来事だったと思います。根本には、自分さえよければよいという、身勝手な考えがあるのだと思います。品性ある生き方をするためには、利己的にならないことを前提にして、自分自身で何が正しくて何が悪いかを判断して生きていくための知恵を持つことが大切です。そのためにも、品のいい人から多くのことを学ぶための感性を磨いていくべきだと思います。(了)
鹿島しのぶ(かしま・しのぶ)白百合女子大学文学部英語英文学科卒業後、会社員を経てプロの司会者として活動を開始。(株)総合会話術仟言流の代表を務め、ブライダルプランナーの役割も兼ね備えたプロ司会者の育成にも力を注いでいる。また、2017年まで駿台トラベル&ホテル専門学校ブライダル学科長を務め、ブライダル関連、接遇会話、ビジネスマナーの授業を担当した。著書に『「また会いたい」と思われる人』(三笠書房)、『敬語「そのまま使える」ハンドブック』『大人の表現「そのまま使える」ハンドブック』(以上、三笠書房《知的生きかた文庫》)などがある。
いかに相手を立てるか「この人のいいところは、どこだろう?」私たちが社会生活を営む上で、忘れてはならないことのひとつが、「相手を立てる」という気遣いです。人間はひとりでは生きていけませんから、周囲の人とどんな関係を築くかで人生は大きく変わります。そして、人に好かれ、周囲と良好な関係をつくっていくためには、「いかに相手を立てるか」が大きなポイントとなるのです。そもそも「相手を立てる」とは、〈人を自分より上位に置いて尊重する。また、自分は退いて人の面目を立てる〉(デジタル大辞泉)ということであり、〝相手に敬意を払う姿勢を示すこと〟と言い換えてもいいでしょう。しかしなかには、相手に対して卑屈になったり、へりくだったりすることが「相手を立てる」ことだと勘違いして、「そんなこと、絶対にしたくない」と思っている人もいるようです。たしかに前述したとおり、必要以上にへりくだるのは、自らを貶めることになるので避けるべきです。ですが、「相手を立てる」という姿勢は、決して「下手に出る」ということではありません。また、自分の品位を保ち、人に好かれるためには、おおいに役立ちますから、ぜひ、そのノウハウを身につけてほしいと思います。まず、「相手を立てる」ことが大きな効果を発揮するのは、相手より自分のほうが上位に立っている場合です。たとえば、部下にはついつい上から目線で接しがちですが、それを繰り返していると反感を買うでしょうし、部下のやる気を削いでしまい、いい結果にはなりません。それよりも、部下の能力を認めて、ある程度はまかせたほうが、いい結果が生まれます。もちろん、部下の力量を見極めた上でフォローする必要はあります。それを踏まえた上で、みんなの前で「君ならやれる!」と声をかければ、本人もやる気になりますし、周囲もその人を認めるようになり、プロジェクトの進行もスムーズになります。これが「相手を立てる」ということであり、同時に上司としての自分の力量を示すことにもなるのです。逆に相手が自分より上位にある場合も、「相手を立てる」ことが大切なのは言うまでもありません。「相手を立てる」ことは「相手に敬意を払う」ことだと前述しましたが、部下から敬意のない言動をされて気分を害さない人はいないでしょう。表面上は受け流しているように見えても、心の底では「道理をわかっていないヤツだ」と思うのが人間です。つまり、相手が自分より上位にある場合は、その人を立てる姿勢を取ることを基本にすべきなのです。特に上位にある人が、プライドの高い人である場合はなおさらです。この手のタイプは「なんでも言いたいことを言っていいよ」と口では言うのですが、それを真に受けて対等な立場で接してしまうと、心の中で「自分をバカにしているのか!」「調子に乗っているな」と憤慨しているかもしれないからです。ところで、「相手を立てる」といっても、具体的にどうすればいいのでしょうか。上手に相手を立てるために必要なのは、相手のいいところを見つけることです。大仰に考えることはありません。その人のパーソナリティー自体にほめるところが見つからなければ、些細なことでいいのです。たとえば、服装をほめるとか、持ち物をほめるとか、出身校をほめるとか、笑顔をほめるとか……。大事なのは、言葉に出してほめることです。どんな人でも、自分のことをほめ、立ててくれる人を前にすれば、笑顔になります。私も結婚披露宴の司会をしながら、緊張している新郎新婦の気持ちをほぐすために、「いい環境でお育ちになったんですね」「そのドレス、本当にお似合いですね」などとほめ言葉をかけることがあります。新郎新婦の詳しいパーソナリティーまではわからなくても、いいところを見つけてほめることはできます。ほめられれば相手は心を開いてくれますし、緊張を解きほぐすこともできるのです。「この人のいいところはどこだろう?」人に出会ったら、まずはそんな視点で相手を見つめる習慣をつけましょう。品のいい人は、相手のいいところを見つけ、上手にほめる人なのです。
人を笑顔に導く法ほめ上手な人は愛される相手といい関係を築くために、こちらから積極的に働きかけることが必要な場合もあります。そういうとき、〝ほめて、相手を乗せる〟のもひとつの手段です。私が講師として学生たちと接するとき、彼らにはふたつのタイプがあると感じます。ひとつは、ふだんからいろいろと話しかけてくる学生たちで、こちらから働きかけなくてもある程度はコミュニケーションが取れますから、さほど心配はいりません。問題なのは、何も言わない、声を発しない学生たちです。なかには、大きな悩みごとがあるにもかかわらず、誰にも相談できず、ひとりで悶々としている場合もあります。そんな〝SOSが出せない学生〟を見つけたら、こちらから声をかけることを私は心がけてきました。声をかけるときは、なんでもいいから、その人のいいところを見つけて、ほめるのです。ときには、オーバーアクションすぎるくらいに「すごいね」と、みんなの前でほめたたえます。もし、就職活動中の学生が、二次試験に落ちて意気消沈していたら、「なかなかあそこの会社、通らないよ。一次を突破しただけでもすごいよ。今まで一次を突破した人、見たことないよ」などとほめます。その言葉がすぐに効果を出すわけではありませんが、根気強く何度か繰り返すうちに、学生は心を開いてくれます。周囲もほめられる様子を見て、その学生を認めるようになります。そうしたことの繰り返しが、学生が自信を持ち、自分を再発見して、成長していくことにつながっていきます。この図式は、社会人にも当てはめられます。言葉は悪いかもしれませんが、ほめて、相手を乗せることで、その人の気持ちをプラスに持っていき、前向きに生きる力を培っていくのです。そういう意味で私は、相手の持っている潜在能力を信じ、上手に乗せてあげることも、前項の「相手を立てる」ことにつながっていると思っています。そして、周りの人を明るい方向、前向きな方向へと導いていける人が、愛されないわけはないのです。
「いい出会い」のつくり方第一印象をよくする、たった一つのコツ初対面の人と会うのを苦手とする人は、かなりの数にのぼります。緊張して何を話していいのかわからないし、面倒くさいと言うのです。しかし、すべての人とのつながりは初対面からはじまります。そこから逃げていては、いい出会いも生まれませんし、人脈をつくることもできず、自分の人生の幅を狭めてしまうばかりです。そもそも初対面だからと堅苦しく構えるから、「なんとなく嫌だなぁ」ということになるのです。初対面では「感じよく」という点だけを心がければ十分だと思います。たとえば、結婚式の打ち合わせで親御さまと会うときには、「ご立派なご子息で」とか「お嬢さまはお美しくて」が鉄板フレーズです。そう言われて、嫌な気持ちになる親御さまはいないからです。「まあ、そんなことないわよ」とか謙遜しながらも、心の中では「そうなのよねぇ。この人わかっているわね」と思うのです。初対面ではとにかく第一印象が大切です。そこで相手に、「感じがいいわね」と思ってもらえるかどうかで、それ以降のやりとりがスムーズにいくかどうかも決まります。もちろん、最初は悪い印象だったけれど、話しているうちに「ああ、こんなにいい人だったんだ」と認識が変わっていくこともありますし、むしろそのほうがより緊密な関係を築けるという人もいます。しかし、悪印象を好転させるには、かなりの時間と機会が必要です。要するに、そのあとに何度も、じっくり時間をかけて会う機会がつくれなければ、悪印象を覆せないまま、その人との関係は途絶えてしまうでしょう。なんとももったいない話です。特にビジネス上の関係では、いつ次の機会があるかわかりません。だから、初対面は〝感じよく〟して、次につなげていくべきなのです。ただし、無理に自分をつくったり、相手に合わせようとしたりする必要はありません。「格好よく見せよう」「できる人だと思わせよう」と演出しても、最終的には相手に見抜かれてしまうもので、結果的にマイナスになってしまいます。どんな仮面をかぶっても、素は隠せません。それがわかっているから、品格のある人ほど、見栄を張らず、無理をせず、ありのままの自分で勝負するのです。
「過剰」は下品になる気遣いも「引き際」が肝心品よく見える人になるためには、気遣いが大切です。ただし、気遣いも過剰になるとかえって下品になることがあります。たとえば、物言いがあまりに丁寧すぎると、言われたほうは次第に嫌味に感じられてきて、しまいには「バカにされているんじゃないか」と疑ってしまいます。あるいは、食事を振る舞うにしても、「もうお腹いっぱいです」と言っているのに、「もうひと口だけ」などとしつこくすすめられては、誰でも辟易するでしょう。そういう意味では、気遣いも程度の問題なのです。同じくらい鼻につくのが、自分が気を遣っていることをアピールする人です。会食のときなど「あ、私がやりまーす」と高らかに宣言して、みんなの分を取り分ける人がいますが、これも程度の問題で、やりすぎるとかえって顰蹙を買います。本当に気の利く人は、いつの間にか、それこそさりげなく取り分けてくれているものです。そのさりげなさが、その人を上品に見せます。複数のスタッフで取り組んでいるような仕事でも、さりげなくすませておいて、「これ、誰がやってくれたの」と聞かれてはじめて「あ、やっておきました」と言う人もいれば、「誰もやっていなかったので、私、これやっておきました」と、いちいち上司にアピールする人もいます。報告するという意味で「やっておきました」と伝えるだけならいいのですが、「誰もやっていなかったので」というひと言は余計です。「仕事をしていなかった」と言われたも同然の他のスタッフたちは、決して快くは思いません。どちらのほうが「品があるか」を考えれば、結果は明らかです。周りの人は、前者のように、さりげなく仕事をやってくれた人を高く評価します。人に気を遣わせない気配りができる。そういう人になってこそ、周りの人のあなたを見る目も自然と変わり、「あの人は品がある」と認めてもらえるようになるのです。
贈る心得さりげないプレゼントの極意家族同士や友人同士、あるいは恋人同士で贈り物をするなら、難しく考える必要はまったくありません。相手が気に入りそうな物や、おもしろい物を見つけて、「これをプレゼントしたら喜んでくれるかも!」とピンときたなら、それでOKです。しかし、ビジネス上のお付き合いで贈り物をする場合や、儀礼的な贈り物をするときには、よほど気をつけなければなりません。たとえば、お渡しするタイミングひとつとっても気遣いが必要です。「あの会合でお会いするから、ついでにお渡ししてしまおう」と安易に考えるのはいかがなものかと思います。その会合が少人数で、本当に私的なものであればまだいいでしょう。しかし公式の場だったとすると、いきなり贈り物を差し出されたほうは迷惑に思うかもしれません。多くの人の目がある中で、「どうぞ、受け取ってください」「いえいえ困ります」とやりとりするのも億劫です。せっかくお世話になった人に、感謝の気持ちを込めて贈り物をしようと思うなら、お宅までお届けするか、少なくとも相手が気を遣う必要のない場を選ぶことです。そして、特別な相手に対しては、やはり直接お渡しするようにしたいものです。私が子どもの頃、父が経営する会社のある社員の方は、何年もの間、お中元とお歳暮を毎回自宅に届けに来てくださいました。母は、その心遣いにたいそう感激し、「こうして自宅まで届けるのが、本来のお中元とお歳暮を贈るマナーなのよ。でも気持ちがなければ毎回毎回はなかなかできないことで、ありがたいことですよ」と言っていたことを覚えています。贈り物をする場合にこそ、その人の品性が問われるのかもしれません。あくまでさりげなくスマートに贈るべきですし、贈られたほうが恐縮しないような状況に持っていくことがポイントです。つまり贈り物をするときは、〝押しつけがましい渡し方ではなく、相手が受け取りやすい方法で〟ということです。贈る品の値段にしても、高価であればいいというものではありません。もちろん、相手になんらかの損害を与えたことに対するお詫びの品である場合や、難しいことをお願いする場合などは、それにふさわしい金額の物を準備する必要があるでしょう。しかし通常の贈り物の場合、高価であることよりも、相手に気に入っていただける物、相手の心をくすぐるような物を贈ることが大切です。そのためには、相手がどんな物に興味を持っているのか、何が好物なのか、ふだんから気を配って見ておくべきでしょう。これからも親しくしていきたい人や、もっと親しくなりたい人に対しては、お誕生日など特別な日に限らず、「あなたが好きそうなお菓子を見つけたから」「あなたに似合いそうだったから」と、ささりげなく贈ってはどうでしょうか。そのほうが品もありますし、その積み重ねがより深い関係につながるかもしれません。また最近は、サプライズプレゼントが流行っていますが、これも相手や場所を選ぶことが大切です。機会を見つけて、メッセージフラワーや名前入りのワインなどをさりげなく贈るのもおしゃれですが、贈るときには相手の状況も考えるべきでしょう。よく耳にするのが、「地元のおいしいものが手に入りました」と送ってくれたのはありがたいものの、あまりに大量で処理に困ったという話です。「贈ってくれた人の気持ちはわかるけど、捨てるに捨てられず、なんだか気持ちが重くなった」と言うのです。保存の利くものならまだいいでしょうが、なまものだったりすると、もうたいへんです。書をたしなむ人や絵心のある人、あるいは陶器を趣味にする人の中には、自分でつくった作品を贈る人もいますが、それもほどほどにしたほうがよさそうです。もらったほうとしては、飾る場所にも困りますし、かといって捨てるわけにもいかず、これまた扱いに困ります。いずれにしても、相手のことを考えに考え抜いて選んだ品物を、さりげなく贈ることが何より大切です。間違っても押しつけがましくならないように、くれぐれも気をつけてください。
SNS時代の心構え噂話好き、ゴシップ好き……こんな下世話な人噂話が好きな人は多いものです。ゴシップネタも多く取り上げるテレビのワイドショーは、ネタによって視聴率が大きく変わるので、情報の争奪戦は熾烈を極めているそうです。それだけ人は噂話が好きであり、刺激を求めているということなのでしょう。特に女性にその傾向が強いと言われます。実際、実生活においても、身の回りを飛び交っている噂話に女性はとても敏感です。しかしそれは、人間としての本能に根ざした行動だという話を聞いたことがあります。人間は社会的な動物ですが、集団生活の中で他者とうまくやっていくためには、たえず情報交換をする必要があります。噂話は、その情報交換にうってつけのツールだというのです。さらに噂話をすることで、集団生活の中で生じるストレスも軽減されますし、会話を通して相手の本音を聞き出すこともできます。また、自分の立ち位置も確認できるなど、さまざまなメリットがあるというわけです。ちなみに男性より女性のほうが噂話に敏感なのは、会社を中心に生きていればいい男性に比べて、女性の人間関係は多様であり、情報をより細かく集めて対応していく必要があるからかもしれません。もちろん私自身も、噂話がまったく気にならないわけではありませんし、情報源にもなりますから、噂話を完全にシャットアウトしているわけではありません。たとえば、知り合いの誰かが入院したときなど、本人が遠慮して知らせないようにしていても、噂話の情報をもとに動く必要がある場合もあります。日常で、自分を取り囲んでいる人たちの状況を知るためにも、噂話にはある程度、耳を傾けておき、その中から必要な情報を取捨選択していく必要があるわけです。しかし、他の人が噂話に夢中になっているのを見ると、なんとなく下世話で、品がない感じが拭えませんし、その中心にはいたくないというのが正直な気持ちです。なぜなら、噂話のネタとなる話題の多くが、興味本位のゴシップであったり、ときとして悪意に満ちたものであったりするからです。そもそも、本来の「噂話」とは、「世間で言いふらされている話」というほどの意味で、いわゆる「ゴシップ」のように、スキャンダラスで悪意に満ちた話ばかりを意味していたわけではなかったといいます。ところがテレビのワイドショーや週刊誌によって、いつの間にか「噂話=ゴシップ」というイメージが世間に浸透し、さらにSNSの登場で、個人情報の暴露といった負の側面が強くなってきたといわれています。ちなみに「下世話」という言葉も、もともとは、下々の者が交わしている世間話というほどの意味だったのが、いつの間にか「下世話→低俗な話→ゴシップ」と受け取られるようになったのだそうです。いずれにしても、「人の不幸は蜜の味」と言うように、ゴシップをあれこれ話すことで、「自分はあの人に比べれば幸せだわ」と思いたいのかもしれません。たとえば芸能人同士が結婚したとき、誰かが「結婚してよかったわね」と言うと、他の誰かが「それがそうでもないらしいのよ」と言い出し、やがて否定的な方向に話が進みはじめてしまうことが多いのも、そのせいでしょうか。結婚した本人たちにすれば、大きなお世話以外の何ものでもありません。ゴシップに興じる人たちの「足を引っ張ってやろう」という悪意は、あくまで無意識のものでしょうが、一方で、噂することでなんらかの充足感を得ているはずです。そして、周りにそうしたゴシップに不快感を抱く人がいるかもしれないということには、無頓着なのです。噂話との付き合い方には、慎重さが求められます。ゴシップに夢中な姿に、品位を見出す人などいません。また、必要だと思われる情報であっても、それが人伝えである限りは、信用できないものが含まれている可能性があります。ですから、噂話を鵜呑みにしないこと。そして振り回されないことです。間違っても、根拠のない噂話や悪口を、相手構わずあちこちで言いふらすような行為はやめましょう。そんなことを繰り返していると、余計なことに首を突っ込む下世話な人間だという印象が広まり、最後には自分の居場所もなくなってしまいかねないのです。
〝人間性〟はここに出る裏表のない人には、必ず信頼が集まる「裏表のない人」と言われたとき、あなたはどんな人を思い浮かべますか?まずは「正直な人」が筆頭に挙げられるでしょう。どんな人に対しても嘘偽りなく接する人は、みんなから信頼されますし、たとえ意見が対立することがあったとしても、その信頼が揺らぐことはありません。また、「見返りを求めない人」も、裏表のない人とみなされます。言葉を換えれば、損得勘定で動かない人です。ときとして「お人よし」だと揶揄されますし、自分の利益のためにうまく立ち回ろうとは思いませんから、損をすることも多いのです。しかし、他者にも自分にも正直ですから、やはりみんなからの信頼を得ることができます。また、「確固たる信念を持った人」も、裏表のない人と言えるでしょう。自分の信念を曲げてまで自分の利益を求めようとは思いませんから、これまた多くの人からの信頼を受けるのです。しかし、実際に「裏表のない生き方」をするのは、とても難しいことです。なぜなら人間は、本音で生きようとすればするほど自分の我を通したくなり、自分と敵対する者を排斥したくなるものだからです。つまり、「裏表のない生き方をしたい=わがままな生き方」になりかねません。それではいろいろな価値観を持った人と仲よく共存していくことはできませんから、放っておいたら、闘争だらけの世界になってしまいます。だから人間は知性を磨くことによって、平和に共存するための価値観をつくり上げてきました。それはときに宗教であったり、哲学であったりしましたが、いずれにしても自分たちの〝人間性〟を高めようとしてきたのです。そういう意味では、私たち人間は必死に、表に出す感情と裏に秘めた感情の折り合いをつける努力をしているのかもしれません。また、そこを上手にクリアした人こそ、本当に裏表のない、付き合っていてすがすがしい人だと言えるのだと思います。その一方で、どうしても自分の持つ二面性に引きずられて、言っていることとやっていることがあまりにも違っていたり、人によって態度を大きく変えたりする人がいます。いわゆる「裏表のある人」であり、誰にも信用されないタイプです。たとえば、ブライダルの世界は、一見するといかにも華やかで、品のある世界に見えるでしょう。しかし、舞台裏はけっこうすごい(笑)。披露宴が予定時間より延びるのはよくあることで、そんなときは舞台裏でみんな走り回っていますし、ストレスも大きくなります。少なからぬスタッフが「また延びるの!」と心の中で嘆きます。それでも、お客さまのためだと思って頑張るからこそ、最終的にはいい結婚披露宴になるのです。ところが中には、「なんだよ、今日も延長かよ」と本気で毒づいている人もいます。そういう人はどんなに取り繕っていても、いつか抑えきれなくなるのです。どこかでボロが出て、たとえば、お客さまの前で取り返しのつかない言動をしてしまい、業界から去ることになります。それはブライダルの世界に限ったことではないでしょう。とある会社に、二面性のある人、つまり裏表のある人がいたとしましょう。周囲の人はなんとなく気づいていても、同僚だからと、ときにはかばってあげたり、フォローしてあげたりするはずです。でも、いつかは負の面が表に噴出してきます。あちらこちらで都合のいいことばかり言っていたこと、人の悪口ばかりを言っていたことがわかってくるのです。それが原因でトラブルに発展することも少なくありません。そうなればもう、誰からもフォローしてもらえなくなります。それが、裏表のある人の悲しい末路です。バカ正直に生きることも、お人よしに徹するのも、確固たる信念を持ち続けるのも、並大抵のことではありません。しかし、悲しい末路を回避するためにも、なるべく裏表のない生き方ができるように、努力し続けていきたいものです。
むやみに人とつながらない人と群れない人の品格と魅力「群れずにひとりでいられる人」には、どこか気高さを感じます。「孤高の人」いう言葉もありますが、孤立しているわけではなく、なにか一本筋の通った生き方を選択しているがゆえに孤独を選択するという、凜とした覚悟を感じますし、品格につながるある種の美しさが感じられます。ドイツの哲学者ショーペン・ハウアーは、「孤独は優れた精神の持ち主の運命である」という言葉を残しています。また、ノルウェーの劇作家イプセンも、「この世で一番強い人間とは、孤独で、ただひとりで立つ者なのだ」と言っています。しかし、「群れずに生きる」なんて、よほどの覚悟と自信がなければできません。まして現在は、人類がかつてないほど組織化された時代です。群れて生きるのが当たり前になっています。電車の中でも、歩いていても、スマホから目を離さない人が増えています。何をしているかと思えばSNSです。スマホで誰かとつながっていないと不安でたまらず、つながっている実感を得るために、「いいね」をもらうことに必死になっています。その世界に実態はなくとも、たとえ架空の世界であっても、群れていないと不安でたまらないのです。劇作家の寺山修司さんは、20歳のときに重病のネフローゼを発症し、自分が若くして死ぬことを知りながら、1983年に47歳で亡くなるまで、数多くの作品を手がけました。その寺山さんが残したのが、「人は弱いから群れるのではない。群れるから弱くなるのだ」という言葉です。仲間の存在も大事ですが、自分の生き方を追求することも大切です。人とつながる時間も必要ですが、ひとり自分を見つめ直す時間も必要です。2018年9月に青山学院大学で行なわれた講演会で、政治家の小泉進次郎さんが、「日本人はどちらかというと、人と違うことを恐れるが、人と違っていいじゃないか」と発言して話題になっていました。そのとおりではないかと思います。群れてばかりではなく、ときには群れから離れ、ひとりになって、誰とも違う自分であることを認められる──。そんなふうに、人と違うことを恐れない強さが求められる時代になってきたのではないでしょうか。
人生の節目、節目で親しき仲にも礼儀を尽くすどんなに親しい間柄でも〝言葉に出して伝えること〟が大切です。たとえば家族に、「おはようございます」「おやすみなさい」と、きちんと挨拶していますか。挨拶はコミュニケーションの第一歩であり、それが習慣になっている人は、どんな場面でも、誰に対しても、きちんとした挨拶ができるものです。また、人から物をもらったり、ご馳走になったりしたときに「ありがとう」「いただきます」とお礼を言うのは当然の礼儀ですし、悪いことをしたり間違えたりしたら、すぐに「ごめんなさい」と謝ることも、基本中の基本です。「彼(彼女)とはそんな仲じゃない。いちいち言わなくてもわかってくれる」と思うかもしれません。しかし、「親しい関係」といっても、その距離感は人によって案外違います。実は気持ちが通じていなかったり、思わぬ誤解が生じていたりすることもままあることで、それを避けるためにも、意識して、声に出して言うべきなのです。その、たったひと言を言えるか言えないかで、結果が大きく変わることもあります。たとえば、同僚から頼まれた資料を用意して届けたとき、「どうもありがとう」とすぐにお礼の言葉をくれる人や、不在のデスクに資料を置いたら、あとから内線でお礼を伝えてくるような人には、品のよさを感じるはずです。「親しき仲にも礼儀あり」という姿勢は、常に忘れずにおきたいものです。最近は、若い人からきちんとした手書きの手紙をもらうと、なんだかほっとしてしまいます。というのも、手書きの手紙のやりとりをする機会などすっかり減ってしまった近年、きちんとした手紙を書けない人が急増しているのです。専門学校のビジネスマナーの授業で「高校時代の恩師に手紙を書く」というテーマに取り組んでもらったことがあります。するとある学生は、「アキラ、元気?」という書き出しでスタートしたのです。「アキラって誰ですか?」「高校の担任の先生だよ!」「そんなふうに呼んでいたの?」「そうだよ、先生。そんなの当たり前じゃん」さすがに最初はあっけにとられましたが、そういう学生はひとりやふたりではありません。程度の差こそあれ、手紙の書き方を知らない学生がどんどん増えています。理由もわかります。今や、家庭で礼儀を教わることなんてほとんどありませんし、高校や大学においては、先生に対して友達感覚で話しかけても通用してしまうのです。残念なことに教師も、そのほうが生徒たちとの関係をつくりやすいのでしょう。〝それでよし〟としている結果が、「アキラ、元気?」なのです。大人にも責任がありますね。そこで私は手紙を出すときの最低限のマナーを教えはじめるわけですが、学生が「ああ、そういうもん?」と言うのに対して、「そういうもん!」と言うしかありません(笑)。しかし学生にも、きちんとした手紙を書かざるをえない日がやってきます。そうです、就職活動です。さすがに学生も、企業に向けて必死で書類の送付状を書いたり、内定をいただいたお礼の手紙を書いたりします。四苦八苦しながら書いている姿は微笑ましくさえあります。彼ら彼女らは、これまでに手紙に触れる機会がなかっただけで、決して書けないわけではないのです。これは、若い人たちだけの問題ではないのかもしれません。今や、かつてのような四季折々のご挨拶の風習も、どんどんなくなっていますし、年末には「今年もお世話になりました」と挨拶し、お正月明けに「おめでとうございます」と挨拶する機会がどんどん減っています。しかし、減っているからこそ、節目、節目にきちんと礼を尽くし、挨拶をかわす習慣は大切にするべきだと思いますし、それができる人は一目置かれるのです。あなた自身の人生のステージが上がれば上がるほど、あなたの周りにいる人たち、あなたがお付き合いしていかなければならない人たちのレベルも上がっていきます。質が上がるほどに、礼儀作法が身についているか、言葉遣いはきちんとしているか、その場その場に応じた振る舞いができるかどうかが、周囲の人のあなたに対する評価に大きく関わってくるでしょう。それを肝に銘じておくことです。
人間関係の賢い深め方相手との距離感、間違えていませんか?前述した「親しき仲にも礼儀あり」に通じることですが、相手との「距離感」の取り方にも、その人の品格が表れます。たとえば初対面の相手に対して、妙に親しげな言動で接しようとする人がいます。おそらく、そうすることで相手に対する親愛の情を示せると思っているか、もしくは、相手を自分と対等だと見ているからでしょう。しかし、そうされた相手が同じように親愛の情を抱いてくれたり、対等の関係だと思ってくれるとは限りません。なんて馴れ馴れしい人だとムッとされたり、媚びていて品のない人だと評価されたりするかもしれないのです。客観的に見て明らかに同等の立場であるならさておき、お互いの立場が明瞭でない場合や、相手の立場が少しでも上である場合は、しっかりとした距離感を保って向き合うことが求められます。ふたりきりでプライベートな話をするとき、相手がまったく気にしないのなら、多少親しげな口調になっても許容されるでしょう。それをきっかけに、本当に親しい間柄になれるかもしれません。しかし、他の人がいる場合は慎重さが求められます。たとえ本人同士は気にしなくても、周囲の人から、「最初から、あんなに親しげな態度を取るなんて、礼儀がなってない」と顰蹙を買うこともあり得るからです。では、上手に相手との距離を保ちつつ親しくなるには、どうしたらいいのでしょうか?まず、基本は、礼儀正しく接することです。そして、信用できる人間であることを印象づけることです。最初はあくまで節度を持って。そして、何度かお会いする中で共通の話題を見つけることによって、徐々に距離を縮めていきます。たとえば仕事の話が終わったあとに、社交辞令ではなく、「最近、ゴルフ行ってますか?」「ワンちゃん元気ですか?」など、その人が興味を持っていることに触れることで、「あなたのことを気にかけています」というサインを送ることができるのです。これで、距離は必ず縮まります。誰かと親しくなりたいと思ったとき、焦って急に距離を縮めようとするのは、得策ではありません。もし「馴れ馴れしい」「媚びている」と受け取られてしまったら、その悪印象を覆すことが簡単ではないのは、先にも述べたとおりです。大事な相手であればなおさら、ゆっくりと、着実に、関係を深めていく道を選ぶほうが確実なのです。そんな心の余裕がある人は、きっと相手にも信頼され、受け入れてもらえることでしょう。
言い方、伝え方が大事「愚痴」を言うにも、作法がある生きていれば、愚痴を言いたくなることだってあります。毎日一生懸命生きていれば、そんな瞬間があって当然です。正直に言いましょう。私だって、ひとりでいるときにブチブチと愚痴を言っていることはあります。でもそんなときこそ、発想を転換するべきだと思っています。愚痴ばかり並べていても、そこからは何も生まれてきません。愚痴を言うのに時間を使うのは、なんとももったいないことですし、愚痴を聞かされる周りの人を不快にさせてしまうばかりです。それより、愚痴を言いたくなるような状況をどうやって解決し、打開していくかに頭を使ったほうが、よほどいいと思うのです。たとえば、何か問題が生じたとき、その場その場で問題点を指摘していくことも、愚痴を溜め込まないためのひとつの方法ではないでしょうか。披露宴の現場などでは、ちょっとした行き違いから腹が立つこともあります。スタッフを見ていて、「え?そのサービスはないんじゃないの?」と思うこともありますし、お客さまの言動に振り回されることもあります。もちろん、お客さまに対してもの申すことはできませんし、なんらかの問題が起きる原因のほとんどはスタッフ側が気をつければ解決できることです。そうした問題がいかにして起こったのか、それを防ぐにはどうしたらいいのかについて、みんなが共通認識を持てば、同じ失敗を繰り返さずにすむでしょう。それはブライダル業界に限った話ではないと思います。みなさんは、何か問題が起きたとき、どう対処しているでしょうか?ほとんどの人は、面倒くさがって「ま、いいや」と流してしまっているのでは?そのくせあとになってから、「いやあ、あんなのやってられないよね」などと愚痴をこぼして、溜飲を下げているだけだったりして……。しかし、それでは問題は誰にも共有されず、同じ失敗が繰り返されるかもしれません。だから私は、できるだけ、その場その場で問題提起をするように心がけています。もちろん、角が立ったり、上から目線にならないように、言い方には十分気をつけなければいけません。たとえば、こんなことがありました。お客さまを会場内やお席にご案内する際にサービススタッフの人手が足りない場合には、司会がアナウンスを入れてフォローします。ゲストの様子を見ながら何回かご案内するのですが、残念ながらマイクを通して一人ひとりのケアをすることはできません。そこで、やはりスタッフの力が必要になります。ところがお客さまがどこに座ったらよいのか戸惑っているにもかかわらず、サービススタッフが誰ひとり気づかず、ご案内をしていないのです。何度かそんなことが続いたので、私は思い切って、その会場のチーフに伝えてみました。「私はスタッフの一員としてよりよい披露宴をみなさんと一緒につくり上げていきたいと思っているからこそ、自戒の念を込めて申し上げるのですが、私たちはもう少し一人ひとりが、意識を高く持ち、常に目配り・気配りをすることを心がけていかなければならないのではないでしょうか。そうすればもっともっとお客さまに満足していただけるはずです」と。幸いこのときは私の意見を尊重していただき、スタッフ間でミーティングが行なわれたおかげで、問題はすぐに改善されました。このケースのように、自分の意見や提案がすぐに反映されない場合も多いのですが、伝えたという事実は大きいのです。その場では取り合ってもらえないことでも、私が話した内容が誰かの脳裏に残っていて、しばらくたってから改善されたり、手助けしてもらえたりすることもあります。「伝える」ことは精神衛生上とても大切です。この経験があるから、私は愚痴を溜め込むのではなく、問題提起に変えていくという発想の転換が必要だと思うのです。前述したように、人間、生きていれば、ときには愚痴のひとつも言わないとやっていられません。しかし、あまり愚痴ばかり言っていても、そこからは何も生まれません。だから私は、「ひょっとしたら誤解されて、嫌われるかも……。それでもいいや」という覚悟でいます。愚痴を吐き出す場は必要です。私だって、愚痴ひとつ口にしないほどご立派な人間にはなれません。ただ、愚痴も、発想の転換次第では、役立つプラスの発言に換えていけるということを知っておいてほしいと思います。
思慮深い人が絶対にしないことつい、自慢話をしてしまう人たちへ自慢話をする人を、あなたはどう思いますか?私は「自慢話をする人って、けっこう人間らしくておもしろい!」とか、「ちょっとかわいらしい」と感じる部分もあるのです。毎回、毎回、同じ話を聞かされるのはさすがにつらくなりますが、そんな自慢話の中にも、ためになることを発見することがあります。それに、話を聞いてさしあげることで、その場がうまく収まるのなら、それはそれでいいのかなとか、やり過ごしてあげればいいじゃないとか思ったりもします。こちらがおおらかになって、人の自慢話を聞いてあげる心の余裕もほしいものです。ただし、自慢話は明らかに度が過ぎるとかなり不快であり、耳をふさぎたくなることもしばしばです。特に今の若い世代はそんな感覚を持っているようです。専門学校で、ブライダル業界について講演をしてもらったときのことです。あるホテル業界の重鎮が自分の武勇伝を語るのを聞いて、ひとりの学生が、「なに、この人、自慢話ばっかりじゃない」と、拒絶反応を示しました。たしかにご自分が取り仕切り喜んでもらえたという話ではありましたが、私はひとつの成功例として聞いていたので、「え?この子たちにはただの自慢話に聞こえちゃうんだ!」と、世代の差を感じたものです。今の若者は、自慢話を嫌う傾向が強いようです。たしかに思慮深い人や頭のいい人は、そもそも自慢話なんてしないものというイメージがありますから、その学生は講師に対して、「自慢話なんてしない人格者であってほしい」と思っていたのかもしれません。にもかかわらず、武勇伝がはじまったので、失望したのでしょう。今の若者は、相手の肩書に左右されません。その重みを知らないということもあるでしょうが、それなりの肩書を持った人を前にしても、「へえ、そうなんだ」といった程度の反応しか返ってこなかったりします。それだけに、年配者を見る目も厳しく、少しでも自分たちの価値基準から外れた人は平気で拒絶したりするのです。それだけに、若い人たちと接するときは注意が必要です。実績があるから、経験者だからと、上から目線で接したりしたら、とたんにしっぺ返しを食らうことになってしまいます。それはさておき、かなりの人生経験を積み、自慢話など人前でするのは品のいいことではないと認識している人でも、自分の功績によりうまくいった経験を、「こんなことがあって、こんなふうに処理したの。私ってすごいでしょ?」と語りたくなるのは人間の性でしょう。前述した、講師に対して「この人、自慢話ばっかりじゃない」と厳しい目を向けた学生にしたって、当然、そんな気持ちを持っています。そういう意味では、彼女の発言自体、まさに〝自分に甘くて、人に対して厳しい〟例の典型です。もっとも、老若男女を問わず、自分を自慢したい気持ちを無理やり封じ込めるのはつらいもの。あまりに抑えつけるのは、本人にとってちょっとかわいそうです。やたらと他人に自分の自慢話をするのは、品がないのでおすすめできませんが、親しい友人や家族など、本当に限られた人には自慢話ができるような、場をつくっておきたいものです。ちなみに私は披露宴本番のあとは、帰宅後、興奮状態で夫の前でしゃべりまくりです。起こった出来事、自分がいかに頑張ったかを報告している日常です(笑)。自慢話をおもしろく聞いてもらうためには、ひとつかふたつの失敗談も加えるとか、何か笑えるオチをつけるなどといったテクニックも必要なのかもしれません。完璧すぎる自分を演出したり、素晴らしい面ばかりを見せようとする言葉は、まったく相手に響かないばかりか、かえって嘘っぽくなってしまいます。やはり基本は、正直に自分を表現することです。自分をよく見せたいとか、自分を認めさせたいという邪心が隠された言葉は、あっという間に見透かされてしまいます。そして、そんな話をする人に品性は感じられません。自慢話は決して相手を愉快にさせるものではなく、むしろ行きすぎると不快感を与えてしまう品のないものであることだけは、しっかりと認識しておきましょう。
人と比べない生き方を見栄、優越感……品格の対極にあるもの「見栄を張る」とは、他人を気にしてうわべを飾ること、よく見せようとすることですよね。つまり、今まで述べてきた「品格」や「品性」の、対極に位置づけられる行動だということです。人と比較することなく、ぶれない信念を持って、ありのままの自分でいようとするのが「品格が感じられる生き方」だとすると、常に他人の目を気にして、世間の風潮に流され、つくろったり装ったりして生きるのが「見栄を張った生き方」だということになります。見栄を張るのは、とても残念な行為にしか見えません。私の若い頃はいわゆるバブルの時代で、それこそブランドファションに身を固めている女性が巷にあふれ、「お互いに見栄を張って競い合っている」と評されました。しかしそれは、表面的な見方であったとも思います。たしかにブランドの服を着て、高いバッグを持って、お立ち台で踊っている女性はたくさんいましたが、世の中全体がそんな雰囲気に満ちていたのです。好景気だったために、見栄を張るというより、無理せずとも今よりかなり贅沢な暮らしができていました。若い女性だけが時代に踊らされていたわけではなく、老若男女がみな揃ってお金を使い、日々を楽しんだ時代だったと見るべきでしょう。余談ですが、身についた感覚は恐ろしく、華やかなバブル時代を謳歌した私の世代、あるいは私より少し上の世代である50代女性の消費支出額は、現在、他の世代に比べてかなり高いそうです。ある意味、社会に貢献していると言えるかもしれません(笑)。一方、いわゆる今どきの若者は、堅実になったと言われます。男女ともにさほどブランド品に執着するわけでもなく、比較的安価なファストファッションを上手に取り入れて、賢く生きているように見られます。かつては、いわゆる出世欲を露わにする人も少なくありませんでしたが、今ではもはや少数派です。では、見栄を張る人も減っているかというと、実はそうではありません。形こそ変われど見栄を張る人はいるもので、そんな人は周囲の人から敬遠されたり、ときには軽蔑の対象になったりしています。どんな時代にも当てはまる、わかりやすい「見栄っ張り」とは、経済的な成功をひけらかすように、やたらと高価なものを購入したり、身につけたりして、自分を飾り立てる人たちです。以前、南青山の住民が、児童相談所の建設に反対しているという話題が、世間を騒がせました。反対理由として挙げられているのは、「土地の価値を下げないでほしい」「青山のブランドイメージを守ってほしい」ということですが……。彼らにとって「南青山に住んでいる」という事実こそ、自分にとっての「見栄」なのかもしれません。しかし、このような言動こそ、品性が疑われるものではないでしょうか。また、自分さえよければいい、自分にだけ居心地のいい場所であってほしいという利己的な考えはあまりに危険で、考えさせられる問題です。見栄っ張りな人の中には、自分を大きく見せ、高く評価してもらいたいがために、むやみやたらと他人の権威を利用しようとする人たちもいます。「有名人の誰それを知っている」とか、「何かあれば権力のある人に力になってもらえる」などと、すぐに口にするような人は、周りからは「さもしい人間だ」と冷めた目で見られていることでしょう。夫や恋人が、ある程度の地位についているからといって、自分の地位まで高いかのように振る舞う人も同様です。社会的地位が高いのは夫であり、イコール自分でないにもかかわらず、大きな勘違いをしているケースです。見栄っ張りな人たちは、常に他人と自分を比較することで、自分を確認しています。いつも自分と周囲を比べていて、相手に勝っていると思えば優越感に浸り、負けていると感じれば劣等感に苛まれます。人と比較して生きていくことほど、息苦しいことはありません。品のある人を見習って、自分に自信を持って生きていきたいものです。うわべはつくろっても、すぐにはがされてしまいます。自分の本質を隠そうとせず、都合の悪いことを周りの人や環境のせいにせず、自分に正直に生きていきましょう。それが品のいい生き方につながっていくはずです。
笑顔を見れば、その人がわかるいつもおおらかな人、ほがらかな人の魅力品よく生きる──そのために一番大切なのは、その人が持つ人間性ではないでしょうか。人間性とは、それぞれの人が持つ本質的なもので、決して装えるものではありません。この世に生まれてから、どんなことを学び、どんな人生を送ってきたかによって、培われるものです。そして、人間性が最も表れるのが「笑顔」です。人々は、人間性あふれる素晴らしい笑顔に魅了されます。特に品格を感じさせる笑顔は、余裕の表れであり、優雅さの表現でもあると思います。そんな笑顔を浮かべられる人は、いつもおおらかで、ほがらかです。当然のことですが、なんの苦労もなく、思うがままに人生を送れる人など存在しません。誰であっても失敗したり、ときには挫折したりすることもあるでしょう。そして、たとえ失意の中にあっても、自分を取り囲む人を大切にし、一緒に手を携えて生きていこうと思える人こそ、本物の品格を備えた人なのだと思います。こういう方は、「自分自身の生き方に一点の曇りもない」という自信と、凛とした優しさをあわせ持っているものです。また、何かを徹底的に極めた人というのは、本当に品格があります。たとえば、ノーベル賞を受賞した先生方の言葉には深みがあり、心から感動させられます。世界に先駆けてiPS細胞をつくり上げた山中伸弥先生にしても、がん免疫治療薬「オプジーボ」の開発を導いた本庶佑先生にしても、ノーベル賞を受賞してもなお、謙虚に、「この結果は私だけの力ではない。みんなの努力の成果だ」とサラリとおっしゃいます。言葉一つひとつに重みがあるのは、自分の生き方に誇りを持っていらっしゃるからでしょう。おふたりの振る舞いや考え方には、科学者としての矜持が感じられます。そこが一流であり、品格を感じさせるのです。また、私利私欲がまったくないことにも感動します。山中先生も本庶先生も、ノーベル賞の賞金や、薬が製品化されることで得られるパテント料も、研究のため、後輩のために全額提供する、とおっしゃっています。なかなか真似できることではありません。研究に対して、無欲かつストイックな一面を見せる一方で、おふたりのお話には、知性とユーモアが満ちあふれています。聞く人の心を惹きつけてはなしません。また、ときおり見せる笑顔の、なんとも素敵なこと!とても私ごときに真似できるものではありませんが、少しでもおふたりのような生き方ができるように、いつも「おおらかさ」と「ほがらかさ」を忘れない、自分に恥じることのない生き方をしたいと、常々思っています。
太宰治が言っていること「人をうわべだけで見る。下品とはそのことだ」「ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである」この言葉は、太宰治の絶筆となった連載随想『如是我聞』に出てくる言葉です。『如是我聞』は次のような書き出しではじまります。〈他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す〉(『青空文庫』底本:『もの思う葦』新潮文庫)『如是我聞』は、晩年の太宰が記者に口述筆記させたものです。1948(昭和23)年3月から『新潮』で連載が開始し、同年6月13日に太宰が玉川上水で入水自殺したあとも、翌月の7月まで4回に分けて掲載されました。その内容は、既成の文壇に対する過激極まりない批判でした。その文中で、太宰はこう書きます。〈私は、或る「老大家」の小説を読んでみた。何のことはない、周囲のごひいきのお好みに応じた表情を、キッとなって構えて見せているだけであった。軽薄も極まっているのであるが、馬鹿者は、それを「立派」と言い、「潔癖」と言い、ひどい者は、「貴族的」なぞと言ってあがめているようである〉ここで太宰が言う「老大家」とは、当時、文壇の頂点に立ち、大きな影響力を持っていた志賀直哉のことです。さらに太宰は、志賀直哉を取り巻く人々に対しても、次のような、恨みにも通じる激しい言葉を吐いています。〈後輩が先輩に対する礼、生徒が先生に対する礼、子が親に対する礼、それらは、いやになるほど私たちは教えられてきたし、また、多少、それを遵奉してきたつもりであるが、しかし先輩が後輩に対する礼、先生が生徒に対する礼、親が子に対する礼、それらは私たちは、一言も教えられたことはなかった〉そして、こう断じるのです。〈ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである〉そもそも、太宰治と志賀直哉の対立は、『文学行動』(1948年1月発行)という同人雑誌に掲載された「志賀直哉広津和郎両氏を囲んで現代文学を語る」と題する座談会で、「太宰治はどうです」と聞かれた志賀直哉が、〈年の若い人には好いだろうが僕は嫌いだ。とぼけて居るね。あのポーズが好きになれない〉と答えたのが最初のきっかけでした。その後も、志賀の太宰に対する批判発言は、続きました。〈二、三日前に太宰君の「犯人」とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思ったね。始めからわかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし……〉(雑誌『社會』同年4月号)〈太宰君の「斜陽」なんていうのも読んだけど、閉口したな(中略)あの作者のポーズが気になるな。ちょっととぼけたような。あの人より若い人には、それほど気にならないかも知れないけど、こっちは年上だからね、もう少し真面目にやったらよかろうという気がするね。あのポーズは何か弱さというか、弱気から来る照れ隠しのポーズだからね〉(雑誌『文藝』同年6月号)こうした志賀直哉の言葉に、太宰が反発したくなったのも当然でしょう。太宰の反発は単に志賀直哉個人に向けられたものではなく、文壇全体に向けられたものであった、あるいは、自分がなかなか認められないことに対して激しい焦燥感を持っていたからだ、などと分析する人もいるようです。『如是我聞』は、読む人によっていろいろな受け取り方がされると思います。いずれにしても文学論議は私の手には余るので、専門家に任せたいと思いますが、私なりに太宰治の立場に立って読み取ることがあるとすれば、「いいものを着て、上品な言葉を使い、いいものを食べて、身だしなみがちゃんとしている人を見れば、それだけでひとかどの人物だと判断してしまいがちだが、そんなうわべのことだけで人を判断するのは、決して品のいいことではない」ということなのではないか、と思うのです。もちろん、外見によって人がつくられる面もあるでしょう。しかし、外見を真似ただけの偽物や、仮の姿というのは、いずれ化けの皮がはがれてしまう……。太宰がいわんとするのは、そういうことではないでしょうか。
「そうじ力」で心を整える「丁寧な暮らし」が品位を生むたとえば、乱暴な言葉遣いや振る舞いをする人、あるいは身だしなみに気を遣うことなくボロボロで不潔な格好をしている人を、「高貴な人だ」などと言う人はいないでしょう。ぞんざいな言動しかできない人には近寄りたくもない、というのが多くの人の正直な気持ちです。つまり、ぞんざいな人の周りにいるのは、本人と同じように品のない人ばかり、ということになってしまいます。また、ぞんざいな言動しかできない人は、ルーズな生活をしていることが多いように思います。生活のリズムがいい加減で、食生活も貧しかったり、部屋の中はゴミだらけで、服も脱ぎ散らかしたままだったり……。いわゆる生活が荒れているのです。ぞんざいな人に見られる大きな特徴は、ついつい「あとでやればいいや」とあと回しにしてしまう性格です。「今、忙しいから」「この仕事が終わったら」などと、あれこれ理由をつけては、問題を先送りにしようとします。しかしその結果、収拾のつかない状態に追い込まれていってしまうのです。それに対して、品がよく丁寧な立ち居振る舞いのできる人は、きちんとした生活を送っています。私は、そういう意味で、〝品位〟とは「丁寧な暮らし」から生まれるものではないかと思っています。常に物を丁寧に扱う人や、同じ物をきれいに長く使っている人を見て、あなたはどう感じますか?人間としての繊細さや、それこそ品のよさを感じませんか?物をいとおしむ気持ちを持ち、そういう暮らしをしていると、人に対しても同じような気持ちが生まれるでしょう。物を傷つけたり壊したりすることがないのと同じように、人に対しても傷つけたり、冷たく接したりはしないのではないでしょうか。実際、持ち物をこまめに手入れしたり、きちんと整理したりする習慣を身につけている人は、人に対しても細やかな心遣いができますし、何より心穏やかで、人に信頼感を抱かせる雰囲気を持っているものです。実業家・コンサルタントの本田直之さんは、心や生活が乱れてきたときは、まず「整理整頓」からはじめるといい、とおっしゃっています。脱いだ靴を揃えるとか、読み終えたあとほったらかしだった雑誌を処分するとか、手をつけやすいところからはじめれば、それをきっかけに、丁寧な暮らしを取り戻していけるのだそうです。物を揃えたり整えたりすることで、気持ちも整い、心地よい暮らしのリズムを手に入れることができます。また、お掃除も効果を期待できそうです。身の回りがきれいに整理されていくのと同時に、心のデトックスもできます。部屋に風を通すことなくほこりだらけにしていると運気が回らない、とも言われますよね。毎日掃除ができればそれに越したことはないのですが、働いているとそうもいきません。1週間に1回、もしくは10日に1回、それも難しいなら1か月に1回でもいいので掃除する、と無理のないルールをあらかじめ決めておいたり、仕事が一段落したら掃除をすると事前に予定を立てておいたりすれば、とりかかりやすいでしょう。「よし、掃除をやろう」と改めて思うことで、心のリセットボタンを押すような感覚になれます。毎日惰性で掃除をするより、よほど効果があるかもしれません。不思議なもので、片づけが終わると、「さあ、次!」という気持ちになれるものです。生活の乱れが整い、きちんとしたリズムの中で生きていけるようになると、周囲の人たちにも、「あの人はとても安定感がある」「どことなく品がある」といった印象を持たれやすくなるものです。『人生がときめく片づけの魔法』の著者である近藤麻理恵さんも、「毎日整理しなくていい」「1か月に1回、お祭りのように整理をするだけで、心がリセットされる」と言っています。私たちもそうやって、少しずつでいいから生活にリズムをつくり、心を整えていきたいものです。「あの人は品がある」と言われる日を目指して……。
一期一会の精神で生きる品がいい人は、人もチャンスも引き寄せる人は、自分ひとりで生きているのではありません。社会生活を送る中で、「自分の居場所=生き方」を見つけていくものです。ましてや最初から完璧な人間なんていません。誰もが多くの人との出会いを通じて成長していきます。いつ、どこで、どんな人と出会うかで、その人の一生が決まると言っても過言ではないでしょう。それを教えているのが、「一期一会」という言葉です。「一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること」を意味するこの言葉は、もともと「どんな茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきである」という茶道の心得からきた言葉です。「生きていれば、どんな出会いがあるかわからない。その出会いの中には一生を左右する出会いがある。だからこそ人との出会いは生涯に1回しかないと考えて、いつも大切にしなさい」という教えだと考えればいいでしょう。そういう意味で、結婚披露宴は、まさに一期一会の場と言っていいでしょう。その日、その場所に集まったメンバーが、再び同じように集まる機会は二度とありません。だからこそ、私たちは誠心誠意お客さまに接するわけですが、みなさんにとっての一期一会の場も、いろいろな場所で生まれているはずです。職場での出会い、趣味の世界での出会い、子どもを通しての出会い……。現代社会を生きる人にとって、生きることは人と出会うことと同じ、と言ってもいいほどです。長く生きていると、出会った人に関わりのある人の中に、共通の知人や友人がいることもしばしばです。ただ、少し踏み込んでその人と話をしなければ、共通の友人を探すことはできません。私は職業柄、はじめて出会った方と少しでも打ち解けるために、共通の話題を見つけ出すことに必死になります。ご出身は?お住まいは?出身校は?相手の様子をうかがいながらですが、聞ける範囲で踏み込んでみます。つい先日も、プライベートで出かけた上海旅行で出会った方が、海外勤務の長い方で、話題も豊富でいらしたので楽しくお話をしていたところ、同年代ということがわかり、何か共通点があるはずだと記憶をたどってみました。その方と同じ会社に就職した大学時代の同級生のことを思い出し、名前を出してみたところ、なんとその方の同期であることがわかり、話は一段と盛り上がりました。出会いのチャンスは誰にでも同じようにあると思います。ただ、その出会いを大切にして、今後につないでいけるかは、自分の振る舞い次第だと思います。パーティーや旅先で知り合った人と、今後会うこともないからとその場しのぎの会話をするのではなく、相手に興味を持って話してみる。丁寧に接してみる。そうすることで、あなたの人生は2倍にも3倍にも広がり豊かになることでしょう。どんな場であっても、どんな人であっても、決してないがしろにせず、相手に敬意を払い、一期一会の精神をもって接することです。それが、あなた自身の人生にチャンスをもたらすと同時に、あなたの品格を高めてくれるのだと思います。
自分へ投資もいいけれど……人のために使ったお金は、自分に返ってくるお金の使い方は人それぞれです。いわゆるケチと言われる人にも、チマチマした感じのかわいらしいケチンボさんもいれば、それこそ「吝嗇」と漢字で書きたくなるような徹底した人もいます。お金は無尽蔵に入ってくるわけではありません。きちんと管理して使うことが大前提で、あと先考えずに浪費する人は、いい加減な人だと思われかねないでしょう。どこかで倹約することは、もちろん必要です。ところで、「倹約」と「ケチ」を混同する人がいますが、私はまったく別だと思います。何か明確な目的を持って無駄遣いを控えているが、必要なときにはしっかりお金を出すような人は「倹約家」だと考えます。一方、軽蔑の気持ちを込めて、「あの人は本当にケチだ」とか「吝嗇家だ」といった厳しい言葉を口にしたくなる相手もいます。それは、人付き合いを軽く見て、自分が得をしないことには絶対にお金を使わなかったり、何をするにもお金に執着したりするような人に対してではないでしょうか。たとえば、会社の仲間が退職することになったとき、送別会が会費制だからと「今月、小遣いがないから行かない」なんて平気で言う人もいます。徹底しているとも言えますが、なんだかむなしいですよね。そんなことを繰り返していたら、真剣に寄り添ってくれる人がいなくなってしまうでしょう。最近の若い人の中には、アルバイトでそれなりに稼いでいるのに、仲間との集まりには「お金がない、お金がない」と騒いで出席しない人もいます。そんな人は、一方で、ディズニーランドの年間パスポートを持っていたり、コンサートへ行ったり、洋服にはお金をかけていたりするのです。また最近の傾向として「自分への投資」と称し、高い授業料を払ってセミナーに行ったり、エステに行ったり、セレブが集うような高級スポーツクラブの会員になったりする人も増えているようです。お金をどこに使うかは、その人の価値観によって違います。立派な家がほしい人もいれば、車にお金をかける人もいますし、身につけるものに費やす人もいるでしょう。ちなみに我が家は、食いしん坊でお酒に目がない夫婦なので、かなりのエンゲル係数です(笑)。好きなことにお金をかけたり、自分に投資したりするのは、悪いことではないと思います。ただ、それだけでは、人情の機微にふれることもなく、わびしい人生になってしまいます。人間関係を広げるために、「人付き合い」にも、ある程度のお金をかけるのは必要なことだと思います。私はさまざまな事情により、金銭的なピンチに陥ったことは、これまで一度や二度ではありません。しかし、そんなときでさえ、いえそんなときだからこそ、人とのお付き合いにはできる範囲でお金をかけていました。さすがに、食事に行ったり飲みに行ったりする機会は減らさざるをえません。が、お世話になった方への盆暮れのご挨拶は欠かしませんでしたし、お世話になった方が退職されるとか、転勤になると聞けば、気持ちですが贈り物を差し上げました。また、送別会があるとわかれば、必ず出席しました。人への気持ちや思いは、形に表さないと意外とわからないものです。物を贈る場合には、高価なものである必要はなく、ひと言メッセージを添えて、思いを託してお渡しすることに意味があると思います。多少無理をしてでも、礼を失することなく、義理を欠くことなく生きていると、本当に困ったときに手を差しのべてくれる人が出てくるものです。たとえば贈り物をした相手から、お礼の電話のついでにと、仕事が舞い込んでくることもあります。困っているときには、ありがたい話です。組織の中で働いていれば、転勤した人がいつかは偉くなって戻ってこないとも限りません。印象に残るような送り出し方ができれば、将来の出世につながるかもしれないのです。もっとも、人とお付き合いをする中で、見返りを求めたり、あてにしたりしてはいけません。損得で動くのは言語道断です。でも人間は、感情の動物です。人のために使ったお金が、いい形になって返ってくるのは、ままあることではないでしょうか。
日々を変える朝10分の過ごし方ガツガツしないこと、バタバタしないこと生きていくためにお金は必要不可欠ですが、だからといってお金の話ばかりする人は、どうにもガツガツした印象が強く、「品位がない」と感じられます。私は司会業のプロダクション業務も行なっており、司会者に仕事を発注します。そのとき、人によっては仕事の内容より先に、「で、ギャラはいくらですか?」と、最初にお金の話をするのです。たしかに大事なことですが、〝まずそれですか!〟と思ってしまうのです。あるいは、「私、これ以下ではやりませんから」と予防線を張る人もいます。一方で、ギャランティーなど関係なく、多少難しい仕事であっても、快く引き受けてくれる人がいます。こういう人には、予定しておいたギャランティーに色をつけたくなるのが人情です。その余裕のある様子には、頼もしさと品のよさが感じられます。余裕がある人、といって私が思い出すのは、ソフトバンクの創始者である孫正義さんです。数多くの事業を展開し、運用する資金は国家レベルと言われ、有利子負債もかなりのものと聞きました。しかし、孫さんにはまったくガツガツしたところがありません。自らの経営方針に対する自信と、頭の中に描かれた壮大なビジョンが、孫氏の余裕と非凡なイメージを生み出しているのかもしれません。そこに納得できるものがあるから、彼の示すビジョンに投資する人が、世界中にいるのでしょう。では、凡人の私たちには何ができるでしょうか。大事なのは、目先の小さな欲にとらわれないことです。たとえば、先の司会業の例の場合、仕事を依頼する側として次回また発注したくなるのは、ギャラにかかわらず引き受けてくれた後者の人です。こういう人こそ、ギャランティーはしっかりお支払いしなければ、と思うものです。もっとも引き受ける側からすれば、ギャランティーが相場からほど遠い場合には、安請け合いをしてはいけません。ただ例外もあり、事情があって通常より少しばかり低い金額であったり、恩のある人からの依頼であったりすれば、迷わず引き受けましょう。その姿勢が、「また次回お願いしたい」という気持ちを相手に抱かせるのです。こういう人は、きっと「将来なりたい自分」を思い描いているのだと思います。一流の司会者になりたい。そのためには経験を積まねばならず、仕事を選んでいる場合ではない……と。目の前のことだけ考えるのではなく、ちょっと先に目を向けてみる。そんな余裕がほしいものです。また、なにかとバタバタする様子も、品がよいとは言えません。時間の使い方を工夫する必要がありそうです。時間に追われると、どうしてもバタバタしてしまいます。追い込まれるにしたがって、心もギスギスしていきます。それを防ぐために、事前に準備するための時間をつくりましょう。たとえば朝10分早く起きる。そんな小さなことからはじめればいいのです。10分早く起きれば、出がけに紅茶を1杯飲む余裕をつくれます。1杯の紅茶で心を整えてから出かけると、ふだん目に入らなかった季節の花に思わず目がとまったり、耳に入らなかった鳥のさえずりが聞こえたり……。あなたを取り囲む風景が、ガラリと変わって見えるはずです。自分自身に余裕を持たせるためには、小さなことの積み重ねが大事になってくるのでしょう。
心に余裕をつくる不思議な言葉「ごきげんよう」と挨拶してみませんか?顔つきや話し方、あるいは態度に、〝トゲトゲしさ=険〟を含む人は、どことなく下品に思えてしまうものです。以前、韓国においてパワハラ問題で大きな話題となった、ナッツ姫・水かけ姫こと大韓航空社長の娘たちが、部下を責めているときの表情や口調には、共通した激しい攻撃性が感じられました。ふつうにしていれば決して悪い印象を受けることはないでしょうし、笑顔もそれなりなのに、キレるとそれこそ鬼の形相になってしまうのです。あまりの迫力に驚きを通り越して、恐怖を感じた人も多いと思います。パワハラの問題は、韓国に限った話ではありません。日本でも国会議員や、各種スポーツ団体の重要ポストにいた人物たちが、パワハラを次々と指摘され、しばしばニュースを賑わせています。実際のパワハラ映像や音声がネット上で拡散されて報道されるケースもあり、あまりにもひどい差別的な発言や誹謗中傷に、なぜそこまで汚い言葉を口にできるのかと耳を疑ったものです。ひどい言動を取る人たちは、きっと不平不満や、不安や、もっとドロドロとした感情を心に抱え込んでいて、ある一線を越えると、相手に対する攻撃を止められなくなってしまうのでしょう。私たちは、彼らの言動を他山の石だと思って、自分は決して同じ過ちを犯さないように、気をつけるしかありません。自分の心にトゲトゲしさをつくらないために、できることはあるのでしょうか。そう考えたとき、ひとつ思いついたことがあるのです。私は千葉県の公立高校を卒業したのち、白百合女子大学に進学しました。事前に、白百合では「ごきげんよう」と挨拶するのだと聞いていたのですが、入学してから、みんなが頻繁に「ごきげんよう」を使っているのを実際に目の当たりして、「アラ本当!」とびっくりしてしまいました(笑)。この「ごきげんよう」は、とてもいい言葉です。友人と意見のぶつかり合いなどしても、別れ際に「ごきげんよう」と口にすると、お互いに不思議と笑顔になって、「また明日ね」という気持ちになれるのです。「ごきげんよう」は、私の心に余裕をくれる、不思議な力を持っている言葉でした。みなさんも、「ごきげんよう」で心の余裕をつくりませんか?朝の挨拶、別れの挨拶を、「ごきげんよう」にしてみましょう。急に使いはじめると周りの人が驚いてしまうかもしれませんから、身近な人には「ごきげんよう」の不思議な力をひととおり説明しておいたほうが無難かもしれませんね。目標は、家族の方や友人も巻き込んで、「ごきげんよう」を浸透させること。丁寧で、品がよく、心を落ち着かせてくれる「ごきげんよう」が飛び交うことで、そこにいる人たちの品格までも高めてくれるはずです。
あえて一歩引くべきとき「奥ゆかしい人」になる五つのポイント「いただきます」「ごちそうさま」をきちんと言える人は素敵です。日本人らしい〝奥ゆかしさ〟を感じられます。しかし最近、食事の挨拶をきちんとしない人が増えているような気がします。家族全員が揃って食事をする家庭が少なくなったことが原因とされていますが、外食の機会が増えていることも大きな要因かもしれません。外食では、自分の前に料理が出てくるタイミングで食べはじめ、食べ終わると店員さんがサッとお皿を下げてくれます。他の人の食事のタイミングは、あまり気になりません。食後は軽く会話を楽しんだりして帰路につく……。要するに、「いただきます」や「ごちそうさま」を言うタイミングが、つかみにくいのです。そんな中でも、ときどき小さな声で「いただきます」「ごちそうさま」をきちんと言う人を目にすることがあります。だからといって、それを誰かに無理強いすることもなく、ただひとり淡々と、当たり前のように、自然と礼儀を尽くしているのです。そういう人にこそ〝奥ゆかしさ〟を感じます。また、「きちんと躾けられて育ったのね」と微笑ましく思います。〝奥ゆかしい〟という言葉は、もともと「深みと品位があって、心がひかれる。深い心遣いが感じられて慕わしい」(デジタル大辞泉)という意味で、男女を問わず使われてきた言葉ですが、近年ではどちらかといえば、もの静かで楚々とした女性に対して使われるようになりました。もっとも、活発で何事にも積極的な女性が増えるにつれて、〝奥ゆかしい〟という言葉は死語になりつつあるようです。たとえば結婚披露宴では、結びに新郎のお父さまが両家を代表して謝辞を述べ、ラストは新郎の言葉で締めるのが、最近の一般的なケースです。ところが、なかには「私も話します」とおっしゃる新婦もいます。新郎が謝辞を述べるのなら、自分も謝辞を述べたいというわけです。もちろん、それを止めることはしませんが、私個人としては、できれば控えたほうがいいと思っています。なぜなら、新郎側のお客さまやご年配の方の中には、最後の最後に新婦が出てきてスピーチすることに、違和感を覚える人が多いからです。そもそも結婚式は、花嫁を中心にしてことを進めていきます。花嫁をいかに引き立てるかが勝負のポイントです。特に最近は、両家というより新郎新婦ふたりの意向で段取りを決めることが多いので、新婦の意見が取り入れられやすいのです。ですから、「最後ぐらいは新郎にまかせたほうがいいのでは……」と思うのです。もちろん私自身、女性が社会進出し、自分らしく生きていくことには大賛成です。しかし、こと結婚式・披露宴の場では、女性はあえて一歩引いて、奥ゆかしさを打ち出したほうが、かえって素敵に見えるものです。たとえば、友人だけを集めてのパーティー(1・5次会)でしたら、新郎と新婦がふたりでスピーチするほうが、むしろ今の時代にあったやり方でしょう。一方、日本の結婚式には、まだまだ〝嫁ぐ〟という文化が色濃く残っています。ですから、その場であえて花嫁が、自分の存在をアピールする必要はないように思うのです。新郎の親御さま、親戚の方、あるいは上司がいる席では、新郎を立てておく。そう判断できる女性のほうが、賢明なように思います。かなり戦略的ですが、ここ一番というときには一歩引くのが、現代版大和撫子の知恵と言えるかもしれません。およそ、奥ゆかしいと言われる女性は、次のようなタイプです。①常に周りの状況をよく見ていて、いろいろなことによく気がついて、細かく気配りができる人②常日頃から落ち着いていて、むやみにはしゃがないし、言葉遣いも丁寧な人③基本的に聞き上手で、自分の話はあまりせず、ましてや自慢話などしない人④日頃は控えめだが、教養があり、必要とあれば知的で的を射た発言ができる人⑤マナーや礼儀がしっかりしていて、必要以上に自分をアピールしなくても、洗練されたイメージを相手に与えられる人ただし、奥ゆかしい人と思われるか、単におとなしい人と思われるかは紙一重です。最終的に両者を分けるポイントは、凛とした自分らしさを持っていて、自分に自信があるかどうかではないでしょうか。それこそが、現代に通用する奥ゆかしさを身につけるために、大事なことなのかもしれません。
節度をわきまえる何事も「ほどほど」なのが品がいい前述の「一歩引く」に通じることですが、品よく見られるためには、「節度をわきまえる」ことも大切です。たとえば、会議の場で上司が発言する前に、自分の主張を声高に並べ立てるような行動に出たりすれば、たとえそれが正論だったとしても、周りの人たちは眉をしかめてあなたを見るでしょう。もちろん、正当な理由があり、そうせざるをえないという覚悟があってのことなら、しっかり主張してください。しかし、そんな場面はそうそうありません。基本的には、どんなときでも、その場がどういう場であり、自分がどんな立場にあるのかを十分に認識した上で、行動すべきです。それが「節度をわきまえる」ということなのです。人との関係において「節度をわきまえる」ために、まずはしっかり相手との距離を保つことです。フランクに接することと、相手のテリトリーにズカズカと踏み込んでいくことは違います。ごく稀に、怖いくらいズカズカと踏み込んでいるのに、相手に嫌な思いをさせることなく、自然に心を開かせてしまう人もいます。落語家でタレントの笑福亭鶴瓶さんのような人です。相手の懐に入るのがうまく、気がつくとみんなを仲間にしてしまいます。素晴らしいと思いますし、あんなふうになれたら素敵だなと思います。もっとも、とても真似できることではありません。一般的には、相手にあまりに近づきすぎると嫌がられるものだと、知っておきましょう。相手との距離感を「ほどほど」に保つほうが、賢いやり方です。この「ほどほど」な距離感は、自分にとっても都合がいいのです。たとえば、よくない噂話に巻き込まれそうになったとき、相手との距離が「ほどほど」に取ってあれば、それを回避することも難しくないでしょう。古代ギリシアの哲学者プラトンは、「己に打ち克つことこそ、最大の勝利である」という言葉を残しています。自制すること、すなわち節度ある行動が大切であると教えているのです。特に注意したいのが、お酒の席。素面のときはまったく問題ない人でも、酔ってくると、予想もしない行動で騒動を起こす人がいます。よくあるのは、「今日は無礼講だよ」という上司の言葉を真に受けて、本当に言いたい放題、やりたい放題の暴挙に出る人です。場を盛り上げるつもりなのか、突然服を脱ぎはじめたり、下ネタを連発したりする人もいます。あるいは、上司や同僚に対して乱暴な言葉遣いをしたり、平気で人格を傷つけるようなことを口にしはじめたりする人もいます。多少のことなら、酒の席のことだから、あの人はお調子者だからと許されるかもしれません。しかし度が過ぎると、その姿はむしろ滑稽であり、ひどい悪印象を周りに与えかねません。百歩譲って、日頃から溜め込んだ不満や怒りが、酔った勢いで一気に表面化してしまったのだとしても、限度があります。そこから品性を感じることはできません。あげくの果てに、相手に手を出すような暴挙に出てしまえば、もうどんな言い訳も通用しないでしょう。信用は失墜し、取り返しのつかないことになります。そうした光景は、結婚披露宴の席などでもよく見かけるのです。お酒を飲んで酔いが回ってくると、相手かまわず近くにいる人にからみ出す人がいます。スタッフがさりげなく会場から連れ出したり、なだめたりして、なんとか大きなトラブルに発展しないように対応するのですが、その方が失った信頼までは取り戻せないのです。楽しいお酒の席を、「ほどほど」にたしなめば、ざっくばらんに本音を言い合える交流の場になります。しかし、節度をわきまえず、暴走してしまうと、取り返しのつかない事態になりかねません。「ほどほど」には、相手を許容する寛容性を持ちつつ、分相応に振る舞うという意味があります。それは、品性ある行動につながるのではないでしょうか。
苦手な人との付き合い方嫌いな人にこそ丁寧に接する、という知恵どんな人でも、嫌いな人、苦手な人のひとり、ふたりはいるものです。そんな人と会話するのは苦痛ですし、できれば避けたいと思ってしまいます。でも世の中、そんなに都合よくいくものではありません。ビジネスをする上でどうしても付き合わなければならないこともありますし、上司や同僚なら、否応なく、日常的に接することになります。そこで必要になるのが、〝嫌いな人、苦手な人にこそ、丁寧に接する〟という知恵です。人間関係は一方的なものではなく、お互いの気持ちの上に成り立っています。そして多くの場合、あなたが嫌いだ、苦手だと思っている相手は、同じようにあなたのことを嫌いだ、苦手だと感じているものです。その関係を放ったままにしていては、決して改善されることはありません。そこで、相手が心を開くように、自分のほうから相手に丁寧に働きかけてみるのです。苦手な人にこそ〝先手必勝〟。苦手意識に無理やりフタをして、自分から声をかけてみるのです。それまでは「お疲れさまです」で終わらせていた会話に、「お忙しそうですね」「寒くなってきましたね」などと、社交辞令的な言葉でいいので、必ずひと言プラスしてみましょう。たったひと言でも、毎回、毎回、言葉をかけ続ければ、相手も「気にかけてくれているのかな?」と思うようになるでしょう。そして、自分を気にかけてくれる人に対して悪い感情を抱き続けるのは、意外と難しいものです。瞬く間に意気投合、というわけにはいかないかもしれませんが、相手の態度は次第に軟化してくるはずです。相手に丁寧に接しよう。その意識を持つだけで、自分が相手に対して抱いているマイナスの感情が暴走するのにブレーキをかけられますし、相手に対する口調も物腰も自然とやわらかくなるので、相手が心を開いてくれるきっかけをつくりやすくなります。それでもダメなときは?残念ですが、諦めて逃げたほうがいいかもしれません。物理的に距離を取り、それ以上無理をして声をかける必要はないでしょう。関係をこじらせてお互いにストレスを抱えるより、「そういう人もいる」と割り切って、距離を置いたほうが、双方にとっていい結果になるはずです。そういった見極めができるようになるのも、おだやかに、余裕をもって日々を過ごすためには、必要なことでしょう。
自分で自分を貶めない「自分」を磨こう、「生き方」を磨こう最近、公共の場でやってはいけないことと、やっても許されることの境目が、あいまいになっているような気がします。以前、渋谷でハロウィンに浮かれた若者たちが車を横転させ、その上で飛び跳ねるなどという、もう呆れるしかない騒ぎを起こしました。もちろん、それが論じるにも値しない下品な行為であることは言うまでもありませんが、どうも最近、日本人の公共の場での立ち居振る舞いが、粗雑になっているような気がしてなりません。振り返ってみれば、私も若い頃、友人と電車の中で大声を出して話していたこともありますし、今でも女子会など親しい仲間との会では、他のお客さまの存在を忘れて盛り上がってしまうこともあるので、反省しきりですが……。私たちは、そうした恥ずかしい行動がいかに自分を貶めることになるかを自覚すると同時に、できるだけそうしないように肝に銘じて、常に意識していくように努力するしかないでしょう。たとえば、身近なところでは、スマホです。少し前に、女子大学生が右手に飲み物を持ち左耳にイヤホンをつけた状態でスマホを操作しながら電動自転車を運転していたために、高齢の方にぶつかって、死亡事故になってしまったことがありました。この場合は、マナーというより明らかにルール違反ですが、ふだん何気なくしている行為が度を越すと、このような事件になってしまう可能性があるという、私たちにとって戒めになるような出来事だったと思います。根本には、自分さえよければよいという、身勝手な考えがあるのだと思います。品性ある生き方をするためには、利己的にならないことを前提にして、自分自身で何が正しくて何が悪いかを判断して生きていくための知恵を持つことが大切です。そのためにも、品のいい人から多くのことを学ぶための感性を磨いていくべきだと思います。(了)
コメント