権力のある者は、常に権力をより強大にしよう、永続させようと願う。
財力も、これで満足というものはない。さらに増大しようと考える。こうした限りない欲望は前進のエネルギーになるものであるが一歩誤ると、企業を亡ぼし、己をも失なうことになる。
といって欲望を抑えれば前進はやむことになる。しかし、危険も少なくなる。ブレーキを緩めれば前進はするが過ちを冒す危険も多くなる。これらの調整をどうするか、人間の良識にまつ以外にない。
ところが、この良識なるものは、好調に恵まれたり、地位が上がり財産ができてくるにつれて怪しくなってくる。「貧すれば鈍す」とか、貧乏になると頭までバカになるというが、それ以上のバカになるのが名利を得てからといえるだろう。
しばらく前の池田勇人総理は「貧乏人は麦を食えばょい」といって失脚したが、もし「金持ちになったら麦を食え」といったら心ある経営者などから喝朱を受けたのではないかと思ゝ^ノ。
ある人は「金持ちになったら、吝薔にならないように心がけることと″ノー″という言葉を覚えることだ」と教えている。「ノー」とは誰にいうのか。うまい話を持ちこんでくる人と、出したがっている自分の心に言いなさい、ということである。
陽明学の始唱者である王陽明は江西各地の匪賊討伐にあたっていたとき、門人の場仕徳に、戦果を知らせるとともに教訓を手紙で書き送っている。
「私が江西の取るに足らない匪賊をすべて取り除いたからといって大きな手柄とはいえない。もし、おまえたちが自分の心腹の中にわだかまっている、人欲という寇賊を一掃し、きれいに平定の功を取ることができたとするならば、それこそ大丈夫としての稀になる偉業というべきです」というものである。
現代でも、逆境や、内外の競争相手に勝つよりも自分の心にある邪念邪欲に克つことのほうがはるかに難しい、といえるのではないか。業なかばで挫折した者もあるし、有終の美の飾れなかった者の多くは自分に破れたものといえるだろう。己の心を締める鍵は誰しもゆずってくれないものである。自身で作る以外にない。経営を志す者が何よりも先に作らなければならないのは、この鍵といえるのである。この鍵を作らせまいとする人、作った鍵を奪おうとする者が毎日のように押し寄せる。これを撃退することも怠ることはできない。
「和して同ぜず」という言葉がある。志のある者は、誘った人に同調しているようであるが、心から同調することはないものである。
卑近な例が、幾分でも貯蓄ができたり、 一時に大金が入ったりすると、憐れなを乞いにくる者、義侠心にすがりにくる者、さては、儲けさせてあげます、といってくる奇特な人まである。いずれも、持っているかねを奪いにくるものである。
また、うまい話を持ってくる。話には欠点がないから、つい引っかかってしまう。それも自分の心に欲がある。それに負けてしまうのである。 .
「絶対に儲かります」といわれたら「そう言っているあなたが絶対儲かるのか、私が儲かるのか」と反問するくらいでないとかねは守れない。私にも「このチャンスを逃がしては二度と巡ってきません。いますぐに」といってきた。そこで「三度とチャンスがこないことになると御社は閉鎖ですね」といったら電話をきられた。「いますぐ」という者にかねを出していたのでは、いくらあっても足らないのである。
韓非子に「トップが身を亡ぼす十の過ち」というのがある。
一、小さな忠義にこだわると大きな忠義を見失なう。
二、小さな利益にとらわれると大きな利益をそこなう。
三、気まま、でたらめで外国に無礼をするとわが身を亡ぼす。
四、政治を怠って音楽に熱中すると自分を苦境に追いこむ。
五、欲に目がくらんで利益だけを追求すると、国も自分もともに亡ぼす。
大、女の歌舞に熱中して国政を顧みないと国を亡ぼす。
七、国を留守にして遠方に遊び、部下の諌言に耳をかさないと、身を危うくする。
八、過ちを犯しながら忠臣の意見をきかずあくまで意地を通そうとすれば、せっかくの名声を失ない、世間のもの笑いになる。
九、自分の力をわきまえず、外国の力をあてにすれば、国を削られる。
十、小国のくせに、他国に無礼をはたらき、部下の諫言に耳をかさなければ地位を保つことができない。
いずれも己に克てないからといえよう。
このように考えてくると、「経営とは、己に克つことである」ともいえそうである。
また、克己心は経営者の欠くことのできない条件ともいえよう。菜根諄に「魔を降す者は、まず自心を降せ。心伏すれば則ち群魔は退き聴く。横を駅する
者は、まず此の気を駅せよ。気平らかなれば則ち外横は侵さず」(魔性のものを降服しようとする者は、なによりも先に自分の心に打ち克つようにせよ。自分の心にある煩悩や妄想を退治すれば、本心が明らかになって、さまざまな悪魔も心伏し退散してしまう。
また、横着な人間を制御するには、まず、己の心を制御すべきである。自分の心にわだかまる勝心や、客気を退ければ、心も平静になって外道も恐れ入って退散することになる。自分に克つ心が強ければ、魔性も、横着者も屈服させることができる)。一魔性は相手にもあるが、むしろ自分にある。
身近なことだが、かね儲けの場には、無知、無能な小羊を餌食にしようとしている魔者が .横行している。その魔者は遠くに見える美しい山々や、青々とした平和な草原の話はするが、決して、そこへ案内しようとしない(つまり、儲かる話はするが、そこへ案内すれば、転落の危険がある険しい山、猛獣、毒蛇が潜んでいることがばれてしまうからだ)。
いかにも、悪魔のような人たちと思うが、彼らにしても暴力をふるっているわけではない。それら魔性に引きこまれ餌食になってしまうのは自分の心の中にも魔性が潜んでいるからである。新聞種によくなっているが、法を犯すような手口でだまし取られている。だまされる人が多いから跡を絶たない。己の心の中に潜む魔性を取り去れば、人をだますような魔性もなくなるはずである。
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