さか
前職時代、私が課長のころの話である。トップが参院選挙の再出馬に担がれ、居ながらにして当選確実とまでいわれていた。
そんなある日、私一人が呼ばれ、再出馬の是非をきかれた。「社員代表と思って素直なところを答えてほしい。改選にあたり、たいした運動をしなくても再選確実というので、多くの人が推せんしてくれている。今度も出馬すべきかどうか」と。即座に「私は反対です」といってしまった。二足のわらじはなんとやら、本業専心が筋と思います、とつけ加えた°トッブとしては、私が「大賛成で私たちも微力を尽くします」とでも言うことを期待していた
のではなかったか。案に相違したのであろう、「反対は君だけだ」と吐き捨てるようにいって席を立ってしまった。
四、五日して会ったら「やめたよ」の一言だった。
Jれも前職時代、私が経理部長のころの話である。ある支店の新築現場に立ち寄ったとき、二階なし、いわゆる吹き抜け天井の設計に気がついた。建築担当者に「いまは採光・空調のすべてを機械がやる時代、吹き抜けは時代遅れで、二階を造って効率よく運用すべきではないか」と口走った。
ぞうけい
それがトップに伝わり、電話で烈火の如く怒られた。そのトップは建築にも造詣が深く、自ら店舗設計に筆を加えるほどで、無関係な一部長がとやかくいう筋ではない、というわけである。百雷一時に落ちたかの怒り方に、電話で平身低頭してもはじまらない。私は左遷を覚悟していたところ、何日かして建築担当者が召集され、井原部長も加えろという指示。
その日は屠所にひかれる羊の思いで出席した。トップが現われ「今日集まってもらったのは、今後の店舗新築についてだが、吹き抜け設計は中止し、天丼の高さは九フィートにする。以上」といって腰をあげ、私の顔をみながら「井原くん、これでいいんだろう」とにっこり笑いながら出ていかれた。
自然に頭が下がった。いい分をききとどけてくれたトップの雅量に対してである。
「耳中、常に耳に逆らうの言を聞き、心中常に心に払るの事あれば、わずかにこれ徳に進み、行を修むるの砥石なり。もし言々耳を悦ばし、事々心に快ければ、すなわち此の生を把って帰毒の中に埋在せん」(諌言、忠言は耳に逆らうものであるが、……耳をよろこばせるような媚び、へつらいなどの甘言に満足しているようでは人生を猛毒の中に沈めてしまうことになる)と菜根諄にある。
社長にとって、諌言、忠言ほど耳ざわりなものはない。それが正論であればあるほど、相手をうとましく思い、生意気なことを、わかった風なことを言うな、何様だと思っているんだ、などと己の感情を損ねるものである。しかし、周囲の者からの諌言、苦言を私的な感情から退けたり、相手を遠ざけていては、私を捨てて諫言する者もいなくなるばかりか、雅量のない将として、かえって部下から退けられることになる。
古今東西、長い歴史の中で忠言に耳を傾けて誤らずにことを成し遂げた人物は多いが、逆に、甘言に迷って業を失ない、己を失なった者もまた多いのである。権力者とて生身の人間、独断専行、横道へそれようとしたとき、身を挺して軌道修正する者を周囲にもたなくては、企業は奈落の底に落ちこむ危険さえ生じてくるだろう。
アメリカの実業家W ・B ・ギブンは、部下に「冒険をおかす自由、新天地を開拓する自由」とともに「反発の自由」を与えて、大を成したという。わが国でも、ある大手スーパーの社長が「よろしく争臣たれ」といっている。
上に立つものは、人の話をきくときは虚心坦懐、わだかまりのない気持ちできくべきであス)。
中国の戦国時代、魏の宰相である、瀧葱が太子とともに趙の部耶への人質として行くことになったとき、王に話した。
「一人の男が、市場に虎が現われたといってきたら王はこれを信じますか」
「信ずることはない」
「では二人の人が同じことを言ってきたらどうですか」「一応疑ってみるだろう」
「では二人が市場に虎が出ると言ってきたらどうですか」
「それは信ずるだろう」
「市場に虎が現われることなど全く考えられないことですが、二人が言うと、実際に現わ
者がありましょうが、どうか信じないようにお気をつけ願います」「安心するがよい。自分は自分の日以外は信じないことに致す」ところが、鹿葱が出発すると、早々に王にざん言する者が現われた。
後日人質が解かれて帰国する段になり、太子は帰れたが、瀧葱の入国は許されなかった(二人市虎をなすの故事)。
人のことばというものは、あてになって、ならないもの。よほど、トップ自身がしっかりしていないと一寸先まで闇にされてしまうものである。
江戸末期の儒者、佐藤一斎が書いた言志四録に「諌を聞く者は、固より須らく虚懐なるべし。諌を進むる者も亦須らく虚懐なるべし」(諫言をきく者は、虚心坦懐、わだかまりのない気持ちで聞き、諫言する者もまた同じである)とある上を諫めるにも道がある。ただ諌め言をいえばよいということではない。
韓非子に次のような話がある。
魏の文侯に仕えた西門豹は県知事に抜燿されたが、清廉潔白で私欲に走ることもなく、侯の側近にとり入ろうともしなかった。そのため側近からは目の敵にされていた。一年後に治政報告書を提出したが、成績不良の理由で知事を免職となった。
西門豹は、その取消しを願い出た。「はじめての知事で、どう治めてよいか見当もつかず免職になりました。今になってわかりましたので、もう一度知事をやらせて下さい。もし再び成績不良でしたら首を列ねられてもかまいません」。文侯はこれを許した。
任地へ戻った西門豹は、税金を重くし、びしびしと取り立て、側近たちには抜かりなく機嫌とりに努めた。
一年後に報告に帰ったとき、文侯は直々に出迎えて、その功をたたえた。そこで門豹は文侯に言った。「先年、私は君のために栄を治めましたが成績不良のかどで免職処分になりました。今度は側近の方々のために治めてみましたらお褒めにあずかりました。もうこれ以上知事の職にとどまる気にはなれません」と辞表を提出した。
しかし文侯は自分の不明を詫びて辞表は受け取らなかった。極めて有効な諌言といえよう。次に、詩に託して兄を諌めた故事がある。
三国志に登場する一方の雄、魏の曹操の長男は曹玉、その弟が曹植である。この兄弟幼いころから仲が悪く、曹茎が魏の文帝と称するころには次弟の曹彰を毒殺し、次の弟曹植をも殺そうと計ったはどだった。あるとき曹不文帝は弟の曹植に、七歩あゆむ間に詩を作れ、できないときは勅命に背いたものとして厳罰に処すと命じた。曹植を痛めつけようとしたのである。
曹植は兄の声に応じて立つと、直ちに次の詩を作った。
「豆を煮て持して羹を作る。鼓を漉して以て汁と為す、真は釜底に在って燃え、豆は釜中に在って泣く、本是れ同根より生ず、相煎る何ぞ太だ急なる」(羹を作ろうとして豆を煮、味噌をこして汁をつくるのに、真は釜の底で燃え、釜の中の豆は熱いので泣きながら言うには、豆も真ももとはといえば同じ根から育った問柄なのに、こんなに急いで煮るのはあまりといえばつれない仕打ちではないか)。
つまり、父母を同じくした兄弟。本来なら協力して父曹操の遺業を全うすべきはずなのに、なんで弟の私をこんなにつれなくするのですか、ということを詩に託したわけである。さすがの文帝も弟の切ない気持ちを察して恥じるところがあったという。「七歩の詩」「七歩の才」ともいわれている故事である。兄の曹不は一国の君主でありながら弟いじめをするはど狭量な人間だったらしいが、それでも反省したという。
ところが現代でもみられることだが、反発、諫言されると権威を犯されたかのように思いこんで、その人間を根に葉に思う執念深い者もある。あの社長に呪まれたら百年目というのがある。
趙の名君、簡子は周舎という臣が死んだあとは政務をとるにも浮かない顔をしていた。わけをきくと「つまらない千枚の羊の皮は、 一匹の狐のわきの下の皮に及ばない(千羊の皮は一狐の腋に如かず)というがそのとおりだ。多くの大夫たちが毎日朝廷に出仕してくるが、自分の言うことをはいはいときくだけで周舎のように堂々と直言してくれる者がない」(周合の詳譜)と。
私も長い間何人もの権力者に仕えたが、譜々して目の敵にされた人もあれば、譜々に大抜櫂してくれた人もある。人の度量というものには大海もあれば小さな池もあることを知らされたものである。
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