「人の一生の履歴は幼時と老後を除けば、率ね四、五十年間に過ぎず。その間見するところは殆ど一史だにも足らず。故に宜しく歴代の史書を読むべし。眼を著くるところは最も人情事変の上にあれ」(一人の一生は幼老の時期を除けば、四、五十年でしかない。その見聞は歴史の一部にも及ばない。だから歴代の史書を読むがよい。そのときは人心の動き、事変の変化に注目するがよい)言志四録。
人間の思考や人情など大昔から変わることはない。手段方法が変わるだけである。
また、同書に「学は諸れを古訓に稽え、間は諸れを師友に質す」(学は古人の注釈を現在に照らし合わせて考察し、わからないことは師や友にきく)とある。
歴史は単なる過去の記録に過ぎない、と考えるべきではない。現代人の処世、近代企業経営に役立つ記録が限りなくある。時代は変わっているが同じ人間が行なったことであるからである。
また同じ人間が行なっただけに、人は変わるが行なうこと、考えることに変わることはない、たとえば千年前の人が犯した過ちと、いまの人の犯す過ちとでは大同小異で、過ちの動機や過程など全く同じといえる。
こうした点からすると、過去の人の犯した過ちを、現代の人がやっているのを見れば、将来、結果はどうでるかの見通しはつく。
わが国にも「騎る平家久しからず」という戒めがある。いつ言いだされたか知るよしもないが、平家が騎り始めたときとしても、立派に世間には通じたはずである。
中国の歴史にしても、夏の条王は、末喜という美女に心をうばわれ、豪華な官殿、楼台を築き、都には肉を山のように集め、乾かした肉は林のように、酒を入れた池には舟をこぐことができ、酒粕を積み上げた土手は十里の遠くまで見渡すことができたという(酒池肉林)。どこまで信じてよいかわからないが、こうした騎奢は人民を敵とするに等しい。殷の湯王に亡ばされている。
この夏の国をはじめたのは高王であるが、治水に功のあった人で、そのため十三年もの間家に帰らず、自分の家の前を通っても立ち寄りもせず、国政に励んだ名君であった。そのころ、儀狭という人が初めて酒を作って高王に献上した。王はそれを飲んで「後世必ず酒を以て国を亡ぼす者有らん」といって、それからは儀荻を近づけなかったという。
ところが、そう言った高王の子孫、つまり十七代目の条王は酒池の贅をつくして四百年の歴史の幕を閉じている。
さらに、歴史はくり返すというが、次代の殷の国は名君、湯王が興したが、すでに象牙の箸のところでのべた、村王は、担己という美女の色香に迷い、酒池肉林の贅をつくして周の武王に亡ぼされている。
夏、殷とも、同じく名君が国を始め、終りはいずれも、女と酒で国を失なっている。騎りはじめた平家を教ただけでも滅亡の近いことが先見できる、といえよう。
現代の企業でも、組織内の人間に騎る心が現われるようになったら、厳重な注意を要すと考えて間違いない。ことに企業のトップで、自分の功を誇り、俺が俺がと鼻を動かすようであったら、その企業の将来は短いといえるだろう。
古今東西の歴史をみても、国の興りは徳により、滅亡は騎にある。今後の興亡もこれから外れることはなかろう。
いかに先見に長けており、果断の勇があったとしても、騎る心がでては有終の美は飾れないものである。
楚の項羽は「先んずれば人を制す」といって殷通を斬るほど、先見と勇があった。しかし、秦を亡ばして、成陽城へ入ると「富貴にして故郷に帰らざるは、繍を衣て夜行くが如きのみ」と見栄まで飾ろうとしている。劉邦の四倍の兵力を誇りながら三十一才の若さで終っている。先見が仇となった、といえるかもしれない。日本でも先見が実らなかった好例がある。
明治三十七年、日露開戦で日本が緒戦に勝ったことを知った埼玉の春日部に住む鈴木久五郎は五百円のかねを持って兜町へ行き、当時の鐘紡株を買いまくって、連戦連勝の勢いを示した。またたくまに大儲けをしたわけだ。
戦争のはうも、わが軍が大陸、海で大勝。この勢いで株価も奔騰したため、買えば儲かり、儲かれば戦線も拡大しさらに儲かる。まさに先見適中であった。ここらで打ち止めすればよかったが、人間足るを知らずとか。
一方、鈴木は豪遊を始めた。一流料亭を借りきって座敷に小砂利を敷き、それに金貨を沈めて、奇麗どころに、裾をからげて拾わせた。お座敷の潮干狩である。おしる粉に金貨を沈めて飲ませたともいう。自分の家の新築披露には東京の政財界の有力者を人力車を連ねて招いたという。しかし、戦争は、こうしたなかにも終りが近づく。これを見越して鐘紡株を売りまくったのが関西の呉錦堂という人。この結果は株の暴落で鈴木は一夜乞食に転落している。
彼が豪遊で失なったものは儲けた額の一部分であったに違いないが、豪遊の間に先見の明を失なって、失なったかねは莫大なものである。
次に三国志に出てくるこんな話がある。呉の孫権に仕えた諸葛瑾は、蜀の劉備に仕えた孔明の兄である。この諸葛瑾の子に恰がいた。恰は少年のころから才気炊発で、王の孫権からも将来を期待されていた。
ところが、温厚篤実で、苦労人である父としては、どうも悟の小利口ぶりや、人目につくようなことを好むことが心配でならない。「格は大いに吾が家を興さず、まさに吾が族を赤しくせんとするなり」と顔をしかめたわけである。
その後、烙は呉の国政を執るようになり、諸改革も行ない、さらには魏の大軍を迎え撃って勝つなどもあって人気を高めた。
しかし、この勢いと、人気の波に乗って、今度は二十万の兵を率いて魏に出征し大敗し、たちまち人気を失なって斬殺されている。親の先見どおりに終ったのである。
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