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十三亡国の音

「歌は世につれ、世は歌につれ」といわれ、景気の良し悪し、時代の盛衰、国の政策、人間感情などによって歌の詩、曲まで変わってくる。

大正から昭和にかけての不景気時代よく歌われたのが「カチューシャ可愛いや別れのつらさ」とか「おれは河原の枯れすすき」など、哀愁にみちたものばかり。当時私は少、青年期であったが、よく父が焼酎を飲みながら詩吟をどなっていた。その多くは「賤民争いて採る首陽の蕨」という、御花園帝が足利氏の苛政に苦しむ賤民の哀れを詠んだものである。また、明治維新の志士が詠んだ「妻は病床に伏して児は餓に泣く」など涙を誘うものばかりであった。

それが戦争に突入すると、心を奮いたたせるような軍歌とか、根性をかきたてる歌に変わってくる。

歌は世につれて変わるだけではない。たとえば、優勝祝賀会など、大いに盛りあがっているときでも、 エレジーものを歌いだすと、静まり返る。沈みがちな会でも勇ましい歌がとび出すと、とたんに活気づいてくる。歌というものは人間の気持ちまで変えてしまう。

また、どういう歌が好きか、嫌いかによってその人の性格まで違うようである。前職時代、宴席で万年、安来節を歌うか、どじょう掬いを踊るかの人があったが、なかなか陽気で活力のある人だった。

どういう場所でも指名されると、枯れすすきを歌いだす人があったが、物静かで篤実な人だったが、気力に乏しいように感じられた。

さて、こうしたことをのべたのは、統率者は常に、部下の士気が衰えないよう心がけなければならない、ということである。そのためには、統率者自ら湿った顔をしたり、発言をしなさるな、ということである。

困難、不可能と考えるから、言葉より溜息が先にでてくる。顔も引きつり、言葉にも力がない。これでは、刀をかざして先頭に立っても藁人形としか部下の目には映らない。困難を嘆かず、可能を信ずれば、鎧袖一触の気迫が部下に伝わり、勇気も百倍する。

楚の項羽が劉邦に追いつめられ亥下に至って城壁の中に逃げこんだ。漢の軍は、これを幾重にも取り囲んだ。夜になって項羽は漢の陣営から自分の郷里の楚の歌が多くきこえてくるのを知って、大いに驚いて「漢皆日に楚を得たり、何ぞ楚人の多きや」と起って、とばりの中に入って宴を開いた。

十八史略では、この場面をこうのべている。「漢皆已に楚を得たるか、何ぞ楚人の多きや、と。起ちて帳中に飲し、虞美人に命じて起ちて舞わしむ。悲歌懐慨して泣数行下る。その歌に曰く″力山を抜き、気は世を蓋う。時利あらず離逝かず。離逝かざるを奈何すべき。虞や虞や若を奈何せん″と。離とは、平日項羽が乗る所の駿馬なり。左右皆泣き、敢て仰ぎ視るもの莫し」とある。

このとき愛妾の虞美人が和して歌った、というのが「漢兵、已に地を略し、四方楚歌の声、大王意気尽く、賤妾何ぞ生を柳ぜん」である。

このあと項羽は、夜八百余騎を従えて囲を脱したが大きな沢に落ちこみ、追ってきた漢兵に攻められ、本城に至ったときは、二十八騎に過ぎなかった。残兵の前で「今、ついにここに苦しむ。これ天、われを亡ぼすなり。戦いの罪にあらず。今日固より死を決す」といって、鳥江で一人自ら命を絶っている。

項羽が兵を起したのが二十四才、自害したのが三十一才、八年の間天下を争ったわけであ

抜山蓋世の英雄も、部下が敵陣に降って楚歌を合唱するようになっては勝味がない。八年間に七十余回も戦って一度も負けたことがない項羽も愛妾に″大王意気尽きぬ″と歌われるようになっては、もはや一巻の終りである。

現代企業のなかにも、抜山蓋世の気概をもち不敗を誇らた会社で、すでに倒産の憂き目をみたものもある。この多くは、環境悪化などの外圧ではなく内部の腐敗、ことに統率者の心の緩みといえるだろう。一

第一章でものべたが、韓非子に、トップが身を亡ぼす十の過ちの中の一つとして「女の歌  如舞に熱中して国政を顧みないと、国を亡ぼす」とある。                   

女に熱中して、国や会社を亡ぼした例は多い。「女の歌舞」とある点に注目したい。女の歌舞で国を守り、士気を高めるようなものは少ない。多くは、憐れみを乞い、哀愁に満ち、士気を挫くようなものが多い。そうした歌に魅かれ鼻の下を長くしているようでは、国、企業の安泰を保つことはできない。少しく、そうした場面を瞼にえがいてみるがよい。目を細め、肩を落して聴きいっている男から強い気力など見いだせるものではない。それも、お付き合い、気分転換などに一時を過ごす、ということなら別の話。それに熱中するということになっては企業の一大事である。

また、十の過ちの一つに「政治を怠って音楽に熱中すると自分を苦境に追いこむ」ともある)。

中国の春秋時代、衛の霊公が晋の国へ行く途中、撲水の辺へさしかかったところ、かつてきいたことのない新しい、妙なる音楽を奏しているのをきいた。霊公は、すっかり、それのとりこになり、供をしていた音楽師の師渦に命じてその譜を写しとらせた。やがて晋に着き、晋の平公にきかせた。その席には、晋きっての名音楽師といわれた、師噴も招かれていた。

師噴がその席についたときは、霊公も悦に入っているときであった。

その音楽を耳にした師噴は驚いて、師渦の奏でる手を押さえて「新しい音楽とは、とんでもないこと。これこそ亡国の音楽(亡国の音)です。すぐお止めなさい」と。驚く両公に師瞭は、そのいわれを話した。

「昔、殷の村王に仕えた師延という音楽師は、王のために、新声召里、靡々の楽など、涯靡な曲を作って聞かせましたところ王はすっかり、それが気に入り、日夜弾奏させてきき惚れていました。村王は、悪逆無道でしたから周の武王に亡ぼされていますが、村王が死にますと、その師延は楽器を抱いて撲水に行き身を投げて死んでしまいました。そのため、あそこへ行くと必ず、あの音楽がきこえてきます。死んだ師延の魂が迷ってあの曲を奏しているのです。新しい音楽だなんて、とんでもないことです」と。そういえばい戦争が始まると、敗戦、亡国に結びつくような歌舞の類はほとんど禁止された。

そういう私も終戦の三ヵ月前に伊豆の大島へ召集で出征した。くる日もくる日も軍歌と戦陣訓、軍人詔諭と合唱だった。

ところが、終戦になると、班長が民宿の蚊帳の中で「誰か、民謡の歌えるものはおらんか」と声を出した。私が、小唄勝太郎の″大島おけさ″を歌ったところ、班長から声があった。

「みんな覚えるまで、夕食後合唱するから、井原、そのときは音頭をとれ」。「ハッ」といっておいたが、亡国の後であったから、亡国の音にはならなかった。むしろ、殺伐とした戦後の人々に南風を吹きこんだのではないかと思う。

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