「黄河は細流を選ばず」という。
中国の大河である黄河は、どんなに細い川の水をも受け入れたからあれだけの大河となっているという意味である。また秀峰泰山は土を選ばず積み上げたから大山になった、ともいっている。
人間にしても、少々気に入らないからといって遠ざけたり、耳に逆らうことを言われても己の非を改めることができずに逆に不快の念をいだくようでは、心が小さい。自らの狭量を露しているようなものである。
「自分の片腕にしようと思って目をかけていた社員が、理由も告げずに辞めてしまう。幹部が居つかないのはどうしてだろうか」。ある社長からの相談である。中小企業ではあるが、社長の経営手腕については定評もあり、業績もまずまずの会社、それなのに優秀な社員がなぜ社長から離れてしまうのか。そこで冒頭にあげた「黄河は細流を選ばず」の話をしたところ、話の途中から「どうも頭にカチンとくる説教」という。この程度のことでカチンとくるようでは幹部も居たたまれなかったろう。とかく権力の座にある者は、わずかなことで感情をむき出しにしたりしては、人はついてこない、小人物と思われて志のある人間は去るものである。
言志四録に「人を容れる雅量のある人だけが人を責める資格がある。雅量ある人から責められれば相手も責を受け入れる。雅量のない人は人を責める資格がない。責めたとしても相手はそれを受け入れない」とある。
会社で、僅かな失敗をとりあげ叱りとばしたり、 一人を責めればすむのに全員に当り散らしている社長を見うける。これでは、いかに社長に大志があろうと、それを認めて協力する人がいなくなり、志を全うできないのではないか。
かつて金沢へ講演旅行した際、個人タクシーの運転手さんから俳人の加賀の千代女の話をきいたことがある。
加賀百万石の前田公から城中に召され、公が「加賀の千代、何にたとえん鬼瓦」と詠んだ。千代女は、悪びれもせずに「鬼瓦天主閣をも下に見る」と返句した。並み居る家臣たちが驚いた。足軽ふぜいの女房に百万石の天主閣を下に見られては、ただではすむまい、と思って。ところが前田公、今日は千代女にしてやられたといって褒美を与え帰した、という。千代女の権力も恐れない反発の勇気と、公の雅量に教えられたわけである。
その運転手さんの好きな千代女の句は「破る子のなくて障子の寒さかな」だといっていた。夫を亡くし、子を失ない、 一人暮しの淋しさ、愛児を思う心の現われた句である。私はこれを聞いて、企業も障子を破るはどの勇者がいなければ温室育ちになってかえって会社は寒さを感じるようになる、と経営に結びつけてきいていたのであるから、無粋人間のそしりはまぬがれない。
次に、小さな雅量が大きな役を果たした、といえそうな故事がある。
別項でものべたが、中国の戦国時代、斉の宰相、孟嘗君は三千人もの食客を養っていた。ある日、草履ばき、粗末な衣服、持ち物といえば長い剣だけ、という男が遠方から来た。わが国でいえば食いつめた素浪人というところだったろう。それを三等宿舎へ入れることにした。
十日はどたって宿舎の管理人にきいてみると、その潟駐という男、長剣のつかを叩きながら「帰って行こうか、わが長剣よ、ここの食事にゃ魚もない」(長鋏よ帰らんか、食らうに魚なし)と歌っているという。そこで今度は魚の出る二等宿舎に移してやった。満足しているだろうと思ってきいてみると「帰って行こうか、わが長剣よ、外へ出るにも馬車がない」と歌っているという。
それなら、ということで最上宿舎へ移してやった。そこには馬車もあるし、なんの不足もあるまいと思って。
ところが「帰って行こうか、わが長剣よ、妻子もなければ家もない」と歌っている。孟嘗君は居候の分際でともいわずに最高の待遇をしたが、これ以上はできないとしばらく放っておくことにした。
さて、孟嘗君が三千人もの居候を養う費用も大変。これを補うために領民に金を貸しつけ、その利息を当てようとしたが、 一年たっても利息どころか元金の回収さえ怪しくなってきた。そこで、その取り立て役に潟駿を選んだ。
領地に赴いた馬罐は、かき集めた十万銭の利息で借り主全員を集めて盛大な宴を張った。そして一人一人、返済できるかどうかを確かめ、返せる者には支払日を約束させ、返済困難と判断した者の証書はその場で焼き捨ててしまった。
これを帰って報告したところ、さすがの孟嘗君も怒った。馬腋は「ない者から十年待っても取れるものではありません0取れない証書はなんの役にもたちません。私は金の代わりに君の慈悲を領民に刻みつけ、君の名誉を高めてまいったつもりです」と。孟嘗君はかえって礼をのべたという。
この孟嘗君が、後にざん言によって宰相の位を追われたとき、三千人もの食客はそのもとを去っていったが馬罐は最後までとどまったのみか、強国秦に計略を用い、斉王を説いて再び孟嘗君を宰相に返り咲きさせている。
人間は大きな施しにも感激しないこともあるが、小さな雅量に大きく感激することがある。唐三百年の基礎を築いた名君、二代目太宗の重臣の用い方もまた雅量あふれるものであっ
ぼうげんれい と しよかい 一
た。創業の重臣といえば、知謀に優れた房玄齢と決断に長じていた杜如晦の智と勇の名コンおうけヽ う せo 一きちようビが知られているが、さらに王珪・李靖o魏徴などの有能な人材が唐の繁栄を支えていた。
その王珪が、太宗の前で「私は、真剣に国家に奉仕し、知れば必ず実行するこ之では房玄齢に及ばないし、いつも諌言を心がけ、自分の仕える天子が中国古代の名君である尭・舜の聖天子に及ばないことを恥じている点では、魏徴に及ばない。才能は文武を兼ね、出でては将軍となり、入りては宰相の任を果たす点では、李靖に及ばない」と、他の重臣たちを讃えている。
さて、このうちの李靖は、もと隋の場帝に仕えていたが、隋が亡びる際、唐の李淵(高祖)に捕えられ、斬られようとしたところを李世民(後の大宗)に助けられて、その幕下に加えられるようになった。
次に、李靖は、高祖李淵の命をうけて江陵の敵を討伐したが、僅かな兵きり与えられなかったため敵にはさまれて一歩も進めなかった。李淵は、わざと戦いを避けているものと誤解して、長官の許紹に李靖を斬れと命じた。敵方に身をおいた者は、いつまでも疑いをかけられるようである。この時は、李靖の才能を惜しんだ許紹のとりなしで断罪はまぬがれた。李靖が李淵から譜代の臣と同じ扱いをうけるようになったのは次の功があってからである。
異民族の反乱を鎮圧するために皇室のある一族が討伐に向かったが、撃退され、李靖が代わることになった。李靖は僅か八百の兵で、賊の首領を斬り、兵五千を捕えて鎮圧した。
李淵はこれを知って群臣に言った。「功を使うは過を使うに如かず」(功をたてた者を使うよりは、過失を犯した者を使うほうがうまくいく)。過失を犯した者は名誉奪回のために懸命に努めるからだ。
そのとき李淵は、自ら親書をしたため、「既往は咎めず、旧事は吾久しくこれを忘れん」
(昔のことは、とがめだてせず忘れよう)。敵に身をおいた者であっても、己のために役立つなら味方である。罪を犯した人であっても改まれば真人間と同じ。高祖とともに唐創業にあたった二代目太宗は、これらの重臣をよく用いて三百年の安定を築いたのである。上に立つものは、敵を味方にし、悪を善に改めさせるよう努める心が必要ではないか。それでこそ、ひろい心の持主といわれるのである。
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