三国志に登場する三雄、曹操、劉備、孫権は、いずれも将の将たる人物であるが、学ぶべきではない共通点がひとつある。その一点とは、後継者づくり、である。
魏の曹操の後を継いだのは曹不であるが、二人の実弟を窮地に追いやるほどの狭量人物。蜀の劉備玄徳は地位を息子の劉禅にゆずったがその器といえず、呉の孫権の子は相続争いを起している。親の責任か子の怠慢かは別として、いずれもその責を果たしていないといえる。
現代の企業にしてもトップの座にある者の最高の任務は後を継ぐ者を育てることにある。
これを私は駅伝競走の選手にたとえているが、 一人の失格選手が現われても、チーム全体が負けとなるか、失格となるはず。過去にどれほど輝かしい成績をあげつづけてきたとしてもすべて無になるだろう。
永遠に企業の生命を保つためには一人の選手の失格も許されない。社長たる者はこの自覚を強くもつべきだ、ということである。
中国の歴史をみても、夏は名君高によっておこり、十七代四百余年にわたる長期政権を保ったが条王の悪政により民心を失なって殷の湯王に亡ぼされている。その殷も、三十一代、六百二十九年の長きにわたったが村王の悪虐無道の政治が災いして周の武王に亡ぼされている。いずれも代々名選手がつづいたため長期政権を保つことができたが一人の失格者が現われたための断絶である。
史上まれにみる強国といわれた秦は三代十五年の短命、後の隋が三代三十七年で終っている。早々に失格者が現われたからである。
わが国でも豊臣は二代の短命、徳川は十五代三百年の長期。この差も名選手が出現したかどうかによって定まっているのである。
いまの企業にしても、人命には限りがあるが、企業の生命は永遠でなければならない。限りある人間が限りない企業の生命を保つためには、後継者をより優れた選手に育てることを欠くことはできない道理。そうした意味から、現職社長の最高の任務は後継者育成にあり、としたわけである。
現社長が子を後継者に選ぶ例は多い。決して非難すべきではない。代々の蓄積を子にゆずることはむしろ当然といえるだろう。
しかし、これは無条件で許されることではない。
前記の三国志に出てくる蜀の劉備は、死に臨んで、補佐役ともいえた諸葛孔明に後を託し「子の劉禅が後を継ぐにふさわしい、と考えたら継がせてもらいたい。もし、任に耐えないと判断したら、貴公が後継者となって国を治めてもらいたい」といい残している。内心はどうか計り知るよしもない。親として当然子にゆずりたいと願うだろうが、国を守ることは公
であり、子を思うことは私である。私事をもって公事を害すことは許されない。
孔明は劉禅が君主の資格なし、と知りながら劉禅を補佐しようとしたが病に倒れ蜀漢は亡びることになる。
以上から、ここでいいたいことは、事業を子にゆずるなら、後継者に相応しい人物に育てるべきだ、ということである。
事業と財産をゆずればよい、と考えるほど無責任なことはない。企業経営者たるの能力と魂をゆずれ、ということである。相続税など恐れるに足らない。恐るべきは無能な後継者なのである。
賢明な経営者は子を後継者と定めた場合、社員以上の厳しさで教育し、社員から、親の七光的に見られないように努める。言い換えれば、あの二代目ならあとについていけるといわれるはどの能力者に鍛えあげるのである。親の威光で地位を得ている後継者に心から服する者はないからである。よく、二代日、三代目が企業の危機という。
二代、三代目は創業者より近代的な学問も終え、築かれた有形無形の財産もある。創業者の無とは全く違い、恵まれているはずである。にもかかわらず、なぜ危機が忍びよるのか。一言でいえば、心の緩みである。二、三代目がこの緩みを起さぬよう、心を鍛えてやることが先任者の任務といえるだろう。
唐の太宗の故事に「創業守成」がある。
唐の始祖太宗が、重臣たちにこう下問したことがある。
「創業と守成といずれが難きか」(業を始めるのと、それを守り存続させるのとではいずれが難しいか)と。
これに対し重臣の一人、房玄齢は答えた。「天下は乱れ群雄を攻め破って降服させて天下を統一するのですから創業のほうが難しいと思います」
しかし、魏徴はこう答えた。
「昔から帝王の位を顛難の間に得て、これを安逸の内に失なっていますから、守成のはうが難しいと思います」
太宗は、これをきいて「玄齢は自分とともに百死に一生を得るような思いで天下を得たので、創業の難しさを知っている。魏徴は自分とともに天下を治め、騎奢は身分が高くなったり財産ができることから生じ、禍乱はものごとをいい加減にするところから生ずることを知っている。すなわち守成の難しさを知っている。もはや、創業の難しさの過ぎたいま、守成の難しさを知って、諸公とともに慎もう」と。
この大宗の二十三年の治世を貞観の治といい、次帝の高宗の永徽の治、玄宗の開元の治とともに初唐三代の治といわれ後世の鑑とされたものである。
徳川家康が三百年の基礎を築いた施政の手本としたのは大宗の貞観政要といわれている。このような名君も人の子。太宗は東征を諫められても聞かず、次第に奢修にながれ、三代日高宗は自分の妻の則天武后に背かれ、六世の玄宗は楊貴妃の色香におばれ、安禄山の反逆から城を捨て成都まで落ちのびている。
この悲しみを詠んだのが杜として、
甫である。有名な句があるので参考に書いてみる。題は「春望」「国破れて山河在り、城春にして草木深し、時に感じては花にも涙を濃ぎ、別れを恨んで
にうか さんがつ か しよばんとん あ はくとう か すべ
は鳥にも心を驚かす、峰火二月に連なり、家書万金に抵たる。白頭を掻けば更に短く、渾て管に勝えざらんと欲す」(国都は破壊しつくされたが、山や河の姿はもとのままであり、長安城にはまた春が巡ってきて草木は青々と繁っている。この変わりはてた時世に感じては花を見ても涙をそそぎ、家族との長い別れを悲しんでは鳥の声にも心を驚かせる。戦いのノロシは三ヵ月もつづいており、家族の便りは万金に値するほど待ち遠しい。心配のあまり、しらが頭を掻けば、短い毛ばかり残っているだけで、いまでは冠を支えるかんざしもさせなくなってしまった)。現代でもこれに類した例が少なくない。守成の難しさを後継者に教えることも欠かせないことである。隆盛をきわめた会社の跡を訪ねてはこの感を味わっている人もあるのではないか。
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