「天の将に雨ふらんとするや、穴蟻之れを知り、野の将に霜ふらんとするや、草虫之れを知る。人心の感応あるも亦之れと同一理なり」(雨が降りそうになると穴の中の蟻がこれを予知し、霜が降りそうになると草の中の虫が予知する。人間の心も澄んでおれば、感応が正しく現われる)言志四録。
たわいもない例になるが、株式投資の場合などでも、買う気もなければ売る気もないという時期には、株価の動きも神の教えでもあるかのように当るものである。ところが、いざ自分で手を出してみると、高いところを買ってしまったり、安値で売ってしまう。自分の欲が先見を狂わせてしまう。つまり冷静を失なって先見を誤るのである。その昔、テレビに一緒に出た人相観の先生に占ってもらったことがあつた。
「井原さんの人相は、まことに良い相だ。使ったかねは、必ず入ってくる、とでている」という、喜び勇んで帰り家内に話した。
家内は喜ぶどころか、困りきった顔でいった。「それは、いい相でもなんでもありませんよ。お金がなくなって自殺した人以外は全部、使っただけは入ってきているんですよ。それは貯金が全然できない相なんです」。 いわれてみると、 そのとおり。冷静を失なっていた証拠である。ことに、有頂天になっているときなど先見の明が曇る。
得意の状態がいつまでも続くと考えること自体、すでに先見を失なっていることになる。「ことの破れるは得意のとき」「近き憂いあり」の格言を忘れている。現在に満足しているようでは正しい先見はできない。
さらに先見を誤るものに知識の不足がある。因果のつながりがわからないようでは、先を見ることはできないし、見ても対応を誤ることになるだろう。
たとえば、物が不足すれば、物価が上がる。当然に、 かねより物が有利と考える。しかし、果たして物が不足しているのかどうかも考えないと、第一次石油ショックのときチリ紙や石けんを買いだめ、売り惜しみしたバカの二の舞にもなりかねない。
また、近年は、経済の予測技術も進歩しているため、インフレ懸念がでてくると予防対策が先手を打つことになる。金融、財政、税制面からブレーキがかかる。インフレ見越しも的外れになる。
情報過多も先見を狂わすことがある。
言志四録に「今の学者は温に失なわずして博に失ない、腫に失なわずして通に失なう」(知識が狭いために失敗するのではなく、ひろい知識があるためにかえって失敗し、片寄った知識で失敗するのではなく、よく通じていたために失敗する)とある。
これを「いまの人々は情報が少なすぎて失敗するのではなく、多すぎて失敗し、情報が一方に片寄りすぎて失敗するのではなく、八方から情報がきすぎるので失敗する」と読み替えることができる。
これでは、どの情報を元にして先を見たらよいのかわからなくなる。
たとえば、証券の見通しなどにしても、証券会社筋の情報は、万年強気で、暴落の危険があっても、売り逃げるなどということはないから、値が上がりすぎたときに注意すればよい。それに、あの人たちは、新入社員のときから「買いなさい」という文句は教えるが、「売りなさい」という文句は教えられていないので、話を交わすとき、この点だけに注意すればよい。その点まことに邪気がないから判別しやすい。
その他の情報は、当るも八卦当らぬも八卦で政治家の情報よりも頼りにならない。やはり、自分の知識と本能にきくほうが正しい結果が得られるものである。さらに、平素楽観にすぎる者は、先々の厳しさ、困難を先見することはできない。したとしても、すぐ否定してしまう。常に悲観にすぎる者も、取り越し苦労などはするが、正しく ・見通すことは困難になる。 躍
たとえば、つまずいたり、失敗したりすると「なにも悲観することはない。人間万事塞翁 .が馬だ」などといって、失敗を反省しないで、自然に取り返せると思っている人がある。昔、漢民族の国と胡(北方の異民族)の国の境あたりに、占術などに通じた老翁が住んでいた。
あるとき、翁の馬が胡の領土内に逃げてしまった。近所の人が気の毒に思って慰めにきた。翁は別に気にもしないげに「これがどうして幸福に変わらないことがありましょうか」と。
そのとおり、数力月たつと、その馬は胡の良い馬を連れて戻ってきた。今度は近所の人々がお祝いにきてくれた。
翁は「これがどう災いに転じない、といえましょうか」といって喜びもしない。翁の家では良馬に子が生まれ数も増えてきたが、今度は息子が落馬して股の骨を折って、歩くにも不自由になった。これを見て近所の人たちが慰めにきた。これに対しても「なんで、これが幸福にならないことがありましょうぞ」といって平然としていた。
それから一年もたったころ胡人が城塞に大挙攻めこんできた。村の若者は皆戦いに駆り出され、十人のうち九人まで戦死したが、翁の子は歩行困難で出征もせず父子とも無事であった、という話である。
「禍福は糾える縄の如し」とか。人間の災いも福も自然に巡りくるというふうに思いがちだが、本意は、そういうものではなく、災いも福も人間が自分で招くものだという戒めではないかと思う。
いずれにしても、禍福が交互に巡ってくるものなら、先見の必要はなくなるというもの。
先憂後楽ではないが、先に努力し、苦労しておけば先々には楽しみが待っていると予想されるところに人の生き甲斐、努力のしがいがあるといえるのではないか。
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