勇で最も実行困難な勇は、引退の勇である。中国の史上で西漢の劉邦に仕えた張良と、越王勾践に仕えた施姦を、引退名人といった人がいる。
知将張良は、仙人の修業をするといって雲隠れしている。劉邦の死後、呂后の専横を見抜いてのことであった。事実、大功臣の一人韓信が捕えられたとき、「狡兎死して走狗烹られ、飛鳥尽きて良弓蔵せられ、敵国破れて謀臣亡ぶ」(兎がとり尽くされると犬はもう用がないから烹て食われ、鳥もとり尽くされると良い弓は倉庫にしまわれてしまう。同じように敵国が亡びてしまえば、 謀を立てて活躍した臣も不用のものとして殺される)と嘆いた。韓信だけではない、鯨布、彰越、陳猜など武功のあった者で晩年を全うした者はいない。
劉邦をして「われ爺何に如かず」と言わせた創業の功臣随一の爺何でさえ、全財産を投げ出して劉邦の疑念を解かねばならなかった。ひとり張良だけは、仙人修業に励むといって現世への未練を断ったため、晩年を全うできたのである。
「臥薪嘗胆」の項に登場した越王勾践が天下を得たとき、茫贔はその功により上将軍に任ぜられた。しかし、久しくその地位にとどまるべきではないと官を退き、秘かに妻子・召使までつれて海を渡って斉の国へ行っている。
「勾践という人物は、首が長く、日は鳥のように尖り、残忍な人相をしている。こういう人は、困難な時には互いに協力し合うことができるが、安楽になると相手を捨てて、ともに楽しむことはできないものである」と見抜いたからである。果たして、ともに協力した種は自殺を余儀なくされている。
「苦しみはともにすべきも、楽しみはともにすべからず」、創業の苦しみ、基礎固めの困難は手をたずさえ、二人三脚といってともにするが、ことが成って、さあ、これから楽しめるという段になると一人じめにしたいのが人の常である。
これに比べればわが国のホンダ、ソニーに代表されるように、苦もともにしたが楽しみもともにし、本田氏などは藤沢氏と同時に退いている。後世に範となる引退といえるだろう。
「鋭進の工夫は固より易からず、退歩の工夫は尤も難し。ただ有識者のみ庶幾からん」 一(まっしぐらの姿勢を貫いてことを成すことはもとより易しいことではない。それより難し 師いのは適期に引退する工夫である。これは識見のある者のみができることだ)言志四録。 .
これは私事になるが、第二の会社をやめるとき、社長に辞表を二回出した。ある人から辞表を出すことは引きとめてもらうことを前提にして出すものだ、とからかわれた。三度目は辞表を出さず任期満了でやめた。その理由は「文句をいう必要がなくなったからだ」といっておいたが、言い換えれば、自分がいなくとも立派に経営できる、さらに言い換えれば、私の代わりをする人が多く育っている、ということになる。本書の各所でのべてあるが、上に立った者の任務は優れた後継者を育てることにある、とのべてきた。その人を得れば自分の任務は終り、自ら引くのは、むしろ当然といえるだろう。
いま、「引退する工夫」とのべたが、工夫とは、自分の後継者としてふさわしい者を育て見いだすことといえる。もし、引退の時期がない、といっている者は、優れた人を育て見いだすことを怠っていた、いわば職務怠慢者といえるだろう。
菜根諄に「事を謝するはまさに正盛の時に謝すべし。身を居くは、よろしく独後の地におくべし。徳を謹むはすべからく至微の事を謹むべし。恩を施すは務めて報いざるの人に施せ」(官位を去るのは全盛を極めているときである。身をおくのは地位などの争いのないところがよい。徳を慎むのは小さいことから慎むべきだし、恩を施すのは恩返しのできない人に施すがよい)とある。
組織から身を引く場合は全盛のときがよい。全盛であれば未練も残る。地位収入からも離れることは忍びないだろう。しかし、そこが潮時なので、言い換えれば最も勇気が必要なときでもある。少なからず収入は減り権力から離れる淋しさもある。しかし、引き時を逃すことの恐ろしさにくらべればものの数ではない。
自分が盛りあげてきた隆盛の時に去ることはど心残りのすることはなかろう。心狭い者は、後継者に座をゆずることは残念でもあろうが、ここが、決断のしどころといえるのではないかと思う悪い表現だが、権力の座というものは、牢名主でも去るのを惜しむというが、どのような能力者であっても権力の座が長くなればなるほど批判も多くなってくる。能力が低下するからではない。権力にしがみつく、人間のみにくさが感じられてくるからである。
それを避けるつもりか、肩書きはゆずるが、権力をゆずらないものがある。院政などといわれるものである。菜根諄の言葉ではないが、身を独後におくことができないのである。任せきれないから、といっているが、任せられない人間をなぜ後継者としたか。
また、自分が残っていないと、会社がどうなるかわからない、という人もある。残っていないはうが良くなることを知らないのである。
さらに困るのは、生き甲斐のため、健康のために居残るという者である。収入が減らないため、高級車にただ乗りしたいため、に至ってはいうべき言葉もでない。
これらは会社のためと口ではいっているが己のためであることは自分の日がそれを証明している。ときおり権力争いが新聞種になっているが、これはどみにくいことはない。
権力の座に執着する者は、それをおびやかす者を、いかに能力者であっても除こうと考え
る。口先だけであっても権力の座にとどまることを望んでいるものを近づける。しかし、これはかえって墓穴を掘る結果を招くことになる。人を玩んで徳を失なうからである。これに反し、後継者を早く見いだし、ゆずって身を独後におく者は指導者の範として永遠の名誉を保つものである。
権力の座にあった者に、去る勇気をだせ、というはど酷なことはない。権力者が己の協力者に、辞めろということもまた酷である。
そのため、現代でもトップの座を巡ってトラブルが絶えない。これを円滑に気兼ねなく進めるのが役員の定年制度である。
ところが、この定年制度を設ける場合、決定するのが最高者であるため、そこはそれ、自分だけは制度外におきたい。そのため、トップだけに例外規定を設け、死ぬまでトップの座に居座れるようにしたり、会長とか、最高顧問など、余計な制度を設けたりしている。いかに権力に執着しているかがわかる。そうすることのほうが、いかにも名誉のようであるが、世評は反対で、死んでも成仏しきれない幽霊としか思われない。
「長生きすると恥が多い」といった人があるほど。権力の座というものは、適当な後継者を作って、さっさと辞めればよい。そのほうが世間は高く評価するのである。明王朝をはじめた朱元環、即ち、洪武帝の例がある。
朱元障は、中国でも珍しい流民から身を起したはどの貧賤の出身である。一兵士として紅巾軍に参加してから、わずか十六年、四十一才で明帝国皇帝にかけあがった人傑である。その秘密は第一に、軍団の綱紀が厳正であったこと。
第二は、西漢劉邦と同じく、天下の人材を集め、これを用いたこと、とされている。ところがである。天下を統一して、皇帝の位につくや、生き残った功臣たちに謀反の嫌疑をきせて、ほとんど殺している。
左丞相の胡惟庸が謀反を計ったとして謀殺されたときは連座して殺された高官とその家族の数は一万五千人に及んだとある。
軍事面の最高功労者藍玉が疑われて殺されたときは連座する者二万人とある。いずれも皇帝の座を安泰にするためにデッチあげた、いわば保身策なのである。権力の絶対の座ともいえる楽しみは二人でともにするよりも一人じめにしたいのが人情なのである。それが往々トップ争いの原因になっているのである。
ぜんじよう ざよう しゆん″禅譲″という言葉は、理想の帝王といわれた、尭、舜のころからのものである。
舜は尭帝が死ぬと、衆望によって帝位についた。売からいえば、 一族ではない異姓の者に位をゆずったことになる。従来の世襲制度を改めたことになる。このとき、舜は、尭帝に仕えていたが、その人物に優れているのに感じ、自分の娘を彼のもとに嫁がせ、宰相に登用したのであるが、当時としては氏姓の違う者に位をゆずることは困難であったのであろう。
後年も、表面的には禅譲は行なわれているが、実際は、帝位を実力者が奪い取ったもので、この点、現代では先進国の最高権力は、楽屋裏を別にすれば奇麗な禅譲といえるが、企業ともなると、楽屋裏までさらけ出し恥を天下にさらしているものも少なくない。
最高の権力の座にあるものは、常に去る時を念頭におき、その期を誤らないようにすることが有終の美を飾る道であることを銘記すべきである。
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