ここでのべる五ケンとは「堅実、謙虚、倹約、憲法(法律、定款、社是社則、人間常識など)、研鑽」でいずれもケンに始まるからであって自作自戒の文句である。前職時代の私は、課長代理が八年、課長が七年で昇進の遅いほうでは人後に落ちなかった。 ″万年代理″ ″万年課長″と陰口をたたかれたものである。 ・ところが、昭和三十年に、ある特命を果たした後は部次長が一ヵ月、経理、総務部長を各 聾一カ年、取締役人事部長を一年で常務取締役に昇格し、当時、出世頭などといわれた。 .
万年課長から部次長、部長に昇格すると鬼の首でもとったかのような気持ちになる。一番若い取締役などといわれると天にも昇ったかのような気にもなる。これは貧賤から身を起した通弊かもしれない。万年課長代理から課長に昇格したときも同じであった。二百人も支店長、課長がいる中で年が最も若いといわれて、いい気になった記憶がある。エリート意識だけが頭をもたげてくるわけだ。エリートコースを進もうとする意識は捨てるべきではないが、エリートを鼻にかけるようになったらスクラップヘの第一歩となる。ということで、これを一掃しようと考え、東京上野のモク拾い、次いでバタ屋、乞食などと付き合った。このことは、すでにのべたと思う。そうした人たちと話し合うことによってエリート意識を払拭しようとしたわけだ。
その後、出世頭といわれるようになったときも、やはり心の病気の発作が起きてきた。これに鉄槌を加えない限り、自分の前途はなくなると考え自分の心に厳重に諭したのが五ケンの戒めである。
好調の波にのって有頂天になれば自制さえ忘れて堅実処世、経営から脱線する。また、ヘリくだって自分を戒め、人を敬う心も忘れ、人の長所さえ見失なうことになる。倹約は感謝にも通じ、家を治め、企業を守る基本であるが、好況ともなればムダを見る目も曇ってくる。
また、経営者であれば法律、定款を守ることは当然であるが、好調で上気し、自己過信に陥って、これを破る。己の信念さえ失なうことにもなる。研鑽は常に怠るべきではないし、好調のときはど研鑽に励むべきなのに、好調は長年続くと考えて、新時代に対応する研鑽を怠ることになる。
とかく、人間というものは他人に対しては強いが自分に対しては極めて弱い生きものである。自分に克つために努めることが無難な前進を約束づけてくれるものである。関係した会社がピンチから脱出して収益が出はじめたころである。
それまで社長と私は一時間ほどの出勤距離であったがハイヤーを利用していた(現在一部上場会社で無借金で、 二割配当、相当の余裕資金を持つが社長以下役員の乗用車はない)。それを当時の国電に乗り換えた。二人が国電に乗り換えたので国鉄は黒字になると冗談をいって笑ったことがある。
それに私は、真夏、厳寒をとおして握り飯ニコの腰弁通勤にした。また、年間の経費予算を大幅に圧縮し、昼食時間の電燈を消すことから僅かなムダまで注意した。
よく、それなら晩酌がうまいでしょうとか、利益が出るようになったのだから、いくらか余裕を考えてもよさそうなもの、などといわれたが、収益が増加しはじめたからケチることにしたわけだ。収益を好転させたのは皆さんではないか、いまさら私を責めなさんな、と逆襲したことがある。放漫経営で苦杯をなめた人たちは、好転して締めることを歓迎しているかのようであった。
「ことの成るは失意のとき、ことの破るるは得意のとき」の戒めがある。得意のときは、心のタガが緩教、僅かな油断から大失敗を招く。
兵法にも、はじめに負けたものは心を引き締め、必死に勝つための準備をするから次には勝つ。先に勝ったものは気も緩み、準備も怠るから負けるとある。勝って兜の緒を締めないものは、いずれは兜もつけられない頭になる。中国の東晋の時代、秦帝の荷堅は、賢宰相王猛を用いて一代で晋に数倍する領地を持ち全国第一の強国にのし上がった。その王猛が死ぬとき「晋にだけは手出しをなさらぬように」と遺言した。ところが荷堅はそれを無視して王猛の死後八年たって晋を攻めた。
進攻の会議を開いたとき「晋には揚子江という大河があり、それを渡らなければ都を占領することはできず、無理な戦いです」と反対する者があった。それに対し荷堅は「わが大軍をもってすれば、鞭を河に投げ込んでも流れを止めることができる。渡れぬはずはない」と
豪語し、兵六十万人、騎馬兵二十七万人を率いて晋に向かった。晋では宰相の謝安の弟の謝石を大都督、兄の子謝玄を先鋒として迎え撃たせた。その数八万で秦の十分の一でしかない。
大軍を率いた荷堅は肥水に面して陣し、自ら城に登って晋軍を眺めると軍略によく整って一分のすきもない。対岸にある八公山にも大軍が陣しているように見える。しかしこれは草木であった。有堅の心の迷いから兵に見えたのであった。
こうしたとき、謝玄は荷堅に使いを出した。「貴公の兵が河岸に陣しているため、当方は渡河できない。幾分兵を後退させ、当方が渡河してから勝敗を決したいと思うが」。荷堅は敵が半ば渡ったとき攻めれば勝てると判断して、それを受け入れ、味方に少なく退くよう命じた。ところが、退きはじめると限りなく退き、風の音、鶴の声も晋兵が追撃してくるものと思い秦は総くずれになった(風声鶴嗅)。これを肥水の戦いというが、 このとき晋の宰相謝安は、別荘を賭けて知人と碁に夢中になっていたという。この戦いで騎っていた荷堅は傷つき、属していた国にも背かれ、ついに殺され秦は亡びている。騰る平家久しからずは、わが国のことであるが、いずれの国も同じである。
さて、騎る心を抑えることを怠ってはならないが、なかなか、自分で自分の欠点を見いだすことは困難である。その音、私が先輩に「私の長所はどういうことでしょうか」ときいたところ、「そういう質問をすること自体、君の短所だ」といわれ赤面したことがある。うぬばれが短所を見る目を曇らせるのである。
昔、斉の国に、身の丈も高く容姿も人に優れた美男子がいた。名を郷忌といった。鏡を見ながら「城北の徐公は斉の国きっての美男子というが、この私と、どちらが奇-麗だ」ときくと妻は「もちろん、あなたです」と答えた。次に妾に同じことをきくと、やはり「あなたのほうが」と答えた。郷忌はそれだけでは信じられなくて翌日客がきたので、同じことを尋ねた。客からも、妻、妾と同じ答えがハネ返ってきた。ところが、その翌日、徐公に会ったので、つくづく見ると、どうして、どうして彼のほうがはるかに美しい。到底及ばないと思った。
そこで、冷静になって考えてみた。妻は私を身びいきにしているから、そう見えるのであり、妾は私に手を切られるのを恐れているからであり、客は、ほめておけば後日、なにかよいことでもあると思って、私のほうが美しいといったのだ、ということに気づいた。そこで郷忌は朝廷に出仕したとき王に進言した。
「斉は領土は広く、城も百二十を有する大国です。多くの女官、宦官は王を身びいきします。家臣は王を恐れています。国中の者は王の機嫌をとろうとしている者ばかりです。そのため王は見る眼を覆われております」と。
王は、この意見を受け入れて、国中へ布告した。「王に対し、非を指摘した者には賞を与える」と。これを見た多くの人々が、王の非を諌めるために集まって官殿の前は市ができたかのようになった。
王は、これを政治に生かしたため、 一年後には諌言にくる者が一人もいなくなってしまった。諫言したくとも王の非がなくなってしまったのである。こうして斉の国が立派になったので、他の諸国から貢物が届くようになった、という。
これとは反対に、周の属王は民を虐げた。召公が「人民は王に不満をもっています」と諌めたところ、大変怒って王の悪口をいった者を告げさせて殺してしまった。人々は恐れて悪口をいわなくなった。王は喜んで「王の悪口をいう者は一人もいなくなった」と召公にいうと「それは大変な間違いです。人民の口をふさぐのは川の氾濫を防ぐより難しいことなのです。流れを上手に治める者は、川底をきれいにさらい、流れを良くします。同じように人民の苦言をどんどん出させて、それを生かさなければなりません」と。
会社でも、社長のために言っているのに、頭から押えつけたり、根にもってしまう人がある。これでは「ものいえば唇寒し秋の風」というが、会社の将来に秋風が吹いてくる心配がある。
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