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六 ためらいと勇気

「已むべからざるの勢に動けば、則ち動いて括られず。狂ぐべからざるの途を履めば、則ち履んで危からず」(熟慮した上、これが最善と信じ、やむにやまれぬ勢いで行動すれば行き詰まることはない。曲げることのできない正しい道を進めば危険もない)言志四録。義に従って、誰はばかる心がなければ千万人といえどもわれ行かんの勇気もでる。

しかし、そこに、心にためらいがあれば勇気は半減するだろう。

そこでいえることは、勇気の門を全開しようとするなら、ためらいの元から絶つべきだということである。人間の神経というものはきわめて微妙である。かすかな神経の作用で信条を大きく左右することもある。

いまから千七百年はど昔になる。晋の国に楽広という人がいた。

この楽広が河南の長官であった時、親しくしていた友人がしばらく訪ねてこない。そのわけをきかせたところ「このまえ、お宅へ行ってお酒をいただいたときでした。飲もうとすると、杯の中に蛇が見えました。気持ちが悪いと思いましたが、飲んでしまいました。それから、どうも体の具合が悪いのです」という返事。

これで楽広はすぐ、うなずいた。あの部屋の壁には弓がかけてある。弓には、うるしで蛇の絵が画いてある。それが映ったに違いない。そこで再びその友人をよぶことにした。同じ場所に座らせ、酒を注ぐと、やはり、蛇が杯に映っている。「その蛇は、あそこにある弓の絵ですよ」

これをきいて、知人の病はたちまちなおったという。「杯中の蛇影」のいわれである。「幽霊の正体みたり枯れ尾花」ではないが、「疑心暗鬼を生ず」で、なんでもないことが神経をたぶらかし、勇気を妨げるどころか腰まで抜かすことになる。

次に勇を挫くものは、過去のにがい体験で、「過去の失敗で懲り懲りした」の類である。「失敗は成功のもと」というが、失敗に懲りてしまっては成功はない。

「七転八起」の教えもある。七度失敗してもそれに懲りることなく八起に挑めば成功の道は開かれているのに、七度も失敗すれば、もうたくさんといってしまっては成功軌道に乗ることはできない。

楚の詩人、屈原の詩に「熱羹に懲りて奎を吹く、何ぞ此の志を変えざらんや、階を釈てて天に登らんと欲す、なおさきの態あるなり」(あつものに懲りてあえものを吹くは、世の人の愚かさ、われひとりは天にも登る心で、節操だけは変えない。〔羹は熱い汁。謄は細かく切った生肉、奎は、酢や醤油であえる細かく刻んだ野菜のこと〕)。祖国愛に燃えた屈原が、昔の失敗に懲りて自分の信念を曲げるものではないということである。やけど

この文句は、以前に熱いものを口に入れて火傷をしたのに懲りて、冷たいなますやあえものを食べるにも吹いて食べる、ということで、 一度の失敗に懲りて過ぎた用心をすることである。

日常の業務、とくに、難事、大事に再び挑戦しようとする際など、なますを吹くことが多い。「だいじをとって」とよくいうものである。「だいじをとって一年計画を二年計画にした」という。別項でものべたが、過去に失敗しているから大事をとるので、いわば、なますを吹いているのである。

現職時代に、よく若い社員に「過去の失敗にこりて石橋叩いて渡る考えなど捨てよ、自分の渡る道は断崖につられた一本橋きりないと思え」と口ぐせのように言っていた。また「自分の進路を妨げるものはすべてとり除け」といったこともある。

あるとき、中国の能筆家に、唐詩選にある、陸亀蒙の「別離」という詩を書いてもらった。私は十八才のとき父に死別しているが、その野辺の送りのときを思い記した詩である、といって書いてもらったものである。

「丈夫涙なきに非ず、離別の間に灌がず、剣に伏って樽酒に対し、遊子の顔を為すを恥ず、崚蛇一たび手を甕さば、壮士疾く腕を解く、思う所は功名にあり、離別何ぞ嘆ずるに足らん」

(ますらおとて涙がないわけではない、それを離別の際に流さないだけである。剣によって酒樽を傾け、旅行く人の女々しい顔などするのを恥じる。毒蛇に一たび手を咬まれたら、壮士は、たちどころにその腕を切り落してしまうという。そうした気概こそ望ましい。男子たる者、 一旦功名を志した上は、 一時の別れなど、なんで悲しむことがあろう)。

これを、第二の会社を去るとき、人事部長に渡してきた。若い社員の教育資料だ、といっておいたが、いまでは、その上に、どのくらいの埃がたまっていることやら。志を遂げるためには、過去の過ちや取り返しのつかない劣等感などいっさい忘れ去れ。過去の失敗は成功への強力な栄養剤なのである。この項で最後にいいたいことは、自信である。

なぜ自信がないか。体験がない、学ばない、信念がない、これでは勇気もでなくなる。会社の会議の席上などで発言したり、反駁に対して反発のできる者は、知って行なっているから、行なって考えているからできる。自信、勇気が言わせるのである。会議できいているだけ、相槌を打っているだけ、という人は、ほとんど学んでいないし行なっていないものといえるだろう。

「学は勇に通ず」「知行は勇に通ず」とは私の持論でもある。

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