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健全な自尊心があなたを守る

ちょっと意地悪をされたり、冷たくされたりしただけで傷ついてしまう人が多い。あなたの家庭や職場、あるいは友人のなかにも、そんなとても繊細な人がいるだろう。

おかげで周囲にいる人たちは、何げないひと言や行為でも、傷つけないように常に気をつかっていなければならない。

気分を害しやすい人ほど自己評価が低いことは、心理学では定説になっている。

人は、自我や自尊心に対する脅威となるものがあると傷つく。

傷つきやすい人は、健全な自尊心をもつ人なら気に留めないようなことでも、攻撃されていると思い込み、心をズタズタにしてしよう。

本物にせよ思い込みにせよ、自我を脅かすものから身を守るためには、ある程度、心の強さを身につけ、自我を保護する必要がある。

とはいえ、カメのように硬い甲羅で全身を覆ってしまうのは得策ではない。それでは喜びまでもが奪われてしよう。

人間の身体には皮膚の表層、つまり「表皮」があり、それが細菌の侵入や軽い打撲やケガを防ぐ役目を果たしている。

表皮は、小さな傷を防げる程度には厚くて丈夫だが、感覚の妨げにならない程度には薄くて軟らかい。ところが、自我には表皮がない。

薄くて繊細な「真皮(内側の皮膚)」しかない人ばかりだ。

そうした人は、心の皮膚をもっと厚く丈夫にして、小さな傷や自我へのささいな脅威を無視できるようになる必要がある。

目次

自分で自分をほめる

侮辱的な言葉をかけられて、自尊心を脅かされたと感じる人は、脆弱な自我のもち主で、大した自尊心をもっていない人だ。

わがままで、自分の利益にしか興味がなく、人付き合いが苦手な、いわゆる利己主義者だ。

脆弱な自我という病は、それを打ち負かしたり、傷つけたり、自己否定したり、無欲になろうとしたりしても、治らない。

身体の健康のためには食事が必要なように、精神の健康のためにも自尊心は欠かせない。

自分本位で身勝手な「利己主義」や、それに付随して生じるさまざまな病を治すには、自尊心を高めて、健全でたくましい自我を育てることが必要だ。

適切な自尊心をもっていれば、少々侮辱されても傷つかず、そのことを無視できるようになる。また深刻な心の傷を負っても、早くきれいに治る。傷口が化膿して、人生や幸福をだめにすることはないのである。

やりがいのある目標を夢中で追い求めている人や、やるべきことがたくさんある人には、少しばかり馬鹿にされたぐらいで悩んでいる暇はない。

馬鹿げた無神経な言葉は、たいていそのままのものでしかない。隠された意味などないのに、それを探そうとするのはまったくの時間の無駄だし、そうするときっと腹を立てることにもなる。

あるセールスパーソンから聞いた話では、初めに強く断られるほうが、一度その防御の壁を抜けると楽に売れるケースが多いらしい。

「セールスお断り」の貼り紙をしている家ほど編されやすく、防御が必要なことを自覚しているというのだ。見た目が冷たくぶっきらぼうな人ほど、実は心が弱いから守らなくてはいけないと本能的に悟っているから、そうするのである。

かつて、ある大会で講演をしたおりに、かねがね噂を耳にしていた別の講演者と話をする機会があった。彼は講演者として大変な成功を収めていて、セールスの世界に欠かせない存在となっていた。

だが本人いわく、ファンレターはめったに来ないし、講演を終えて温かい拍手を受けることもあまりないという。彼はそのことを変に自慢していた。

どういうことかと尋ねてみると、「聴衆全員を怒らせてしようからですよ」と言い、続けて第三三代のアメリカ大統領ハリー・トルーマンの言葉を引き合いに出し、こう言った。

「私はひどいことを言っているんじゃない。本当のことを言っているだけで、彼らがそれをひどいと思っているだけだ」ともあれ、その人は業界でもとりわけ忙しく、報酬も高く、それでいて愛されない講演者だった―しかも、そのことを誇りにしていた。

彼に講演を依頼する企業は、社員を叱りとばしてもらいたがっていたのだ。彼の激しい叱り声は、たちよち販売実績の向上という結果をもたらした。

講演を聞いたセールスパーソンの多くが、「あの野郎、いつか目にもの言わせてやる」と決心するからだ。

正直なところ、同じ講演を職業としている私としてはそのような役目は負いたくないが、聴衆から嫌われても彼の自己イメージが自信を失わず、平気でいられるというのは実に興味深いものがある。

自信に満ちた態度を身につけられるかどうかは、あなた次第なのだ。自分の人生や欲求に責任をもとう。「自分で自分をほめよ」という言葉もある。

心の未熟な子どもの頃は、親や先生にほめてもらうのを期待する。絵を描いて一日散にママのところへもっていく。

するとママは「わあ、上手ね」と感心して、その絵を冷蔵庫のドアにマグネットで貼り付ける。大人になったら、そんなふうに人にかまってもらおうとすることから卒業しないといけない。

よくやった自分を自分でほめ、成果を認めてやるのが大事だ。

自分の反応は自分が決めている

以前、患者からこんな質問を受けたことがある。

「ヶガをしたとき、疲痕組織(傷跡)ができるのが自然なことなら、どうして形成外科手術をしたときにはそれができないんですか?」答えはこうだ。

顔の傷が自然に治る場合、傷の内部や真下に緊張が生じ、それが皮膚の表面を引き戻すためにすき間ができる。そして、そのすき間を埋めるように疲痕組織ができる。

形成外科手術の場合、皮膚をぴったり縫い合わせるだけでなく、緊張が生じないように皮膚の下の肉を少しだけ切除する。だから、切開部は平らで滑らかな状態に治り、傷は残らないのである。

同じことは心に傷を負ったときにも言える。心が「緊張」していなければ、醜い心の傷も残らないのだ。

フラストレーションや恐れ、怒り、抑鬱のせいで心が緊張していると、傷ついたり腹を立てたりしやすくなることに気づいた経験はないだろうか?何か嫌なことがあって、具合が悪かったり、憂鬱だったり、自信が揺らいでいる状態で仕事に出かけたとする。

そこへ同僚が冗談を言う。

いつもなら冗談を面白がって笑い、何とも思わずに気の利いた受け答えをするところだ。だが今日は違う。今日は、自信喪失や不安といった緊張を強いられている。

そのため同僚のひと言を悪くとってしまい、怒ったり傷ついたりして、心の傷ができはじめる。

こうした日常のありふれた経験は、私たちが他人の言動よりもむしろ自分の態度や対応によって心に傷を負うということをよく示している。

気にするべきものは、他人ではなく自分の反応なのだ。人間は緊張すると、怒ったり、不安を覚えたり、傷ついてうらんだりする。

しかしリラックスして反応をやめると、傷つかずにすむのである。身体の筋肉が完全にリラックスしているときには、ネガティブな感情を抱きようがない。

これは実験で科学的に確かめられている。つまり、自分から何かをしないかぎり、怒りや恐れや不安を感じないということだ。「自分以外によって傷つく人はいない」と古代ギリシャの哲学者ディオグネスは言っている。

「私を傷つけられるのは私だけだ」と聖ベルナールも言った。「私に及ぶ危害は、この身に備わっていたものである。私は真の被害者ではない。ただ自らの過ちによって被害者となっているのだ」とも。

あなたの反応を決めているのは、あなただけだ。何にでも反応する必要はない。リラックスさえしていれば、傷つかずにいられるのだ。

さあ、毎日時間を見つけて、次の三点を実行しよう。

まず、リラックスしてストレスを発散する時間をとる。

次に、日標に対する自分の成果や進歩を書き留める。こうした「サクセス・ダイアリー」を書くのは、強い自己イメージを構築する非常に簡単な手段となる。

最後は、視覚化の練習だ。

不当な批判や意地悪な言葉などで自己イメージを攻撃されたときに思い浮かべて自分を力づけるような、メンタル・イメージをひとつ、ふたつもとう。

患者のなかには、スーパーマンの体に自分の頭を乗せた漫画風のイメージーースーパーマンらしいあの胸を張った立ち姿で、銃弾を跳ね返し、マントが風にはためいているところ―‐を思い浮かべている人もいる。

これらを実行すれば、心の傷を防げるうえに、免疫力もつく。しかし、過去にできた心の古傷、過去の傷やうらみ、人生への不満といったものについてはどうだろうか?心の傷ができてしまったら、処方はひとつしかない。

体に残った傷と同じように、手術でそれを取り去ることだ。

過去には寛大に、現在・未来は楽観的に

人間の心は、他人だけでなく、自分自身によっても傷ついてしまう。自責や後悔によって自分を殴り、自己不信によって自分を打ちのめし、過剰な罪悪感によって自分を切り裂いてしまうのだ。

自責や後悔は、感情のうえで過去に生きようとしているのと同じだ。過剰な罪悪感は、すでに犯してしよった過ちや間違った考え方を、さかのぼって正そうとすることである。

感情は、現在の状況にこそきちんと役立つものだ。私たちは過去に生きられない以上、過去に対して適切な感情を抱くこともできない。

過去の感情は簡単に消え去り、閉ぎされ、忘れてしまうものだ。私たちは、自分を誤らせたかもしれない過去の回り道について、何らかの「感情的立場」をとる必要はない。

大切なのは、現在の方向性と現在の目標なのである。

ケース・ウェスタン・リザーブ大学で実施され、『リーダーズoダイジェスト』誌(一九九七年九月号)に報告された罪悪感に関する研究結果によれば、平均的な人で一日に二時間も罪悪感を抱いているという。

そうした罪悪感には、現在の瞬間に感じているものも多い。

働く母親は、仕事中、自宅で子どもと一緒にいられないことに罪悪感を抱き、昼間に子どもと家にいると仕事が十分にできないことに罪悪感を抱く。

また、出張中の会社員は娘の学芸会を見に行けないことに対して罪悪感を覚える。過去を寛大に見ることができなければ、現在や未来を楽観的に見ることもできない。

だからといって、いつでも無責任でいろと勧めているわけではない。責任感は大切だ。

だが、私が「内なる批評家」と呼ぶものは、ほかのどんな批評家よりもはるかに影響力があるので、これに自己イメージを踏みつけられないように注意しないといけない。

かつて、オクラホマ州の刑務所で多くの受刑者たちを相手に講演を行ったとき、ある実感を抱いてそこを立ち去った。服役している受刑者たちは強盗や殺人などの凶悪犯で、繰り返しそれを犯している人もいる。

ところがその大半、九九パーセントは清く正しい生活をしている多くの一般市民ほど、自分を責めたり罰したりしていない。

受刑者がいわゆる「牢獄の法律家」となって、刑務所内での自分たちの権利を求めて闘うというのはよく聞く話である。

一方、多くの善良な市民は、自分を批判したり罰したりしすぎて、幸福の追求という基本的かつ絶対的な権利を自らの手で奪っている。

有刺鉄線が巻きついた巨大なコンクリート塀に囲まれ、塔の上から武装した衛兵が見張っている刑務所を後にしながら、「多くの人は、ここよりもずっと物々しい牢獄を心のなかに築き、過去の何らかのク罪悪″を理由に自分を閉じ込めている」と、私は内心思った。

私は罪悪の実在を熱心に信じてはいないが、もし罪悪というものがあるなら、それは自らの犯した過ち、それも人間なら誰でも犯す過ちを理由に、自分を責めて人生を無駄にしている人にこそ、当てはまる言葉ではないだろうか。

少しは傷つく覚悟をもつ

心の傷を防いだり取り去ったりすることについて、最後にもうひと言話しておこう。創造的に生きるためには、多少の危険には積極的に身をさらさないといけない。

必要に応じて、少しは傷つく覚悟が必要なのだ。もちろん、心の皮膚をもっと厚く丈夫にする必要がある人はたくさんいる。しかし、必要なのは頑丈な心の皮であって、殻ではない。

人を信じ、愛し、心を通わせることは、傷つく危険を冒すことでもある。そして傷ついたときには、ふたつの選択肢がある。

ひとつは、二度と傷つかないよう、貝のように硬い殻(傷跡)で身を守って生きていくというもの。

もうひとつは、「叩かれたらもう片方の頬を差し出し」、危険に身をさらしながら創造的に生きつづけるというものだ。

貝は傷つかない。外敵から身を守る硬い殻をもち、周囲から隔絶されている。安全かもしれないが、創造的ではない。欲しいものを自分から追求できず、ただ獲物がやってくるのを待つしかない。外界とのやりとりで傷つくことはないが、同時に喜びを知ることもできない。

処方箋を紹介しよう。

「心の美容整形」をするのだ。ただの言葉遊びではない。

心の美容整形をすれば、生命力や活力といった若さの源を手に入れることができる。気持ちが若返り、実のところ見た日も若返ってくる。

心の古傷を取り除いたら、見た目が五〜一〇歳も若返った人を、私は男性にしろ女性にしろ、大勢見たことがある。

周囲に、四〇歳を超えているのに若々しい人はいないだろうか?・その人はむっつりしているだろうか,・怒りっぽいだろうか?・悲観的だろうか,・世界を嫌っているだろうか?・それとも、明るく楽観的で、気さくだろうか?私は医師、それも形成外科医だ。

その私が本気で勧めるサイコ=サイバネティクスを使って心の手術をし、自己イメージを強化すれば、あなたは容姿を若返らせ、健康や元気を取り戻せるのだ。

人や人生にうらみを抱いていると、重い荷物を背負ったときと同じように、腰が曲がる。心に傷やうらみなどを抱えていれば、多くの老人のように過去に生きることになる。

けれども若々しい態度や心構えをもてば、心や顔のしわが消え、瞳に輝きが戻る。そして、将来を見つめ、大いに期待できるようになるのである。

だから心の美容整形をしよう。

それを自分でするために必要なのは、ネガティブな緊張を解いて心の傷を防ぎ、癒すための「許し」によって心の古傷を取り除き、硬い殻ではなくて丈夫な皮で身を守り、創造的に生き、多少の危険には積極的に身をさらし、過去ではなく未来に憧れることである。

●注記*1ハリー・トルーマン…一人八四〜一九七二年。

アメリカの政治家c副大統領を経て第二三代大統領(一九四五〜五三)。

第二次大戦後、ソ連邦の共産主義勢力に対抗する反ソ、反共のトルーマン主義を宣言。

大戦終結および戦後処理を担当。

*2ディオゲネスーギリシャの哲学者。

ストア学派のゼノンの後継者で、紀元前一五〇年頃の人。

*3聖ベルナール…一〇九〇〜一一五三年。

フランスの神秘家・聖人。

ベネディクト会修道院に入り、のち分院を建てて院長となり、模範的な修道生活を指導した。

諸国の君主貴族も彼に霊的指導を乞い、また政治的な紛争の解決をも求めたという。

理性が信仰の領域を侵すことを嫌い、観念による神との感覚的一致を人間の霊魂の達すべき最高段階とした。

これを、キリストとの「霊的婚姻」と説いた。

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