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人生を決定づける自己イメージ

心理学の革命は、一九六〇年代後半に始まり、七〇年代に一気に火がついた。一九六〇年、私は心理学と精神医学が大々的な変化を迎えた医学の最前線の現場にいた。

臨床心理学者や精神科の開業医、さらには私のような形成外科医までもが、「自己」に関する新しい理論や概念を生み出した。

こうした知見に基づく新たな手法は、性格面や健康面ばかりか、基本的な技能やオ能にも劇的な変化をもたらした。落第生が補習も受けずにトップの成績になったり、内気で引っ込み思案な人が明るく社交的になったりした。

雑誌『コスモポリタン』の一九五九年一月号でT・F・ジェイムズは、各方面の心理学者や医師が得た結果を、次のようにまとめている。

「自己」を理解できるか否かは、成功と失敗、愛と憎しみ、辛さと楽しさの違いにつながる可能性がある。

真の自己を発見できれば、破綻した結婚生活を救い、頓挫した人生をやり直し、「問題のある性格」を変えることができる。

別の見方をすれば、真の自己を発見できるか否かは、自由になれるか服従を強いられるかの違いを意味している。これは、その後の四〇年で起こった出来事のささやかな前兆でしかなかった。

『”∽く0国〇あくωU”Z∪↓HO∽』が刊行された当時、それはたかだか一〇冊ほどのセルフ・ヘルプ本と一緒に、書店の目立たない棚にひっそりと置かれていた。

しかし現在では、セルフ。ヘルプ本は書店でとりわけ大きなスペースを占めている。心理学者や精神科医やセラピストの数は急増し、スポーツ心理学者やビジネス・コンサルタントといった新しい専門家も登場した。

いまや、そうした助けに頼るのを恥じる意識はすっかり消えて、一部の社会ではむしろそれが流行になっている。

目次

自己イメージの正体を知る

現代における最も重要な心理学の発見は、自己イメージの発見だろう。自覚していようがいまいが、誰でも自分についての心の青写真、つまり自己イメージというものをもっている。

それはぼんやりしていて、つかみどころがないように見えるかもしれない。そもそも、意識的に把握できるものではないのかもしれない。

しかし、本当は細部に至るまでできあがったものとして存在しているのだ。

この自己イメージは、「私はこんな人間だ」ということについての自分自身の認識であり、自分に対する思い込みで成り立っている。

自分に対する思い込みの多くは、とくに幼児期の自分に対する周囲の反応といった過去の経験から無意識に形成されていく。

さらに成功と失敗、屈辱や勝利などを通じて、「自己」あるいは「自己のイメージ」が心のなかに形成される。

こうして自分に対する見方や思い込みがイメージとして形成されると、本人にとってはそれが「真実」になる。

そして、本当にそうかと疑うこともなく、まったくそのとおりであるかのように振る舞いだす。

つまり、自己イメージというのは、達成できることやできないこと、難しいことや簡単なこと、さらには自分に対する他人の反応までも、コントロールしてしよう。

細かく言うと、自己イメージによって常にあなたの行動や感情、態度、さらには技能さえもが支配されるということだ。

要するにあなたは、自分でこうだと思っているタイプの人間になりきってしまう。そのため、努力しようが意思の力を使おうが、どうしても自己のイメージと違った振る舞い方ができなくなる。

困難なことを、ただ歯を食いしばって成し遂げようとしてもうまくいかない。意思の力だけでは解決できない。解決するには、自己イメージの操作しかないのである。

自分のことを「失敗するタイプの人間」と思っている人は、どんなに向上心や意思の力があったところで、せっかくチャンスが訪れても、失敗する手立てを見つけてしよう。

また、自分が不当な扱いを受けていると思っている人は、いわば「苦しむ運命にある」人で、必ずその思い込みを裏付けるものを見つけてしまう。

こうした例はいくらでも挙げられるだろう。ゴルフ、セールス、スピーチ、ダイエット、人間関係などなど。

とにかく自己イメージの影響は絶対で、広範囲にわたっている。自己イメージは、人格のすべて、さらには環境を形成する「下地」となっている。

したがって私たちのあらゆる経験が、自己イメージを裏付け、強化する。こうして、良いイメージにせよ悪いイメージにせよ、めぐりめぐって定着してしまうのである。

たとえば、自分を落第生だとか数学オンチだとか思っている学生は、必ずそのとおりの成績をとる。そうして自分の見方が正しい「証」を得てしよう。

同様にセールスパーソンや起業家も、これまでの経験が自己イメージの正しさを「証明」していると思ってしまう。

どんな困難に直面していようと、どんなにフラストレーションを抱えていようと、結局、自己イメージにレコードの溝のように刻み込まれたものを「証明」し、強化してしまう。

こうした客観的な「証」のために、問題の元凶にめったに気づけない。すなわち、自分で判断を下した自己イメージや、自己評価に気がつかないのである。

先ほどの学生に「君はできないと思っているだけだ」と言っても、こちらの正気が疑われるのがおちだろう。なにしろ本人はひたすら努力を重ねてきて、それでも成績が悪いと思っているのだから。

セールスパーソンにしても同じで、営業成績が伸びないのは君の思い込みのせいだと言っても、自分の注文状況を見せて間違いを指摘するだろう。自分がどれほど努力して失敗したか、本人には痛いほどわかっているからだ。

ところが、のちほど紹介するように、自己イメージを変えるようにと教えられただけで、学生の成績にもセールスパーソンの売上げにも奇跡的な変化が起きたのである。

自己イメージを変えれば現状は変わる

習慣や人格を変えるのは、とても難しいように思われる。その理由のひとつは、変えようとする努力を自分の内部ではなく、外部の問題に向けるからだと考えられる。

私は、数え切れないぐらいの患者から、次のようなことを言われた経験がある。

「ポジティブ・シンキングをしろとおっしゃるのなら、もうとっくに試しましたよ。でも、うまくいかなかったのです」ところが、少し詳しく話を聞いてみてわかったのだが、「ポジティブ・シンキング」をしたというのは、外部の問題に対してなのである。

たとえば「あの仕事をものにしよう」、「もっと落ち着いてあくせくしないようにしよう」、「このベンチャー事業は私に打ってつけじゃないか」などというものである。

こうした患者は、目的を成し遂げるために必要な自分自身に対する認識を変えようとしなかったのである。

自分に対してネガティブな認識を抱いているかぎり、現在の状況に対してポジティブに考えることなど、できはしない。

自分に対する認識を変えれば、その新しい認識に合ったいろいろなことがらが無理なく成し遂げられることが、多くの実験から明らかになっている。

これを示す実験として最も古く説得力のあるのが、自己イメージ心理学の草分け、プレスコット・レッキー博士の手で行われた実験である。

レッキー博士は人格を「観念の組織」ととらえ、どの観念も互いに矛盾があってはならないと考えた。組織に合わない観念は拒絶されて「信じる対象にならず」、行動につながることもない。組織に合っていそうな観念だけが受け入れられる。

この「観念の組織」の中心(すべてが築かれる下地)に、その人の自己イメージ、つまり自分自身に対する見方がある。

レッキー博士は教師の経験があったので、自分の理論を何千人もの生徒に試す機会があった。その結果、次のような仮説を立てた。

「ある教科が苦手な生徒がいたら、それは生徒から見て、その教科の学習方法が合っていないからではないのか。その生徒の自己認識を変えることができたら、学習成果も変わるはずだ」この仮説は見事に実証された。

単語一〇〇のうち、五五のスペリングを間違え、そのため多くの教科で落第点を取って留年した男子生徒が、翌年には平均九一点の成績を残し、スペリング・テストでも校内でトップになった。

また、成績が悪くてある大学を退学させられた女子学生は、コロンビア大学に入ってオールAを取った。テストの結果、国語の適性がないと診断された男子生徒が翌年、文芸コンテストで佳作に選ばれるというケースもあった。

こうした生徒や学生は、本来、頭が悪かったり適性がなかったりしたわけではない。

問題は、「僕には数学の頭がない」、「もともとスペリングはだめなんだ」といったように自己イメージが不適切なだけだった。自分の間違いや失敗を、「自分そのもの」と見なしていた。

つまり、「テストができなかった」のは「事実の記述」にすぎないのに、「自分はできそこないだ」と決めつけたのである。

「あの教科で落第点を取った」とは言わずに、「自分は落第生だ」と思い込んだのだ。私のファイルにも、同じような事例がある。

たとえば、人見知りがひどくてめったに家から出なかった女性が、いまでは人前で話す仕事で生計を立てている。

「セールスには向いていないから」と辞表まで用意していたセールスパーソンが、半年後には一〇〇人のなかでトップになっている。

また、ある牧師は神経質で、毎週説教を考えるのが苦痛で仕事を辞めようと思っていたのに、いまや毎週の説教のほか、平均週三回も巡回説教をしている。こういった事例は枚挙に暇がない。

外見の変化だけでは何も変わらない

ずいぶん昔、私が形成外科医になりたての頃、患者の顔の障害を治療すると、その人の性格や人格まで急激に変わることが多いのに驚いた。

肉体的なイメージが変わるだけで、しばしば「まったく新しい人間」が生まれるように思えた。

多くの患者を相手にするうち、私の手のなかのメスは、患者の外見だけでなく全人生をも変える魔法の杖になっていた。

たとえば、内気な人が大胆になった。頭の悪い少年が聡明になり、やがで有名企業の重役になった。売り込みに自信を失っていたセールスパーソンが、模範的ともいえる自信に満ちた人になった。

何よりもびっくりしたのは、とでも更生しそうになかった「筋金入りの」常習犯が、ほとんど一夜にして模範囚になり、仮釈放されて、きちんとした仕事に就くまでにならたことである。

このような成功例を語るのは簡単なことだ。しかし、こうした不思議な事実のある一方で、こんな疑間が湧いてきた。

外科用メスが魔法の杖なら、新しい顔を手に入れたのに人格がそのままの人もいるのはなぜだろうか?自己イメージを探るうえで手がかりとなるのは、手術が成功したにもかかわらず、人格が変わらなかった人もいるという事実だ。

かつて鼻に大きなできものがあるせいで、ひどく内気な公爵夫人がいた。

彼女は外科手術で立派な鼻と美しい顔を手に入れたが、それでも醜いアヒルの子を演じつづけ、人前に出ていく気になれなかった。

外科用メスが魔法の杖だとしたら、この公爵夫人にはなぜ効き目がなかったのだろうか?・手術をしたのに、外見はちっとも変わらないという患者の反応をどう解釈したらいいのだろうか?どんなに外見が大きく変わっても、「前とちっとも変わってないじゃないですか。先生は何もしてくれなかったんですね」と言う患者がいるのだ。

形成外科医なら誰でもそんな経験があるはずで、私と同じように戸惑ったにちがいない。

友人や家族が、本人とわからないほどの「美しさ」をほめても、患者自身は良くなったようには見えないと言ったり、変化を全面的に否定したりする。

術前・術後の写真を見比べさせてもほとんど効果がなく、むしろ怒らせてしまうこともある。そのうえ、奇妙な屁理屈もこねる。

「もちろん、鼻のできものがなくなったのはわかります。でも、鼻は前とまったく同じに見えるんです」とか、「傷跡は見えないかもしれないけれど、まだそこにあるんですよ」といった具合だ。

とらえがたい自己イメージを探るうえで、もうひとつ手がかりとなるのは、醜い傷が必ずしも恥辱につながるわけではないという事実だ。

私が、まだ若い医学生としてドイツにいた頃、「サーベル傷」のある誇らしげな学生をたくさん見る機会があったが、彼らはアメリカの軍人が名誉勲章を下げているようなものだった。

ヨーロッパでは、決闘者は学生社会のエリートだったから、顔の傷跡は自分が高い地位にいることを示す「じるし」だった。

こうした学生にとって「顔の傷」は、先ほどのセールスパーソンである患者の頬から傷跡が消えたのとまったく同じ心理的効果があったのだ。

つまり、刃物で人を傷つけても、(メスという)刃物で傷跡を消しても、心理的には同じ結果を生む場合がある。

そこで私は、刃物自体に魔法の力があるのではないことに気がついたのである。確かに先天的な障害を負っている人や事故で顔に傷を負った人にとって、形成外科手術は魔法のように見えるだろう。

こうしたケースをもとに、「どんなノイローゼや不幸、失敗、恐れ、不安、自信の喪失にも効く万能薬は、すべての身体的な欠陥をなくす大がかりな形成外科手術だ」という理論を打ち立てるのは簡単である。

この理論に従えば、「普通の顔」をした人には心理的な問題が一切起こらないはずだ。陽気で、幸せで、自信に満ち、不安や心配などとは無縁のはずだ。

しかし、単なる思い込みによる醜さを治療しようと美容外科を訪れ、顔の若返りを望む普通の人がいることを説明できない。

たとえば、三五〜四五歳ぐらいの女性で、外見は何の問題もなく、かなり魅力的なはずなのに、「老けて見える」と思い込んでいる人がいる。

ハリウッドの有名女優やアイドル歌手、あるいは学校で一番人気の女の子と同じでないというだけの理由で、自分が醜いと信じている人がいる。

また、耳が大きすぎるとか、鼻が大きすぎると思い込んでいる人がいる。このような醜いという思い込みは、決して珍しくない。

ティーン・エイジャーや大学生から熟年層までの男女を対象に調査してみると、自分の外見のどこかに不満がある人はかなりの割合に上ることがわかる(七〇〜八〇パーセント、あるいは九〇パーセントにまで達するだろう)。

「普通」とか「平均」という言葉に多少なりとも意味があるとすれば、九〇パーセントの人の外見が「異常」だとか「特別」だとか「問題」だとかいうのは、明らかにおかしい。

それなのに、それぐらいの割合の一般市民が、何らかの理由で自分の身体に劣等感を抱いているのである。もちろん、こうした不満が減量や健康のために運動をする動機となって、有益となるケースもある。

だが多くの場合、減量やフィットネスに挑戦しても、自己イメージによる制約が強すぎて失敗に終わるか、ひどく不幸な気分に陥ってしまう。

このような人たちは、まるで実際の醜さに悩んでいるような反応を示す。実際の醜さと同じような劣等感から同じような恐れと不安を抱く。自由に生きようと′する力も、同じような心理的バリケードに阻まれてしまう。

その「傷」は精神的・情緒的なものなのだが、肉体的なものとまったく同じように自分を打ちのめしているのである。

等身大の自己イメージを持つ

ここまで論じてきた矛盾のすべてを解決してくれるのが、自己イメージの発見だ。

自己イメージの発見こそ、まさに共通の下地――成功も失敗も含むあらゆる事例の決定要因―なのである。

その秘訣はこうだ。

真の意味で生きる、つまり、それなりに満足のいく生き方をするには、適切で現実的な自己イメージをもつことである。

自分にとって受け入れられるような適切な自己を見つけなければならない。健全なプライドももたなければならない。自分が信頼できる自己をもつ必要もある。

恥ずかしいと思わない自己をもち、隠さず自由かつクリエイティブに表現できる自己をもとう。長所も短所も含めて自分を把握し、その両方に対して正直になろう。

自己イメージは、あなた以上でも以下でもない、等身大でなければならないのだ。このような自己イメージに危害が及ばなければ、安泰でいられる。

適切で、堂々と誇れる自己イメージをもっていれば、自分に自信が生まれてくる。安心して本来の自分でいられ、自分を表現できる。そして自分を最大限に発揮できるのだ。

反対に自己イメージが恥じる対象となってしまうと、それを表現せず、隠そうとするようになる。クリエイティブな表現を阻んでしようのだ。

その結果、周囲に敵意を抱くようになり、良い人間関係も築けなくなる。決闘をしたドイツの学生のように、顔の傷が自己イメージを高めるのなら、プライドも自信も高まる。

しかし、先ほどのセールスパーソンのように、自己イメージを損なうようなら、プライドも自信もなくしてしまう。

顔の醜さを形成外科手術で治療した場合、損なわれた自己イメージがそれによって修復されるのであれば、心にも劇的な変化が訪れる。

時として、手術が成功しても醜い自分のイメージが残るケースもあるが、これは、手足を失ってずいぶん経ってもそこに痛みを感じつづける「幻影肢」という症状とほとんど同じなのである。

こうした知見をもとに、私は新しい仕事に乗り出した。

形成外科医の診察を受ける患者には手術以外にも必要なことが多く、なかには手術そのものが不要な人もいると確信するようになったからだ。

鼻や耳や回や手足だけでなく、その人全体を相手にして、形成外科医以上の役割を果たす必要があった。

つまり心理的・情緒的・精神的な美顔術、心の傷の消し方、それに身体的な外見を変えながら態度や思考をうよく方向づける手立てまでも示す必要があったのである。

より良い人生を送るための新しい習慣

サイバネティクスの考え方によると、人間には「潜在意識」というものが存在する。これは「心」というよりも「メカニズム(仕組み)」で、脳と神経系から成り立っている。意識によって自動的に作用し、その人を方向づけるという。

「潜在意識」と「意識」という二種類があるのではなく、ひとつの心(意識)があり、それが自動的に目標へ邁進するためにメカニズムを動かしているということである。

誰にでも備わっているこのメカニズムは、機械的に機能する。人格というものはもち合わせていない。あなた自身が設定した日標次第で、成功か失敗、幸福か不幸という結果に到達するのだ。

「成功の目標」を与えれば、それは「成功メカニズム」として機能するが、ネガティブな目標を与えれば、「失敗メカニズム」として機械的かつストレートに機能する。

これは、「サーヴォ機構」と呼ばれる仕組みが働いているからだ。「サーヴォ機構」は取り組むべき明確なターグットや目標の設定次第で機能する。

自分はだめだとか、劣っているとか、ふさわしくないとか、無能だとかいった内容の情報、すなわちネガティブな自己イメージをインプットすると、「サーブォ機構」はその情報を、客観的な経験として与えられた情報と同じように処理し、対処するのだ。

自分の知る人間や自分自身が、ひどく「おかしな」行動をし、なぜだろうと思うことがある。その原因は、サーヴォ機構との連携がうよくいっていない点にある。

サーヴォ機構自体はきちんと機能しているのだが、深刻な誤解に基づいて機能しているのである。より良い人生は、思考・想像・想起・行動の新しい習慣を「学習」し、「実践」し、「経験」することから始まる。

つまり、

  • (1)適切で現実に近い自己イメージを生み出し、
  • (2)自らの「創造のメカニズム」を使って具体的な目標を達成しようとするのである。

私は、よく患者にこう言ってきた。

「何かを思い出したり、気にかけたり、靴ひもを結んだりできる普通の人なら、わけなくこの手立てを使えますよ」あなたに求められているのは単純なことだ。

けれども実践し、経験しなければならない。

また視覚化、つまり、創造的なメンタル・イメージを描くことは、過去のある場面を思い出したり、将来を気にかけたりするのと同様、難しいことではない。新しい行動パターンを実行に移すのも、決意するのと大差はない。

考えや決意なしにいつもの方法で靴ひもを結びつづけるのをやめて、自分に求められていることができれば、毎朝違う新しい方法で靴ひもを結べるようになるのである。

●注記*1セルフ・ヘルプ本…いわゆる自立・自助・自己救済のための本。*2サーヴォ機構…心のことをさす。

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