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二、伝統的組織論の誤り

「変化を阻止する」という特性をもった伝統的組織論は捨て去られなければならない。

そのためには、その組織論が実際にどのような害毒を流しているのかを研究し、その一つ一つを捨ててゆくことをしなければならない。

目次

見失われた企業経営

世にごまんとある企業の「組織論」「管理論」(マネジメント論)を読んでみると、企業組織というものは、「企業目標を達成するための体制とその運営」を目的とするものである、という意味のことが総論に必ずでてくる。

しかし、この「うたい文句」はそれ以後、目を皿のようにして何回読み返してみても、どこにも全く書いていないのである。

ということは、それらの組織論者は、もともと企業経営なるものなどに爪のあか程の関心も持ってはいないのである

あるのは、「企業の目的は利潤の追求である」というような、間違った定義づけにもとづく間違った観念― 「企業は利益が最大になるように行動する」ということぐらいのものである。

では、間違いは間違いとして、「利潤追求のためにはどうしたらよいか」というくらいのことは書いてあるかというと、これまた一言半句もふれてはいないのである。いったいどうなっているのだろうか。

組織論者の関心の焦点は明らかに、「日常の繰返し仕事」である。日常の繰返し仕事さえうまく管理すれば、それが優れた事業経営であるというのである。これこそ全くの官僚的発想である。きまりきった仕事を、きまりきったやり方と前例にもとづいて処理していく考え方である。

そのための階層や職制がどうだ、職務や職能がどうだ、ラインだスタッフだ、やれ責任だ権限だ、指令系統だ、統制だ、手続きだと、全く下らない、そしてスタティック(静態的)な理論というよりは雑論が、あとからあとからとでてくる。

しめくくりは人間である。生き甲斐だ、やる気だ、人間関係だと、愚にもつかないトンチンカンな理論の羅列である

そして、結局は人材育成であり、人格の陶冶であるというヤブニラミ論でメデタク幕を閉じることになるのである。すべては実証の裏付けのない観念論と、皮相的な人間論でしかない。

それらの理論が実際に企業組織の中に導入されて、その結果がどうなのかというようなことは考えてみたこともない無責任人種の、きれい事の理論遊戯なのである。

それが理論遊戯にしかすぎないということは、私自身の十五年以上にわたる会社勤めの中で、いやになる程感じさせられてきたのである。

何も分らないながらも、私は自らの仕事に真剣に打ちこみ、自分なりに真実を求めて苦しみ抜いたのである。それは、汗と油と泥にまみれての戦いであった。その戦いの中での私のよりどころは、マネジメントの理論だった。

しかし、それらの理論を実践すればする程現実と遊離し、結果は私の意図とは反対の方向に行ってしまうのである。私は何十回壁につき当り、自信を失ったか分らない。

それらの経験から、だんだんと分ってきたことは、マネジメント理論の誤りであった。優れた結果を得た考え方と行動は、常にマネジメント理論とは違っていたからである。

コンサルタントになってからも、数多くの会社を見せてもらって、マネジメント理論を部分的にでも忠実に実行しようとしている会社は、その部分から数々の不都合が発生しているだけでなく、業績も決してよくないことを見せつけられた。

また、優れた会社はマネジメント論など全然問題にしていないことも同時に発見しているのである。

つまり、どこからみてもマネジメント論は誤っていることは明らかなのである。その誤りは、伝統的な組織論やマネジメント論には、「事業の経営」という認識が全くないところにある。

事業を知らないから、会社の中の人々の日常の仕事に焦点を合わせ、これがうまく運べば事業の経営はうまくいく、と思いこんでしまっているのである。

こうした考え方がもとになって生れた理論だから、お客様へのサービスという思想など薬にしたくともない。社内の仕事の都合によって、お客様の要求など平気で無視されてしまう。競争の理論など無いから、春の野のピクニックの話題のようにのどかなものになっている。

「事業の経営」など、どこかへけし飛んでしまって、日常業務のやり方と人々の気持にだけ焦点を合わせてしまっているのである。事業の経営というものは、お客様の要求を満たすことである。

ところで、お客様の要求というものは、相手の都合に合わせるのではなくて、自分の都合に合わせてなされるのである。たくさんのお客様の、それぞれ勝手な要求が会社に殺到する。会社の都合と合う筈がない。

お客様の要求と喰い違う我社の都合を、お客様の都合に合わせなければならないのだ。当然のこととして、そこには混乱が発生するのだ。

J社などは、お客様の要求に合わせて一日に二回も二回も生産予定を変更することがしばしばある。これがお客様に喜ばれ、優れた業績をあげているのだ。

ここには「仕事をうまく流す」という考え方はない。あるのは「お客様の要求を満たす」という正しい態度なのである。

個々の仕事の円滑化など無視し、お客様の要求を満たすことこそ正しい事業経営なのである。

ところが、お客様の要求は、我社だけで満たそうとしているのではない。たくさんの会社が一人のお客様に殺到するのである。

K社の社長は『一倉さん、僕が社員に要求することは、考えてみるまでもなく殆どがムリですね。しかし、これは事業の要求からいたしかたのないことです。これをやらなければ会社は競争に負けてしまいます』と、私に語ったことがある。これが企業戦争なのだ。

ムリ・ムダ・ムラをはぶくというような考え方は、もっともらしくはあっても、実戦では通用しないのである。

このように、組織論やマネジメント論は、その根本において事業の経営とは離れてしまっていることを、われわれはまず認識する必要があるのだ。

分掌主義の誤り

伝統的な組織論は、「職能にもとづいて分担をきめる」という考え方をしている。平たくいえば、ある特定の技能を要する仕事を集めて部門をつくり、部門単位の活動を行なわせようということである。このような仕事の分担のさせ方を、「分掌主義」という。

この考え方から、「職務分掌規定」をつくって、この規定にもとづいて仕事をさせようというのである。この考え方は、極めて合理的に見えるが、実は事業を経営する上に重大な欠陥をもっているのである。

笑話を紹介しよう。

私がかつてF社に勤めていた時に、ある有名なコンサルタント団体に指導してもらって「職務分掌規定」を作ったのである。立派な規定ができ上がり、説明会も済んで、ある日を期して実施されたのである。

ところが、その第一日目の午前中に問題が発生してしまった。それは、検査課と他の部門との間である。

まず第一には、検査課と倉庫の間である。検査課では、昨日までは検査済みの品物を倉庫まで運んでいたのに、運ばなくなってしまった。

その理由は、『職務分掌規定に「検査済みの品物を倉庫に運ぶ」という規定がないから運ぶ必要がない』ということだった。

倉庫課では怒ってしまった。『冗談じゃない。倉庫課の分掌規定にも、検査済みの品物を検査課から運ぶ、とは書いてない。何がいつ検査済みになるか分らないうえに、いちいち検査課にお伺いを立てて取りにいくことなどできない。こちらは現場に品物を配るのに忙しいのだ。検査済みの品物は検査課から倉庫に運び、倉庫課は現場に品物を配るのが当り前ではないか』というのである。

もう一つは、中間検査場で検査済みの品物を現場に運ばなくなってしまった。昨日までは運んでいたのに……。こうして、たちまち生産に支障をきたしてしまったのである。

そして、数力月がかりで細かく職務を調べてでき上がった職務分掌規定は、たったの一日で有名無実なものにされてしまったのである。

これは、非常識な検査課長のせいであることは間違いないことではあるが、こんなバカに乗せられるのが職務分掌規定なのだ。

そしてどこの会社にもこのようなバカが、ある確率でいるものなのである。これが混乱を引き起すのである。だからといって、会社の中のあらゆる仕事について、誤りなく仕事が行なわれ、人々に正しい活動を行なわせる規定など、とてもできるものではない。

N社にお伺いした時に、総務部長からこの点についての質問を受けたことがある。その要旨は、『職務分掌規定では律せられないことが数多く発生するので、その都度細則をつくってきましたが、それでもあとからあとからと、いろいろな問題が起って困っています。どうしたらいいのでしょうか』という意味のものだった。もうお分りいただけたと思う。職務分掌規定で、会社の中の仕事と人々の行動を規制しようとすること自体が間違っているのである。

規定というものは、「規定を守る」という大義名分が生れると同時に、守る側には「規定にないから」という大義名分が生れるものなのである。

そのために、当然やらなければならない仕事をやらないということになってしまうのである。職務分掌規定の考え方には、二つの大きな誤りがある。

一つは、部門別の仕事を規定化しようとしていることである。こんなことはできる筈がないのにやろうとするから、バカげた混乱が生れるのである。

もう一つは、 一つ一つのセクションについて、そのセクションだけの仕事しか考えていないところにある。会社の中の仕事というものは、必ず他の部門との関連があるのだ。この関連を忘れてしまっているところにある。

個々のセクションが上からの指令にもとづいて仕事をしていることは、まぎれもない事実である。だからといって上からの指令だけで仕事ができるわけではない。

仕事というものは、違った部門から部門へと横に流れてゆくものである。営業部門で受注した仕事は、製造部門で作られて営業部門に返り、最後には経理部門の処理が必要である。

この間、資材購買外注部門、検査部門、倉庫部門、配送部門などのそれぞれの協力が必要である。総務部門などは文字通りすべての部門とつながっている。

だから会社の中の仕事というものは、個々のセクションの仕事がうまく行なわれることは大切であるが、それだけでうまくいくわけではない。仕事の流れが悪ければ、せっかくの個々のセクションの仕事の効果が帳消しになってしまうのである。

事実、会社の中の仕事というものは、このセクションとセクションとの間で、仕事の流れが停滞してしまう場合が非常に多いのである。これが、『うちはどうも横の連絡がうまくとれないので……』というボヤキになってくるのである。

この、「仕事の流れ」こそ、日常業務をうまく処理する急所である、ということを、組織論者もマネジメント論者も全く無視している、というより知らないといったほうが本当である。

では、どうしたら仕事の流れをよくし、誤りなく仕事を進めることができるのだろうか。そのことは後述することとして、次に筆をすすめよう。

分掌主義は、部門別分掌だけでなく、部門内の個人の職務にまで及ぼそうとする。

「特定の技能を個人毎に割り付ける」という考え方である。MTPでは「同質的な作業割当」という表現をとっているものだ。

私がF社に勤めていた時に、あるコンサルタント会社に依頼して工程管理制度を作った時のことである。

資材課(外注と購買)の職務に従って、計画係・推進係・記帳係という三つの職能に分けた。その結果は前にも増して混乱が大きくなって、どうにもならなくなってしまったのである。

混乱は、計画係と推進係の間と、推進係と記帳係の間に起ったのである。

推進係の仕事ほど阿呆らしいものはなかった。計画係が発注した材料部品をかき集めるという仕事だからだ。計画係は発注先の実情など分らぬままに注文書を発行する。発注先の設備技術と品物が合わない発注や、満杯の会社に特急品の発注をしたり、もうメチャクチャである。

そのシワよせを受けて、推進係の仕事はやりにくいことおびただしい。『もっと実情を調べて発注してもらいたい』と計画係に注文をつけると、計画係は『一つ一つの発注先の実情を注文ごとに調べているひまなどない。こちらは全社の全発注を行なっているのだ。あとから注文をつけずに、予め情報を提供したらどうだ』とやり返す始末である。

推進係と記帳係の間は、トラブルではなく、記帳が推進係の役に立たなかったのである。

推進係の役割は、いうまでもなく生産に支障を来さないように品物を入荷させることである。当然のこととして生産に間に合わない品物の情報である。こうした品物は、納期遅れで入ってくるものが殆どだ。それらの品物がいくつ入り、いくつ検収されたかこそ、直ちに知りたいのである。

ところが、記帳というものは日付順に行なわれているのである。だから記帳係は昨日入荷した品物の記帳から先に行ない、今日入荷した品の記帳は後廻しになるのだ。

ところで、推進係の知りたい情報は、殆どがこの後廻しの部分に含まれている。推進係はこの未記帳伝票を見てメモをとる。こうして「私製帳簿」ができてゆく。

そのために、資材調達業務は、以前にも増して欠品が続出したのである。さらに困ったことには、欠品を防ごうにも、いったいどこが悪いのか分らない。お互いに責任のなすり合いだったのである。

もう一つ大きな欠陥があった。人間というものは、自分の仕事になんらかの意義を見つけだし、その結果にやり甲斐を感ずるものなのだ。ところが、計画だけ、推進だけ、記帳だけでは、仕事の意義も結果に対する喜びも、見つけようがないのである。全くの人間無視だったのである。観念論者の考えることは、全く話にならなかったのである。

あまりの混乱ぶりにたまりかねた社長は、私に資材課長を命じたのである。生産技術課長として、コンサルタントに協力した私が、その結果についてコンサルタントに抗議をし、あげくの果てに大喧嘩をしてしまったというイキサツがあり、困り果てた社長が大口を叩くからには… … というような気持もあったらしいのである。

私は直ちに仕事の分担をかえた。 一人一人に特定の材料部品の調達を一貫して行なわせた。それは発注・推進・記帳という一連の仕事をするわけである。計画などは、発注限度を「追番」で示すということで、不要にしてしまったのである。

今度は、 一人一人が自らの意思で発注先をきめ、(ただし、新規の場合は課長の承認を要する)自ら推進し、自ら記帳することにより、いままでの混乱はアッという間に解消してしまった。在庫は大幅に減少し、しかも欠品は殆どゼロとなってしまったのである。

一人一人は、自らの仕事に対する意義を見つけだすことができ、仕事に張合いが生れたのである。

仕事というものは、たくさんの異種作業による一つの「流れ」なのである。この流れを円滑にするものは、個々の作業を一つ一つ分担させることではない。こうすると、人と人との間に問題が起ってうまく流れないのである。

仕事の分担は必要であるが、これを一つ一つの作業まで細分化してしまうと、これは細分化の行き過ぎなのである。

仕事をうまく行なうためには、細分化できない最小単位があるのだ。この例の場合は、発注・推進・記帳という三つの一連の作業がこれに当る。これ以上の細分化は仕事のコントロールが不可能になってしまうからである。

それと同時に、人々は自らの仕事の意義を見つけだせず、やり甲斐がなくなってしまうからである。これは、明らかに人間性を無視したものである。

分掌主義とは、このように仕事の実態も知らず、人間性の洞察もできないような人種が、頭の中だけで考えた現実無視の観念論なのである。

仕事をうまく処理するコツは、部門や個人の職務をきめることではなくて、部門や個人に関係なく、「仕事」そのもののやり方を標準化することなのである。

責任権限論の誤り

第一話

P社を訪問した時のことである。訪間の相手は総務部長だった。その日はいつもと様子が違って、会社の空気がかなりあわただしかった。

これは何か取込み事があるらしいと察したので、『お忙しいようですから、また日を改めてお伺いいたします』と辞去しようとしたところ、総務部長は『せっかく多忙なところを来てくださったのだから』と、あわただしい中で私の相手をしてくださつた。

用件が済んでから総務部長は、『見苦しいところをお目にかけて申訳ありません、実は……』と、私に次のようなことを語ってくれたのである。

それは、ある大切なお得意先から大きなクレームがつき、その善後策のために大わらわの最中だというのである。そのクレームであるが、それは数力月前に発生したものだという。

その時にすぐ重役にでも報告してくれれば、こんな大事にはならなかったのに、担当部門でモミ消しを図り、それがうまくいかなかったためにお得意様を怒らせてしまい、きついクレームが先方の社長からあった。

初めて知ったP社長は、役員会を開いて対策を協議していたのだという。

調べてみると、このクレームをかなり前から知っていた社員は数十名もいた。そのうちの誰かが会社の大事と報告をしてくれたなら、こんな大火事にならないうちに処置がとれたのに、誰一人として上司に報告しなかった。

『こんな大事を知っていてなぜ報告しなかったのか』と詰問すると、返って来た答えは異句同音に『それは自分の責任範囲外のことですので』というのであった。

これには、総務部長は返す言葉がなかったという。というのは、この総務部長は非常に教育熱心で、責任権限論を繰返し教育していたからである。

総務部長は、『一倉さんが「責任権限麻薬論」を常に強調されていたのを、私は何という「暴論」か……といままで思っていましたが、今にして私の考えが誤っていたことを痛感いたしました』と結んだ。

これは、責任権限論の問題だけでなく「クレームの責任を追及する」という社長の間違った態度が根本原因である。自分に不利になることは、手段を尽してかくそうとするのは、人情として当り前のことである。それがクレームをかくすということになるのである。

※クレームの責任を追及するという社長の間違った態度がクレームをかくすということになる。

そして、それが会社の信用を大きく落してしまうのである。また、他人が起したクレームを知っていても、それがどれ程重大なものであろうと、会社の信用に関するものであろうとも、絶対といっていいくらい報告はしない、という不文律があるのだ。

もしもこれをやると、同僚や他部門から『自分ばかり「いい子」になりやがって』と、場合によっては「村八分」になりかねないからである。

※他の人のクレームを代わりに報告すると、自分ばかりいい子にになりやがってと村八分が起きてしまう。

もしも上司から、『会社にとっての大問題を知っていながら、なぜ報告しないのか』 と詰問された時には、『それは自分の責任範囲ではありません』と答えればいいことを、組織論の教育を受けたものは知っている。

このように、責任権限論は事あるごとに責任のがれの「かくれみの」になっているのである。

間違った指導に間違った責任権限論は、このようにして会社の信用を落し、その上に無責任社員をつくりあげてゆくのである。

ところで、クレームに対する正しい態度は、すべての業務に最優先し、時間と費用は一切無視して完全処理をする、ということである。

正しい指導は、クレーム自体の責任は一切追及せず、クレーム不報告の責任を追及することでなければならないのである。

第二話

L社は日配食品(毎日小売店に配達する食品)のメーカーである。毎日配送出発時刻に間に合うか合わないかのギリギリのところで製品が出来る。これの包装発送は物凄く忙しい。間に合わないと思われる時には、会社のアチコチから応援を求めていた。このような状態の中で、あるコンサルタントの指導を受け、その勧告に従って責任の範囲を明確化したのである。

その結果は、包装発送部門がどんなに忙しくとも、発送が遅れようと、他部門から全然応援にいかなくなってしまったのである。それは、「責任の範囲外」のことだったからである。責任の範囲を明確にすると、必ずこういうことが起るのである。

組織論者は、責任の範囲を明らかにしないから仕事がうまく行なわれないのだと思いこんでいる。

これは全くの見当違いであって、仕事がうまく行なわれないのは、一つは仕事の流れに関する仕組みができていないこと、相互応援の指導がないこと、プロジェクト主義を知らないこと、もう一つは、仕事の責任の範囲を明確にするという組織論の原則そのものなのである。

責任の範囲を明確にすると、その部分のことは問題なく行なわれるようになる。それと同時に、「それ以外のことには責任がない」ととるのが人間というものなのだ。ここに問題が発生するのだ。

「第二話」のように、他の部門がいくら忙しくとも、他人の仕事がいくら忙しくとも、それは「自分の責任の範囲外のことである」として、「われ関せず」ということになってしまうのである。

こうして、人々は自分の部門のこと、自分の仕事だけしか考えなくなり、会社の業績をあげようという意識などなくなってしまう。ましてや、「お客様にサービスをする」という、企業本来の役割を果すことなど考えてもみなくなってしまう。

これでは、「人的資源をいかに活用してゆくか」という会社の命題など、実現することはできない。それだけではない、人々は自分のことしか考えないという誠に困った人間をつくりあげてゆくことになるのである。

会社の業績を落し、人々の魂を腐らせてゆくという、大きな罪悪を犯すものが、「責任範囲明確化論」なのである。

私が責任権限明確化論の罪悪を思い知らされたのは、私がF社に勤めていた時に受講したMTP講座だった。私は当時課長職であった。

この講座には、管理職だけでなく、将来の管理職候補として、管理職でない大学卒業者も同時に受講したのである。

そして、責任権限論を受講した翌日だった。私はMTPを受講した私の部下に仕事を命じた。すると、その部下から『課長、それについての権限を私はもらっておりません』という言葉が返ってきた。

私は思わず『バカヤロー』と怒鳴ってしまった。この男はなかなかいい男で、積極的に仕事に取り組み、昨日までは私の指図を『ハイ』と素直にきいていたのだ。私は、この時にハッキリと組織論の害悪を知り、アンチ・マネジメント教になったのである。

そもそも権限とは何なのか。責任を果すために必要な決定を行なう権利のことらしいのだが、組織論によると、「責任と権限は等しくなくてはならない」のだという。

全くあきれ返った理論である。責任と権限は等しくなくてはならないのなら、等しいことを測定する物差しがなければならない。こんな物差しなど、ある筈がないのだ。

かりに、上役が部下に、ある責任を果すために権限を与えたとしよう。上役は十分だと思い部下は足りないと思う。物差しがないのだから、どちらも主観である。

こんな下らないことは書くのもアホらしいからこの辺でやめるが、この理論が、「責任を果すための十分な権限を、上司は与えてくれなかった」という責任のがれの大義名分に使われるのである。無責任居士に恐ろしく有利な理論なのである。

では、現実にはどうなのだろうか。それは「責任のみあって、権限はゼロ」なのである。人々が、自らの責任を果すために必要なものは権限ではない。それは「責任感」なのである。

自らの責任を感じ、それを何とかして果そうとする気持― 「責任感」― これ以外に何があるというのだ。あとは自らの判断で行動するだけなのだ。権限もヘチマもないのである。

責任感のないやつは、企業人としてだけでなく、それは明らかに人間失格なのである。

組織論なるものが、いかに非人間的なものであるか、思い半ばに過ぎるものがあるのだ。

責任権限論の罪悪はまだある。「権限の委譲」という、わけの分らぬ代物である。M社は、機械部品のメーカーである。

高度成長の波に乗って業績は急伸した。そのために営業部門が手薄となり、これを強化するために、M社長は他社の営業部長をスカウトして営業担当専務として、営業のすべてを任せたのである。

営業を任された専務は、自分の考えだけで事を進めたのである。まず安い価格で輸出などする必要はないとして、M社がいままで苦労して開拓してきた輸出をおろそかにし、高い価格で売れる国内向けに力を入れたのである。国内売りの主力は、専務の個人的なコネの強い商社に、強引な押込み販売を行なったのである。

高度成長が続いているうちは成功しているように見えた。しかし、石油ショックによって馬脚を現わしてしまったのである。

主要得意先の商社は、思いの外の過剰在庫をかかえてしまったのを知って、仕入れを大幅にカットしてしまった。売上げ急減を補うために輸出に力を入れようとしたが、いったん落ちた輸出は、おいそれとは恢復せず、アッという間に業績が急低下してしまったのである。

権限の委譲― 任せるという考え方はかなりの説得力がある。社長一人で何もかも処理することはできないから、部下に任せなさい、部下にやる気を起させるには任せるのがよい、部下のもっている能力を発揮させるために任せなさい……というようなことが次々と出てくる。まるで薬の効能書である。

この効能書に乗せられて任せてはみたが、その結果はどうも……というような社長の嘆きは、社長の過大な期待のせいだと云いきれるだろうか。

そもそも、「任せる」とはどういう意味なのか、ということが組織論で論じられたことを私は聞いたことがない。

日本人のニュアンスとしては、「任された」ということは、「自分の思うようにやってよろしい」という許可を得たことと解釈されている。

だから、いったん『任せる』と云われ、それについて上司からあれこれ云われると、『任せると云っておきながら、あれこれ指図する。これでは任されたことにならない』とむくれるのである。だから、いったん『任せる』と云った以上、部下が何をしても何も云えなくなってしまう。

このようにして、任された者は自分勝手なことをやり、M社の専務のように会社を危うくするようなことさえやりかねないのである。

しかし、よく考えてみると、勝手なことをやった本人が悪いのではなく、明らかに『任せる』と云った上司が悪いのである。

「任せる」ということの意味も考えずに部下に任せたからである。「任せる」ということの意味を教えない組織論は無責任な代物である。われわれは「任せる」という意味をハッキリさせて、混乱を未然に防ぐ必要がある。

「任せる」というのは、勝手にやらせることではなくて、ある「決定」の「実施」を任せることである。実施を任せるからには決定にもとづく明確な目標― 手に入れたい結果、方針― 行動の基準― が与えられなければならない。

そして、任された者は、この目標と方針の範囲内での行動の自由しかないのである。もしも、その範囲内の行動では目標を達成できないと思われる場合には、その旨を申し出て許可なり指示なりを受けなければならないのである。

これをやらずに、「方針にしばられて目標の達成ができない」というのなら、これは無責任な態度なのである。任されたものは、ずいぶん窮屈だというかも知れないが、これはいたしかたがないのだ。そうでないと、「遠心カ」によって組織がバラバラに崩れてしまうからである。目標と方針はク求心カクなのである。ところで、日標も方針も与えずに「任せる」ということは、別の意味で任せた意味がなくなってしまうのである。

かつて、私が会社に勤めていたときに、社長からよく『君に任せるから』と云われた。社長にしたら、任せたからやってくれるだろうと思っているらしいが、役職が下層の場合には任すも任されるもないが、社長から任されるくらいの地位になるとそうはいかなくなる。本当のところ、こんなことをされたら動きがとれなくなるだけなのだ。

というのは、仕事というものは自分の部門だけで済むものではない。多かれ少なかれ他の部門との関連があり、それらの部門の協力が必要になってくる。そこで協力を頼むと、それが重要なことであればある程協力を得ることが難しくなってくる。『お前の点数を稼ぐために、何で俺が忙しい中を協力しなければならないのだ』とくるのである。『社長へのゴマスリの協力はご免だ』というのである。社長から何も聞いていないことを私から頼まれるのだから、こう思うのは当り前である。

社長は「任せたからやってくれる」と思っているが、任されたってできるものではないことを、私はイヤという程思い知らされたのである。だから、「適当にやろう」ということになるのである。

では、他部門に関係ないことならよいかというと、これにも任されたほうには云い分があるのだ。

私は、社長から『任せる』と云われた時には『社長のお考えや方針を示して下さい』と云うことにしていた。その時の社長の答えは、『社長の方針は常々云っているじやないか。だから、あとは任された君がやれ』と云われるのが常だった。

実は社長からこういうことを聞いた覚えはないのである。実際にはなんらかの機会に云われたのかも知れないが、覚えていたことはなかった。

そして、自分なりによかれと思ってやったことが、よく『一倉君、こんなことをしてくれては困る』と叱られたものである。何も方針を示さずに、社長の気に入らないことをやると叱られるのである。ボヤキの一言も云いたくなるではないか。

だから、社長は「実施を任せる」時には、明確な目標と方針を与えなければならないのだ。

そして、それは経営計画書の中の「方針書」に明示し、任せた事に対するプロジェクト計画書を提出させれば、本人が何を考え、どうしようとしているかが分るから、必要な指示や、もしも訂正すべき点があれば、これを命ずればよい。

あとはチェックで結果を見ればよいのだ。こうすれば何も問題は起らないのだ。方針書に明示してあることだから、他部門でも「ああ、あの方針書の項目か」ということになる

もし、必要あればプロジェクト計画書を説明して納得させることもできるのである。というのは、プロジェクト計画書の方針欄には、「経営計画書の該当方針を一字一句違わずに書く」というのが一倉式プロジェクト計画書の考え方であり、それには社長の承認印が捺してあるからである。これで、社長命令だということを相手に納得させることができるのである。

マネジメント論というものは、右にあげたようなことまでうたわなければ本物とはいえないのだ。何しろ、人間という厄介な動物に関することだからである。伝統的なマネジメント論などは、全くの「死物」なのである。

ところで、なぜこんなおかしな責任権限論がアメリカあたりで生れたのだろうか。それを考えてみよう。その母体は「非終身雇傭」という土壌なのである。

非終身雇傭なるが故に、会社の都合でいつでも「首切り」ができる。首を切られるほうはたまったものではない。アメリカには「先任権」があって、首切りの順位は成績不良や上役ににらまれている労働者以外は、勤続年数の少ない者から順次首を切られるのである。先任権とは、勤続年教が永い程首を切られる順位が遅れることを意味しているのである。

首を切られることは、次の職場で先任権がなくなってしまうことなのだ。だから、首を切られることを非常に恐れるのがアメリカの労働者なのである。いつまでたっても生活が安定しないからだ。

だから、アメリカの労働者は、自らの成績や手落ちを上司から云々されることを死にもの狂いで防がなければならない。

そのために、「責任の範囲を明確にしてもらいたい」「責任を果すための権限を与えられなければ仕事はできない」という主張をすることが、自らの防衛上絶対に必要なのである。

この必要性を満たすために生れたのが「責任権限論」なのである、といいたくなる― 実は、組織維持の必要性からなのだが。

こうしてアメリカ(に代表される日本以外の国のすべて)では、自らの責任範囲外のことは一切やらなくなってしまったのだ。

「終業のベルが鳴ったら、振りあげたハンマーでも打ちおろすことを止めてしまう」「隣席の人間がどんなに忙しくとも絶対に手伝うことをしない」というようなことが云われるのは、こうした背景があるからなのである。

日本の会社では、首を切られる心配はない。だからアメリカのように責任だ権限だの、アレコレ云う必要など全くないのだ。そんなことを云うヒマがあったら、自らの責任感にもとづく自らの行動を起せばいいのだ。

何か仕事に支障を来すような事態が起った場合には、関係者がサッと集まって「どうするか」を相談し、決定すればよい。

会社の中の仕事というものは、責任や権限を云々することによってうまくいくのではなくて、各自が責任を自覚することによってうまくいくものなのである。

人間関係は事業経営に優先しない

0社の社長が、ある時管理職を集めて、『仕事をうまく流すために、障害になっているものは何か』と聞いたところ、最初の課長の発言は『人間関係がうまくいっていない』ということだった。そして、他のすべての人々の意見も全く同様だったのである。

0社長は、『君達は何とバカげた考え方をもっているのだ。考えてもみなさい。親子、兄弟、夫婦でさえも意見の違いもあれば相手の立場を理解できないことがある。それを生れた場所が違い、育った環境も違う、年齢も違えば性格や好みも違う人々が集まった会社の中で、イサカイが起り人間関係がうまくいかないのが自然なのだ。

少しくらいのことはお互いに我慢しなければならないのだ。だから、人間関係がよくないから仕事がうまく行なわれない、などと考えても始まらない。それよりも仕事をうまく行なうためにはどうしたらよいかを考えるのだ。その方法として、 一言頼め。頼みもせずに協力してくれないというのは間違っている。今後はこうしなさい』と申し渡したのである。これが「指導」というものである。なかなかうまい指導である。

一同は、『社長の云うことはもっともだ』ということになって、キリがついてしまったのである。

なぜこんなことが起るのかというと、それは戦後アメリカから導入された人間関係論をかじると、それが仕事がうまくいかない場合の言訳に使えることを知るからである。

そもそも人間関係論の起りは、 一九二九年から三年間にわたり、シカゴの郊外にあるウエスタン・エレクトリック社のホーソンエ場で行なわれた、エルトン・メーヨーのグループによる労働者の観測の成果(?)である。

観測の対象は、リレーの組立職場の六〜七名の女子労働者である。会社の中の最底辺の人々のことなのである。

非終身雇傭制のもとで、単純な繰返し仕事だけしかやらされず、いつ首を切られるかも分らず、不安の中で監督者の顔色を伺い、チリチリしながら過している労働者のことなのである。

そういう人たちに、『あなた方は会社にとって大切な人なのです。意見があったら云ってください。不平不満は申し出れば解決してあげましょう。会社はあなた方を必要としているのです』というのが人間関係論なのである。

だから、アメリカでは「人間関係論はブルー・カラーのみを対象にしたもの」と割り切っているのだ。

それにもかかわらず、日本の人間関係論者は、人間関係論のみを取り上げて、社会的評価など全く念頭にない。見境もなく会社の中のすべての人々を対象としてしまっているのである。

そして、「人間関係をよくすることこそ企業繁栄の鍵である」と主張するのである。この人間関係至上論は、ついには事業の経営に優先する程までにエスカレートしてしまったのである。

「会社の業績が上がらないのは人間関係が悪いからだ。その人間関係をよくしようとしない社長は無責任社長である」といわんばかりの論調である。

誰でも、人間関係がいいほうが有難いから、この理論は説得力がある。そして、人々は人間関係論者の教えに従って、懸命に人間関係をよくしようと努力することになる。

しかし私は、人間関係論を実施して人間関係がよくなったとか、業績が向上したという話は残念ながら聞いたことがない。

反対に、「人間関係がかえって悪くなった」とか、「不平不満が多くなって困っている」というような話ばかり聞かされるのである。だから、明らかに「人間関係論は誤っている」と解釈せぎるを得ないのである。

これは、日本だけでなく、本家のアメリカでさえ圧倒的に批判が多く、今ではひと握りの人間関係論者のオモチャになってしまっているのである。

誤っているとはいえ、戦後日本の会社の中に広く深く浸透してしまい、いまだにこれを振り廻す一部の観念論者もあり、数々の害毒を会社の中に流し続けているのである。

人間関係論の主張は、大きく分けて三つになる。

まず第一は、摩擦を極端にきらうところにある。第二には、すべて部下の自由意思を尊重せよという。第二には、不平不満を解決してやらなければならない、とこの三つとも、人間という生き物の心理と行動を無視したものであるだけではない。それが事業の経営に大きな障害となっていることを、全くご存知ないという、ひとりよがり以外の何物でもない代物なのである。

では、その二つの誤りはどういうものだろうか、という点については、拙著社長学シリーズ第七巻「社長の条件」篇「不平不満の生産者」の章(二八三頁)を参照していただきたいのである。

伝統的組織論の棚卸しはこれくらいにしておくが、要するに、事業経営には百害あって一利もないものなのである。

それは「変化を阻止する」という基本的特性をもっているからであり、人間性の掘り下げが全くできていないところにあるのだ。

われわれは、伝統的な組織論を完全に捨て去り、真に事業経営に役立つ組織論をわれわれの事業経営の必要性から、全く新たに創りだしていかなければならないのである。

それは、「事業とは顧客を創造する活動である」という基本認識に立脚し、変化に対応する機動力と弾力性をもったものでなくてはならない。

そして、何より大切なのは、「社長はいかに組織を管理し、人々を指導したらいいか」という命題に答えられるものでなくてはならないのである。

そこで、本書では右にあげた要請に応える組織論に入る前に、「社長として、組織指導に必要なものは何か」ということを、まず論じてみることとする。

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