生者必滅は世の常、幼あれば老あり、就職あれば退職のあるのも常である。
会社にしても、入っては去り、去っては入る人たちによって保たれている。しかも、手数やかねのかかる幼時は親や国に任せておいて、 一人前に働けるようになってから会社に入れて働いてもらう、働けないようになったら定年退職という制度のもとに追い出す。人間のいいところだけを吸いとって経営しているのが会社といえるのである。もちろん、法人税などの形でその代償を払ってはいるが、見方によっては虫のいいやり方といえるだろう。近年のように人生八十年、働ける期間も長くなると、定年を延長するなど、それなりに救われているわけだが、それでも定年で去る人間にとっては淋しい限りである。
ここでいいたいのは、会社に功のあった者には、会社の恩人としての心遣いをしてはどうか、ということである。言い換えれば、長年の功労者を決められた退職金を払うだけで無縁者扱いしてよいものか、ということである。
従業員の中に、一家で二代、三代と続いて勤務する会社がある。その会社の創業者は無一物で山林業から出発して、いまに残る大会社を築いた人だが、部下を思う心が並ではなかった。
一例が、従業員の立派なお墓である。創業者の墓も立派だが、ともに働いてくれた従業員の墓がこれまた立派である。つまり、功のあった者には死後も、それに報いた。それが子や孫にまで、感謝として伝わっているといえるのである。だから昔の大名に仕えた家臣のように忠勤に励むのである。
第二の会社で、功労のあった定年退職者のために特に一室を設けてもらった。退職後に功労者が会社を訪れたとき腰をかける場所もないということでは申しわけない、専用の机と椅子のある部屋を設けるべきと考えたからである。
それに対し社長は「それでは、なにか肩書きをつけ月々手当を出すことにしよう」といってくれた。退職した人に、さらに会社の仕事に役立ってもらおうということではない。在職の人たちが、退職者へのこういう処遇を知って悪く思う者はいない。会社、そして社長の心を知り、より精進することが大事なのである。
また、分社した後に、各社の代表取締役を前に、こう話したことがある。「まだこれからの会社だからすぐ制度化するわけではないが、無定年構想をもっている。
社内で、定年まであと何年と指折り数えている人を見るほど哀れに感ずることはない。定年その日に退職辞令と退職金を渡し、形ばかりの送別会を開いて、はい、長い間ご苦労様というだけで、企業が高令化社会の義務を果たしたと考えるならこれほど冷酷なことはない。
定年が迫るにつれて働く意欲が落ちるのでは、相互のマイナスである。定年後も、再就職運動もせずに働くことができるなら、定年不安は解消するだろう。そこで、新工場を建てるとき、貸工場用のスペースを設けてもらいたい。退職者に工場・設備を貸し、請負仕事をしてもらう。販売担当者が定年になれば、歩合販売をしてもらう。事務担当者には、委託で決算事務や事務処理をしてもらうようにしたい」と。
いかにも社員のことばかり考えているようであるが、いずれは会社に大きく、好ましくハネ返ってくるのである。
昔、中国後漢の光武帝は「柔らかなものが、かえって強いものを挫き、弱いものが、かえって強いものを挫く」と兵法にあるが、自分も柔の道をもって天下を治めようと思うといって、戦争の話さえ慎んだという。
また帝は、建国の大業に功労のあった臣の老後を安楽に過ごさせるために、三度と戦争に関係させず、ことごとく諸侯に封じ、立派な邸宅に住まわせ、政治も三公に責任をもたせ、功臣には政務をさせないようにした。つまり、戦争で戦死させたり、政治で失敗し失脚させないようにしたわけである。そのため功臣、諸将は、晩節をけがさず名誉を全うし、無事に生涯を閉じることができたという。心にくいばかりの思いやりである。
社員の定年日だけは間違わずに、退職辞令と規定どおりの退職金を渡し、長い間ご苦労といってあかの他人になる、どこかの社長とは大きく違っている。
光武帝は、中国史上随一の名君として現代でも評価されているが、その理由の有力なものは、功労者に、功労者としての名誉を最後まで全うさせたことにあるといえるだろう。
前述したように、私は、関係した会社で分社経営を実施した際、無定年制度をとり入れようと考えた。六十才の定年を過ぎた人でも功のあった者にはひきつづいて働くことのできる制度である。これも功ある人に報いる道であると考えたからである。
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