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三、不平不満の生産者

目次

カウンセラー・システムまでとりながら

B社社長の悩みの最大のものの一つは、社員の勤労意欲が低く、不平不満が充満していることであった。社員のくだらない個人的な悩みというよりは、むしろわがままな要求や相談が、入れかわり立ちかわり社長の許に持ち込まれる。

社長は、『一倉さん、他の会社でもこんなくだらない相談が社長のところに持ち込まれてきますか。こんなつまらぬことに時間をとられて、肝心な仕事ができやしません』という質問である。

私の返事はそっけない。『ありませんね』というのだ。『どこに原因があるか』という重ねての質問に、『原因は人事担当の常務にある』というのが私の返答であった。そして、その理由を説明したのである。

『どうしたらいいと思うか』と社長。私は『人事担当常務を勇退させて、社員と接触を絶たなければだめですね。彼が社員と接触している限り、人事担当でなくても、下らない不平不満は絶えないでしょうね』と返答したのである。理由というのは、次のようなことである。

その人事担当常務が、がんこで、分からず屋で、不公平で、お天気屋だ、というような人だったら、人間関係の先生方は喜ぶかもしれない。

ところが、そうではなくて、個人的には極めて立派な人で、物分かりがよい、優れた人格者なのである。そして熱心な人間関係推進論者で、自らカウンセラーになって人間関係をよくするために一生懸命なのである。

この人が、不平不満を作り出す張本人なのである。彼が努力をすればする程、人間関係は悪くなり、勤労意欲は低下し、上司の威令が行なわれなくなるのである。

彼は、カウンセラーになって、不平不満や悩みは、どんなことでもいいから私のところに相談にきなさい、必ず解決するように努力してやる、と絶えず社員に言っているのである。社員からの相談があると、彼はこれを受けて立って、誠心誠意これの解決に努力をしてやる。当然のこととして社員は喜び、常務に感謝する。

しかし、それは初めのうちだけで、次第にそれが当り前のことになってくる。それだけではない。ここの社員は、普通の会社だったらがまんするし、がまんできることも、がまんしない。常務のところに訴えるのである。

このようにして、常務のところには相談が殺到し、常務だけではさばききれなくなる。シビレをきらした従業員が、社長に直訴するということになるのである。だから、この会社では、他社だったら問題にならないような些細なことでも、不平不満の種になり、会社の中にこの不満が渦を巻いているのである。

それだけではない。この会社では、不正を働いた人間が、さしたる処分も受けずに、単にポストを換えるだけでウヤムヤになってしまっている。常務の温情(?)のしからしむるところである。

人事の異動も社長の思うに任せない。人事異動は引き抜かれる部門の長か、もらう部門か、異動させられる本人かの誰かが不満に思うのが、当り前と言えよう。普通このような不満は、上司の説得でケリがつくのが相場である。また、そうでなければならないのである。ところが、この会社では、この不満が直ちに常務のところに行く。異動される本人の場合などは「会社をやめます」という脅迫まである。やめられたら、この人手不足時代にたいへんだ。人のよい常務はあわてる。そして、社長に対してこの人事異動はちょっと待ってもらいたい、と自分で異動に賛成しておきながら、保留を申し出る。

これでは、経営などできるものではない。これが、社長のボヤキになって、私ヘの質問になったのである。

常務は、自分の行動が会社にとって大きなマイナスになり、社員のためにもならないことを全く自覚していない。むろん反省などない。不幸なことに、彼のような人間関係病患者に忠告をする人は極めて少ない。このような人に忠告をすることは、自分の分からず屋を証明することになるらしいのである。

部下と話合いをしすぎて

C社の工場長は、社長の弟であり、常務取締役でもある。この工場長も人間関係論者で、人柄は温厚で、常に社内の人間関係に注意し、改善に努力している。

作業環境に不備な点はないか、上司の不行届はないか、というようなことに絶えず気を使い、反省をしている。特に、賃金については、技能や作業条件、貢献度などから見て妥当かどうか、社員の希望はどうか、などを部下と話合い、部下とともに検討している。

この会社の給与ベースは極めて高く、従業員の募集広告の貼紙は、たちまち他社の人にはがされて三日ともつことはないのである。はぐ人から言わせれば、高賃金の募集広告は、ハタ迷惑であるからだ。

ところが、この会社の従業員の最大の不満は賃金にあるのだ。他社よりも高賃金でありながら、なおかつ不満が絶えないのである。不満の原因は工場長と部下との賃金検討にあるのだ。

賃金というものは、何万人の人間が、何十年研究しようと、妥当で公平なものなど発見できるはずがない。人間の手になる限り、万人に納得される賃金制度などあるわけがないのだ。

それを、どこかに不公平はないか、と言われれば、不公平など誰でも幾らでも並べ立てることができるのである。絶えずこのようなことをやっているものだから、社員は賃金に不満を持つのだ。

「眠っている子を起こす」とは、まさにこのことである。他社よりも遥かに高賃金を払っていて「不満はないか」などと聞く必要は毛頭ないのだ。

むろん、賃金は金額だけではなく、「不公平」も不満のもとであることは確かだ。しかし、「絶対公平な賃金」なるものがあり得ないのだから、逆に、「賃金が不公平だという不満もあるだろうが、誰がやっても絶対公平な賃金などできないのだから、こらえてもらいたい」と説得をすることが大切なのである。

賃金についての若い人達の不満は、われわれは、長年勤めている年配の人々と、同じような仕事をして、同じような努力をしている。それにもかかわらず、賃金が先輩と大きく違うのは承服できない、というようなことが多い。

いわゆる、同一労働同一賃金の考え方である。この考え方は、なるほどもっともである。そして、欧米の先進国ではこの考え方に基づく職務給になっている。

そして、たくさんの先生方が、わが国の年功序列型賃金の不合理をとき、職務給や職能給が合理的であると説いてきた。わが国の労働基準法にも、一部この考え方が導入されていることは、私がここで述べるまでもない。

労働組合も、かつてはこの考え方を強く要求した時代があった。けれども最近は、あまりこのことを言わない。ということは、これを本当に導入したら、いちばん困るのは、労働者自身だからだ。

その実証は、欧米の職務給に見られる。わが国の賃金論者は、年功序列型賃金の悪いところと、職務給のいいところだけ説いているのである。こんな片手落ちなことはない。

大切なことは、年功序列型賃金のいいところと悪いところ、職務給の利点と欠点を比較して、それぞれの性格と特徴を知ることであろう。

さらに、企業にとっての影響の違い、労働者の生活にとってどのようなことになるのかまで考えなければならないのである。

賃金は、単に企業に対する貢献度や、職務や、拘束時間に対して払えばいいというような単純なものではないのだ。企業の運命がかかり、労働者の生活がかかっていることをよくよく認識しなければならないのである。

企業に対する影響については、アベグレンの著書「日本経営の探求」(邦訳は東洋経済)、ハーマン・カーンの著書「超大国日本の挑戦」(邦訳はダイヤモンド社)に、年功序列・終身雇傭制への新しい視角として論ぜられているので、それを参照されたい。両氏とも、年功序列・終身雇傭についての数々の利点をあげていることに注目されたいのである。

ここでは労働者の生活に対する影響について述べることとする。

職務給は、職務について賃金が支払われるのであるから何年勤続しようと、ごくわずかしか上がらない。しかし生活費はそうはいかない。結婚をし、子供ができ、子供が大きくなるにつれて、生活費はますます多くかかってゆく、子供が独立して初めて生活費が減るのだ。

生活費は年とともに上昇するのに、賃金はごくわずかしか上がらないのだから、当然そこに生活費の不足が生ずる。この不足を、何かでうめなければ生活できない。これを充足する方法として、まず第一には、上の職階に飛び上がることだ。といっても、これは会社の中のごく一部の人にだけ許されることだ。

いくら能力があっても、空席がなければダメだからである。能力があって昇進できない人達は、新しい天地を求め、自分の能力を高く買ってくれる雇主を求めて、転職したり、あるいは独立してゆく。

しかし、大部分の人達は、昇進も転職も独立もできない。では、この人達はどうやって生活費の不足を補っているのだろうか。

それが、「まで族」(Until)つまり「共かせぎ」である。何故、まで族と言われるかというと、娘が大きくなったから、結婚するまで働かせよう。結婚すると、子供ができるまで働こうとなる。子供ができると、子供が大きくなるまで働こう。子供が大きくなると、働けなくなるまで働こう、というふうになる。何のことはない、一生共かせぎで終ちてしまうのである。共かせぎ以外に生きる道がないとは、何とわびしいことではないか。

それに引き換えて、年功序列型賃金では、能力や努力によって、多少の差はできようと、とにかく年功によって賃金が上がってゆく。

これによって、増大する生活費の相当多くの部分が賄われる。むろん不足はある。しかし、その不足分については一級酒を飲みたいところを、二級酒でがまんする程度のことはしなければならない、そうすれば何とか生活ができるのだ。

年功序列型賃金は、このように労働者の生活にとっては有利なのである。

年功序列型賃金の利点ばかり述べてきたが、私は年功序列型が最もいいと言っているわけではない。前に述べたように、職務給とか年功序列型との、それぞれの利点、欠点を知ったうえで、どうするかを考えてもらいたいのである。

私自身の賃金制度に関する考え方を言えば、わが国の場合には、やはり年功序列型をベースとして、これに企業に対する長期的な貢献度を上のせしてゆくべきである、ということになる。というのは、企業の社会的責任の最も基本的なものは、何と言っても、そこに働く人々の生活を保障することがまず第一であり、それとともに、社会に対するサービスであるというのが私の信ずるところだからである。

このような信条と社長の責任において、自社の賃金制度を、どのようにするか、ということである。つまり、賃金に対する社長の哲学と姿勢をハッキリとさせよ、と言いたいのである。そして、この哲学と姿勢を賃金制度に盛り込むべきである。

よその会社はどうやっているかを聞いて、自分の会社と違うからといって心配したり、無定見のままで、賃金の先生方のすすめる制度をとり入れたりしたのでは、社長の見識を疑われても仕方がないであろう。

部下の自主的な活動に期待したが

0社の0社長から、会社の業績が悪いから手伝ってくれというご依頼である。数年前に、私のセミナーで名刺を交換し、その時は順調らしいお話だったのである。

久しぶりにお目にかかって、社長のお話をうかがっているうちに、これは困ったことだと思った。社長の考え方が全く間違った方向に向いてしまっているのである。

勉強熱心な方で、いろいろ勉強している。そして、人間関係とリーダーシップ論のとりこになってしまったのである。それらの先生方の教えに従って、部下の自主性を重んじ、なるべく任せるようにしてきた。

しかし、その結果はどうであったか。社員は理屈ばかり達者になり、さっばり働かない。少し忙しいと、すぐにブツブツ言い出す。いろいろしゃれた管理方式をとり入れたり、委員会をいろいろ作ったりで、間接部門はふくれ上がり、間接部門の比率が五〇%にも達してしまった。委員会は会議ばかり開いているが、何年来成果はこれといったものはない。毎年人件費だけは確実に上がるが、生産性はさっぱり上がらない。業績は年々低下してゆく。

たまりかねて、部長に指図をすると、「社長がこうしろというのだから」とそのまま社長の言を部下に伝えるだけである。任せてあるのだから、社長から指図を受けたら、社長の意図をくんで、部長としては、どうすべきかを、自分の責任において打ち出してもらいたいのに、全然それをやらない。どうにも会社が回らないので、最近は先生方の教えとは逆に、毎日工場に入って、何から何まで指図している、ということだ。

社長はさらに、今年の上半期の実績を私に示して、この通り赤字である。しかも、下半期に黒字転換の自信はない。何とか手伝ってはもらえないか、という相談である。

私は、お話をうかがいながら、社長が気の毒でならなかった。「ああ、ここにも間違った人間関係論者の言うことを聞いて苦しんでいる人がいる」と。

初めは任せようとして失敗し、今はワンマン・コントロールで動きがとれない。社長にしてみたら、どうしていいか、進退に窮する思いがするのが当然なのである。

しかも上半期が赤字で、それを黒字転換する方策が見つからないとなれば、本当に夜も眠れないであろう。このような悩みを持っている社長が、世の中には実に多いのである。私の所に相談にくる社長さん方のほぼ半分は、いちばんの悩みとして、これに似たようなことを私に訴えるのだ。

こうなってくると、今までの人間関係論は、どこかが間違っているというよりほかないのである。その間違いのもとは、人間関係を経営に優先させてしまったところにあるのだ。人間関係といっても、経営あっての人間関係であり、経営のないところ、経営における人間関係はありえないからである。

経営におけるよい人間関係とは、優れた業績を上げるために役立つものでなければならないのだ。いかに人間関係が立派に見えようとも、それが経営にとって、マイナスになってしまうのではない方がよいのだ。

このことが、観念論者には、全く分からないのである。それは、経営とは何かを知らず、また知ろうとしないところにある。

それらの人々は、人間関係さえうまくいけば、企業の業績が上がると思い込んでいるのだから、どうにも救いようがない。

経営とは、そんな単純なものではない。内外のあらゆる情勢と要因が総合され、合成されて、これが企業の業績を大きく左右するのだ。

人間関係は、企業の内部要因のうちの重要ではあるが、一つにしかすぎないことを知らなければならないのである。といっても、私は人間関係など、どうでもいいと言っているのではない。

それとは全く反対に、人間関係が企業の業績に大きな影響を及ぼすことを、いやという程思い知らされているのである。だからこそ、従来の人間関係は全くといっていい程間違っており、それなればこそ、これが企業の業績に大きなブレーキになっていることを、声を大にして叫ばずにはおられないのである。

といっても、私が真の人間関係を正しくつかんでいるというのではない。ただ私のぶつかる多くの実例から正しい人間関係への模索を私なりにしており、本書がその一端なのである。そして、これからも私の模索は長く続くであろう。

ところで、0社に対してはどういう勧告をしたかというと、『直間比率八〇対二〇を目標として、急いで実施することです。あなたの会社は下請だから、間接人員はそのくらいでやらなければなりません。飾りものにしかすぎない種々の管理体制を切って、素朴な姿になることです。それで、あなたの会社は大黒字に転換します』という、何とも当り前すぎることだったのである。

このような、当り前のことが当り前でなくなっている会社は決して少なくないのである。「マネジメント病」の恐ろしさが、ここにあると言えよう。

部下の立場に立って顧客を無視する

P社の工場長は、熱烈な人間関係論者であった。企業は、何よりも「人の和」が大切であり、そのためには何事も、よく部下と話合って決めなければならないと思っていた。

P社は受注生産なので、営業部員が引合いをもって、工場長のところに納期の相談にくる。工場長は、返答を保留し、部下を集めて納期の相談をするのである。

設計課長は、今設計はこれこれの仕事をこんなに沢山かかえており、どんなに早くても『いついつごろになります』という返答だ。

資材課長も製造課長も、それぞれ家庭の事情を説明して、いつごろでなくてはできない、ということになる。その結果は、長い納期ということになってしまう。

人間は誰しも、自分で言ったことについては、責任を持たなくてはならない。自分で決めた期限に遅れれば、『自分で決めておきながら、何故遅れるのか』と上司から責任を追及されるのに決まっている。

だから、上司から責任を追及されないように、安全な上に更にサバを読んだ期限を返答する。P社の場合も例外ではないそれは相当長い納期であり、お客様の要求からは、はるかに隔たったものになってしまうのであった。

あまりに長すぎるから、何とかもう少し短くならないか、という相談になり、多少納期が短縮される。これは短縮したのではない。工場長の顔を立てて読んでいたサバを縮めただけなのだ。

そうしても、その納期ではとてもお客様の要求に応じられるものではなかった。こうして、P社の納期は常に競争相手より長く、有利な受注などとても望めなかったのである。―この有様を見て私は、これはいけないと思った。こんなことをしていたらたいへんである。

私は、ある日工場長と二人きりで話をした。というよりは、意見をしたのである。その要旨は次のようなものであった。

工場長の人間関係論それ自体は反対ではない。しかしそれが経営に優先してしまうのはいけない。企業はお客様から仕事をいただいて、はじめて食っていけるのだ。ところで、お客様というものは、あなたの会社の内部事情など全然考えない。

考えるのは自分の立場だけなのだ。「これこれの品物を、いつまでに欲しい」という要求を、あなたの会社にしてくるだけなのだ。

当然のこととして、あなたの会社の内部事情と合うはずがない。お客様の要求と食い違う内部事情を、いかにしてお客様の要求に近づけるかを考え、実現させるのが工場長の役目なのだ。

あなたのように、部下の立場に立って、お客の要求を二の次にしてしまうのでは、しまいにはお客様から愛想をつかされてしまう。そうなったら会社は終りだ。

会社を存続させるためには、いかにしてお客様の要求に応えるかを考えるのが第一であり、工場長自らの責任において自らの意志によってお客様に納期の返答をすべきである。

部下の意見を聞かなければ決められないようでは、工場長としては失格である。

激しい競争の中では、必ずしも充分な価格での受注ができるわけではない。しかし一定以上の収益を上げなければやっていけないのであるから、ムリがあろうとなかろうと、やるだけの仕事はやらなければならないのが現実なのである。

そして、それは生やさしいものではない。いかに無理であろうと、これだけの仕事をこなさなければやっていけないということを、よくよく部下に説明し、納得させ、部下といっしょになって、死にもの狂いで努力しなければならないのだ。「部下にムリを言ってはいけない」というのは、遊戯の理論であって、企業戦争の理論ではない』― ‐というようなことであった。

じっと私の言を聞いていた工場長は、『僕が間違っていた。あなたの言う通りだ。今日から改める』とおっしゃった。失礼な程、ズケズケと意見をした私をとがめもせず、謙虚に反省をされたのである。

この時から、工場長は全く変ってしまった。私は、これほどみごとに変った人を、まだ見ていない。本当に立派な人である。

これ以後は、営業部門から引合いに対する納期の相談があると部下にはいっさい相談せずに、『これはOK、これはあと十日遅らせてもらいたい』と即答である。

そして、部下を集めて、『設計はいつまでに出図せよ。資材はいつまでにそろえよ。製造部門はいつまでにあげよ』と部下の意向はいっさい無視して頭から押しつけである。

人間関係論者に言わせると、こういうやり方は最も悪いやり方だそうである。本当にそうだろうか。火付け役が私だけに、結果やいかにと工場長のやり方を後方で見ていたのだ。

はたして設計課長が反撃に出た。工場長の要求はムリである。今、わが部門はこんなにもたくさんの仕事をかかえている。そんなに早くできるわけがない、というのだ。

工場長は、『設計の言うことはよく分かった。その通りだろう。しかし、物事は説明がつけばそれですむというものではない。君達も知っているように、いま、わが社の業績は思わしくない。だから、この次の昇給やボーナスに、わが社の業績はこれこれだ、だから君達にはこれだけの昇給、これだけのボーナスしか出せないと、言ったとしたらどうか。

説明がついたからというので、低い昇給やボーナスで君達は納得するか。たとえ、会社の業績はどうであろうと、君達は世間並の額を要求するはずだ。そして、それはもっともなことなのだ。そして、会社の事情がどうであれ、君達の要求をきかなければならないのだ。

会社の立場だって同じなのだ。お客様あっての会社であり、お客様の要求に応えなければ、会社はやっていけないし、必要な水揚げをしなければ、君達に給料は払えないのだ。できたって、できなくたって、やるだけのことは、やらなければならないのだ』と言って、設計課長の反撃をピタリと押えてしまった。

これでこそ工場長である。私は感服した。『できたって、できなくたって』とは正に名言である。工場長の責任と決意を、この言葉にこめてみごとに部下を説得してしまったのである。

この時から、工場の中の空気は全く変ってしまった。がぜん、工場には活気がみなぎり、生産は上がり出したのである。

私は、工場内の人々の意見を聞いてみた。職長達は、『いままでは、上司からうるさくいろいろなことを聞いてきた。いまの仕事の情況はどうか、遅れないようにやっているか、何か問題はないか、やれ打合せだ、やれ相談だ、とうるさくておちおち仕事をしていられなかった。ところが、最近はそんなことは言われない。この仕事をいつまでにやれ、という指図があるだけだ。その指図はいままでより厳しいけれど、雑音がないから仕事に専念できる。なんぼ風通しがいいかわからない』というような答えが返ってくる。

課長達は『初めは驚きましたが、考えてみると工場長の言うとおりですね。お客様あっての会社ですから』と納得している。ある課長のごときは、ズバリと次のように言ってのけた。

『いままでは、工場長はわれわれに納期を聞いて、われわれに決めさせた。これは、人間関係か何か知らないけれども、明らかに工場長の「責任回避」だ。いったい、工場の納期の責任者は誰なのだ。いうまでもなく工場長なのだ。その工場長が、自分で決めずに、われわれに決めさせる。

納期が遅れれば、その責任は工場長にはなくて、答えた我々にある。だから責任を追及されないように、充分余裕をとった納期を答えていたのだ。ところがいまは違う、工場長が自分の責任で納期を決めている。納期が遅れると工場長の責任である。正しい姿になったのだ。工場長の要求は前よりもずぅときつい。しかし私はなんぼ気持よく仕事ができるかわかりません』と言うのだった。

「人は自らの意志で決め、行動する時に、最も意欲を燃やす」という理論は、その結果に対して、他人に責任を負わない場合のことである。

他人から、ましてや自分の昇給・昇進を左右する上司に対して責任を負わなければならない場合には、まずまっ先に自分の責任と、うまくいかなかった場合の言い訳を用意するものなのだ。

責任を明確にするはずの「責任権限論」が現実には「それは私の責任範囲ではありません。権限をもらっておりません」という責任のがれの「かくれみの」に、いかに多く使われていることだろうか。

このようなことは、人間の「自己防衛本能」であって、極めて自然のことなのである。これが人間性の本質なのだ。人間性の本質を知らずに、人を動かすことはできないのはいうまでもないのだ。

この事例は、人の上に立つ者は、先ず自らが全責任を負うことの正しさと有効性を、われわれに教えてくれる。このようにしてこそ、部下ははじめて、本当の意味での責任を感じて、責任を果たすために懸命に行動するものなのである。

「人の上に立つ者は、自らが全責任を負う」という当り前なことが、間違った人間関係論によってゆがめられて、「部下に相談をせずにワンマン決定をしてはいけない」とか、「部下の立場を無視してはいけない」というような論理となってしまっている。

上司にとって、最も大切なものが、部下の立場を考えることだということになり、上司の責任も、企業の経営も、どこかへいってしまった。本末転倒もはなはだしい。その結果、上司に対する部下の信頼が、かえって薄れてしまうということになるのだ。

この例と全く同じく、ある会社の課長が憤慨して『いったい、うちはお得意様からの注文は誰がとるのか。経営者は部長に聞く、部長はわれわれ課長に聞く、われわれがイエス、ノーを答えると、それがそのまま、部長・経営者を経てお得意に返ってゆく。こんな経営者や部長のもとで働くなんて頼りなくて、全くいやになる』と、私にぶちまけたことがある。

部下の信頼を失うだけならまだがまんもできよう。それより恐ろしいのは、こんな経営者は会社をつぶすのである。

経営者は、企業あっての人間関係であることを忘れないでもらいたい。人間関係あっての企業ではないのである。

経営者にとっての最大のつとめは、いつ、いかなる時にも、企業をあらゆる危険から守り、存続させることなのである。

だからこそ、会社を存続させるための条件を、自らの責任と意志で決定し、それを部下に示して協力を求めなければならない。そして、それは過去の実績からみたら、常に不可能なのだ。猛烈な賃金の上昇がその元凶である。

過去においては不可能であったことを、何が何でも可能なものに変質させていかなければ、会社はやっていけないのだ。

この現実を直視し、社員を説得して動機づけを行ない、必要な収益を上げていかなければならないのである。社員の意見を聞き、これに従っていたら間違いなく会社をつぶしてしまうのである。

人間関係病

人間関係病は、戦後のわが国の企業体内に深く入りこんでしまった。まことにやっかいな病気である。

人間関係病の症状は、まず第一に摩擦を極端に罪悪視する。第二には何事も部下と相談しなければならないとして、部下のほうが上司より偉くなってしまう。第二には不平不満が勤労意欲を低下させる、という神話である。

だから、上司は常に部下の気持をまず第一に尊重しなければならない、ということになる。ある社長のごときは、 一人の女事務員の部長批判をとりあげて、その部長に警告を発するというところまで重症に陥り、ある社長は、重大な自社の新事業の方向づけもやらずに、定期的に職長との会合を持つという本末転倒を自覚せずにいる。

このような事実にぶつかると、全くやりきれない気持になる。これでは社長の重大な責任を果たすことなど思いも及ばなくなる。

社長の任務は、激変する企業環境に対処し、激しい競争に打ちかって、企業を存続させることにある。だから社長の関心と努力の最大なものは、常に「企業外」になければならないのだ。

それは、船長の任務が、航行の安全と、正しい航路の維持にあるのと全く同じである。潮流や風の具合を見て、進路やスピードを指示する。暴風雨や危険な海峡、入出港などの重大時には、自ら船橋に立って指揮をする。このような時の船長の指図は、すべて「船外」の状況を見て下されるのである。もしも、このような重大時に、船員との話合いや「船内」の事情に関心を向けたら、船はどうなるか分かったものではない。

社長も全く同様である。「社内」の事情に目を向けて、「社外」に目を向けることを怠ったら、たいへんなことになるのだ。

企業経営の本質も、社長の役割も、人間関係論者は全く知らないのだ。そんなやつの言うことを真に受けて、社長が部下に関心を向けてしまったら、もう終りである。彼等人間関係論者の主張は、ひたすら社員だけの立場とか関心だけなのだ。そして、社員の人間関係を企業に優先させてしまっているところに、根本的な誤りがある。

企業は、社員の立場を尊重し、人間関係をよくすれば繁栄する、という程ばかげた理論はない。極端に人間関係が悪い場合は別として、社員の人間関係は企業の運命にはあまり関係がない。逆に、あまり人間関係に関心を持ちすぎることこそ、実は危険なのである(次章、「摩擦なき企業の危険」を参照されたし)。

彼等の主張する人間関係論のもとは、四十年前に、アメリカのシカゴ郊外にあるウェスタン・エレクトリック社のホーソンエ場において行なわれた実験をまとめた、いわゆる「ホーソン効果」にある。ホーソン効果は、最末端の女子組立工数名に対する三年程の実験と観察をまとめたものであって、それ以外の何物でもない。企業の経営とか管理者の職務や責任とは別の事柄なのである。

それを、最末端の観察だけで得た結論を、上は社長にまで拡大してしまったところに誤りがある。だから、ホーソン効果には、上司の職務や責任、企業経営などという思想はない。ないだけならまだがまんができる。それを、あたかも人間関係が企業経営に最も大切なもののごとくに拡大解釈する人々が多すぎるのだから、度し難いのである。

ホーソン効果は、本来の姿に返って、「最末端」だけに止めるべきなのである。

しかし、私に言わせたならば、日本とアメリカの土壌の違いを考えたならば、何もあんなに神経質に部下の気持を考えてやる必要はないのである。

アメリカは、さまざまな人種のるつぼである。宗教・言語・風俗・習慣・食物など、全く違うたくさんの人達が同じ職場で働いている。なかには米語もろくに話せない者もいれば、文盲もいる。それらの労働者を一つにまとめるのは容易なことではない。

それに加えてレイ・オフ(一時解雇)がある。そのレイ・オフは、いわゆる先任権があって、勤続の短い者から優先的に解雇されてゆく。アメリカの労働者は、解雇されることを極度に恐れる(自由転職というのは、能力のある、ごく一部の人々にのみ許されたものであるが、大多数の労働者にその自由はないのだ)。解雇されれば、再び雇われても、先任権はない、次のレイ。オフの時には、優先解雇の対象にされるからだ。

アメリカの労働者は、いつもこの不安の中で、上司の顔色を見ながら、上司は自分をどう思っているかを絶えず気にかけて、戦々恐々としているのだ。

このような労働者に、アンケートをとっても、本当のことを答えるわけがない。労働者のいちばん欲しいものは、アメリカの場合は、明らかに賃金である。

その理由は、すでに、「まで族」として述べておいた通りである。それにもかかわらず、喉から手の出る程欲しい賃金も、それに対する不満をのべて、もしも上司にニラマレたらたいへんだから、本当のことは答えない。不満の二番目くらいのところに賃金がくるようになるのは、そのためである。

それを人間関係論者は、「人はパンのみに生きるにあらず。何となれば、アンケー卜でいちばんの不満は賃金ではない」という。何と単細胞な結論ではないか。生きがいがパンだけでないのは、人間である限り当り前のことであり、収入の多い少ないとは全く別の事柄ではないか。右のような理論は自分の主張を裏付けるための、こじつけ以外の何物でもないのだ。

それよりも、いちばん欲しい賃金が、アンケートでは二番目あたりにくるという事実こそ注目しなければならないのだ。労働者がいかに上役の目を恐れているか、の証拠だからだ。

そのような環境と心理状態にある労働者を安心して働かせ、そのうえ、「君達は会社にとって必要なのだよ」ということを分からせるためには、日本人とは比較にならないいろいろな苦労があるのは、想像に難くない。

だから、部下に対しては、こちらから挨拶するとか、声をかけてやるとか、といういわゆる「ニコポン主義」(ニッコリ笑って、ポンと肩をたたく)になるだろうし、カウンセラー・システムで、不満やストレスを解消してやることも大切であろう。しかし、それはアメリカのことであって、日本のことではないのだ(そのアメリカにおいてさえも、「ホーソン効果」に対する批判は、決して少なくないのである)。

ましてや、アメリカと全く土壌の違う日本においてをや、である。わが国は歴史始まって以来、 一つの国土に一つの民族が(若千の混血があるけれど)同じ言葉、同じ習慣、同じ食物によって、生き続けてきたのである。建国の歴史からして、アメリカとは全く反対なのである。

アメリカとは全く反対の日本の土壌に、アメリカ式の人間関係論をそのまま持ちこむこと自体、無茶な話である。意志の疎通に異常な努力をしなければならないアメリカの「ニコポン主義」は、日本には必要がないのだ。同じ言葉、そして世界に冠たる教育普及度によって、文字を読んだり、書いたりできない人こそ例外の日本人同士に、アメリカ式の「ニコポン主義」こそ、空々しいのである。なまじ、丁寧なあいさつや、親しげな態度こそ、むしろ冷たさを感じさせる場合が少なくないのだ。

「オス」という一言で意志が通じるのが、日本人同士ではないか。通りすがりに、何も言わずに相手の尻を叩いていくだけで気持が通ずるのだ。だから、お互の気持を通じ合わせることに、必要以上の神経を使うことは、止めたほうがよい。

このような認識の上に立って、社長は自らの姿勢を示すことに、もっともっと努力しなければならないのである。

自らの姿勢も示さずに、社員の気持を聞くことは、あまり意味がないばかりか、肝心な経営そのものがおろそかになることを知らなければならない。

摩擦なき企業の危険

I氏は、私の尊敬する先輩の一人である。ただし、それは、I氏の立派な人柄についてであって、社長としては何としてもいただけない。人柄が立派だということと、社長として立派だということは、全く別である。

I氏は、米軍関係の仕事に携わっていたことがあるために、その行動は極めてアメリカ的である。終業時刻になれば、重役の身でありながら、さっさと退社してしまう。終業時刻以後に会社で姿を見かけたことは一度もない。

I氏も、アメリカ式の人間関係論者であり、何事も部下と相談した後でなければ決定しない。

後に独立して社長になっても、この態度は変らなかった。すべてのことについて、部下に相談をかけるし、部下の立場をよく考えて決定するので、部下は社長に心服し、会社内は常に和気アイアイであった。摩擦など全くなかったのである。

しかし、会社の業績は常に悪かった。部下は、社長からの相談があると、もしもそれが何等かの危険があったり、困難が予想される時には、自分本位の発言をし、自分が悪者になったり、不利な立場にならないような予防線をはる。― ―これは、社員が無責任なのではない。人間とはそのようなものであり、極めて自然のことなのである。

このような状態であるから、この会社の決定と社員の行動は常に安全第一であり、易きについてしまった。これで業績が上がるはずがない。

企業経営は遊戯ではない。戦争なのだ。戦争相手よりも打つ手が劣れば、それだけ業績は悪くなり、後手を踏めば相手に収益をさらわれてしまう。

社長の決定は、社員の意見で決めるのではなくて、お客の要求と、競争相手の出かたを見て決めるのだ。そして、収益を上げる可能性の多い決定程、その反面に危険が伴ない、それを実現するための困難は大きいのである。

この現実に背を向けて、部下の方を向いてしまい部下の立場から安全。安易な決定をして、業績が上がるはずがない。I氏の考え方が間違っているのである。業績不振の責任は、I氏が一身に負うべきであって、社員には責任がない。このようにして、I氏の会社は、創業以来業績に見るべきものは全くなく、三年を待たずして倒産してしまったのである。

「摩擦」という言葉は、人間関係論者の最もきらう言葉である。「仲よくする」ことが最上だというのだ。はたして「人の和」が最上なのであろうか。

十人十色、様々な考え方や感情を持った人間が、事を行なう時に、摩擦や意見の相違があることこそ自然なのであって、これこそ健康な状態である。人間が生き物である限り、摩擦のないことこそ、不自然極まりない状態なのだ。

ところが、人間関係論者に言わせると、摩擦は危険な状態だというのだ。そして、摩擦を起こさないようにするには、どうしたらいいかを、いろいると教えてくれる。

この教えには説得力がある。誰でも、摩擦がない方が気持がいいからだ。それ故に、人間関係論は日本の企業内に広く深く浸透した。そして、表面的には、摩擦を少なくして、住み心地をよくするという効果を上げた。

しかしその反面に、部下の気持ちを考えて自らの個性を殺し、多数の意見に同調するという、腰抜け幹部を多数作りあげたことも、まぎれもない事実である。

この事実こそ恐ろしいのだ。摩擦を防ぐことが第一義になって、肝心の企業経営は第二義的なものというよりは、無視されてしまう。

人々の関心と努力が摩擦を防ぐことに注がれて、業績から目をそらしてしまうのである。いったい、人間関係論者は、何故あんなにも摩擦を恐れるのだろうか、それは、摩擦がチーム・ワークを悪くし、生産性を低下させるからだ、と信じこんでしまっているからである。たしかにそうである。しかしそれらは、最末端の人々の日常の仕事の成果についてであって、企業の成果を根本的に左右するものではない。

人間関係論者は……だけではなく、現在のマネジメント論者の大半が……最末端の労働者の生産性とか能率が、企業の成果に大きな影響を与えると思いこんでしまっている。というのは、彼等は経営とは何であり、その成果を基本的に左右するものは何かを、全く知らないからである。能率のよし悪しが、企業の成果に及ぼす影響は、それ程大きなものではないのだ。

経営を知らないものが経営を論ずるのだから、このように全く見当違いになってしまうのである。企業の成果を基本的に左右する要因は、企業の内部にあるのではなくて、企業の外部にあるのだ。

昭和四十八年に、突如として起こった石油ショックは、狂乱インフレを引き起し、高度成長から一転して低成長時代となり、国内の消費不振、円高などの外圧がいかにわが国の企業に甚大な影響を及ぼしたか、を見れば分かる。これらはいずれも企業外のことではないか。

この実例に見られるごとく、企業の外部要因の変化と、これに伴って変ってゆくお客の要求こそ、企業にとって重大事なのだ。私は、社内の人間関係など、どうでもいいと言っているのではない。企業の成果に及ぼす影響について言っているのだ。

変転する外部情勢の変化とお客の要求に、いかに対処し、いかに応えてゆくか、が企業の運命を基本的に決めてしまうのである。とするならば、経営者の第一の、そして最大の関心は、常に外部情勢の変化であり、お客の要求の変化でなければならない。

それらの変化を見つけ出し、それが自社にどのような影響を及ぼすか、その影響にどのように対処しなければならないか、を決めてゆかなければならないのだ。

このように、企業は外部の変化に合わせて、常に自らを変えてゆかなければ生きていけない。たえず自らを変えるということは、生やさしいことではない。これを行なうときには、必ずといってよい程、内部の抵抗があり、摩擦が発生するのだ。

摩擦がないような内部の変更は革新ではない。これから成果の増大を期待することなどできない相談である。優れた革新ほど批判や摩擦が多く、人々を苦しませるものなのだ。

摩擦なき革新はありえず、革新なくして企業は生きられないならば、好ましいことではないけれどもがまんしなければならない。というよりは、「摩擦こそ進歩の母、積極の肥料」(「電通鬼十訓より」)であることを肝に銘じて、摩擦を恐れてはならない。

逆説的にこれを言うならば、企業体内に良好な人間関係が維持されているということは、その企業体において革新が行なわれていない実証である。

ということは、生き残るための死にもの狂いの努力がないことであり、企業が倒産に向かって、バク進している姿そのものなのである。企業において最も危険な状態は、摩擦があることではなくて、実は良好な人間関係が維持されていることなのである。

不平不満はなくせない

「知能指数とは、知能検査によって計られたもの」という皮肉がある。この伝でいけば、「モラールとはモラール・サーベイによって計られたもの」であって、勤労意欲のことではない。

モラール・サーベイという、アンケートの結果をそのまま信用すること自体ナンセンスである。人は決して本心をそのまま答えない。「どう答えたら、自分に有利か」ということを考えて答えるのである。

アンケートは、右のことを承知の上で、その裏を読むべきものなのだ。このことが分からないならば、アンケートなどとらないほうがよいのだ。

アンケートの結果をそのまま信じこむなど、まだいい方だ。結果の判定に全くの誤りをおかしていることがいろいろある。

その最たるものに「あなたは、自分の給料に満足していますか」というのがある。これこそ、世界一の大愚問である。

自分の給料に満足しているやつは、馬鹿か、気狂いか、聖人以外にあるはずがない。このような給料満足居士こそ、実は企業にとっては使いものにならないのだ。

それを、給料に不満を持っているのは、モラールが低いというのだ。全く、あきれかえるばかりである。そこにあるのは、「不満即ち勤労意欲低下」という公式であって、これを機械的に当てはめるだけだからである。

人間は、給料に対して前向きの不満があるからこそ、働く意欲を持つのだ。高給をもらっていれば処遇には満足しているかもしれないが、給料の額そのものに満足しているはずがない。アンケートは、この意味でも極めてアイマイである。

人間は、満足感を持てば、その瞬問から働かなくなり、進歩も止まる。人間とは、このようなやっかいな動物なのだ。だから、満足感を満たすことによって、動機づけをしようとすること自体、「木によって魚を求める」ことに外ならないのだ。

この全くの見当違いを、全然気付いていない人間関係論者の脳味噌は、いったいどんな構造になっているのだろうか。たくさんの企業で、人間関係論者の教えに基づいて、不平不満をなくすことに懸命になっている。

不平不満のもとになりそうなことを、洗いざらい拾いあげて、不満を予防しようとし、万一不満が起こったら、何をおいてもこれを解決しなければならないと思いこまされている。

さらに、不満をなくすためには、物理的条件の整備が大切だといって、福利厚生施設の完備に努め、これをやらないと、人間関係の無理解者の烙印を押されかねない。

たまりかねた経営者に、「会社は遊園地ではない」(「学歴無用論」―盛田昭夫著)とまで言わせる程、病は膏盲に入ってしまっている。

ところで、そのような懸命の努力にもかかわらず、不平不満がなくなったという話は聞いたことがない。不平不満は、それが解決されれば、その当座は満足する。

しかし、しばらくするとまた新たな不満を持ち出す。人間の欲望には、きりがないからだ。だから、永久に満足は与えられないし、もし満足することがあれば、その瞬問から人間は働かなくなってしまう。

だから、満足を与えようとすること自体、はてしないムダな努力であり、満足させることが万々一できたとしたら、それは、満足感を与えようとしたそもそもの目的である動機づけそのものが全く不可能になってしまうのである。

われわれは、満足感を与えようとすることのムダと空しさを知らなければならないのだ。

ところで、人間はどのような時に不平不満を持つものだろうか。その一例について、昭和四十二年に行なわれた昭和基地の越冬隊による「南極点旅行隊」の実例に教わってみよう。

施設の完備に努め、これをやらないと、人間関係の無理解者の烙印を押されかねない。たまりかねた経営者に、「会社は遊園地ではない」(「学歴無用論」―盛田昭夫著)とまで言わせる程、病は膏盲に入ってしまっている。

だから、満足を与えようとすること自体、はてしないムダな努力であり、満足させることが万々一できたとしたら、それは、満足感を与えようとしたそもそもの目的である動機づけそのものが全く不可能になってしまうのである。われわれは、満足感を与えようとすることのムダと空しさを知らなければならないのだ。

ところで、人間はどのような時に不平不満を持つものだろうか。その一例について、昭和四十二年に行なわれた昭和基地の越冬隊による「南極点旅行隊」の実例に教わってみよう。

四カ月間にもわたる大旅行の最大の難関は、プラトー基地に辿りつく前の二週間であった。

標高三千米以上の稀薄な空気、しかも昇り坂、零下六十度に近い酷寒の中で、ブリザードに襲われ、雪地獄にはまりこんで、どうにもならない雪上車。鉄ソリは折れる。ついには、四台の雪上車のうちの一台は全く動かなくなって、捨てなければならなかった。その雪上車に積載していた荷物を、残りの三両に積み増しして、負担は一段と重くなる。眠る間も、休む間もないような悪戦苦闘の末に、ようやくのことでプラトー基地にころげこんだのである。

プラトー基地で一体みした以後の旅行は順調だった。天候は回復し、気温は上がり、下り坂で時には雪上車の変速機はサードに入ったりした。環境が順調になると、まず食事に対する不満が起こり、ちょっとしたことでも、空気がトゲトゲしくなったのである。

同じ人間が、プラトー基地に辿りつく前の二週間の悪戦苦闘の間には、食事に対する不満どころか、食事をする間も惜しんで、難関突破に全員一致して死力を尽したのである。「人間とは奇妙な動物だ」― ‐という隊員の述懐である。

人間関係論者の主張とは逆に、不満は物理的環境が悪い時には起こらず、よくなった時に起こっているのである。

不平不満は、物理的環境とは関係ない。心構えの違いによって起こるものなのだ、ということを、この事実は物語っている。

それを、不平不満は物理的環境が重要な要素であると思いこんでいる人間関係論者の主張こそ、全くの見当外れなのである。

心構えこそ重要なのである。そして心構えの悪くなるのは、むしろ快適な環境、ゆとりのある時なのである。

立派な本社ビルを建てると、かえって不満とホンワカ・ムードが高まることは、しばしばである。ある会社で、納期遅れを調べたところ、納期の充分あるものに納期遅れが多いことを発見したことがある。

納期が充分あると、誰も安心している。気がついた時には、もう納期に間に合わなくなっていたのである。また、ある会社では、閑散時に怪我が多く、繁忙期にかえって少なかったという例もある。

以上、何れも心構えの問題なのである。だから、経営者たるものは、会社の「遊園地化」を心掛けることは止めて、安全、衛生、公害防止こそ大切な施策であると心得なければならないのである。

従業員の心構えを正しいものにするには、厳しい企業環境をよく認識させ、その中で生き残るための経営者の決意をよく説明するとともに、従業員を信頼し、その協力を得ることを期待していることを、強調することなのである。

前述した通り、日本人は、現在自分の勤めている会社に一生を託している。― 会社を替わるのは、 一生を託すに足る会社を求めて替わるのだ。― だから、自分の会社の社長が、会社の将来につき、あるいは現在のピンチの打開について、腹を割って協力を求めた時には、ごく一部のヘソ曲りや気力のないもの……これは、どのような会社にも必ずいる……を除いて、社長の要請に答えて立ち上がるのである。

一つには、自分の将来を決める会社のため……つまり自分のため……に、もう一つは、社長の自分達への信頼と期待に答えるためである。

もう、そうなってくると、昇給やボーナスの少ないことも、仕事のきついことも、物理的条件の悪いことも、あまり問題ではなくなるのである。それどころか、それらの悪条件が、逆にファイトを燃やし、人々の団結を高める要因にさえなることがあるのだ。

とはいえ、いつでもこのような状態でいいわけがない。目標を達成したり、ピンチを切り抜けたら、人々らの功績には充分に報いてやらなければならないのは、言うまでもない。そうなったら、またホンワカ・ムードが出るのではないか。……南極点旅行隊のように……となる。

いったい、人々の動機づけを、よい時も悪い時も恒常的に保ち続けるにはどうしたらいいのだろうか、これについては、本書の最後に改めて詳述することとする。

能力に合った仕事を与えることなど、できない相談である

人間関係論の先生方は、二言目には「部下の能力に合った仕事を与えなさい。部下に無理を言ってはいけません」と教えてくれる。

甚だもっともらしくて、正論に思えるけれども、こんな馬鹿げた理論はない。この論法でいくと、部下の能力を知りつくさないと、部下をうまく使えない、ということになる。そこで、懸命に部下の能力を知ろうと努力する。ここに先ず第一の、そして根本的な間違いがある。

その間違いは、「部下をうまく使うことが、うまい経営である」という考え方である。この考え方がいかに深く根強いものであるかは、「経営学」と称する文献の、最も大きな部分を占めていることをみるだけで充分である。

「うまい人使い」は、うまい経営のための大切な要因ではあっても、「うまい経営」ではない。私は「下手な人使い」で、「うまい経営」をやっている会社を数多く知っている。

L社はその一例である。役員は完全に二つに分かれてほとんど口をきかずに、仕事のことは文書でやりとりをする。相手の要求が気に入らなければ、というより気に入らないことの方が多いらしいのだが、陰にこもったいやがらせや反対、そこまでいかなくともお互に相手のアラを探し、不協力である。

社内もむろん二派に分かれて、足の引っぱり合いをやっている。モラル・サーベイの結果は言うまでもなく最低なのだ。

納期は遅れ放題、サービス・パーツなど全く間に合わない。このL社が、すばらしい業績を上げているのである。管轄の税務署のランクでは、同規模企業のトップ・クラスなのである。

その秘密は、L社の「事業」にあるのだ。某業界で、断然たる強味を誇っている。国内占有率九〇%、輸出占有率九九%というのだから恐れ入るばかりである。

L社で、もしもトップの意志が統一されており、社内の人間関係がよければ、もっと業績を上げられるのは、言うまでもないであろう。このことは、人間関係が悪いからといって、それだけで会社の業績が上がらないということではない、上がり方がいくらか押えられるということなのである。

人間関係とは、それくらいの力しかないものなのだ。その人間関係とは、「ホーソン効果」流の人間関係なのであって、真の人間こそ、企業の推進力であることは、間違いのない事実なのである。

伝統的な人間関係論の教えるところの、「能力に合った仕事を与える」という思想は、明らかにピント外れなのである。それだけではない。

「能力に合った仕事」を与えようとすると、逆に人間の能力を殺してしまうという「自家中毒」を起こしてしまうのである。

人間が、他人の能力をそれがたとえ部下であろうと、後輩であろうと、本当に知ることができるのだろうか。他人の能力どころか、自分の能力さえ本当に分かってはいないというのが本当ではなかろうか。自分の能力はこれこれであると断言できる人こそ、例外中の例外なのである。

神様以外に分かるはずもない他人の能力を分かったという前提のもとに、能力に合った仕事を与えるというのだから、あきれ返るばかりである。神様しか分からない他人の能力を、分かったとすること自体、思い上がりも甚だしい。

それだけではない。部下の能力はこれこれであると決めつけることは、裏から言えば、部下の能力はこれだけしかないと断定することである。これが、人間侮辱でなくて何であろうか。

「お前の能力は、これこれしかないのですよ」と言われて、怒りもせず「ショツ」も受けずに受け取れる人間など悟りを開いた禅僧ならいざしらず、あるはずがないではないか。

人間性尊重に見える思想も、その本質は「人間侮辱」の最たるものの一つなのである。

さらに、別の面から考えてみよう。人間は、自他ともに能力に合った(と思われる)仕事を与えられて、これをやりとげた時に、果たして本当の喜びを感ずるであろうか。能力に合った仕事をやったところで、それは当り前である。

当り前のことに、喜びを感ずるはずがない。それに反して、自他ともに「ムリ」だと思われるような難しい仕事を、上司から与えられて、つき放され、時には上司をうらみがましく思いながらも、死ぬような苦しみの末に、仕事を完遂した時にこそ、人間は本当の喜びを感ずるものなのだ。

この時には、上司へのうらみがましい気持は消えて、むしろ上司に、そのような機会を与えてもらったことを感謝するのが人間ではないだろうか。

それだけではない。「俺はこんな難しいことをやり遂げる能力を持っていたのだ」という自信は、それ以後の彼の行動を大きく変えるであろう。これこそ、真の意味での「人間尊重」であり、部下に対する愛情なのである。

部下がかわいかったら、部下の隠れた能力を信じ、むりと思われるような難事を押しつけて、つき放し、物かげから、ジッと見守ってやることである。もしも、やり遂げることができなかった場合には、別の違った難題を吹っかけて、再び機会を与えてやることこそ、人間愛なのだ。

「獅子は我子を谷底につき落とす」、「可愛い子に旅をさせよ」という、日本古来からの諺は、何百年にわたる、人間の英智の節を通って生き残ったものであり、真理だからこそ、生き残ったのである。

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