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三 果断を求めるなら自ら示せ

いまでもよく使われる言葉に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」がある。

後漢のはじめ「漢書」を著した班彪の子として生まれた班超は二人の兄妹とともに清貧の家に育った。家計を助けるため役所勤めをしていたが、なんとか手柄をたてて世に出たいと考えていた。

そして、西域の部善という国(楼蘭)を屈服させて手柄にしようと同志三十六人とともに出かけた。

最初のうちは部善王の広も大国漢の使者ということで手厚く過してくれたがある日突然待遇が悪くなった。部善は西域交通の要衝にあり、匈奴もつねづね支配下に狙っていた。われわれには秘しているが、匈奴の使者がきたに違いない。早速、壮士の一人にさぐらせてみると想像どおり。そこで班超は同志三十六人を広間に集め、ことの次第を告げて宴を張った。

「このまま手をこまねいていては部善の術中におちいり、匈奴の国に送られ、狼の餌食にされるだろう。″虎穴に入らずんば虎子を得ず″。匈奴の宿合に火を放って夜襲をしかけよう」ということで宿舎に火を放った。そして三十六人、 鼓をならし、関の声をあげて突入し、数倍の敵を皆殺しにしてしまった。このため、部善までが屈服してしまったという。後に班超は西域政策に多くの功を立て西域総督に昇進している。果断の勇がもたらした功といえるだろう。

次に三国志を飾る故事に「赤壁の戦い」がある。三国志は、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権が相争った史書である。

魏の曹操は、劉備、孫権が同盟を結んだのを知ると水上軍八十万の大軍を率いて、呉において一大決戦をしようと申し入れてきた。孫権がその手紙を多くの臣に示したところ、 一同恐れて顔色を変えない者はなかった。

張昭という巨などは、ここは戦わないで、曹操将軍を歓迎して和睦しようと主張した。これに反対したのが魯粛。

そのまえに周喩将軍の意見をきいてはどうか、ということになって周喩がよばれた。

周喩は「どうか私に数万の精兵を与えて下さい。これを率いて夏口に進軍し、孫権将軍のために、これを討ち破ることを誓いましょう」と。これをきくや孫権は、断乎曹操を迎え撃つ決心を固め、腰の剣を抜くや奏案(上奏文を置く机)を断ち割り「諸将や役人たちで、どうしても曹操を歓迎しようという者はこの机と同じく切り捨てるぞ」と叫んで周喩に精兵三万を与え赤壁に向かわせた。周喩は部下の黄蓋の計を用いて魏の艦船を焼き討ちにして全滅させた。

その後曹操は度々出兵したが呉を征服することはできなかった。曹操がため息をついて言ったことがある。

「子を生まば当にたいものだ)と。孫仲謀の如くなるべし」(もし、子を生むならば孫権のようなのを生み乱世の姦雄といわれた曹操も孫権の果断の勇には及ばなかったわけである。難事にあたって、突破する勇のでないものは死を選ぶようなもので後々の笑い草になるだけである。

銀行時代に、ある鉄鋼会社から融資の申込みをうけた。社長直々の来行であったが話をきくと、「財務部長からいわれたから来た」と呑気なことを言っている。ところが、銀行のみるところ、容易でない事態に陥っている。とことんまで追いつめられてから社長の耳に入れたらしい。緊急対策を講ずべきだと話した。

社長はことの急を知って会社へ帰り、役員を召集して緊急取締役会を開いた。「当社の非常事態宣言をする。直ちに、対策を決定し実行に移す」といって、本社ビルを敷金をとって賃貸することにし、本社機能を地方工場に移すことにした。その早わざが効を奏してピンチをきり抜けている。

後日、その社長曰く「銀行の融資拒絶は村正の名刀よりも鋭い」といっていたので「銀行の融資、社長の決断に如かずですよ」といって笑い合ったことがある。

熟慮断行ということがある。まかり間違えば会社の存立にかかわる、という場合は熟慮も必要だが日常業務では、まずそういうことはない。間違っても取り返しのつくこと、やり直しても足りることである。しかも権限は自分の手中にあるにもかかわらず熟慮、念には念を入れての美名にかくれて一日延ばしにしている者もある。それ以上に困るのは熟慮不断行である。このようなトップのもとでは幹部もまた権限内の決済を自ら決められない者が多くなる。

与えられた権力を行使するのが長のつく者の任務である。組織内の長に果断の勇を求めようとするなら、まず社長自ら範を垂れるべきである。この勇が組織の活性化の先達となることを知っておかねばならない。

歴史上のあらゆる瞬間は短いものであるが、この短い瞬間を巧みに生かした者のみに勝利の栄冠は与えられるのである。

また次の言葉も銘記しておきたい。
よる          すなわ ぼうぎよかた                              みんしん
「士気振わざれば、則ち防禦固からず。防禦固からざれば、則ち民心も亦モ固きこと能わず。

然れどもその士気を振起するは、人主の自ら奮いて以て率先をなすにあり」(士気衰えては防禦も堅固にできず、堅固でなければ団結心も強固でなくなる。士気を盛りあげるには統率者が自ら奮い起って先頭に立ち手本を示す以外にない)言志四録。この言葉を地でいった名将がある。北宋の秋青である。

宋時代は南北合わせて三百年以上の命脈を保ったが、漢民族の劣勢、匈奴、異民族の隆盛時代といえる時であった。

ここでのべる荻青は、 一兵卒から身を起し、ついに軍事長官にまで昇った人である。当時としては例外中の例外といえるほどの昇進は、偶然ではない。それを可能にしたのは、三度の戦いで、抜群の功をたて全軍に知られるようになったからである。

学歴、地位も財もない一兵卒が上から認められるには功績をあげる以外にない。言い換えれば、知を用い、勇をふるうことが昇進への道なのである。

あるとき、南方で大規模な反乱が起った。これを鎮圧する大役を買って出たときである。都からひきつれていく部下は数百騎と近衛軍の一部に過ぎず、現地の政府軍を指揮下におくことになる。

ところが、現地へ行って驚いた。反乱軍の勢いに恐れを抱いて全く戦意を失なっている。これでは、率いる者の戦意が旺盛でも勝つことはできない。そこで、狭青は一計を案じた。まず、住民が信仰している廟で部下とともに戦勝を祈願した。そのあとで、こう話した。

「ここに銅銭百枚ある。これを地面に放り投げる。一枚残らず表が出たら、われわれの勝利、疑いなしじゃ」。聞いていた部将たちは「そんな子供だましのことはやめて下さい」といったが、狭青は「いや、せっかくの機会だから神のお告げを確かめてみたい」といって銅銭を地面に投げた。

ところが驚いたことに百枚とも表と出た。将兵も、見ていた民衆もいっせいにどよめきの声をあげた。その日のうちに広くうわさが拡がり「神様のお告げで官軍が勝つ」ということで、将兵、住民の士気は一気に高まった。そのあとで狭青は、投げた銅銭を釘で固定させ、凱旋した後にそれを回収する、と告げた。

反乱軍を鎮圧し、帰途のとき、桂州に寄って廟にお礼の祈りを捧げて、銅銭を回収したが、その銅銭には裏、表も同じ文字が刻まれていた。演出効果満点ということになる。

このような昔話を書くと、いかにも、いまどき、そんなことを信ずる者はない、というが、大学志望の若人が神社に絵馬を奉納し、国民の代表を任じている国会議員がダルマに目を入れている。人の心は何千年たっても変わっていないようである。狭青はまたよく学んだ。

宰相の花仲掩から「将、古今を知らぎるは、匹夫の勇のみ」といわれて「春秋左氏伝」という春秋時代の治乱興亡をまとめた歴史書を与えられたとき、学のない自分を顧みて、素直にそれを受けた、とある。

「節を折りて書を読み、 悉く秦漢以来の将帥の兵法に通じ、これに由りて益ます名を知らる」と。つまり、意地や、独りよがりを捨てて書を読み、歴史を学ぶということで、敵も恐れる勇将の一面、きわめて謙虚であったといえる。

また、狭青の顔には入墨があった。宋代には兵の逃亡を防ぐため入墨をする習慣があった。名誉なことではない。とくに将軍ともなればかくしたくもなる。これを心配した皇帝が、薬で入墨をとり去るよう命じた。

狭青は「陛下は功によって自分を抜櫂してくださった。低い身分など問題にしないで、自分が今日あるのはこの入墨があったからこそです。入墨はこのままにしておき全軍の手本として勧めたい」といってあえて詔を奉じなかった、という。いまどき、 エリートを鼻にかけている人間には耳のいたい話である。

狭青とともに、ある地方の平定作戦を指揮した孫洒は「私は狭青に、始めはその勇気に感服し、のちには、その人柄のよさに打たれ、自分など足もとにも及ばない、と感心した」といっている。

それに荻青の第一に重んじたことは「先ず部伍を正し、賞罰を明らかにす」ということで、軍の綱紀を確立することにあった。

その反面、飢え、寒さの苦をともにし、たてた手柄はことごとく部下にゆずった。このため部下は狭青のためならばと奮い立ち、勇敢に戦ったという。さきに「将、古今を知らざるは、匹夫の勇のみ」とのべたが、古今の歴史のなかに、勇将のすべては部下を思いやる心の持主であったことを知るだろう。

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