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七信賞必罰

部下を統率する術は、権力、威厳を振る舞うだけが能ではない。

これを妙手とするなら、飯場の親方か夜盗の頭目で足りることになる。孫子の兵法に、「百戦百勝は、善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」とあるが、部下を自然に納得させ従わせることが最高といえよう。

では、どうすればそうなるか。それは信賞必罰である。賞に値する者は必ず賞し、罰すべきは必ず罰することである。さらに、より好ましくは、罰を次第に減らすことといえる。

言志四録に、褒めること七、叱り罰すること三の割がよいとあるが、この数字にこだわることはないとしても、人間誰にしても、怒られてやる気や改める気になるよりも、褒められて一層励もうと考え改めようと思うことの方が多い。褒められて抵抗心のでるものはないが、叱られれば反省よりも抵抗心がでるからである。長所と短所が半々の場合、長所を伸ばすことに努めれば、短所は次第に短くなる道理。上に立つ者は、部下の長所を見いだし、それを伸ばすよう努めよ、といわれるゆえんである。

ただ、褒めるに過ぎて叱るがないと、感激もなくなり、「おだてておいて、こき使う手段」ぐらいにしか受けとられないのでは、統率どころではない。

ある会社の社長は、社員が朝出勤するのを出迎えて、肩を叩いて「ご苦労さん」といっていた。最初の頃は、人の良い温かい心の社長と考えていたが、次第に、肩を叩こうとしてもそれを避ける者が増えてきたという。社長の手の内がわかってきたからである。その会社は、すでに倒産して今はない。心にもない演技は猿芝居にも劣るのである。

「駕籠にのる人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」というが、それぞれに応分の仕事があり一人欠けても困る。仕事に貴賤はないが、駕籠にのる人がわらじを作ることもない。

しかし、わらじを作る人の多くを知っておくことが統率者として肝心なことなのである。

ところが、多くの社長は、わらじを作る人に、単に″ご苦労さん″程度のこときり関心を示さない。それでも十分すぎるくらいだと思っている。

どんな下位の部下でも社長の協力者である。その協力者に、自分は社長の目の届かぬ縁の下の上台石と嘆かせるようでは足下からくずれる心配もでてくる。常に労を慰め、功を認める心が必要といえる。届かないと思っていた上司の目が届いたときの感激ほど大きいものはない。

関係した会社に表彰制度があって年一度表彰式が行なわれていた。いずれも受賞者は日当りの良い職場にいる者に限られていた。私が入社した翌年、部品整理、製品梱包係の二人の係長が完全な管理をしているのを見て、これを表彰した。当人たちも、きいたとき耳を疑ったといっていたがたいへんな感激であった。

上が賞を受けて影響するよりも、下積みの者が賞を受けて全社に影響する度合は大きいものである。認めるといえば前職時代こういうこともあった。

電話交換手の応対が悪いというので内外から批判されていた。外部に対しては社を代表している者が、悪評をうけるようでは業績にも影響してくる。

そこで、電話交換室を各店長と同程度の位置におき、什器なども入れ替えた上で話した。

「皆さんは、ここの店長と同格、店の代表だ、そのつもりで」と。その人たちの中から、東京都内の電話交換コンクールでの優勝者が出ている。

無言の心服とでもいおうか。こういう話もきいている。ある大手信販会社創立者からのものである。

「私の庭には大きな木が何本もあって秋になると木の葉が積もるようになる。近くに住む老人が毎日それを掃除にきてくれる。歩行もままならないので、チリ取りに入れても捨て場へ運ぶまでにこばれて半分になる。出入りの植木職がそれを見て邪魔者扱いして、怪我でもしたら困るので断らたらどうかと度々いっていた。もちろん裏木戸から老人が入ってきても植木屋は挨拶もしない。ところが家の飼犬だけは、その爺さんがくると尾をふって出迎えている。爺さんは植木屋にどんな目で見られようとおかまいなし、黙々として拾ってはこぼし、こぼしては拾っている。上から落ちてこなくなるにつれて庭の木の葉は減って、ついに全くなくなった。

減っていくにつれて植木屋の態度も変わってきた。しまいには、はち巻きを取って爺さんに頭を下げるようになった」という。爺さんの真心に感激したのだろう。「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」。その爺さんも戦わずして相手を屈服している。部下の統率もかくありたいものである。

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