「時は金なり」は、寸暇を惜しんで稼ぎ、ためよ、という勤倹貯蓄の教えである。
また「かねは時なり」は私のいい出したことで、利息の高いのを選ぶのもよいが長い期間預け複利で増やせ、また、儲けるには時を選ばなければ効は少ない、という意味である。同じ百万円貯金しても年七%で十年複利では二百万円足らずであるが、年四%の低利でも三十年ともなれば三百万円をこすことになる。時間が稼いでくれるからだ。
かねを儲けるにも、時をうまく選んで投資したのと否とでは大きな違いになる。巧みにチャンスをとらえれば年に三倍、三倍にもなるが、高いときに買ってしまうと五年たっても儲けなし、ということになる。
一九二〇〜三〇年、つまり、世界大恐慌時代に蓄財利殖家として活躍し大成功した、ァメリカのハーバート・N ・カッソンという人は、著書でこうのべている。
「預金を減らさずに預けつづけることは、かねを儲けるよりも難しいことである。この理屈のほんとうにわかる人は大金持ちになった人だけである」と。いまの人なら、この低金利で緩慢だがインフレの進むなかで、なんとばかげたことだろう、と思うに違いない。
しかし、この文句のなかには隠された意味がある。その一つは、どれほどかねを儲け財産ができても、必要なもの以外にはかねを出さないで預金を増やしつづけること。
二つに、投資チャンスが到来したら、その預金で投資し、儲けて増やして預金しつづける。
三つに、預金を減らさず預けつづけ、銀行の信用を高めておき、預金額の二倍、三倍の借金をしてチャンスに投資する、ということで、いずれも、大儲けした人のやり方である。
「私が銀行預金しているのは利息をもらうためではなく、利息を払うためだ」といった大金持ちがいる。先日故人になった日本一の金持ちといわれた人である。昭和四十五年私が銀行を退いたときに、「僕は銀行へずいぶん儲けさせているよ。三億円か四億円長い間、通知預金に放りこんだままにしているから」といっていた。それからしばらくして聞いた話だが、低位株を買い集めて大儲けしたという。
それより、五年前になろうか、私の住む地方都市の駅前の土地を四億円で手放そうと思い、買い手を探していた知人がいた。
ある大会社にあたったところ三億なら買おうという。それでも売ろうとしたら分割払いだという。そこで人を介して、前述の大金持ちに会った。地図を見るなり「四億円で買いましょう。いま小切手を書きましょうか」ということで売り渡した。いまその土地は、 一%の面積で四億円はするだろう。 但
その当時、私はその知人に言ったものだ。「あの土地は将来有望な土地。私に、ひと言話してもらいたかった。ただその際、いますぐ小切手書きましょうか、とはいえなかった。私の当座預金の残高は十万円きりなかったから」といって笑い合ったことがある。
また、昭和の富豪といわれた高萩炭破の社長菊地寛実氏は「私は中年時代、事業に失敗し、墨染の衣を着て托鉢にでるほどおちぶれたが、いまでは昭和の富豪とかいわれるようになった。
しかし、それは、私が儲けようと思って儲けたものではなく、皆さんが儲けさせてくれたものだ。不景気、金詰まりともなると、土地から家宝までかねに変えようとして持ちこんでくる。それを安く買っておく。その値上りで儲けた」と話してくれた。それにしても、いくら安く売りにきても資金がなければ買えない道理。つまり、その時のくるまで預金を減らさずに預けつづけておくのである。いくらチャンスがきても先立つものがなければ買うことはできない道理である。かねを得る道は、勤労、嘆願、窃盗の三つといっていた人があるが、勤労で得るのはあたりまえのこと。
また、儲けるには、安い時に買って高くなったら売ればよい。これもあたりまえのこと。たまったかねを守るには、うまい話にかねを出さないこと。これも至極当然なこと。
しかし、このあたりまえが守れない。多くは大欲が災いしているのである。いまのべた菊地寛実翁に、私の生涯設計を話し、今年の五十才からは金儲け計画になっている、といったところ、
「井原さん、五十才からでは早かろう。六十から九十までの三十年間儲ければたくさんではないか」という。
「九十にもなって儲けたかねを何に使うのですか」といったら、「何に使うか、と考えているうちは儲からないものだ」といわれた。なるはど、自分なりに財産らしい財産ができたのは六十才半ば過ぎてからである。
チャンスの後を追っては儲からない。向かってくるチャンスを迎えうけることが肝心で、「前髪を掴め」と教えている。そのためには常に資金の準備が必要なのだ。
預金でかねを遊ばせておくのは勿体ないというが、預金にしてかねを休ませておくようでないと大儲けはできないものである。
本書の第四章「身を退くの勇」の項で、越王勾践から功臣砲贔が逃れて、斉の国へ渡ったとのべた。この話は、その花贔の後日談である。
施議は斉の国で名を鵬夷子皮と変え、物資の過不足を考え、安いときは、珠宝を求めるかのように惜しみなく買い入れ、高いときは糞土を捨てるように惜しみなく売り、数千万の富を築いた。
これを知った斉の国王は、宰相に迎えようとしたが「民間にあっては千金を儲け、官については卿相となるのは栄華の極み。久しく尊名を受けることは身のためではない」として辞退し、儲けたかねの全部を人々に与え、今度は陶(定陶) へ移って名を朱と変えた。
陶は交通の要所で物資交流の中心地。ここで、取引き先を選び、時機を見ては物資の売買をし、また、数千万の利益を得た。人々からは陶朱公とよばれた。
朱公は十九年間に三度も巨利をえ、うち三度は貧しい人に利益を与え、最後の利益を子孫に任せ、子孫もまた財を大きくしたという。
この陶朱公に、大金持ちになる法をたずねたのが猜頓という春秋時代の魯の人である。朱公に「五頭のメスの牛を飼え」といわれたのがきっかけで、塩と牧畜で巨万の富を築いたという。大金持ちのことを「陶朱猜頓の富」と、今でもいわれている故事である。それにしても、いまから約二千五百年前のかね儲けも現代のそれも儲け方は同じく、安いときに買って高くなったら売るだけのことである。
ただ、この話で注目されるのは、十九年間に三回巨利を得ているという点で、 一回平均だと六年余り。この通りの間隔ではなかったろうが、その間にチャンスのくるのを待っていた、ということになる。二、三年で、しびれをきらしている現代人とはだいぶ違っているようである。
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