1自分の心を鍛え上げる 人生哲学多くの企業家群を生んだ考え方
本章では、私の著書『感化力』(幸福の科学出版刊)について解説をしていきます。
『感化力』に盛られたテーマは数多くありますが、全編、それぞれに独立した小さなテーマを持っていますので、どこをお読みになっても、人生のヒントになるところはあると思います。
そのなかから、私が特に話をしておきたい幾つかのテーマに絞って、その周辺を解説したいと思います。『感化力』には「スキルの先にあるリーダーシップ」という副題を付けました。
全般的に、とても現代的な内容の本です。その内容をまとめるならば、「人間学」と「リーダーシップ論」といったテーマになるでしょうか。ビジネス書だと思って手に取った人にとっても、そう大きく期待外れはしない内容になっています。
一部、宗教用語も使ってはいますが、いわゆる宗教書を読むタイプの人でなくても、本書を心の糧にすることはできると考えています。
私は、通常は「宗教家」として捉えられることが多いかもしれませんが、本書を読むかぎりでは、どちらかというと、「現代語で語る哲学者」、あるいは、「一人の思想家」や「時代のリーダー」の立場から語っているように感じられるのではないでしょうか。
その背景には、「数多くの経営者やビジネスリーダーたちを現実に指導している自信」とでも言うべきものがあります。私の考え方、指導に基づいて、数多くの新しい企業家群が現れてきつつあることに対する自信を持っています。
その意味で、リーダーたちを率いて指導する「精神世界のマスター」という面もあるだろうと感じます。
世界精神が求められている時代
『感化力』の「まえがき」には、「ヘーゲル的な意味において、日本と世界の『時代精神』となりつつあるのを感じている」と書きました。
マスコミ的な、揶揄するタイプの人のなかには、「また大きく出たな」と見る向きもあるでしょうが、自分としては、非常に率直に、正直に述べたつもりです。
自分の仕事を客観的に見るということは、とても難しいことではありますが、日本あるいは世界という地理的な広がり、それから、過去・現在・未来という時間の流れ、この大きな時空の立方空間のなかから自分の仕事をじっと眺めてみると、私には一つの姿が見えてくるのです。
それは、二十世紀の後半から二十一世紀にかけて、東洋の日本という小さな島国で、一つの「時代精神」が生まれ、胎動し、うねりを起こそうとしている姿です。
「おそらく、その時代精神は、さらに世界精神へと飛翔していくであろう」ということを、深く心に期するものがあります。「いずれは世界精神になるであろう」と、心に誓っているところです。
それが、幸福の科学の世界伝道、あるいは世界宗教へ向けての発信です。その世界精神の根源は何でしょうか。二十一世紀初頭という時代において、結局、何が要請されているかというと、「世界的な課題を解決すべき時期に来ている」ということです。
今、さまざまな地域、民族の間で発展した文化・文明、価値観等の違いをめぐり、世界の混乱、不統一、不調和、憎しみ、対立、争い、戦争、貧富の差などの大きな課題が数多く起きています。
世界が七十億以上の人口を抱え、百億に向かおうとしているこの時代に、「『世界精神』となるべき、世界的な意味での指導原理が現れてこなければならない」という時代要請を、私は、強く強く感じているわけです。
平和裡に世界を協調させ、未来への道を指し示す
その世界精神なるものは、決して、ナポレオン的なものやヒットラー的なもののように、軍事的独裁や全体主義的な要素を持ったものではありません。
それは、「平和裡に、思想の戦いにおいて、世界をまとめ、協調させ、友情を育みながら、さらに、未来へ向けて進むべき道を指し示すものでなければならない」と考えます。
そういう意味で、私は、人を抑圧するタイプの独裁的な指導者として世界精神になりたいと思っているのではなく、あくまでも「平和の君」として現れたという気持ちを持っています。
私は、過去世には王様として生まれた転生がほとんどですが、今回は、日本という小さな国の、地方の小さな町に住む、平凡な両親から生まれました。平凡な育ち方をし、貧しさも経験しました。
一介のサラリーマンも経験し、思想的な苦悩、葛藤も経験しました。
このような環境のなかで、「自分自身をつくり上げながら指導者にならなければならない」というテーマを背負って生まれてきたのです。その意味において、前半生では、なかなか、苦闘、葛藤することも多かったと言えます。
ただ、そういう環境下で闘ってきたことが、『感化力』の構成であるところの、第一部「タフな自分をつくる」、第二部「感化力あるリーダーシップ」、第三部「ストレスを乗り切る秘訣」といったテーマの分類で示されているような、「自分の心をどう鍛え上げるか」を中心にした人生哲学をつくっていく契機になったと考えています。
2自分の自由になることと、ならないことを分ける気にしすぎる
人に必要な「割り切り」
『感化力』には、私の会社時代の話として、「人間には、自分の自由になることと、ならないことがある」という、ある先輩の言葉が勉強の材料になったと書いてあります。
その人は、私の十五年ほど先輩に当たり、課長になる手前ぐらいの、三十代後半の人でした。先輩は、私に対し、次のように語りました。
「あなたは、今考えていることを、自分の自由になることだと思うか。それとも、そうではないと思うか。自分の自由になることであれば、努力することは可能だが、自分の自由にならないことであるならば、ある程度、割り切っていかなくてはならない。自分が自由にできる領域にあるものについては、しっかり頑張ればよいが、自分が自由にできない領域にあるものについては、『そういうものもあるのだ』と割り切らなくてはならない。自分の自由になることか、ならないことか、どちらなのかを考えて、悩んでもしかたがないことについては、しばらく棚上げするしかない」
この話を聞いたのは、私が社会人になって一年目のことでした。場所は、赤坂のスコッチパブだったと記憶しています。
その後、そのようなところには何十年も行っていないので、今でも店があるかどうかは分かりませんが、新入社員だった私は、飲み慣れない酒を飲まされながら、課内の何人かと一緒に話をしていたわけです。
そのとき、いろいろと細かいことで悶々と悩んでいた私を見かね、先輩は、「君は細かいことをいろいろ気にしすぎている。人間には、自分の自由になることと、ならないことがあるんだ。自由になることについては、自分なりに努力して変えようとしていいけれども、自由にならないことだってあるよ。会社勤めをしていたら、そんなことは当然ではないか。自由にならないことについては割り切れ」と語ったのです。
「諦めろ」とまでは言いませんでしたが、「割り切れ」と言われました。
あれから時間がたっているため、当時の言葉よりも、かなり純粋化し、思想的なかたちにまとまっている可能性はありますが、主旨としては、「自分の自由にならないことはたくさんある。それについては、いったん棚上げして、悩まないようにせよ。自分の自由になることのなかで努力せよ」という内容だったと思います。
それは、本当にその人の人生観だったのかどうかは分かりません。
今にして思えば、「幸福の科学が始まる前の段階で、支援霊の先走りとしての霊的存在が語らせた言葉だったのかな」と感じる部分もあります。
内心の自由を求めた哲学者エピクテトス
実は、この「自分の自由になることと、ならないことがある」という考え方は、古代哲学である後期ストア派のエピクテトス(五五年ころ〜一三五年ころ)の思想と一致する考え方なのです。
後期ストア派の哲学者としては、セネカやマルクス・アウレリウスなどがいますが、エピクテトスはそのうちの一人です。
エピクテトスの言葉は、『人生談義』という本のなかに収められています。今では読む人も少なくなっているかもしれませんが、昔の人は彼の語録を要約した『提要』をよく読んでいました。
このエピクテトスは奴隷でした。奴隷の身分でありながら哲学者になった人なのです。奴隷であるということは、人に支配される身分であるため、主人に対しては抵抗ができません。
たとえ、主人から悪口を言われたとしても、殴る蹴るの暴力を振るわれたり、足の骨を折られたりしても、自分は奴隷なので、どうすることもできないわけです。
「今、暴力を振るわれた。両手で足をつかんで、ねじ曲げられた。ポキンと音がした。足の骨が折れた」というふうに、自分自身のことであっても、他人事のようなものです。
これに対して、エピクテトスは、「主人が自分に対して、悪口を言ったり、暴力や危害を加えたりすることは、向こうの自由である。それについては、自分ではどうすることもできない。ただ、自分の魂の領域、心の領域については、百パーセント自分のものであり、そこにおいてどう思うかということは、完全に自分自身の問題である」と考えたのです。
これは、表現としては違いますが、私が今説いている、「死んであの世に持って還れるのは心しかない」という考え方に通じるところがあります。
「肉体については、主人に支配されているため、百パーセント自分のものにはならないのはしかたないだろうし、痛みを受けることもしかたがない。ただ、それをどのように感じ、どう生きるかということは、自分の問題である。自分の本領は魂であり、魂については、百パーセント自分のものである」ということです。
このように、奴隷の身分でありながら、内心の自由を百パーセント求めた哲学者としての生き方が、二千年たっても、いまだに読み継がれているのです。
現代社会では自分の自由にならないことも多い
エピクテトスの思想は、いわば、「奴隷の哲学」とでも言うべきものであり、非常に消極的な考え方のようにも見えます。
しかし、現代のように、一つの国のなかで、何千万、何億もの人々が法律に縛られて生き、何千人もの社員がいる会社に勤め、会社の規則に縛られているような、大勢の人間が管理社会のなかで生きている状況を見ると、これに通じる部分があります。
例えば、会社のなかで、社員は自分の自由になりますか。自由にならないでしょう。社長でさえ、自分の自由にはなりません。大きな会社の社長になったら、大勢の人に監視されています。
会社の部下から見られ、会社の外部の人からも見られ、マスコミからも見られており、自由ではありません。ましてや、社員などは自由ではありません。
あの手この手で、いろいろとチェックを受けるし、出る杭は打たれます。そういう意味では、エピクテトスの思想は、今でも十分に通用します。
したがって、サラリーマンとして、雇われ人として生きている人にとっても、「世の中には、自分の自由になることと、ならないことがある」という考えを持つことによって、心の安定につながる面があるわけです。
3尊敬されるリーダーの条件
自分自身で解決できる問題かどうかを分けて考える
もし、自分のなかに悩みや苦しみが飛び込んできて葛藤するようなときには、まず、「自分が悩んで解決できる内容なのかどうか」を考えてみることです。
「この問題は、自分の支配圏内にあるのか、それとも、自分の支配圏外にあるのか」という目で、分けて考えてみるのです。
自分の支配圏内にあることについては、自分自身で百パーセント、コントロールできる可能性があるので、自分としてできる努力をすることです。
しかし、自分の支配圏外にあることについては、しかたがないと割り切ることです。
「自分の権能が及ばない」ということは、エピクテトスの話で述べたように、「主人に暴力を振るわれる奴隷が、自分の肉体を自由にすることができない」ということと同様です。
「主人が自分に暴力を振るうことはしかたない。しかし、自分自身の考えは護る」という考え方です。
例えば、会社勤めをしている人は、人間関係を選ぶことができません。同じ階、同じ部署のなかには、嫌な同僚や上司もいるでしょう。自分の考えとは合わない人がいるものです。それについては、自分ではどうすることもできないことがあります。
ただ、今述べたような考え方を持っていれば、「自分の任された仕事をどうするか」ということについては、自分自身で取り組むことができます。
また、他人が自分を批判したり、自分の仕事をマイナスに評価したり、あるいはプラスに評価したりすることもあるでしょう。
そのときに、他人が自分に対して下す評価そのものについては、自分自身ではどうすることもできないとしても、「自分はその評価をどう捉えるか」ということについては、自分自身の問題であると言うことができます。
したがって、自分の自由になることと、ならないことを分けて考えるように努力して、強くならなければいけません。
あまり、他人の評価などで動揺しすぎて、おかしくならないように、自分自身に対して客観的な指標を持って生きていくことが大切なのです。
人生の達人になるための道とは
『感化力』の「まえがき」のなかで、「ヘーゲル的な意味において、日本と世界の『時代精神』となりつつあるのを感じている」と書いたことを述べました。
これは、週刊誌的なものの見方からすれば、挑発している言葉のようにも見え、「何を自惚れているのか」と言って批判してくる人がいるかもしれません。
ただ、客観的に見て、「自分自身としては、『時代精神』となりつつあると感じている」ということを、私は平気で言っているわけです。このように、考え方はいろいろあるということです。
このあたりは難しい部分ではありますが、「心の領域をどのようにコントロールしえたか」ということが、人生の達人になるための一つの道なのです。自分自身の心の領域、「心の王国」を治めるということは、非常に消極的に見えますが、現実には難しいことです。
その意味で、傍目から見て、「この人は自分自身の心を完璧に支配しているな」と思えるような人は、尊敬に値する存在であり、リーダーの器であると言えるでしょう。
「環境や時代要因、制度や仕組み、他の人の意見などはどうしようもない」と考える人は、一見、消極的なようにも見えます。
しかし、他の人から見たら、「自分のことについては、自分自身で完全にコントロールしようとしている」という人のほうが、かえって、リーダーにふさわしく見えるのです。
映画「硫黄島からの手紙」で描かれた沈着冷静な指揮官の姿
「自分自身の心を支配できる人はリーダーにふさわしい器である」ということは、戦争を例にとってみればよく分かります。
砲弾が飛んできて炸裂したり、知っている部下が一人死んだりしたときに、指揮官が動揺することもあるでしょう。
ただ、指揮官が、「砲弾が飛んできた。うわー、どこへ逃げよう」などと言って、いつも動揺ばかりしている人物だったら、部下としてついていけるでしょうか。
戦争であれば、当然、砲弾が飛んできたり、人が死んだりする局面も出てきます。
そうしたときに、動揺することなく、指揮官としてなすべきことを沈着冷静に行っていく人物にこそ、部下はついていくのではないでしょうか。
二〇〇六年に、クリント・イーストウッド監督によって製作された「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」という映画が公開されました。
これは、第二次大戦における日本の硫黄島での戦いを、日本とアメリカ、それぞれの視点から描いた二部作の映画です。
このうち、日本側から描いた「硫黄島からの手紙」は、栗林忠道・陸軍中将を主人公にして、「一人の指揮官に何ができるか」ということを捉えた映画です。
公平によく描かれていたと思います。硫黄島は、硫黄のガスが立ち込め、木もなく水もないような、人が住むことさえ難しい小さな島です。本格的に攻められたら、護り切ることはほぼできないだろうと思われるこの島で、日本軍はアメリカに徹底抗戦したのです。
当時の軍事的な常識からすれば、「海岸に防衛線を引き、上陸してくるアメリカ軍を防ぎながら戦う」という水際作戦をとることが常道でした。
しかし、栗林中将は、「そんなことをしても無駄だ。アメリカの海兵隊は強いから、完全に突破されるだろう」と考え、海岸の防衛線は一切つくらず、その代わりに、「全島に全長十八キロに及ぶトンネルを掘り、地下に潜って徹底抗戦する」という作戦を取ったのです。
さらに、栗林中将は部下に対し、「自決してはならない」と指導しました。それまでの日本軍は、弾が尽きたりすると、すぐ、「万歳突撃」をして自決するようなことをしていました。
しかし、栗林中将は、「自決するな。最後の一人まで戦え。『一人十殺』の覚悟で敵と戦え」という指導をしたのです。
その結果、日本軍に一万九千人余りの戦死者が出た一方で、アメリカ軍の被害も戦傷者まで合わせれば二万八千人に上り、全体として見ればアメリカ側のほうが被害が大きかったとも言われています。
このことにアメリカは震撼したわけです。
アメリカ軍としては、「硫黄島の擂鉢山に星条旗を立てた」ということが勝利の象徴であり、そのことを宣伝にも使ったわけですが、本当のことを言うと、恐怖だったということです。
「こんな小さな島を落とすのにも、何万人もの兵士が死傷した」という事実を見たアメリカ軍が感じたことは、「もし、日本全土を占領しようとしたら、どれほどの兵士が死ぬのだろうか。場合によっては何百万人も死ぬのではないか」という恐怖です。
そのあとの沖縄戦もそうだったかもしれませんが、硫黄島での徹底抗戦を見せたことで、結果的には、日本本土が最悪の事態に至る前に終戦することになったわけです。
栗林中将という人は、そのことをよく見抜いていたと思います。
すでに連合艦隊は壊滅していたため、硫黄島に援軍が来ないことを栗林中将は知っていたし、いずれ島自体が陥落して負けることも分かっていたのですが、「できるだけ長く、最後の一人まで戦い、徹底抗戦することによって、『日本軍はどれほど抵抗するか』をアメリカに見せることが、本土にいる自分たちの家族を護ることにつながる」ということを部下に説明し、実行してみせたのです。
もちろん、その戦い方によって何万人もの人が亡くなったという事実は大変なことではありますし、それが実際にどのような結果につながったのかということについては、よく分からない部分もあります。
ただ、仮に日本本土が戦闘を経て占領されるようなことになっていたら、何十万、何百万もの人が殺されていた恐れはあります。
硫黄島での徹底抗戦が、そのような事態を防ぐための一助になったとしたならば、亡くなった人も英霊としてずいぶん報いられることにはなったでしょう。
「自分自身を統御できる」リーダーこそ大勢の人を導ける
このように、絶対に勝てない、死ぬのが分かっているような、圧倒的に不利な状況下でも、沈着冷静で知恵のある指揮官が指導すると、一定の成果をあげることができるわけです。
「自分自身の心を完全に統御し、使命に生きることのできる人物こそ、リーダーの器にふさわしい」ということです。
栗林中将はアメリカに留学した経験のある人だったため、アメリカの強さをよく知っており、「日本はアメリカに勝てない」ということも十分に分かっていた人です。
しかし、硫黄島の防衛という使命を受け、自分の役割を果たしたわけです。
このように、「自分自身の心を完全に統御し、無私になって自分の使命を果たす」ということが、指導者としての大きな条件になることがあるのです。
映画「硫黄島からの手紙」で言えば、「アメリカ軍が強い」という事実について、例えば、「戦艦が大挙してやってくる」「戦闘機が大量の爆撃をしてくる」「物資が豊富に補給される」など、日本軍の指揮官にとって支配圏外にあることについては、どうにもなりません。
それから、味方の兵士が、「逃げたがっている」「万歳突撃したがっている」などということについても、どうにもなりませんでした。ただ、指揮官としての自分自身を統御することは可能だったわけです。
そのように、自分自身を統御できる人が、大勢の人を率いて一定の成果をあげるようになるのです。これと同様のことは、企業においても当てはまるはずです。
例えば、「経営環境が悪化している」といった厳しい状況に直面している企業も数多くあるでしょう。さまざまな危機的状況が、次々と出てきている企業もあるでしょう。そのときに、リーダーが周りの人を支配しようとしても、そう簡単にはいきません。
ただ、エピクテトスのように、「自分一人の心を完全にコントロールする」ということは可能です。
現代は、いかに生活が苦しく、借金があろうとも、家庭争議があろうとも、会社が傾いていようとも、奴隷の生き方よりはましであるはずです。奴隷ほどひどい状態にはないでしょう。
かつて、奴隷であっても、自分の心を百パーセント支配しようと努力した人がいたわけです。ましてや、現代人は奴隷の身分ではないし、転職もできれば、家庭を立て直すこともできます。道はたくさんある時代なのです。
そのように考えるならば、深く悩みすぎることには問題があると言えるでしょう。
したがって、消極的に見えるかもしれませんが、意外に、「自分の心の王国を護り切った人が偉大なリーダーとなり、多くの人を導けることもある」ということを述べておきたいと思います。
そのような考え方をすることです。以上、一番目の論点として、「自分の自由になることと、ならないことを分ける」ということを述べました。
4自分の能力が変化すれば必ず環境も変化する
まず現在の環境で努力を
二番目の論点としては、「自分の能力が変化すれば必ず環境も変化する」ということです。
『感化力』のなかには、次のような質問が載っています。
「『環境が変化すると、新しい視点を得て、成長していくことができる』と聞いていますが、変化しない環境のなかにあっても、欠点を直し、長所を伸ばしていく方法があれば、教えてください」これに対し、私は非常につれない答え方をしています。
「そういう方法は、あまりないでしょう。基本的には、能力が伸びると環境も変化します。環境の変化に伴って自分の能力が変わるだけではなく、自分の能力が変わってくると必ず環境も変化するのです」と述べています。
これは意外なことかもしれませんが、実は、とても重要なことを指摘しています。
人間、弱い人ほど、環境に頼ります。実際、環境がよくなれば、よくなることはたくさんあるのです。それは当たり前のことです。例えば、世の中の景気全体がよくなったら、自分の経営する会社もご利益にあずかれるのが普通です。
「首相が替わればよくなる」「日銀総裁が替わればよくなる」「アメリカが態度を変えればよくなる」「中国が変わればよくなる」というように、環境が変わればよくなることはいくらでもあります。
実際にそのとおりです。
しかし、現実にはそう簡単に環境を変えられるものではありません。なぜならば、環境そのものは、非常に大勢の人の力や仕組みによって出来上がっているものだからです。
したがって、自分の今の生き方や人生、会社の仕事にとって都合のよいように、一人の力で全部を変えることはできないのです。
今、仕事がうまくいっていないとしても、「会社を変えたらうまくいった」という場合は、当然あるでしょう。環境を変えればよくなることなど、いくらでもあります。ただ、環境の変化に頼るのは王道ではありません。
「今の場所から逃げ出して別の場所へ行けば、パラダイスになり、すべてがうまくいく」というようなことを考えても、現実にはそう簡単にはいかないということです。
また、結婚・離婚についても、そのようなことはあるでしょう。
例えば、「離婚してうまくいった」という人も大勢いるでしょうが、「うまくいかなければ、すぐ離婚する」ということばかりしていると、離婚するたびに、自分自身にもいろいろと傷が入っていきますので、結局は「引っ越し貧乏」になっているようなものです。
したがって、「現在ある環境のなかで、まず変えていけるものがある」と考えることが大事なのです。
すべてを環境のせいにする共産主義
重要な点は、「自分の能力が変化すれば必ず環境も変化する」ということです。これは非常に重要なことなのです。実は、「あまり環境が変わらない」ということは、「自分の能力が変化していない」ということなのです。
能力が変化していないから、環境も変わらないのです。能力が変化してきたら環境も変わります。
それは、語学の勉強一つを取っても当てはまります。
例えばの話ですが、あなたが、突如、発心して英語の勉強を始めたとしましょう。それから三年から五年ほど勉強を続けるうちに、どんどん英語ができるようになり、英語の達人になったとします。そのときに、会社はあなたを放っておくと思いますか。
現在、あなたが、国内のメーカーのどこかの支店で、問屋さん相手に日本語で商売をしている人であったとしても、英語の達人になっていたならば、会社は絶対にあなたを放ってはおきません。
英語が使えるセクションに必ず異動させようとするはずです。あるいは、社内にそのような場がなければ、別のかたちで何らかのチャンスが出てくるでしょう。
例えば、新聞や雑誌、テレビなどを観ていた折に、「ああ、こういうふうに、英語を使える職業があるのか。これは自分に向いた職業だ」という情報を見つけ、転身するきっかけをつかんだりします。
このように、自分の能力が一定のレベルを超えたときには、必ず変化が起きてくるのです。「能力が伸びているのに、環境は変わらない」などということはありません。必ずそういうふうになるのです。
今述べた考え方の正反対に当たるのが、すでに滅びつつある共産主義です。共産主義は、徹底的にこれを否定し、「環境がすべての運命を決める」というような考え方をします。
「資本家が悪い」「制度が悪い」「資本主義が悪い」などと言って、すべてを環境のせいにし、自分自身の責任は問いません。
しかし、この考え方は、基本的に間違っています。日本の知的エリートたちも、それがなかなか分からず、何十年も騙され続けてきました。結局、共産主義は、愚痴と言い訳、嫉妬心の哲学なのです。
自分の能力が変われば、絶対に環境も変わります。それはほぼ間違いのないことであり、そのように信じたほうがよいのです。
5年齢に負けず発奮して「人生の復活」を
映画「ロッキー・ザ・ファイナル」を観て
「自分の能力が変化すれば必ず環境も変化する」ということに関連した例として、映画の話ばかりで恐縮ですが、「ロッキー・ザ・ファイナル」(二〇〇七年日本公開)を挙げましょう。
この映画が日本で公開されたとき、私も観てきました。
映画は、「ボクシングを引退して久しいロッキーが、六十歳になってから、現役ヘビー級世界チャンピオンに挑戦する」という内容です。
ただ、この年齢で現役のチャンピオンに殴られたら、普通は一発で倒されてしまうでしょうから、設定としてはやや非現実的と言えなくもありません。
かつてボクシングのヘビー級で二度の世界チャンピオンになったロッキーが、あれからだいぶ年を取り、すでに奥さんにも先立たれ、うらぶれた毎日を送っているところから話は始まります。
ロッキーの息子は、若きビジネスマンとして働いていますが、自分の父親がロッキーであると知られることを恥ずかしく思っています。
息子は、「おまえの親父は、偉大なロッキーだったんだって?」と訊かれるだけでも嫌がり、父親から逃げ回っているような状態でした。
ところが、あるテレビ番組が、現役ヘビー級チャンピオンと全盛期のロッキーのデータをコンピュータでシミュレーションし、「もし二人が戦ったらロッキーが勝つだろう」という判定結果を放送したのです。
その番組を観た現チャンピオンは怒り、「あくまでデモンストレーションみたいなものだが、エキシビションで戦ってもいいぞ」という話になりました。
それから、六十歳の英雄は体を鍛え直し、再びリングに上がりました。ロッキーは、ヨタヨタになりながらも、十ラウンドを戦い抜きます。
最後は、ギリギリで判定負けにはなりましたが、観客からは、「よく頑張った」と、満場の称賛を浴びて幕を閉じました。概略としては、そのようなストーリーです。
もう一度発奮して「人生の復活」を
私は、「年を取ったら、いつまでも自分の地位や肩書に執着せず、潔く引っ込むように」という話をよくしていますが、その一方で、団塊世代の人々が大量に六十歳を迎えた現在の状況を考えれば、このような映画も必要であると感じます。
つまり、私の著書『復活の法』(幸福の科学出版刊)でも掲げているように、「人生の復活をして、もう一回、戦えないか」ということです。
「お父さんも、昔は偉かったんだ」という台詞は、よく聞く言葉です。
「昔は仕事ができたんだ」「昔はもてたんだ」「昔は金持ちだったんだ」などと言って、いくらでも昔話をするようになってきたら、だいたい年寄りなのです。
ロッキーについてもそうです。
「昔、世界チャンピオンだった」といっても、今はうらぶれていて、自分の子供に、かつての雄姿、栄光を見せることは、もはやできません。
しかし、そこに挑戦するロッキーの姿を観たときに、私も、不覚にも何度か涙が出てきました。映画のストーリー展開がすべて見えてしまうわりには、涙が出てくるのです。その気持ちがよく分かるのです。
「六十歳でも、まだ現役チャンピオンと戦えるのか。すごいなあ」という感じがありました。
これは、「能力が変化すれば環境が変わる」という話をしているわけです。
すでにボクシングを引退して、うらぶれていたロッキーが、「よし、もう一回やってみようか」と思い、体を鍛え直していきます。それから、重量挙げをしたり走り込んだりしていくうちに筋力がアップし、若いころの身体能力が甦ってきます。
そこで再びスタジアムに出てきて、若いチャンピオンと互角に戦えるところを見せ、「往年の世界チャンピオン、まだ頑張っています」というふうに満場の称賛を浴びたわけです。
こうして彼の環境は変わりました。このように、発奮しなければいけない年代が六十代です。
この映画を観たアメリカの人たちがどのような反応をしたのかは知りませんが、発奮した人もだいぶいるのではないでしょうか。
老人たちにとっては、ものすごい励みになったことでしょう。そういう意味では、よい映画ではないかと私は思いました。
何歳からでも能力を磨く考え方
やはり、人間、幾つになっても発奮することが大事です。若いうちに発奮するのは、それほど難しいことではありません。
若くてもやる気が出ないなど、一部の例外はあるかもしれませんが、十代で「やるぞー」と発奮するのは、ごく普通のことです。二十代でやる気があるというのも普通です。この年代でやる気がないと、だいたい駄目でしょう。
三十代になってくると、少し人生に疲れてきますが、何とかしようとして、必死で抵抗します。
四十代になると、すでに、「人生の前半が終わった」という感じがあります。「家族を護ることで精いっぱい」、あるいは、「家族も壊れてくる」という年代でしょうか。護るべきものが多くなり、重くなります。そして、行動力、勇気、チャレンジする精神がなくなってきます。
五十代になったら、人生の残りを数えるようになります。「あと何年生きられるかな。病院に行かずに済めばいいな」ということを考えるのが五十代でしょうか。
六十代以降になったら、「ここで発奮しなければ、あとは棺桶が待つのみ」になってきます。
ただ、六十代以降で発奮する人、少なくとも精神的に発奮して、人生の最後を飾ろうとしている人たちは、来世に向けて、ものすごい推進力や、もう一段の偉さが出てくるでしょう。
そのように、「能力が変われば環境が変わる」ということを述べました。
したがって、「自分は、会社のある部署で、平社員のまま、ずっと置いておかれている」ということは、「あなたの能力が変わっていない」ということです。
もし、あなたが現在の環境を変えたいと思うならば、何でも結構ですが、自分の長所のなかの何か一つを磨いていくか、あるいは、あなたの足をずっと引っ張っている短所の部分を磨いて克服していくことが大事なのです。
6平凡な自分が人生に勝つために自分を磨く
努力をすれば必ず変わる
自分を磨くということでは、例えば、英語を勉強することでも、体力を上げることでもよいでしょう。
それから、話すことが下手なために、営業でうまくいかなかったり、部下を持てないという人であれば、「上手な話し方の研究をする」ということでもよいでしょう。
現代は、テレビやDVD、ビデオ等もあります。
それらを活用して、「この人、上手だなあ」と思う人の話をよく聴いて研究すればよいのです。
世の中には、自分の先生となる人がたくさんいますので、自分のことばかり考えるのではなく、話の上手な人を見て勉強することです。
間合いの取り方から、身振り手振り、重要点の押さえ方、人の心をどうやってつかもうとしているかなど、「なぜ、この人は話が上手なのか」という目で見て研究するのです。
そのなかで、「ああ、この人、サービス精神があるんだな」ということなどが分かってきます。また、話し方だけでなく、「仕事の上手な人を見て勉強する」ということでもよいでしょう。
経営者として大を成そうと思ったら、自分より立派な経営者の講演会や勉強会に参加して、よく聴くことです。そのような努力をしていくと、必ず変化してきます。
能力が変わってくるのです。能力が変わってくると、環境も変わってきます。そして、会社も変わってきます。取引先との関係も変わってきます。
一つのテーマについて百冊
読めば本が一冊書ける
もちろん、勉強することによって変わることもあるでしょう。
『感化力』には、教養をつけるためには千冊ぐらいの本を読むことが必要だという趣旨のことを書いてありますが、ジャンルを絞り、ある一つのテーマについての本を百冊ほど読めば、そのテーマに関する本が書ける程度にはなるのです。
今、あなたが、「話し方入門」「上手なスピーチ」「人を感動させる話の仕方」など、話し方についての本を書こうとしているとします。
そのときに、まずテーマを決めたら、話し方に関する本を百冊ぐらい集め、しっかり熟読するのです。このような狭いテーマについての本を百冊ほど読めば、本を一冊書くことができます。
ただ、人生論全般にわたるような内容になると、もっともっと深い勉強をする必要があり、その程度の勉強では無理ですが、狭い範囲内であれば大丈夫です。
「どうしたら美肌をつくれるか」というテーマであれば、美肌関係の資料を百冊ぐらい集めて研究すれば、そのテーマに関しては、いちおう一人前というか、一流レベルに近いような意見までは言うことができるようになるでしょう。
「自分は平凡な能力の持ち主だ」と自己定義するのなら、あまり広範囲の戦い方をするべきではないので、自分が仕事で使えるような狭い分野で専門家になろうと努力することです。
同一種類の関連書を百冊ほど読めば、本を一冊書ける程度の専門家にはなれます。これは、不可能ではないと思います。週に一冊の本を読めば、年に五十冊は読めます。
したがって、一つのテーマについて二年間ほど勉強すれば、その分野については、本が一冊書けるようになるか、あるいは、何か話を頼まれたときに、ほかの人が聴いても、「ほう、いいこと言うなあ」と言われるような話をするレベルまでは行けるのです。
「ウォーキング」というテーマ一つを取ってもそうです。
ウォーキングの本を百冊ぐらい読んで勉強し、自分でも実践を続けて、二年ぐらいたてば、人前で「ウォーキングについて」というテーマで一時間ほど話をするぐらいのことはできるようになり、「ああ、この先生、なかなかよく勉強しているな」と思われるレベルまでは行くのです。
ただ、ウォーキングについては話せるようになっても、ジョギングについてまでは話せないかもしれませんが。そのようなわけで、自分自身のことを平凡な能力と見ているとしても、自分のしている仕事について勉強をしていけば、自分の武器になり、十分に勝つこともできるようになります。
また、株をしている人であれば、環境さえよくなれば株価が上がって利益が出るので、よい方向へと変化することを望みたいところでしょう。ただ、実際には環境が変化するまで待っていられないので、自分の腕を上げるほうに取り組むべきです。
株についての知識や技術を磨くほうで自分の勉強をしていれば、そのうちに環境もよくなって、利益を増やすチャンスが出てくることもあるでしょう。これも、「能力が変化すれば環境が変わる」ということです。
「言い訳百個」ではなく、「できる方法を三つ」
このように、「環境」も大きなものではありますが、言ってもしかたがないことを言うのは、ただの愚痴や弁解にしかなりません。
「なぜできないのか」というようなことを並べても、しかたがないのです。世の中を見ていると、いわゆる受験秀才ほど弁解がうまいようです。
彼らの多くは「減点主義」であるため、「ミスをしないように」と一生懸命訓練して、大企業に入りますが、とにかく言い訳がうまいのです。
実に上手に、整然と、できない理由、自分に責任がない理由を説明します。「なぜできないか」ということを理路整然と説明するのです。これには啞然とさせられます。
自分の頭のよさを、何の価値も生み出さない方向で使っているわけです。要するに、自分が仕事をしないことに対する言い訳をすることで、「自分の職を護る」という意味での価値を生み出しているのです。
しかし、「それでは、どうすればできるようになるのか」という問いに対して、受験秀才は答えられません。「どうすればできるようになるか」と考えることは、それほど受験秀才ではない人のほうが得意なのです。
あまり自己イメージが高くなく、蛮勇を奮えるため、とにかくやってのけると成果があがることがあります。結局、一流の秀才ではない人のほうが、勇気があるために、よい仕事をして出世することも数多くあるのです。
あまり細かすぎると、かえって勇気がなくなることがあります。
したがって、自分が弁解や言い訳のほうに、あまりに多くのエネルギーを使っていると思ったら、どうか踏みとどまってください。そちらのほうに優秀な頭脳を使うのはエネルギーの無駄です。
言い訳を百個考える代わりに、「何かできる方法はないか」ということを、一つでも二つでも三つでも考えることが大事です。そうすることによって、生産性が高く、創造力のある仕事ができるようになるでしょう。
7人を導く立場に立つ人の心得
「弁解するな」と指摘した会社の上司
私が社会人になって一年目のときに、会社でこんなことがありました。
当時、ある人の失敗を、私の失敗のように誤解されたため、課長に事実を説明しようとしたら、「弁解するな」と怒られたことがあったのです。
それまで、自分自身に弁解癖があるとは、全然思っていませんでした。
「これは、私の失敗ではなく、本当はこの人の失敗だ。それなのに、課長は私が失敗したように言っている。課長は勘違いして怒っているのだ。この間違いを説明しなかったら、ずっと私の失点のままになる。給料が減らされ、ボーナスも減らされてしまう」
そのように思い、私は、「こういう指示を受けて、こういうふうにやったのだ」と説明しようとしましたが、課長は私に、「弁解するな。弁解するやつは許さん」と言うのです。
しかし、新入社員ではあっても、口はついているので、やはり何か言いたくなります。そのままでは欲求不満になり、泡を吹いて死にそうになります。
「そんなのありか。自分の失敗ならしかたがないが、自分の失敗ではないのに、『弁解するな』というのは、フェアではないじゃないか。やはり、『これは違うぞ』と言いたい。ちゃんと仕事を見てもいないくせに、そんなに人を怒るのは、課長のほうが悪い」と思ったのです。
ただ、四十歳を過ぎた課長の目から見たら、そういう新入社員は生意気に見えるでしょう。
新入社員を怒ったところ、「これは違います。私の失敗ではないんです。これは、こうこう、こういう理由で、このようになったのであって、私の失敗ではありません」などと言って、自分の弁解を始めたら、生意気に見えて、怒りたくもなります。
私も、同じことを何度か注意されるうちに、「そうなのかもしれないな」と思うようになっていきました。
課長の怒り方をよく考えていくと、「たとえ、おまえに与えられた仕事ではなかったとしても、ほかの人の仕事や、『課全体はどうしているか』『会社はどうしているか』など、いろいろなことを考えれば、そのようにしないこともできただろう」と言っているようにも取れたのです。
「おまえは、『自分の狭い範囲の仕事だけやっていればよい』というような事務員として雇われて給料をもらっている人間ではないはずだ。
将来、経営者になっていく人間であるならば、自分のミスかどうかを弁解するだけではなく、課全体や、部全体や、会社全体が、今何を目指しているのかを考えて、ほかの人の失敗やミスまで引き受けるぐらいにならないでどうするか」という意味で怒っている可能性もあるわけです。
ただ単に短気を起こして怒っているように見えなくもありませんでしたが、エピクテトス風に、「自分の心を支配する」という観点から見れば、「なるほど、ガミガミ怒られてはいるけれども、ある意味、期待して怒ってくれているのかもしれない」と受け取れなくもありません。
自分の失敗でなくても頭を下げられる器を
私も上司の立場になり、人を使うようになると分かりましたが、弁解する人というのは、やはり嫌なものです。
「おまえは駄目だ」と叱ると、「いや、これは私ではありません。あいつがやったんです」と弁解するような人をエリートと認識するのは難しいものです。
もちろん、それが、実際に部下のやったチョンボだったり、たまたま、ほかの人が指示したために失敗したようなこともあるかもしれません。
ただ、たとえ、それが自分の失敗ではなく、ほかの人の失敗であったとしても、それでも、注意されたら、「すみませんでした。申し訳ありませんでした」と素直に聴く人のほうが、やはり、人間としてはできているように見えます。
その問題については、あとで真実が分かることもあれば、分からないままのこともあるでしょう。
いずれにしても、自分の失敗ではないにもかかわらず、怒られても耐えられる人は、器が大きいと言えるでしょうし、上司たるべきものは、そうあるべきかもしれません。
「部長や課長は知らない」という問題など、いくらでもあります。実際には課員の失敗であることも多いでしょう
が、それでも、部下の代わりに自分が怒られ、「いえ、これは私の失敗です」と頭を下げ、受け入れることのできる上司は偉いと思います。
部下のミスについて、「あいつのせいだ」と、そのまま部下のせいにするような上司だと、人はついてこないかもしれません。
たとえ、その問題が自分のミスや責任ではなかったとしても、上司としてもっと努力していれば、事前に問題を感知できたかもしれないし、問題が起きないように手を打てたかもしれないのです。
エリートほど問題を自分の責任として受け止める
アメリカでは、何か仕事を頼んだりすると、二言目には“It’s none of my business.”。
「私は、その仕事についての給料をもらっていない。雇用のときの契約で『これこれの仕事をする』ということが決まっているから、契約条項に入っていないことに関してはサービスになる。お金をくれるならばやってもよいが、くれないならばやらない」と言うわけです。
これには疲れてしまいます。
「あなたのビジネスではないことぐらい、十分、分かっているけれども、『やってくれ』と頼んでいるのだ。それだけのことで、いちいち契約改定までしないといけないのか」と言いたくなります。
“It’s none of my business.”という言葉は、はっきり言って嫌いな言葉です。これを言われると、やる気がなくなってしまいます。本当に会話する気がなくなります。
ただ、そのようなことを言う人は、やはり下っ端なのです。アメリカであっても、エグゼクティブになると、そのようなことは言いません。上に行けば行くほど、そのようなことは言わなくなります。
私も、アメリカで仕事をしていたときに、“It’s none of my business.”と言う社長には会ったことがありませんでした。社長になったら、会社のなかの悪いニュースは、すべてトップの責任になります。
事務員の仕事であろうが、受付の仕事であろうが、電話の取り方であろうが、すべての仕事は自分に関係があるわけです。
したがって、社長であるならば、“It’s none of my business.”などということはありえません。「それは私の仕事ではない」と言ったら、そんな社長はクビになります。
やはり、世の中はフェアであり、「自分の責任ではない」などと言う人は小物なのです。それは、給料以上の仕事をしようとしていない人たちなのです。
つまり、「給料以上の仕事をして、みんなに給料を払うような立場になりたかったら、そのようなことは言うな」ということです。
上司に責任を取らせないように頑張る部下は出世すべき人
部下の立場においても同様のことが言えます。
社長なり役員なりがミスをしたような場合に、「もし自分がきちんと補佐をしていたならば、ミスしなくても済んだかもしれない」と考えるということです。
例えば、重役が出張で不在中に、何らかの緊急事態や、取引先とのことで重要な案件が発生し、絶対に処理しなければいけない局面にあるとしましょう。
そのときに、部長が、「これは重役の仕事だ。部長の立場でものを言ったら僭越だ」と思って黙っていたら、どうなるでしょうか。確かに、その部長の考えは、社内規定には合っているかもしれません。
「部長の権限はここまで」と決まっているのに、重役の仕事をしてしまったら、規定に反することになります。
しかし、問題を黙っていた結果、会社が危機に陥り、潰れることになるならば、「その部長は駄目な部長である」と言わざるをえません。
もし、「すぐに手を打たなければならない」というような重要案件だったならば、たとえ、部長である自分に権限はなくても、処理しなければ駄目です。
このようなことをきちんと処理できるような人が、上に上がっていくべき人なのです。
したがって、社長が失敗したら、社長自身が責任を取ることは当然ですが、一方で、「社長に責任を取らせないように頑張る」という部下は、やはり、上に上がっていくべき人です。そのように、物事は考えていきたいものです。
私の新入社員時代に、「弁解するな」と、課長から何度も怒られたという話をしましたが、それは正しかったかもしれません。
当時は「嫌な人だな」と思いましたが、その後、確かに弁解癖は減りましたし、自分の責任の範囲を広く考えるようにもなりました。そのように言ってくれる人がいるのは、ありがたいことです。
みなさんのなかに、「自分は弁解癖が強い」という人がいたら、それは、管理職や経営者になる人物としては能力が足りないことを意味していると考えてください。
「『これは自分ではなく、部下がやった。隣の人がやった』というようなことを言いたがるタイプは、偉くはならない」ということを知っておいていただきたいと思います。
8世の中に必要な会社か、会社に必要な自分か
経営者は「自分の会社は本当に必要か」と考え続けよ
一番目の論点として、「自分の自由になることと、ならないことを分ける」ということ、二番目の論点として、「自分の能力が変化すれば必ず環境も変化する」ということを述べてきました。
最後に、三番目の論点として、「『必要なもの以外は残らない』という法則に忠実に生きる」ということを挙げておきます。
『感化力』には、次のような質問もあります。
「家電メーカーに勤めていますが、たとえ不況下であっても、困難を打破する秘訣がありましたら、教えてください」これに対し、私は厳しい答え方をしています。
「結局、『必要なもの以外は残らない』という法則に忠実に生きることです」と述べています。
例えば、ある会社の社長が、「経営が苦しいので助けてほしい」という思いで質問してきたとしましょう。
「うちの会社は、今、経営が苦しいのです。どうしたらよいのでしょうか。ライバル社もたくさんあります。国の方針はこうなりました。どうしたらよいのでしょうか」これに対する答えは厳しいものになります。
「『必要なもの以外は残らない』と、自分に問うたことはあるか。甘えてはいないか。補助金のようなもので生きていこうとしていないか」ということです。
結局、必要なもの以外は残らないのです。自分の会社が潰れていくということは、同業他社のほうがよい仕事をしているということです。あるいは、自分の会社が古くなったということです。
経営者たるものは、「必要なもの以外は残らない」と思っておいたほうがよいのです。これは厳しい言葉です。このことを認めるのは、とてもつらいことです。
つらいことではありますが、大勢の人が商品を選択していくなかで、必要でないものは淘汰されていきます。「自分の会社が潰れるということは、世の中にとって必要ではない」ということを意味しています。したがって、「潰れたくないならば、必要な存在になりなさい」ということです。
それは、言葉を換えれば、「お役に立っている」ということでもあります。「世の中のお役に立つような企業になりなさい」──この一言を、常々、禅の公案(*)のように考えることです。
毎朝、出社したら、「自分の会社は、本当に世の中にとって必要か、それとも必要ではないか。ライバルはたくさんあり、どんどん進化している。自分の会社は、本当に必要か」ということを考えてみてください。
「うちの会社は必要なのか。この製品、商品は本当に必要なのか。みんなにとって、これは必要な商品なのか。人に勧めるに足りるのか。買わせ続けることはできるのか」もし、売上が下がり、利益が減り、経営が苦しくなっているならば、お客が逃げているということであり、「必要ではない」と言われているということです。
このようなことを常に考えることは、禅の公案に取り組むようなものです。これに対して答えなければなりません。
この公案一つに答え切ることができれば、経営者としては生き延びることができるでしょう。
(*)考えを深め、悟りを得るために与えられる問い。
「会社にとって必要な人間か」を自分に問いかけよ
それから、社員の立場でも、まったく同じような問いかけをすることが可能です。「あなたは会社にとって必要とされる人間か」ということです。
これも厳しい問いではありますが、会社のなかにいる人間であるならば、幹部やエリートから、一般従業員、平社員であっても、同じことが言えます。
このときに、「自分はこれだけの実績をあげてきた。これだけ貢献した」というふうに、自分の過去の功績を自慢することはできるでしょう。
ただ、ここで問うべきことは、「今、あなたは会社にとって必要なのか。会社を辞めたら、会社のほうが困るような人間か。それとも、辞めても困らないような人間か」ということです。
これを自分自身に問うのは、とてもつらいことです。
例えば、「今、私は給料を二十万円もらっているが、私の同期には四十万円ももらっている人がいる。彼が私の二倍ももらっているのはおかしい。不公平ではないか。私も四十万円にしてほしい。
それが駄目ならば、私と同期の給料を、両方とも三十万円にしてほしい」というような気持ちが出てくるのであれば、そのときに自分自身に問うことです。
あなたは必要な人間ですか。あなたが辞めたら、明日から会社は困りますか。どうでしょうか。
もし困らないならば、今、あなたがもらっている二十万円の給料は、本当はゼロでも構わないということです。本来、ゼロでもよいところを、会社から二十万円の〝補助金〟が出ているということです。
これは大変なことです。
会社にいなくても困らないような人ならば、事実上、給料はタダと同じということであり、単に生活保障されているだけのことになります。
むしろ、「四十万円払ってでも会社にいてほしい」という人にならなければなりません。あるいは、「百万円払ってでも会社にいてほしい」という人にならなければなりません。
したがって、「うちの会社は本当に必要な会社なのか」「うちの商品は本当に必要な商品なのか」ということを、常に考えるとともに、「私は本当に会社にとって必要なのか。
部長として必要か。課長として必要か。課員として必要か。新入社員として必要か」と、自分自身に問う必要があります。
それを問うことなく、不平不満や処遇、競争、嫉妬というようなことばかり考えている人間は、ある意味では、みなが円滑に仕事することを邪魔しているのかもしれません。どうか、自分に対し、そのような問いかけをしていただきたいと思います。
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