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プレッシャーに負けない強い人間になる

セールスパーソンのなかには、大事なお客を前にするとしどろもどろになり、せっかくのスキルが発揮できない人もいる。

反対に、実力以上のセールスを成し遂げる人もいる。後者の場合、困難な状況でいわば火事場の馬鹿力が生まれるのである。

毎日の授業ではとてもよくできるのに、テストになると頭が真っ白になってしまう生徒もいる。そうかと思えば、授業では目立たないのに、大事なテストではものすごくいい点を取る生徒もいる。

こうした違いは、ある人にはあって、ある人にはないという先天的な資質の違いではない。主に、危機に際してどう対応するかという問題なのだ。

「危機」は、人を生かしも殺しもする。危機に対して適切な対応をとれば、普段はもっていないような強さやパワーや知恵を手にすることができる。

一方、不適切な対応をとると、普段はもっているスキルや実力までもが奪われてしまう。

スポーツであれ、ビジネスであれ、社会活動であれ、ピンチを切り抜け、困難な場面でも実力を発揮する人、いわゆる「大舞台に強い人間」は誰でも、危機に上手に対応する術を、意識的にせよ無意識的にせよ身につけている。

危機に際して実力を発揮するためには、次の三つの事柄が必要である。

(1)刺激されすぎない状況でスキルを習得する。つまり、プレツシヤーをかけずに練習する必要がある。

(2)危機に対し守りよりも攻めの姿勢で臨み、危機を脅威ではなく挑戦ととらえ、ポジティブな目標を常に頭に置く。

(3)危機と呼ばれる状況を正しく評価する。ささいなことを大げさに考えたり、また小さな困難を生死にかかわる問題のようにとらえたりしてはならない。

裏を返せば、誰でも大舞台に強くなれる。たったこれだけの態度やスキルを習得し、向上させるだけでいい。

しかも、ほかのサイコ=サイバネティクスのテクニックを利用して向上を促し、身につけた態度やスキルを維持することができる。大舞台に強くなるための素質は誰にでも備わっているんだ。

目次

動機づけの強さと「認知地図」の範囲の関係

危機に陥ったとき、その場しのぎで学習し、対処することができても、きちんと学習することはできない。

たとえば、かなづちの人を足の届かない深さの水槽に放り込むと、その危機的な状況で泳げるようになることもある。すばやく学習して、どうにか泳げるようになるのだ。

だからといって、それだけでは大会で優勝できるほどのスイマーにはなれない。自分の命を救った未熟で不器用な泳ぎ方が身についてしまい、なかなか良い泳ぎ方を身につけられない。

不器用な泳ぎ方では、長い距離を泳がなければいけない危機に陥ったら、命を落としてしようおそれがある。

カソフォルニア大学の心理学者で動物行動学者でもあるエドワード・C・トールマン博士は、人間も動物も、学習を通じて周囲の空間の「認知地図」を脳に形成すると言った。

学習の動機付けが強すぎない場合、つまり、それほど危機的でない状況で学習する場合には、広範で総合的な認知地図が形成されるという。

ところが動機付けが強すぎると、つまり危機的な状況で学習すると、狭い範囲に限られた認知地図になる。

この場合、問題を解決する手段をたったひとつしか学習しないことになるという。さらに将来、その唯一の手段が妨げられてしまうと、フラストレーションを覚え、別の方法や回り道を見つけられなくなる。新しい状況に対応する力を失ってしまうのだ。

そうなると臨機応変に振る舞えず、型どおりにしか行動できなくなるという。

このことをトールマン博士は、危機的状況と危機的でない状況で、「学習」や「訓練」をさせたネズミの実験で見出したのである。

水や食べ物をたっぷり与えながらネズミを自由に歩き回らせ、迷路も探検させたところ、一見してネズミが何かを学習したようには見えなかった。

ところが、同じネズミをある程度空腹のときに迷路に放り込んでみると、効率よくあっという間にゴールにたどり着いて、十分に学習していることがわかった。

このネズミは、空腹という危機的状況に陥っても、うまく迷路に対応できたのである。

一方、極端に空腹で喉の渇いたネズミに無理やり迷路を学習させたところ、先ほどのネズミほど高い脳力を示さなかった。

動機付けが強すぎて、つまり危機的状況での学習だったため、ネズミの脳の認知地図の範囲が狭くなってしまったのだ。このネズミは、ゴールに通じる一本の正しいルートしか覚えていなかった。その唯一のルートを遮ってしまうと挫折してしまい、新しいルートをなかなか見つけられなかったのである。

「危機」は目標へ近づくチャンス

「Risk(危機)」という言葉は、もとはギリシャ語の「決定的な状態」とか、「決断の時」という意味から派生している。

危機とは、道の分岐点のようなものだ。片方へ進めば事態は好転し、もう片方へ進めば悪化する。医学の世界では、患者の容体が悪化して死ぬか、快方へ向かって助かるかという病気の峠がそれにあたる。危機的な状況では、道は必ず二股に分かれている。

九回裏、一点差、満塁の場面で登板するリリーフ・ピッチャーには、打者をおさえてヒーローとなって株を上げるか、打たれて負けの元凶になってしまうか、ふたつの道しかない。

類まれな冷静さを備えた希代の名リリーフとして知られるヒュー・ケーシーは、かつてピンチのまっただ中にマウンドに送り込まれるときの心境を聞かれて、こう答えている。

「僕はいつでも、自分がどうするか、何を起こしたいかを考えている。バッターがどうするかとか、自分に何が起きるかなんで考えはしないんだ」そして、自分が起こしたいことだけを考えて、それが実現できると思えば、たいていはそのとおりになる、とも言った。

この姿勢もまた、どんな危機的な状況にもうまく対処するために大事なものだ。

脅威や危機に対してネガティブに対応せず、積極的な姿勢を維持して前向きに対応すれば、その状況自体が刺激となって、眠っているパワーを解き放つことができる、と。

要するに、目標への指向を維持しろということである。ポジティブな目標を意識する。危機を乗り越えて目標に到達しようとする意思をもつ。

それができれば、危機的な状況そのものが刺激として作用し、隠されたパワーが解き放たれ、日標が達成できるようになるのである。実際、初めは危機だったものが、もっと重要な目標へ近づくためのチャンスとなることも多い。

何が起きても「完成図」は決して手放さない

その昔、スラム街のひどく荒れた高校の校長を務めた女性と話をしたことがある。彼女はいわゆる「男の仕事」に就いた、当時では非常に珍しい女性だった。そのうえ、たくさんの問題に直面していた。

教師たちはヤル気をなくして形だけの仕事に徹し、資金や教材も足りないうえ、生徒はまったく勉強をせず、犯罪や暴力も起きていた。

毎日「針のむしろに座っている」気分だったそうだ。だが、校長になってからの二年間で、彼女は学校を大きく変えた。生徒の出席率も成績もアップし、不良は排除され、真の学習環境ができあがった。

あまりの変貌ぶりに、遠くの街からも学校関係者が見学に訪れるほどだった。一九六〇年代後半に女性が学校再建を指揮したということも、なおさら驚かれる要因だった。

彼女に、嵐のように過酷な日々をどうやって切り抜けたのかと尋ねたとき、次のような説明をしてくれた。彼女は、ひとつひとつの危機を、最終日標につながる何かを達成するチャンスなのだと思いつづけた。

それぞれの問題に対処することは、ほかの教師や生徒から信頼されたり、一日置かれたりするためのチャンスだと考えた。

こうしたことを、ひとつひとつレンガのように積み上げていくことで、学校という厄介な組織に対する影響力や支配力を着実に築いていけると自分に言い聞かせたという。

最悪なことがあった日の終わりには、自分がきちんと積み上げたレンガがいくつか崩されただけで、明日それを元に戻してもうひとつ別のレンガを積み上げればいいと考えた。

大問題が発生したときには、解決法を探るだけでなく、これを解決することで自分の思い描く学校再建にどう近づけられるだろうかと自問した。

「まるでジグソー・パズルを解いているような感じでした」と彼女は言った。

「私の日の前には、完成したらどうなるかというパズルの箱に描かれた絵と、ばらばらのピースの山がありました。たいていは、次のピースをてきぱきと見つけることはできませんでした。

ピースの山からひとつ取ちては、パズルに合わせてみるほかありません。ときには、ピースに火がついてしまい、なんとか消し止めてから使ったこともあったし、ぼろぼろに裂けたピースをテープで補修しないといけないこともありました。

それでも、少しずつパズルはできあがっていきました。コツは、パズルの箱を常に手元に置いて、完成図を見失わないことだったんです」

プレスコット・レッキー博士は、感情は「強さを与える」ものであって、弱さのしるしとなるものではないと語っている。

そして、そもそも感情は「興奮」の基本的なもので、それがそのときどきの心の目標―問題を克服したいのか、それから逃げ出したいのか、それをぶち壊したいのか―に応じて、恐れや怒りや勇気に形を変えて表れているにすぎないという。

目標へ向かって前進し、危機に陥ってもそれを最大限活用して成功しようという態度でいれば、その状況での興奮はこの態度を強化する方向に働く。勇気が湧き、前進するパヮーが高まるのだ。

逆に、当初の目標を見失い、危機から逃げ出そうとしたり、なんとかそれをかわそうとしたりする態度でいると、そうした逃げの態度が強化され、恐れや不安を感じてしまうのである。

物事を大袈裟に捉えない

危機に際してもたらされる損害や失敗を、やたらと大げさに考えてしまう人がたくさんいる。私たちは自分自身に対してイマジネーションを働かせて、物事を大げさにとらえてしまいがちだ。

さもなければ、状況に対してまったくイマジネーションを働かせず、何も考えずにどんな小さなチャンスや脅威も、あたかも生死の問題のようにとらえて反応する。

昼間のメロドラマを見たことがあるだろうか?・どのドラマにも共通する要素がある。それは危機が次から次に訪れることだ。

こうしたドラマでは、どんな出来事も危機になり、登場人物は誰もがひどく大げさな感情を示して反応する。

しかし、あなたは自分の人生を、どんな出来事にも大いに興奮してしまう昼メロのようなものにしたいとは思っていないはずだ。

交通事故でも、多少不便な思いをするぐらいの接触事故と、命にかかわるケガを負って病院に運ばれる大事故とでは、ショックの度合いが違って当然だ。

だがメロドラマでは、どちらでも同じぐらいの大騒ぎをする。あなたはこれよりも違いのわかる目をもてるはずだ。自分の人生や周囲の人にひどく不満を抱いている女性を、私はカウンセリングしたことがある。

その女性は毎日、何かをきっかけに夫や兄弟や隣人と激しい口論をしていた。その言い争いについての彼女の説明は、昼メロの脚本に出てきそうなほどドラマチックなものだった。

彼女は、どれほど小さな問題も大事件のようにとらえ、ほんの少し冷たくされてもプライドをずたずたにされたように感じ、さらには天気が悪くても、自分の不幸のように受け止めていた。

カーペットに飲み物をこぼしただけでも、大火災に遭ったような騒ぎだった。まさにメロドラマのヒロインになっていたのだ。こういう人はどこにでもいて、自分自身へはもちろん、周囲の人たちにも害をもたらす。

出来事や他人の行動に対して不必要に激しく反応するから、爆弾と一緒にいるようなものだ。

だが本人にとっては、そうした興奮のしすぎは至って当然の反応であったので、それを変えるには自己イメージに対して根本的に取り組む必要があった。

本当の意味での危機に直面した場合は大いに興奮しないといけない。危機的な状況では、興奮していると有利に働くからだ。

ところが危険や困難を大げさにとらえたり、嘘や歪められた情報を鵜呑みにしたりすれば、えてして必要以上の興奮を呼び起こしてしよう。実際の脅威は思ったよりはるかに小さいのだから、そのような興奮は適切ではない。

しかし創造的な行為では、この興奮はなくせない。あなたのなかに、神経質な質という形で封じ込められる。そして感情の高ぶりが度を越すと、その場に不適切なので、行動の助けにならず、害を及ぼしてしようのである。

危機の大半は人生の小さなひとこま

小さな危険や架空の脅威を、絶体絶命のピンチだと思い込んで、本来の針路から外れてしまう人は多い。

一〇代の少女にとっては、ボーイフレンドや片思いの男の子がチャーミングな女の子と親しげに話しているのを目にしただけで、それは生死にかかわるほどの問題になる。

そして「もう死んじゃいたい―」と叫んだりする。

おわかりかと思うが、それから何年か経てば、少女はその出来事や相手のことすら覚えていない。人生は長いのだ。それなのに、多くの大人が、いつまでも一〇代のような生き方を続けている。

取るに足らない危険や架空の脅威を絶体絶命のピンチだと思い込んで、本来の「針路から外れて」しまっているのだ。セールスパーソンも、大事な客のもとへ向かうときに生死にかかわる問題のように振る舞うことがある。自分にこう言い聞かせてしまうのだ。

「この契約を取りつけないと、何力月もの努力が水の泡になる。ノルマも達成できないし、ボーナスももらえない。予定していた休暇が取れなくなるなんて、妻にどう話そう。部長に担当地区を減らされてしまうかもしれない……」たったひとつの商談が死活問題になってしまうのだ。

ところが一年というスパンで見れば、そうしたチャンスを逃しても、手堅く成功を積み重ねることで埋め合わせができる。思わぬ幸運に恵まれて新しい契約がまとまったり、大口注文が舞い込んだりすることもあるだろう。

死活問題の商談が三月だとしたら、クリスマスの頃にはもうぼんやりかすんだ過去の出来事になっているだろう。ましてセールスのキャリア全体で見れば、まるっきり重要なものではなくなる。人生は長いのだ。

ひょっとしたら、ピンチのときに多くの人が生死にかかわるように感じるのは、失敗がしばしば死を意味していた太古の昔から受け継がれた感覚なのかもしれない。よく調べてみれば、日常生活で陥るピンチの場面のほとんどが、生死の瀬戸際などではなく、前進かその場にとどまるかを決める機会でしかないことがわかる。

たとえば、セールスパーソンに起こりうる最悪の事態とは何だろうか?・注文が取れれば暮らし向きがよくなるが、注文が取れなくても暮らし向きが悪くなるわけではない。

求職者も、働き口が得られるか得られないかのどちらかだが、得られなくても就職する前と立場は変わらない。

態度をちよっと変えるだけで、どれほど大きな成果が生まれるかに気づいている人は少ない。

私が知っているセールスパーソンは、びくびくした態度を「自分には得られるものばかりで失うものなどない」という態度に改め、収入を倍に増やしている。

次のチャンスをうよく利用しようと落ち着いて気持ちを整理している人には、必ず第二幕が用意されているようだ。

今日陥っている危機の大半は、結局は長い人生のなかの小さな「ひとこま」にすぎない。今日がつらくても、明日には「第二幕」が待っている。今週が終われば、次の月曜日から第二幕が始まる。

たとえ本物の悲劇に直面しても、そのうちに第二幕の脚本が書かれ、上演されるのだ。あとから振り返るような視点で現在の出来事を眺めることも、イマジネーションの貴重で創造的な活用法だ。

過去に経験した出来事で、それが起こった時点では悲惨で重大な結果をもたらすように思えたのに、しばらくすると大したことがないとわかったものをいくつか思い出そう。

次に、いまから三年後、四年後、五年後の未来に身を置いて、今日の出来事を振り返ってみる。そしてどう感じるか、今日の出来事が自分の人生にどのぐらい影響を与えているかを考えてみよう。

●注記*1エドワード・C・トールマン…一八八六〜一九五九年。

アメリカの心理学者。行動の目的性を重視し、さらに主観的なものを媒介変数として客観的に取り扱うことを提案した。行動における主観的な認知を力説した。

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