『荘子』に、「木鶏」という言葉がある。木鶏とは、読んで字のごとく、「木の鶏」のことである。その由来は、こうである。紀惜子という男が、非常に闘鶏を好きな王様のために鶏を育てていた。
闘鶏を訓練し始めて十日たった時に、
「もういいか」と、訓練をしている紀恰子に王様が聞くと、
「まだ、だめです」
「どうしてだ」
「虚勢を張っています」
また、十日して、
「もういいか」と聞いた。
「まだ、相手の動きに心を動かすところがありますので、だめです」
さらに十日たって、
「どうなってる、まだか」と聞くと、
「もうよろしいでしよう」
「どうしてだ」
「木の鶏のようになって、敵が来ても動かないようになりました。これを見ては、どんな相手でも戦う気力を失い、逃げ出してしまいます」と言ったという。
「木鶏」が一番強い。敵が来ても、「木のごとくある」と、動かずして自然に威圧を感じさせてしまうからだ。
日本経営合理化協会の三代日会長の福田一氏が衆議院議長をしている時に、尋ねると、一幅の掛け軸が自室の一番大事な正面を占めていた。氏は、不動明王を信仰し、成田山新勝寺の別院を故郷の福井県三国町に建立した程である。
掛け軸には、成田山新勝寺の当時の貫主松田照應翁の筆で、「風動くに非ず 旗また動かず唯心動く耳」(原文は漢字)と認めてあったように記憶しているが、木鶏と酷似した不動の姿勢に美を感じたものである。眼光が鋭く、いかにも孤高を守った福田一氏が偲ばれてならない。
日本人の心の中に住んでいる教えは、大概にして、神道・仏教・儒教の二つである。ほとんど、日本人の精神が似ているのは、三つの教えが程よく混じり合って上手に普及しているからに違いない。どの教えも、「他人に優しく、己に厳しく」と教えている。
コスモ石油(かつての丸善石油)を創った和田完治氏は、「宇宙の宮」を築いて、自然や宇宙の原則といった宗教のような考えを事業に持ち込んだ。
ケントクを創業した鈴木清市氏は、「祈りのケントク」と呼ばれるほど、社員の一人一人にまでも感謝や祈りを教え込んだ。
鈴木清市氏は、後にダスキンを創業したが、フランチャイザーのリーダーとして神に仕えるもののようにフランチャイジーを集め、教え、育て、苦楽を共にして大をなした人だ。
秋本インターナショナルの秋本賢一社長は、私感だが、どこか博徒のような風貌があるが、フィリピンのセブ島でホテルやゴルフ場やコンドミニアムの分譲をやっている。お客様には、アジア人も、ョーロッパ人もいるが、日本人は少ないと思う。
セブ島のラグーン(潟)を境界線に、現地人を立ち入らせないリゾートを経営しているが、ラグーンに一本の橋を架けて、その橋の上に機関銃をもった現地人の歩哨を立たせている。前の持ち主のフランス人が、そういう設計をし、運営していたからだが、日本の平和と比べ、これには驚いたものである。
ラグーンの内側のホテルと外側の現地人の生活の差はひどい。天国と地獄のようである。内側には贅沢があって、外側には貧乏のドン底がある。外側の人達はパンツ一枚の生活で、素足の人も多い。ほとんどの光景を見るにつけ、終戦直後の我が身を思って眼が向けられないほどの悲しさが胸に込み上げた。
ある時、秋本氏と一緒に、その外側の世界へ出かけたことがある。そこは、ラグーンを隔てたすぐ近隣であった。しかも、現地の子供達が通っている小学校と中学校を一緒にしたような、要するに、そんな学校を訪問した。学校とは名ばかりで、バラック建て、部屋によっては屋根がないほど貧しい。私たちの一行は、社長ばかりの勉強会で、約二十人いたが、秋本氏は黙って帽子を回した。二十人は、無言のうちに一人一万円ずつを帽子の中に入れた。
つまり、三十万円がわずか一、三分のうちに集まった。集まった金を、私が代表だというので、その学校の校長先生に渡した。物価の安いセブでは、屋根をつけるだけでなく、その三十万円で「校舎を建てたい」という意向を、校長先生が私たちに伝えてくれた。 一行三十名のなかの幾人もの方々が、帰国後も、娘や息子の衣類や学用品を長い年月送り続けている。
ともかく、その学校の門や壁に、「SIR KENICHI AKIMOTO」と書いたものを見つけた。たまたま、彼は私の疑間に答える形で二十名を案内してくれたが、彼自身でも、年に何回となく学校に寄付を行っていたことを校長先生に聞いて、さらに驚いた。現地の人々が彼に協力を惜しまないのは、こういう彼の行為があればこそだと心から拍手を送りたくなった。
仕事柄、『孫子』を読んだりするが、兵法を学ぼうと思ってはいない。資本主義は競争が原理で、戦っているという意識が必要だからである。時には、軍神の研究をしてみると良い。
上杉謙信は毘沙門天を信仰し、戦いに明け暮れ、不犯の誓いを立てて、生涯、姿らなかったほどである。とても常人とは思えない。信仰とはそういうものだが、宗教心は、信じないものには不明の心の境地である。
鞭声粛々 夜 河を渡る
暁に見る 千兵の大牙擁するを
遺恨十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
上杉謙信と武田信玄が戦った、有名な川中島の合戦を詠じた頼山陽の詩句である(原文は七言絶句)。
謙信は、積年の恨みを晴らすために、勇猛果敢にもたった一騎で信玄の陣地に斬り込むが、すんでのところで信玄の軍配に阻まれて、宿願を果たせなかった。馬の頭を巡らすと、千曲川を渡って、疾風のように自陣に引き上げたと伝えられている。
謙信と信玄は、互いに勇猛と覇を競い、戦いに命を賭けた好敵手であった。正攻を重んじ、卑怯や謀略を退けた。「合戦」で、まっとうに勝ちたいがために、越後の謙信は、海のない甲斐・武田軍が塩がなくて困っているのを見て取ると、永の恨みを越え、すぐにも塩を送って元気付けたほどである。戦いに明け暮れ、戦いそのものに徹した両者には、兵糧攻めや奇計を弄して勝っても全く無意味だという信仰があった。戦いは、まさに宗教的で崇高な営みなのである。二人とも入道している。「謙信」も「信玄」も、その法号である。
その後、信玄の子の勝頼の代になって、織田信長が一番恐れたのは、信玄と勝頼の二代にわたって軍師役を務めた、恵林寺の住持・快川和尚である。宗教的で、軍神を街彿とさせたからに違いない。信長が甲斐に攻め込んで、真っ先に殺したのは快川だった。寺が兵火によってまさに焼き払われようとする、その時、快川は火の中で座禅を組んで、
「安禅は必ずしも山水を須いず 心頭滅却すれば火自ずから涼し」と唱えて死んでいったと、広く伝えられているが、この旬のそもそもは『碧巌録』の中にある。
それはともかく、戦いとは非常に宗教的で、神がかったものである。宗教心は、時に、信仰する者に実力以上の力を発揮させもする。
リーダーたる社長はいつでも、もしどこかに神がいるとしたら、何のために自分をこの世に遣わしめたかを思うことだ。そう思うことで、本来へ立ち返らせ、強い宗教心で物事に当たる事が出来るようになるものだ。
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