人でも、物でも、会社でも、個人でも、有機体でも、無機体でも、存在しているものはすべて生きている。この哲学はキェルケゴールが確立した実存主義であるが、フランスのサルトルもボォヴォワールも、インドのタオも、強く必要とされるものはすべて存在できることを唱えて久しい。
会社の繁栄は、まず、顧客に強く必要とされる商品やサービスを創り出すことでしか起こらない。
「あなたの会社の商品はすばらしい」と言われ、社員もお客様に、「この人からしか買いたくない」と指名され、強く必要とされなければ、売上は伸びないものだ。
一個の人間である女は、母になったり、妻になったり、恋人になったりするが、母は子供に強く必要とされる存在である。また、妻は夫に強く必要とされて活々と生きている存在である。その母がわが子を失うと、自分の生命さえ断ったりする。妻は、夫に裏切られて死を選んだりする。互いにそういう存在である。
相手にその生命を生かされている存在なのだ。人間の有り様、物の存在価値や存在する理由、職業の存在する理由や価値の本質を良く見つめ、強く必要とされるように、磨くことが自身を繁栄させることだという認識がなければ、スタートから間違うことになる。
子孫にも、そういう哲学を伝え続けなければ、永い繁栄を続けることは困難である。洋服でも、靴でも、カバンでも、ボールペンでも、テレビでも、何でも生きている。
たとえば、グラスで水を汲む。グラスは、完璧な形を保って水が汲めるから、グラスとしての存在価値がある。必要とされ、生きているわけである。つまり、グラスを、お客様が買ってきて、使おうと思う。そこに、グラスをつくっている会社の繁栄がつながっている。
グラスが割れれば、使いものにならないから、捨てられる。使えないものは存在価値がなくなる。つまり、死ぬわけである。同様に、お客様に嫌われる社員は存在の価値がないし、おいしくないものを売っているレストランも存在の価値がない。
長く繁栄していくためには、社長は、まず事業経営の中で存在価値を大いに高めていくことを全社員に教えなければならない。それと同時に、商品とか社員たちをそういう視点に立って鍛えていくべきだ。
私は、大きな白い犬を一匹飼っている。
それは、私の子供達が、いよいよ親離れするという時期に飼ったものである。子供達を心配するよりも、妻が子離れするのを手伝ったという方が正確であり、また、子供達がいないので、私の方をジーッと見るのではないかと案じたからでもある。
ピレネーマウンテンドッグというフランスから輸入した犬で、小さく愛らしい子犬だったが、三日で一キログラムも大きくなるといわれる通り、アッという間に妻の体重を超えて、今では七十六キロにもなった。雌犬だったので、オードリーと名付け、妻はわが子のように可愛がっている。
あるとき私は、三階の書斎で原稿書きをしていた。すると、「早く来て!」と、階下から妻が大声で叫ぶ。何事かとびっくりして、階段を二、三段すっ飛ばし、大急ぎで駆け降りた。
「ちょっと見て、ちょっと見て」と、テレビの画面を指さし、食い入る面持ちで妻が言う。そこに、 一匹の年老いた茶色の雌犬が横たわっていた。白髪も交じっている。倒れてオッパイをだらんとたらし、舌も出してあえいでいる。「あっ、この犬、危ないね」と言いながら、画面を一心に見ていた。
ムツゴロウさん、畑正憲さんという動物文学者が、老衰で危篤の犬の前に、しゃがみこんでいた。すぐそばにも、獣医らしき人が中腰になりながら、犬を診ていた。舌をダラッと出し、日は宙に浮いたようになっている。数秒たってから、急に犬の腹が何かクッと縮こまり、それから、息が急に遠のいて、腹が膨れる間隔が三十秒に一回、四十秒に一回、 一分に一回、一分二十秒に一回、とうとう三分に一回ぐらいになった。
獣医らしき人がムツゴロウさんに、「かわいそうに、もうだめです」と、肩を落としてつぶやいた。ムツゴロウさんは、犬の上に覆いかぶさると、首をかき抱いて、ワーッと大声をあげて泣いた。大粒の涙を犬の首にボトボト垂らしていた。
ムツゴロウさんは、動物文学者として本当に一流だと思う。他の人ではとてもできないようなことを、平気で動物にやってあげている光景を見たことがある。馬のオシッコを手に取り、ペロペロなめていたことがある。猛獣のジャガーに抱きついたり、野生のアナコンダを首に巻いて締めつけられているのを見たことがある。すごいものだ。私は、ムツゴロウさんを信用している。世界中の動物文学者の中で、 一番信用している。
それぐらい信用している人がワーッと泣くから、「ああ、これはだめだなあ」と、胸を鋭くえぐられる思いがした。こっそり妻を見やると、妻も目を真っ赤にして泣いていた。
ムツゴロウさんはいっぱい犬を飼っているので、片方で犬が死のうとしているのに、そこから十メーターか十五メーター離れたところでは、子犬が生まれていた。こうなると、まさに人生と全く同じだ。生まれて一週間か十日たったぐらいの、その子犬の、六、七匹いる中の二匹が、今にも死にそうな老犬の方ヘョチヨチ歩いてきた。「あれっ、あれっ」と思った。
オッパイにでもあぶれたのか、二匹の子犬は、死にそうな、その年とった雌犬のオッパイに食らいついた。足で押さえながら、チュッチュ吸うが、オッパイが出ない。誰が撮したのか、それからが素晴らしいビデオを見せてもらった。
しばらくたつと、ムツゴロウさんが泣きながらかき抱いていた犬の首を、驚いたようにして下におろした。みるみる犬の容態が変わっていって、三分に一回しか腹が膨れなかったのが、三十秒に一回、二十秒に一回、十五秒に一回、十秒に一回、膨れるようになって、やがて頭を持ち上げ、二匹の子犬をベロベロなめ始めたのだ。これには、びっくりした。
それから、その親犬は二年生きた。 一年たち、二年たったとき、二匹の子犬、自分が生んだのではない子犬、しかも自分より大きくなった子犬を従えて歩いているのがちゃんとテレビに映っていた。おしまいには、何とオッパイも出たというナレーションもあった。犬でもそうだが、強く必要とされれば、すべて長く生きることができる。
人間も、犬と同じように、他の存在に対して存在する価値がなくなった時に死を迎えざるを得ないようになっているとさえ思えてならない。私は、時々、こういう不思議さに戸惑うことが多い。天にもし神様がいるとすれば、「強く必要とされる存在になることが、命を長く保つ秘訣だ」ということを、訊ねてみたい気持ちで一杯である。
小田急線は新宿と小田原を結ぶ電鉄であるが、新宿から走って約二十分、新百合ヶ丘の駅で降り、線路を直角に右へ約十分歩いたところにオナーズヒルと名付けられた住宅街がある。そこを開発した人は津島亮一さんと言い、株式会社「私たちとミサワホーム」という実に長い名をもつ会社の社長であった。
このオナーズヒルは、五千坪、わずか二十九区画の小さな街であるが、周りの大企業が開発した雛壇式の造成地とは全く異なってつくられている。すべて生垣で区切って、その中に家があるのだ。
小高い丘の斜面をうまく活かし、緑の生い茂る豊かな自然と環境を復元することを、その開発のキーコンセプトとして出発している。街の中央にわざわざ幅広のS字の石畳の道路を配し、その左右に何本もの散策路を設けている。画一を避け、個性的な建物が目を引くが、すべて色が統一されているために決して調和が乱されることがない。道路ひとつとっても、わずか二十九区画に九千百本の街路樹を植え、その一本一本から家々の郵便受けに至るまで細心の注意が払われ、自然と環境とのバランスが見事に図られている。住む人々の満足や誇りだけではなく、道行く人々を楽しませ和ませてくれる。オナーズヒルはそんな街である。
津島さんは、「戦前の田園調布や芦屋に勝るとも劣らない立派な功績を、今に創造し、幾久しく後世に残したい。人の寿命は、百年にも満たない。しかし、良い街を残せば、五百年も千年も続く。二十一世紀への文化をつくるんだ」と、言っている。
お粗末な家をつくって売ってる会社が、生き残れるわけがない。
物が売れる根源も、会社が維持できる根源も、まず事業の哲学とか経営の理念に由来する。利益を法外に出すことでも何でもない。哲学や理念に全エネルギーをつぎ込んでいって、はじめて会社は繁栄する。
私は、数多くの会社を診てきて、つくづくそう思う。いい会社、お客様の列ができるような会社は、みんな哲学や理念をもっている。それを忘れないで欲しい。
住宅の会社は、憩いとか、あるいは健康とか、さらに美とか、誇りとかをコンセプトにしていなければならない。家は、つくった商品が人の目に長い問見えるから、いい会社がつくったのか、悪い会社がつくったのか、すぐにわかる。
その時に売りやすいからといって、買う人の心を高揚させない家をつくっても、長く人気を博すことはない。長く事業を考えた時には、決して妥協しない。そういうことが非常に大切である。
幾代も続くためには、商品も、サービスも、システムも、永く続いて生きていく価値がなければならない。特に、見てすぐ分かるものは幾代にもわたって、その価値が評価されるものだ。
悪いものは続かない。哲学とは、 一口で言えば原理原則である。存在する価値のないものは、永く続いて生きた例はない。
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