復刻に寄せて本書は『マネジメントへの挑戦』に続く、一倉定の初期著作シリーズの復刻版二作目である。
原書の発行は、『マネジメントへの挑戦』から四年がたった一九六九年、執筆は前年の一九六八年。
当時の著者の問題意識は、第7章の最後に書かれている。
「企業は生き残らなければならない。それが近時、非常にむずかしくなってきた。かつては倒産といえば、不景気によるものが多かった。しかし、この二~三年は景気に関係なく、倒産は増加の一途をたどっている」。
「いざなぎ景気」のさなかにあり、日本のGNP(国民総生産)が旧西ドイツを抜いて、米国に次ぐ世界第二位になったのも、この一九六八年だった。
しかし、個々の企業活動においては競争の激化や人件費の高騰などにより、本書でも例示されているように大型倒産が相次いだ。
そうした時代の変質を受け、マネジメントの見直しが問われていたときに、中小企業を中心に経営者の救世主となったのが一倉定だった。
本書のテーマは、目標管理である。変質する経営環境の下で、なぜ目標管理に焦点を当てたのか。
その理由は本書の随所にあらわれている。
「企業というものは、放っておけば赤字になり、倒産するようにできているのである。それを黒字にもってゆき、存続させなければならないのが経営者なのである」
「すぐれた目標は『生き残る条件』をもとにし、凡傭な目標は過去の実績をもとにしてたてられる。すぐれた目標は会社の存続と発展を約束し、凡傭な目標は会社を破綻に導くのだ」
「目標は上司の決意であり、チェックは執念のあらわれである」──。
生きるための目標をたてる。
これが著者の揺るぎない主張である。
文中の「会社が楽しいところである必要は毛頭ない」といった言葉だけを見れば眉をひそめる向きもあるだろうが、会社がつぶれてしまっては何も実現できない。
組織の人間関係を良好にするのが経営ではなく、目標達成に向かって努力し、不可能に思えることを可能にすることを通して、本当の楽しさを享受できるというのが、著者の真意であろう。
子息による巻末の寄稿にあるように、幾度も倒産を経験した著者だからこそ建前論抜きで語ることができるマネジメントの本質である。
人間の営みである経営というのは、あまたの企業の失敗を経て、基本的には時間と共に進化するものだと思う。
しかし、五〇年以上前の本書の内容は、現代に書かれた新刊書と見まがうほどの新鮮さを有する。
この事実をどう受け止めればいいか。
ともあれ、時代に左右されない経営の本質を突いていることの証左であることは確かである。
まえがき
筆者は、過去において技報堂から二冊の本を出している。
一冊は〈あなたの会社は原価計算で損をする〉であり、もう一冊は〈マネジメントへの挑戦〉である。どちらも従来の考え方をぶち破る意図のもとに書かれた。
いままた、アンチ目標管理の主張をこの本で述べようとしている。ずいぶん、あまのじゃくである、と自分でもおかしくなる。
しかし、何も好んで逆説ばかりとなえているわけではない。筆者の経営に対する信念から生まれる主張が、逆説になってしまうだけなのである。
〝企業は戦争である〟、そして、〝このままでは企業はつぶれる〟というのが筆者の認識である。
企業をつぶす最大の要因は客観情勢である。
その客観情勢の圧力に対抗して生き残る道を探し求めているうちに、自然に生まれてきた筆者の考えなのである。それが従来の考え方とぶつかるのである。
世に行われている目標管理の理念も、筆者にはがまんがならないのだ。
そこには、きびしい現実への自覚もなければ、実戦の知恵もなく、きれいごとの観念論と、愚にもつかない分類学を、ほんわかムードの人間関係論で煮こんでしまっている。
経営のケの字もない。
次元の低い目標管理のテクニックを、経営のためと思って企業に導入し、いくたの混乱をひき起こしている現実を、目のあたりにし、あまりにも多く見せつけられると、黙っているわけにはいかなくなる。
ここにあえて毒舌をもって、現在の目標管理の誤りを指摘するとともに、筆者が真の姿と信ずるものを、ここに述べることにしたのである。
筆者の主張は、筆者が現実に目標による経営の推進を援助しているいくつもの企業においての実際の経験から生まれたものであって、頭の中で、でっちあげた空論ではない。
そこには、血の出るような苦労をしている企業体の人びとから教わった、尊い教訓がいくつもいくつも含まれているのだ。
賢明な読者が、この小論の中から何かをつかみとっていただけたら、幸いである。
昭和四三年九月一倉定
1章経営不在の目標管理
1・1 ある困惑
「うちでも目標管理を導入していますが、困ったことがあります。それは、社長から割りつけられた目標と、各部門で自らたてた目標が食い違うのです。
社長の目標がムリなのか、部門の自主的な目標があまいのか、どちらかわかりませんが、目標が二つあるのはおかしいし、現実には社長から割りつけられた目標が優先する。
そうすると、部門の長は、〝われわれの意向を無視した押しつけは困る〟というのです。いったい、どうしたらいいのでしょうか」
ある会社の研修室長の質問である。
この質問が、現在わが国に広まっている目標管理の理念の矛盾から生まれる混乱を、端的に物語っている。
この会社は、長期にわたって赤字続きであり、社長と副社長はその責任を負って退陣し、常務であった人が社長の椅子について、必死の挽回策を講じているその最中にこれである。
社長の意図と成員の考え方に大きなギャップがあるのだ。(*1)
この質問に対して、筆者は次のように答えた。
「社長の設定した目標が、どのようなものであるかは知らない。しかし、その目標は、会社を立てなおすために、おそらくは、幾十夜にもわたり、眠ろうとしても眠れない苦悩の末に、血の出るような思いで決定されたものであることは間違いない。その決定までに、社長は考えられるかぎりのすべての事柄について考え抜いているはずである。
会社の赤字を逆転して黒字にもってゆくためには、あまりにも多くの客観的・主観的な障害や大きな制約があり、どの障害と妥協し、どの制約には譲歩するかを検討しつくし、これ以上妥協したら黒字転換はできない、というギリギリ、後へは引けない線を打ち出しているのだ。
ムリであるとか、ないとかの問題ではないのだ。やり抜くよりほかに会社の生きる道はないのだ。
それに反して、各部門の長が自主的に設定した目標は、苦心はしたであろうが、会社を立てなおすために、幾十夜にもわたり眠ろうとしても眠れない苦悩の末に打ち出した目標でないことはたしかである。
あまい目標がその証拠だ。常識的な苦心しかしないで、社長の大苦悩の末に打ち出した目標を批判すること自体間違っていやしないか。あなたの会社は赤字なのだ。ぐずぐずしていたらつぶれるぞ。
部門の長がやらなければならないのは、社長の設定した目標を批判することではない。社長の打ち出した目標を達成するために、死にものぐるいになって働くことなのだ」
研修室長は、筆者の言を理解してくれた。
そして、「事態の認識がたりず、社長の意図の理解がたりなかった」と反省された。りっぱなかたである。
「目標を部下に割りつける」といいながら、他方では「自ら目標をたてる」という指導理念の矛盾が、上記のような混乱を随所で起こしているのを、目標管理の先生がたは、まったくご存じないのだ。
もう一つ別の例をあげよう。
ある会社で目標管理を導入したけれど、現場からいろいろな批判や反発があって、円滑に受け入れられないのである。
その理由は何かというと、主なものをあげてみると、
- 目標でなくて、ノルマだ。われわれは、きびしいノルマの達成にがんばっているのだ。
- 個人目標は会社目標と統合できない。
- ミスを許せというが、小さいミスも許されないのだ。
- 目標をたてても何にもならん。あまりにも不安定要素が多すぎる。
いちいちもっともである。
きびしい現実の中で、血みどろになって働いている人びとに、ほんわかムードの観念的目標管理論を導入するから、このような反発を食うのだ。
これは、目標管理を推進している企業内の担当者が悪いのではない。観念的目標管理を企業体に売りつけている〝偉い先生がた〟が悪いのである。
以上のような現場の反発に対して、目標管理の指導理念は、何の説明もできないのである。
何しろ、「目標はノルマではない。上から押しつけてはいけない。自ら目標をたてさせる。多少の誤りは大目にみる。自ら業績を評価させる……」
というような指導理念と真向から対立するのだから、疑問を解明してやるということとは事柄が別である。理念が根本的に違うのだ。
1・2形をかえた人間関係論
目標管理の意図するところ、つまり「きびしい企業環境に対処して企業が期待する成果を達成するため」ということは、まことにそのとおりであり、そのために「企業内の人びとが、それぞれ高い目標をかかげて、その達成のために自由に活動し、創意を発揮するように指導する」という指導理念には、もろ手をあげて賛成する。
とにもかくにも、マネジメントの理論が、客観情勢に目を向けはじめたのは、まことに結構であると喜んだのもつかの間、それはヌカ喜びになってしまったのである。
というのは、現在の目標管理の哲学と指導理念が、りっぱなうたい文句とはうらはらに、それとはまったく別のものになってしまっているからである。
まさに現代版「羊頭狗肉」である。その原因は、「企業の目標の本質」に対する偉い先生がたの認識不足にあるといえよう。
目標とは「期待する結果」である、と定義づけされている。言葉の定義づけとしては、そのとおりである。
しかし、たんなる言葉の定義づけに終わってしまって、本質に対する掘り下げが、ぜんぜんなされていないのは、まことに残念なことである。
というよりは、それは企業を知らないためにできないのだ、といったほうがより適切であろう。
だから、言葉の定義づけを、そのまま〝個人の目標〟にあてはめ、〝個人目標の管理〟にでもしてしまうよりほかないのである。
それだけでは、あまりに芸がないので、お得意の分類学を使って、個人中心型・組織中心型・成果中心型などに分類し、形をととのえるのである。
小細工だけは、まことにみごとな腕前というほかない。
そして、目標は「自らたてさせる」ようにしなければ、「必ず敵意・反対・口実が生まれる」(エドワード・C・シュレイ)という伝統的な人間関係の教えを、まっさきに導入してしまうのである。
それから後はもう、ひたすら人間関係論一本に指導理念がしぼられ、徹頭徹尾人間関係論という砂糖で煮こんでいる。
だからこれを食べると血液が酸性化してドロドロになり、企業の健康がそこなわれるのである。
いわく、
- 「目標は公正で納得のいくものでなければならない」
- 「目標はノルマではない」
- 「上から押しつけるのではなく、各人の自発的意志に基づいてたてる」
- 「上下のコミュニケーションによって、良好な人間関係醸成の過程から目標が設定される」
- 「上司が目標を設定する際に部下を参画させる」
- 「目標は各人の能力に応じた適当な高さのものでなくてはならない」
- 「結果はまず本人のチェックによる自己反省が必要である」
など、あとからあとから際限もなく出てくるのである。
そこにはもう、「きびしい企業環境や企業の目標」という最初のうたい文句はどこかへおき忘れてしまって、ひたすら部下との人間関係をよくする指導のやり方に終始してしまっている。
完全に本道からそれてしまっているのである。
というのは、実はバカ正直の見方であって、本当は、はじめから企業環境など眼中にないのである。
ただ、そういうふれこみにすれば、目標管理がいかにも新しく、時代にマッチした考え方のようにみえるから、うたいあげるだけのことなのである。
だから筆者は、現在の目標管理は、「新しい衣をまとった、古い人間関係論」がその本質であるというのだ。
1・3自主設定では客観情勢に対応できず、企業目標にも合致しない
目標管理では、「客観情勢の変化に対応する」といいながら、一方では個人の自主的な意志に基づいて設定するという。こんな器用なことができるわけがない。
そもそも、企業体の人びとの関心は、企業体の内部に向けられているのが普通である。つまり、自分に与えられた職務の遂行である。
客観情勢の変化を見きわめて、それを自らの企業に結びつけ、わが社はどうすべきか、その中で自分は何をすればよいか、を考えられるほど広い視野をもち、高い次元で物を考えられる人は、トップ層と、それに近いごく少数の人びとのみに望めるだけである。
もしもそのようなりっぱな人が、それ以外にいるならば、それはむしろ異例であり、その企業体は幸運だと思わなければならないのである。
ひたすら、日常の仕事のことを考えている人びとに向かって、「仕事に焦点を合わせず、結果に焦点を合わせよ」というのは結構であり、それが本当である。
そして、それは従来の仕事に焦点を合わせた指導の誤りを正した。
しかし、そのような人びとに向かって、「自ら目標をたてよ」といってみても、それは自分に与えられた仕事についての目標がたてられるだけであって、客観情勢に対応する目標がたてられるものではない。
そのような目標を全社でたててみても、それは「全社の個人目標の合計」ではあっても、「企業の目標」とは、まったく別のものである。
こうした矛盾が生ずるものだから、「上司が期待する目標を、あらかじめその人に示す」とか、「立案は各人にさせるが、決定は上司が行う」というような、苦しいコジツケが行われるのである。
いくらこのような対策をとってみたところで、もともと客観情勢に関心のない者が、上司の意図をよく理解できるわけがない。
その上司さえ、客観情勢に関心をもっているかどうか、はなはだ疑問なのである。
そのような人びとが、自由意志に基づいて目標をたてるかぎり、「客観情勢に対応する目標」をたてることはできない相談であり、「企業目標」とはぜんぜん別のものである。
まだある。目標は「個人の能力に応じた実現可能なもの」でなければならない、というのだ。
ところが、目標とはもともと、「客観情勢の変化に対応するためのもの」だといちばん先にうたってある。
この二つの教えから導き出される結論は、「個人の能力に応じた実現可能な目標をたてれば、それは客観情勢の変化に応じた目標になる」ということになってしまう。
実に不思議な論理である。
以上述べてきたように、数々の矛盾した論理をもっともらしくとなえているから、これを真に受けて、実施に移した企業で混乱が起こるのである。
「個人目標は全社目標と合致しない」という前掲の反論が起こるのがあたりまえであり、「個人の能力に合わせた目標」で企業環境の変化に対応できるのなら、つぶれる会社は一つもないのだ。
きれいごとの目標管理は、しょせん経営不在の観念論にしかすぎないのである。
1・4アクセサリーの企業目標
つぎに、企業の目標についてである。
目標管理では、個人の目標は、企業の目標から導き出されるとか、一致しなければならないとかいって、企業の目標をもち出してくる。
その説明としてあげられるのが、ドラッカーの「事業目標の八つの領域」(同氏の著書『現代の経営』の中にある)である。
つまり、市場における地位、革新、生産性と寄与価値、物的資源と財源、収益性、経営担当者の能力および育成、労働者の能力および態度、社会に対する責任である。
これをあげるのはいい。
しかし、もともと経営のケの字も知らない先生がたに、企業の目標などといってみても、口でいうだけで、それがどんなものか、わかるはずがない。
もち出してはみたものの、正体がわからないのだからどうにもならない。
そこで、「目標を明確にする必要性を説いている」程度のことでお茶をにごし、さっと身をかわしてしまう。
まことに鮮かなものである。
こういう人は政治家になるのがいいと思う。
すばらしい料理を目の前にはこぼれて、さてどうして食べるか、を教わろうとしているひまに、「これが料理というものである」とだけ説明されて、引っこめられたようなものである。
食べ方の説明ができないのだから、引っこめるのが上策なのである。
事業の目標とは何か、それをどのように理解すべきか、それを目標管理と具体的にどう関連させたらいいのか、ということこそ、実は目標管理にとって根本的な「問い」なのである。
個人の目標といっても、企業の目標あっての話である。
企業目標のない個人目標など、ナンセンスものである(むろん、企業目標がなくとも個人目標はある。しかし、それはあくまでも個人の生き方のことであって、企業体のことではない。そして、ここで論じられているのは企業のことなのである)。
個人は、企業目標達成のために必要なのであって、個人目標のために企業があるのではない。
だから、少なくとも役職者になれば、「企業経営の全般」についての理解はムリとしても、企業の目標についての基本的な理解はもたなければならないのである(これについては第3章に詳述してある)。
しかも、それはそれほどむずかしいものではないのである。
たとえば、八つの領域のうち、「市場における地位」についてみても、占有率に関する認識をもち、限界生産者に落ちこむ危険を知っただけで、産業界の競争に対する新しい目がひらけ、トップの意図の理解が容易になることは、筆者の講座で、目標の説明を受けた受講者のその後の態度に、ハッキリとあらわれているのをこの目で確かめてある。
こうなって、はじめて上から割りつけられる目標が理解でき、自らの意志で実現可能な目標を設定しても、それが占有率上昇に結びつかないならば、単なる自己満足にしかすぎないことを自覚することができるようになるのである。
それにもかかわらず、目標管理では、企業の目標は単なるアクセサリーとして、引立て役の立場にしかすぎないのである。
まったくの本末顚倒である。
目標管理は、まず企業の目標に対する理解と認識から入らねばならず、この土台の上に目標管理が積み上げられなければならないのである。
*1成員とは、構成員のこと
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