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みずから決断を下すときに

断を下すひとすじの道をひとすじに、ひたすら歩むということは、これもまたなかなか容易ではないけれど、東と西に道がわかれて、それがまた北と南にわかれて、わかれにわかれた道をさぐりさぐり歩むということは、これも全く容易でない。どうしようか、どちらに進もうか、あれこれととまどい、思い悩んでも、とまどい悩むだけではただ立ちすくむだけ。自分ひとりなら、長い道程、時に立ちすくむこともよかろうが、たくさんの人があとにつづいて、たくさんの人がその道に行き悩んでいるとしたら、わかれた道を前にして、容易でないとグチばかりこぼしてもいられまい。進むもよし、とどまるもよし。要はまず断を下すことである。みずから断を下すことである。それが最善の道であるかどうかは、神ならぬ身、はかり知れないものがあるにしても、断を下さないことが、自他共に好ましくないことだけは明らかである。人生を歩む上において、企業の経営の上において、そしてまた大きくは国家運営の上において、それぞれに今一度、断を下すことの尊さを省みてみたい。

命を下す自分がこうしたいと思うことを人に命じて、その命のままに自在に人が動くということは、事を運ぶうえにおいて、きわめて大事なことではあるけれど、命になれて、いつのまにか命がなければ人が動かないということになっては、これはたいへん。こんな硬直した姿では、進歩も発展も生まれないであろう。たとえ命令がなくとも、以心伝心、命ずる人の意を汲んで、それぞれの人が適時適確にすすんで事を運んでゆく──こういう柔軟な姿のなかにこそ、かぎりない発展性が生まれてくる。そのためには、命を下す前に、まず人のいうことに耳をかたむけることである。まず聞くことである。聞いた上で問うことである。そして、そこにわが思いと異なるところがあれば、その気づかざる点を気づかしめ、思い至らざる点の理非を説く。そうした納得のうえに立って、断固、命を下さねばならない。命を受ける人に納得があるということは、その人の知恵がそれだけ高まったということである。わけのわからぬままに命に従わせていたのでは硬直する。命を下すということは、ほんとうはそんな容易なことではないのである。

風が吹けば風が吹けば波が立つ。波が立てば船も揺れる。揺れるよりも揺れないほうがよいけれど、風が強く波が大きければ、何万トンの船でも、ちょっと揺れないわけにはゆくまい。これを強いて止めようとすれば、かえってムリを生じる。ムリを通せば船がこわれる。揺れねばならぬときには揺れてもよかろう。これも一つの考え方。大切なことは、うろたえないことである。あわてないことである。うろたえては、かえって針路を誤る。そして、沈めなくてよい船でも、沈めてしまう結果になりかねない。すべての人が冷静に、そして忠実にそれぞれの職務を果たせばよい。ここに全員の力強い協力が生まれてくるのである。嵐のときほど、協力が尊ばれるときはない。うろたえては、この協力がこわされる。だから、揺れることを恐れるよりも、協力がこわされることを恐れたほうがいい。人生は運不運の背中合わせといえる。いつ突如として嵐がおとずれるか、だれしも予期することはできない。つねに自分のまわりを冷静にながめ、それぞれの心がまえを、しっかりと確かめておきたいものである。

判断と実行とどんな仕事でも、仕事をやるからには判断が先立つ。判断を誤れば、せっかくの労も実を結ばないことになろう。しかし、おたがいに神さまではないのだから、先の先まで見通して、すみからすみまで見きわめて、万が一にも誤りのない一〇〇パーセント正しい判断なんてまずできるものではない。できればそれに越したことはないけれど、一〇〇パーセントはのぞめない。それは神さまだけがなし得ること。おたがい人間としては、せいぜいが六〇パーセントというところ。六〇パーセントの見通しと確信ができたならば、その判断はおおむね妥当とみるべきであろう。そのあとは、勇気である。実行力である。いかに適確な判断をしても、それをなしとげる勇気と実行力とがなかったなら、その判断は何の意味も持たない。勇気と実行力とが、六〇パーセントの判断で、一〇〇パーセントの確実な成果を生み出してゆくのである。六〇パーセントでもよいから、おたがいに、謙虚に真剣に判断し、それを一〇〇パーセントにする果断な勇気と実行力とを持ちつづけてゆきたいものである。

眼前の小利一匹狂えば千匹狂うというが、これは何も、馬だけにかぎったことではない。人間でも、一人がちょっとした心得ちがいをしたならば、それに引きずられてまた多くの人が道を誤る。ことに、それが利欲にかかわった問題となると、とかく人の判断は狂いやすい。そして眼前の小利にとらわれる。眼前の小利にとらわれるな、とは昔からのことわざであるが、小利にとらわれては、結局は損をする。その損も、単に自分だけで終わるならまだ罪は軽いが、今日の世の中のように、人と人と、仕事と仕事とがたがいに密接につながっているときには、一人の損がみんなの損となり、その心得ちがいは大へんな結果を生む。こんなことは、いまさら事新しくいう必要もないのだが、この世の中、やっぱり一部の人のちょっとした心得ちがいからいろいろの問題がひき起こされていることを思えば、眼前の小利にとらわれるなと、何度も何度もくりかえしていいたくもなってくる。別にむつかしいことをいうつもりはない。またいっても詮ないことだと考えてもいない。こんなことは結局、人の良識に訴えるのが根本で、だから何度も何度もあきずにいいたいのである。

善かれと思って善かれと思って、はからったことが、善かれと思ったようにはならなくて、思いもかけぬ反対の結果を生み出すことが、しばしばある。思いが足りないのか、はからいが足りないのか、それにはいろいろ原因があるのだろうが、よくよく考えてみれば、やっぱりそこには、何らかの策を弄したという跡が目にうつるのである。善意の策も悪意の策も、策は所詮策にすぎない。悪意の策は、もちろんいけないけれども、しかしたとえ善意に基づく策であっても、それが策を弄し、策に堕するかぎりは、悪意の策と同じくまた決して好ましい姿とは言えないであろう。つまり、何ごとにおいても策なしというのがいちばんいいのである。無策の策といってしまえば平凡だけれども、策なしということの真意を正しく体得して、はからいを越え、思いを越えて、それを自然の姿でふるまいにあらわすには、それだけのいわば悟りと修練がいるのではなかろうか。おたがいに事多き日々、思いもかけぬ悩みを悩む前に、時にはこの策なしの境地というものに思いをめぐらせ、心静かに反省してみたいと思うのである。

止めを刺す昔は、いわゆる止めを刺すのに、一つのきびしい心得と作法があったらしい。だから武士たちは、もう一息というところをいいかげんにし、心をゆるめ、止めを刺すのを怠って、その作法にのっとらないことをたいへんな恥とした。ものごとをしっかりとたしかめ、最後の最後まで見きわめて、キチンと徹底した処理をすること、それが昔の武士たちのいちばん大事な心がけとされたのである。その心がけは、小さいころから、日常茶飯事、箸の上げ下げ、あいさつ一つに至るまで、きびしく躾けられ、養われていたのであった。こんな心がけから、今日のおたがいの働きをふりかえってみたら、止めを刺さないあいまいな仕事のしぶりの何と多いことか。せっかくの九九パーセントの貴重な成果も、残りの一パーセントの止めがしっかりと刺されていなかったら、それは始めから無きに等しい。もうちょっと念を入れておいたら、もうすこしの心くばりがあったなら──あとから後悔することばかりである。おたがいに、昔の武士が深く恥じたように、止めを刺さない仕事ぶりを、大いに恥とするきびしい心がけを持ちたいものである。

カンを働かす剣を持って相向かう。緊張した一瞬、白刃がキラめいて、打ちこむ、はねる、とびすさる。目にもとまらぬ早わざである。そこには理屈はない。相手の刃が右手から来た、だからこれを右にはねかえそう、などと一つ一つ考えて打ち合っているのではない。目に見えぬ気配から、からだ全体にひらめく一瞬のカンで、トッサの動きがきまってゆく。しかもそれは、理屈で考えた以上の正確さ、適確さを持っているのである。カンというと、一般的には何となく非科学的で、あいまいなもののように思われるけれども、修練に修練をつみ重ねたところから生まれるカンというものは、科学でも及ばぬほどの正確性、適確性を持っているのである。そこに人間の修練の尊さがある。世に言われる科学的な発明発見の多くのものは、科学者の長年の修練によるすぐれたカンに基づいて、そのカンを原理づけ、実用化するところから生み出されている。つまり、科学とカンとは、本来決して相反しないのである。要は修練である。練磨である。カンを働かすことを、もっと大事にして、さらに修練をつみ重ねたい。

世の宝明智左馬之介光春が、堀監物に城を完全に包囲され、今はこれまでと観念したとき、城内にあった数々の秘蔵の名器を城外におろし出し、「あたら灰となすに忍びぬ品々、貴公の手を経て世にお戻しいたしたい。お受けとりあれや」といったことは、『太閤記』にもある有名な話である。「それがしの思う所、かかる重器は、命あって持つべき人が持つ間こそその人の物なれ、決して私人の物でなく、天下の物、世の宝と信じ申す。人一代に持つ間は短く、名器名宝の命は世にかけて長くあれかしと祈るのでござる。これが火中に滅するは国の損失。武門の者の心なき業と後の世に嘆ぜらるるも口借しと、かくはお託し申す次第」私心にとらわれることなく、いまわの際まで公の立場に立って判断し、処置を誤らなかったこの光春の態度には、長い歴史に培われた日本人本来の真価がうかがえると思う。世の宝は何も秘蔵の名器だけではない。おたがいに与えられている日々の仕事は、これすべて世の宝である。世の宝と観じて、私心にとらわれることのない働きをすすめてゆくために、光春のふるまいを今日もなお、大いに範としたいものである。

自問自答自分のしたことを、他の人びとが評価する。ほめられる場合もあろうし、けなされる場合もある。冷やかに無視されることもあろうし、過分の評価にびっくりすることもあろう。さまざまの見方があって、さまざまの評価である。だから、うれしくなって心おどる時もあれば、理解の乏しさに心を暗くする時もある。一喜一憂は人の世の習い。賛否いずれも、ありがたいわが身の戒めと受け取りたい。だがしかし、やっぱり大事なことは、他人の評価もさることながら、まず自分で自分を評価するということである。自分のしたことが、本当に正しかったかどうか、その考え、そのふるまいにほんとうに誤りがなかったかどうか、素直に正しく自己評価するということである。そのためには、素直な自問自答を、くりかえし行なわねばならない。みずからに問いつつ、みずから答える。これは決して容易でない。安易な心がまえで、できることではないのである。しかし、そこから真の勇気がわく。真の知恵もわいてくる。もう一度、自問自答してみたい。もう一度、みずからに問い、みずからに答えたい。

根気よくどんなによいことでも、一挙に事が成るということはまずあり得ない。また一挙に事を決するということを行なえば、必ずどこかにムリを生じてくる。すべて事は、一歩一歩成就するということが望ましいのである。だから、それがよいことであればあるほど、そしてそれが正しいと思えば思うほど、まず何よりも辛抱強く、根気よく事をつづけてゆく心がまえが必要であろう。「徳、孤ならず」ということばがあるけれども、これは正しいことはいつかは必ず人びとに理解してもらえるという意味にも通じる。しかし、これとても、一ぺんにというわけではない。徐々にということである。だから、いかに正しいと思うことでも、その正しさにとらわれて、いたずらに事をいそぎ、他を誹謗するに急であってはならない。みずからの正誤を世に問うためにも、まずは辛抱強く、根気よく事をすすめてゆくという謙虚な姿がほしいのである。あわただしいこの人の世、ともすれば浮足立って、辛抱の美徳、根気の美徳が失われがちであるが、おたがいに謙虚に二省、三省してみたいものである。

思い悩む人間は神さまではないのだから、何もかもが見通しで、何もかもが思いのままで、悩みもなければ憂いもない、そんな具合にはゆかないのである。悩みもすれば憂いもする。迷いもする。わからん、わからん、どうにも判断がつかん、どうにも決心がつかん、そんなことが日常しばしば起こってくる。碁ならば、わからんままに石を打っても、別に人に迷惑をかけるわけではないけれど、人と人とがたがいに密接なつながりを持つこの世の中で、わからんわからんと思い悩んだままで仕事をすすめたら、とんでもない迷惑を人に与えてしまう。わからなければ、人に聞くことである。己のカラにとじこもらないで、素直に謙虚に人の教えに耳を傾けることである。それがどんな意見であっても、求める心が切ならば、そのなかから、おのずから得るものがあるはずである。おたがいに、思い悩み、迷い憂えることを恥じるよりも、いつまでも己のカラにとじこもって、人の教えを乞わないことを恥じたいと思うのである。

ながい一生のうちに人はいくたびか自分の将来を左右する岐路に血のにじむ思いで立たねばならないながい歴史のうちに国もまたいくたびかみずからの行くすえを鋭く見きわめるべき意義深い時期にみまわれる──緑ゆたかな国土香り高い伝統と歴史そこに培われた民族のすぐれた素質この日本の未来をいま静かに見きわめたい

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