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【解説】───会社の変革には別れがつきもの

 誤解や錯覚が溢れて機能不全になってしまった組織を、競争力のある機能的な組織に建て直そうとすると、かならずと言ってよいほど一部の社員が大きく反発します。それは一般社員からの反発であることもあれば、管理職からの反発であることもあります。  そうした反発に直面すると、社長は不安になって、改革の取り組みが間違いだったのではないかと思い悩む──これは識学導入時の、いえ、識学に限らず組織に抜本的な変革を行った際の、いわば「あるある」な状況です。  こと識学の導入に関して言えば、組織内で本来は個々の社員が担うべき責任を、「友人のような関係性」「フラットな職場」「三六〇度評価」といった耳触りのよい言葉を隠れ蓑にして担っていない社員が多かった状況を、一気に社内の全員が、本来の責任をまっとうしなくてはならない状況に変えるわけです。  もとより改革後の新しい状況こそが本来あるべき姿なのですが、それまではぬるま湯に浸かった状態で許されていたことが、今後は許されなくなり、どうしても反発する人は出てきます。なかには退職という選択をする人も一定割合で現われます(さすがにオールウェイズ・アサイン社のように、入社一年目の社員の半数が辞めてしまうようなケースはほとんどありません……が、皆無ではありません)。  ただ、そうして組織を離れていく人が出ることを、必要以上に重く受け止めるべきではありません。  離れていく人がいる一方で、以前までの状況に組織としての不健全さを感じていて、新しい環境のほうがむしろ働きやすい、人間関係など業務以外の余計なことを気にしなくていいので心理的にラクだ、と考える人もたくさんいます。最近ではそうした組織体質のほうが若い人に好まれる傾向すらあるので、新しく入ってくる人もいるでしょう。  また、厳しい言い方になりますが、「新しい環境に適応し、社員や管理職としての本来の役割や責任をまっとうしよう」とマインドセットを変えられないメンバーは、健全で筋肉質な組織にとっては、いないほうがむしろ助かる、という一面も確実に存在します。  少なくとも、辞めていく人を引き止めるために、今ある組織のルールや原則を曲げてしまうことだけはしないようにしてください。それでは、せっかくの改革が意味をなさなくなってしまいます。  会社の変革には別れがつきもの。しかし、ポジティブに変化しない組織には死が待っているのも、また避けられない現実なのです。

【解説】───会社の変革には別れがつきもの  誤解や錯覚が溢れて機能不全になってしまった組織を、競争力のある機能的な組織に建て直そうとすると、かならずと言ってよいほど一部の社員が大きく反発します。それは一般社員からの反発であることもあれば、管理職からの反発であることもあります。  そうした反発に直面すると、社長は不安になって、改革の取り組みが間違いだったのではないかと思い悩む──これは識学導入時の、いえ、識学に限らず組織に抜本的な変革を行った際の、いわば「あるある」な状況です。  こと識学の導入に関して言えば、組織内で本来は個々の社員が担うべき責任を、「友人のような関係性」「フラットな職場」「三六〇度評価」といった耳触りのよい言葉を隠れ蓑にして担っていない社員が多かった状況を、一気に社内の全員が、本来の責任をまっとうしなくてはならない状況に変えるわけです。  もとより改革後の新しい状況こそが本来あるべき姿なのですが、それまではぬるま湯に浸かった状態で許されていたことが、今後は許されなくなり、どうしても反発する人は出てきます。なかには退職という選択をする人も一定割合で現われます(さすがにオールウェイズ・アサイン社のように、入社一年目の社員の半数が辞めてしまうようなケースはほとんどありません……が、皆無ではありません)。  ただ、そうして組織を離れていく人が出ることを、必要以上に重く受け止めるべきではありません。  離れていく人がいる一方で、以前までの状況に組織としての不健全さを感じていて、新しい環境のほうがむしろ働きやすい、人間関係など業務以外の余計なことを気にしなくていいので心理的にラクだ、と考える人もたくさんいます。最近ではそうした組織体質のほうが若い人に好まれる傾向すらあるので、新しく入ってくる人もいるでしょう。  また、厳しい言い方になりますが、「新しい環境に適応し、社員や管理職としての本来の役割や責任をまっとうしよう」とマインドセットを変えられないメンバーは、健全で筋肉質な組織にとっては、いないほうがむしろ助かる、という一面も確実に存在します。  少なくとも、辞めていく人を引き止めるために、今ある組織のルールや原則を曲げてしまうことだけはしないようにしてください。それでは、せっかくの改革が意味をなさなくなってしまいます。  会社の変革には別れがつきもの。しかし、ポジティブに変化しない組織には死が待っているのも、また避けられない現実なのです。

ことは諦めた。(山岸さんの言葉、気になるな……誰かに聞いてみたらわかるのかな……?)  そう思いながら、彼女の背中を見送り、美優自身も仕事に戻ることにした。 *     *      *「西村さ ーん、これ今回のプロジェクトの資料。目を通しておいて」  デスクに戻ってきた美優に声をかけたのは、広報課長の布施享一だった。  薄い資料の束を美優に手渡して、彼女の隣の席にドッカリと座る。「それにしても美優ちゃんも大変だよね、社長室からいきなり広報課に異動なんて。しかも、こんなバタバタしてるときに」  布施は額の汗をハンカチで拭いながら、心配そうに美優を見た。  たっぷりとしたお腹がスーツのベルトの上に乗っている彼の姿は、なんだかアニメに出てくるお父さんのキャラクターのようで親しみやすく、美優は「大丈夫です」と笑って答えた。  実は先日、美優は入社後ずっと配属されていた社長室での勤務から、広報課へと異動となった。例の識学に反発した社員の大量辞職があり、急な人手不足であくせくしていた広報課への美優の異動を決めたのは、ほかでもない社長の若宮だった。「急な話で申し訳ないが、広報課へ異動してほしい。どこの部署も人材不足で、広報課を手助けできる社員が君しかいないんだ」  若宮からの急な辞令に、美優は驚いた。「え、でも私、広報の仕事なんてまったく経験がないですけど……」  美優はとっさに異動できない理由をいくつも考えたが、そのどれもが若宮には通用しなかった。「知ってるよ。それは大丈夫だ。課長の布施さんにもちゃんと伝えてあるから、彼がちゃんと指導してくれると言っていた」  議論の余地はないと言いたいのだろう。若宮は迷いのない目で美優を見る。その鋭い視線に、美優は怯みそうになる。  社長はどうしてしまったのだろうか?  以前の彼は、こんな顔ができる人じゃなかったのに……。「そんな、いきなり!  私は、もう社長室には必要ないってことですか!?」  急な異動の辞令に感情的になってしまった美優は、震える声で若宮にそんな言葉をぶつけてしまった。  最近、その日のことを思い出して、美優はたびたび後悔の念にかられていた。(あーあ……、若宮社長も大変だっていうのに、私、なんであんなこと言っちゃうかな……)  普段は絶対にあんなことは言わないのに、感情的になると思いも寄らない言葉を吐いてしまう自分が、すごく子供じみているように思えて嫌になる。  しかし、一番忘れられないのは、その問いに対する若宮の温度のない声での返答だった。「識学がある今、社長室には俺以外はいらないんだ。でも、何も君のことを不要と言っているわけじゃない。君の能力を活かすためにも、今は広報課で頑張ってほしいんだ」  社長室には自分以外いらない。若宮に面と向かってそう告げられた事実が、美優の心に突き刺さった。  これまで、会社のために、そして若宮社長のためにと思ってやってきたのに、あんなふうに突き放されるとは予想だにしていなかった。  美優が思わずため息をつくと、目の前にいた布施がますます心配そうな顔をした。「西村さん、本当に大丈夫?  無理しないでね。仕事のことは、僕ができるだけ丁寧に教えるから、安心して」  布施はそう言うと、柔らかそうな腕の先にある手のひらををぎゅっと握り、胸の前でガッツポーズをする。その姿に、美優は新しい部下を懸命に励まそうとする優しさを感じた。  布施の握りしめた左手の薬指には、シルバーの指輪がはめられていた。仕事中、たまにチラチラと見える布施のスマートフォンの待受画像には、丸い頬が可愛らしい小学生くらいの女の子が写っている。数日前、美優が「可愛い子ですね」と褒めると、「やんちゃなんだけどね」と嬉しそうに笑っていた。きっと、家に帰ってもよい父親をしているのだろう。(私は、本当に上司には恵まれてる。広報課でも、頑張ろう)  落ち込んでいた美優は、我に返って自分自身を励ました。彼のようなよい上司の下につくことができたのだから、精一杯頑張らないと。幸い、広報の仕事も嫌いじゃない。「そういえば、あ、あの」  そう思っていたところで、美優はふと思い出して布施に声をかけた。「何?  どうしたの?」  キョトンとする布施の顔を見ながら、美優はどうやって質問したらいいかを考えた。  聞きたかったのは、先ほど全体研修のあとで、山岸が言いかけてやめたことについてだ。「あの、さっき小耳に挟んだことなんですけど……うちの会社が、なんか、まずい状況にあるんじゃないかって……」  恐らくはナイーブな話題だろうと、美優が言葉を選んで恐る恐る聞くと、布施は頭をポリポリとかきながら困った顔をした。「あー、うーん。なんか、まだ公には言われてないらしいから、秘密にしておいてほしいんだけど」  布施の言い方に嫌な予感がして、美優はゴクリと唾を飲み込んだ。「うちの会社、ここのところ業績悪かったのは知ってるよね?  それでさ、創業当初からお世話になってるメインバンクの担当さんが、随分お怒りみたいでさ。今期中に会社を建て直せなかったら、うちの会社にはもう融資ができない、とかなんとか……」  言いにくそうにボソボソとしゃべる布施の言葉に、美優はすぐには声が出ず目を丸くした。 「……え!?  それって、かなりまずいってことですよね?  会社がなくなるとか、そういうことですか?」  会社経営についてよく知らない美優でも、メインバンクから融資を受けられなくなることの重大性はなんとなくわかる。思わず声を荒げて聞き返す美優に、布施は慌てた。「い、いや!  すぐになくなるってわけじゃないと思うけど……でも、もしそうなったら、経営は厳しい状況になるだろうね。実は僕も、あんまりわかっていないんだけどさ……」  そう言って太めの眉をハの字の形にした布施は、なぜか美優へ申し訳なさそうな表情を向けた。もちろん布施にこの事態への責任があるわけではないが、

美優がかなりショックを受けた顔をしていたため、人のよい彼にはそれが耐えられなかったのだ。(そっか、だから山岸さんは焦ってたんだ。きっと、藤川くんもそれを知ってて)  そういう状況なら、あの二人が識学に頼ろうとしているのも頷ける。二人とも根は真面目だから、会社を守りたいと思っているに違いない。「そうなんですね、ありがとうございます。誰かに話したりはしないので、ご安心ください!」  美優は気まずい空気をどうにか仕切り直そうと、無理やりに明るい声を作った。ここで布施に心配をかけても、彼の負担になるばかりで意味がない。  美優の元気が少し戻ってきて安心したのか、布施も「そうしてくれると助かるよ」と、丸い頬で笑顔を作った。「そういえば、美優ちゃん、次の全社研修にもちゃんと参加するよね?  今日は出てたみたいだからいいけど、あんまりサボり過ぎちゃ、だめだよ?」  少しでも気分を明るくしようと考えていた矢先、布施から耳を塞ぎたくなるような質問が飛んできた。まったくの不意打ちの問いかけに、一気に美優を取り巻く空気が淀む。「そ、そうですねぇ……。でも、今は新しい仕事に慣れるのが精一杯で……」  美優が苦し紛れにごまかそうとするが、布施はごまかされてくれなかった。「うーん、それでも出ておいたほうがいいと思うよ。識学も、ちゃんと勉強すれば役に立つことも多いだろうし。僕も頑張っているからさ。美優ちゃんも、頼むよ」  人のいい布施にそう言われると美優も拒否はできず、曖昧な返事をしつつ、その場からそそくさと離れることにした。(布施さんは、識学肯定派みたいだもんな……)  今日は久しぶりに研修に参加したが、本当は心底面倒くさいと思っているし、何より安藤の顔なんて見たくもない。大量退職騒ぎがあって、少しは安藤や若宮の対応も変わるかと思ったのだが、変わるどころかむしろ厳しくなっている。  しかも、広報課の面々は布施をはじめとして識学への拒否感が薄く、最近ではむしろ積極的に実践している雰囲気すらある。  いや、拒否感が薄いと言うよりは、布施自身が元来「ことなかれ主義」であるために、そもそも会社の方針を否定したりはしないのだろう。  典型的なサラリーマンタイプと言えば聞こえが悪いが、今のオールウェイズ・アサイン社においては、彼のような考え方のほうがずっとストレスなく仕事ができるだろう。美優はそう考えて、少し布施が羨ましくなった。(まあ、いろんな人がいるのはいいことだよね。私は識学、嫌いだけど!)  美優は自分を無理やり納得させ、仕事に戻った。  広報の仕事は初めてのことが多く、戸惑ってばかりだが、積極的に取り組めば会社の利益にも大きく貢献できる可能性があると知ってからは、少しずつ仕事が楽しくなっている。  就業時間内に課されたタスクをやりきれば、残業もしなくていいかなり良心的な体制で、美優自身の性格にも合っている気がした。  一生懸命に仕事に打ち込めば、自ずと時間も過ぎていく。日はゆっくりと傾いていった。  ブー、ブー  あと少しで定時というタイミングで、美優のスマートフォンが揺れた。  誰からの連絡だろうとチラリと確認すると、「由樹菜」の文字が見える。  由樹菜は短大時代からの美優の友人で、今でもしょっちゅう会っては、お互いに酒好きだという理由で飲みに行く大の仲よしだ。今日もそんな彼女と、仕事終わりに飲みに行く約束をしていたのだ。「もうすぐ仕事終わるよ!  いつもの居酒屋でいい?」  通信アプリの通知に由樹菜からのメッセージが表示される。まだ勤務時間内のため、美優は目立たないようにスマホを机の下に隠して、こっそりと返信した。「うん!  私もそろそろ終わるよ!  いつものとこでよろしく ー!」  友人に会える喜びに上機嫌となった美優は、その勢いで残っていたタスクを急いで終わらせた。「お疲れさま!!  待たせてごめんねー、もうなんか飲んでる?」  美優が待ち合わせの居酒屋に着いたときには、由樹菜はすでにテーブル席に座って待っていた。  ここは駅から近く人気のある居酒屋で、とにかく焼き鳥がとんでもなく安くて美味しい。本当はおしゃれなバーなんかに行きたいところなのだが、お金がかかるからと、お互いの誕生日などの特別な日を除いては普段の居酒屋で済ませてしまうのが、二人のいつものパターンだった。  美優も由樹菜も大のお酒好きだから、高いバーなんかで飲んでいては、お給料がいくらあっても足りないのだ。  この居酒屋は、そういう軽い飲み会の需要が高いらしく、いつも仕事終わりの若いサラリーマンで混んでいるのだが、今日はまだ早い時間だからか通常よりずっと空いていた。  美優が慌てて席に着くと、「ううん、私も今きたところ。まだ何も頼んでないから、まずは飲み物決めちゃお」  と言って、由樹菜があたたかいおしぼりを差し出してくれる。  こういう気遣いのできるところは学生生時代から変わっていない。今の美優には、なんだかそれが嬉しくて、ニコニコしながら差し出されたおしぼりを受け取った。「なーにニヤニヤしてんの。それで、最初は何にする?」  自分の顔を見て不自然なほど笑顔になる友人に苦笑いしながら、由樹菜は彼女にメニューを手渡す。「とりあえず、ビールかな」「うん、私も」  差し出されたメニューを軽く覗いて、ひとまず飲み物を頼むと、由樹菜が少し心配そうな顔をした。「最近、忙しそうじゃん。仕事、大丈夫?  会ってみたら案外元気そうで安心したけど」  自分を心配してくれる友人の優しさをしみじみ感じつつ、美優は首をかしげて困り顔を作ってみせた。「それがさあ、仕事は大丈夫なんだけどね、最近大変で……」「なになに、どうしたの」  由樹菜がテーブルに乗り出すと、ちょうど頼んでいたビールが運ばれてきた。

「「とりあえず、カンパーイ」」  二人の声と、ビールのジョッキがぶつかるカチャンという音が重なった。  その音が合図とばかりに、美優の愚痴大会が始まる。  急に会社へやってきた安藤のことや、それを受け入れ、変わってしまった若宮のこと。会社がなくなるかもしれないこと。頻繁に開かれる研修についてなど、心のなかに溜まっていた鬱憤を今日ばかりはとぶちまけた。  アルコールで顔を赤くしながら、怒涛のように話す美優に対し、由樹菜はうんうんと相槌を打ちながら真剣に聞いてくれる。「とにかくさ、その安藤っていう人が、識学とかいうのを持ってきたせいで、会社のなかはぐちゃぐちゃなんだよ。あんなに優しかった社長も、飲みに連れて行ってくれることもなくなっちゃったし、急に会社がなくなるかも ーって言われるし、社員だって何人も辞めてるの。このままじゃ、オルインも終わりだよ」  一通り話し終えた美優は、これまでの不平不満をある程度発散できたことで、少なからぬ爽快感を感じていた。「ごめんね、愚痴ばっかり話しちゃって」美優が苦笑いする。「ううん、大丈夫。美優、大変なんだね」  首を振りながら言う由樹菜だったが、美優はそんな彼女が、考え込むような表情をしていることに気がついた。「由樹菜?  どうかした?」  美優が友人の様子をうかがいながら聞くと、由樹菜は言葉を選びながら話す。「うーん、大変そうだなーとは思うの。急な組織体系の変化とか、研修の実施とかって、仕事にもダイレクトに関わってくるじゃない?  だけど、話を聞く限りでは、その安藤さんが言ってることも、そんなに悪い感じもしないな、と思って。  だって、実際に安藤さんって人は結果を出してるんでしょう?  マネージャーが部下のモチベーションを管理しないって、悪いことのようにも聞こえるけど、その分、一人ひとりの自立には繋がりそうだな、と思ったんだよね。  実際に会社自体はやばい状況なんだよね?  なら、これまでのやり方だけじゃいけないっていうのも否定はできないよ」「そ、そうなのかな……そういえば、うちの会社の上司も、同じようなこと言ってた気がする」  親友の気持ちを尊重して、言葉を選びつつ諭すように話す由樹菜に、美優も強い反論はできなかった。「その人は、なんて?」  美優は今朝、山岸に言われたことを思い出す。「楽しいのもアットホームなのもいいけど、仕事って本当にそういうものなのか、って」「なるほどね」  美優の返答に、由樹菜は深く頷いた。「私、その上司さんの言うこと、わかる気がするな」「どういうこと?」  由樹菜が山岸の意見に賛同したことに驚いて、美優は思わず訝しげな顔をしてしまった。「その人が言う通りさ、仕事って楽しい部分もあるけど、それ以上に気を遣ったり、会社の利益になるようにシビアな感覚を持たなきゃいけないときもあるじゃん?  会社自体をよくしていくには、その識学みたいに、一見厳しくても、現状の改善のためにルールに則って、組織や仕事の仕方を変えていくことって、それ自体が仕事の本質な気がするの」  友人が真剣な顔で話す言葉を聞いて、美優は過去の自分を振り返る。「私は、以前のオルインが好きだったんだよね。楽しくて、やりがいがあって」  少し弱気になった美優は、かつての若宮の姿を思い出していた。(そういえば、若宮社長にもこんなふうによく愚痴を聞いてもらってたな……)  もしかすると、あの飲み会や自分の愚痴も、若宮にとっては負担となっていたのかもしれない。そんな考えが脳裏によぎって不安になった美優は、ジョッキに入っていたビールを勢いよくあおり、胸のなかのモヤモヤを打ち消そうとした。  荒れる親友の様子を見て、軽く眉尻を下げながら由樹菜が言う。「楽しいだけなのもいいけどさ、結果が出たら、もっとやりがいに繋がるんじゃない?」  優しく、しかし的を射た彼女の言葉は、美優が抱いていた識学への嫌悪感を少なからずぐらつかせた。「うーん、もう、よくわかんないよ……」  汗をかいたビールジョッキの最後の一口を飲み干して、美優はまた新しいビールを注文することにした。今日は、とことん飲みたい気分だった。 *     *      *  翌日、前日の飲みすぎで危うく遅刻しそうになった美優が慌てて出社すると、すでにその日の識学の全社研修が始まろうとしていた。  課長である布施の指示もあり、さすがに参加しなければと考え、美優は急いでメモとペンを手に持って会議室へと滑り込む。  もう話し始めようとしていたらしい安藤は、会議室の一番後ろの席へこそこそと座った美優に、ギロリと鋭い視線を向けた。  いつもなら反発する美優も、さすがに自分の遅刻が原因とわかっているので、安藤の叱責を含んだ視線に気がついても「すみません」と縮こまることしかできなかった。「皆さん、おはようございます」  安藤が挨拶をすると、参加者のうちの数人が「おはようございます」と応じ、他の社員たちは座ったまま軽く頭を下げた。「今日からは、識学の全社研修もそろそろ具体的な内容に入っていきたいと思います」  安藤はそう言うと、会議室の前方にモニターを表示した。「今日皆さんにお伝えしたいのは、こちらです」  安藤が手に持っていたリモコンを操作すると、そのモニターに文字が映し出される。『ルールを徹底して、組織の改善を図る』  それを見て美優は、例によって不愉快な気持ちになったが、会議室を見回してみると、何人かは食い入るようにモニターを見つめ、急いでメモをとっている様子がうかがえた。

「皆さんもご存知の通り、多くの組織には、『これだけは決して破ってはならない』というルールが存在します。会社という組織でも、同じことです。  このルールには、組織の破綻を防ぎ、組織を円滑に回す役割があります。まずは皆さんに、このルールの徹底をしていただきたいと思います。例えば、出社した際に社員証を必ずつけること。これも、こちらの会社ではルールとなっているはずですが、皆さんのなかにはつけていらっしゃらない方も見受けられますね」  安藤が会議室を見回しながら言うと、社員証をつけていなかった若手社員の数名が、気まずそうな表情で顔をそむける。「このような単純なルールは、守ろう、やろうと思いさえすれば、誰にでも実行可能なもののはずです。まずはこうした、『できる・できないが存在しないルール』の徹底をすることで、組織運営の基礎を作っていきましょう」  安藤はその日を皮切りに、遵守すべきルールの設定と、それらが正しく実行されているかのチェックを実施していった。  思えばオールウェイズ・アサイン社では、社員証のルールをはじめとして、会議を時間通りに始めること、使った会議室を元通りに戻すことなど、設定されているはずのルールに対する管理があまりにもずさんだった。  社員たちも、時間遅れでスタートする会議や、片づいていない乱雑な会議室に嫌気が差していても、自分たちで改善することはできなかった。安藤は、その部分の改善に注力したのだ。  最初はなかなかルールを守れなかった社員たちも、安藤が目を光らせ、常に注意されるかもしれない状況のなかで仕事を続けることで、次第にルールを守るようになっていった。  安藤曰く、「ルールを守ることは、習慣化されればそれほど難しいものではない」のだそうだ。  一人ひとりがルールを徹底して守ることによって、社内は少しずつ業務に適した環境になっていき、組織の円滑化の恩恵を受けて、ほかでもない社員たちがもっとも助かっていた。  これを機に、安藤の言うことをもっとちゃんと聞いてみるか、と言いだす者まで出てきたのだ。(たしかに、会社内の状況はよくなったけど、それでも私はまだ……)  美優はいまだ、識学を認められないままでいた。

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