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「苦手な顧客」の克服法―レスポンデント条件づけ

第15章「苦手な顧客」の克服法──レスポンデント条件づけ

ケース─苦手意識と「パブロフの犬」1パブロフの条件づけ2ワトソンの実験恐怖症3苦手意識のメカニズム4レスポンデント消去と系統的脱感作5恐怖反応だけではない

苦手意識と「パブロフの犬」営業二課の元木の行動変革を手伝っていた頃、サカモトは同じ営業二課の別メンバーからの相談も受けていた。

彼の名前は片山省吾。

営業経験は四年で、成績は決して悪くない。

傍から見ている限り、日常それほど問題を抱えている風でもなかったが、サカモトと向かい合った片山は、深刻そうな表情で話を切り出した。

「サカモトさんは行動分析学のプロでいらっしゃると聞いて、私の心の問題にアドバイスいただけたらと思いまして」「心の問題、ですか?」サカモトは内心、うつ病などの問題だったら自分の手には余るな、と思った。

HRビジネスパートナーの仕事は、あくまで健常者がハイ・パフォーマンスを発揮できるよう支援することであって、病気の治療ではない。

行動分析学を応用した行動療法という治療法はあるが、それは専門のセラピストがすべきことである。

もし片山の問題がそういう関係であったら専門家につながないといけないか、と思いながら、ともかくサカモトは片山の話を聞くことにした。

「行動分析学は、メンタル・タフネスを身につけることにも使えると、ある本で読んだのですが、本当ですか?」片山が尋ねる。

「ええ。

確かに、前向きな気持ちと姿勢を身につけることは、行動分析学の応用範囲です。

特にスポーツのコーチングなどにはよく用いられますね」「いわゆる『勝ち癖』をつけるというやつですか」「ええ。

スポーツでは、勝つための技術と精神が必要なわけですが、行動分析学ではその両方に働きかけることができます」「それって、ビジネスでも同じことなのでしょうか」「もちろんです。

もっとも、ビジネスでは相手に勝つことが目的とは限らないので、自分の目標を達成するとか、なりたい自分になるとかのために技術と精神を身につけるわけですが」「なりたい自分になる……」片山はじっと考え込んだ。

「負け犬根性から脱するということも、できるわけですか?」「ええ。

できると思いますよ」サカモトは、温かい笑顔で言った。

「いわゆる負け犬根性というのは、最初から『できない』『負ける』と思ってしまうことですよね。

それも、過去の随伴性により作られてしまった後天的な習慣ですから、行動分析学的なアプローチで解消できると思います」うなずいた片山は、いよいよ本題を切り出した。

「実は私、苦手なお客がありまして」「苦手なお客、ですか」どうやら、うつ病などの医療的な問題ではなさそうだと知ったサカモトは、こちらも本格的に話を聞く姿勢に入った。

「ええ。

私も営業では一通りの経験を積んできたので、お客様の扱い方というのは一応、心得ているつもりです。

実際ほとんどのお客様に関しては、苦手意識というものはありません。

もちろん大変な局面というのはありますが、仕事に慣れるに従い、なぜか物事に動じなくなって、何か起きても不思議と解決できるような気になれるんです」「まさにそれが、ビジネスにおける勝ち癖というか、成功する人のメンタリティだと思いますよ」サカモトは片山に自信をつけさせようとして言った。

「ありがとうございます。

でも問題は、ある特定のお客様に関してだけは、どうしても苦手意識が抜けないことなんです。

何というか、こう……そのお客様の前に出ると考えただけで不安になって、実際に会うと自然と負け犬根性が頭をもたげてきて、どことなく卑屈になってしまい、『どうせ、うまくいかない』と思ってしまうんです」片山は苦しそうな表情で言った。

「そして結果的にも、案の定、うまくいかない?」サカモトが片山の目をまっすぐ見ながら尋ねると、片山は大きくうなずいた。

「なぜなんでしょう、サカモトさん。

なんで、このお客様だと、うまくいかないんでしょうか?」「そうですね。

他のお客様とは十分によい仕事ができているわけですから、知識や技能が不足しているというわけでは、なさそうですね。

そのお客様とは、以前に何かあったのですか?」「そのお客様──凹凸電機なのですが──とは、私が担当した最初の案件でトラブってしまいました。

一年くらい前のことですが、新機種のデザインができたあとの一次見積もりが甘くて、試作後の二次見積もりでは、最初の見積もりを大幅に超える金額になってしまったんです。

『なんで、こんなにコストが膨らむんだ!』『こんなになると知ってたら、最初からお宅なんかに頼まなかったよ!』など、かなり厳しいお叱りを受けました」「うーん。

それは大変でしたね」「でも、私の力不足が原因だったので、どうしようもありません。

最終的には大林課長がフォローしてくださって、その案件自体は受注できたんですが。

それ以来、どうも先方としっくりいかなくて」「訪問するたびに不安感や緊張感、自信喪失に襲われる、と」サカモトの言葉に、片山はまたも大きくうなずいた。

「いわゆるレスポンデント反応かもしれませんね」「レスポンデント反応って……パブロフの犬みたいなもんですか?」片山は目を丸くした。

「その通り。

パブロフの犬は、メトロノームの音と一緒に肉片を与えることを繰り返していたら、そのうちメトロノームの音を聞くだけで、よだれが出るようになってしまったという話でしたね。

片山さんの場合、凹凸電機の担当者の方からひどく叱られたために、今ではその方の顔を思い浮かべるだけで、怒られたときと同じ反応が起きてしまっているのかもしれません」「まあ、そのまんまですね」「本来、その方の顔は、それ自体が不安や緊張を催させるものでは、ないでしょう?」サカモトが言うと、片山は宙を睨んで考えた。

「鬼瓦みたいな顔なら別ですが」とサカモトが冗談めかして続けると、片山は破顔一笑してサカモトを見て、「確かに、そうですね」と言った。

「つまり、担当者の方の顔かたちというのは、それ自体では何も引き起こさない『中性刺激』というもののはずです。

それが、不安や緊張をひき起こす激しい叱責という『無条件刺激』と対提示されたために、『条件刺激』へと変化してしまった。

これがレスポンデント反応です」片山は、煙にまかれたような顔をして黙ってしまった。

サカモトは、しまったという苦笑を浮かべ、「失礼しました。

いきなりこんなことを言われても、わけがわからないですよね」と言った。

「ともかく、ここで大切なことは、そのお客様と会うこと自体は、本当は怖くも何ともないはずなのだ、ということを理解していただきたいのです」「うーん。

まあ、理屈ではわかりますが」「今はそれで十分です。

さて、それでは、これからどうするかですが。

『レスポンデントの消去』というのを、やってみましょう」「どうやるんですか?」「そうですねえ……。

まず、その方の写真などは、ありますか?」「写真?」片山は、けげんな顔をしたが、サカモトがうなずくと、「写真ですか……そういえば、お得意様会で撮ったデジカメ写真があったかな」と答えた。

「デジカメ写真ですか。

好都合ですね。

それは、会社のサーバーの中にありますか?」「ええ。

確か、ここに……」片山は、サカモトのパソコンをカチカチと操作して、写真を見つけ出した。

「あった。

これだ」片山が見つけたファイルをカチカチとクリックすると、画面いっぱいに凹凸電機の担当者の上半身が映し出された。

それを見て、彼は思わず体を硬く

る。

「大丈夫ですよ」サカモトが安心させるように言った。

「まずは、この写真に慣れることから始めましょう。

この方、お名前は何というのですか?」「北野さんです」「では、これから一週間、毎日一回は北野さんの写真を見て、できれば笑いかけてみてください」「えっ。

マジですか?」「ええ。

大マジです。

他の人がそばにいるとやりにくい、というのであれば、時間や場所は工夫してもらって」「はあ」「リラックスしたよい笑顔ができているかどうか、自分でチェックしてくださいね。

『こんにちは』などと挨拶してみるのも、よい表情を作るのにプラスになることがありますから、ぜひやってみてください」「笑顔と、挨拶ですか」「そうです。

この試みで大切なのは、北野さんの顔を見ても恐怖症のような症状を感じなくなることです。

逆に自分の体の中に温かいものを感じ取ることができるようになったら完璧です」「そうですか……」「それと、これが最も大事なことですが、毎日この一連のエクササイズ(試み)を行ったら、自分を褒めてあげることを忘れないでください。

それがないと、一週間続けられないかもしれませんから」「自分を褒める……わかりました。

ともかく、やってみます」そして片山が自己変革に取り組んでいる間、サカモトは大林課長に、片山と凹凸電機とのことを相談してみた。

もちろん片山に配慮して、大林には当たり障りのないことしか言わない。

「片山と凹凸電機ですか。

いやあ、前にいろいろとありましてね」大林はサカモトに、片山が話したのと同じ経緯を説明した。

「それで、今はどうなのですか?」とサカモトが聞くと、大林は渋い顔になって、「いやあ、改善されてませんな」と言う。

「あれ以来、片山はなかなか先方に行かなくなってしまって。

あちらも大人のビジネスマンですから、トラブルがあっても、きちんと解決できれば水に流していただけているんです。

でも、片山が顔を出さないのでは、関係修復のしようがない。

それがかえって、お客様の機嫌を損ねているようなところがあるんですよ」「ははあ。

苦手なお客様を避けるようになってしまったわけですか」「そうなんです。

でも、それでは当社のビジネスに悪影響が出てしまいますから、そろそろ担当を替えようかと思っているんです」「うーん。

なるほど……少しだけ、それを待っていただくことは、できませんか?」「と、おっしゃいますと?」「片山さんに、チャンスをあげていただきたいのです」「ははあ。

サカモトさん、彼と何かやっていらっしゃるんですね?わかりました。

サカモトさんに、お預けします」大林は快く同意した。

そして、片山に与えた一週間の宿題期間が明けた。

サカモトは再び片山と話した。

「写真を使ったエクササイズ、あれ、やってみるとおもしろいもんですね」片山が言った。

「もちろん実物ではないからリアルさには欠けますけど、逆にそのおかげでこちらも気兼ねなく何度も表情やセリフを調整できますし。

前よりは確実にリラックスして相手を見られるようになったと思います」「そうですか」サカモトは、にこやかに答えた。

「では、いよいよ第二ステップに進みますか」「えっ。

第二ステップ、ですか?」「ええ。

これが最終ステップです」「何をするんですか?」「凹凸電機の北野さんを、何度も訪問するのです」「えっ。

それはちょっと……」「できませんか?でも、それでは、いつまでたっても本当の目標が達成できないでしょう?」「それは、そうですが」「大丈夫ですよ。

大林課長に、それとなく状況をお聞きしてみたら、向こうはもう例のトラブルは気にしていらっしゃらないようですし」「そうでしょうか」「ええ。

このところ、凹凸電機には、どれくらいの頻度で訪問していますか?」「それは……。

あまり、していません。

最近は、特に案件もないので」片山は、うつむきながら答える。

「では、逆にチャンスじゃないですか。

まずは、ご無沙汰したということで、ご挨拶にだけあがる。

これなら時間も短いし、簡単でしょう?」「まあ、そうですけど」「それをきっかけにして、頻繁に伺うようにしましょう」「でも、特に打ち合わせるようなことも、ありませんよ」「それなら、何かこちらから『お土産』的に提供できるネタを仕入れていきましょうよ。

最近のトレンドでも、ノルウェー・モバイルの海外情報でも」「そうですね……」「もちろん、実物は写真と違いますから、どう反応するかわからない。

でも、そこは勇気を出して頑張りましょう。

今まで通りに写真を使ったエクササイズも当面は併用して」そして片山は、再び凹凸電機に通うようになった。

最初の訪問から帰ってきた彼を迎えたサカモトが、「どうでした?」と尋ねる。

「まあ、大丈夫でした」との返答に、サカモトは内心ほっと胸をなでおろした。

再開初回でつまずいてしまったら、また長い時間をかけて消去をしなければならなかったからだ。

「では、これからも大丈夫ですね?」とサカモトが言うと、片山は、やや硬い仕草ながらもうなずいた。

そして三カ月がたった。

近頃では片山からの相談もないので、サカモトは久しぶりに彼と話してみることにした。

「片山さん。

その後、凹凸電機の方とは、どうなっていますか?」サカモトが尋ねると、片山は思い出したように、「あ、すみません。

ご報告もしないで」と話し始めた。

「サカモトさんに教わった通り、ネタを用意して何度も訪問しているうちに、いつ頃からか苦手意識を感じなくなっている自分に気がつきました。

本当に、いつの間にか苦手感が消えていたので、サカモトさんにお話しするタイミングも逸してしまって」「そうですか。

それはよかったですね」「そうそう、北野さんに言われたんですよ、この前。

『片山君は、この頃仕事に自信がついたのかね?』って。

なぜですかと尋ねると、『きちんと、こちらの目を見て話せるようになった』ですって。

思えば、以前は相手の目も見られずにいたんですね。

それじゃあ、営業としては顧客の信頼は得られませんよねえ」話し続ける片山の顔からは、もう不安の影は消えていた。

解説1.パブロフの条件づけスキナーは、行動を二つのタイプに分類した。

オペラント行動とレスポンデント行動の二つである。

二つの違いは、行動の原因についての考え方である。

オペラント行動の原因は、これまで見てきたように、行動の直後の状況の変化にある。

一方、レスポンデント行動の原因は、行動に先行する環境内の刺激である。

つまり、オペラント行動とレスポンデント行動では、行動と原因の時間的順序が逆になる。

レスポンデント行動という名前自体はスキナーが命名したものだが、この原理を発見したのが、ノーベル賞を受賞したロシアの生理学者(心理学者ではない)パブロフであり、犬を使った有名な実験をした。

犬にメトロノームの音を聞かせ、その直後にエサを与える。

エサが口の中に入ると、犬は唾液を出す。

この、「メトロノームの音エサを与える」を何回か繰り返したあと、メトロノームの音だけを単独で聞かせる(エサはやらない)。

すると、犬はメトロノームの音を聞いただけで、唾液を分泌した。

これが、有名なパブロフの犬の条件反射の実験である。

エサを食べると(口の中に入ると)、唾液が出るというのは、犬が本来生得的に持っている機構で、無条件反射といわれる。

このとき、エサを無条件刺激、唾液分泌反応を無条件反応という。

一方、メトロノームの音は、本来は唾液分泌には何の関係もないので、中性刺激と呼ばれる。

しかし、メトロノームの音とエサとを同時に(実際はメトロノームの音を若干早めに聞かせる)与えることにより(専門用語では対提示という)、メトロノームの音を聞いただけで唾液分泌を起こす条件反射が成立する。

このときは、メトロノームの音は唾液分泌と無関係ではなくなり、本来中性刺激であったメトロノームの音は、条件刺激に変化したという。

つまり、犬がもともと持っていた無条件反射の機構に、中性刺激と無条件刺激を対提示することにより、中性刺激が条件刺激へと変化し、条件反射という新しい反射が生まれるのである。

これを図に書くと、図15-1のようになる。

レスポンデント条件づけは、無脊椎動物から人間に至るまで、ほとんどすべての動物に見られる行動の原理である。

人間においては、情動反応が起こる仕組みの説明としてよく用いられ、この章のケースにあるように、不安や恐怖の鎮静のための治療法が開発されてきた。

2.ワトソンの実験恐怖症ワトソン(Watson,J.B.)は、それまで意識を研究対象とする科学であるとされてきた心理学を、行動を研究対象にする科学に転換させた、行動主義の祖とよばれる米国の心理学者である。

三七歳の若さで米国心理学会の会長となったが、女性スキャンダルで失脚、大学教授の職も追われたが、広告業界に転進、心理学を用いた戦略でウォルター・トンプソンの副社長として活躍した。

このワトソンが共同研究者のレイヤーと行った有名な実験恐怖症と呼ばれる研究がある。

レスポンデント条件づけの仕組みを使って、実験的にねずみ嫌いを形成した研究である。

ワトソンとレイヤーは、実験のはじめに、生後一一カ月のアルバートに、白ねずみを見せたが、アルバートは怖がることなく、手を伸ばして触ろうとした。

一方、鉄の棒をハンマーで叩き、大きな音を出したところ、アルバートはびっくりして泣き出した。

突然大きな音がすれば、大人といえども身体がびくっとするなどの情動反応が起こる。

これは、われわれには、本来、大きな音(無条件刺激)が与えられると、恐怖反応(無条件反応)を引き起こす無条件反射が備わっているからである。

これを確認したあと、アルバートに、白ねずみを見せてから、背後で鉄の棒をハンマーで叩いた。

アルバートは驚いて泣き出す。

これを繰り返すと、アルバートは白ねずみを見せただけで(大きな音を立てなくとも)、泣き出し、後ろを向いてハイハイで逃げ出すようになった。

中性刺激だった白ねずみが条件刺激に変わり、条件反射が成立したのである。

それだけではなく、ハンマーの音と対提示しなかったウサギや犬、脱脂綿など、白くてふわふわしたものを見せても泣き出すという、般化と呼ばれる現象も起こった。

ワトソンは、アルバート坊やの白ねずみ恐怖症を実験的に作り上げたが、日常生活の中で偶然に起きてしまう恐怖症もたくさんある。

歯医者が嫌いな子どもは多い。

大人であっても、特に、あの歯を削るドリルの音を聞くと、背中がぞくぞくし、手が汗ばんでくるという人も少なくない。

ドリルの音は、本来は恐怖反応とは何の関係もない中性刺激である。

道路工事や電気工事のドリルの音を聞いたところで、私たちは怖いとは思わない。

しかし、歯科治療では、歯を削るドリルの音と、削る際の痛み(無条件刺激)が対提示される。

その結果、ドリルの音が条件刺激に変わり、発汗や身体の緊張などの恐怖反応を引き起こす条件反射が成立するのである。

ワトソンはこのアルバート坊やの実験結果から、大人にも見られるさまざまな恐怖症を条件反射の原理で説明し、また、その治療法の基礎を作った。

これが、本章のケース片山省吾の役に立つのである。

3.苦手意識のメカニズム叱責と顔の対提示で条件刺激に変化片山省吾が、凹凸電機の北野氏になぜ苦手意識を持つようになったのか、条件反射の原理で説明してみよう。

条件反射が成立する土台には、必ず生得的に持っている無条件反射がある。

無条件反応は、片山の「不安感、緊張感」という情動反応である。

これを引き起こす無条件刺激は、二次見積もりで受けた激しい叱責である。

一方、サカモトが確認したように、「北野氏の顔」は鬼瓦のように、本来的に、恐怖を引き起こすような顔なわけではない。

だから、不安・緊張反応にとって、もともと北野氏の顔は中性刺激である。

しかし、一次見積もりの甘さから、大幅に超過した二次見積もりによって、北野氏は片山を厳しく叱った。

その結果、激しい叱責(無条件刺激)と北野氏の顔(中性刺激)が対提示され、北野氏の顔は条件刺激に変化し、その後、北野氏の顔だけで不安・緊張反応が引き起こされるようになったのである(図15-2)。

条件反射は一回で成立することもあるところで、パブロフの犬の場合、メトロノームの音が唾液分泌を引き起こすためには、音とエサとを何回か対提示する必要があった。

一方、片山の場合は、北野氏に一回激しく叱られただけで、条件反射ができてしまった。

条件反射の成立には、通常の場合、対提示を何回かする必要があるが、片山の場合のように、一回で成立する場合もある。

有名なのは、味覚性嫌悪(tasteaversion)と呼ばれる現象で、何かを食べて身体の具合が悪くなった場合、その食べ物を避けるようになるという学習である。

生ガキやサバを食べてひどくあたった経験をした人が、二度と食べるのはおろか、見たくもないということになる。

また、地下鉄サリン事件や、九・一一の同時多発テロを体験した人々が、地下鉄に乗れない、乗ろうとすると息苦しくなる、グラウンド・ゼロに近づけないというのも、ただ一回の対提示で成立した条件反射である。

4.レスポンデント消去と系統的脱感作レスポンデント消去いったん成立した条件反射を解消する方法は、すでにパブロフ自身が発見している。

メトロノームの音によって唾液分泌の条件反射ができた犬に対し、エサはいっさい与えず、メトロノームの音だけを断続的に聞かせる。

すると、条件反射によって、はじめのうちこそは唾液を出すが、次第に唾液の量が減っていくとともに、音を聞いてから唾液が出るまでの時間が長くなっていく。

最後には、メトロノームの音を聞かせても、唾液は出なくなる。

音が元の中性刺激に戻り、条件反射が解消したのである。

この現象をレスポンデント消去という。

条件反射が成立したあとに、条件刺激だけを与え続けると、最後には消去が起こる。

唾液分泌だけではなく、恐怖反応の場合でも。

したがって、ねずみ嫌いになったアルバートを、元の動物好きに戻すのは、ねずみだけを見せ続けて、決して大きな音を同時に聞かせなければよい。

ワトソンは、もちろん、この治療を行うつもりであったが、あまりの息子の変化に驚いた母親がアルバートを実験途中で家に連れて帰り、その後、二度とワトソンの前に現れなかったので、治療は実際には行われなかった。

この実験が発表されたのは、一九二〇年、今から八八年前のことだ。

当時一一カ月のアルバート坊やは生きていれば、齢九〇歳に近いアルバート爺であるが、アルバート爺がいまだにねずみ嫌いであるかどうかは、心理学史上最大の謎という人もいる。

レスポンデント消去をすれば、恐怖症は治る、理論的には。

しかし、これを実際に行うのは、困難を伴う。

なぜなら、恐怖反応を起こすようになった条件刺激に接すること自体を人は避けるからである。

グラウンド・ゼロに近づいても、今あの惨事が繰り返されるわけではない。

地下鉄日比谷線に乗ったからといって、もうサリンはない。

苦痛な刺激との対提示はないのだから、グラウンド・ゼロに行くこと、日比谷線に乗ることを繰り返せば、恐怖反応は消去されるはずだ。

しかし、そもそも行くことができないのである。

片山もそうだ。

二次見積もりの件はとっくに解決しているのだから、北野氏に会っても、叱責されることはない。

皮肉くらいは言われるかもしれないが。

しかし、北野氏に会うことができない。

条件刺激に単独で接することができないのである。

系統的脱感作そんな片山にサカモトが行ったアドバイスは何だったろう。

お得意様会で撮影した北野氏のデジカメ写真を、毎日最低一回は、自分のデスクのパソコンで見るというものであった。

サカモトの工夫は、本物の北野氏ではなく、写真の北野氏の顔を見ることを提案した点だ。

本物の北野氏より、恐怖反応が起こりにくいソフトな刺激(写真)に接し、それに慣れたあとで、本物の北野氏に会うという算段である。

写真なら決して叱られることはないし、北野氏の会社という付随刺激もない。

これは、系統的脱感作といわれる方法で、恐怖症や不安神経症の治療に開発され、効果を上げている。

系統的脱感作では、患者に恐怖の対象としている条件刺激を段階的に見せ、恐怖や不安を最低限に保ちながら消去を繰り返す方法である。

交通事故を起こし、怖くて運転ができなくなった患者に対し、クシュナー(Kushner,M.)が行った系統的脱感作では、次のような段階で、条件刺激にさらしていった。

①事故を起こす前の車を想像する②車のそばに立っている自分を想像する③運転席に座っている自分を想像する④エンジンをかけ、アイドリングしているところを想像する⑤ガレージから車を出したところを想像する⑥近所を運転しているところを想像する⑦交差点のないまっすぐな道を走っているところを想像する⑧交差点にさしかかったが、他には車がないところを想像する⑨一旦停止の標識がある交差点にさしかかり、右側から車が近づいてくるところを想像する

これは不安階層表というもので、もちろん、①が最も弱い恐怖刺激であり、⑨は実際に事故に遭ったときの場面で最も強く恐怖を引き起こす場面である。

患者は①の場面を想像することから始め、想像しても強い恐怖を感じなくなったら、②に移る。

これを繰り返し、⑨の場面まで徐々に消去していくのである。

なお、この方法は、実際に車を運転するわけでなく、想像で恐怖反応を治療する点で、イメージ脱感作法という。

片山が使ったのもイメージだ。

イメージではなく本物の刺激を使う、現実脱感作法という治療法もある。

5.恐怖反応だけではない情動反応を引き起こす条件反射は恐怖や不安などのネガティブな反応だけではない。

好感度を条件づけることもできる。

評価条件づけといわれる実験がある。

人の顔写真(本来は中性刺激)を見せ、それぞれの写真に、「誠実な」というようなポジティブな形容詞か、「残酷な」のようなネガティブな形容詞を対提示する。

これを繰り返したあと、今度は写真だけを見せて、写真の顔の好き嫌いを評定させる。

すると、それぞれの写真に何という形容詞が対提示されたか覚えていない場合でも、ポジティブな形容詞と対提示された写真の顔は「好き」、ネガティブな形容詞と対提示された顔は「嫌い」と答えたのである。

行動分析学の祖スキナーは、三巻にわたる自伝を書いたが、第二巻Theshapingofabehavioristの中におもしろいエピソードがある。

若い頃、交際していた女性と倦怠期になり、別れ話を持ち出そうとしたが、なかなか実行できずにいた。

今日こそはとついに決心したときに、たまたまトイレに行った。

すると、そこに彼女の下着が干してあり(米国なので、バスルームにトイレがある)、それが目に入った途端、別れる気が急に失せたそうである。

ガールフレンドの下着そのものは本来中性刺激であるが、性的刺激(性的反応にとっての無条件刺激)と対提示されてきた結果、下着は条件刺激へと変化していたのである。

スキナーはバスルームでその条件刺激を見て、条件反射を起こしたに違いない。

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