「世界」という広さにおいて観るそれでは、「仕事の思想」の第二の原点は、何か。「世界」という広さにおいて観る。それが、第二の原点です。
しかし、「世界」という広さにおいて観るという意味は、決して「グローバリゼーション」や「国際化」ということではありません。
では、どういうことか。
例えば、この本を読まれたことがあるでしょうか。
『世界がもし100人の村だったら』この本には、世界がもし一〇〇人の村だったら、何人がどのような境遇にある、ということが色々と書かれています。
この「何人」を「パーセント」に読み換えれば、分かりやすい話です。いくつか紹介しましょう。
「この村は、二〇人は栄養が十分ではなく、一人は死にそうなほどです」「でも一五人は太り過ぎです」と書き加えてあります。
「すべての富のうち、六人が五九%を持っていて、みんなアメリカ合衆国の人です」「二〇人が、たったの二%を分けあっています」つまり、この世界は、たった六%の人々が、六〇%の富を持っており、二〇%の人々は、二%の富で生きているのです。
「すべてのエネルギーのうち、二〇人が八〇%を使い、八〇人が二〇%を分けあっています」「七五人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがあります。でも、あとの二五人は、そうではありません」「一七人は、きれいで安全な水を飲めません」「銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっている人は、いちばん豊かな八人のうちの一人です」それ以外にも、色々と書かれています。
「自分の車を持っている人は七人のうちの一人です」「村人のうち、一人が大学の教育を受け、二人がコンピュータを持っています。けれど、一四人は文字が読めません」それから、こうしたことも書かれています。
「もしもあなたが、いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに、信仰や信条、良心に従って、なにかをし、ものが言えるなら、そうではない四八人より恵まれています」
現在の地球上に生きる人々の半数近くは、いまだに、信仰や信条、良心に従ってものを言えるという最低限の人権も保障されていないのです。
さて、こうした数字を聞かれて、皆さんは、何を思われるでしょうか。これが、「世界という広がりにおいて観る」ということです。
それは、決して「グローバリゼーション」や「国際化」という意味ではない。それは、世界が、いまだ、いかなる状況にあるかを知る、という意味です。
では、なぜ、皆さんに、こうした数字をお伝えするか。こうした数字を知ることによって、皆さんに、大切なことを理解していただきたいからです。それは、何か。
皆さんは、「恵まれた人間」なのです。
こう述べると、いや、自分は、裕福な家系に生まれたわけではない、いや、自分は、優れた才能に恵まれているわけではない、などと思われる方がいるかもしれません。
しかし、この「恵まれた人間」とは、決してそのような意味ではありません。
いかなる家系に生まれたか、どのような才能に恵まれたかということは、「恵まれた人間」ということの意味ではない。
では、「恵まれた人間」とは何か。いま、この地球上の人類の中で、次のような条件を満たしている人間です。
第一に、半世紀以上も戦争のない平和な国に生まれ、第二に、世界でも有数の経済的に豊かな国に生まれ、第三に、最先端の科学技術を活用できる国に生まれ、第四に、世界一の健康長寿を享受できる国に生まれ、第五に、国民の多くが高等教育を受ける国に生まれた。
こうした条件を満たしている人間が、「恵まれた人間」です。では、なぜ、それが「恵まれた人間」か。それは、先ほどの本が示した数字を知るだけで、理解できるでしょう。
もし、この世界が一〇〇人の村だとしたら、こうした条件を満たしている人は、いったい、どれくらいいるか。答えは明白です。
いま、地球上に生きる人類の中で、こうした境遇を与えられた人間は、ごくかぎられた少数です。そして、もしそうであるならば、皆さんや私は、この人類の中で、明らかに「恵まれた人間」です。
皆さんも私も、こうした境遇を与えられた、実に「恵まれた人間」として生を受け、生きている。なぜ、そう言えるのか。それは、ほんのわずかな「想像力」で理解できることです。
例えば、我々が、いま、この地球上に人間として生を受けるとき、どの境遇に生まれるか、サイコロを振って決めると考えてみればよい。
そのとき、この現在の境遇に生まれる確率は、気が遠くなるほど低いものでしょう。逆に、そのとき、戦禍に怯える国に生まれる確率は、決して低くない。飢餓に苦しむ国に生まれる確率も、決して低くない。
だから、もし「恵まれた人間」という言葉を定義するならば、こうした五つの境遇を与えられた人間をこそ、「恵まれた人間」と定義すべきでしょう。
いかなる裕福な家系に生まれたとか、いかなる優れた才能に恵まれたとか、そうしたことは「恵まれた人間」の定義ではない。
皆さんは、明らかに、「恵まれた人間」なのです。問題は、そのことに気がつくか、否かです。もちろん、いまの境遇というものを、違った角度から見ることもできる。
いまの職場には、厳しい上司がいる。給料も低い。人間関係も悪い。そういった境遇に見えるかもしれません。
しかし、「世界」という広がりにおいて観るならば、それは決して、ひどい境遇ではない。そのことに気がつくか、否か。それが、我々に、問われているのです。
もう一度、言いましょう。皆さんも私も、「恵まれた人間」です。しかし、我々が、「恵まれた人間」であるならば、決して忘れてはならないことがある。
「使命」です。「恵まれた人間」には、「使命」がある。恵まれた境遇に生まれついた人間は、それを「幸運」と思うだけであってはならない。そうした幸運な境遇に生まれついたことへの「感謝」がなくてはならない。
そして、その感謝の念は、「使命」を自覚することによって、表されなければならない。そして、この「使命」という言葉は、昔からイギリスなどで使われてきた、あの言葉と共通のものです。
ノブリス・オブリージュ。その言葉です。これは、「高貴な人間が持つ義務」と訳される言葉です。
貴族階級などの高貴な身分の人々は、戦時においては、身を挺して国民を守る義務がある。イギリスでは、そうした精神が語られてきました。
そして、この「ノブリス・オブリージュ」の伝統があるイギリスでは、戦争のときに、貴族の子弟が負傷したり、戦死することが、一般の人々よりも多かったという統計が残っています。
これは、イギリスが誇るべき歴史的な事実でしょう。
ただ、私は、これからの時代の「ノブリス・オブリージュ」という言葉は、違った意味に使われるようになると思います。
おそらく、この言葉は、逆の意味で使われるようになっていく。
すなわち、それは、「高貴な人間が持つ義務」という意味の言葉ではなく、「使命感を持って生きる人間の高貴さ」という意味の言葉になっていく。
そう、私は考えています。
私は、この「ノブリス・オブリージュ」という言葉を、敢えて、こうした逆の意味に解釈したい。
だから、もし皆さんが、自分の生まれた境遇を、恵まれた境遇であると感じ、その感謝の思いを、良き仕事を通じて表そうと考え、そうした使命感を持って生きられるならば、その生き方は、高貴な生き方です。
皆さんのその姿は、尊い姿です。
そして、その「良き仕事」とは、決して、世界的な大発明や、国際的な大事業である必要はない。それは、何よりも、日々の仕事に心を込めて取り組むこと。
そのことでよいのです。
最澄の言葉に、「一隅を照らす、これ国の宝なり」という言葉があります。
我々が使命感を持って取り組む仕事は、決して大きな仕事である必要はない。一人の人間がどれほど大きな仕事に取り組むかは、天が定めることです。
我々が為すべきは、まず、日々の仕事に心を込めて取り組むこと。そのことによって、「良き仕事」を残すことです。
しかし、そのとき大切なことがある。それは、心の中で、何を観ているかです。たとえ「小さな仕事」であろうとも、心は「大きな世界」を観ている。そのことが大切なのです。
だから、「世界」という広さにおいて観る。それが、「仕事の思想」の第二の原点です。
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