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Ⅲ │子育てや教育は子どもの成長に関係ない

Ⅲ │子育てや教育は子どもの成長に関係ない

11 わたしはどのように「わたし」になるのか双生児の奇妙な類似「高貴な血」と「穢れた血」遺伝するもの、しないもの「こころの遺伝」の明暗 12 親子の語られざる真実「氏が半分、育ちが半分」の真偽言語・宗教・味覚にまつわる遺伝の真相子どもはなぜ親のいうことをきかないのか 13 「遺伝子と環境」が引き起こす残酷な真実同じ遺伝子でもちがう性格になるケース「選抜された 22人の少年たち」の実験黒人少年が生き延びるたったひとつの方法英才教育のムダと「バカでかわいい女」あとがき註釈:参考文献

11 わたしはどのように「わたし」になるのか双生児の奇妙な類似 生まれてすぐに里子に出された一卵性双生児が 39年ぶりに再会した。 1979年のアメリカ、オハイオ州での出来事だ。養親はルイス家とシュプリンガー家で、偶然、 2人とも同じジェイムズ(ジム)という名前をつけられた。 それまでいちども会ったことがなかったのに、ジム・ルイスとジム・シュプリンガーのあいだにはさまざまな類似点があった。 2人ともやや高血圧気味で、半日もつづくひどい偏頭痛に悩まされていた。学校の成績はそれほどよくなく、 1人は高校 1年のときいちど落第、もう 1人も落第すれすれの成績を取りつづけていた。 しかし類似点は、それだけではなかった。 この再会を報じた地元紙によれば、 2人とも車はシボレーを運転し、ヘビースモーカーで銘柄はセーラム。改造カーレースが好きで野球は嫌い。そればかりか 2人とも離婚歴があり、最初の妻の名はどちらもリンダで、 2度目の妻はどちらもベティ、一方は長男をジェイムズ・アラン( Alan)、他方はジェイムズ・アラン( Allan)と名づけた。さらに飼い犬の名前はどちらもトイだった。 もちろんこの話は出来すぎで、眉つばなところもある。ひねくれた見方をすれば、 2人は子ども時代からこっそり連絡を取り合っていて、新聞記者をだまして世間を驚かせようと企んだのかもしれない。犯罪捜査のように証言の裏づけをとるわけにはいかないから、真偽のほどは誰にもわからないのだ。 しかし 2人のジム以外にも、同じような不思議な話がいくつも出てきた。たとえば 38歳のときにはじめて再会したイギリスの一卵性双生児(女性)は、 2人とも指に7つの指輪をして、片手に2つのブレスレット、もう片方にブレスレットと腕時計をし、息子をアンドリュー・リチャードとリチャード・アンドリュー、娘をキャサリン・ルイーズとカレン・ルイーズと名づけていた。 ユダヤ人の父親とドイツ人の母親の間に生まれた一卵性双生児のオスカーとジャックの例はさらに衝撃的だ。オスカーはドイツの祖母に引き取られ、ヒトラーユーゲント(ナチスの青少年組織)で育てられた。ジャックはユダヤ人の父親の元に残り、イスラエルのキブツにいたこともあった。これほど生育環境が違うのに、 2人が空港で再会したときはどちらも口ひげをはやし、メタルフレームの眼鏡をかけ、両肩に肩章のついたアーミー風のスポーツシャツを着ていた。どちらも女性に対して命令的な態度をとり、妻を怒鳴りつけたりした。さらに 2人ともトイレを使う前に必ず水を流し、輪ゴムを腕にまく癖があり、雑誌をうしろから読んだ……【 72】。 1960年代以降、別々に育てられた一卵性双生児は科学的にきわめて貴重な素材として、行動遺伝学者によって徹底的に研究された。こうした例が大量に集められると、もはや〝やらせ〟では説明できない。 ここでは双生児たちの奇妙な類似から、「わたしはなぜ『わたし』になったのか」という謎について考えてみよう。「高貴な血」と「穢れた血」 わたしはどのように「わたし」になるのか。──これは深遠な問いだが、原理的には、その答は 1行で書ける。 わたしは、遺伝と環境によって「わたし」になった。 氏と育ちが子どもの性格や能力を決めることはむかしからわかっていたが、遺伝と環境の影響を分離することはできなかった。だからこそ「氏が半分、育ちが半分」ということでなんとなくお茶を濁してきたのだが、こうした曖昧な態度が好まれるのは、遺伝の影響を突き詰めるのが不都合だからでもある。 ヒトは太古のむかしから、血に特別な意味を見出してきた。このことをかんたんな実験で示したいなら、古いセーターに赤いインクをたらし、「これは強盗に刺されて死んだ友人の形見だ」といってみればいい。ほとんどのひとはそれを悪い冗談だと思うだろうが、それでもセーターに触れようとはしないはずだ。セーターの赤い染みが呪力のようなものを発していて、穢れた血に触れると災厄を招くと感じるからだ【 73】。 その一方で、人類は歴史時代のずっと前から、高貴な血は子どもに引き継がれると信じてきた。時代や文化・宗教のちがいを問わず、王制や貴族制が世界の至るところで見られるのは、「血の神話」がヒューマン・ユニヴァーサルズ(人類に普遍的な性向)であることを示している(もちろん万世一系の天皇制もそのひとつだ)。 科学的には意味がないものの、誰もがその存在を疑わない仮想感覚をスピリチュアルセンスと名づけよう。眼力はその典型で、目からなんらかの物理的なちからが発せられているわけではないのだから、相手の視線を「感じる」ことなどできるはずがない。しかし私たちは、仮想感覚によって、「射るような視線」をたしかに感じる。 高貴な血への崇拝と穢れた血の忌避は、人類に普遍的なスピリチュアルセンスだ。しかし 20世紀半ば以降は、人種差別やホロコーストの悲劇を経て、「穢れた血が子どもに引き継がれる」という考え方はタブーとされた。だったら高貴な血の神話もいっしょに捨て去らなければならないが、そうすると王制(天皇制)の根拠がなくなってしまうので、こちらのほうは残すことにした。こうして、「高貴な血は子々孫々まで引き継がれるが、穢れた血は遺伝しない」というなんともご都合主義なイデオロギーが「政治的に正しい」とされることになったのだ。 ちなみに、ヒトは両性生殖なので、子どもは父親と母親からそれぞれ 50%の遺伝子を受け継ぐ。当然、父から子、孫へと世代が替わるごとに遺伝子の共有比率は低くなり、数十世代もすれば「高貴な血」も「穢れた血」もヒトの遺伝子プールのなかに散逸し、家系や血のつながりはなんの意味もなくなる(近親婚を繰り返せば別だが、これはほとんどの場合、劣性遺伝の影響で悲惨な結果を招く)。 遺伝の正確な知識を得ることは、「血の呪縛」から抜け出すことでもあるのだ。遺伝するもの、しないもの 一卵性双生児は、同じ受精卵が初期の段階で2つに分かれ、独立した個体に育ったのだから、 2人は完全に同一の遺伝子を共有している。それに対して二卵性双生児は、子宮に 2個の受精卵が着床して生まれ、通常の兄弟姉妹と同じく、およそ 50%の遺伝子を共有しているだけだ。行動遺伝学者は、この 2種類の双生児を比較することで人格や能力の形成についての重要な事実を発見した。 一卵性と二卵性の双生児は、遺伝子の共有比率を別にすれば、他の条件(同時に生まれ、同一の家庭で育てられた)は同じだ。だとすれば、双生児のデータをたくさん集めて、彼ら/彼女らがどれくらい似ているのかを調べることで遺伝と環境の影響を測ることができるはずだ。

こうした研究によれば、身長、体重、指紋の数など量的な大小にかかわる項目は、二卵性に比べて一卵性の類似度がきわめて高い。双生児の養育環境は同じなのだから、類似性の差は遺伝の影響によるものと考えるほかはない。 類似性は相関係数で表わされ、 1が完全に同一で、 0がまったく無関係だ。たとえば体重の相関係数は一卵性で 0・ 8、二卵性が 0・ 4で、 2対 1という比率は一卵性が遺伝子の 100%を共有し、二卵性が 50%しか共有しないことに対応している【 74】。このような場合、家族のあいだの体重の類似性は遺伝だけで完全に説明でき、同じものを食べたり、似たような生活習慣を持つといった環境の共有は無関係だ。 しかしこれは、遺伝ですべてが決まるということではない。一卵性双生児の相関係数が 0・ 8なのは、 2人の体重はよく似ているがまったく同じではないからだ。このちがいは(遺伝子はまったく同一なのだから)、お互いが異なる環境から異なる影響を受けていることによる──親が 2人を別々の学校に通わせれば給食の内容が異なり、それが体重に影響するかもしれない。これを「非共有環境」という。 体重の家族的な類似性は遺伝的な要因で決まり、共有環境(家庭での食生活など)の影響はなく、体重のちがいは非共有環境によってもたらされる。すなわち、体重に与える影響(寄与度)は遺伝が 80%、共有環境が 0%、非共有環境が 20%だ。 同様の手法で、一般知能( I Q)や学業成績、胃潰瘍や高血圧などの病気、情緒障害、自閉症、アルツハイマー、統合失調症などの精神疾患・発達障害にどの程度、遺伝が影響しているかを調べることができる。 その結果を見ると、すべての項目で一卵性の類似度は二卵性を上回っているが、その「似ている度合い」はかなり異なる(次頁図 11‐ 1、 11‐ 2)。

たとえば胃潰瘍は、遺伝的な影響が見られるものの、一卵性の類似度が二卵性よりも極端に高いわけではない。〝遺伝病〟と見なされるがんは、胃潰瘍と比べて双生児類似性がずっと低い。これは、がんを引き起こすのががん遺伝子だとしても、それが発現するかどうかは環境によることを示している【 75】。 環境で発病が決まるなら、親族にがんが多い、いわゆるがん家系だとしても、食事や生活習慣に配慮することで予防は可能だ。今後、双生児研究がさらに進展すれば、「がんにならない生活」がどのようなものかわかってくるかもしれない。このように行動遺伝学は、私たちの生活の改善に大きな可能性を秘めている。 だがそれと同時に双生児研究は、現在の社会では容易に受け入れがたい不都合な事実も明らかにしてきた。それが、「こころの遺伝」だ。「こころの遺伝」の明暗 すでに述べたように、行動遺伝学は一貫して、知能や性格、精神疾患などの「こころ」に遺伝が強く影響することを示してきた。一卵性と二卵性の双生児の比較では、その影響は身体的な病気と同じか、それよりも大きく、自閉症や情緒障害といった発達障害は身長や体重よりも遺伝の影響が大きい(図 11‐ 2)。 もちろん、「こころ」のすべてが遺伝するわけではない。たとえば「宗教性」には一卵性と二卵性のちがいがほとんどなく、どの宗教を信じるか(あるいは信じないか)は遺伝ではなく共有環境で決まることを示している──親が熱心なキリスト教徒なら子どももクリスチャンになり、(成人後は別として)友だちの影響でムスリムになることはない。同様に言語も環境の影響が大きいが、これは子どもが親の話す言葉を真似るからだ。 子育てによって、親は子どもに自分たちの言葉や宗教を教えることができる。これは間違いないが、私たちはこの「成功体験」を拡張し、しつけや子育てで算数を好きにさせたり、内気な性格を外向的にできると考えている。 だが双生児のデータは、こうした子育ての効果について一貫して奇妙としかいいようのない結果を示している。宗教や言葉などを除き、どれほど調べても知能や性格に共有環境の影響がほとんど見られないのだ。 日本だけでなく世界じゅうで、「同じ子どもは 2人いらない」という理由で一卵性双生児のどちらか(あるいは両方)が養子に出される習慣がある。この場合、同一の遺伝子を共有する子どもが完全に異なる環境で育つことになる。 行動遺伝学者は、これが巧まざる自然実験であることに気がついた。一卵性双生児がそっくりだとしても、それだけでは、似ている理由が遺伝なのか、同じ家庭で同じように育てられたためかはわからない。だが一方が養子に出されたのなら、環境を共有していないのだから、類似性はすべて遺伝によるものだ。 では、実際にはどうなのだろうか。 外向性や調和性、神経症傾向などさまざまな一卵性双生児のパーソナリティの特徴を、一緒に育てられた場合と、べつべつに育てられた場合で比較した研究がある。それによると、同じ家庭で育った(環境を共有する)双生児の相関の平均は 0・ 49で、異なる家庭で育った(環境を共有しない)双生児の平均は 0・ 5だった【 76】。家庭環境が性格に影響するなら同じ家庭で育った双生児のほうがよく似ていなければならない。だがこの差は統計的に意味がなく、育った家庭にかかわらず一卵性双生児の性格は同じくらいよく似ているのだ。 性格の相関係数が 0・ 5ということは、「氏が半分、育ちが半分」という諺の正しさを証明しているように見える。だが、一卵性双生児が家庭環境にかかわらず同じように似ているとなると話は変わってくる。〝氏(遺伝)〟が半分なのは間違いないとして、(家庭環境 =共有環境の影響がないのだから)残りの半分を決める〝育ち〟は非共有環境なのだ。 より具体的に、共有環境と非共有環境の影響を見てみよう。 たとえば、論理的推論能力や一般知能( I Q)において共有環境の寄与度はゼロだ。音楽、美術、数学、スポーツ、知識などの才能でも、やはり共有環境の寄与度はゼロ。家庭環境が子どもの認知能力に影響を与えるのは、子どもが親の言葉を真似る言語性知能だけだ。 こうした結果は学習だけでなく、性格でも同じだ。パーソナリティ(人格)を新奇性追求、損害回避、報酬依存、固執、自己志向、協調、自己超越に分類して遺伝と環境の影響を調べると、遺伝率は 35 ~ 50%程度で、残りはすべて非共有環境で説明できる。すなわち、共有環境の寄与度はやはりゼロだ。同様に、自閉症や AD H D(注意欠陥・多動性障害)などの発達障害でも共有環境の影響は計測できないほど小さい。さらには、男らしさ(男性性)や女らしさ(女性性)といった性役割にも、共有環境は何の影響も与えていない(図 11‐ 3)。

一卵性双生児の 1人を文化や宗教、しつけの方法がまったく異なる外国に養子に出したとしよう。だが 2人の知能や性格、精神疾患などの「こころ」は、同じ家庭で育った一卵性双生児と同じようによく似ている──。 この事実が示すのは、「こころ」における遺伝の影響がきわめて大きいということだが、これだけなら多くのひとは〝科学的な事実〟をしぶしぶ受け入れただろう──反論のしようがないのだから。 しかしここには、私たちの社会がどうしても認めることのできない「残酷すぎる真実」が隠されている。それは、子どもの人格や能力・才能の形成に子育てはほとんど関係ない、ということだ──だからこそ、別々に育っても一卵性双生児は瓜二つなのだし、双生児研究において共有環境の寄与度がほとんど見出せないのだ。 図 11‐ 3は、これまでのさまざまな双生児研究に基づいて認知能力や性格、才能などの「こころ」と遺伝の関係をまとめたものだ。 遺伝の影響はあらゆるところに及んでいるが、その遺伝率は音楽的才能の 92%から言語性知能の 14%までさまざまだ。だがそれ以上に驚かされるのは、ほとんどの項目で共有環境の影響がゼロ(測定不能)とされていることだ。 家庭が子どもの性格や社会的態度、性役割に与える影響は皆無で、認知能力や才能ではかろうじて言語(親の母語)を教えることができるだけ。それ以外に親の影響が見られるのはアルコール依存症と喫煙のみだ。 学習能力はもちろんとして、「男らしく(女らしく)しなさい」というしつけの基本ですら、親は子どもの人格形成になんの影響も与えられないというのは、ものすごく理不尽な話にちがいない。だが子育ての経験があるひとならば、どこかで納得しているのではないだろうか。なぜなら、子どもは親の思いどおりにはぜんぜん育たないのだから。 行動遺伝学の膨大なデータは、次のように告げている。 わたしは、遺伝と非共有環境によって「わたし」になる。 子どもが親に似ているのは遺伝子を共有しているからだ。子どもの個性や能力は、子育て(家庭環境)ではなく、子どもの遺伝子と非共有環境の相互作用によってつくられていく。そしてこの過程に、親はほとんど影響を与えることができない。 親は子どもをクリスチャン、ムスリム、仏教徒にすることはできるかもしれないが、親が望むような性格にしたり、有用と考える能力を持つように育てることはできない。なぜなら子どもの成長に、共有環境 =子育てはほとんど関係ないのだから。 では、子どもの人格形成に決定的な影響を与える「非共有環境」とはいったいなんだろうか? 次章ではそれについて考えてみよう。

12 親子の語られざる真実「氏が半分、育ちが半分」の真偽 ジュディス・リッチ・ハリスは在野の心理学者だ。「在野」なのはハーヴァード大学で心理学の修士号まで取得したものの博士課程で落とされ、研究者の道を絶たれたからだ。 そのうえ彼女は 39歳のときに自己免疫疾患の難病を発症し、それ以来ずっと闘病生活を続けてきた。ほとんどは自宅で過ごし、月に何回か近所の図書館まで歩くのがやっとだという。 だがハリスは、研究の夢を諦められなかった。病気のため心理学の実験を行なうことも、学会に出席することもできなかったが、彼女には、当時、誕生したばかりのインターネットがあった。 自宅でさまざまな学術論文に目を通し、研究者たちに Eメールで質問する。そんな自己流の「研究」をつづけていたハリスが興味を持ったのが、「非共有環境」の謎だった。 ここで、行動遺伝学の用語をもういちど確認しておこう。 知能や性格、行動など「わたし」をかたちづくる要因には「遺伝」と「環境」がある。遺伝率は双生児の研究などによって統計的に推計可能で、それによって説明できない部分が「環境」だ。 兄弟姉妹にも、似ているところと似ていないところがある。これは、環境のなかにお互いを近づけるものと遠ざけるものがあるからだ。これを「共有環境」「非共有環境」と呼ぶ。 兄弟姉妹で言葉づかいが似ているのは、遺伝の影響に加えて同じ家庭で育ったからだ。これが共有環境の影響で、一般には子育てのことをいう。 だが同じ家庭で育った一卵性双生児でも、見分けがつかないくらいそっくりになることはない。どんな子どもでもすべての環境を共有するわけではないからだ。 一卵性双生児でこの関係を示すと、次のようになる。 わたし =遺伝 ○ +共有環境 ○ +非共有環境 × ここで、 ○はお互いを近づけるちから、 ×は遠ざけるちからだ。人格形成においてこれ以外の要素がないという意味で、「遺伝」「共有環境」「非共有環境」の3つが「わたし」をつくっている(これは定義の問題で、「わたし」から「遺伝」を引いたものが「環境」、「環境」から「共有環境」を引いたものが「非共有環境」だ)。 双生児研究によれば性格の遺伝率は 35 ~ 50%で、「氏が半分、育ちが半分」という諺の正しさを示しているように思える。一卵性双生児は遺伝子が同じで、同じ家庭で育てられた(遺伝と環境を共有している)のだから、とてもよく似ているのだ。 これはわかりやすい理屈だが、しかし、双生児の研究が進むと大きな壁に突き当たった。前章で述べたように、生まれてすぐに文化や宗教、しつけの方法がまったく異なる外国に養子に出された一卵性双生児も、同じ家庭で育ったのと同様にとてもよく似ているのだ。 遺伝率 50%とは、残りの半分は環境で決まるということだ。彼らは家庭環境を共有していないのだから、彼らがよく似ているのは「家庭以外の環境」の影響だと考えるほかはない。 これはいったいどういうことだろう──これがハリスの問いだった【 77】。言語・宗教・味覚にまつわる遺伝の真相 ハリスが不思議に思ったのは、移民の子どもたちが流暢に英語を話すことだった。 これは実は、行動遺伝学の知見から見ても奇妙なことだ。子どもは親から母語を学ぶ。そのため言語性知能の遺伝率は他の知能と比べて際立って低く( 14%)、共有環境の影響が 58%ときわめて高い(論理的推論能力など他の知能には共有環境の影響は見られない)。 それにもかかわらず移民 1世の子どもたちは、ごく自然に英語を話すようになり、母語での読み書きを忘れ、親との会話にも英語を使うようになる。──これはアメリカだけの現象ではない。在日韓国・朝鮮人の家庭を何度か訪れたことがあるが、子どもが日本の学校に通っていた場合、親が母語で話しかけても子どもは日本語で応対していた。 学校では英語(日本語)で授業が行なわれるのだから、こんなことは当たり前だと思うかもしれない。だが移民の子どもたちは、就学前から現地の言葉を話すようになる。ほんとうに教育の影響だけなのだろうか。 言語とともにハリスが注目したのは宗教だ。 アメリカはキリスト教の国で、ピューリタン(プロテスタント)の移民の子孫である白人だけでなく、黒人やヒスパニックもほとんどがクリスチャンだ。それにもかかわらず、イスラーム圏からの移民の子どもたちはムスリムになり、キリスト教への改宗はほとんどない。これは、親の宗教を子どもがそのまま受け継ぐからだ。 ハリスは指摘していないが、同じことは味覚にもいえる。 以前、ハワイ在住の友人にホノルル郊外の本格的な日本料理店(料理人はすべて日本人)に連れて行ってもらったことがあるが、その店は観光客が集まるワイキキからは離れた住宅街の中にあった。たまに日本の駐在員などがやってくるが、客のほとんどは日系アメリカ人の 2世、 3世、 4世だという。彼らは日本語をひと言も話せず、考え方も行動も完全なアメリカ人だが、それでも「母親の味」を求めて日本料理店にやってくるのだ。 移民の子どもたちはたちまち英語を習得して母語を忘れてしまうが、宗教(や味覚)は親の影響を強く受けている。このちがいはいったいどこにあるのだろうか。 現代の進化論では、私たちのこころ(意識や行動)は進化適応環境( Environment of Evolutionary Adaptedness/ EEA)に最適化されていると考える。これは遺伝的な変異がきわめてゆっくりとしか起こらないためで、現代人の遺伝子は旧石器時代の人類とほとんど変わらない。そう考えれば、私たちは遺伝的に、 200万年以上つづいた旧石器時代の環境に最適化されているはずだ。 子育ての大切さが強調されるようになったのは、核家族化が進み、教育が将来の成功を左右するようになった近代以降だ。それ以前の子どもたちは大家族で育ち、親は教育のことなど気にかけていなかった。 ハリスは子育て神話を、「科学的根拠のないイデオロギー」として退ける。赤ちゃんは、旧石器時代の進化適応環境を生き延びるための戦略プログラムを持って生まれてくる。両親と子どもだけの核家族で育ち、幼稚園・保育園で幼児教育を受け、小中高校から大学まで勉強しつづけるようつくられているわけではないのだ。 ヒトが他の哺乳類と大きく異なるのは、無力な乳児期がきわめて長いことだ。生後すくなくとも 1年間は、母親が集中的に養育し、授乳しないと死んでしまう。そうなると母親は、次の子どもを得るまでにまた 10カ月の妊娠期間を必要とする。 母親は出産までに大きなコストを支払っている(投資をしている)から、生まれた子どもをできるだけ大切に育てようとする。進化論的にいえば、これが母親が子どもに強い愛情を抱く理由だ。 しかしその一方で、その子どもには兄や姉がおり、授乳期間が終わればまた妊娠できるから、兄弟姉妹の 1人にだけ手間をかけるわけにはいかない。母親の進化論的な最適戦略は、できるだけ多く子どもを産み、成人させていくことだ。旧石器時代は(というより近代以前は)乳幼児の死亡率がきわめて高かったから、 1人か 2人の子どもにすべての子育て資源を投入する核家族型の戦略はあり得なかった。日本でも戦前までは、兄弟姉妹が 10人ちかくいるのが珍しくなかったのだ。 進化適応環境では、母親は新しく生まれた赤ちゃんに手がかかるから、授乳を終えた子どもを以前と同じように世話することができない。旧石器時代の生活環境がどの程度厳しいものだったかは諸説あるが、集落の近辺で木の実などの採集をするのも女性の仕事だったから、子育てに割ける時間は限られていただろう。こうした条件を考慮すれば、授乳期を終えた子どもは、親の世話がなくても生きていけるようあらかじめプログラムされているはずだと、ハリスは考えた。 もちろん、 2歳や 3歳の子どもが自分一人で生きていけるはずはない。親が新しく生まれた弟妹の世話をしなければならないのなら、誰かがそれを補わなければならない。旧石器時代のひとびとは部族(拡大家族)の集落で暮らしており、それができるのは兄姉か、年上のいとこたちしかいない。 女の子が人形遊びを好むのは世界のどこでも同じだ。これはフェミニズムの文脈で、男性中心主義的な文化の強制によるものと説明されてきたが、ハリスは、人形は赤ちゃんの代替で、女の子は幼い弟妹の世話を楽しいと感じるのだと考えた(男の子も、人形遊びはしないが、弟や妹をかわいがるのは同じだ)。 これに対応するプログラムは、世話をされる側にも組み込まれている。 幼い子どもは親以外の大人を怖がるものの、年上の子どもにはすぐになつく。彼らが親に代わって自分の世話をしてくれる(そういうプログラムを持っている)ことを知っているのだ。 進化適応環境においては、授乳期を終えた子どもは集落の一角で、兄姉やいとこたちといっしょに長い時間を過ごしていたはずだ。こうした状況を現代の移民の子どもたちに置き換えてみれば、なぜ彼らが母語を忘れてしまうかを明快に説明できる。 両親は、母語を話そうが話すまいが、食事や寝る場所など最低限の生活環境を提供してくれる。子どもにとって死活的に重要なのは、親との会話ではなく、(自分の面倒を見てくれるはずの)年上の子どもたちとのコミュニケーションだ。 ほとんどの場合、両親の言葉と子どもたちの言葉は同一だから問題は起きないが、移民のような特殊な環境では家庭の内と外で言葉が異なるという事態が生じる。そのとき移民の子どもは、なんの躊躇もなく、生き延びるために、親の言葉を捨てて子ども集団の言葉を選択するのだ。子どもはなぜ親のいうことをきかないのか ジュディス・リッチ・ハリスは発達心理学の膨大な文献を読み込むとともに、養子を含む自らの子育て経験も合わせ、子どもにとって「世界」とは友だち関係のことだと考えた。 年齢や性別、人種などの異なる幼児をひとつの部屋に集めると、彼らはすぐに仲良くなって遊びはじめる。だが子どもの人数を増やしていくと、そこに自然とグループができていく。それはおおよそ、次のルールに則っている。 ① 年齢 幼児は自分よりすこし年上の子どもになつき、年の離れた子どもには近づかない。年長の子どもも、自分たちよりすこし年下の子どもは仲間に加えるが、それより下の子どもは無視する。これは年齢によって遊び方が異なるため、年が離れていると面白くないからだ。 ② 性別 思春期になれば恋愛感情や性の欲望が芽生え、男女の関係は複雑化するが、それ以前は男の子と女の子のグループに分かれ、お互いのことには興味を持たないのがふつうだ。これは性別で好き嫌いや興味が異なるためで、男女で同じ遊びをしてもつまらないのだ。 ③ 人種 アメリカのような多民族社会では、子どもの数が増えると、人種別にグループができる(そのためどの保育園・幼稚園でも、大人が介入して人種混交のグループをつくらなければならない)。これは人種差別のイデオロギーによるものではなく、子どもが「自分と似た子どもに引き寄せられる」からだ──このような性向が埋め込まれた理由は、自分に似ている子どもが兄や姉、血縁の近いいとこである可能性が高いことを考えれば明らかだろう。子どもたちは、自分に似た子どもを優先的に世話しようとするのだ。 進化適応環境では、子どもたちは男女に分かれて年齢のちかいグループをつくり、年上の子どもが年下の子どもの面倒をみることで親の肩代わりをする。思春期を迎えるまでは、この「友だちの世界」が子どもにとってのすべてだ。 このように考えれば、子どもの成長にあたって子育て(家庭)の影響がほとんど見られない理由がわかる。「友だちの世界」で生きるために親の言葉すら忘れてしまうなら、それ以外の家庭での習慣をすべて捨て去ってもなんの不思議もない。 こうしてハリスは、「子どもが親に似ているのは遺伝によるもので、子育てによって子どもに影響を及ぼすことはできない」と主張した。「子育てに意味はないのか」と全米で大論争を巻き起こしたのも当然だ。 ヒトは社会的な生き物で、群れから排除されてしまえば生きていく術がない。古今東西、どんな社会でも「村八分」は死罪や流刑に次ぐ重罰とされた。これは子どもも同じで、「友だちの世界」から追放されることを極端に恐れる。 勉強だけでなく、遊びでもファッションでも、子ども集団のルールが家庭でのしつけと衝突した場合、子どもが親のいうことをきくことはぜったいにない。どんな親もこのことは苦い経験として知っているだろうが、ハリスによってはじめてその理由が明らかになった。子どもが親に反抗するのは、そうしなければ仲間はずれにされ、「死んで」しまうからなのだ。

親よりも「友だちの世界」のルールを優先することが子どもの本性だとすれば、「子どもはなぜ親のいうことをきかないのか」という疑問にはなんの意味もない。逆に不思議なのは、宗教や味覚のように「親のいうことをきく」ものが残っていることだ。 これについてハリスは、「親が影響力を行使できる分野は、友だち関係のなかで興味の対象外になっているものだけだ」と考えた。特殊な場合を除いて、子どもたちは友だちの親の宗教に関心を持たない。同様に、豚肉やニンジンを食べないとしても、それだけで仲間はずれにされることもない。グループの「掟」は、食べ物の好き嫌いとは無関係なのだ。 どのような友だちグループにも、内(俺たち)と外(奴ら)の境界がある。女の子ならおしゃれやファッション、男の子ならゲームやスポーツ(あるいは喧嘩や非行)についての暗黙の掟によって、仲間か仲間でないかが決められていく。 子どもは友だち集団のなかで、グループの掟に従いつつ、役割(キャラクター)を決めて自分を目立たせるという複雑なゲームをしている。子どものパーソナリティ(人格)は、遺伝的な要素を土台として、友だち関係のなかでつくられていくのだ。 このように考えてはじめて、別々に育てられた一卵性双生児がなぜよく似ているのか、その理由がわかる。 子どもは、自分と似た子どもに引き寄せられる。一卵性双生児は同一の遺伝子を持っているのだから、別々の家庭で育ったとしても、同じような友だち関係をつくり、同じような役割を選択する可能性が高いだろう。遺伝と友だち関係が同じなら、その相互作用によって瓜二つのパーソナリティができあがったとしてもなんの不思議もない。 ハリスの集団社会化論は発達心理学に大きな衝撃を与えたが、〝主流派〟のなかにはいまだに子育ての重要さを説くひとたちも多い。 それはすべての親が、(自分の努力は報われるという)「子育て神話」を求めているからでもある。 だがハリスが発見した〝子どもの本性〟だけが、「別々の家庭で育った一卵性双生児は、なぜ同じ家庭で育ったのと同様によく似ているのか」という疑問に明快にこたえることができる。 1998年、ハリスは満を持して『子育ての大誤解』を上梓した。この本を書くようにハリスを後押ししたのは著名な進化心理学者・言語学者のスティーブン・ピンカーで、彼の推薦もあって同書は書評などで大きく取り上げられ、高い評価を得た。 その後ハリスはアメリカ心理学会賞を授与され、研究者としての「名誉」を回復することになる。その賞は、かつてハリスを〝研究者失格〟と見なしたハーヴァード大学心理学部長ジョージ・ミラーの名を冠したものだった。

13 「遺伝子と環境」が引き起こす残酷な真実 前章では、アメリカの在野の心理学者ジュディス・リッチ・ハリスの集団社会化論を紹介した。ハリスは、子どものパーソナリティ(人格)は遺伝的な適性と友だち関係との相互作用のなかでつくられる、と考えた。 子どもはみんな、友だちグループのなかで目立てるように、自分が得意なことをやろうとする。それはスポーツだったり、歌や踊りだったり、勉強だったりするかもしれないが、そうした才能は遺伝の影響を強く受けている。 ここで誤解のないようにいっておくと、これは遺伝決定論ではない。ハリスは、子どもの成長には「友だち」が決定的な影響を与えると繰り返し強調しているのだから。 複雑系では、わずかな初期値のちがいが結果に大きく影響する。「ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こる」のがバタフライ効果だが、人格形成期の遺伝と環境の関係もそのひとつだ。 スポーツが得意でも、友だちグループのなかに自分よりずっと野球の上手い子がいれば、別の競技(サッカーやテニス)が好きになるだろう。たいして歌が上手くなくても、友だちにいつもほめられていれば、歌手を目指すようになるかもしれない。 最初はわずかな遺伝的適性の差しかないとしても、友だち関係のなかでそのちがいが増幅され、ちょっとした偶然で子どもの人生の経路は大きく分かれていくのだ【 78】。同じ遺伝子でもちがう性格になるケース 小さな子どものいる親は、「子育ては子どもの人格形成にほとんど影響を与えない」というハリスの集団社会化論を受け入れ難いかもしれない。だが自分の子ども時代を振り返れば、親の説教より友だちとの約束のほうがずっと大事だったことを思い出すのではないだろうか。 このことをわかりやすく示すために、ハリスは乳児期に離れ離れになった一卵性双生児の姉妹を例に挙げる。 2人の遺伝子はまったく同じだが、成年になったとき、 1人はプロのピアニストになり、もう 1人は音符すら読めなかった。養母の 1人は家でピアノ教室を開いている音楽教師で、もう一方の親は音楽とはまったく縁がなかった。 当たり前の話だと思うだろう。 ところが、子どもをピアニストに育てたのは音楽のことなどなにも知らない親で、音符すら読めないのはピアノ教師の娘だった。 2人は一卵性双生児で、 1人がプロのピアニストになったのだから、どちらもきわめて高い音楽的才能を親から受け継いでいたことは間違いない。家庭環境や子育てが子どもの将来を決めるのなら、なぜこんな奇妙なことが起きるのだろう。 ハリスによれば、子どもは自分のキャラ(役割)を子ども集団のなかで選択する。 音楽とはまったく縁のない環境で育った子どもは、なにかのきっかけ(幼稚園にあったオルガンをたまたま弾いたとか)で自分に他人とちがう才能があることに気づく。彼女が子ども集団のなかで自分を目立たせようと思えば、(無意識のうちに)その利点を最大限に活かそうとするだろう。音楽によって彼女はみんなから注目され、その報酬によってますます音楽が好きになる。 それに対して音楽教師の娘は、まわりにいるのは音楽関係者の子どもたちばかりだから、すこしくらいピアノがうまくても誰も驚いてくれない。メイクやファッションのほうがずっと目立てるのなら、音楽に興味をもつ理由などどこにもないのだ。 ハリスの集団社会化論では、子どもは友だちとの関係のなかで自分の性格(キャラ)を決めていく。どんな集団でも必ずリーダーや道化役がいるが、 2人のリーダー(道化)が共存することはない。キャラがかぶれば、どちらかが譲るしかない。このようにして、まったく同じ遺伝子を持っていても、集団内でのキャラが異なればちがう性格が生まれ、異なる人生を歩むことになるのだ。「選抜された 22人の少年たち」の実験 1954年にオクラホマ大学の研究チームが、ボーイスカウトキャンプで子どもたちの集団関係についての社会実験を行なった。なぜ半世紀以上も前の話を持ち出すかというと、それ以降、同様の社会実験がいちども行なわれていないからだ。──その理由はあまりに危険すぎることと、わざわざ再実験をする必要がないほど結果が明瞭なためだ。 この実験の被験者は、できるだけ等質になるように意図的に選抜された 11歳の白人の少年たち 22名だった。彼らはみなプロテスタントの家庭で育ち、 IQも学業成績も平均かそれより上で、眼鏡をかける者や太っている者、問題を起こしたことのある者はいなかった。全員が地元出身でオクラホマ訛りがあったが、実験以前に面識がないよう異なる学校から選ばれていた。 実験では、この少年たちが 2グループに分かれて 3週間のサマーキャンプに参加した。それは、「指導員」たちがじつは研究者で、少年たちの言動を内密に観察・調査していたことを除けば、ごくふつうのキャンプだった。「ラトラーズ」と「イーグルズ」(少年たちが自分たちで名づけた)の2つのグループは、別のバスで到着し、別のキャビンに宿泊したため、最初はお互いの存在を知らなかった。当初の計画では、最初の 1週間で集団内行動を調査し、 2週目で集団間競争に移行する予定だった。 だが彼らが集団内の人間関係を気にしたのは、最初の数日だけだった。自分たちと同年齢の集団が遊んでいる声をたまたま耳にした瞬間、彼らは「あいつらを打ち負かす」ことに夢中になって、直接対決をしきりに望むようになったのだ。 そしていよいよ、野球大会で両チームがはじめて顔を合わせたとき、ラトラーズは試合開始前に自分たちの旗を野球場に掲げ、野球場全体が「われわれのもの」であることを宣言した。試合はイーグルズの敗戦に終わったが、彼らはラトラーズの旗を引きずり降ろして燃やしてしまい、指導員は乱闘になるのを必死に止めなくてはならなかった。 綱引きでは逆にイーグルズが勝ったが、その夜、ラトラーズは相手のキャビンを襲撃し、ベッドをひっくり返し、蚊帳を破り、盗んだ 1本のジーンズを彼らの新しい旗にした。これに対するイーグルズの反撃はさらにヒートアップし、棍棒や野球のバットを持ってラトラーズのキャビンを昼間に襲撃し(その時間はキャビンには誰もいないはずだったので、「武器」は万が一のためのものだ)、自分たちのキャビンに戻ると、さらなる襲撃に備えて、靴下に石を詰めたり、投げつけるための小石をバケツいっぱい集めた。 この実験で興味深いのは、彼らが無意識のうちに、自分たちを敵対する集団と正反対のキャラクターにしようとしたことだ。 2回目の野球大会でイーグルズが勝利を収めたとき、彼らは帰り道で、今回はなぜ勝てたのかを話し合った。 1人が、「試合前に神に祈りを捧げたから

だ」といった( 1950年代のオクラホマらしい)。それを受けてもう 1人が、「ラトラーズが負けたのは試合中、口汚い野次を連発していたからだ」と叫んだ。こうしてイーグルズでは、汚い言葉が禁止された。 22人の少年たちは、誰もが同じような保守的なキリスト教徒の家庭で育った。その彼らが、 2週間もたたないうちに、「罵声のグループ」と「祈りのグループ」にきれいに分かれてしまったのだ。 キャンプ中は、誰もが自分たちの集団の掟に従った。2つのチームが敵対しているとき、集団内の結束は固く、いじめのような出来事は皆無だった。 この「実験結果」に余分な解説は不要だろう。 ヒトは社会的な動物で、集団から排除されれば一人では生きていけないのだから、アイデンティティというのは集団(共同体)への帰属意識のことだ。〝わたし〟は「奴ら」に対する「俺たち」の一部で、「敵」を生み出すのはひとがひとであるための条件ともいえる。 ヒトのオスが遠い祖先から受け継いだ遺伝的プログラムは、世界を内(俺たち)と外(奴ら)に分け、仲間同士の結束を高め、奴らを殺してなわばりを奪うことなのだ。黒人少年が生き延びるたったひとつの方法 ハリスの集団社会化論によれば、家庭環境よりも子どもの人生に大きな影響を与えるのは学校だ。日本のような均質化した学校制度ではあまり目立たないが、アメリカでは人種のちがいによって、生徒たちの行動や成績に大きな差が生じる。 ひとは無意識のうちに人種別のグループをつくる。これが人種差別の原因になるのだが、ひとは自分に似たひとに引き寄せられるという特徴(人間の本性)を持っているのだから、どうしようもないことでもある。 ここで問題なのは、無意識のうちに集団を人格化し、敵対するグループとはまったく異なる性格(キャラ)を持たせようとすることだ。 ボーイスカウトキャンプの実験では、白人中流階級という同じ社会階層の子どもたちが、たまたま2つの集団に分かれただけでたちまち正反対のキャラをつくりあげた。これが白人と黒人になると、より強力な分離圧力が加えられることは容易に想像できる。 黒人の子ども集団には厳然としたルールがある。ひとつは、白人の子どもとつき合ってはならないこと、もうひとつは、白人の子どもがするようなことをやってはならないことだ。黒人の子ども集団が禁じるのは白人の子ども集団が高い価値を置くことすべてで、その象徴が「勉強してよい成績をとること」だ。 白人と黒人がともに通う学校で生徒たちの意識調査をすると、白人の子どもは「黒人は勉強のことなどどうでもいいと思っている」とこたえ、黒人の子どもは「白人はガリ勉野郎で俺たちはちがう」と考えている。この集団イメージの差が、知的能力の高い黒人の子どもを拘束するのだ。 このことを劇的に示したのは、ニューヨークのなかでも治安の悪いサウスブロンクスに住む 16歳の黒人高校生ラリー・アンツのケースだ。 ラリーはバスケットボールのチームに入りたかったが、成績不振で入部が許されず、高校を中退することになる。友人のうち 3人は麻薬がらみの殺人事件に巻き込まれ、生命を失っていた。典型的な転落コースだが、ラリーは幸運なことに、スラム街の子どもを遠く離れた土地に転居させるプログラムに選ばれた。 ラリーが転校したのはニューメキシコ州の小さな町の、中流階級の白人家庭の子どもたちしかいない高校だった。 2年後、ラリーは高校のバスケットボールチームのエースになり、成績も Aと Bばかりで大学進学を目指していた。ニューヨークからやってきたバスケットボールが好きなごくふつうの黒人の若者は、白人しかいない田舎の高校でたちまち「俺たちのチーム」のヒーローになり、友だち集団の特等席に自分の居場所を確保したのだ(ラリーが人種差別の対象にならなかったのは、プロ野球やサッカーのJリーグで外国人の〝助っ人〟が人気者になるのと同じだろう)。 ラリーがサウスブロンクスの古巣を訪れたとき、かつての友人たちはその服装に驚き、話し方がおかしいと笑った。ラリーはブレザーの前ボタンをきちんと留め、中西部訛りでしゃべったのだ──なぜなら、新しい友だち集団のなかで生き延びるには、中流階級の白人の子どもたちと同じように振る舞う以外に選択肢はなかったのだから。 子どもが友だち集団のなかで自己形成していくのなら、ラリーのように、環境を変えることで性格や行動に劇的な変化が生じても不思議はない。ではなぜ、こうしたプログラムを大規模に実施しないのだろうか。 その理由はもうおわかりだろう。ラリーが「変わった」のは、その高校でたった一人の黒人だったからだ。 もしも複数の黒人生徒がスラム街から転校してくれば、彼らはたちまちグループをつくって白人の生徒たちと敵対しようとするだろう。そのときに彼らが選ぶキャラは、中流階級の白人文化とまったく異なるもの、すなわち〝ギャングスター〟なのだ。英才教育のムダと「バカでかわいい女」 ハリスは英才教育についても興味深いケースを挙げている。 19世紀末は、どのような子どもでも正しい訓練によって天才に育てることができると信じられていた。ウィリアム・ジェイムズ・サディスの両親は、自分たちの子どもが早熟であることに気づいて、一生を彼の教育に捧げることにした。 英才教育の効果は目覚しく、ウィリアムは 18カ月で文章を読むようになり、 6歳で数カ国語を操り、小学校に入学すると 6カ月間で公立学校の 7学年次まで修了した。その後は家庭で勉強をつづけ、 11歳でハーヴァード大学に入学し、その数カ月後にはハーヴァード数学クラブで「四次元物体」と題した講演を行なって聴衆を驚かせた。 まさに神童そのものだが、そこからウィリアムの人生は暗転する。 16歳でハーヴァードの学士号を取得し、大学院に 1年在籍したあとロースクールに進んだが、けっきょく学位は取得していない。 大人になるとウィリアムは親に背を向けるようになり、父親の葬儀にも姿を見せなかった。学問の世界とも訣別し、頭を使わない安月給の事務仕事を転々として、 46歳で心臓発作で死んだ。独身で、無一文で、完全な不適応状態に陥っていたという。 ウィリアムの趣味は路面電車の乗り継ぎ切符の収集で、それについての本を書いたことが唯一の〝業績〟だった。ある読者はそれを、「まさに本の歴史のなかでもっともつまらない本」と評した。 ハリスはこのケースについて、「ウィリアムのおかれた状況は、母親には育てられたが仲間とのつきあいがないままに成長したサルの状況と似ている」と述べている。仲間が不在のまま育ったサルは、明らかに異常行動が目立った。同様に英才教育を受けた神童も、幼少期に友だち関係から切り離されたことで自己をうまく形成することができず、大人になると社会に適応できなくなり、せっかくの高い知能を活かすことなく凡庸な人生を終えてしまうのだ。 それでは、親が子どもに対してしてやれることはなんだろう? それに対するハリスのこたえはきわめてシンプルだ。「親は無力だ」というのは間違いだ。なぜなら、親が与える環境(友だち関係)が子どもの人生に決定的な影響を及ぼすのだから。

白人と黒人の生徒が混在する学校に通う黒人の子どもは、「勉強するような奴は仲間じゃない」という強い同調圧力をかけられている。仲間はずれにされたくなければ、意図的によい点数を取らず、ギャングスターの振る舞い方を身につけなければならない。 同様に男女共学の学校に通う女子生徒は、「数学や物理ができる女はかわいくない」という無言の圧力を加えられている。「バカでかわいい女」でなければ友だちグループに加えてもらえないなら、好きな数学の勉強もさっさと止めてしまうだろう。 このように考えれば、親のいちばんの役割は、子どもの持っている才能の芽を摘まないような環境を与えることだとハリスはいう。 知的能力を伸ばすなら、よい成績を取ることがいじめの理由にならない学校(友だち集団)を選ぶべきだ。女性の政治家や科学者に女子校出身者が多いのは、共学とちがって、学校内で「バカでかわいい女」を演じる必要がないからだ(必要なら、デートのときだけ男の子の前でその振りをすればいい)。同様に芸術的才能を伸ばしたいなら、風変わりでも笑いものにされたり、仲間はずれにされたりしない環境が必要だろう。 だが有名校に子どもを入れたとしても、そこでどのような友だち関係を選び、どのような役割を演じるかに親が介入することはできない。子どもは無意識のうちに、自分の遺伝的な特性を最大限に活かして目立とうとするだろうが、それは多分に偶然に左右されるのだ。 もちろんこれは、「子育ては無意味だ」ということではない。人生とは、もともとそういうものなのだから。

あとがき まずは悪い話から。 脳は左右対称の臓器で、右半球と左半球があり、それを脳梁がつないでいる。右脳は感情を、左脳は言語や論理を主に司る。 きわめて特殊なケースだが、重度のてんかんの治療のため、外科手術でこの脳梁を切断することがある。これが分離脳で、右脳と左脳がそれぞれ独立に活動する。 分離脳患者は、左半分の視野で見たものがわからない。言語中枢は左脳にしかないが、左視野の情報は右脳に送られるだけで(視神経は左右に交差している)、それを脳梁を経由して左脳に転送できないのだ。両手からの入力も同じで、右手で触れたものはそれがなにかわかるが、左手で触れたものの名前をいうことができない。右脳に入力された情報はどこかに消えてしまうのだ。 だが、脳の驚くべき能力はここからだ。 分離脳患者を目隠しした状態で、テーブルの上に並べられたスプーン、鉛筆、カギなどを左手で触らせると、感触はあるものの、その情報は左脳には届かないのだから、それがなにかはわからない。次に左の視野に「スプーン」「鉛筆」「カギ」などの単語を見せると、これも同様に、患者は自分がなにを見ているか気づかない。 ところがこのふたつを同時に行ない、正しいと思う組み合わせを訊くと、手探りで正解を選ぶことができた。右脳は読めない単語と名前のわからない感触を正確に一致させ、そのうえ患者は自分がなにをしたのかまったく意識していなかったのだ。 次の実験では、分離脳患者の左視野に「笑え」と書いたボードを置いてみた。 質問の意味を理解し、言葉によって回答するのは左脳の役割だ。脳梁が切断されている患者は、右脳に入力された「笑え」という指示を認識できない。ところが、ボードの指示を見た患者は笑い出した。そこでなぜ笑ったのか訊いてみると、患者は「先生の顔が面白かったから」とこたえた。 分離脳患者は、右脳と左脳でふたつの「人格」を持っている。そして左脳は、脳のなかの見知らぬ他人(右脳)がやっていることを意識できない。 矛盾する認知に直面した状態を「認知的不協和」という。このケースでは、「笑った」という認知と、「笑う理由はない」という認知が矛盾している。これはきわめて気味の悪い出来事なので、意識は(脳のなかにふたつの人格があるという)不愉快な真実を嫌って、「先生が面白い顔をした」という快適なウソをつくりだしたのだ【 79】。 このことから左脳の役割がわかる。それは自己正当化、すなわち自分に都合のいいウソをでっちあげることだ。無意識が捏造した気分のいいウソは、「意識」というスクリーンに映し出される。──意識は無意識が生み出す幻想なのだ。 もっとも効果的に相手をダマす方法は、自分もそのウソを信じることだ。カルト宗教の教祖が信者を惹きつけるのは、自らが真っ先に「洗脳」されているからだ。社会的な動物であるヒトは上手にウソをつくために知性を極端に発達させ、ついには高度な自己欺瞞の能力を身につけた【 80】。 これが「現代の進化論」の標準的な説明だが、もしこれが正しいとしたら、暴力や戦争をなくすために理性や啓蒙に頼ったところでなんの意味もない。自己欺瞞は無意識のはたらきだから意識によって矯正することはできず、他人が欺瞞を指摘すればするほどかたくなになっていく。これが、教育によって IS(イスラム国)のテロリストを更生させられない理由だろう。 自己欺瞞がやっかいなのは、知性の高いひとほどこの罠から逃れられなくなることだ。なぜなら、その恵まれた能力を駆使して、現実を否定し自分をダマすより巧妙なウソを(無意識のうちに)つくりあげるから。ヒトラーやスターリン、レーニンや毛沢東など、現代史にとてつもない災厄をもたらしたのはみなきわめて「賢い」ひとたちだった。 では次によい話を。 治安の悪化が問題になっているが、刑法犯の件数が戦後最少になった( 2015年)ことからもわかるように、日本社会はどんどん安全になっている。多くのひとが懐かしむ「三丁目の夕日」の昭和 30年代は人口あたりの殺人件数は現在の 2 ~ 3倍で、残虐な少年犯罪も多かった。「常識」とは逆に、近年は若者の犯罪の減少が顕著で、世代別でもっとも犯罪者が増えているのは高齢者だ【 81】。 じつはこれは世界的な傾向で、治安の悪化が叫ばれる先進国はどこも犯罪が大きく減っている。 ISによるテロが大問題になるのは、その残虐さももちろんだが、それ以外の危険がなくなったからでもある。 現代史を振り返れば、 2度の世界大戦やロシア革命、文化大革命、ポルポトの大虐殺、旧ユーゴスラヴィア内戦などの凄惨な出来事がつづいた 20世紀に比べて、冷戦終焉後は国家による大量殺人が大幅に減ったことは明らかだ。アフリカや中東に問題が集中するのは、それ以外の場所(アジアや中南米)で戦争や革命、暴力的クーデターが起きなくなったからでもある。 このことは、理性がまったく役に立たないわけではないことを示している。意識の本質が自己欺瞞だとしても、人類は幾多の悲惨な経験を通して、それを平和と繁栄になんとか役立ててきたのだ。 だとしたら、未来をいたずらに悲観することはない。共産主義者が夢見たようなユートピアは実現しないだろうが、そこそこゆたかでそこそこ暮らしやすい世の中ならじゅうぶん期待できるのだ【 82】。 そのためにも、私たちの認知 =知性が進化のちからによってどのように偏向しているのかをちゃんと知っておく必要がある。現代の進化論が突きつける不愉快な真実は、歪んだ理性を暴走させないための安全装置なのだ。 2015年1月 7日、フランスの風刺雑誌『シャルリー・エブド』の編集部がイスラーム過激派の武装集団に襲撃され、編集スタッフや警官など 12名が犠牲になった。この事件を受けて、日本を代表するリベラルな新聞社は、「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と宣言した。 本書の企画を思いついたのは、この驚くべき主張を目にしたからだ。誰も不快にしない表現の自由なら北朝鮮にだってあるだろう。憲法に表現の自由が定められているのは、ひとが嫌がる言論を弾圧しようとした過去の反省によるものだと思っていたのだが、〝リベラル〟を自称するひとたちの考えはちがうらしい。 ちなみに私は、不愉快なものにこそ語るべき価値があると考えている。きれいごとをいうひとは、いくらでもいるのだから。 2016年3月 橘 玲

本書のバックボーンとなっている、現代の進化論をはじめとする「知のパラダイム転換」については、近著『「読まなくてもいい本」の読書案内』(筑摩書房)で詳述しています。本書自体がこの本からのスピンオフという性格を持っているので、合わせて読んでいただければ幸いです。 行動遺伝学についての説明は、日本における第一人者である安藤寿康氏の著作に拠っています。安藤氏自らすぐれた入門書を書かれているので、これらの本もぜひ参照してください。 12章と 13章のジュディス・リッチ・ハリスについての記述は『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(幻冬舎)と一部重複しています。これは、「わたしはなぜ『わたし』になったのか」という問いを考えるうえで、市井の研究者である(そのため専門家のあいだでじゅうぶん評価されているとはいえない)ハリスの集団社会化論は繰り返し紹介する意義があると考えたからです。

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