PART3アイデンティティ
フィードバックは、場合によっては脅威となる。
それは、自分にとって最も難しい相手との関係を問わざるをえなくなるときだ。
その相手とは、自分自身である。
自分はいい人間か?尊敬に値するのか?自分とうまくつきあっていけるのか?自分で自分を許せるか?……。
自身のアイデンティティを脅かすようなフィードバックをもらっても、人によって反応の仕方や反応の度合いが違う。
立ち直るまでにかかる時間も人それぞれだ。
CHAPTER6そのとき、脳では何が起こっているか?
クリスタは自信あふれる女性だ。
彼女は笑いながら、過去の出来事をこう振り返る。
「結婚した最初の6カ月は、夫とふたりでアメリカ中を車で旅してまわったの。
車の後部窓に、靴磨き用のスプレーで『クラクションを鳴らして結婚を応援して!』と書いて。
みんな、夢中でクラクションを鳴らして手を振ってくれた。
会ったこともない人たちが快く応援してくれて、本当に嬉しかった。
旅を終えて日常に戻ったら、いつの間にか夫が後部窓の文字を消したの。
でも私はそれに気づかなかった。
だから、戻ってからも、のろのろ走ったり、Uターン禁止のところでUターンしたりしていたわ。
当然、激しくクラクションを鳴らされるんだけど、私は笑顔で手を振りながら、『どうもありがとう。
私も応援してますよ!』って答えちゃった」「私にはよくあること」とクリスタは言い添える。
「嫌なことを言われてもすぐに忘れちゃう。
私のどこかを好きではないと誰かが言っているのを聞いたら、『そうなんだ?でも私のいいところは知らないよね?』って思うし。
はっきり言って、自分に自信があるから、嫌なことも嫌だと思えないの」もちろん、クリスタにもつらい時期はあり、そのすべてを笑顔で乗り切ってきたわけではない。
とはいえ、人生のどん底にいるときであっても、楽観的な性分のおかげで乗り越えられた。
「最初の夫とは離婚したのだけど、離婚ってね、ネガティブな言葉の塊のようなものなの。
私は自分に関するあらゆることを疑った。
誰からも愛されないんじゃないか、本物の愛を手にする資格がないんじゃないかって。
離婚する人はみんなそうだと思うけど、私も暗闇をさまよった」「でもね」と彼女の言葉は続く。
「あまり長くはさまよわなかった。
『二度と誰からも愛されない』と思ったけれど、すぐに『そんなのバカげてる。
私を愛してくれている人はたくさんいる』と思えるようになったから。
それから1年もしないうちに、いまの夫という最高の伴侶を得て、車でアメリカをまわりながら応援のクラクションをもらったわ」一方、アリータはクリスタとは正反対のタイプだ。
産科医として忙しく働くアリータに、前年に担当した患者のアンケート調査がフィードバックされた。
彼女の評価は非常に高く、「妊婦としての疑問に真摯に答えてくれた」とわざわざ書き添えている患者も大勢いた。
しかし、「診察時間が遅れることが多く、待たされたのが嫌だった」と回答した患者も数名いた。
アリータはそうした回答に大きなショックを受けた。
「患者さん一人ひとりを丁寧に時間をかけて診ているので、待つ側にとってはそれが不満となるのです。
私は自分の仕事を愛していました。
でもこのフィードバックを読んでからは、仕事に対して以前と同じ気持ちは持てなくなりました」。
アリータの机の上には、最新のアンケート調査結果が入った封筒が2カ月前から置いてある。
封はまだ切られていない。
クリスタにとって、フィードバックは何の影響も与えないものだ。
しかしアリータにとっては、魂に深く突き刺さるものなのだ。
このように、フィードバックは、受けとる人によって取り込まれ方が変わる。
脳の思考グセから自由になる
■脳の思考グセから自由になるフィードバックに対するクリスタとアリータの反応がこれほど違う理由は何か。
その一つは、彼女たちの脳の配線にある。
要は、脳の神経細胞(ニューロン)やそのつながり方が違うのだ。
脳の配線は、自分の人となりに影響する。
心配性になるか楽天家になるか、人見知りになるか社交的になるか、神経質になるか大らかになるか、といったことをはじめ、フィードバック(肯定的、否定的の両方を含む)の影響を受ける度合いにも関係している。
また、テンションの上がり方や下がり方、落ち込んだ状態から立ち直るスピードにも影響する。
このチャプターでは、フィードバックをもらったときに生まれる感情は人によって違うということ、そして、脳の配線がそこで果たす役割について見ていく。
また、感情が思考にどのように影響するのか、そしてその反対はどうかということについても見ていく。
自分自身の脳の配線やさまざまな傾向を理解すれば、ネガティブなフィードバックに対処する力が上がり、窮地から抜けだせるようになる。
「自分のあり方に脳の配線がどう関係しているのかを知る」と聞くと、あまり気が進まない人もいるだろう。
自分の悪いところがまた一つ、それもどうやっても直りそうにないものが見つかるだけだと思うかもしれない。
だが、それを知れば、ほっとする気持ちも芽生えるのではないか。
脳の配線といっても、天然パーマ、高い頰骨、偏平足といった身体的な特徴と変わらない。
足の人差し指が親指より長い、短いに優劣がつけられないのと同じで、脳の配線に優劣はない。
生まれてからずっと、「神経質すぎる」「もの忘れが激しい」などと言われ続けているなら、今度言われたときは冷静にこう切り返せばいい。
「ああ。
僕はそういうふうにできている。
世間にそう見られるように生まれてきたんだよ」。
これなら、自分への自信のなさや憐れみを口にすることにならない。
もちろん、自分の人となりや言動の責任から逃げることにもならない。
ただ単に、脳の配線が関係しているという厄介な現実を、事実として伝えているだけである★1。
□フィードバックの裏に潜む自分自身私たちは、脳のことを完全に理解できていない。
ここでいう「私たち」は、世の中の人全般という意味である(我々著者ももちろん含まれる)。
脳科学の研究では次々に新たな発見がなされ、議論が盛んに行われ、脳に関する理解は進んでいる。
脳科学について書くという行為は、動いている電車から飛び降りることに少々似ているように思う。
どれほど慎重に飛んでも、上手に着地できない可能性が高い。
それでも、書くことには意義があると思っている。
新たに発表された社会科学や脳科学の調査結果を掘り下げることで、フィードバックをもらったときの反応が人によって異なる理由や、自分とは違う反応を示す人がいる理由を解明する一助となるからだ。
脳は生存を第一に機能する。
その機能の一つが、接近行動と撤退行動の管理だ。
人には、心地よいと感じるものに近づき、苦痛に感じるものから遠ざかろうとする傾向がある。
まったく同じではないが、心地よさを別の言葉で表現すると、健全や安全となり、苦痛を別の言葉で表現すると、有害や危険となる。
しかし、この接近と撤退の基準がおおざっぱすぎるため、微妙なニュアンスが大事な現代の仕事や恋愛においては、指針としてうまく機能できない。
たとえば、将来的な成功のために短期的に苦労する、という状況に直面すると、脳は混乱し、その苦労を避けようとする。
反対もまたしかりで、短期的には心地よいが、将来的には苦痛を生むこと(快楽目的のドラッグや不倫など)を目の前にしたときも、脳は接近するべきか撤退するべきか混乱する。
この、脳の認知と現実の不一致によって、素晴らしい驚きや終わりのない苦悩が生みだされる。
いったい、このことがフィードバックとどう関係するのか?フィードバックも、セックス、ドラッグ、食事、運動などと同様に、脳をとまどわせる。
接近すべきか、撤退すべきかの判断が混乱するのだ。
たとえば、ネガティブなフィードバックをもらわずにすむ方法を見つけたとしよう。
それ自体は心地よいと感じることだが、長い目で見れば自分に不利益(周囲から取り残される、解雇される、単純に伸び悩む、といったこと)をもたらすかもしれない。
また、自分のためになるフィードバックを理解し、それを実行に移せば、今後の自分のためになるが、それをするいまの時点では苦痛を感じるかもしれない。
フィードバックをもらって気分の変化を経験するとき、脳や身体のなかで実にさまざまなことが起こる。
その全容はまだ解明されておらず、ここで我々が語ることはとてもできない。
敢えてシンプルにまとめるなら、フィードバックに対する反応には次の三つの状態が含まれると言える。
基準、起伏、そして維持と回復だ。
「基準」はいわゆる普通の状態で、良いことまたは悪いことが起きて、良い方向または悪い方向のどちらかに気分が動くときの基準となる。
「起伏」は、フィードバックをもらったときに基準からどの程度気分が上がった(下がった)かを表す。
フィードバックに対して大げさな反応を示す人は、起伏が激しいということになる。
反対に、穏やかでない知らせを聞いて平然としている人もいる。
「維持と回復」は、起伏が続いた期間を表す。
ポジティブなフィードバックをもらって高揚した気分はできるだけ長く続き、ネガティブなフィードバックをもらって落ち込んだ気分は、できるだけ早く回復するのが望ましい。
1.基準
嬉しい、悲しい、満足している、不満だ、といった感情は、人生に起こる出来事の一つひとつだけで決まるものではない。
嬉しいことがあれば嬉しいし、嫌なことが起これば悲しい、という具合にはいかない。
何を経験するかが気分に影響するのは確かだが、突風が吹くたびに新たな方向へ向き直ることはしない。
もちろん、何かが起きた瞬間に何かしらの感情は生まれる。
しかし、それはもっと大掛かりな背景のもとに生まれる。
人間は、良し悪しに関係なく、新しい知らせや出来事に遭遇したら、それに適応し、自分にとっての普通の状態に戻ろうとする★2。
気分の浮き沈みは起こるが、時間がたてば、水が本来の水位に戻るように、自身の基準に戻る。
悪い知らせの後は元の基準まで上がり、良い知らせの後は元の基準まで下がる。
初めての恋に盛りあがった感情も、離婚で絶望的になった感情も、いつしか自然に消える。
おもちゃをもらって喜ぶ子どもがいい例だ。
ずっと欲しかったおもちゃをもらったときは、その喜びが永遠に続くと思う。
実際、おもちゃを手にした最初の数分は、喜びが続いている。
しかし、大人と同じで、いずれそのおもちゃがある状態が普通になる。
基準には大きな個人差がある。
ムレー叔父さんはいつも不満そうにしているのに、妻のアイリーン叔母さんは何をしていても楽しそうに見えるのはそのためだ。
幸福度というのは、最も遺伝的な影響を強く受けるものの一つだそうだ。
双子の研究から、幸福度の平均値は人によってばらつきが見られるが、その約50パーセントが、人生経験ではなく遺伝子の違いによる可能性が高いという結論が導きだされている★3。
また、宝くじ当選者が、宝くじに当選した翌年になると、大金を手にする前とほぼ同じ幸福状態(または不幸状態)になることはよく知られている★4。
それでは、フィードバックの受けとりに、基準はどう関係するのか?まず、幸福度の基準が高めの人は、低めの人に比べてポジティブなフィードバックに肯定的な反応を示す傾向が強い。
そして、幸福度の基準が低めの人は、ネガティブな情報のほうに強い反応を示す★5。
クリスタは幸福度の基準がかなり高いので、結婚を応援するクラクションに大喜びする反面、批判に感情が「執着する」ことがあまりないのもうなずける。
アリータの基準は低めだと思われる。
だから、患者の好意的な評価を聞いてもあまり高揚しなかったのに、批判のコメントで強いショックを受けたのだろう。
こうして見ると、アリータが不憫に思えるかもしれない。
ポジティブなフィードバックで高揚感を得る必要があるのは、彼女のような人間だ。
とはいえ、心配はいらない。
フィードバックを受けとったときに、ポジティブな意見のボリュームを上げ、ネガティブな意見のボリュームを抑えられるようになるためにできることはある。
ここではまだ、ポジティブな意見は小さくなり、ネガティブな意見は増幅される恐れがある、ということさえ認識していればいい。
2.起伏基準の位置に関係なく、感情の起伏が激しい人もいれば(ちょっとしたことで大きく変わる人もいる)、穏やかな人もいる。
人間は、生まれたときから感情の起伏を表に出す。
幼い子どもでも、人一倍神経質な子なら、大きな音がした、未知の状況に遭遇した、怖い絵を見たなど、ちょっとしたことで激しい動揺を見せる。
もちろん、赤ちゃんが業績評価の対象になることはないし、大人が怖い絵をフィードバックとしてもらうこともまずない。
とはいえ、子どものときに過敏な反応を示していると(心理学者のジェローム・ケーガンはこの状態を「高反応的」と名づけた)、高反応的な大人になる可能性が高いという。
幼い頃に見せていた高反応が、大人になると感情の起伏の幅となって表れるのだ。
そういう大人がネガティブなフィードバックに神経をとがらせるようになるのは、容易に想像がつく★6。
脳画像の研究者たちは、神経質の度合いは、解剖学的な差異とも相関関係がありそうだと考えている。
子どものとき穏やかな気性だった人は、大人になるにつれて左側の眼窩前頭皮質の厚みが増すのに対し、子どものとき高反応的だった人は、右側の前頭前皮質腹内側部の厚みが増す傾向が見られるからだ★7。
脳の内側で何が起きているにせよ、感情の起伏が人によって違うことは、会議の場を見ればよくわかる。
クライアントが、まったく同じ批判的なコメントをエリザとジェロンに送った。
エリザは不安で取り乱しているのに対し、ジェロンは「仕事が少し増えちゃったな」という程度の反応しか示さない。
エリザとジェロンはチームなので、反応の違いから両者のあいだに緊迫した空気が生まれる。
ジェロンはエリザのことを、かまってもらいたいから大げさにふるまっているだけだと思っている。
エリザは、ジェロンは深刻な問題だと認めたくないだけだと思っている。
こうなると、批判的なコメントをもらったときの相手の対処について、互いに言いたいことが生まれてしまう。
脳は悪いことのほうを強調する感情の波にすぐに飲み込まれる人も、ほとんど波立たない人も、必ず直面する問題がある。
それは、脳の配線が、良いことより悪いことのほうを強調するという問題だ。
心理学者のジョナサン・ハイトはこう語る。
「脅威や不快感を抑えたいという反応は、チャンスや喜びに対する反応よりも早く強く起こり、抗いがたいものである★8」。
この意見は、フィードバックにまつわる永遠の謎を浮き彫りにしている。
人はなぜ、400の褒め言葉をもらっても、1の批判をくよくよと考えてしまうのか?私たちの脳には、脅威を監視するセキュリティチームのようなものが組み込まれている。
危険(現実のもの、想定のものを含む)を探知すると、じっくりと考える役割を担う経路を回避して瞬時に反応する。
ここでカギを握るのが扁桃体だ。
この、小さなアーモンド型を成すニューロンの集まりは、感情を司る辺縁系と呼ばれる部分の中心にある。
ハイトはこう説明する。
「扁桃体は、戦うか逃げるかを選択する脳幹に直接つながっている。
だから、過去に恐怖と感じた出来事と重なる部分を扁桃体が見つけたら、体内に赤信号を警告する。
脳には〝青信号〟に相当する警告がない。
脅威が現れたことを直ちに知らせるパニックボタンはあるが、良い知らせを直ちに通達する機能は存在しないのだ。
悪い知らせは良い知らせよりも感情に大きな声で伝わるため、必然的に影響力も大きくなる」訪ねてきた義母と楽しい休日を過ごすはずだったのに、義母の遠回しな言葉が頭から離れないのはなぜか?義母が無意識に、あなたの警告システムを作動させてしまったからだ。
このシステムは1億年以上の時間★9をかけて進化を遂げ、待ちぶせして人間の生命を脅かそうとするヘビやサーベルタイガーといった生物の探知に使われるようになった。
だから、義母が去った後もなお、感情を司る脳の部位は、義母の急襲に備えているのだ。
3.維持と回復感情の起伏が激しい人も穏やかな人も、いずれ必ず自らの基準に戻る。
それにかかる時間もまた、人によって違う。
あなたは、どん底に突き落とされるようなフィードバックをもらっても、すぐに立ち直れるだろうか?それとも、何週間、何カ月と落ち込んだままだろうか?良い知らせをもらって高揚したときの気分についてはどうだろう。
自分の知識の深さを称賛したメールが顧客から届いたら、その日一日ウキウキとした気分でいるだろうか?それとも、次のメールを読むときにはもう冷静になっているだろうか?研究者のリチャード・デヴィッドソンによると、ポジティブな感情が持続する時間、もしくは、ネガティブな感情から立ち直るのにかかる時間は、最大で3000パーセントの個人差が見られるという★10。
意外にも、ネガティブなフィードバックとポジティブなフィードバックでは、脳の処理に使用される部位が異なる。
もっと言えば、脳の右半分と左半分に分かれるのだ。
右と左では、得意とする働きも異なる。
込み入った話になるので深入りはしないが、この分野の研究から明らかになったことをいくつか紹介しよう。
「ネガティブ」からのリカバリー脅威を警告するシステムは重要な機能だが、日々の生活のなかで誤報が発せられる数が多いため、警報を切る方法を知っておく必要がある。
この警告システムのカギとなるのは扁桃体だが、扁桃体は一匹狼ではない。
システムの主導権は前頭皮質が握っている。
ここで、フィードバックの内容に抱いた感情が統合されるのだ。
前頭皮質は、扁桃体が起こす暴走を抑止したり、増大させたりすることができる。
おでこのすぐ内側には前頭前皮質がある。
ここでは、高次の条件づけ、判断、意思決定が行われる。
前頭前皮質も脳のほかの部位と同様に、右半分と左半分に分かれている。
恐怖、不安、苛立ちといったネガティブな感情を抱くと、脳の右半分の活動が活発になる。
反対に、楽しさ、希望、愛情といったポジティブな感情を抱くと、左半分が活発に動きだす。
これらのことから、脳科学者たちは「感情価の仮説」と呼ばれる仮説を立てた。
脳の右半分(右半球皮質)の活動のほうが活発な人は落ち込みや不安を感じやすく、左半分のほうが活発に動く人は幸せを感じやすい★11、というものだ(現時点では、これが研究者たちの総意とは言えない。
「脳をよく使う部位」で感情が決まるというこの理論については賛否がある★12)。
fMRIをはじめとする脳の撮像技術が発達すると、特定の刺激に対する脳の反応を目で見ることができるようになった。
それに伴い、ネガティブな感情から立ち直る過程も明らかになりつつある。
意外にも、立ち直らせているのは、ポジティブな感情によって活動を始める左側らしい。
扁桃体が恐怖や不安を強めているあいだ、脳の左側はその影響を抑えようと奮闘している。
つまり、左側が活発に活動できるかどうかが、落ち込みから立ち直るスピードに関係しているのだ。
立ち直りが早い人は、左側の活動のほうが活発だ。
それに加えて、前頭前皮質の左側と扁桃体のあいだを走る配線(脳と別の身体の部位をつなげる神経系)の数も多い傾向がある★13。
これはつまり、ポジティブな情報が扁桃体に伝わる経路が多いということだ。
有効な配線の数が多い人は、元気になれる信号を伝える
専用高速道路を持っているが、回復が遅い人は、狭い田舎道しかない。
つまり、脳の右側のほうが配線の数が多く、活動も活発な「脳の右利き」の人は、「左利き」の人に比べてネガティブなフィードバックから立ち直るのが遅いということだ。
ささいなこと(「ゴミ出し忘れたでしょ」)でも、大きなこと(「私たち、別れましょう」)でも、遅いのは変わらない★14。
患者を待たせると批判するコメントを読むアリータをfMRI装置につなげたら、きっと、扁桃体と右側の前頭前皮質が活発に動きだすに違いない。
「危険を発見!」と扁桃体が叫び、「そいつは最悪だ!」と右側の前頭前皮質がそれを支持する。
一方、左側の前頭前皮質(ポジティブな感情を扱うほう)の活動は、比較的おとなしい。
「ちょっと冷静になろう。
時間をかけた診察に感謝している患者もたくさんいたじゃないか」と左側は主張する。
だが、その声はか細すぎるため、最悪だ、破滅だと騒ぎ立てる声にかき消されてしまう。
アリータは、前頭前皮質的には「右利き」の可能性が高い。
あまり神経質でない同僚と比較すると、アリータは感情の起伏が激しく、不安になりやすく落ち込みやすい。
また、希望やユーモア(どちらも左側が司る)を見いだすことや、心を静めることを難しいと感じている。
アリータと同じ状況でクリスタをfMRI装置につなげると、おそらく違うパターンが現れる。
最初のうちは、不安や怒り、傷心の感情が現れるかもしれないが(クリスタの扁桃体も警告を発するはずだ)、左側の前頭前皮質が素早く割って入り、最初に抱いた感情を直ちに静めるに違いない。
「落ち着いて。
大騒ぎすることじゃない。
あなたはたくさんの患者から好かれているのよ。
それに、母親業は我慢がすべて。
母親になる前からそれを学ぶ機会を与えたと思えばいい。
さあ、メキシコ料理でも食べて元気を出しなさい」立ち直るスピードが速いことにはさまざまなメリットがある。
失敗に直面しても、強い意思をもって立ち向かおうとするし、うつ状態に陥りにくい。
しかし、フィードバックに関して言うと、極端に立ち直りが速いと、それが問題になることがある。
クリスタのようなタイプの人は、ネガティブなフィードバックをもらっても、そういうものにあまり心を動かされないため、きちんと耳を貸さない、あるいはまったく覚えていない、ということになるかもしれない。
言われたことを無視する、指摘されたことを改善しようとしない、といった態度をとるかもしれない。
そうすると、周囲の気遣いを無にする人だと思われかねない。
クリスタのようなタイプの人は、無にするつもりはなくても、心からの忠告をそうと気づかないときがある。
そして気づかないまま、我が道を進む。
「ポジティブ」を維持する「維持と回復」の「回復」は、ネガティブなフィードバックをもらってどん底になった気分から立ち直る速さを意味する。
そして「維持」は、ポジティブなフィードバックをもらって上機嫌になった気分がどれだけ続くかを意味する。
脳内のどんな働きが、ポジティブな気分の維持に役立つのか?それを知るには、側坐核と呼ばれる腹側線条体の内側にある神経細胞群に注目する必要がある。
この部分はちょうどこめかみの内側にあたり、中脳辺縁につながる配線の一部を成す。
また、側坐核は「報酬の配線」「快感の中枢」などとも呼ばれる。
これは、ドーパミンを分泌する役割を担っているからで、ドーパミンが分泌されると、楽しい、欲しい、したいといった気分を促すのだ。
側坐核は前頭前皮質の左側上部につながっていて、ポジティブな経験によってドーパミンが分泌され、それによってポジティブな気分が高まり、さらにまたドーパミンが分泌される★15。
クリスタもアリータも、ポジティブな気分になることがあれば、楽しい気分が高まる。
それは、結婚を応援するクラクションかもしれないし、自らとりあげた赤ん坊の泣き声かもしれない。
クリスタの側坐核は、クラクションの音が消えてからずいぶんたった後でも活動を続ける。
だから、ドーパミンが分泌され続け、高揚した気分が維持される。
ところがアリータの場合は、数分でポジティブな気分が消えてしまう。
嫌なフィードバックのことを思いだしたら嫌な気分がよみがえってくることがあるように、ポジティブなフィードバックを思いだせば、ポジティブな気分を長続きさせることができる。
顧客からの感謝の言葉を思い起こしてもいいし、職場でどんなことがあっても、家に帰れば愛しい9人の子どもたちが待っていると言い聞かせてもいい。
反対に、家でどんなことがあっても、子どもたちは職場までついてこられないと言い聞かせてもいい。
維持と回復は、悪循環も好循環も生みだす。
ポジティブな気分を維持しやすいと感じているときは、大きな幸せ(「顧客を獲得した!」)でも、小さな幸せ(「コーヒーが美味しい!」)でも、その瞬間に生まれる高揚の波に乗ることができる。
また、自分は正しいことをしているという後押しが欲しくなると、子どもの頃の恩師や尊敬していた人からもらったポジティブなフィードバックを読み返すことがあるのではないか。
ポジティブなフィードバックは心に残るので、心の均衡を取り戻す一助となってくれる。
自分の心の状態を自分でコントロールできるという感覚は、人生で何が起きても自分の力で対処できるという自信を生む。
そうすると、未来は明るいと楽観的に思えるようになり、何が起きてもうまく対処できると思えるようになる。
これぞまさに、心の平穏が訪れた状態と呼べるだろう。
しかし、ポジティブな気分を維持できない人は、正しいことをしていると後押ししてくれるものの存在をなかなか思いだせないため、悲観的な考え方のほうが現実的だと感じやすい。
沈んだ気分から抜けだせずにいると、大変な目に遭ったときに自力で立ち直れないのではないかと不安になる。
そうなると、ものごとを悲観的にとらえ、自分に自信を失うという厄介な組み合わせが生まれてしまう。
このような組み合わせが生まれるのは、基準、起伏、維持と回復が1周したときであり、この1周を別の言葉で表すと、その人の「気質」となる★16。
脳の配線がすべてではない
■脳の配線がすべてではない脳の配線が人の気質に関係すると言うと、脳の配線は固定されているから、自分の気質は運命として受けいれるしかないと思い込む。
だが、脳の配線は固定されてもいないし、気質も絶対に変えられないものではない。
気質に遺伝的な要素が関係するのは事実だ。
それについて知ることは、自分自身の理解に役立つほか、ほかの人が自分と違う理由を知るという意味でも重要だ。
しかし、遺伝的な要素があるとはいえ、気質は変えられないものではないと実証する証拠はたくさんある。
瞑想、奉仕活動、エクササイズなどを継続して行えば、自分の「基準」を上げることができる。
また、トラウマになる出来事や落ち込むような出来事が、気質に大きく影響することもある。
外的な刺激による神経系の変化については、ずいぶんと理解が進んでいる。
そのおかげで、脳の配線は環境や経験に呼応し、時間をかけて変化するというワクワクする事実が明らかにされた。
□マジック40脳の配線が固定されている、いないはさておき、脳の配線ですべてが決まるわけではない。
調査によると、幸福感は50:40:10の割合で構成されているという。
幸福感の50パーセントは脳の配線によるもの。
40パーセントは、起きたことの解釈とそれに対する自分の反応。
そして残りの10パーセントは、自分が置かれている境遇(どこに住んでいるのか、誰と住んでいるのか、どこで働いているのか、どんな人が周りにいるのか、健康状態など)だ★17。
この割合については、もちろん議論の余地がある。
とはいえ、幸福感を構成する40パーセント近くに、さまざまなものが入り込む余地があるのは間違いない。
この部分になら、自分の支配が及ぶ。
起きたことを自分でどう解釈するか、どのように語るか、それにどんな意味を見いだすか、といった形で幸福感をコントロールすることができるのだ。
ペンシルベニア大学心理学部のマーティン・セリグマン教授は、自分自身の解釈や反応によって、心的外傷を負って抱えたストレスを成長の糧とする人もいると言っている★18。
自分の身に起きたことや、誰かからもらったフィードバックをどう解釈し、どう対応するかで、腹立たしいフィードバックや失敗を、学びの機会に変えることは可能なのだ。
しかし、そこには落とし穴もある。
起きたことの解釈やその語り方には、感情が大きく影響する。
腹立たしいフィードバックをもらうと、腹立たしいという感情がフィードバックの解釈を歪めてしまうのだ。
上司からアドバイスをもらった。
その口調は穏やかで、こちらを攻撃する意図は子猫ほどもない。
しかし、不安な気持ちのときにそれをもらうと、自分を破滅に追い込む虎に思えるかもしれない。
感情がフィードバックを歪ませる
■感情がフィードバックを歪ませる受けとめづらいフィードバックにうまく対処できるようになりたいなら、フィードバックの意味を自分で自分に語るとき、そのストーリーに感情がどのように関係し、どのように意味を歪めるのかを理解する必要がある。
このフィードバックは本当に子猫なのか、虎なのか。
あるいは、まったく違う別の何かなのか、それを理解するのだ。
□ストーリーには感情という名のBGMがついてくるチャプター2でも触れたが、私たちはデータに囲まれて生きているのではなく、ストーリーに囲まれて生きている。
自分は何者で、何を気にかけ、なぜここにいるのか、といったスケールの大きなストーリーもあれば、先週末に参加した会社主催の旅行で恥をかいた、といった小さなストーリーもある。
こういうストーリーには、思考だけでなく感情も加わっている。
人は、「これは思考で、これは感情」というようには考えない。
どんなときも、それらを区別することはない。
映画のなかで流れるサウンドトラックと同じだ。
素晴らしい映画にのめり込んで観ていると、BGMや効果音が大きくなったり小さくなったりしても気づかない。
サウンドトラックは、不安、興奮、話の展開の辛辣さといったものを際立たせるが、映画を観ているときに映写機の存在を意識しないのと同じで、音楽も意識しない。
それは基本的にはいいことだと言える。
映画も人生も、それに没頭したほうがいい。
人は、何かに没頭しているとき、何かを新たに生みだそうとしているとき、何かに夢中で取り組んでいるときに、「フロー」と呼ばれる理想的な無の状態に達する★19。
とはいえ、うまくいかないときは、少し立ちどまり、自分が語るストーリーに感情がどんな影響を与えているかを観察してみるといい。
□思考+感情=ストーリー信号が変わったときに背後の車からクラクションを鳴らされたとき、「後ろの車の人が、私に向かってクラクションを鳴らした」とは思わない。
瞬時にこんなストーリーに脚色される。
「何だよ!お前みたいな奴のせいで、この町は最近おかしくなっているんだ」その瞬間に何を「感じているか」が、自分自身に語るストーリーに大きく影響するのだ。
そのとき暗い気分でいれば、ストーリーは暗いものとなる。
イライラしていれば、イライラが反映されたストーリーとなる。
「自分はダメだ」という気持ちでいるときに、後ろの車からクラクションを鳴らされれば、その経験は自分がダメな例の一つに追加される。
自分は車の運転すらまともにできない。
後ろの車の人は、そんな自分のダメさ加減を見抜いているに違いない。
「わざわざどうも。
教えてくれなくてもわかってるよ」と心のなかでつぶやく。
でも、恋人ができたばかりのときなら、寛大な気持ちになり、「おっと。
信号待ちでちょっとぼんやりしていたようだ。
それにしても人生は素晴らしい」というストーリーになるだろう。
いまあげた例はどれも、感情が最初にくる。
感情がストーリーを彩り、ストーリーの登場人物の見方に影響を与えている。
だが、ストーリーができるパターンはこの一つではない。
紛らわしいことに、思考が最初で、その後に感情が続く逆のパターンもあるのだ。
家を出るときは普通に明るい気分だったのに、時計を見たとたん、飛行機に間に合わないと悟った。
そうすると、頭のなかにその後の展開を思い浮かべる。
飛行機にタッチの差で乗れず、午後の会議に出席できず、クライアントは腹を立て、上司はカンカンに怒っている。
その思考のせいで、追いつめられた気分になってしまった。
この場合、気分は思考から生まれている。
ジョナサン・ハイトは、思考と感情の結びつきの背後にある脳の働きについて、次のように説明している。
「扁桃体は、危険に反応する指令を脳幹に送るだけではなく、思考を変えるようにという指令を前頭皮質に送る役割も果たす。
つまり、脳全体を撤退の方向に変えるのだ。
感情と意識的な思考のあいだには、自由に行き来できる道がある。
だから、思考が感情を生むこともあれば(例:バカなことを言ってしまったと思い返したとき)、感情が思考を生むこともある★20。
」この考察から、フィードバックに関係する大事な真実を一つ導きだすことができる。
それは、自分で自分に語るストーリーが感情と思考の産物ならば、感情か思考のどちらかを変えるように働きかければ、ストーリーを変えられるということだ。
つまり、ストーリーを変える方法は2通りあるのだ。
感情がフィードバックを誇張させる
■感情がフィードバックを誇張させるまずは、感情がどのようにストーリーを歪ませるかを見ていこう。
そのパターンを把握しないと、ストーリーを歪めるクセは治らない。
一般に、強い感情ほど極端な解釈に向かわせる傾向がある。
「数ある内の一つ」が「全部」になり、「いま」が「いつも」になり、「一部」が「全体」になり、「少し」が「激しく」になる。
感情は、過去、現在、未来の認識を歪める。
自分はどういう人間か、周囲からどう見られているのか、このフィードバックをもらったことでどんな状況が生まれるか、といったことも歪められてしまう。
感情がストーリーを歪ませる典型的なパターンを三つ紹介しよう。
□過去:偏った情報をググる今日もらったフィードバックが、前日について思い浮かべるストーリーに影響を与えることがある。
動揺する内容のフィードバックをもらえば、そのとたん、頭に浮かぶことのすべてが、過去の失敗や未熟な選択、昔とったひどいふるまいの裏づけとなってしまうのだ。
それは、グーグルを使って検索する(ググる)のに似ている。
人は、自分で自分が嫌になると、「自分のダメなところ」を脳内でググりだす。
すると、ダメなところを示す「サイト」が大量にヒットし、自分の過去の正しい行いは何一つ思いだせなくなる。
いい気分でいるときは、ググる対象は反対になる。
自分の成功、賢明な判断や寛大な選択など、人生を豊かにしてくれたことがずらりと並ぶ。
人の気持ちは絶えず揺れ動いている。
どちらになるにせよ、自分のことを思い浮かべるときは、脳内でググったことがストーリーとなる。
□現在:すべてのことに当てはめる幸せで充実した気分のとき、人は、ネガティブなフィードバックをもらっても、それを「吟味した」うえでの発言として受けとめる。
そして、本来の意味を理解しようとする。
音程がはずれている、と言われれば、「この人は、自分の音程がはずれていると思っているのだな」と思う。
それは自分の歌についてのフィードバックであり、一個人の意見である。
しかし、強い感情にとらわれていると、ネガティブなフィードバックの内容が、自分のほかの部分にまで襲ってくる。
「音程がはずれている?自分は何一つうまくできない」となるのだ。
「契約をとるのが苦手な分野(商品など)がある」が、「自分はまったく仕事ができない」になり、「同僚のひとりが自分を心配している」が、「チーム全員から憎まれている」になる。
この状態になると、公正な目で見る助けとなりうる、ポジティブな要素がすべてかき消されかねない。
音程がはずれることは、地域の社会福祉の改善に長年努めてきたことや、娘を献身的に育ててきたことや、骨付き肉をじっくりと美味しく焼きあげる料理の腕前には一切関係がない。
だが、ネガティブなフィードバックの侵食を許してしまうと、そういうことがすべてどこかへ追いやられてしまう。
□未来:永遠に続くと思い込む感情は、過去の振り返り方だけでなく、未来の想像の仕方にも影響する。
嫌な気分のときは、この先もずっとその気分が続くと思い込む。
合弁会社を発表する場でプレゼンテーションがうまくできず、屈辱的な気持ちになると、この気持ちのまま死を迎えるのだろうと思ってしまう。
さらにたちが悪いことに、破滅的なことに思考がとらわれるので、悪い想像を雪だるま式に膨らませ、最終的には自分を見失いかねない★21。
具体的なことを指摘するフィードバックが、未来に起こる悲劇の前兆に変わるのだ。
「デートのあいだ、頰にマヨネーズが付いていた」が、「私はひとりで死んでいく」に変わってしまう。
このような歪められたストーリーは、思い浮かべている当人にとってはひどく現実的に思えてならない。
常識的に考えると、頭で思っていることと現実のギャップが大きいほど、思っていることと現実は違うという意識を持ちやすいはずだ。
しかし、思っていることと現実のギャップに意識を向けていなければ、ギャップのなかに落ちてしまい、ギャップが見えなくなる。
見えなければ、大きいも小さいも意味がない。
フィードバックをもらって強い感情にとらわれると、過去、現在、未来を歪めてとらえることがある。
公正な目を取り戻し、もらったフィードバックを正確に評価できるようになるためには、自分の思考を巻き戻して、歪みを正すことから始めるしかない。
フィードバックを現実的な目で受けとめることができたら、ようやくそこから学ぶことができる。
次のチャプターでは、歪んだ思考を元に戻す方法を紹介する。
それを習得することで、もらったフィードバックをより正確に評価できるようになる。
CHAPTER7歪んだ見方を矯正する
人はフィードバックの内容を誇張するときがあり、これがフィードバックを受けとめるときの最大の障害の一つとなっている。
感情に煽られると、フィードバックで語られている自分に関するストーリーが、自分の手に負えないほど大きくなったり、手厳しいものになったりする。
そうなると、フィードバックから何かを学ぼうと思うどころか、生き延びることしか考えられない。
フィードバックをきちんと理解して評価するためには、歪んだ認識を正すことから始める必要がある。
これは、ネガティブなフィードバックをポジティブなものだと思い込むという意味でも、すべてを楽観的に受けとめるという意味でもない。
頭のなかで流れる不吉なBGMの音量を下げて、フィードバックで語られている声を鮮明にする方法を見つけるという意味である。
心がフィードバックを拒絶する
■心がフィードバックを拒絶する子どものカウンセラーとして働くセスは、心に大きなショックを受けて自分を見失う経験をした。
セスは、自分のアシスタントと仕事上の問題について話しあうことになったため、上司にもその場に同席してほしいと頼んだ。
話し合いの日、セスは時計を気にしていた。
というのは、母が亡くなって独り身となったばかりの父の誕生日を祝うため、その日の晩の飛行機でアトランタに向かう予定だったからだ。
パーティの計画も念入りに行い、セスも父もこの週末をずっと心待ちにしていた。
話し合いがもう終わるというときに、セスの上司が突然声をあげた。
そして笑いながら、セスのアシスタントに向かって諭すようにこう言った。
「まったく、仕事に集中するっていうのは、誰にとっても難しいことだと思わないか?ほら、セスもそのひとりみたいだぞ!」それはあんまりな言葉だった。
セスは以前から、集中力がないことを気にしていた。
それをいま、よりによって自分のアシスタントの前で、上司に声高に指摘されたのだ。
セスはとたんに気分が悪くなり、何も考えられなくなった。
無言でアシスタントのほうを見ると、セスの顔は真っ赤になった。
話し合いは終わったが、セスはどうやって終わったのか覚えていない。
恥ずかしさと自分への失望から、思考が暗くなっていく。
「僕は本当にダメな人間だ。
この仕事で成功することはもう二度とないだろう。
プライベートがうまくいかないのも当然だ」いま何とかしないと大変なことになる──そう思ったセスは飛行機をキャンセルし、週末はどこにも行かず人生を立て直すことに決めた。
こんなときに帰省をするなんて、いったい何を考えていたのか。
パーティのためにアトランタまで飛ぶなんて、そんなバカなことをなぜ考えたのか?だが結局、セスは飛行機に乗った。
なぜかというと、返金されないチケットだったからだ。
時間よりお金を無駄にするほうが、(自分が愚かな証拠がさらに増えて)もっと嫌な気分になると思ったのだ。
セスは飛行機に乗っているあいだじゅうずっと、不安な気持ちでいっぱいだった。
クタクタに疲れきっていたおかげで、その晩はよく眠ることができた。
翌日になると、パーティの準備とパーティのことで頭がいっぱいになった。
結局、その日は素晴らしい一日となった。
先日亡くなった母のことを、父親と夜更けまでしみじみと語りあったことは、いまではセスにとって父親との大切な思い出の一つになっている。
どんな大金を積まれても、その思い出を手放そうとは思わない。
セスは、上司の発言に対する自分の反応が不適切だったと振り返る。
いま思えば、上司の発言は、からかっているのか冗談なのかはともかく、その場に笑いを生むことでアシスタントと打ち解けようとしたのだと、はっきりとわかる。
上司の言葉を聞いたとき、なぜ心があれほど爆発したのか、セスにはまったく理解できない。
だが、私たちは理解できる。
セスの脳の配線が神経質寄りなのだ。
ちょっとしたことがきっかけとなって心がザワつき、フィードバックの意味を歪めたストーリーを作りあげる。
その結果、セスは自分を見失った。
そしてようやく自分を取り戻したものの、あの出来事から自分が何を学べるのかはわからない。
上司のところへ聞きに行けばいいのはわかっているが、また自分を見失うのではないかと心配で、聞きに行けずにいる。
歪みを矯正する五つの方法
■歪みを矯正する五つの方法気持ちが動揺するフィードバックをもらい、そこから何かを学ぼうと思うなら、自らフィードバックにもたらす歪みに対抗する策が必要になる。
フィードバックのやりとりをしている最中、フィードバックをもらう前、もらった後のいずれのときも、策を講じていることが大切だ。
有効な策を五つ紹介しよう。
1.自分の歪ませ方を意識する自分が準備しているときにフィードバックがくるとは限らない。
「くる」とわかったうえでもらうときもあるが、突然やってくることもある。
すべてはフィードバックしだいだ。
とはいえ、やりとりについて事前に考えておくに越したことはない。
納得できないことや、動揺するようなことを言われたら、自分はどんな感情を抱き、どんな反応をとるかとシミュレーションするのだ。
それは自分の反応の下見になるし、自分がまだ正常な状態のときに、自分のアイデンティティや幸せについて考えることにもなる。
自分の行動パターンを知る批判されたときにとる言動は、人によって決まっている。
人にはそれぞれ、やりとりのパターンがあるのだ。
フィードバックの受けいれ方や拒絶の仕方にも、人それぞれのやり方がある。
生産的な反応であれ、状況を悪化させる反応であれ、自分のパターンを知っておくことはとてつもない戦力となる。
とくに、フィードバックをもらった瞬間にどんな反応をとる傾向があるかを知っておくことが大切だ。
逃げだす、抵抗する、否定する、誇張するなど、自分のいつもの反応を知っていれば、瞬時に気づき、それが何かを自分の言葉で表現できる。
自分の言葉で表現できるものであれば、自ら影響を及ぼすことができる。
自分のパターンを認識するのは簡単だ。
「自分はいつもどんな反応をとるか?」と自分に問いかければいい。
しかし、たいていの人は、過去の自分の姿が頭をよぎると、それは例外的な反応で、本当の自分の反応ではないと切り捨てる。
しかし、それは決して例外ではなく、それが自分のいつもの反応だ。
自分のパターンを見つけられないときは、身近な人に尋ねるとよい。
いつも身を守ろうとすると言われれば、身を守ろうとしていないか確かめることができる。
そうすれば、自分のパターンが見えてくる。
最悪の事態を想定する自分のパターンが最も顕著に現れるのは、厳しいフィードバックをもらったときだ。
だから、何かしらの知らせを待っているときは(同僚の意見や投資家の回答を待っているときも、ノーベル賞の選考機関からの連絡を待っているときも)、悪い知らせが届くことを想定すると、自分のパターンを制御しやすくなる。
事前に最悪の事態を想定し、そのときの気持ちになりきって、起こりうることを論理的に想像するのだ。
後ろ向きなアドバイスだと思うかもしれないが、実際はその逆だ。
これは、どんな結果が待っていても、自分の反応を自分の手で制御できることを強調するためのアドバイスである。
最悪の事態を想像することにはいくつかのメリットがある。
まず、歪みの予防接種としての役割を果たす。
予防接種を受けると、体内に微量のウイルスを受けいれることになるが、それは免疫機能で簡単にやっつけることができる。
その後、本当にウイルスに感染しても、身体はすでにそれを脅威だと知っているし、その対処の仕方も把握している。
最悪の事態の想定もそれと同じだ。
本当に悪い知らせが届いても、「ああ、恐れていたことが現実になったか。
でも想定しておいたから大丈夫だ」と思える。
そのときに襲われる感情も、頭のなかに浮かぶことも、多少は馴染みがあるのでショックの度合いも比較的軽くなる。
また、事前に想定しておくと、悪い知らせをもらったときに、その知らせの意味やそれに対する自分の反応について、冷静に考えられるようにもなる。
たとえば、事業を興すために申し込んだ融資が却下されるかもしれないと想定しておけば、実際に却下されたときに、資金集めの過程を見直したうえで改めて申し込む、目標額を下げた別のプランに切り替える、といった行動をとるだろう。
あるいは、似たような目に遭った人から話を聞こうとするかもしれない。
夢の実現に向かって長年努力したものの、ありとあらゆる投資機関から融資を断られた男性がいるなら、その人と連絡をとり、さまざまな質問をぶつければい
い。
断られた後どうやって生き延びたのか。
役に立ったことは何か。
その経験から何を学んだか。
断られたことが、思いがけずプラスに働いたことはないか。
当時のことをいまはどう思っているのか。
尋ねたいことがたくさんあるはずだ。
起こりそうなことを先読みするフィードバックのやりとりをしながら、折に触れて自分自身を振り返り、冷静になることを意識する。
自分で自分を見つめようとすると、左側の前頭前皮質(学習を通じて得る喜びを司る場所)が目覚めるのだ。
セスは、やりとりの最中に自分のなかで起きていることを意識するようになった。
「いまでは、フィードバックのやりとりが始まったら、できるだけ早く『よし、こういうとき、自分がとりやすい言動はこれで、自分が深みにはまるきっかけとなるものはこれで、気分が悪くなるものはこれ』と思い浮かべるようにしています。
こう考えるだけで、本当にラクになります。
自分の思考や反応に抗っているのではありません。
ただ単に、自分の思考や反応を意識しようとしているだけです。
会話の途中で、『あっ、こういう部分で僕は過剰に反応することがある』と思うと、本当に冷静になれるんです」2.感情、ストーリー、フィードバックを分けるものごとを落ち着いて考え、自分の頭や身体に何が起きているかを認識できるようになると、自分のとる反応を分類できるようになる。
自分が抱く感情と、もらったフィードバックを解釈して自分で自分に語るストーリーと区別できるようになり、さらには、それら二つと、実際にもらったフィードバックを区別できるようになるのだ。
会話をやりとりしながら分類する人もいれば、後から振り返ったときに分類する人もいるが、いずれにせよ、フィードバックの解釈に入り込む歪みを正すためには、それらの区別が重要になる。
いわば、映画を観ているときに、映像とBGMを区別するようなものだ。
それらを別々にとらえれば、個々の要素がより鮮明になり、互いにどのように影響しあっているのかもわかるようになる。
区別するためには、次の三つを自分に問いかければよい。
自分が抱いている感情はどういうものか?もらったフィードバックをどのようなストーリーにして語っているか?そのストーリーには何が含まれ、何が脅威となっているか?実際のフィードバックは何か?「自分が抱いている感情はどういうものか?」と問うときは、自分の感情と向きあい(後で振り返るときは、そのときの感情を思いだし)、それを自分の言葉(不安、恐怖、怒り、悲しみ、驚きなど)で表現する。
感情に向きあうときは、食中毒やインフルエンザの症状を描写するつもりで、身体の物理的な変化に注目する必要がある。
セスの表現を例にあげよう。
「僕の場合、アドレナリンの分泌を感じます。
いまではすっかりその感覚がわかるようになりました。
電気ショックを受ける感じに似ているのかな、と自分では思っています。
また、胃がムカムカして、少し意識がぼんやりすることもよくあります。
これは本当に不快ですね」「もらったフィードバックをどのようなストーリーにして語っているか?そのストーリーには何が含まれ、何が脅威となっているか?」を問うときは、フィードバックの意味を自分に向けてどう語っているかを意識する。
その正否や論理を気にする必要はない。
このときはただ、ストーリーに耳を傾ければいい。
脅威についてはとくに注意を払う。
脅威は、フィードバックをもらった結果として起こる悪いことかもしれないし、フィードバックによって周囲からどう見られるか、自分で自分のことをどう見るか、ということかもしれない。
セスは、上司の発言に対する自身の反応をこう分析する。
「僕はずっと、上司は漠然と僕のことをダメな奴だと思っているんじゃないかって不安だったんです。
だから、仕事に集中していないと言われ、『やっぱりそうだったのか』と思い、そこから雪だるま式に思い込みが膨れあがっていきました。
『こんな素晴らしい職に就ける機会はもう二度とないのに、自ら台無しにしてしまった。
自分は何でもダメにしてしまう。
そんな自分がもう嫌だ』という具合に。
ですから、脅威となるものはいくつかありました。
上司から駄目だと思われているという思い込み、職を失うのではないかという恐怖、自分とうまくつきあっていけなくなる不安、そして、この先ずっと幸せになれないという不安です」「実際のフィードバックは何か?」と問うのは難しい。
人は、何かを言われると、瞬時にそれを解釈して自分の言葉で自分に語りかけるからだ。
だから、自分の言葉という殻を剝いて、フィードバックとして告げられた正確な言葉を自身に問いかけることが重要になる。
セスの場合、セスが自身に語ったストーリーのなかで上司が実際に言ったのは、「集中することは、セスを含む誰にとっても難しい」ということだけ。
それ以外はすべて、セス自身の創作である。
上司の言葉の意味の解釈も、仕事を失うかもしれないという恐怖も、自分とうまくつきあっていけるかどうかという不安も、すべてセスの頭のなかで生まれた。
ストーリーとして加味することのすべてが間違いだと言いたいわけではない。
自分自身が付け加えたことをきちんと理解し、また、自分にどういうものを付け加える傾向があるかを、パターンとして認識する必要があると言いたいのだ。
感情、ストーリー、フィードバックの区別がはっきりとつけば、ストーリーとフィードバックにどの程度の整合性があるのか、実際のフィードバックがどのように歪められているのか、といったことを判別できるようになる★1。
ストーリーには過去が投影されるストーリーのなかの脅威は、わかりやすいものもあれば、見つけづらいものもある。
ささいなことやどうでもいいこと、あるいは脅威がまったくなさそうなフィードバックでも、受けとったときに怒りや嫌悪を感じることがある。
それが起こるのは、受けとったばかりのフィードバックの小さなストーリーが、過去のもっと大きなストーリーに結びついたときだ。
フィードバックは、年月とともにどんどんたまっていく。
一つひとつは大したものではなく、そのすべてを上手に自分のなかに取り込んでいる。
ところが、いまもらったフィードバックが、唐突に耐えられないものに感じるときがある。
隣人から芝の手入れについて苦情を言われた男性が、「そんなに嫌なら見るな」ときつい口調で言い返した。
そしてその場を立ち去ったが、彼の腹の虫は治まらない。
なぜ、隣人のフィードバックが男性をこれほどまでに怒らせたのか?それは、彼はこれまでずっと、社会の基準と少しずれていると言われ続けてきたからだ。
「マナーを大事にしなさい」「シャツの裾はちゃんと入れなさい」「プレゼントは包装するものだ」……。
そういうことを言われても、普段は肩をすくめて聞き流す。
人生で大事なことの優先順位はちゃんと決めている、と心のなかで思っているからだ。
しかし、芝の手入れに関する隣人の一言で、限界がきたのだ。
こういうことは、癒えていない傷があるときに起こりやすい。
たとえば、会議の場ではもっと堂々としゃべったほうがいいと同僚から言われただけで、カッとなった男性がいる。
この男性は、子どもの頃いじめに遭っていた。
サッカーチームに所属していたが、積極性が足りないという理由でずっとベンチだった。
恋人からは、あなたには自分の意見がないと言われてフラれた。
どれもそれぞれが独立した出来事ではあるが、一つひとつの積み重ねによって、決して完治しない傷ができたのだ。
表面的に見れば、同僚の発言はささいなもので、感情的に発されてもいない。
敬意と思いやりをもったフィードバックだった。
だが、そのフィードバックにトゲはなくても、男性はすでに深い傷を負っている。
これらを踏まえると、この男性の反応は過剰だっただろうか?イエスでありノーである。
男性が感情的になったかと言われれば、イエスだ。
冷静になって振り返れば、彼自身もそう思うだろう。
とはいえ、その反応は、脳が認識したパターンに対する反応として妥当である。
この同僚からのアドバイスは、脳にとってはこれまで積み重ねられた長いストーリーの最終章だったのだ。
感情を爆発させた相手は頭のなかでは違うが(本当に爆発させた相手は、いじめっこやサッカーの監督や昔の恋人である)、苛立ちの元凶はすべて同じなのだ。
感情、ストーリー、フィードバックのもつれをほどく目的は、どこに何をもつれさせたかを把握することである。
それがはっきり見えるようになれば、フィードバックを正しくとらえられるようになる。
3.ストーリーの脚色を阻止する世の中を理解しようとすると、世の中にはいくつかのルールがあり、私たちは普段、(無意識かもしれないが)それに従っていると気づく。
そのルールはいわば、自分で自分に語るストーリーのための物理の法則のようなものだ。
ルールには次のようなものがある。
時間:現在が過去を変えることはない。
また、未来に影響を及ぼすが、未来を決めることはない。
特異性:何か一つのことが劣っているからといって、それと無関係なことまで劣っていることにはならない。
いま何かがうまくできないからといって、この先ずっとそれがうまくできないことにはならない。
人:1人から好かれていないからといって、全員から好かれていないことにはならない。
自分を好いていない人であっても、たいてい、自分のどこかには
好感を持っている。
それに、自分に対する人の見方は、いずれ変わる可能性がある。
強い感情に襲われると、こうしたルールが忘れ去られ、フィードバックがあらゆる方向に肥大する。
チャプター6で触れたように、一つにしか当てはまらないことを全部に当てはめてしまい、感情が抑えられずに自分を見失ってしまうのだ。
フィードバックが本来あるべき場所から逸脱していると気づいたら、あるべき場所に戻さないといけない。
そのために役立つ、「フィードバック整理シート」「フィードバックの視覚化」「ありのまま受けとめる」の三つを順に紹介しよう。
フィードバック整理シートを使う次のフィードバック整理シートを活用すると、フィードバックと向きあいやすくなる(その結果、否定しなくなる)。
また、自分の感情を抑制してフィードバックを受けいれられるようにもなる(その結果、誇張しなくなる)。
「フィードバックに関係しないことは何か?」と尋ねることで、バランスのとれた状態を論理的に保てるようになるのだ。
例をあげよう。
憧れの職種に応募したが、採用されなかった。
そして真っ先に思ったのが、「自分のやりたい仕事には一生就けない」だった。
さて、この出来事を整理シートを使って分類してみよう。
採用されなかったという出来事に関係しないことは何か?この出来事は、未来の予測にはならない。
次に応募した仕事に就けるかどうかは、この出来事からはわからない。
採用されなかったとき、希望する分野での仕事に一生就くことはできない、とは言われていない。
このように、関係のないことを取り除くと、関係のあることが見えやすくなり、フィードバックから学びやすくなる。
採用されなかった原因は、採用者が求めていた資格をまだ持っていなかったからかもしれない。
資格は満たしていたが、自己アピールの仕方がまずかったのかもしれない。
フィードバックが実際に語っていることを理解し、そのうえで行動を起こすには努力が必要だ。
そのとき、自分が直さないといけないところはあるが全部ではないと思っていると、取り組みやすくなる。
フィードバックを視覚化する総体的に高い評価を得ているのに、一学生のネガティブなコメントを気にするのは過剰反応だ、と理屈ではわかっていても、感情レベルでは、それを他のコメントと平等に扱うのは難しい。
そういうときは、視覚化するとよい。
フィードバックのバランスを、図や円グラフで表したり、付箋で分類したものを洗面所の鏡に貼りつけたりするのだ。
以下の図は、アリータが患者からのフィードバックのバランスを表すために作った図だ。
この図を見た彼女は、彼女が感じているポジティブな意見とネガティブな意見のバランスが、現実と大きくかけ離れていることにショックを受けた。
フィードバックをこのような形で視覚化すると、ポジティブとネガティブの割合やフィードバックをもらった数を、文字どおり目で見ることができる。
図で表したものがフィードバックの「真実」というわけではないが、目の前に自分の感覚とかけ離れたものがあると、ストーリーの創作の度合いが減り、あまり現実的ではない結論やありもしない不安から解放される。
ありのまま受けとめるフィードバックをもらうと、自分の自分に対する見方だけでなく、現実世界にも影響が生まれることが多い。
パイロット試験に落ちれば、自信が吹き飛ぶだけではない。
飛行機を操縦することも許されない。
気になっていた男性がパーティに恋人をつれて現れたら、自己嫌悪に陥るだけでなく、その男性とキスをするチャンスは当分まわってこないだろう。
職場で低い評価をされれば、それは個人の業績だけでなく給与にも影響する。
昇給を得られなかったら、それは頭のなかで想像した「歪み」ではない。
現実にその事実が給与明細の金額となって現れる。
フィードバックをもらった結果として生まれる状況を見ると、自分にできることは何もないように思える。
だがそんなことはない。
状況は「自分の外の世界」のものだが、その「意味するところ」についてはやはり自分の解釈が生まれるので、そこに歪みや思い込みが入り込む。
たとえば、昇給がなかったという状況を「失敗」の意味にとらえると決めれば、それは状況から大きく飛躍した結論を導きだしたと言える。
また、フィードバックをもらって動揺すると、確実に生まれる状況と生まれるかもしれない状況の区別ができなくなることがよくある。
上司から「昇給はない」と明言されれば、昇給は確実に起こらない。
一方、昇給がなかったせいで配偶者が去るというのは、起こるかもしれない状況の一つでしかない(しかも、起こる可能性は低い)。
しかし、悪い知らせを受けとった瞬間は、その可能性は低いと思えない。
だから、確実に起こることのように不安になるのだ。
こういう状態に陥ることは誰にでもある。
ほかにも心配ごとなら十分あるというのに。
ハーバード大学心理学部のダニエル・ギルバート教授も著書『明日の幸せを科学する』(早川書房)で述べているが、「仕事や恋人を失ったらどんな気持ちになると思うかと尋ねると、得てしてどんな人も、気持ちのつらさやそのつらさが続く期間を過剰に見積もる★2」のだ。
しかも、人には失った状態から立ち直る力を低く見積もる傾向があるため、そのせいでますます予測は過剰になる。
フィードバックをもらうことで生じる結果について考えるときは、それを拒絶しても、それが重要でないふりをしてもいけない。
ありのままに受けとめるのだ。
そのうえで、現実的かつ健全な思考のもとで起こりうる事態を予測し、その予測に即した対応をとる。
しょせん、未来の予測はあくまでも予測でしかなく、予測というものは単純に、間違っていることが多い。
4.視点を変える暗い状況を別の視点から見ることは、それが何であれ自分のためになる。
いつもの視点から外に出る方法をいくつか紹介しよう。
傍観者になりきるフィードバックは自分についてのことなので、どうしても感情に訴えかけてくる。
まったく同じフィードバックでも、それが自分以外の誰か、たとえば妹に向けられたものなら、そんなに深刻に受けとめる必要はないと諭したり、それとの向き合い方をアドバイスしたりできるだろう。
それができるのは、妹のためを思う気持ちがあると同時に、自分の目から見て、妹の反応が明らかに過剰だとわかるからだ。
「母さんがそう言ったの?深い意味はないよ。
最近の母さんは、よくそういうことを言うじゃないか。
気にすることはない。
お前はもう立派な大人なんだから!」まさにそのとおりである。
ところが、母親のその言葉が自分に向けられると、話は少々変わってくる。
頭のなかで、「どうして母さんはあんなことを言ったのだろう?何か怒らせるようなことをしただろうか?私のいまの生活を知って、がっかりしたのかもしれない。
いまでも母さんは私のことを愛しているだろうか?そもそも、これまで愛されていたのだろうか?」こうした不安を妹に打ち明ければ、妹は驚いたような顔でこう言うだろう。
「うそ!あんなことをまだ気にしてるの?なんで不安になるの?深い意味なんてない。
最近の母さんは、よくああいうことを言うじゃない。
しっかりしてよ。
もう大人なんだから!」この、自分が対象になったときと傍観者になったときとの違いを、自分のために活用すればいい。
自分がフィードバックをもらうとき(フィードバックの対象となったとき)に、友人や兄弟姉妹など、自分の身近にいる人ならどんな反応をとるかを想像するのだ。
思考実験の一種だと思えばいい。
そうすればきっと、視点を変えただけで見え方がどれほど変わるか、その違いに驚くだろう。
思考実験だとわかっていても、違いは現れるはずだ。
この方法で視点を変えれば、フィードバックの受けとめ方について、自分で自分にアドバイスができる。
「なぜ母親が言ったことを未だに引きずっているんだ?最近の彼女は、よくそういうことを言うじゃないか」と自ら思えるようになる。
もちろん、それとあわせて、実際に友人のアドバイスを求めてもかまわない。
同僚から心がザワつくメールが届いたら、それを友人に転送し、友人が読んでも自分と同じように心がザワつくかどうか確かめてみるといい。
自分は気にしすぎなのか。
それとも気にしなさすぎなのか。
そういうことのアドバイスを得意とする人を探す必要はなく、身近な人に尋ねることから始めればよい。
「未来」から振り返る自分の人生を、10年、20年、あるいは40年先の視点から振り返ってみよう。
今日の出来事は、もっと長い目で見たらどのくらい重要かと自分に問いかけるの
だ。
いまはまだ、もらったフィードバックや知らせに対し、つらい、残念だと思っているかもしれない。
しかし、何年も後になれば、そうして悩んでいたことのほうを後悔する可能性が高い。
いまは、今日という日を大きく感じる。
だが何年もたった視点からは、ずっと小さく見える。
ユーモアは絶望を癒す喜劇は悲劇に時間を加えたものだ、とよく言われる。
この考え方をいますぐ取り入れよう。
ユーモアは、惨めな瞬間に抱く感情の高まりから解放してくれる。
それも、絶望的な状況で発せられるものほど効果的だ。
不運な登場人物にひねりの効いた筋書きはユーモアにつきものだと思っていれば、自分自身や自分の人生をおもしろい作品として見られるようになる。
自分の置かれている状況にユーモアを見いだすことができれば成功だ。
また、自分自身を笑い飛ばすことができれば、フィードバックを受けとめる準備ができている証拠でもある。
自分を笑い飛ばせるようになるには、自分を守ろうとする手綱を緩めないといけない。
世間の自分に対する見方を受けいれ、自分が思う自分を世間に受けいれさせることをやめるのだ。
ユーモアを見いだそうとすると、脳が感情の状態を変えようと働きだす。
ポジティブなことに作用する、左側の前頭前皮質が活動を始めるのだ。
おもしろいという感情はここに生息している。
何かをおもしろいと思うことは、パニックや不安を和らげ、そういう感情を起こさせるサインを静めることにつながる。
5.他人の見方は変えられないと自覚する他人が自分をどう見ているかと、自分が自分をどう見ているかは、切っても切り離せない関係にある。
人は、自分を見ている誰かがいて初めて、自分自身をはっきりと見ることができる。
他人の視点はパズルの1ピースにすぎないかもしれないが、それはとても重要だ。
いわば、カクテルソースに入っている西洋わさびのようなものだ。
西洋わさびだけを食べたいとは思わないが、カクテルソースに西洋わさびが入っていなかったら、ソースとして味が完成しない。
そういう関係だから、人からどう見られているかを気にするのは当然だと言える。
しかし、他人が自分をどう見るかは、自分ではどうすることもできない。
これを事実として受けいれる必要がある。
他人の視点は、不完全であったり、古い情報にもとづいていたり、不公平だったり、根拠すらなかったりする。
場合によっては、その人自身に当てはまる欠点を、あなたの欠点だと指摘されるという腹立たしいこともある(「意地悪で身勝手だと?本当に意地悪で身勝手なのはお前だろ!」)。
たった一言で、自分が誤って悪者にされ、相手が誤って責任を逃れることだってある。
人は、相手に間違いを認めさせ、相手の自分に対する見方を変えさせようとムキになるところがある。
どうすれば変えることができるのか?そんなことは絶対にできない。
どれほど相手が間違っていようと、どれほど不公平な見方をしていようと、他人がどう思うかをコントロールすることはできない。
とはいえ幸い、あなたが思うほど、人はあなたのことを気にかけていない。
自分のことで頭がいっぱいで、あなたのことまで考えていられないという人がほとんどである。
相手に思いやりを持つ理不尽なことを言ってきたり、自分のことを何一つ認めてくれない相手に対し、思いやりを持とうとは思わない。
しかし、思いやりを持つと、その相手に対する見方や、その人からのフィードバックを聞く姿勢が大きく変わる。
自分にとって意味のあることを成し遂げたのに、父親はまたもやそれを認めようとしない。
そういうときは、父親自身が父親にされた扱いを思い返す。
父親から認められずに傷ついている少年時代の父を思い浮かべればなおよい。
そして、そのかわいそうな少年を優しく抱きしめてあげよう。
自分に対する誰かの見方は単なる情報であって、烙印ではない。
どうしようもなくつらいときは
■どうしようもなくつらいときは「この本に書いてあることをいくつか実際にやってみたが、効果が感じられない。
動揺や不安といったレベルの話ではない。
気分が落ち込み、言い知れぬ恐怖を感じる。
しかも、それがどんどんひどくなる」という人もいるのではないか。
安心してほしい。
誰でもそういう状態になることはある。
人間の学習システムをゼロから設計することになったら、苦痛という感情を排除したくなるかもしれない。
だから、こんな疑問がよく思い浮かぶ。
「こういう強いネガティブな感情は、人生において何かの役に立つのだろうか?」と。
役に立つことはある。
感情的な苦痛を抱えると、何週間も布団にもぐったままになることもあるが、自分自身や自分の人生を改めて見つめ直す(見つめ直させられる、と言ったほうが正しい)きっかけにもなってくれる。
つらい思いをしなければ、進んで見つめ直すことはまずないだろう。
ネガティブな強い感情は、人を殻に閉じこもらせもするが、自分の殻を打ち破る一助にもなってくれる。
実際、もらった瞬間は苦痛に感じるフィードバックほど、学ぶことが多い。
とはいえ、そういう苦痛が長期にわたる不安や落胆に変わり、うつ状態になったり、何もできなくなったり、死にたくなったりする人がいる。
そうした歪みが生じると、自分の問題を脳内でググってそれらがなくなることは一生ないと思い込むので、歪みはそのまま定着する。
表面上は大丈夫に見えるため、健全な行動を維持しろ、明るい面を見ろ、活発に動いていろ、といったアドバイスを友人たちからもらう。
しかし、本当に苦しんでいる人にとって、そういうアドバイスは、溺れている人に向かって「がんばって浮かべ!」と叫ぶくらい意味のないものだ。
調査によると、トラウマを持つ人が実際にトラウマと同じ経験をしても(トラウマは一例である)、精神的な傷を負わない人がほとんどで、なかにはそれによってトラウマを克服する人もいるという。
こういう結果があるのだから、トラウマとなるような経験を持つ人は、楽天的になるべきだと考えるようにしてほしい。
そういう経験がない人も、悪いことが起こるかもしれないとむやみに怖がる必要はないと覚えておいてほしい。
とはいえ、大丈夫でないときは必ずある。
どんな人にも、それを経験すると自分が壊れてしまうというものがあるからだ。
そういうときは、どれほどフィードバックを公正にありのまま受けとめようと努力しても、どうにもならない。
友人、家族、コミュニティ、神から心の安らぎを得られることもある。
瞑想、セラピー、療養で心が解放される人もいるだろう。
エクササイズや瞑想には心を穏やかにする効果がある。
また、自分の時間やエネルギーを、自分よりも大きい何かに捧げることも効果的だ。
だからこそ、私たち人間はそういうものも生みだしたのだ。
□助けを求めるつらい状態から脱する第一歩は、助けを求めることだったというケースは多い。
それをするには、謙虚な心と勇気が必要だ。
自分が問題を抱えていることを周りの人は知っているはずだ、と思うかもしれないが、気づいていないこともある。
あなたの口からはっきりと、「助けてほしい。
君の支えがいま必要なんだ」と言わないとわからないかもしれない。
つらいときは、身近にいる人に「励ましの鏡」になってもらおう。
彼らには、あなたが愛される存在であることも、苦しんでいることがあなたのすべてではないこともわかっている。
苦しみの向こうに待つ、いまよりもよい状態が見えている。
彼らの目には、「曇りのない目で公正に見たあなた」が映っている。
あなたと違い、不安や情けなさや落胆から、あなたを歪めるようなことを彼らはしない。
自分の身近にいる人たちを信頼しよう。
別れた妻がやってきて、元妻の目に映るあなたを描いたと言って肖像画を置いていったら、励ましの鏡となってくれる友人たちが、それをリビングの暖炉の上に飾ろうとするあなたをとめてくれる。
上司から、おでこに「無能」の文字をタトゥーで入れたらどうかと言われたら、あなたの目にタトゥーショップが入らないように気遣ってくれる。
いまはどうしても自分自身を受けいれられない、というときは、代わりの人に受けいれてもらうとよい。
励ましの鏡となってくれる人たちに、あなたを受けいれてもらうのだ。
そして、あなたが抱えている苦しみから脱するためにできることを、彼らに手伝ってもらいながら探す。
苦しみから脱するためにできることについては次のチャプターで詳しく触れるので、そちらを参照してもらいたい。
CHAPTER8あなたを成長させる言葉はすぐそばにある
フィードバックは、自分が思う自分と矛盾したり、自分を攻撃したりすることもあれば、何より不安に思っている部分を突くこともある。
フィードバックを有効に役立てられるかどうかは、それをどう解釈するかに加えて、自分のアイデンティティをどう保持しているかということも関係する。
チャプター8では、簡単には揺るがない確固としたアイデンティティの築き方、そして、フィードバックを嫌がらずに歓迎するアイデンティティの築き方を見ていく。
フィードバックはアイデンティティの危機
■フィードバックはアイデンティティの危機施設にいる母親を訪れるときは、いつも胸が痛んだ。
帰ると言って歩き去ろうとすると、母がずっとこちらを見ている。
母親の寂しげで困ったような顔を見るのは、実につらい。
母が認知症と診断されると、父が母の面倒をみた。
あなたもできる限り協力した。
しかし、失禁が始まり、転ぶ回数が増えるにつれ、心配で夜もろくに眠れなくなった。
父の負担は耐え難いものとなり、悲劇的なことが起こるリスクは高まる一方だった。
そしてとうとう、父はあなたの説得に応じ、母の面倒をフルタイムでみてくれる施設に入れることになった。
それが母の身体のためであり、父の心のためだ。
そうするのが正しいことだと思っていた。
そうだろう?しかし、母の親友のリタは違った。
母が介護施設に入ったと知った彼女は、父ともあなたとも二度と口を聞かないと父に告げた。
それを聞いたあなたは、自分が情けなくて仕方がない。
□アイデンティティは自分のストーリーアイデンティティとは、自分で自分について語るストーリーである。
自分で思う、自分はどんな人間で、何をよりどころとし、何が得意で、何ができるか、といったことがアイデンティティだ。
たとえば、「私は部下を引っ張るリーダーだ」「私は孫を育てるおばあちゃん」「私は合理的」「私は情熱的」「私はどんなときも公正な立場に立つ」など★1。
自分のアイデンティティと矛盾したり、それらに疑問を投げかけるようなフィードバックをもらうと、自分で自分のことをどう思っているかが明らかになる。
「自分はずっと、頭がよくて勤勉で、処世術に長けていると思っていた。
それなのに、10年必死で働いた会社をクビになった。
いったい、自分は何なんだ?これからどうすればいい?」「いい息子でいることを第一に考えてきた。
しかし、リタの非難の言葉が鋭いナイフのごとく、自分のアイデンティティに深く突き刺さった」「夫に究極の選択を突きつけられた。
夫か犬か、どちらかを選べと。
そして、自分は犬のほうを大事に思っていることに気づいて困惑している。
夫より犬を選ぶ私は、悪い人間なのだろうか?」ショックを受けるのは、重要なフィードバックをもらったときだけとは限らない。
日常的なやりとりのなかにも、アイデンティティが揺らぐフィードバックはある。
たとえば、親友がプレーオフのチケットを自分ではなく別の誰かに譲った、前日に1時間相談にのった顧客が、今日の電話では別の担当者を希望した、という場合だ。
ポジティブなフィードバックをもらったのに揺らぐ場合もある。
「売れないアーティスト」という自分のイメージが心地よかったのに、先日発表した作品が突如として称賛されると、自分は金や名誉を欲する人間になったのかと悩む。
自分と関係のない情報をきっかけに揺らぐこともある。
たとえば、昔、ケンタッキーフライドチキンで一緒にレジのアルバイトをしていた女の子がNASAのトップに就任した、幼稚園で天敵だった男の子が会社を上場させた、といった知らせが届いたとしよう。
そうすると、めでたいと思う一方で、自分のことが以前よりも嫌になる。
なぜそうなるかというと、自分が語るアイデンティティは、周囲と比較した自分自身に影響されるからである。
人は、自分の身近にいる人をモノサシにして自分自身を測るのだ★2。
すぐに揺らぐアイデンティティ、ビクともしないアイデンティティ
■すぐに揺らぐアイデンティティ、ビクともしないアイデンティティ生まれ持った能力、人生経験、脳の配線がほぼ同じ人がふたりいる。
こう言われると、このふたりのアイデンティティも、フィードバックを歪ませずに受けとめる能力もほぼ同じに違いない、と思うかもしれない。
実際、その可能性はある。
しかし、絶対にそうとは限らない。
アイデンティティに疑問を投じるフィードバックを糧にする能力は、個々のアイデンティティの語り方によって変わるからだ。
アイデンティティがすぐに揺らぐ語り方をする人もいれば、ビクともしない語り方をする人もいる。
後者のタイプは、フィードバックを受けとるとき、自分のアイデンティティを脅かすものとしてではなく、アイデンティティの核心を突くものとして受けとる傾向がある。
自然にそうできる人もいるが、幸い、いまはできない人でも習得することは可能だ。
習得すれば、アイデンティティがぐらついてもすぐに立ち直れるようになる。
自分に向かって投げかけられるフィードバックをコントロールすることはできないが、それを素直に受けとめ、冷静さを保ち、自分のために活かす能力を向上させるために変えられることはある。
絶対に変える必要があるのは次の二つだ。
(1)アイデンティティのラベル化をやめて、複雑なものだという意識を育む(2)自分は変わらないという固定観念を捨て、自分は絶えず成長するという意識を持つここからは、この二つを順に説明し、日々の仕事や雑事に追われながらも意識改善を図るときに役立つエクササイズを三つ紹介しよう。
アイデンティティは複雑
■アイデンティティは複雑アイデンティティは、人生経験という終わりのない複雑なものから構築される。
その一方で、私たちは、「私は有能」「私はいい人」「私は愛される価値のある人間」というように、簡潔なラベルにまとめたものをアイデンティティとする傾向がある。
ラベル化されたアイデンティティには重要な機能がある。
生きていれば、つらい思いをしたり混乱したりすることもある。
そんなとき、ラベル化したアイデンティティを持っていれば、自分の価値や自分が価値を置いていること、自分の生きる目的を思いださせてくれる。
「私は約束を守る男だ」というラベルがあれば、話は簡単だ。
約束を破りたい誘惑にかられても、仮に正当な理由があったとしても、そんなことをするのは自分ではないと思い直す。
ただし、アイデンティティのラベル化には問題もある。
ラベルにすると、「アリかナシか」のどちらかになってしまうのだ。
「アリ」の場合はいい。
だが、アリとは言い切れないフィードバックをもらうと、「ナシ」だと言われているような気持ちになる。
「一部アリ」や「ときどきアリ」や「アリだが例外もある」は許されない。
いい人でないなら悪い人、利口でないならバカ、聖人でないなら罪人となる。
そのように考えていれば、フィードバックに怯えるのも、もらったら簡単に打ちのめされるのも当然だ。
自分のアイデンティティを電気のスイッチのような形で決めてしまい、しかも、ささいなフィードバックでそのスイッチが動く。
それでは、栄光に輝いていない人はみな、暗闇をさまようことになる。
□拒絶か、さもなくば降伏か
アリかナシかのアイデンティティの人がネガティブなフィードバックに遭遇すると、アイデンティティがひっくり返されることが多い。
そうなれば、フィードバックは「ジブン新聞」のトップ記事の見出しとなる。
「〝勤勉な研究者〟から〝終身地位保証を得られなかったマヌケ〟へ」「〝いい息子〟から〝母親を裏切った冷酷な息子〟へ」という具合だ。
もらったフィードバックがアイデンティティを語るうえでの見出しとなり、それ以外の自分に関することは、すべて後ろのページに追いやられる。
これでは、フィードバックが誇張されてしまう。
そういうフィードバックに対処する選択肢はもう一つある。
フィードバックを締めだすのだ。
そのフィードバックに不備がある、的はずれであるとする理由を見つけられれば、フィードバックを否定して現状のアイデンティティを保つことができる。
そうすれば、フィードバックに脅かされることもなく、「アリ」を維持できる。
自分でつくったアイデンティティのストーリーは損なわれない。
つまり、アリかナシかのアイデンティティを持つ人は、フィードバックを誇張するか、否定するかの二択を迫られるということだ。
だが結局、その二つを行き来することになる。
受けいれと拒絶を繰り返すばかりで、落ち着く場所が見つからない。
「このフィードバックを認めると、自分は悪い人間になってしまう。
本当はそうなのかもしれないな。
いや、そんなはずはない。
だからこのフィードバックは拒否しよう。
いや、待てよ。
事実でないなら、どうして彼らはあんなことを言うのだ?やっぱり本当なのかもしれない。
でも、自分のことは自分がいちばんよくわかっている。
それに、彼らの言うことが事実なら、とても立ち直れそうにない。
やっぱり、事実であるはずがない。
でも……」というように、船の甲板に転がる魚のように、延々と反転を繰り返す。
二択のどちらにも正解がないように思えるのは、どちらも正解ではないからだ。
その場しのぎで誇張と否定のバランスをとろうとしても意味はない。
正解は、アイデンティティの持ち方に潜んでいる。
□アイデンティティは固定化されていないラベル化したアイデンティティは自分の立ち位置を見定める一助となるが、現実の複雑さには対応しきれない。
約束を守る男というアイデンティティの人が、上司と義理の息子のどちらかとの約束を選ばないといけないときはどうする?自分のことを公平な人間だと思っている人は、ものごとは公平か不公平のどちらかしかないと言いたいかもしれない。
だが、先週は公平だと思えたことが、関係者からその後聞いた話を踏まえると、あまり公平でないように感じられることがある。
要するに、ラベル化したアイデンティティは極端すぎるため、自分自身のすべてを語りきれないのだ。
人から信頼されることや公平であること、責任感があることを心から大事にしている人には、そうと証明する例が何千とある。
それと同時に、そうでないと証明する例もある。
それが現実だ。
介護施設に入れた母親がその6カ月後に亡くなった。
あなたは未だ、施設に入れるという決断が正しかったかどうか悩んでいる。
正当な理由があったから、母を施設に入れようと父に提案した。
だからそれが最善の道だった、とあなたは思う。
しかしその一方で、自分はモラルに反する最低のことをした、と思うこともある。
そして、いつも自分のそばにいてくれた母の姿と、施設から帰る自分を見送るときの困ったような母の顔が思い浮かぶ。
実家の近くに引っ越して介護を手伝うことも、母を自分の暮らす家に住まわせて、フルタイムで看護師を雇うこともできたのではないか。
そうしている人は実際にいる。
なぜ自分はそうしなかったのか。
例にあげたように、自分のアイデンティティをラベルで語っている限り、心の平穏は訪れない。
いい人か悪い人かのどちらかを選ぶのは不可能だ。
どちらを選んでも、その反対を実証する証拠は必ず見つかる。
人生はディズニー映画とは違う。
助けてくれる妖精も幸せを運ぶ青い鳥もやってこない。
人生は複雑で、人生について抱く感情も複雑だ。
母親が認知症になったとき、あなたは母親のためにできることを考え、父親を支えようとした。
母を愛する人のそばにいさせてあげたいと思ったが、母の安全を確保したい、きちんと世話をしてあげたい気持ちもあった。
不確かなことばかり目の前にしながら、父と母それぞれにとって正しい道を見つけようとしたのだ。
あなたのとった対応のなかには、誇れることがいくつかある。
まず、母親の元をほぼ毎日訪ねた。
母の人生をフォトブックにまとめた。
そこには、母が見て思いだすことのできた昔の写真をたくさん収めた。
一方、誇れないことは何かと考えると、さまざまな機会を見過ごしたことや、癇癪を起こした瞬間がよみがえった。
父親と過ごす時間や父親への気配りも十分ではなかっただろう。
最後の数カ月のあいだは、あなた自身の家族が間違いなく犠牲になった。
そのときの状況やあなた自身に関するストーリーがさまざまな意味合いを持つようになるにつれ、あなたは、母の親友リタの意見にも学ぶことがあるかもしれないと思うようになる。
思い切ってリタを訪ね、彼女と話をすることになった。
リタの気持ちを聞いて、あなたは納得する。
しかし、リタにあなたの気持ちを話しても、彼女は納得しない。
口には出さないが、家族の扱い方について、リタにはリタのルールがあるのだ。
それはたぶん、母親のことを経験するまであなたが持っていたルールと同じだろう。
リタは、あなたの行動は身勝手だと責めた。
たぶん、ここがいちばんの学びどころだ。
「身勝手」という言葉がふさわしいかどうかはわからないが、利己心が働いた部分は確かにあったとあなたは思う。
母を介護施設に入れたことで、母が転ぶかもしれないという心配、母が粗相をしたときの後始末、食べる量が少ないことへの懸念がなくなった。
また、介護疲れで父が倒れる心配もなくなった。
自分の決断に利己心が混ざっていたという考えは、あなたが抱く自分自身のアイデンティティと間違いなく衝突する。
あなたはこれまでずっと、自分は愛する人のためなら何でもする人間だと思ってきた。
しかし、そういう単純な話ではないのだと、いまようやくわかった。
これを事実として受けいれるのは悲しいが、それにより、一種のバランスのとれた状態が生まれるのだ。
□認めるべき三つのこと悲しみとバランスが共存するのは珍しいことではない。
受けいれるのはつらいが、受けいれたほうが自分自身が安定する場合があるのだ。
そのように考えれば、厳しいフィードバックをもらって打ちのめされることは減るだろう。
少なくとも、自分が語るストーリーの一部として受けいれられるようにはなる。
人は、誰ひとりとして完璧ではない。
仮にあらゆる条件が平等になったとしても、自分が完璧な人間になれるとは思わないほうがいい。
そうしないと、パーティで敬遠されやすくなるし、フィードバックから学ぶことが難しくなる。
前著『話す技術・聞く技術』(日本経済新聞出版社)でも紹介したが、私たちは次の三つのことを自分のこととして受けいれる必要がある。
それは、「間違うことは必ずある」「意図は一つではない」「問題の一因は自分にある」だ。
これらの受けいれは生涯ついてまわるが、受けいれる努力を続けていれば、フィードバックの受けいれがだんだんラクになっていく。
間違うことは必ずあるそうは思わないと言うなら、配偶者に尋ねてみるといい。
それだけで、これが事実だと実証されるだろう。
「間違うことは必ずある」と言われるのは、これが初めてではないはずだ。
どれだけ優れた人でも、寛大な人でも、素晴らしい人でも、間違うことはある。
しかし、自分が何か間違いを犯し、それを誰かに指摘されると、その真理は簡単に忘れ去られてしまう。
そういうときこそ思いだすと言うなら、それは間違いだ。
間違いを指摘されたとき、人は真っ先に自分を守るか言い逃れをしようとする。
「間違い?私は何も間違ってない。
会議の日時の知らせが間違っていたんだ。
それに、もともとその会議に出席する必要はないと思っていたし」間違うことは必ずあると受けいれれば、いくらか気がラクになる。
受けいれた後でも、ショックを受けたり落ち込んだりする間違いはなくならないかもしれない。
間違いによっては、運悪く自分のマヌケさが周囲に露呈することもある。
でも、間違うことはあると思っていれば、人はそういう間違いをするものなので、自分がしてもおかしくないと思えるようになる。
意図は一つではないこの説を初めて耳にする人もいるかもしれないが、こちらのほうが受けいれが難しいと思う。
人が何かを意図するとき、そこには善意ほど高尚ではない何かが混ざる。
それは、自分を売り込みたい気持ちかもしれないし、復讐したい、思いついたことを試したい、見栄をはりたい、得をしたい、といった気持ちかもしれない。
誰だって、うんざりすれば近道をしたくなる。
ウソをつかないでおこうと思っていても、すべてを伝えないことをときどき自分に許してしまう。
自分の意図を悪く言うようなフィードバックを受けとると、誰もが例外なくその意見を例外的だと受けとめる。
自分は善意にもとづいて行動した。
自分が善意から行動すると思うのは、いい人と呼ばれる人はみんなそうするからだ。
人は、自分はいい人と呼ばれるのにふさわしいと思い、自分にその立場を課している。
ハワイに行きたいという願望をつねに抱いていようと、それとこれとは話が別だ。
生きていれば、ある程度は自分の利益を追求することが必要となる。
それがときとして、ほかの人の利益と衝突し、またときとして、利己的だとの指摘を生む。
それを指摘されることや、それを認めることはつらいかもしれない。
そうならないようにする努力はやめるべきではない。
とはいえ、ありのままの自分を受けいれれば、大きな解放感を味わうことができるだろう。
問題の一因は自分にある誰かとのやりとりで何か問題が起きたとき、自分が被害者だという計算式を成り立たせるのは簡単だ。
しかも、自分が被害者であれば、相手のフィードバック
に耳を貸す必要はない。
間違った文書をメールしてきた奴が、俺にフィードバックがあるっていうのか。
冗談じゃない。
間違った文書をメールに添付した時点で、君は「この問題について俺にフィードバックを送る権利がない奴リスト」の仲間入りだ。
もちろん、このような計算式が成立することはほとんどない。
チャプター5で触れたように、たいていの場合、問題が起きた原因は双方にある。
それぞれが、問題を発生させる何かをした(しなかった)から、困ったことになるのだ。
この経験を今後に活かすつもりで問題に対処するとなると、問題の全体像に目を向ける必要がある。
それは、「フィードバックを送る権利がない奴リスト」の撤廃を意味する。
自分が相手にフィードバックすること(「正しい文書を送れ」)があるからといって、相手がこちらに伝えたいこと(「文書を見てもいないくせに、『問題ない』と返信するな」)をないことにしてはいけない。
自分は完璧ではないと認めることは、完璧であればネガティブなフィードバックから逃げられるという考え方を捨てることでもある★3。
逃げたくなる気持ちはわかるが、そうはいかない。
どんなことをしようと、フィードバックから逃れることはできない。
逃げきろうとしても無駄だ。
そんなことをすれば自分が壊れてしまう。
自分は不完全な人間だと認める以外に、私たちに選択肢はない。
□人は複雑な生きものラベル化したアイデンティティは自分のアイデンティティを簡略化したものにすぎない。
こう認識することが、自分のバランスを保ち(または取り戻し)、フィードバックを糧にする力を高める第一歩である。
受けいれがたいフィードバックをもらっても、アリかナシかで判断することをやめれば、自分の糧にしやすくなる。
良い人間だと思っていた自分が悪い人間になるわけでも、良い人間から複雑な人間になるのでもない。
人はみな、もともと複雑なのだ。
「成長」スイッチを入れるのは自分自身
■「成長」スイッチを入れるのは自分自身アイデンティティを単純にラベルで表すことをやめると決めたところで、アイデンティティの持ち方を別の角度から見てみよう。
あなたは、自分自身の特徴や能力のことを、完成された最終形だと思っているだろうか?それとも、いつでも進化や成長の余地があると思っているだろうか?スタンフォード大学心理学部のキャロル・ドウェック教授によると、この考え方の違いは、フィードバックを自分のものにする能力や欲求に深く関係しているという。
彼女はどうやってそれを知ったのか?教えてくれたのは子どもたちだった。
□できると思えば、できるドウェックは、「子どもは失敗にどう対処するか」というシンプルな問いから調査を開始した。
問いの答えを探るため、ドウェックは子どもたちを研究室に連れてきて、難易度を上げていきながらひたすらパズルを解かせた。
パズルの難易度が上がるにつれ、子どもたちのイライラも増し、集中力がなくなって最後には途中で諦めてしまった。
ところが、諦めなかった子どもたちもいた。
意外にも、難易度が上がるほど夢中になる子どもが何人かいたのだ。
ひとりの少年は、嬉々として唇を舐めてパズルに取り組み、そのやり方で解けないとわかると、別のやり方を試しながら「やっぱりさっきのやり方が参考になるぞ!」と言っていた。
ドウェックはその様子に困惑しつつも驚いた。
「この子たちはどうして諦めようとしないのだろう?パズルが解けなかったという事実(フィードバック)を受けいれて、落ち込まないのはなぜだろう?★4」ドウェックは子どもたちと話をし、彼らがものごとを理解する過程を探った。
そして、早々に解くのを諦めた子どもたちは、「最初のほうのパズルは、挑戦すれば自分の賢さを証明できた。
その後に続くパズルは、挑戦すると自分がバカに見える(思える)」という考え方をしていると判明した。
一方、解くことを諦めなかった子どもたちの考え方は、「難しいパズルに挑戦していけば、パズルを解く腕がどんどん上がる。
これは楽しいぞ!」というものだった。
パズルの好き嫌いやパズルを解く能力は、パズルを諦めることとは何の関係もなかった。
それを決めたのは、各自の考え方だった。
途中で諦めた子どもは、自分のパズルを解く技術を変わらないものだと受けとめていた。
パズルを解く技術はあるが、水分子に含まれる水素原子の数が決まっているように、その量や中身は不変だと思っていたのだ。
それに対し、諦めなかった子どもは、自分のパズルの解く技術を成長可能なものとして受けとめていた。
□失敗ではなく、学習である自分のアイデンティティは固まっているという考え方(固定マインド)の人は、人生で遭遇するすべての状況が、自分にある(または、あればいい)と思っている知性や能力があるかどうかを確認する場となる。
パズルを解く技術は「決まっている」と思っていた子どもたちにとって、簡単なパズルを解くことは問題ない。
しかし、簡単に解けないパズルになると、こんな声がささやきだす。
「パズルを解く知力が足りない。
自分の力では、このパズルは解けない」。
そうしてやる気を失い、苛立ちを覚え、自分が恥ずかしくなる。
だから、このまま続けて自分の能力が足りないという現実に直面するよりも、途中でやめたほうがいいと考える。
一方、自分のアイデンティティは成長するという考え方(成長マインド)の子どもたちは、パズルを解く知力のことを、元々備わっている、備わっていないという次元でとらえていない。
身につけることが可能なものとしてとらえ、さらには、難しいパズルに苦戦することを、そのために必要なこととしてとらえている。
ドウェックはこう説明する。
「失敗でやる気を失わないどころか、失敗とすら思っていない。
この子たちは、それを学習だと思っているのです★5」。
彼らにとって、パズルは自分を評価するものではなく、指導を与えてくれるものなのだ。
言ってみれば、成長マインドの子どもたちは「学習室」という名の部屋でパズルを解き、固定マインドの子どもたちは、「テスト室」という名の部屋でパズルを解いていたようなものだ。
あなたは、どちらの部屋で人生を送りたいと思うだろう?ドウェックによると、私たちのアイデンティティである、自分の核となる性質、能力、性格といったものを「不変である」と信じている人は多いという★6。
そして、その傾向を強くさせるのが、子どものときに耳にする大人たちの言い方(そして大人になった私たちが自身の子どもによく使う言い方)である。
「あの子は生まれながらのリーダーだ」「あの女の子はなんて頭がいいのでしょう」「お前は昔から優しい子だよ」「お前は天性のアスリートだ」……。
このように、私たちのアイデンティティは、自分にあるものとないもので固められる。
そうなると、アイデンティティは「努力で変えられるものではない」という意味になり、それを黙って受けいれる。
自分について語られることが自分であり、その評価は永遠に変わらない。
評価が好転することなどありえない、と思い込む。
□努力で変えられること自分のアイデンティティが固まっていると思うのは、現実を認識しているということではないのか、と思う人もいるだろう。
確かに、努力があまり関係しない部分もある。
水中での呼吸に関しては、人間より魚のほうが得意だが、それは、魚に成長したいという姿勢があるからではない。
また、人によって得手不得手がある。
数学と走ることは自分に向いていると感じるが、絵を描くことと我慢することは向いていると思えない、というような思いは誰にでもある。
人にはさまざまな特性があり、どれが固定でどれに順応性があるかについては研究者のあいだで議論されていて、成長できると示す嬉しい証拠もあれば、限界を示す残念な証拠もある。
しかし、ここで大事なのは、「人が成長するのは自らひたむきに努力したときであり、人がそれをするのは、努力すれば成長できると信じているとき」だということだ。
これは、耐え難いほど苦手なことにも、自分でも不思議なほどうまくできることにも当てはまる。
そして、努力が何よりも大切になるのが、人生の質を左右するものたちである。
知性、リーダーシップ、仕事ぶり、自信、思いやり、創造力、自意識、協調性といったものは、意識することで成長し、指導を受けることで改善する。
□リアクションはあなたの鏡固定マインドと成長マインドのどちらを持つかで、自分自身の見方やフィードバックの聞こえ方、フィードバックに対する反応の仕方が大きく変わる。
自分自身の見方
学習や成長のためには、現時点での自分の能力を正しく把握する必要がある。
それにより、自分の強みとして成長が望めることは何で、改善に向けて努力が必要となる弱みは何かがわかる。
ドウェックの調査によると、成長マインドの持ち主は「驚くほど正確に」自身の現時点での能力を把握しているのに対し、固定マインドの持ち主のそれは「恐ろしいほど不正確」だという★7。
なぜそうなるのか?自分の特性を不変だと思っているなら、能力を正確に読み取るのは簡単なはずだ。
何しろ、測定の対象は絶対に動かない。
ところが話はそう単純ではない。
「能力は固定されている」という考え方ではあっても、日々入ってくる自分に関するデータのせいで、気持ちが大きく揺さぶられるのだ。
「昨日の自分は最高だったけど、今日の自分はマヌケだ」「先週の自分は優秀だったのに、今週の自分はダメ人間だ」という具合だ。
こうした幅のあるデータでは、決まった能力しかないと思っている自分自身に合致させようとしても無理がある。
混乱するのも当然だ。
こういう複雑なデータは、成長マインドの人のほうが理解を得意とする。
「先週の自分は優秀だったのに、今週の自分はダメ人間だ」ではなく、「先週は最高の働きができたけど、今週は失敗ばかりしている」と思う。
自分がどういう人間か、ではなく、自分が何をしたかを見るのだ。
成長マインドを持つ人は、矛盾があっても混乱することなく、正確な情報を求めてアイデンティティの調整や成長を図ろうとする。
フィードバックをどう聞くかアイデンティティに対する考え方(と、その結果として自分で自分に語るアイデンティティ)は、注意を向ける対象に大きく影響する。
心理学者のジェニファー・マンジェルズとキャサリン・グッドは、コロンビア大学の脳科学研究室である実験を行った。
固定マインドの学生と成長マインドの学生を集めて脳波モニターにつなぎ、文学、歴史、音楽、美術に関する一般教養テストを受けさせたのだ。
そしてテスト終了後、回答の正否と間違った問題の正解を各学生に伝えた。
固定マインドの学生は、どの問題を正解し、どの問題を間違ったかは念入りに確認したが、間違った問題の正解を伝えるときは興味を示さなかった。
一方、成長マインドの学生は、間違った問題の正解に熱心に耳を傾けた。
評価も気にはしていたが、彼らは指導も求めていた。
次は間違えないようにするためだ。
そして再テストを行ってみると、成長マインドの学生は、固定マインドの学生よりも優れた成績を収めた★8。
困難にぶちあたったときの対応失敗に直面したとき、成長マインドの人は立ち直るのが比較的早い。
足りない部分があるのは成長の余地がある証拠ととらえ、以前の倍の努力をする。
学校の勉強で挫折を味わったとき、成長マインドの子どもは、勉強時間を増やす、次は勉強のやり方を変えるといったことを口にする。
しかし、固定マインドの子どもは、「自分はバカなんだと感じた」「次はあまり勉強しないだろう」「本気でカンニングの方法を考えようかと思っている」といったことを口にする傾向が高いという。
また、屈辱的な気持ちに突き動かされてのことなのだろうが、固定マインドの人は、自分の成績のことで周りにウソをついたり、失敗の後に自分の殻にとじこもったりする傾向も高い。
早々に諦めて、挫折したところを自分の居場所にするのだ★9。
誰かの一言で変わることもあるドウェックによると、ふたりにひとりが固定マインドの持ち主らしいが、自分で自分に出来事をどう語るかということも行動に影響する。
実際、たった一言で、自分の方向を変えることだって可能だ。
ドウェックは同僚とともに、小学5年生に簡単なパズルをさせる実験も行った。
パズルを完成させることができたとき、半数の子どもには「あなたって本当に賢いのね!」と言い、残りの半数には「本当によく頑張ったわね!」と言った。
その後、両方のグループに向かって、次に解くのはもっと難しいパズルともっと簡単なパズルのどちらがいいかと尋ねた。
どちらのグループの子どもが難しいほうを求めたと思う?もうおわかりだろう。
この実験で一つ明らかになったことがある。
子どもの知性を褒めることは、意外にも学習の妨げとなるのだ。
新しいことに挑戦させたいなら、子どもの努力を褒めたほうがいい。
しかし、なぜこのようになるのか?数の話で言えば、頑張りを褒められた子どもの半分は固定マインドの持ち主だった。
それなのに、残り半分の成長マインドの子どもたちと同じように、もっと難しいパズルに取り組みたいと言った。
それはたぶん、能力ではなく努力を褒められたときは、固定マインド特有の不安が誘発されないからだろう。
あるいは、努力を褒められたことで自分に自信が生まれ、次もできると思ったのかもしれない。
次のパズルがどんな結果になっても、努力は認めてもらえると思ったのかもしれない。
いずれにせよ、学習プロセスに火をつける性質だけを褒めたことで、固定マインドの子どもたちも、リスクをいとわず難しいパズルに挑戦しようと思ったのは確かだ。
成長マインドが人生の質を変える
■成長マインドが人生の質を変える固定マインドから成長マインドへ変わるにはどうすればいいのか?まずは、自分の傾向を認識する必要がある。
あなたは、テスト室と学習室のどちらにいたいと思うだろう?難しいことに直面したとき、アイデンティティに対する脅威、成長の機会のどちらに感じるだろう?あなたにとって、失敗は試合終了なのか、それとも、試合のなかの1プレイなのか?次に固定マインドと成長マインドの違いをまとめたので、自分がどちらに近いか確認してみてもらいたい★10。
特性や能力によっては、成長の余地があるかどうかわからないものも出てくると思うが、心配はいらない。
その判断は簡単ではない。
イエスと断言できないからといって、ノーと断言するのはよくない。
そういうときは、次のような実験をするとよい。
まず、習慣を変える、もしくはどれか一つのスキルを向上させると心に決める。
そして、指導者を見つけて必死で努力する。
自分が得意としないことをする環境に、むりやり身を置くのだ。
そして無残に失敗したときは、次にするときにうまくできるための方法を三つ書きだす。
そうして改善方法を洗いだしては試すことを繰り返し、どうなるかを確認する。
たとえば、母親を亡くしてリタと話をするという経験から、父が母とよく似た状況になったときに活かせる何を学んだだろう?そのときの経験は、自分自身の子どもに教えることや、子どもに期待することにどんな変化をもたらすだろうか?努力できる何かを見つけることができたら、学んだことから次に活かせるかもしれない何かを見つけることができたら、成長と変化が可能な自分に変わり始めたと思えばいい。
経験というものは、何かを教えてくれるものであって、あなたをラベル化するものではない。
そして何より、ネガティブなフィードバックは、成長マインドを非難するものではないと覚えておいてもらいたい。
成長マインドに、失敗や失望はつきものである。
成長マインドになれば、いまの時点の自分よりも多くを学べるようになったと思うだろう。
しかし、努力の見返りは、自分が望んだものよりも小さいかもしれない。
成長マインドに、もらうフィードバックの種類は関係ない。
もらったフィードバックをどう受けとめるかがすべてなのだ。
ここからは、成長マインドを育むための方法を三つ紹介しよう。
1.フィードバックをすべて「指導」に分類するフィードバックには、評価を与えることを第一とするもの(学校の成績やブログのランキングなど)や、指導を目的としたものがある。
指導の場合、与える側の目的はただ一つ。
受けとる側が学んだり、上達したりする役に立つことである。
しかし、チャプター1で紹介した双子のアニーとエルシーのように、純粋に指導する目的でフィードバックを与えても、評価として受けとめられることがある。
「こういうふうにやってごらん(指導)」という言葉には、「まだ十分ではない(評価)」というメッセージが暗に含まれるからだ。
フィードバックを受けとると、人は、もらったフィードバックを「指導」と「評価」のどちらかに分類する。
どちらに分類するかで、フィードバックを有効活用する能力に大きな差が生まれる。
なぜなら、評価のフィードバックがアイデンティティを揺るがすことはよくあるが、指導によってアイデンティティが脅かされることははるかに少ないからだ。
指導のフィードバックは、いわばフリーパスである。
これを手にすれば、自分自身の再評価というつらい作業をせずに学ぶことができる。
エルスベスは、3時間のプレゼンテーションの前半を終えて休憩をとっている。
そこへクライアントがやってきて、よかったがもう少しテンションを上げてはどうかと言った。
これは、指導と評価のどちらか?ここでエルスベスが指導と受けとめれば、彼女はおそらく「コーヒーをもう一杯飲んで、後半をもっと盛りあげる方法を考えないと」と思うだろう。
しかし、評価と受けとめれば、「このクライアントもほかの人も、みんな退屈に思っているのだろうか?私のプレゼンテーションはいつも好評なのに!今回のような年配の人に、私は向かないのかもしれない」というように、アイデンティティと結びつけてしまう。
自分のアイデンティティと向きあうことになれば、後半の改善につながるかもしれない指導に意識は向かない。
アイデンティティ問題が生まれたせいで、学習が妨げられたのだ。
指導として素直に受けとめるもらったフィードバックを指導に分類するのは、必ずしも簡単ではない。
とはいえ、分類に苦労しないはずのフィードバックが1種類ある。
指導の提供だけを目的としたフィードバックだ。
この場合、言われることのすべてが指導に聞こえるはずだ。
それが与える側の意図なのだから、もらうフィードバックは自分のためになると思えるだろう。
しかし、そういうフィードバックをもらっても、誤って評価に分類するケースがとても多い。
友人が空港までの近道を教えてくれているとき、この街のことを知らないと言われているように聞こえる。
チームリーダーが時間管理に使う最新アプリのことを話しているとき、自分の先延ばしグセを批判されているように聞こえる。
妻がロマンチックだと思うことの話をしているとき、自分はそういうことに疎く、自分自身のことしか考えていないと言われているように聞こえる。
こうなると、学ぶことをやめて身を守ろうとしてしまう。
やりとりが感情的になったり、権利の主張を声高に唱えたりするようになるほど、相手の言葉が評価に聞こえ、指導と受けとめるのが難しくなる。
指導に聞こえるようにするためには、次のことを試してみるといい。
この数カ月のあいだにもらったフィードバックを思いだす。
大きなことでも小さなことでもかまわない。
たとえば、友人から、なぜ子どもの夜更かしを許しているのか、と尋ねられたとしよう。
それを聞いたとき、あなたはこのフィードバックは評価だと思った。
自分は子どもを甘やかし過ぎていると言いたいのか?自分のことを悪い親だと言いたいのか?では、このフィードバックの目的が指導だったと想像してみてほしい。
そこから何か学べることがあると考えるのだ。
そうすると、あなたはきっと、友人が気づいたことや、心配していることは何かと尋ねるだろう。
返答の内容は、すでに知っていることかもしれないし、そうでないことかもしれない。
いずれにせよ、親としての自分の選択について、改めて考える機会が生まれるのは間違いない。
このようなエクササイズを何回か行うと、次の三つのことに気がつく。
一つは、少し努力すれば、ほとんどのフィードバックは指導に聞こえるということ。
そして、指導として聞くことができれば、アイデンティティはほとんど(まったく)揺さぶられないということ。
最後の一つは、自分がフィードバックを受けとるときのパターンだ。
このエクササイズを行うと、「自分は思っていた以上に、何でも評価に分類しようとする」と気づく人が多い。
それが10回に1回しかない人も、10回に8回の人も、そのたびに無意味なアイデンティティ崩壊の危機を招き、フィードバックから学ぶチャンスを逃している。
人生にはさまざまな苦難があるのだから、想像上の苦難を自ら生みだす必要はない。
当然ながら、評価と指導の両方を伝えたいという意図でフィードバックをくれる人はいる。
だがそれ以上に、あまり深く考えずにフィードバックをくれる人のほうが多い。
その相手が身内のように近い存在の場合はとくに、混乱が生まれやすく、冷静に対処するにはかなりの努力が必要になる。
2.評価に私見を入れないフィードバックには、当然ながら評価のみを伝えるものもある。
「別れよう」「不採用となりました」という言葉や、「家庭環境が悪い」という理由で子どもをあなたの家に近づけない隣人の態度は、はっきりとあなたのアイデンティティに疑問を投げかけている。
フィードバックを評価として受けとめるときは、それを、査定、結果、私見の三つに分けて考えるとよい。
「査定」は、自分の順位や立ち位置を教えるものだと思えばいい。
陸上競技で考えればわかりやすい。
40~45歳グループの1マイル(約1・6キロメートル)走に参加して5分19秒のタイムを出せば、4位という査定をもらう。
「結果」は、いま説明した「査定」が現実世界にもたらす結果のことである。
4位という査定により、地方大会の出場資格は得られたが、全国大会の出場資格は得られなかった、というのが結果だ。
結果は、はっきりとわかることもあれば推測の域を出ないこともある。
また、すぐに出る結果もあれば、しばらく時間が立ってから出る結果もある。
「私見」は、査定と結果に関する、フィードバックを与える側と受けとる側それぞれのストーリーを表す。
競技を終え、自分は思っていたより良い結果が出たと喜んでいても、コーチは結果に納得しておらず、もっといい結果が出せたはずだと思っているかもしれない。
このように、評価を構成する要素に分けて見ていけば、もらった評価の何がアイデンティティを揺るがすのかが明らかになる。
1マイル走の例でアイデンティティを揺るがすのは、査定や結果ではない。
コーチの私見だ。
自分では、誰の期待も裏切っていないと思っているのに、コーチが結果に納得していないと知れ
ば、自分自身に対する自分の見方に疑問を投げかけることになる。
アイデンティティを揺るがすほどではないが、何かしらの違和感を覚えるだろう。
評価を要素に分けて考えると、フィードバックをくれた人と話しあいたいことも明らかになる★11。
査定には納得できるが、フィードバックをくれた人の私見には納得できない。
結果は明確で公正か。
自分のタイムに対するコーチの意見が自分と異なるのはなぜで、そこから何を学ぶことができるか。
このような考え方ができるようになる。
正確な査定は貴重な情報であり、結果を理解することも大切だ。
では、他人の私見はどうか?ためになると思える私見もあれば、直ちに切り捨てたくなる私見もあるだろう。
他人の私見は一個人の解釈にすぎないと思えばいい。
自分には自分の解釈がある。
3.自分に点数をつける査定は妥当でも、それにより、自分にとってマイナスの結果が生まれることがある。
会社、女の子、大学院、チーム、クライアントなど何でもいい。
誰かから、ノーを突きつけられたところを想像してみてほしい。
さて、これからどうすればいい?どんな状況に対処することになっても、目に見えない「もう一つの査定」の存在を思い描いてみよう。
低い点数をつけられても、失敗しても、つまずいても、最初にもらった査定に対する自分の対応を思い浮かべながら、自分で自分に点数をつけるのだ。
たとえ現実の査定はFでも、それを知ったときの自分の対応でを稼ぐことはできる。
こういう考え方をすると、いいことが二つある。
まず、フィードバックとしてもらう評価は自分ではどうにもできないが、自分の対応についての評価なら、自分しだいで高い点数が得られる。
それに、自分の対応についての評価のほうが、後になってから自分にとって価値があると思えることが多い。
次の機会で高い点数をとるには、自分の知識や技術を高め、失敗から早く立ち直る必要がある。
だからこれを機に、「次の機会に高い点数をとる」ことを、あなた自身のアイデンティティの一部に組み込んではどうだろう。
「うまくいかないこともあるけれど、失敗したときは、本気でそこから何かを学ぼうとする。
それについては自信がある」と自分で自分に言えるようになるのだ。
何なら、つねに次の機会用の得点表を頭に思い描いていてもいい。
そのほうが、アイデンティティの一部になりやすいかもしれない。
得点表がいつも頭にあれば、最初の評価をもらっても終わりにはならない。
そこから、その経験を自分の人生に活かす第2のストーリーが始まる。
アイデンティティの一部として定着すると、人生最大の難関が訪れたときにも役に立つ。
ヘザーは、長年つきあった恋人が去ったときのことをこう振り返る。
「私には、その後どうするかを決めることくらいしかできることがなかったので、毎朝起きて仕事に行きました。
そして、周りの人を大事に扱いました。
『取り乱さないでおこう』と決めたおかげで、意識を向けるものができたんです。
それに、いいことをしている気分にもなりました。
ですから、いまでも取り乱さないことを心がけています」前のチャプターでも述べたように、つらいことがあっても取り乱さないのは、苦しみを否定することにも、傷を負わないという意味にもならない。
ヘザーは決して、「恋人が去ってくれて最高!」と言いたいのではない。
自分の身に起きたことに正面から向きあう、それが取り乱さないということなのだ。
眠れずに不安や孤独と戦う日々が続いているときは、助けが必要な状態だと認め、助けを求める勇気を出すことが、取り乱さないということになる。
愛する人が去るというつらい経験をしたヘザーだが、それによってアイデンティティが成長した、と彼女は語る。
「失いたくない何かを失っても、私は気丈にふるまいながら立ち直ることができるのだと学びました」得たものは大きい。
★1西洋文化(アメリカやヨーロッパ諸国)では、抽象的な言葉(正直者、賢いなど)で自分を描写する傾向が高いが、アジア文化(中国、韓国、インド)では、立場や他者との関係を表す言葉(学生、兄など)を使って描写する傾向が高い。
自分に対する認識や性格における文化的な違いについては以下を参照。
IncheolChoi,RichardE.Nisbett,andAraNorenzayan,“CausalAttributionAcrossCultures:VariationandUniversality,”PsychologicalBulletin125(1)(1999):4763.★2人は身近にいる人に照らして自分を測ると最初に提唱したレオン・フェスティンジャーは、これを「社会比較理論(socialcomparisontheory)」と名づけた。
詳しくは以下を参照。
LeonFestinger,“ATheoryofSocialComparisonProcesses,”HumanRelations7(1954):11740.★3これは、同僚のジェフリー・カーとの会話で彼が発言した意見である。
★4CarolS.Dweck,Mindset:TheNewPsychologyofSuccess(BallantineBooks,2006),3.★5Ibid.,4.★6Ibid.★7Dweck,Mindset,11.ジョイス・アーリンジャーと実施した調査について語られている。
★8JenniferA.Mangels,BradyButterfield,JustinLamb,CatherineGood,andCarolS.Dweck,“WhyDoBeliefsAboutIntelligenceInfluenceLearningSuccess?ASocialCognitiveNeuroscienceModel,”SocCognAffectNeurosci1(2)(September2006):7586.★9CarolDweck,“Brainology:TransformingStudents’MotivationtoLearn,”NAISIndependentSchoolsMagazine,Winter2008,www.nais.org/MagazinesNewsletters/ISMagazine/Pages/Brainology.aspx,accessedSeptember18,2013.この記事には、困難や失敗に対する固定マインドおよび成長マインドの反応についての有益な調査が掲載されている。
★10このチャートはドウェックのチャートを応用したものである。
以下を参照。
Dweck,Mindset,245.★11査定と私見を区別する力は、固定マインドの人が自らの能力を正しく評価できないことに関係しているかもしれない。
成長マインドの人のほうが自らの能力を正しく評価できるのは、自分の現状に対して個人的な判断のようなものを下さないからではないだろうか。
現在の自分の状況は、この先続く長い旅路で立ちどまったほんの瞬間にすぎない。
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