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第5章パワハラのパターンI――労働契約を結ぶ際の嫌がらせ

第5章パワハラのパターンI――労働契約を結ぶ際の嫌がらせ

A社事件:労働契約を結ぶ際のトラブルパワハラは、通常、職場における人間関係のトラブルが原因で発生する。他方、労働契約を結ぶ際にパワハラの被害に遭ったという事例はあまり聞かない。だが、以前、私に寄せられた契約締結をめぐるトラブル事例があった。これを通じて、契約締結の際の問題を見てみたい。事例は、A社事件である。A社は、スペースデザインやグラフィックデザインの企画、設計、施工、及び販売などを行う株式会社である。具体的には、スクリーン印刷と呼ばれるものを手がけ、車両のマーキングや店舗・商業空間のサイン・グラフィックにおいて特殊印刷技術を活用し、企画から印刷、施工までを行っている。従業員数は、100名ほどであった。Yさんは、A社に採用される際にトラブルに巻き込まれた。Yさんは当時、54歳。妻と二人の子どもを抱え、一家の大黒柱として主たる生計を担っていた。A社への転職を考えていた当時は別の会社で働いていたが、その職場はコンプライアンスが守られていない劣悪な労働環境下にあった。また、大学受験、高校進学を控えた子どもたちの学費の問題を抱えていたため、できるだけ早い時期に、より収入の高い会社での就労を考えていた。そこで、それまでのキャリアを生かす形での転職を考え、管理部門、経営企画部門で責任のある地位に就くことを求めて就職活動を行っていた。平成20年10月下旬、Yさんは、W社という人材紹介会社を通じてA社を知り、平成20年12月29日、W社のセッティングのもと、A社のN常務取締役と面談した。Yさんは、事前に聞いていたA社の事業内容、募集していた職種、労働条件の内容からして、この会社であれば自分の希望と合致することから、A社に入社したいと考えている意向をN常務に伝えた。N常務も、自分は役員としてだけではなく、実務面でも多忙を極めているので、自分をサポートする役回りの業務をして欲しいと述べた。また、Yさんは、「お金のかかる子どもがいるので、早々に就労したい」とN常務に伝えた。年収についても、「月100万円の1200万円ではどうか」との提示を受け、満足できる金額であったため、了承することをN常務に伝えた。N常務から、「形だけのことになりますが、会長とお会いしていただく必要があります。後日、面会をセッティングします」との説明があったので、Yさんはそれを了承した。面談終了時には、N常務がYさんに「よろしく」と握手を求め、Yさんもそれに応じた。その後、YさんはW社に対して、A社との話が決まったので早く働き始めたい、早急に話を進めて欲しいと要請した。W社からは、新年早々の入社は無理だが、2月入社で進めていくとの返事があった。そこでYさんは転職できることを確信し、前職の会社を退職した。

仕事を開始できないところが、平成21年になっても仕事開始の目処は立たなかった。入社条件の、A社の会長との面会すらなかなか実現しない。YさんはW社に対して毎週、「どうなっているのか」と連絡し続けた。就労開始予定日の2月1日が過ぎた。2月6日になってW社を訪ねたところ、A社としてはYさんをなんとか2月に入社させたいと考えていたが、2月は決算期なのでバタバタしていて、社員を新たに迎え入れるのは難しいと言われた。A社としては、新年度の3月から迎え入れたい、こちらとしてもその方向で対応するという趣旨の話があった。これにひとまず安心したYさんだったが、3月が近づいても会長と面会するという話がない。Yさんは、本当に3月から就労を開始できるのか不安を覚え始めた。その頃、知人から、年収1000万円以上を約束する就職口の紹介もあったため、A社で就労開始ができなければ別の就職口を検討しなければならないと考えていた。そこで2月17日、Yさんは再びW社を訪れ、この事情を伝えた。この際、W社の担当者は、「A社であれば長く勤められるし、現在の社会情勢から見て条件が最も良いので、もう少し待って欲しい。YさんはすでにN常務と面会もしていて、入社自体に何の問題もない。会長との面談という社内儀式が残っているだけだ。近く面談を設定するので、スケジュールを空けておいて欲しい」と話した。Yさんとしてもそこまで言われるのであればと考え、知人の紹介を断り、スケジュールを空けて会長との面談がいつセッティングされてもいいように備えていた。しかし、W社からも、A社からも一向に連絡がないまま、2月が経過していった。

いつまでたっても話が進まないその後も同様の事態が続いた。Yさんは、3月16日、4月10日、24日とW社を訪ねたが、W社の回答は、3月の間は4月から、4月の間は5月から働けるようにA社と調整中というだけで、とにかく待って欲しいという一点張りだった。5月1日、Yさんが再度W社を訪ねたところ、A社のN常務と面会することになった。N常務はYさんに対し、「社内体制を整備するのに時間がかかっている。年数千万円もの経費がかかるコンサルティング会社との契約を整理したので、月100万円の支払いは可能だ。だが、Yさんの実力は未知数なので、コンサルタント会社との契約同様、最初は業務委託という形での就労開始ということでもいいか」とYさんに尋ねた。Yさんは、「初めてお会いしたときに話したように、私には、今、経済的な余裕がありません。新年度になって子どもの学費の支払いなどもあるため、早く仕事して収入を得たい。雇用形態にはこだわらない」と回答した。するとN常務は、「了解した。それでは早々に社内で調整する。近々、社内を見に来てもらいたい」と回答した。N常務は面談終了時、12月のときと同様、「よろしく頼む」とYさんに握手を求めたので、Yさんもこれに応じた。5月21日、YさんはA社を訪問した。会長は不在で面会することはできなかったが、N常務は会社を案内し、事業、業務についてYさんに説明した。しかし、6月になっても就労できない状況が続いた。Yさんは、6月4日と18日に、早急に対応して欲しいとW社に依頼したが、W社は、現在、A社は社内で調整中である、もう少し待って欲しいという回答を繰り返すだけだった。7月1日になり、Yさんは、N常務と再び面会した。N常務は、「長く待たせて本当に申し訳ない」とYさんに謝罪した。Yさんは、「半年間も収入がなく、経済的に苦しい状況にある。早々に仕事をさせてもらい、収入を得たい」と訴えた。N常務は、「了解した」と回答して、A社で考えている新事業について説明を行った。その上で、N常務は、「9月1日付で新会社を設立することになっている。早々に仕事をしてもらうが、9月1日までは業務委託という形で対応して欲しい。印刷業界は収入水準が低いので、それまでは我慢して欲しい。新会社になれば相当額を支払うことが可能だ」とYさんに伝えた。Yさんは、「以前にも言った通り、雇用形態にはこだわらない。早く仕事をして、収入を得ることが最優先だ。仕事をスタートさせるまでに何か勉強しておくことはあるか?」と尋ねた。するとN常務は、「印刷業界と省エネ法について勉強しておいてもらいたい」と回答した。面談終了時、N常務はまたしても、「よろしく頼む。頼りにしているから」とYさんに握手を求めた。Yさんもこれに応じた。

しかし、その後も状況は変わらなかった。Yさんは、8月3日、11日、19日、25日とW社に連絡を入れるが、A社で就労できる見通しは立たなかった。9月11日、YさんはW社を訪ねた。この頃には、温厚なYさんも、さすがに怒り心頭に発していた。Yさんは、「遅くとも3月から就労を開始できるはずだったが、どういうことか」とW社に詰め寄った。これに対してW社は、「3月に入社していたはずという認識は同じだ。条件面でも月100万円と聞いていた。N常務の不誠実さが原因だ」と、開き直って言った。この後、N常務から電話があり、Yさんは9月26日にN常務と面会することになった。

9月26日の会話YさんはN常務に対し、就労開始を再三求めたにもかかわらず、いつまでも働けないというのはどういうことだ。経済的な損失が大きくなって生活費の捻出のためにクレジットを利用したが、支払いが滞ってカードを止められてしまった。これによって経済的信用も失った。この間、なぜ就労を認めてこなかったのか、そのことについてきちんとした説明がなければ納得できないと告げた。N常務は、「あのね、待たせたのはね、責任はどこにあるかというと、おそらく、やっぱり私とA社なんですよ」とその責任を認めた。その後、YさんとN常務との間では次の会話があった。この会話は、ICレコーダーでの録音をもとに再構成している。Yさん会社事情というのはちょっと置いておいたとしても、採用するかしないかじゃないですか、問題は。今は採用する時期じゃないというふうに一言きちんと説明していただいていれば、救われたんだと思います、私は。N常務それは、私が謝らなくてはならないことなんだと思う。Yさん別に謝っていただいても仕方ないっていうか、あの、正直言って、私、税金払えてないんです。家のローンも払えてないんです。N常務家のですか?Yさん管理費も払えてないんです。W社には、しつこいほど毎週のようにメールを送っていました。すると、まずはNさんと話し、翌週に会長と会えるようにするから1週間スケジュールを空けておいてくれと言われるんですよ。そう言われて、スケジュールを空けてずっと待っていたんですよ、私。これだと、身動き取れないんですよ、月曜から金曜まで。水曜日、木曜日くらいになってまたメールを送るんですよ。今週のA社の会長さんとの面談はどうなりましたか?って。すると、Nさんからは連絡がありませんと言われるんですよ。また話が流れたのかと思って、一体、どうなっているんですか?と聞くと、連絡が取れ次第、ご報告しますからと言われて。でも、その連絡が来ないんですよ、私のところには。このような会話の後、N常務は、「前向きに考えよう」と語り、会長と引き合わせると話した。その際、N常務は見すごすことのできないことを言った。N常務うちでは、二人ほど完全に自己破産している人でも入れていますよ。会長が温情的というか、性格的にもすばらしい人ですから。だから別に……。Yさんそれって、私に自己破産しろって言ってるんですか?N常務いやいや、そういうことじゃない。

労働審判の申し立てN常務は、Yさんの入社を引き延ばすだけでなく、そのことによってYさんが受けた経済的打撃について省みようとはしなかった。その上、破産までほのめかした。ただ「前向きに考えよう」とだけしか話さないN常務の無責任な態度にあきれ果て、Yさんはこのような会社で就労したとしても将来の苦労は耐えないだけだろうと判断し、A社での就労を断念することとした。Yさんから相談を受けた私は、10月9日、労働契約解約の申し出をA社に対し通告した。しかし、A社からは何の回答もなかった。そこで、私はYさんと協議し、労働審判の申し立てをすることにした。Yさんの受けた経済的打撃を考えると、それを早期に回収する必要があったからだ。本来であれば、間に入っていたW社も訴えることを考えたが、労働審判は個別労使紛争の解決という枠組みがあるため、共同被告という申し立ては考えにくい。そこで、A社との間で労働審判の申し立てをすることとした。申し立て内容は、労働契約が成立したにもかかわらず、いつまでも就労させないA社にはYさんに賃金を支払う義務があるという理由で賃金請求、それが駄目なら損害賠償請求、というものだった。

賃金請求の法的構成――労働契約の成立とは賃金請求は、次のように組み立てた。平成20年12月29日、W社のセッティングで、A社のN常務とYさんは面会した。この面会は採用面接である。その席上、N常務は前述のように、業務内容、賃金といった具体的な労働条件をYさんに示している。YさんはA社で働く意思のあることを伝えたところ、N常務は形だけのこととして会長との面会を行う必要があると回答し、よろしくと握手を求めている。以上の事実に照らせば、この面会の席でYさんは労働契約申し込みの意思表示を行い、N常務は承諾の意思表示を行ったといえる。したがって、この時点で労働契約は成立したと考えられる。労働契約の開始時期については、最終的には3月1日からというA社の意向が、W社を通じて伝えられている。ゆえに、契約の始期は3月1日となる。労働契約とは、相手に労務を提供する意思と、その労務提供の対価として賃金を支払う意思が合致することで成立する契約である(労働契約法第6条)。極端な話、労働契約を結ぶ時点では、どんな仕事をするとか、賃金は具体的にいくらとか、そういうことは決まっていなくてもよい。ただ、「働きます」ということと、「賃金を支払います」という点での意思が合致していれば、労働契約は成立したとみなされる。この法的な考え方に基づき、私は、平成20年12月29日の最初の面会で、YさんとA社との労働契約が成立したとみなし、3月以降は労務の提供と賃金支払いの必要が発生したにもかかわらず、A社は自らの都合でYさんに労務させなかったと組み立てた。Yさんの労務提供を自らの都合で受けなかった場合、A社は賃金支払い義務は免れない(民法第536条2項)。したがって、A社はYさんに対し、3月以降の賃金支払い義務があるとして、賃金請求を行った。しかし、ここには大きな問題があった。先に記した、平成21年9月26日に行われた面会の様子を読むと、Yさんは、入社したのに働かせてもらえていないという前提に立って話してはいない。入社させてもらえるはずだったのに入社させてもらえなかったのはどういうことか、という前提に立って話している。労働契約が成立しているためには、入社して労務提供を行う意思の存在が必要だが、Yさんにはその意思がない。この点から、賃金請求は苦しい主張だと私は考えていた。また、Yさんの言うことに噓はないとは思っていたが、平成20年12月29日の面談を証明する手段もなかった。そこで、私としては、この賃金請求はあくまで第一段として、本丸は、第二段の損害賠償請求のほうを考えていた。もちろん、賃金請求されて当然のことをA社は行っている。だが、もし賃金請求が認められなかったとしても、A社は何らかの責任を取るべきだろう。そういう方向に持っていくためのいわば布石として、最初に賃金請求を位置づけたの

だった。案の定、労働審判でA社は、そもそも労働契約は成立していないと主張した。平成20年12月29日にN常務がYさんに面会したのは事実であるが、N常務は人事採用の権限を持っておらず、また、Yさんが主張しているような事実もなかった、だから、A社はYさんに働いてくださいという労務提供の申し出をした事実はないという反論だった。想定の範囲内の反論だった。

損害賠償請求の法的構成損害賠償請求は、次のように組み立てた。A社とW社は、労働契約に基づく就労開始が間近に行われるかのようにYさんに説明し続けたにもかかわらず、Yさんの就労を阻んだ。その間、Yさんは他社に就職を求めることもできず、収入を得られないまま生活費用の捻出のために借財を重ねることになった。その結果、クレジットカード会社への支払いも滞るようになり、Yさんは長年築き上げてきた経済的信用を失った。このような状況下で、大学受験や高校進学を控えた子どもや妻との関係など、家庭内でもきしみが生じ、経済的信用を喪失しただけでなく、家族との円満な関係すら失うかもしれないという著しい精神的苦痛を被った。これは、A社とW社の共同不法行為であり、両社はYさんに対して賠償義務がある。その被害は、少なく見積もっても500万円である。労働契約が成立していないとみなされれば、労働契約成立のもとで認められる、就業環境調整保持義務違反といった債務不履行構成を活用できない。その場合には、交通事故と同じ、不法行為という構成を活用するしかなかった。賠償金額を500万円としたのは、Yさんは月額100万円を見越して3月から働けると考えていた点にある。働くのが無理だとはっきりしたのが9月26日、A社での就労を断念したのが10月9日。経済的損益が生じた期間は3月から9月までの、おおよそ7ヶ月である。つまり、金銭的打撃を単純計算すると、100万×7=700万円となる。しかし、700万円というのは、裁判所で認められるとは思えないほど高い。だが、Yさんの気持ちのこともある。その気持ちを最大に斟酌した結果、500万円ということになった。

「契約締結上の過失」法律学では、契約締結段階で、一方の契約当事者が他方の契約当事者の行動によって不測の損害を被ってしまった場合、契約上の信義則を根拠に、他方の当事者に賠償義務を課すという考え方がある。これは、「契約締結上の過失」と呼ばれる議論である。契約とは、当事者相互の信頼の基礎の上に成り立つものである。契約当事者は、相互に信頼し合い、その信頼に応えるように行動しなければならない。こうした考え方を信義誠実の原則、略して「信義則」と呼んでいる。民事法の基礎法令である民法の、第1条2項が「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない」と定めているのは、この考え方の表れである。この信義則は、契約関係を支配する指導原則として位置づけられ、契約を締結する段階で相手の信頼を裏切るような行動を取った結果、相手に不測の損害を与えたなら、たとえ契約が実際に成立していなくとも、契約関係を支配する指導原則である信義則を根拠に賠償責任を認めるべきという考え方が取られる。本件の場合も、この見解に立って賠償責任を求めることは可能であろう。ただ、これは法律にはっきりと書かれている考え方ではなく、先に紹介した不法行為構成の主張との区別もつけづらい。争点を増やせば労働審判での無用な混乱を招くだけと考えて、この考え方に基づく主張は実際の労働審判ではあえて行わなかった。ここで紹介したのは、こういう考え方もあるということを知ってもらいたかったからだ。

A社の反論と労働審判の結末さて、A社は、平成21年5月や7月にN常務がYさんと面会したことは認めるものの、その後9月に至るまで、Yさんに労働契約成立の期待を持たせる言動をしたことはないと、Yさんの主張する事実関係を否定し、不法行為にもならないと反論してきた。しかし、9月26日の会話は録音記録されており、この証拠が判断を大きく左右した。N常務がYさんを採用する方向で話を進めながら、自社の都合で引き延ばしていたことを半ば認めていた言動だ。労働審判では、裁判官が、第1回審判期日の段階で、「労働契約が成立したのだから、賃金請求義務が発生するという主張は、証拠やYさんの言動から考えても認められないと思う。ただ、Yさんの置かれた状況は理解できる。就労できたとしても、実際に月100万円が支払われたかどうかについては疑問も残るので、仮に月50万円とし、3月から9月までの総額を考えれば最大350万円となる。マックスこれくらいの金額の賠償ということでA社に提案するのはどうか」と話した。私としては、500万円から多少減額されることはやむを得ないと想定していたので、「ええ、それでお願いできますか」と話した。ところが、A社は予想以上に抵抗した。特に、この事態に至った半分の責任はW社にあるではないかと強調し、半額以上の責任を負うことを頑なに拒否した。だが、裁判官の粘り強い説得によって、第3回審判でようやくA社はYさんの納得する金額の支払いに同意した。こうして、労働審判は調停成立ということで終結した。

モラルの崩壊このような、労働契約締結に関する事件を担当したのはこれが初めてだった。Yさんが事態をもう少し早く見切っていれば、ここまでの大事には至らなかったかもしれない。だが、Yさんを責めるのは酷というものだろう。A社が採用の期待を持たせるような言動をYさんに繰り返してきたのは紛れもない事実なのだから。ちなみに、A社が採用になかなか踏み切らなかった理由は今も不明である。ともあれ、労働契約の成立現場は、人と人との社会的接触が開始される場面である。この場面では、お互いに節度を持って、相手の尊厳や法益を侵害しないような配慮をするのは当然のことである。その点の不履行が責任追及の理由になった。これは本来、労働契約上の義務の話というよりは、社会人としてのルールやモラルの問題だろう。しかし、そのモラルが壊れ始め、しかも話し合いでも解決に至らず、トラブルを裁判所で議論しなければならなくなっているのが現代という時代なのだろうか。

採用面接における問題社会人としてのルールやモラルの問題を考える素材に、採用面接の問題がある。採用面接の場で、面接官が精神障害の既往歴や治療の有無を聞く、私的な趣味や嗜好にまで立ち入って聞くという話をよく耳にする。こうしたことに問題はないのだろうか。まず、採用面接と精神障害に関する質問について考えてみよう。三菱樹脂事件(最高裁昭和48年12月12日判決)では、企業における採用の自由を認めており、企業が採用応募者の精神障害について問い、その結果を踏まえて採否を検討することは違法にはあたらないとしている。現に、「企業が採用にあたり、労務提供を行い得る一定の身体的条件、能力を有するかを確認する目的で応募者に対する健康診断を行うことは、予定される労務提供の内容に応じて、その必要性を肯定できる」と判断した裁判例もある(B金融公庫〈B型肝炎ウイルス感染検査〉事件、東京地裁平成15年6月20日判決)。私は、一般論としてこうした考え方があることに反対はしないが、この裁判例の考え方は厳格に解釈されるべきだと考えている。つまり、企業における採用面接は、あくまで求める労務遂行能力があるか否かを審査するために行われるものであり、労務遂行能力との関連がある場合にのみ、そのような類の質問の合理性は肯定されるということだ。そうでなければ、精神障害に関する質問は、応募者のプライヴァシー権を侵害するものとして不法行為となり、賠償の対象となると考えるべきものである。不必要な調査をすることが不法行為に該当することは、先の裁判例でも言及している。こうした考え方に立てば、精神障害の既往歴を聞くことは、基本的に正当化されるものではない。既往歴とは、すでに治療が終了したものを指す。終了したということは治癒したということだから、現在の労務遂行能力とは基本的に何の関係もないことになる。次に、採用面接における、私的な趣味や嗜好にまで立ち入る質問について考えてみよう。これは、例えば女性に対してする、「彼氏はいるのか」「結婚の予定はあるか」「子どもを作る予定はあるか」「実家住まいか」といった質問のことである。こういった質問は、労務遂行能力とどの程度の関連性があるのか。関連性がなければ、無闇に人の嗜好などについて立ち入って聞くことはプライヴァシー権侵害の不法行為となる。それ以前に、女性に結婚や出産の予定を聞く、実家住まいか否かを聞くなどはもっての外だ。もし、結婚や出産、実家住まいか否かが労務遂行能力に影響があるととらえているのであれば、それ自体が極めて問題のある見解である。面接の場で、いわば不利な立場に置かれている者にとっては、不愉快な思いをしてもいちいち腹を立てていられないかもしれない。しかし、そうした面接が繰り返されることで、自信を喪失し、有為な人材が社会に貢献する機会を失うことも出てくる。面接を行う

側にしても、応募者へ嫌がらせしても得られるものは何もない。いずれにしても、社会にとって無益でしかないのだ。私は、これは、採用する企業の側がマナーとして心得ておくべきことではないかと考えている。

 

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