第11章問題集:あなたならどう動くかここまでパワハラ防止法のことを中心にしながら、パワハラの対応策について述べてきた。最終章にあたる本章では、いくつかのケースについて、それがパワハラにあたるかどうか、またどのように対処すればよいか、ご自身の問題として考えてみていただきたい。言わばパワハラ対応の問題集である。ケース1【なぜオレがパワハラ上司に】管理職のあなたは、部下のAに、あすの取引先でのプレゼンテーションのために急いで資料を作るように言った。Aは資料を作って持ってきたが、とても使えるようなものではなかった。Aには日ごろから指導はしているが、なかなか育ってくれない。あなたはAに、「またこれか。すぐに書き直しだ」と言った。大声で怒鳴ったわけではない。しかしAはとても不満そうだった。しばらくして、あなたがパワハラ上司と噂されていることが耳に入った。あなたは、Aが噂を立てたと思ったが根拠はない。こんなことでパワハラ上司と言われるのは納得できない。しかしどうやって噂を打ち消してよいかわからない。上司としてしっかり部下を育てていてもこのようなことが起こる。もちろんあなたの言動はパワハラにはならない。Aがあなたのことをパワハラ上司と噂を流しているとすると、Aのしたことがハラスメントになる。この場合に噂だからと放置するのはよくない。何らかのアクションを起こした方がよい。ただその場合にはAから直接話を聞くことから始めるのは得策ではない。このような噂の裏付けを取る際には当事者からではなく周辺から聞き取るのがよい。他の部下からその噂を誰から聞いたかを聞く。このような裏付けの取り方を「外堀法」と言う。そのときに他の部下には、自分の言動を説明してパワハラにならないことを説明して噂を打ち消すようにする。次にその聞き取り結果に基づいて、Aから話を聞く。Aは否定する可能性が高いが、あなたはAに、あなたの言動はパワハラではなく、もしAが噂を立てたとするとハラスメントになることを伝えて釘を刺しておく必要がある。最も適切でない方法は、いきなりAを呼んで、Aが噂を立てたと断定して叱りつけることである。このようなことをすると、その叱責がパワハラになってしまう。ケース2【一生懸命指導しているのに】あなたは社員が30人ほどの部品製造業の会社で現場の工場を任されている。数年前に入
ってきた若い社員のAにいろいろと教えているが、なかなか仕事を覚えないので苦労している。ある日、あなたはAにつきっきりで指導した。ところがAが横を向いたままやる気を見せないので、「何だその態度は!やる気あるのか」とつい大声を出してしまった。Aはそのまま帰ってしまった。翌日からAは会社に来なくなった。指導に熱心な余りに大声を出してしまったケースである。日ごろから指導していたにもかかわらず、業務に必要な技量が不足している場合に、上司として厳しく指導をすることに問題はない。では、あなたが怒鳴ったことがパワハラの第2要件(業務の適正な範囲を超える)に当たるだろうか。この場合、大声で怒鳴ったとしても、それはAが指導に全く従おうとしなかったことによるもので、その言動も一回だけであれば、この第2要件に該当するとは言えないだろう。ただ、このケースがパワハラにならないとしても、Aが会社に来ないことに対しては手を尽くしてAの状態を知る必要がある。この点はパワハラになるかどうかとは別で、社員のケアの問題である。ケース3【グレーの場合】あなたは小さな食品製造会社の主任をしている。その日、たくさんの配達注文が来たので、部下のAに配達を指示した。Aは、「ちょっと今日、体調がよくないんですが」と言ったが、どうしても配達が必要だったので、「無理なら仕方ないけど、どうだろう」と言ったところ、Aは「わかりました」と言って配達に行った。Aは何とか配り終えたが、次の日、「体の具合が悪くなりました。もうやめるかもしれません」と連絡をしてきて、その日から会社に来なくなった。自分の言動がはっきり黒とは思えないし、かといって白とも言い切れないグレーのときにどうするか。第8章でグレーの判断基準をまとめたが、このケースはどうだろう。ポイントは、Aが体調不良を伝えたのに結果として配達に行かせたことで黒となるか、無理なら配達に行かなくてもよいと言ったことで白となるかというところである。ケースによるが、そのときAが見るからに体調が悪そうだったのなら、たとえAが「わかりました」と言ったとしても、黒になる可能性が高い。あなたとしてはすぐにAの状況を聞き、体調を十分に確認しなかったことを謝罪するなど、人間関係の修復を考えて十分なフォローをすべきだろう。直接の連絡が難しい場合は、ふだんからAが信頼している先輩や同僚からAの状況を聞き、Aとのコミュニケーションをとるのがよいだろう。この場合、いずれ出てくるだろうとそのままにしておくのはよくない。最もしてはならないのは、あなたから「早く出てこい」としつこく電話やメールをすることである。このようなことをするとそのことで黒になる。ケース4【無意識パワハラ】
あなたは小さな町工場を経営している。あるとき、親会社から急に部品の発注があった。あすまでに作ってほしいという。あなたはとても無理な注文だと思ったが、断わると後がこわいので引き受けた。あなたが製造担当のAに頼んだところ、Aは二つ返事で、「わかりました。やります」と言って引き受けてくれた。Aは徹夜で作業し、部品を届けることができた。しかしAはこの作業のあと体調を崩し、入院するまでになった。Aの家族が、あなたがあんな無理なことをやらせたのはパワハラだと言ってきた。このケースは部下がやると言ってくれたので、あなたにはパワハラになるかもしれないという意識はなかった。しかし結果としては、Aに身体的・精神的苦痛を与えて勤務ができない状況にしてしまった。あなたにはパワハラの責任があるだろうか。ポイントは、あなたがこの部品の製造をAに指示したときに、Aは徹夜でやらなくてはならないことと、そのことで体調悪化を招くであろうとあなたが認識すべきだったかどうかである。経営者としては、その認識をすべきだっただろう。となるとパワハラの可能性が高い。この場合、Aが、あなたの指示を二つ返事で引き受けたとしても、そのことでパワハラが否定されることにはならないだろう。あなたとしては、Aの回復のためにできるだけのことをすべきである。このようなとき、Aの家族に、Aは断らなかったのでパワハラではありません、と反論するのはトラブルの原因になる。ケース5【内容証明が来た】あなたは大きな会社の管理職である。部下のAが仕事でいつもミスをするので一度しっかり教育しなければと思い、あるときAを会議室に呼んで注意することにした。あなたがAにミスについて指摘したところAがいろいろ口答えをしたので、つい大声になり叱責が2時間以上になった。翌日からAは出社しなくなった。数週間経ったころ、Aの依頼を受けたという弁護士から、Aはあなたの過度の叱責によりPTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹患したとして損害賠償の請求と傷害罪で刑事告訴するとの内容証明が届いた。弁護士から内容証明が来たときにはどんな冷静な人物でも動揺するか憤慨する。ましてや刑事告訴をするなどと書いてあれば、オレを罪人扱いするのかと怒り出す人が多いだろう。ただここは冷静に対応しなければならない。孤軍奮闘は避けなければいけない。まず会社の人事担当に相談することから始める。会社も責任を問われる可能性があるから、会社に情報を伝えることはかまわない。ポイントはもちろんパワハラになるかどうかである。Aはあなたの言動を録音している可能性がある。またPTSDの診断書を持っている可能性も高い。事実関係からすると、2時間にわたり大声で叱責することはパワハラの可能性が高い。AはPTSDに罹患しているということなので傷害罪が成立する余地もある。もちろん、発端はAのミスではある。Aの口答えで叱責が長くなったという事情もあった。しかし、PTSDで休職しているという事実は重い。
できれば、自らも弁護士に依頼し、Aの弁護士と慰謝料等について早急に話し合ってもらうべきであろう。ケース6【パワハラを見たとき】あなたは、営業関係の会社の課長である。あなたは、隣の課のA課長がいつも部下に、「お前なんか、もうやめちまえ!」「この役立たず!」などと怒鳴り散らしているのを同じフロアで聞いていて、このままではいけないと思っている。しかしA課長はやり手で、そのおかげで会社の売り上げが伸びているので誰も注意しない。もし自分がA課長のことを会社に訴え出てもどうせもみ消されるし、へたをしたら自分が申し出たことがA課長に知れてどんな仕返しをされるかわからない。しかしあなたは、この課長がこれから部長になり役員にまでなるかもしれないと思うと不安でしかたない。やり手の管理職のパワハラに対して、トップはわかっていても何もしないというケースは少なくない。このような管理職の日常的な暴言を見聞きすることは、そのことで精神的苦痛を受け就業環境が害されるので、あなたも被害者と言える。あなたとしては、隣の課の部下が日常的に暴言を受けていることをまずトップに伝えることから始めるのがよいだろう。管理職の中で同じ考えを持っている者と一緒ならもっとよい。トップはこの課長がパワハラをしていることをわかっていても具体的な言動までは知らないことが多い。この企業風土を変えるためにはトップを説得することが不可欠である。証拠として被害者の部下にアプローチして被害内容を聞き取ることも必要である。ただ部下の安全を考えて、部下からの聞き取り内容をトップに伝えることはタイミングを見た方がよいだろう。最も避けるべきことは見て見ぬふりをすることである。いじめでも傍観者の存在が被害を拡大させるからである。ケース7【カスタマー・パワハラ】あなたは小さな飲食店を経営している。あるときパートの店員が、飲食にきた客から「料理の上に髪の毛が乗っていた。お前の髪の毛だろう」と大声で怒鳴られた。あなたはすぐに客のところに行って謝罪した。その店員はキャップをかぶっていて髪の毛が落ちるとは考えられなかった。しかし、新しく作り直すと言ってもその客は納得せず、「この店員にわび状を書かせろ。書かないとネットで言いふらす」と言っている。あなたはこの客にどう対応すればよいだろうか。典型的な顧客からのカスタマー・パワハラである。カスタマー・パワハラの場合は、その顧客が求めていることと、自分の方でできることを初めの段階でしっかり確定しておくことが必要である。この場合はその髪の毛が誰のものかはそれこそ鑑定をしないとわからない。しかし、そこまでのことはもちろんできないし、必要ではない。店主としてできることは、新しく料理を作ることと、過失の有無は別として、解決のためにその代金は取らないというのがぎ
りぎりのところだろう。ところが、この客はわび状まで書け、書かないとネットで言いふらすと言っている。これは脅迫罪か強要未遂罪という犯罪行為に当たり得る。したがって店主としては、この要求をはっきり断るべきである。また犯罪なので、この客がしつこく要求してきたときは警察に連絡することも必要である。できればこの客との会話を録音しておくのがよい。このようなクレームのあとの店員へのフォローも忘れてはならない。このような経験は、メンタルヘルスの不調につながるからである。ケース8【最悪の結果】あなたの会社のA部長は、やり手で通っている。昇進も早い。今度新しくその部の課長に着任したのはAと同期のBであった。Bはそれまで、その部の仕事の経験がない。Aは、まだ仕事に慣れないBに次々と仕事を与えたが、Bはうまくできない。Aは、その都度Bを厳しく叱責した。Bは家での家族との会話がなくなった。会社でもうつむいていることが多くなった。周囲が心配になった矢先、Bは自殺した。それは課長に着任してからわずか2か月足らずのことだった。これは名古屋高裁2010年(平成22年)5月21日判決をベースにしたものである。このケースでは、55歳の市役所の課長が、部長からのパワハラによって着任後わずか2か月足らずで自殺した。私は研修でこの判決例を必ず取り上げる。このケースは決して他人事ではない。地方公務員の事例であるが、企業でも十分に起こりうるケースだからである。このケースではAがパワハラ部長であることは周知の事実だったという。しかし、みんながこわがって誰も注意ができなかった。そこにB課長が着任したことが悲劇のはじまりだった。ケース6のようにパワハラを見聞きしたのに何もしないと、同じような結果になるかもしれない。A部長について判決ではこう書いてある。少し長いが引用しよう(固有名詞は仮称)。「A部長の部下に対する指導の状況は、○○市役所の本庁内では周知の事実であり、(略)過去にはこのままでは自殺者が出るなどとして人事課に訴え出た職員もいたが、仕事上の能力が特に高く、弁も立ち、上司からも頼りにされていたA部長に対しては、上層部でもものを言える人物がおらず、そのため、A部長の上記指導のあり方が改善されることはなかった」見て見ぬふりをすることがこのような悲劇を生み出すことを常に意識してもらいたい。
現場で役立つ最新パワハラ判決30選ここ1、2年、実務上参考になる判決例が非常に多く出ている。そのいくつかを新しいものから順に挙げて簡単にポイントを示した。パワハラを認めなかったものが挙げられることが少ないので、パワハラを認めたものだけでなく、認めなかったものもできるだけ多く挙げた。両者を読み比べると裁判所の考え方がよくわかるだろう。なお、引用した判決例の事案と判決は、パワハラに関連した部分だけをわかりやすく簡略化したもので、引用として厳密ではないことに留意してもらいたい。1パワハラを認めた判決例①退職勧奨が違法に【事案】総合電機メーカーであるH社でソフトウェア関連の業務を担当していたA課長が、上司のB部長から違法な退職勧奨等のパワハラを受けたとして会社に対し慰謝料100万円を請求した。【判決】BはAとの複数回の個人面談において相当程度、執拗に退職を勧奨した。さらに他の部署の受入れ可能性が低いことや、Aが残るためには、Aが他の従業員のポジションを奪う必要があるなどとAを困惑させる発言をした。またAの業務の水準が劣るなど自尊心をことさら傷付ける言動に及んだ。これらを総合するとBの退職勧奨は違法である。慰謝料は20万円が相当である。(横浜地裁2020年〈令和2年〉3月24日判決・H製作所事件)【ポイント】退職勧奨が違法かどうかは、実務でもその境界線が問題になることが多い。これまで多くの裁判例があるが、この判決のように、退職説得行為そのものは違法ではないが、退職勧奨が本人の意思を不当に抑圧して精神的苦痛を与えたときは違法としている。ポイントは、本人の意思を不当に抑圧したかどうかである。このケースでは個人面談の際の勧奨の態様と内容が不当と判断された。退職勧奨がパワハラとして違法になるかどうかの判断例として参考になる。②部下に対する暴行の慰謝料は【事案】T消防組合の消防士A、Bらが、署長、副署長らから暴行などのパワハラを受けたとして組合に対し慰謝料各10万円を請求した。【判決】Aらが主張するパワハラのうち、副署長が、Aの態度に立腹してAの膝の上に足を置いた行為と、Bが自分に対し盗みの疑いをかけたことに憤慨し、当たらなかったとはいえ空のペットボトルを投げつけて20分以上正座させた行為は、いずれも業務上の指導の範囲を逸脱している。これらの行為の慰謝料はそれぞれ3万円が相当である。(高知地裁
2020年〈令和2年〉3月13日判決・T消防組合事件)【ポイント】パワハラと認定された行為は、上司による部下に対する暴行である。部下の膝の上に足を置いた行為について、上司はスキンシップのつもりだと反論したが、裁判所は認めなかった。また空のペットボトルを投げつけたり、正座をさせた行為について裁判所は、上司に盗みの疑いをかけた部下に責められる面がなかったとは言えないが、上司の行為はパワハラになると認定している。上司が部下に対し感情のコントロールを失ったことから起きたケースである。③手帳の記載に信用性があるか【事案】住宅建築請負会社B社に社長室次長として入社し、その後その親会社C社に転じたAが、B、C両社の代表取締役Dから約1年8か月にわたり、「役立たず」「死んだ方がよい」「辞めろ」などと言われたことによりうつ病になったとしてB、C両社に対し慰謝料520万円を請求した。【判決】AがDから受けた暴言を毎日書き留めていたという手帳の記載内容は、すべてを鵜呑みにはできないものの具体性、迫真性があり、筆記具の種類が数種にわたっていること等から信用性がある。Dの言動はパワハラに該当しDは不法行為責任を負う。Dの言動は代表取締役としてのものなのでB、C両社も連帯して責任を負う。慰謝料額は100万円が相当である。(宇都宮地裁2020年〈令和2年〉2月19日判決)【ポイント】パワハラの言動の認定について、被害者の手帳の記載内容を重視して認定の証拠にした判決例である。この手帳にはどのような暴言を受けたかが日々詳しく記載されていた。「全身の血が湧きあがるような感覚に襲われ、もうダメかなって感じだった。社長の怒鳴り声が耳鳴りとなって聞こえる」などの記載内容が具体性、迫真性があると認定された。筆記具の種類が違うことも日々書き入れたことの裏付けとされている。パワハラの被害認定に、日記的に詳細に記載した手帳等の証拠価値が高いことを示す例であり、実務で非常に参考になる。日記が提出されたが、日付と出来事が一致しないなど信用性に疑問があるとされたものとして、東京地裁2018年(平成30年)3月19日判決(S製薬事件)がある。④社員に配付した文書が名誉毀損に【事案】不動産の売買、仲介等を業務とするB社の営業部長Aが、親会社の社長Cが社員に配付した文書によって名誉が毀損されたとして慰謝料等150万円を請求した。【判決】C社長が配付した文書によりAの社会的評価が低下した。配付の違法性阻却事由は見当たらない。慰謝料は10万円が相当である。(東京地裁2019年〈令和元年〉12月17日判決)【ポイント】C社長が配付した文書には、Aに脱税や犯罪行為を行った疑いがあるかのような記載があった。裁判所は、Aがそのような罪を犯したと疑わせる事情はないから名誉毀損になると判断した。このような配付文書以外にも全社員に送信したメールが名誉毀損に当たるというケースは少なくない。特に犯罪にかかわったといった内容は明確な根拠を持ったものでなければ原則的に名誉毀損に当たるので十分に注意した方がよい。
⑤パワハラをした社員への訓戒処分は相当【事案】T税理士法人の人事部の課長Aが部下Bにパワハラをしたとして訓戒処分を受けたことに対して、パワハラの事実を争い、慰謝料200万円を請求した。【判決】Aは部下Bにパワハラをしたことが認められるので訓戒は相当である。慰謝料請求は棄却する。(東京地裁2019年〈令和元年〉11月7日判決・T税理士法人事件)【ポイント】このケースでは、Aが、部下の韓国籍のBを叱責した際に、「あなた何歳のときに日本に来たんだっけ?日本語分かってる?」と言ったこと、Bを自席の横に立たせ、フロア全体に聞こえるような大声で怒鳴りつけるという叱責を何度もしたことがパワハラと認定された。このような差別的発言と叱責がパワハラとなるのは当然だろう。⑥老人介護施設長の職員に対する暴言【事案】C社会福祉法人が開設している老人ホームで働く介護職員Aら5名が、施設長Bから、「品がない」「ばか」「泥棒さん」「あなたの子どもはかたわになる」「格差結婚」「学歴がないのに雇ってあげてんのに感謝しなさい」などと言われたり、施設利用者が手に便を付けたまま食事したことを、別の職員が見落としたことについて報告しなかったと強く叱責され、トイレ掃除用ブラシをまずBがなめた上でなめさせられるなどの被害を受けたとして、BとC社会福祉法人に対し、慰謝料各200万円を請求した。【判決】Bは自らの意にそわないことについては慎重に検討することなく意のままに振る舞い行動していることがうかがわれるので、Aらが主張する発言があったことが認められる。トイレブラシの件は、再発防止策やミスをした別の職員の指導で十分なのに、トイレブラシを出すのは行き過ぎである。Bは職員にトイレブラシをなめるよう強要したと認められる。慰謝料は、Bの発言によるパワハラについてはAらに各15万円、トイレブラシの被害者については30万円が相当である。(福岡地裁2019年〈令和元年〉9月10日判決・C社会福祉法人事件)【ポイント】老人ホームの施設長の職員に対するパワハラが認定された例である。Bは発言を否定したが、裁判所はBのふだんの行動を発言認定の裏付けとした。パワハラの言動は言った言わないの世界になることが多いが、このような間接的な事実から認定されることが多い。トイレブラシの件は、先に自分がなめたとしても、そのことが職員への強要の要因になっており、叱責として行き過ぎであることは明らかだろう。⑦校長の教諭に対するパワハラ【事案】甲府市のB小学校の教諭であるAが、校長Cからパワハラを受けたことなどによりうつ病を発症したとして公務災害認定請求をしたが、公務外と認定されたのでその取消しを求めた。一審はAの主張を認め公務外との認定を取り消したので、被告の地方公務員災害補償基金が控訴した。【判決】Aが児童の家で飼っている犬に咬まれたことについて、児童の保護者が学校に来て、Aが児童の母親に対して脅迫めいた発言をしたとしてAを非難したが、Aには何ら非難される理由もなく保護者の要求は理不尽なものである。校長Cが、Aに対して保護者に謝罪するよう求め、床に膝をついて頭を下げて謝罪させた行為はパワハラに該当する。公
務外との認定は取り消す。(東京高裁2019年〈令和元年〉8月7日判決)【ポイント】判決の認定事実では、保護者が学校に抗議に来た際に、校長が保護者の主張をそのまま認めて教諭に床に膝をついて謝罪させたというのだから、うつ病との因果関係が認められるだろう。このケースはカスタマー・ハラスメントに上司が加担したという形になる。会社でもこのようなことが起こりうる。管理職としてはカスタマーの要求が理不尽なときはしっかりはねつけて部下を守らなければならない。⑧会社代表者による社員への暴行【事案】菓子などを製造するK社の社員Aは、K社代表者Bから、肘で胸を突かれたり、背中を叩かれたりするなどの暴行を受け、また「私はあなたのことを全く信用していない」「給料に見合う仕事ができていないと判断したら給料を減額する」などと言われたとして、K社に対し、慰謝料300万円の支払いを求めた。【判決】代表者BによるAに対する暴行と暴言は認定できる。慰謝料は50万円が相当である。(福岡地裁2019年〈平成31年〉4月15日判決・K社事件)【ポイント】代表者Bは暴行と暴言を否定したが、裁判所はBがAの給与が高すぎることに常々強い不満を持っていたことなどから、Aが主張する暴行と暴言を認定した。このケースも上司のふだんの言動が認定の裏付けとなっている。⑨丸刈りにされ花火を発射され土下座までさせられた社員【事案】運送業等を業務とするO社で10トントラックの運転手をしていたAが、代表取締役の夫であるBがAに対し暴行や名誉毀損等のパワハラをしたことにつき、Bは事実上O社の代表取締役だったとして、BとO社に対して慰謝料150万円を請求した。一審判決はBのAに対するパワハラは認定できるとし、Bと、Bが事実上O社の代表取締役の地位にいたとして、O社に対し、慰謝料100万円の支払いを命じた。BとO社が控訴した。【判決】BのAに対するパワハラは認定できるので、控訴は棄却する。(福岡高裁2019年〈平成31年〉3月26日判決・O産業事件)【ポイント】この判決で認定されたBのAに対するパワハラ行為は、①Aがトラックで帰社する前に温泉に立ち寄ったため帰社が遅れたことに腹を立てAを丸刈りにした、②社員がAを下着姿にして、洗車用の高圧洗浄機で水を至近距離から体に向けて噴射し、洗車用ブラシで体を洗う様子をその場で黙認し制止しなかった、③下着一枚で会社の裏の川に入るようAに命じ、社員に対し当てたら賞金を与えるとして至近距離からロケット花火を発射させ、逃げ出したAに対して石を投げさせた、④これらのいじめに耐えかねて失踪したものの所持金がなくなったため会社に戻ったAに対し、会社の前で長時間土下座をさせた、⑤会社のブログに、丸刈りにされ土下座しているAの写真等を掲載した、というものである。このような執拗で苛酷ないじめと名誉毀損について慰謝料請求が認められたのは当然であろう。⑩被害者の個人的素因で損害額が減額されるか
【事案】M社のパチンコ店の社員Aが、上司から継続的にパワハラを受けてうつ病となり退職せざるを得なくなったとしてM社に慰謝料500万円を請求した。一審判決は、上司のパワハラによってうつ病となったことを認め、慰謝料は300万円が相当とした。ただし、パワハラ行為による心理的負荷は極めて強度とまでは言えないことなどにより、Aのうつ病には個人の脆弱性という個人的素因があるとして慰謝料を25%減額し、225万円とした。AとM社双方が控訴した。【判決】Aが上司のパワハラによってうつ病になったことが認められる。慰謝料は300万円が相当である。損害額についてA個人に脆弱性があるとは言えないので、素因減額はしない。(大阪高裁2019年〈平成31年〉1月31日判決・M興産事件)【ポイント】このケースで裁判所は、上司が、「ほんまええ加減にしとかんと殺すぞ」「お前をやめさすために俺はやっとるんや。店もお前を必要としてないんじゃ」と発言したことや、反抗的態度に対する懲罰としてAを約1時間にわたってカウンター横に立たせたことは社会的相当性を超えるとした。また店長がこの上司を指導しなかったこともパワハラとされた。損害額については、精神障害の発病について個人的素因があった場合には減額されることがあるが、控訴審ではAにはそのような素因はなかったとされた。⑪部下の席の周りをパーテーションで仕切った上司【事案】郵便局のお客さまサービス部に配属されたAが、上司のBから誹謗中傷や他の社員からの隔離などのパワハラを受け、局長も特段の指導や措置をとらなかったとして、Bと会社に対し慰謝料500万円を請求した。Bと会社は、Aの資質、能力が著しく劣っていたために厳しい指導をしたことは不法行為にならないと反論したが、一審判決はAの請求を認め、慰謝料は70万円が相当とした。A、Bと会社双方が控訴した。【判決】Bによるパワハラは認められる。慰謝料は120万円が相当である。(東京高裁2018年〈平成30年〉12月26日判決)【ポイント】裁判所は、Bが、Aの席をパーテーションで仕切っただけでなく、Aが席から立ち上がってきょろきょろ見回す動作をミーアキャットと呼んだり、パラサイトなどと誹謗中傷したりしたことをパワハラと認定した。また、Bのこのような言動は、新入社員であるAを他の社員から切り離して孤立させるなど、教育効果を期待し難い措置をとったとして、慰謝料額を一審よりも高く認定した。⑫声を荒らげての退職勧奨【事案】グラフィックデザインやディスプレイデザインの企画及び制作を業務とする会社のディレクターであったAが、会社代表者Bから受けたパワハラで適応障害になったとして慰謝料200万円を請求した。【判決】Aが主張するパワハラのうち、BがAと面談して退職を勧奨した際、Aが退職に応じなかったことに激昂して、「お前は何様だ、個人事業主か、もう出て行ってくれ」などと言ったことが認められる。このようなBの言動は、退職勧奨の限度を逸脱したものでAに対する不法行為となる。それ以外のパワハラの主張は、上司としての注意においてや
や感情的になったにすぎないから不法行為とまでは言えない。慰謝料は20万円が相当である。(東京地裁2018年〈平成30年〉12月26日判決・PI社事件)【ポイント】この判決例も退職勧奨に関するものである。AはBのいくつかの言動をパワハラと主張したが、裁判所は退職勧奨の際の発言だけを違法とした。判決文からは明確ではないが、判決文に会話の細かい部分まで記載されていることからすると、このときの会話が録音され、言葉の調子などがパワハラと認定される一因となったのだろう。⑬上司からの執拗な注意と叱責の責任【事案】広告制作を業務とするP社の社員Aが、取締役の上司Bからのパワハラによって重い精神疾患を発病し休職に追い込まれたとして、BとP社に対して慰謝料300万円を請求した。【判決】BはAの業務負担が増加する中、1年以上にわたり、Aにとって困難な目標の達成を求め続けたり、対処に窮するような指示を出し続けた。それらが実現できないと、指示に従わないとして厳しい注意、叱責を繰り返し、さらに叱責中のAの目つきや態度が気に食わないとして叱責したり、過去に叱責した問題を蒸し返して叱責したりするなど、もはや叱責のための叱責と化しており、業務上の指導を逸脱した執拗ないじめ行為である。慰謝料は250万円が相当である。(長崎地裁2018年〈平成30年〉12月7日判決・P社事件)【ポイント】判決にあるとおり、Bの叱責は苛酷なものであるが、判決ではミーティングに参加させないなどの仕事はずしもパワハラとして認定されている。慰謝料額はかなり高額であるが、それは指導というよりも意図的ないじめ行為であり、その結果、重い精神疾患を発病したことによるものだろう。⑭パワハラに加担した上司は共同責任を負う【事案】公益財団法人G会が設置する美術館に勤務していた学芸員Aが、他の学芸員から、「非常識」「信頼関係ゼロ」「ここの職員としてふさわしくない」などと非難されたため、急性気管支炎などを発症し退職せざるを得なくなったとして、その学芸員とこれに加担した上司の館長及び法人G会に対し慰謝料200万円を請求した。一審は、これらの言動による慰謝料を認めなかったのでAが控訴した。【判決】他の学芸員と館長の言動は社会的相当性を逸脱する違法な退職勧奨であるから、G会は使用者責任が、館長らは共同して不法行為責任がある。慰謝料は60万円が相当である。(名古屋高裁2018年〈平成30年〉9月13日判決・G会事件)【ポイント】継続的なパワハラに加担した上司も共同して不法行為責任を負うと認定された。ただ一審ではパワハラとまでは言えないとしたので、境界線上のケースと言える。⑮パワハラはあったが適応障害との因果関係は否定【事案】ホテルなどの運営を業務とする会社の社員で、清掃スーパーバイザーチームに所属していたAが、上司のチームリーダーBから暴行を受けたほか、さまざまな嫌がらせを受けて適応障害になったとして、Bと会社に対し慰謝料200万円を請求した。
【判決】BがAの仕事ぶりを非難して腕をつかんで前後に揺さぶるなどの暴行を加え、逃げようとしたAが壁に頭をぶつけたため、Aに傷害を負わせたことは認定できるが、それ以外の上司の言動は、Aの数多くのミスに対する注意、指導であり、パワハラとは言えない。Aの適応障害は認められるが、1回だけの暴行との因果関係は認められない。会社は暴行についてBと共に損害賠償責任がある。慰謝料は20万円が相当である。(東京地裁2018年〈平成30年〉7月30日判決・KY社事件)【ポイント】このケースでAは、Bの暴行以外に数多くの嫌がらせを受けたと主張していた。裁判所はBの暴行は認定したが、それ以外は、Aが業務に関し多くのミスを繰り返しており、それはAの基本的な注意力等の欠如や反省の乏しさ、習熟度の低さを表しているとして、Aに対する指導がある程度厳しいものとなるのはやむを得ないとした。部下のミスが繰り返されている場合に、ある程度の厳しい指導はハラスメントにならないことを示した判決例でもある。⑯店長は部下が自殺することを予見できたか【事案】家電製品の販売等を業務とする会社で、フルタイムで勤務する時給制の非正規社員であった女性Aが自殺した。その遺族である夫と長男が、店長BがAを配置換えして担当させた価格調査業務が過重であり、業務に思い悩んで自殺したとして、Bと会社に損害賠償として約3500万円を請求した。【判決】BのAに対する配置換えは、業務の適正な範囲を超えた過重なものであって、強い精神的苦痛を与える業務に従事させたことは不法行為に該当する。しかしBはAが自殺に至ることを具体的に予見できなかったから、Bと会社にはAの自殺についての損害賠償責任はない。Bと会社が配置換えによってAに精神的苦痛を与えたことについての慰謝料は100万円が相当である。(大津地裁2018年〈平成30年〉5月24日判決・KA社事件)【ポイント】このケースでは、上司が非正規社員に対し過重な業務をさせたとしてパワハラが成立するかどうかだけではなく、部下の自殺という結果に対して上司がそれを予見できたかどうかということが大きな争点だった。裁判所は上司の指示によってAが自殺することまでの予見は不可能だったと認定した。判決では、Aの配置換えが直ちに自殺に至るほどに、その心身の健康を損なうような強度の負担を負わせるようなものではなかったことなどを理由に挙げている。自殺の予見可能性についての判断の難しさを示す例である。2パワハラを認めなかった判決例①工場でのミスの多い社員の担当の変更【事案】金属加工販売業のB社の社員Aが、上司らから仕事を取り上げられ、一日中監視されたりしたことがパワハラであるとして、会社に慰謝料300万円を請求した。【判決】Aは入社から12年以上経過した後も、加工作業におけるミスを相当な頻度で発生させ、中には、修正不能あるいは納期に間に合わないため再度製品の切断からやり直すに至ったり、納期を延期してもらったりする事態をも発生させている。それらのことからす
ると、Aに任せられる業務にも限界があったのであって、仕事を取り上げたものではない。監視していた事実もない。上司らの指示はパワハラではないので、Aの請求は認められない。(大阪地裁2020年〈令和2年〉3月3日判決)【ポイント】本判決のように、工場の業務でミスの多い社員の担当を替えることはパワハラには当たらない。このケースでは、会社がAのふだんの業務内容を教育記録として残していたことがパワハラに当たらないことの証拠となった。記録の必要性を示す判決例である。②暴力があったといっても病院に行っていないのは【事案】不動産賃貸・売買の仲介等を業務とするB社の賃貸事業部長として勤務していたAが、数年にわたって、代表取締役Cから、「売上げもないのに給料ばっかり持って行きやがって」「お前みたいなやつはいらんわ、辞めてまえ、ぼけ」などと罵倒され、顔面を殴られたり腹部を蹴られたりするなど日常的に暴行・暴言を受けたと主張し、CとB社に対し慰謝料500万円を請求した。【判決】Aは、Cから殴る蹴るの暴力行為があったというが、病院での受診等をしたことがない。CがAの売上げが低いことで暴言を浴びせていたというが、Aの売上げが格別低いとは言えないので、暴言があったとは言えない。その他暴力や暴言があったと認定するだけの証拠はない。(大阪地裁2020年〈令和2年〉2月6日判決)【ポイント】Aは、Cの暴力行為は数年にわたり、殴る蹴るという非常に激しいものだったと主張したが、裁判所は暴力を認定できるだけの証拠はないとした。たしかにAが主張するような激しい暴力があったとすれば、医師の診察を受けて診断書を取るというのが通常であるから、Aの主張が認められなかったのはやむをえないだろう。ちなみにAは、Cが元ボクシングの大阪府代表だったことも主張しているが、裁判所はそのことが暴力の裏付けとなるわけではないとした。③業務改善確認書へ署名させたことの是非【事案】自動車販売、整備を業務とするB社の社員Aが、精神疾患により休職し、休職期間満了によって退職となったが、休職は上司のパワハラによるものであり、退職は無効と主張した。Aは会社から、販売実績について月間4台、粗利320万円を基本とし、年間48台3840万円を達成することの過大な内容の業務改善確認書に署名させられたり、不当な配転などのパワハラを受けたりしたと主張し、B社に対し、約300万円の損害賠償を請求した。【判決】業務改善確認書への署名は、Aの販売成績が芳しくないなどA自身に責められるべき点があり、販売目標台数は必達目標とされていなかったことなどからすると、社会的相当性を逸脱するものではない。配転についても、Aの販売成績が伸び悩んでいるなど配転の目的は正当であることなどからすると違法なものとは言えない。(東京地裁2019年〈令和元年〉12月27日判決)【ポイント】この判決では販売目標がノルマとして過大かどうかが争われたが、このケースでは必達目標ではないから違法ではないとされた。仮に販売目標が達成されなかった場
合に過大な不利益が課せられた場合には、ハラスメントとなる可能性がある。④体調不良の部下との面談での配慮【事案】出版を通じた企業へのコンサルティング等を業務とするG社の社員Aが、適応障害とパニック障害になったことで休職し自然退職となった。Aは、副社長から、個人出版の契約を取れていないことを部内全員の前で叱責されたり、頭を撫でられるなどのセクハラを受けたことや、部長から、コメントが遅いなどと他の社員の前で叱責されたり、病院に行くのをやめるように言われるなどのパワハラを受けたことなどが原因なので、退職は無効と主張した。【判決】副社長の叱責は「(個人契約が)取れなかったら法人営業に戻すぞ」というもので、通常の業務指導の範囲を逸脱するものではない。頭を撫でたことはセクハラに当たりうるが、このことがAの疾病に有意な影響を与えたものではない。部長の叱責があったという裏付けはなく、病院に行くのを妨げたという事実もない。副社長と部長の言動と疾病には相当因果関係がないから退職は有効である。(東京地裁2019年〈令和元年〉11月27日判決・G社事件)【ポイント】社員が精神障害を発症して休職し、休職期間が満了して自然退職となったときに、その原因がハラスメントであったとして自然退職の有効性を争うというパターンは非常に多い。この判決例もその一つである。この判決では、部長とAとの面談で部長が、「病院に行くのはやめな」とは言っているものの、「早めに帰って、静養、あと食事をとって」と言ったり、定時より早い帰宅を認めていたりしたなどの事情から、部長はまず自分で体調不良の原因を振り返るように促したもので、病院に行くことを妨げたものではないと認定されている。体調不良の部下との面談での配慮が重要であることを示すケースである。⑤支店長の営業目標の設定は過大か【事案】S信用金庫に入社したAは、3年後に甲支店の営業課に配属された。Aは支店長のBから過大な営業の目標を示されて、「なんで俺が言ったことができないんだよ。死ぬ気でやってみろよ。今日寝なくていいから」「今年も同じような成績では許さないからな」などと日常的に罵倒や暴言を受け、仕事の目標を書いた決意書を書かされるなどのパワハラを受けたと主張した。Aは、これらのパワハラにより適応障害を発症し退職せざるを得なくなったとして、S信用金庫に対し、慰謝料と今後10年間の労働能力喪失による逸失利益の合計約1654万円の損害賠償請求をした。【判決】AがB支店長から日常的に暴言を受けたという証拠はない。Aの決意書は強制されたものではなく、営業の目標設定も過大なものではない。その他、B支店長の言動に業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動は認められない。(東京地裁2019年〈令和元年〉10月29日判決・S信用金庫事件)【ポイント】営業に関しての指示指導に関し、暴言があったとか、過大な目標設定であったと主張されることは少なくない。この裁判で、AはB支店長の暴言の証拠として診断書を提出したが、裁判所は診断書の記載はAの説明を前提として作成されたもので、Aの主
張を裏付けるものではないとした。たしかに診断書の記載だけでは客観的な裏付けにはならないだろう。目標設定も、判決にあるとおり顧客を一日30件訪問するということが必ずしも達成困難ではないということであれば、過大とまでは言えないだろう。⑥先輩職員らは無視して返事もしなかったか【事案】T町に嘱託職員として勤務していたAが、先輩職員2名から挨拶を無視されたり、返事をしてもらえなかったりして抑うつ状態となり就業できなくなったと主張して、町と先輩職員2名に対し約6000万円の損害賠償を請求した。一審はAの請求を棄却したので、Aが控訴した。【判決】Aは、挨拶の無視について、先輩職員らが軽く会釈した程度であったために、これを無視と捉えた可能性が否定できない。先輩職員らがAに返事をしなかったのは、Aと先輩職員らとの職場内での関係が不良であり、同人らの間には会話らしい会話もないような状況にあったためで、返事をしなかったからといって不法行為が成立するものではない。(名古屋高裁金沢支部2019年〈令和元年〉8月21日判決・T町事件)【ポイント】本件で裁判所は、先輩職員は挨拶をしなかったわけではなく、また先輩職員らが返事をしなかったのはAとの人間関係がよくなかったからで違法ではないとした。たしかに判決に書かれている状況では、挨拶や返事をしないとしても違法とは言えないだろう。Aは先輩職員らの言動について自分のメモを提出したが、裁判所はメモの断片的な記載だけではパワハラを裏付けるものにはならないとした。また裁判所は、Aが他の職員にパワハラ被害を受けているとの申し出や相談窓口の調査もしていないこともパワハラを否定する根拠とした。⑦パワハラを理由とする労災保険給付の要件は【事案】防音工事などを業務とするB社の社員Aが、指導担当の課長からサービス残業を求められ、パワハラを受けて精神障害を発病したとして労災保険給付を請求したが、支給しないとの処分を受けたため、その取消しを請求した。【判決】本件では指導担当の課長が「ふざけんな、おまえ」「あほ」と述べるなど厳しい口調で指導していた事実は認められるが、課長が、指導の必要がないにもかかわらず単なる嫌がらせ等の目的で暴言を述べたり、何らの理由もなく指導の声が大きくなったりしたものではない。課長がAの頭を軽くはたいたりした事実はあるが、時期的に発病に有意な影響を与えたものではない。これらの指導や叱責の心理的負荷の強度は中と認めるのが相当であるから、労災保険給付を支給しないとの処分は適法である。(東京地裁2019年〈令和元年〉8月19日判決)【ポイント】パワハラにより精神障害を発症したとして労災保険給付を請求するケースが増えているが、その要件のひとつとしては心理的負荷の強度が強の場合とされている。このケースで裁判所は、課長からの厳しい指導や叱責はあったが、それらの心理的負荷の強度は中にとどまるとした。パワハラの労災保険給付の判決例として参考になる。⑧パワハラ相談担当者やコンプライアンス担当者も被告に
【事案】投資運用業であるN社のトレーディング部に所属するAが、上司2名からパワハラを受け、それを人事室に相談し、法務・コンプライアンス部に通報したのに、それらの担当者が適切な対応を怠ったとして、N社と上司2名、人事室、法務・コンプライアンス部の各担当者に対して、慰謝料420万円等の損害賠償を請求した。【判決】Aはパワハラとして、Aが笑っていないにもかかわらず、「今笑っただろ」と罵倒した、パソコンでの作業中に「人が見ているときに画面を変えるな」と激怒しパソコンが置いてある机を蹴った、「なぜ(返信が)遅れたんだ」「社会人としての常識がない」「遅い。これでは作業を任せられない」「何をたらたらしているんだ。すぐに発注ボタンを押せ」と罵倒した等と主張する。しかし、Aが主張する事実は、上司の指導をAがパワハラと受け取ったにすぎないか、その事実を認めるに足りる証拠はない。また人事室、法務・コンプライアンス部の各担当者が適切な対応を怠った事実はない。(東京地裁2019年〈平成31年〉2月27日判決・N社事件)【ポイント】Aがパワハラと主張する多くの事実に対して、裁判所がそのひとつひとつについて証拠を検討し、いずれもパワハラとは認定できないと判断した。判決の事実認定が詳細で、会社でパワハラを認定するときに非常に参考になるだろう。またこのケースでは、パワハラ相談を受けた人事担当者と通報を受けた部の担当者も被告になっている。今後、パワハラに関わる担当者の訴訟リスクが高くなってくることが予想される。対応を誤ると不法行為責任を負う場合も出てくるだろう。⑨上司が人事面談を無断録音したのは【事案】通信ネットワークシステムの開発等を業務とする会社のプロジェクトコーディネーターであったAが、退職勧奨がパワハラであるとして会社に対して慰謝料100万円を請求した。【判決】上司がAとの面談で、会社に残っても給料は半分になると言ったとか、人事部が執拗な退職勧奨をしたとの事実はない。(東京地裁2019年〈平成31年〉2月27日判決・NO社事件)【ポイント】Aは上司らの退職勧奨がパワハラであると主張したが、裁判所はAが主張した事実は認められないとして慰謝料請求を認めなかった。このケースでは、上司側が面談を無断録音していたようである。Aはこのような無断録音も違法だと主張したが、裁判所は違法とは言えないとし、その録音記録に基いてパワハラだったかどうかを判断している。⑩147通の手紙を手書きで【事案】不動産の売買、仲介等を業務とするB社(社員約100名)の支社長及び法務・コンプライアンス室長だったAが不祥事を起こして本社不動産管理事業部に異動となり、B社代表者から、顧客宛てに147通の手書きの手紙を書くことを命じられた。Aは一部を書いたが、残りは書かずに退職した。AがB社に対し、パワハラとして慰謝料200万円を請求した。【判決】不動産営業の経験がないAに、手書きの手紙を作成するという基本的な業務に集
中して取り組んでもらうという方針自体に関しては、相応の必要性・合理性に欠けるとまでは言えない。147通というのはあくまでも2日間での目標であり、無理にせかしておらず、文字数の削減等を配慮していたことなどからすると、嫌がらせの意図によるものとは言えないのでパワハラではない。(東京地裁2019年〈平成31年〉1月24日判決)【ポイント】この手紙は1時間で5通程度しか書けない分量だったので、147通を2日間で書くのは不可能と言うしかないが、裁判所はあくまで目標数であることと、削減を配慮していたことを重視してパワハラにならないとした。上司がAに目標数であることをどこまで伝えていたかによって結論が変わるだろう。⑪社員の言い争い【事案】ビルの清掃、管理を業務とするB社(正社員約10名)の営業所長のAは、ガンの手術から退院して職場復帰したとき、清掃の現場責任者である管理課長のCから「お前はここにいる価値がない。退職しろ。そのままガンで死んでしまえばよかったのだ」などと非人道的な発言をされ、その場にいた課長Dもそれに同調する発言をしたことで精神的苦痛を受けたとして、C、DとB社に対し慰謝料300万円を請求した。【判決】AはCから、人手が足りないのでトイレ清掃を分担するように依頼されたとき、CがAの体調を気遣うことがなかったので気分を害し、「無理」とだけ返事をした。この返事にCが腹を立てて声を荒らげたので言い争いとなり、Aが主張するCの発言があった。このCの発言は、AとCがお互いに興奮状態で言い争いをする中の感情的、突発的なものである。CはAの詳しい病状を知らず、Aの断り方にもとげがあったから、Cが感情的になったことは理解できないものではない。Cはこの発言のあとAに謝罪している。これらのことからすると、Cの発言は違法とまでは言えない。Dの発言も同様に違法とまでは言えない。(東京地裁2019年〈平成31年〉1月23日判決)【ポイント】C、Dの発言は職場における優位性を背景にしたものではないのでパワハラとは言えないが、職場で起きたハラスメントである。発言の違法性は、発言内容だけではなく、その発言の原因や経緯、発言後の状況を総合して判断される。発言がこのとき1回だけであったことも考慮されている。なお、社員同士の言い争いに会社は責任があるかについて、このケースでは社員の発言に違法性がないとされたので判断は示されなかった。会社の業務と関連性のない社員同士の言い争いに会社は責任は負わないのが原則である。⑫派遣先の会社でのパワハラは【事案】派遣元B社から、高速道路の設備点検等を業務とするC社に派遣されたAが、C社において上司からパワハラを受けたのに、B社、C社はこれに対する適切な措置をとらなかったと主張して、B社、C社に損害賠償を請求した。【判決】C社の上司がAに会議に関するメールを送らなかったり、会議で参加者にAを紹介しなかったりしたとしても、これはAを排除した違法なものとは言えない。Aは上司から「CADもできないのか」「イラストレーターもできないのか」と見下すような発言があったと主張するが、その事実は認められない。B社、C社が適切な措置をとらなかったということもない。(東京地裁2019年〈平成31年〉1月10日判決)
【ポイント】派遣労働者が、派遣先でのパワハラについて、派遣元と派遣先の会社を訴えたケースである。Aが主張する派遣先の上司のパワハラは認定されなかったが、派遣先の会社でパワハラがあれば派遣先の会社に損害賠償責任がある。派遣元の会社も適切な対応をしないときは損害賠償責任が生じる。⑬叱責がパワハラにならないのは【事案】B観光協会に勤務していたAが、休職したのは上司Cから、Aに責任のないことを30分以上にわたり他の職員の前で叱責されるなどのパワハラを受けてうつ病になったからとして、CとB観光協会に対し慰謝料300万円を請求した。【判決】CはAに対し叱責の理由を合理的に説明しており、叱責の態様も大声で口調が強いものではなかった。また会話が1時間に及んでいても、不必要に同じ話を繰り返すことで精神的苦痛を与えるものではなかった。Cが社会通念上の許容範囲を逸脱し、業務指導の範囲を超え違法性を有する言動を行ったとは言えない。(大津地裁彦根支部2018年〈平成30年〉12月14日判決)【ポイント】裁判所は、叱責の理由の合理性、説明の有無、声の大きさ、口調、時間等で違法かどうかを判断している。長時間の叱責はパワハラとされることが少なくないが、このケースでは不必要に同じ話を繰り返していたわけではないから違法ではないとしている。⑭プレゼンの指導が1時間になっても【事案】自動車用潤滑油の輸入、販売等を業務とするB社の社員Aが、支店長Cのパワハラによりうつ病を発症したとして、Cと、B社に対して慰謝料500万円を請求した。【判決】支店の4名の社員全員が出席する月例会議で、CがAのプレゼンテーションに対して問題点を指摘したり改善を求めたりし、時にはそれが1時間にもなったことは会議の性質からして不当ではない。その他、Aが主張するCの言動はいずれもパワハラには当たらない。(大阪地裁2018年〈平成30年〉3月29日判決・B社事件)【ポイント】AはCの言動によってうつ病になったとしてCの多くの言動をパワハラと主張したが、裁判所はいずれもパワハラには該当しないとした。AはCのプレゼンの指導が1時間にもなったことをパワハラと主張したが、指導内容が多岐にわたれば1時間程度になったとしても、指導としては適正な範囲になり得るだろう。
あとがき私は、顧問先だけでなく、さまざまな会社や教育機関からハラスメントについての講演や研修講師を頼まれる。そのときいつも注文されるのは難しい法律論より具体的なケースを挙げて説明してほしいということである。医師の症例と同じように私も多くの事例を経験しているので、そのときには自分が相談を受けたケースを少し変えたものや判決例を紹介して解説する。本書でも、法律の説明はどうしても理屈の世界になるが、そこから先はできるだけケースを挙げて説明するようにした。研修でケースを挙げても、一方通行の解説では、「ああそうですか」で終わってしまうことが多い。研修で最も効果的なものはグループディスカッションだろう。最終章の「問題集」は、できれば管理職の方々でご自身の会社にあてはめてディスカッションしてもらうとよいと思う。私がグループディスカッションの講師をするときには、簡単に答えの出ないような「難問」を出すのだが、グループの検討結果を発表してもらうと、こちらが驚くほど的確な回答が来ることが少なくない。弁護士が出動するのはトラブルになってからが多いのでなかなか現場のことがわからない。この点では、日常的に現場で苦労されている管理職にはやはり現場力があると実感する。とはいえ医師が病気の予防策を説くように、弁護士もどうしたらこのようなトラブルを予防できるかを伝えることができる。本書はこのようなトラブル予防の視点でも書いたつもりである。トラブル予防という点では、就業規則などの社内規定の作成には十分な配慮が必要である。トラブルになると、規定の解釈が争点になることが多いからである。社内規定の作成には専門家の助言を受けることをお勧めする。本書で管理職が部下からパワハラ相談を受けたときのことを書いたが、経営者や管理職がどれだけ社員や部下から信頼されているかは、社員や部下からどれだけ相談があるかでわかる。サッカー日本代表の森保一監督を育てた今西和男氏はリーダーシップに必要なことは「聞く、話す、考える」であると言っている(「読売新聞」2020年8月6日付朝刊)。この中で特に「聞く」ことが大事だろう。私の法律事務所では、近くの中学校の職場体験を引き受けているが、そのときに生徒から、「弁護士として一番必要なことはなんですか」と聞かれることが多い。私は、「相手の話をしっかり聞けるかどうかです」と答えている。信頼される経営者や管理職は例外なく聞き上手である。相談に来た社員や部下の話をじっくりと聞くことを心掛けてほしい。
ところで、本書で、国会での厚労省のパワハラ防止法の「職場において行われる」の条文解釈の説明に疑問があると書いた(第4章「職場において行われる」の項)。しかし国会ではこの説明を問いただすような質問はなかった。アメリカでは法律の解釈のために議会の議事録は必見である。条文についての質疑が細かくなされるからである。日本の国会でも、もう少し条文についての質疑をしてもらいたいと思う。パワハラの芽はどこにでもある。先の見通せないウィズコロナ時代にあって、この本をきっかけにして、経営者や管理職だけでなく、社員が一体となってこれからのパワハラ防止対策に取り組んでもらうことを望みたい。出版に当たり、構成や表現等について貴重な助言をいただいた新潮社新書編集部に心より感謝します。
●主要な参考文献本書を書くにあたって数多くの文献を参考にさせてもらった。本文中で触れなかったものとして、以下の文献がある(著者名五十音順)。・石嵜信憲編著『ハラスメント防止の基本と実務』(中央経済社・2020年)・神谷悠一・松岡宗嗣『LGBTとハラスメント』(集英社新書・2020年)・公益財団法人21世紀職業財団編『部下育成ハンドブック(改訂版)』(2020年)・清水陽平『サイト別ネット中傷・炎上対応マニュアル(第3版)』(弘文堂・2020年)・帯刀康一『パワハラ防止の実務対応』(労務行政・2019年)・三上安雄ほか『懲戒処分の実務必携Q&A』(民事法研究会・2019年)・水谷英夫『職場のパワハラセクハラメンタルヘルス(第4版)』(日本加除出版・2020年)・森本英樹・向井蘭『実践型職場のメンタルヘルス対応マニュアル』(中央経済社・2020年)・山浦美紀・大浦綾子『実務家・企業担当者のためのハラスメント対応マニュアル』(新日本法規・2020年)・山川隆一・渡辺弘編著『最新裁判実務大系8労働関係訴訟Ⅱ』(青林書院・2018年)
●専門家による相談窓口都道府県労働局などの相談窓口の他に、専門家による主な相談窓口としては次のところがある。本文にも書いたように、早めに専門家の助言を得ておくことが解決の近道である。・全国各地の弁護士会・社会保険労務士会・司法書士会・自治体の法律相談(弁護士や司法書士、社会保険労務士等が相談を受けてくれる)・法テラス(弁護士が無料法律相談等を受けてくれる。弁護士費用の立替えをしてくれることもある。ただし収入、資産が一定額以下等の要件がある)・公益財団法人21世紀職業財団(相談や研修だけでなく会社関係のハラスメントに詳しい弁護士を紹介してくれる)
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