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第2章僕のクリエイティブ・ライフ/adayinthelife.

第2章僕のクリエイティブ・ライフ/adayinthelife.

自分にとっての広告の原点自分にとっての広告の原点はラジオCMであり、テレビCMだ。それは番組本編とは違う種類の面白さで、耳に残り、思わず口ずさんでしまうものだった。今でも往時のコマーシャルソングをほとんど歌える。「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」「明るいナショナル」「伊東にゆくならハトヤ」とか。あとで知ることになるけれど、それらは五木寛之や野坂昭如が書いていたのだ。だから、テレビコマーシャルの黎明期はすごい。サン・アドには開高健と山口瞳――つまり芥川賞作家と直木賞作家がコピーライターでいたわけだから。当時は、直木賞や芥川賞が取れたから即食えるという時代じゃなかったらしい。今だったらすぐに独立して、コピーライターを卒業できると思う。当時はまだお茶の間という空間があり、その場を独自の表現で楽しませてくれていたのがCMだった。それを自分でも作ってみたいというのが原点。絵を描くとか小説を書くというのは無理そうだけれど、絵や音楽は好きだったので、等身大の自分でも広告を作れるのではないか、そういう世界で愉しめるのではないかという思いがあったのかもしれない。若い頃は予算が少ない仕事が多かったから、「♪セブン‐イレブンいい気分」も「♪ピッカピカの一年生」も、作曲家と二人で、スタジオでつくったんですよ。ほかにだれもいない空間で、ふたりきりでギターでつくったもの。子供の頃に聴いていたコマソンやジングルを引き合いに出して、「こういう感じじゃないの?」なんてお互いにリズムを出したりしながら。いろんなパターンを試しつつ、5時間くらいでできたと思うんですけど、正味は1分ですよね(笑)。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P8

最初はラジオCMさらにルーツをたどると、ラジオCMに行き着く。倉本聰さんたちが作っていた時代。広告代理店に入っても、最初はラジオCMを担当した。三年間の下積み時代、朝から晩までものすごい量のコピーを書いていた。僕がある程度文章を書けるようになったのは、その時代のおかげ。量が質を作るというのは本当なんだなと実感した。ちなみに、当時の電通ラジオチームは個性派揃いで、その中でも特に異彩を放っていた中村昭雄さんという方が、僕の最初で最後のメンター(師匠)だった。僕の周りの一流プランナー、コピーライターも、昔ラジオCMをやっていたという人がほとんどです。だから先輩たちは決まってこう言いました。まず、ラジオCMをやりなさい。地味なものほど役立つのだよ、と。(中略)当時、すでにクリエイティブの制作分業化はかなり進んでいました。そんな中で、ラジオCMは唯一、広告代理店にいてコピーから見積もり、演出はもちろん、スタジオ取りから声優さんやナレーターのブッキングまで、すべて一人でやらなくてはならなかったのです。いかにも大変そうですが、僕からすればなんでも自分一人でできる、夢のような楽しい仕事でした。(杉山恒太郎著『ジャパン・プレゼンテーション』角川oneテーマ21、P9

「Thinksmall.」の衝撃僕がラジオCMのコピー書きまくっていた時代は、幸いなことに、一家言持っている先輩たちがたくさんいて、青臭いことを熱く議論し合っていた。たとえば、今でも広告人に世界一の広告って何?と聞いたら、DDBが作ったフォルクスワーゲンの「Thinksmall.」という答えが返ってくる。アメリカの価値観が「Thinkbig」だったときに「Thinksmall.」という対極の概念、コピーを作り、「賢い消費者」という新しい生活者を生み、新しい市場を作った。当時の時代背景として、ドイツ=敗戦国であり、ヒットラーの国でもあった。そんな国からやってきた小さくて醜悪なクルマという印象が強かったフォルクスワーゲンを、一つの広告が見事にひっくり返したのである。そういう意味でも広告史に燦然と輝く名キャンペーンだったといえる。僕が若いときは、そんなことを熱く語る先輩たちがいた。当時、ハーバードのエリートたちは広告によって世の中を変えられると本気で思い、広告の世界に集まってきたという。広告は本来、人の考え方や態度を変容する技術。価値の変容というのが広告の本来やるべきものだ。フォルクスワーゲンの「Thinksmall.」はまさにその代表格だ。当時、アメリカでは、みんなが「これが男らしくてかっこいいんだ!」って思ってデカい車に乗ってたわけでしょう?そこにDDBが「いや、小さいほうがかっこいいんだ」といって、あっというまに世の中の価値を転換してしまった。あの頃に広告をやっていた人たちは、本気で、そうやって広告で世の中の価値を変えていけると思ったはず。(天野祐吉著『広告も変わったねぇ。』インプレスジャパン、P58)「馴質異化」という言葉がある。人に新たな気づきを与えることで、広告の持つ最大の得意技。これも一種の価値の変容だ。たとえば、カルバン・クラインが、下着をファッションとして高く売るようになった。ちょっといい素材ではあるけれど、普段使いのものが広告の力によって特別なものに見えてくる例だ。中でも目を引いたのは、ファッションを単なる衣服と捉えず、その中に潜む肉体美にも着目、アンダーウェアという衣類の価値を一変させ、人々を魅了するものに仕立ててしまったカルバンクラインの広告だ。(中略)それまでアメリカでは男性用の下着は実用品扱い、3枚1パックで10ドル程度の商品だったものを、ファッションの一部としてブランド化に成功、高価な下着のプレタポルテという新しい市場開拓に寄与した。(中略)このように普段使いのものが、広告の力によって特別なものに見えてくること、人に新たな気づきを与えることを「馴質異化」という。(杉山恒太郎著『アイデアの発見』インプレス、P124~126)「アルマーニがもっとも似合う」とスーツの下にTシャツを着ることを提唱し、下着だったTシャツに新しい価値を与えたエンポリオ・アルマーニの広告がある。最近ではこの手法を「視点を変えて再び価値を生み出す」リ・フレーミングといわれることもある。(杉山恒太郎著『アイデアの発見』インプレス、P126~127)

デノテーションとコノテーションここで広告の重要なポイントであるデノテーションとコノテーションに触れておこう。たとえばノートパソコンは便利な道具であり、機能的にはどのメーカーのものでもそれほど差はない。だが、ソニーのVAIOであるとか、アップルのMacBookAirであるとか、どのメーカー、ブランドのノートパソコンであるかによって、その持ち主の趣味やセンス、下手したら収入まで見えてしまう。前者がデノテーションで、後者がコノテーションといわれる。そして前者を後者に変容させるのが広告だ。僕らは二〇代にこれを教わったけれど、今、こういうことをいってくれる人はなかなかいない。意味論というと小難しい理屈のように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。たとえば、高級ブランドバッグがあるとしましょう。それはお財布や手帳を入れる、入れ物としてのバッグであるだけでなく、持ち主の嗜好や金銭状況をも表しています。つまりそのもの自体が表している意味(denotation)と、内包された意味(connotation)があり、その両方を理解することから広告は始まります。そして広告というのは、言ってみればその意味の変容の作業だと思うのです。(杉山恒太郎著『ジャパン・プレゼンテーション』角川oneテーマ21、P108~109)

広告マンに求められる資質――「消費者」なんていない広告マンにとって必要な資質は何かと聞かれたら「オーセンティック(正統)」と答える。それがないと、プランニングは始まらない。この四、五年、コンシューマー(消費者)なんてどこにもいないということがいわれ始めている。「消費者なんていない、そこには生の人間がいるだけだ、人を見て仕事しろ」と。僕はこれが基本だと思う。コンシューマーなんてマーケティング用語に過ぎず、人をコンシューマーと定義するのは、本来、失礼なことだ。自分たちは消費するために生きているわけでも、消費するために生まれてきたわけでもない。よく考えると、「消費する」と「欲しい」は違う。消費は、何かを買わざるを得ないところに追い込まれるものだけれど、「欲しい」というのは、アニマルスピリットであり、自分の動機。消費を「欲しい」にすり替えていくようなところに、広告の怖さはある。世の中にいない「消費者」というものを相手に戦略を組み立てていく、「消費者」という言葉を使った時点で、僕は現実から逸脱していると思う。まして、ネットで使われる「囲い込み」なんていう言葉ははなはだ失礼(笑)。若いマーケッターが「囲い込み」なんていっているのを聞くと、本当にいやな気分になる。こういう人とは仕事をしたくないと思う。そこには倫理観が必要だ。ここでいう倫理観とは、社会一般に認められている倫理観ではなく、自分の中の一種の規範のこと。そこを無視すると、この仕事は長く続けられないと思う。繰り返すけれど、それはやがて自分を自分で消費する方向に行ってしまうから。

クライアントの要望に応えるだけでは不十分どこまで行っても、クリエイティブはまずはビジネスだ。依頼者がいて、オーダーがあって、それに応えないと仕事が成立しない。自分から発信するものではなく、動機は常にクライアントにある。そのクライアントの動機は、当然ビジネスだ。だからクリエイティブとはリアルビジネスであり、クライアントの要望に応える仕事なんだ。だけど、ただオーダーに応えて終わるわけではない。表現物が世間に出て、そこでしっかり機能しないと、結局クライアントは満足せず、ビジネスが成立しない。だから二度フィルターがあるといえる。現実にはクライアントの要望に応えるだけで終わる人がわりと多い。広告は、確かにクライアントがお金を出すし、クライアントのものといえばクライアントのものだ。だけど、世の中に出ていく表現物は、社会的な存在でもある。だから不快なものとか、人にいやな思いをさせるものとか、子供に悪い影響を与えるものにならないよう考えて作る必要がある。クライアントが、「よくわれわれのことを理解してくれました」という企画を見ることがあるけれど、実はそれだけではクライアントは満足していない。クライアントは常に本当のことをいってほしい、ある意味裏切ってほしいんだ。人間には形式知と暗黙知があって、自分が欲しいものは自分でも九〇%ぐらいわかっていないといわれる。消費者は自分が欲しいものを知らないというのと同じことだ。その典型がアップルだ。アップルは市場調査をしないといっている。なぜなら「人々は自分が本当に欲しいものをわかっていないからだ」という。だからインサイト(人を動かす隠れた心理)を見つけるのがわれわれの仕事になる。日本語でいうと「洞察」。摩訶不思議な人の習性を理解する仕事。人は意外にもこんなものは許すけれど、こんなものは許さないとか、人間の心の奥にある不思議なものに近づこう、近づこうとする仕事というべきか。人の人たるゆえんは、知らないことを知りたいという欲望だ。知らなくても済むが、知らないとどうしてもいやだということがある。僕自身、いつも知らないことだらけだと思っているので、怖くて仕方ない。新しいマーケティングのセオリーとメソッドの基本をなしているのは認知心理学と言われています。従来の、消費者には顕在化した自覚ニーズがある、これが行動心理学的アプローチ。これに対して、需要は消費者の潜在的ニーズの集合でつくられる、これが認知心理学的アプローチ。前者は形式知、後者は暗黙知と呼ばれます。これからは暗黙知がキーワード。「人は意識し言葉にできる言葉の心の動きよりも、気づかない無意識な心の動きに強く依存している」(杉山恒太郎著『ジャパン・プレゼンテーション』角川oneテーマ21、P110)この広告の成功の秘訣は、人々の心の奥底に潜む本音の部分(暗黙知)を探し当てたところにある。当の本人たちも気づかない心理を見抜く、これがインサイト(洞察)。世界の広告界では80年代前後からコンシューマー・インサイト(消費者インサイト)と称し、こぞってこの技を競い、広告ビジネス発展の核としてきた。(杉山恒太郎著『アイデアの発見』インプレス、P3

お金を消す技通常、電通だと、営業がクライアントの窓口になる。クライアントの要望を汲み取り、クリエイティブを含め社内外のリソースを使って、それに応えていくことになる。ただ、僕の場合、幸いにも若くして「ピッカピカの一年生」で世に出たので、営業を通さず、クライアントから直接依頼が来ることがほとんどだった。とはいえ、命の恩人といえる営業担当者は何人もいた。特に予算については何度も助けられたものだ。「あのクライアントでさ、ここまでやりたいんだけど」「わかった。何とか予算を作るよ」といった関係だ。僕に限らず、トップクリエイターは皆そうだったと思う。あるいは営業がクライアントに対して何人かのクリエイターのリストを持っていて、「誰がよろしいですか?」「えっ?君と仕事すると、彼に頼めるの?」みたいなやりとりもあるようだ。少し恩着せがましく「でも、彼は忙しいから大変ですよ。何とか押さえましょう」あるいは「彼は僕のいうことなら聞きますから」みたいなこともいってるらしい(笑)。僕は若いときから後輩に「クリエイティブに友達はいらない。営業に友達を作れ」といってきた。予算を確保してくれたり、どうしてもやりたい企画を無理やり通してくれたり、最後に頼りになるのは営業だからだ。できれば営業に親友を作れとまでいったと思う。予算を取ってくるのは自分ではできない。クリエイター同士はライバル関係になりがちで、共に何かをなす関係になるのは営業である。仲のいい営業によくいわれたのは「おまえはほんとにお金を消すよね」ということ。どういうことかというと、クライアントにプレゼンしていて、どんどん盛り上がって、ぜひやりましょうとなっても、お金の匂いがプンプンしていると、「それ、高そうですね」と冷めることがある。でもお金の匂いを消していると、盛り上がりのまま全面的に企画が通ったりする。あとで大変なのは、予算を確保する営業だ。もちろん意図的にやっているわけではなく、こちらも夢中で、この企画がどれだけ面白いか、これが実現できれば、これだけ売れる、これだけ評判が良くなるとか、会社のクオリティがこれだけ高くなるということをプレゼンした結果だ。実際に広告業界をみても、バラエティに富んだ仕事をして才能を発揮しているクリエイターには、営業部門にかならず仲のいい友人がいます。というのは、営業担当者は広告制作のキャスティングにかかわることが多いから。それまで自分がやったことがないような新しいことに挑戦する場を彼らが与えてくれるから、おのずと活躍の場が広がる。つくり手の才能は、えてしてそうやって開かれていきます。(杉山恒太郎著『クリエイティブマインド』インプレスジャパン、P145)広告マンは意外にピュアにならざるを得ない。なぜかというと、広告はリアルビジネスのど真ん中で、表現者でいなくてはならないから。ある意味広告の人が、僕は一番純粋だと思っている。だから自分にも仕事にも真剣に向き合うし、若いときは、仕事を終えると、焼肉を食いながら明け方まで広告について真剣に話し合う。もちろん、仕事が面白いからだけれど、そのぐらい、お金のど真ん中で表現するということはピュアにならざるを得ない。

センスと努力広告にはビジネスセンス、クリエイティブセンスも当然必要。でもセンスは誰でも持っている。その人なりのセンスを。僕は最初の頃に先輩にいわれた「自分のセンスを信じてやりなさい」という言葉をずっと守ってやってきた。けれども、途中で自分のセンスを捨ててしまう人が多いような気がする。努力については、きれいな言葉があふれているが、故・野村克也監督の「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉が、けっこう当たっていると思う。クリエイターは、プレゼンで勝ったり負けたりする。コンペじゃなくても、自分が一番やりたいものが通らなかったり、再プレゼンになったりすることもある。そういうときに、ほんの少しでもクライアントや世の中のせいにすると、その先はない。それはやはり「ピッカピカの一年生」「セブンイレブンいい気分」など、企画が面白ければどんな相手や状況でも、スーッと決裁が下りるという経験をしているから。だから、うまくいかなかったときは、この企画やアイデアにはそこまでのスーパーパワーはないと思える。クライアントのいる仕事だから、いくらでも言い訳はできるけれど、企画に関しては一切他人のせいにすることはやめようと若いときに決めた。だから逆に自由になれたんだ。天野杉山さんは、テレビCM史に残る傑作をつくっていらっしゃる。なかでもぼくは、小学館の「ピッカピカの一年生」が、圧倒的にすごいと思っているんですよ。杉山入社して3年めくらいで「ピッカピカの一年生」と「セブンイレブンいい気分」をつくったんです。そのふたつのコピーとサウンドロゴだけで一生食ったヤツ、なんて悪友たちにいまでもいわれたりしますけど(笑)。(天野祐吉著『広告も変わったねぇ。』インプレスジャパン、P49)広告なのに自分の素が出せた唯一無二の幸運な仕事でもあった。ピッカピカはしっかりとリアルで、アンチロマンな僕の大好きな世界だった。(杉山恒太郎著『ピッカピカの一年生を作った男』小学館文庫、P207~208)けっこうたくさん見てきた事例として、クライアントにおもねって、最後、クライアントに捨てられるということがある。ものすごく悲しい現象だけれど、クライアントはそういう意味では残酷だからね。クライアントはお世辞ではなく、本当のことをいってほしいんだ。おもねると一瞬ウケたような気になるけれど、その蜜月は続かない。やがてクライアントから飽きられてしまう。それなら、あなたとは合わないということで切られたほうがまだいい。捨てる神あれば拾う神ありではないけれど、切られたほうがまだ未来がある。

コンペに勝つ方法広告代理店のクリエイターというと、コンペがつきもののように思われるかもしれないけれど、幸いなことに若くして「ピッカピカの一年生」や「セブンイレブンいい気分」がうまくいったから、基本的にコンペなしでやってこられた。でも大企業との大きなキャンペーンはコンペになるので、多い年で、年間一〇回ぐらいは参加した。会社を挙げて取りに行かなきゃいけない案件の場合、コピーライター誰々、プランナー誰々とタスクフォースが組まれる。早くからそのチームに入れられていたから、大きなコンペはいくつも経験している。相手が三〇~五〇人ぐらい聴いているようなところで話をすることもあったから、それはもうビビる。今だとパワーポイントが主流だと思うけれど、かつてはストーリーボードを作っていた。要は紙芝居のようなもの。それをバーンと置いて、口で説明する。横の人がガチャッとラジカセのスイッチを押して音楽をかけたりして、本当に紙芝居屋さんみたいだった。

プレゼンテーションはボイストーンプレゼンテーションで記憶に残っているのは、二〇〇二年ワールドカップの招致活動のとき。僕はクリエイティブ・ディレクターとしてタスクチームに参加していた。最終的にFIFAでプレゼンテーションをするわけだけれど、世界を相手に説得力のあるプレゼンテーションをしたいと思っていた。当時、中国の北京とオーストラリアのシドニーがオリンピック開催地を争っていた。結局、下馬評を覆してシドニーが勝ったんだけれど、すごいプレゼンコンサルチームの指導を受けたと話題になっていた。そこで、われわれもその人たちを呼んで指導してもらうことにしたんだ。日本人はボディランゲージが下手なので、そういうことを指導されるのだろうと思っていたら、一人ひとり呼ばれて、ボイストーンを決められた。彼らがいうには、プレゼンテーションというのはボイストーンなんだと。プレゼンテーションは内容ではない。ボイストーンだ、説得力というのは声の質だ。それぞれ、おまえはこのボイストーンの領域で話せと決められ、トレーニングを受けた。それを初めて体験して驚いた。確かにプレゼンテーションは声がすごく重要だ。もしかすると、声は人格かもしれない。一番怖いのは電話だという話もある。電話は顔も格好も見えないから、声だけでその人の人柄が伝わってしまう。しゃべり方もそうだけれど、切り方に一番人格が出るような気がする。ガシャンと置かれると、この野郎と思うよね(笑)。

突然、インターネット広告の世界へ「おまえ、リーダーをやれ!」といわれて、インターネット広告に取り組むことになったのは、まったくの青天の霹靂だった。周りの人たちは左遷ぐらいに思っていただろう。会社員生活で同僚から同情されたのもほぼ初めての経験だった(笑)。イメージとしては、ペンペン草も生えない凍てつく不毛の大地シベリア。そこを開墾して、何か作物を作れということに近い。電通でインターネット広告に携わるようになったのは、当時の天才副社長だった桂田(光喜)さんから、「恒太郎、おまえ、デジタルのリーダーやれ!」と言われたのがきっかけですね。(中略)インターネットはまだ海のものとも山のものともわからない状況で、稼ぎにもならないし、デジタル広告にクリエイティブという概念もほとんどなかった。当時は静止画のバナー広告だけですから。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P184)当時は、いわゆる四マス――テレビ・ラジオ・新聞・雑誌の広告も微増していて、足もとが怪しいという状況でもなかった。ただ、インターネットに手をつけないと広告代理店は先々大変なことになるということを、僕を指名した当時の副社長は見抜いていたのだろう。彼は本当に切れ者で、今日のインターネット環境、メディア環境に先手を打ってきた。インターネット広告推進協議会(現・日本インタラクティブ広告協会)を立ち上げ、初代会長を務めたりもされた(一九九九年)。彼のもと、僕は現場の先頭に立たされ、ロゴデザインなどの制作も任された。

吉田秀雄――「視聴率」という通貨とテレビCMというクリエイティブインターネットを広告代理店が扱うビジネスにするためにはどうしたらいいのだろうか?そこで初めてきちんと電通中興の祖・吉田秀雄(一九〇三~六三年)の著書を読んだ。吉田秀雄の時代、まだ日本では、テレビなんていうのはヤクザなメディアという扱いだった。彼は、アメリカの事情を知っていたこともあり、テレビが次の時代を席巻するというイメージを持っていて、「視聴率」という通貨を生み出し、クリエイティブの重要性も理解していた。そこで「電通賞」を立ち上げるなど次々に手を打っていった。吉田秀雄はすごい人で、1950年にすでに「広告は科学にたった芸術である」と言っています。広告は「芸術と科学の融合体」というわけです。その言葉に自分は勇気をもらいました。芸術というのはつまり、クリエイティブのこと。科学というのは、指標とかデジタル時代のマーケティングであるとか、クライアントが投資することに対する説得の材料です。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P189)吉田秀雄がやってきたことを見本にして、「東京インタラクティブ・アド・アワード(TIAA)」というインターネット広告に対するクリエイティブの賞の立ち上げに関わった。当時の僕はクリエイターではなく、クリエイティブを軸にしながら、どうしたらインターネットというものが安全・安心で、社会に信頼されるメディアになれるのかという取り組みに奔走していた。

広告の仕事はメディアの仕事インターネットはメディアか?それともただのマーケティングツールか?――当時は今から思うと滑稽なぐらいの議論が行われていた。神学論争ではあるが、僕はそのど真ん中にいた。そこで気づいたのが、僕はクリエイティブの仕事をずっとやってきたつもりだったけれど、実はメディアの仕事をしていたということ。実は、広告の仕事はメディアの仕事なんだ。その中にクリエイティブがあるわけで、メディアとクリエイティブをバラバラにすることはできない。電通も昔はクリエイティブという名前自体がなかった。テレビ局の中に「ラジオテレビ企画制作部(ラテ企制)」という部署があり、そこがクリエイティブを担当していた。僕もそこに所属していた。そんなクリエイティブ出身の僕が、あるときメディア担当の役員になった。電通はメディアの会社だから、おそらく前代未聞で、今後もないと思う。メディア担当の人間からしたら、前例のない人事であり、当然面白くないだろう。そういう状況で、彼らにどう話をしようかと悩んだときに、「そうだ、ラテ企制という言葉を使おう」と思いついた。「僕はメディア担当役員として、ふるさとに戻ってきた。元々あなたたちの中からクリエイティブというのは生まれたんだ」という話をした。みんな納得してくれたようだった。源流をたどれば、クリエイティブの奴が上に来ても、そんなに不思議なことではない。僕にとっても先祖返りのようなものだった。だから、広告代理店でクリエイティブであるというのは、メディアの仕事をすることなんだ。振り返ると、僕はラジオも作った、テレビも作った、新聞も作った。狭義に考えれば広告クリエイターだけれど、広義に考えれば、メディアの仕事をしてきたのである。話を戻すと、インターネットを社会的に認められるものにしよう、プレゼンスをきちんと作ろうということを、クリエイティブの僕が考えたり、戦略を立てたりすることは、別世界の人間が無理やりやっているのではなく、僕がずっとやってきた仕事の延長というわけだ。だから、みんなが考えるほど悲観的ではなかった。でも、普通に考えると、「そんなわけのわからないへき地に送られちゃって、調子に乗りすぎたのかな」みたいに思われていたのかもしれない(笑)。もう一つ、実はクリエイティブに飽きていた面もあった。若気の至りというか、ちょっと傲慢だけれど、何かやりきった感があった。会社を辞めて大学の先生にでもなろうかな、なんてことも思った。別世界に行きたいという思いがすでにあり、頭は切り替わっていた感じだった。ラッキーなことに、すぐにMITメディアラボに通ったりして、新しい世界に自分がわりとときめいていた。『ビーイング・デジタル』を書いたニコラス・ネグロポンテが、MITメディアラボの初期の長だった。彼には直接会う機会がなかったけれど、シーモア・パパートという天才に出会い、それがすごく刺激的だった。まさにお茶の水博士を彷彿させる人物で、すごく気が合い、ご飯を食べたりもした。彼の有名な言葉に〝learnhowtolearn(学ぶために学ぶ)〟というものがある。それを僕は今も実践しているつもりだ。帰国して僕が初めて手掛けたウェブサイトが、家庭教師のトライの「WillingtoTRY」(99年)です。世界を回ってハイレベルなものに触れるうちに、インターネットを使う限りは、やっぱりインタラクティブなクリエイティブをやりたいと思って作りました。バナー広告みたいなものではなくてね。「WillingtoTRY」のテーマは「子供の日」。ちっちゃい子供が描いた絵で、大人からは「イカ」に見えてしまうものも、子供にとってはそれがパパの姿(笑)。つまり、僕たちは世界は見えているのではなく、見ているのだという、そういう認識論的なことがウェブでやれないかと思ったんです。(『広告批評』2009年3月1日号、P101)この「WillingtoTRY」には後日談がある。初めて見よう見まねで作ったサイトが、なんとサンフランシスコのインビジョンアワードのtopoftop、グランプリを受賞することに!すごい歓声の授賞式でトロフィーを手にし、こりゃ大変な凱旋帰国になるかと思いきや、新聞には豆粒のような記事だけ(爆笑)。授賞式には日本の新聞記者もいたんだけどね。二〇〇八年一〇月、僕はグーグルのパーティーに出席するため、シリコンバレーのサンノゼへ行った。会場はスタンフォード大学の荘厳なる美術館内、パーティーのタイトルはツァイトガイスト(時代精神)という洒落たものだった。そこには当然、グーグル創業者の二人ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンもいた。会場の端っこに人見知りの学生のように立っていたのが印象的だった。こういう場に呼ばれるのも、電通デジタル部門のリーダーになったことの恩恵だ。そのグーグルもすでにクリエイティブに目を付けている。特に有名なのは、二〇一一年のカンヌライオンズサイバー部門グランプリを受賞したアーケイド・ファイアというカナダのバンドのミュージックビデオだ。左遷かといわれたデジタルの世界への転身だったが、僕は興味津々だった。トラッドなクリエイティブが大好きすぎたら、つらかっただろうが、いわゆるテレビコマーシャルの世界に飽きていた部分もあり、この世界が僕に一番合っているかもしれないという気持ちにもなっていた。

デジタルの説明に知恵を使うデジタルの担当になってから、デジタルとは何ぞやという話を大勢の前でする機会が増えた。僕も勉強しながらだから、今から思うと顔から火が出るようなことをいっていたと思う。僕を含め、当時上の世代の人間は、デジタルなんてちんぷんかんぷんでわからない。「おい、デジタルってのは空から飛んでくるのか?」と真顔でいう人がいる世界だった。僕はデジタルの説明をするとき、よく囲碁にたとえていた。デジタルは0と1の組み合わせで、囲碁も白と黒の碁石の組み合わせだ。一つひとつの石には意味がないけれど、さまざまな組み合わせによって意味が出てくる、なんて。あと、デジタル用語をいろいろなたとえを使って説明していた。たとえばパケット通信はこう。サントリーホールの中の大きなグランドピアノを輸送する際、そのまま運ぼうとすると、巨大なトラックが必要だけれど、分解すれば小さいトラック二~三台で運べる。それを目的地に着いたらまた組み直す。これがパケット通信の仕組みです、なんてね。みんな「なるほど」って納得していた(笑)。初期のデジタル局には慶應SFCの卒業生がたくさんいた。みんな生意気で鼻持ちならない奴らだったけれど(笑)、彼らからデジタルに関する解説を聞いて、それを何とか自分の言葉に翻訳して説明していたんだ。

『がんばれ!ベアーズ』僕が電通に入った頃は、広告代理店に行くということは、ほとんどの人がクリエイティブをやれると思っていた。「ディスカバー・ジャパン」みたいな大きなキャンペーンに関わりたい、オリンピックに関わりたいというように。広告代理店はそういう人たちの集まりだと思っていたら、まったくクリエイティブに興味がない理科系の人たちが入ってきた。その中に先ほどの慶應SFCの子たちもいた。広告のことなんか知らないし、関心もない。デジタル時代に対応するために、デジタルリテラシー優先で採用したわけだ。そして、これからはこういう子たちが会社に増えていくということもわかっていた。そんな異質な彼らとともにデジタル、クリエイティブで闘っていかなくてはならない。広告を知らない子たちと、どうやって成果を上げるか悩んだ末に出てきたのが「僕らは『がんばれ!ベアーズ』だ」という言葉。つまり、野球なんか全然できない子供たちを集めて、最後には、強いチームを作っていくアメリカのドラマになぞらえたのだ。『がんばれ!ベアーズ』は、さえない清掃人をしていた元野球選手を監督に、弱小少年野球チームが少しずつ成長して強くなっていく姿を描いた昔のアメリカのドラマなのですが、子どもたちは最初、ボールを打ったらサードに向かって走ってしまうくらいなにもわかっていない。局のみんなには「いまのきみたちは、それだ」といって、「でも、がんばれば強くなれる」と話しました。(中略)そこから2、3年のチームとしての成長ぶりはすごかったですね。みんなで自由に議論して思う存分に試行錯誤を重ねて、まるで魂がひとつのかたまりとなってスウィングしているみたいでした。ぼく自身もチームを率いていくよろこびを感じたし、リーダーとしての自信もつきました。(杉山恒太郎著『クリエイティブマインド』インプレスジャパン、P27~28)

デジタル黒字転換本書でも引用している『クリエイティブマインド』(インプレスジャパン)という書籍は、高崎卓馬くんというクリエイティブ・ディレクターが、僕の知り合いを訪ね、彼・彼女らに僕がいった言葉を集めてくれたものだ。びっくりしたのは、皆が僕にいわれたことをちゃんと覚えていてくれたこと。でも逆に自分ではいったことを覚えていない。こちらは必死に結果を出そうとして、現場のワイワイしている状況の中で言葉をひねり出している。皆が静かにしている前で訓辞を述べているわけではない。早い話、稼がないといけないから、冷静にいっているのではなく、「そんなところで立ち止まっていたら博報堂に負けちゃうぞ」とか、「そんなことでウジウジしていたら、おまえ、この局、お取り潰しになっちゃうぞ」とか、とにかく発破をかけたり励ましたりだった。特にデジタル局の頃は、極端にいえば、一~二週間に一回はこの局は社外に出されるという噂が流れていた。結果を出せといわれつつ、おまえらは変わり者の集団だって半分バカにされてもいた。そんな言い方はないだろうと思うけれど。最初の頃は、デジタルでちゃんと売上げが立つか、ビジネスとして成立するかもわからなかったから仕方がない面もある。局というのは一つの会社であり、局長というのが局の社長だ。そうすると、実態としては超赤字会社ということになる。それを意地でも黒字転換しようと思っていた。だから、最初の頃は裏技を使っていた。当時は僕が普通の広告仕事でそこそこ稼げていたので、その売上げをデジタル局に入れていたんだ。ただ、その後世の中全体がデジタルに傾斜していったので、三~四年後には黒字転換して、さすがといわれた。でもその中には僕個人のアナログ広告の仕事がいくつも入っていたと思う(笑)。

「コンテンツ」という言い方は艶っぽくなくてイヤだ表現物を「コンテンツ」といわれるのは違和感がある。人が頭をかきむしって、朝までうーうー唸って考えたストーリーなり言葉なりをコンテンツといわれるのはいやだ。映画監督のマーティン・スコセッシがインタビューで、「コンテンツっていわれるようになってから、映画は品が悪くなった」といっているのを読んで、えらく感銘を受けた。「コンテンツ」という言い方は、インターネットが出てきたからだよね。当時、クリエイティブなんて面倒くさいことをする必要はない、コンテンツだから買えばいいんだっていう言い方があった。そういわれると生身の人間が関わっている感じがまったく消え失せてしまう。言霊信仰ではないけれど、コンテンツ、コンテンツと口にしていると、本当にコンテンツになってしまう気もする。無味乾燥な、お金のためだけみたいな表現物になるというか。もちろんお金も大事だけれど、マネタイズ目的だけのものは、結果的にマネタイズされていかないと思う。一過性で儲かったりすることはあるだろうけれど、それはただただ消費を促すものに過ぎない。消費を促すものは、その本人も消費していく。最近はつくられたものを「コンテンツ」なんて小ジャレた呼び方をすることが増えたからか、どうもものづくりを人間の生々しさや泥臭さと関係がないことのように捉える風潮がありますよね。一時はIT業界の人が、「コンテンツなんて面倒なものは買えばいいんだ」といったりしたこともありました。そのせいか、コンテンツといわれると、なにかザルですくえる(モノ)のような、まるで人間がかかわっていない無機物のようで、とても違和感があります。(杉山恒太郎著『クリエイティブマインド』インプレスジャパン、P7

ライトパブリシティへ今僕が社長を務めているライトパブリシティは名門の広告制作会社だ。ただ、僕が移ってきた当時は、名門だけどもう古くない?という印象があったと思う。あまりにも細谷巖(アートディレクター、グラフィックデザイナー。現・代表取締役会長)と秋山晶(コピーライター。現・代表取締役CEO)がすごすぎて、その下の世代がまったく見えなかった。あと、ライトパブリシティ出身というと、それだけで食べていけた時代もあった。だから三年とか五年勤めて独立してしまう。でも、そんな独立のしかただと、それこそ三年ぐらいしかもたない。そういう時期があったので、ある世代がボコッと抜けていたんだ。一見、名門、老舗だけれど、外から見えないだけで、内部では相当な危機感があったと思う。実際、僕が移ってきてから若い子が何人かやってきて、「杉山さんが来てくれて嬉しいんですが、僕たち、大丈夫でしょうか」と聞かれたことがある。そのときは『がんばれ!ベアーズ』ではなく、別の方法で励ました。「J3とかJ2の監督が来たわけじゃなくて、J1の監督が来たんだよ。もしかするとヨーロッパリーグの監督かもしれない。だからトップの選手がどのくらい脚力があって、パスを出すタイミングがどのくらい早いか、全部わかってるから大丈夫だよ。安心してほしい」という言い方をした。実際、当時の電通クリエイティブにすごいメンバーが揃っていて、さらに切磋琢磨しながら素晴らしい仕事をしていた。本当にそういう時代だったから、僕のいったことも説得力があったと思う。組織のメンバーを励ましたり、モチベーションを上げたりするには、そのときの状況や環境を考えて内容や言い方を変えなくてはならない。だから場合によってはそれが、『ベアーズ』になったり「ヨーロッパリーグの監督」になったりする。ライト移籍後、ゴルフ場でもバーでも、何かにつけて、細谷巖さんと長い会話をしています。それは、ライトの68年(編集部注:2022年で71年目)の歴史について細部にわたって口伝を受けているのですね。多分このデザインの聖地、名門が潰えないよう、僕に伝承し、託してくれているのだと感じ、光栄なことでもあるのですが、ずしっと責任も感じざるを得ないのです。やっぱり会社は、社員のための教育システムがすごく重要だと思います。人材を成長させる教育と、フェアにきちんと評価できる仕組み。結局はそのふたつですね。実際、若い人がみんな稼げるようになったから、去年(編集部注:2017年)はこの10年で最高益を達成することができました。教育に3年かかりましたが、ちゃんと数字に出てくるとうれしい。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P200~201)

価値の再定義ライトパブリシティに移ってきてからは、この会社が広告制作プロダクションに見えないようにしようと考えた。特にコマーシャルプロダクションに見えたら、この先はないと思っていた。基本はデザイン会社なので、そこを打ち出していくことにしたのだ。ライトパブリシティは、二〇二一年に創立七〇周年を迎えた、すごくクラシックな会社だ。それは部署の名前にも表れている。コピーライターの部署は企画部、デザイナーの部署は美術部と雰囲気がある。ところが、映像を扱う部署はCM部を名乗っていた。これは良くない。すぐに名前を変えようということで映像部とした。これで企画・美術・映像となり、クラシックかつきちんとしていそうな感じが出る。これまでテレビCMが目立つ会社だったから、そのままいくと、どうしてもテレビCMを作る会社に見えてしまう。今、社員が一〇〇人弱いるけれど、テレビCM制作が中心の会社として見られたら、東北新社など大手の制作プロダクションとの比較だと一部署の人数に過ぎない。ところが、デザインを中心とした、デザインファームだと世の中に訴えると、一〇〇人弱でも世界規模のデザイン会社になる。つまり、位相をずらすだけで、日本の大手プロダクションの一セクション規模の会社が、世界規模の会社に化けるのだ。このこと自体が、一種の広告というか、「価値の転換」になる。もっというと「価値の再定義」だ。再定義をすることで、新しく生まれ変われる。僕が今やっている仕事の多くは企業のブランドデザインだけれど、そこで一番重要なことはこの「再定義」だと、経営者にも常々いっている。時代が変わったからと、あせって似合わない新しいことに手を出すのが一番まずい。今まで自分たちがやってきたことの足もとに知的資産は眠っているはずだ。それをもう一回フィーチャーして再定義し、新しい言葉を与えれば、見事に蘇るはずだ。それがブランドデザインであり、イノベーションでもあるのだ。「経営とデザイン」は、世界的潮流でもあります。いま欧米でビジネスイノベーションを起こすのに重要な要素といわれているのが〝3D〟。「デジタル/データ/デザイン」ですね。時代の最先端に居続けるためには、「ライトパブリシティはデザインファームです」と宣言することが大切です。67年も続いているということは、この会社がいつも社会に必要とされてきたということ。将来もずっと必要とされるためには、世の中とどういう形で関わっていけばいいのか。ヒントは歴史の中にあると思います。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P199)

葦みたいな奴葦みたいな奴だといわれたことがある。バタンと倒れて終わったかなと思ったら、またボコッと生えてくるイメージのようだ。しかも鋼できた葦なのだと。デジタルの世界に〝飛ばされた〟ときも、結果的にうまくいったので、葦のように思われたのかもしれない。自分ではそんなにがんばり屋だとも思わないけれど、自然体でいられ、誰に対しても態度が変わらないというのは自覚がある。これは、おそらく親の教育の賜物だろう。あと学生時代に二年間海外にいたのも大きいかもしれない。両親は「威張る奴は嫌い」とずっといっていた。また、いろんな外国の人たちの中で暮らすことで、他人に対する距離感をきちんと身につけられたのだと思う。高校まではバリバリにサッカーをやっていた。付属校だったので、当然のように大学でもサッカー部に誘われたが、もう運動部はいやだった。汚い合宿所に入らなくてはならないのも勘弁してほしいと思っていた。サッカー部からは逃げたが、「どうしても」と泣き落とされ、ホッケー部に入った。アイスホッケーではなく、グラウンドホッケー。当時、二部に落ちていて、一部に上がるまでという約束で手伝った。二年生時の入れ替え戦で防衛大学校に勝ち(3対2。しかも僕が2得点)、一部昇格が決まった。約束通り退部した。その後、フランスに留学する。時代は学生運動華やかなしり頃だったが、僕は距離を置いていた。とにかく昔から、どんな理由があっても群れることが苦手なんだ。学生運動をしている友人とはよく話をしたが、僕はカルチャーボーイになっていた。ストーンズを聴いて、ジャズを聴いて、ゴダールを観て、という生活がもう始まっていた。学生の頃、69年の春に、いまでいうバックパッカーみたいな感じでヨーロッパ旅行しているのね。ベルリン、ハンブルグ、パリ、ロンドンと。パリでは68年に五月革命が起こったんだけど、僕が行ったときはまだカルチェラタンに68年の匂いが色濃く残っていた。パリっ子というのはやっぱりカッコよくて、日本の学生運動と違うんですよ。「こんなおしゃれな子たちまで戦うんだ」と思った。(中略)最初にヨーロッパ旅行をした後、ソルボンヌに留学しました。父親が変わっている人というのか、戦争経験をしているからアメリカが嫌いなんですね。それで「アメリカ以外のところなら許す」というのもあったんだけど、パリに一年、バルセロナに一年いました。ある彫刻家と知り合って、そこのうちにお世話になったりしながら。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P17~18、P20、一部改変)

 

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