思いと成功
人間は、もし成功をめざすならば、自分の欲望のかなりの部分を犠牲にしなくてはならないのです。
私たちが達成に成功すること、また失敗することのすべてが、私たち自身がめぐらす思いの直接的な結果です。
公正な秩序が保たれているこの宇宙内では、いかなる調和の欠如も破壊につながります。
よって、そのなかで果たすべき個人の責任はとても重大です。
私たちのもつ強さも、弱さも、清らかさも、けがれも、ほかの誰のものでもなく、私たち自身のものです。
それらは、ほかの誰によってでもなく、私たち自身によってのみ育まれます。
私たちの環境もまた、ほかの誰のものでもなく、私たち自身のものです。
私たちの苦悩も幸せも、私たち自身の内側からあらわれます。
人間は自分が考えたとおりのものになるのです。
また、強い人間が弱い人間を助けることができるのは、弱い人間が意欲的に助けを求めているときだけです。
そして、たとえそのときでさえ、弱い人間は自分自身が強くならなくてはなりません。
もしあなたが強くなりたいならば、あなたがほかの人たちのなかに発見し、崇拝している強さを、自分自身の努力によって身につけなくてはなりません。
あなたの人格と人生を変えることができるのは、あなただけなのです。
これまで人々は、こう言いつづけてきました。
「搾取する者が存在するために、多くの人たちが奴隷のようにして生きている。
搾取する者たちはけしからん」 しかしいまや、正反対の判断から、このように言う人々も増えてきました。
「奴隷のようにして生きている人たちがいるために、搾取する者が必要とされている。
奴隷のようにして生きている人たちこそが問題なのだ」 じつをいうと、搾取する人たちと搾取される人たちは、たがいに協力しあっている人たちなのです。
そしてかれらは、どちらもつねに苦悩を手にし、その責任を相手側に向けていますが、実際に悪いのは自分たち自身にほかなりません。
深い理解の持ち主たちは、搾取する側が誤ってもちいているパワーと、搾取される側の弱さが、同じ法則にしたがってきわめて類似した結果を導き出していることを知っています。
深い愛の持ち主たちは、自分のほうこそが被害者だと主張するかれらを眺め、どちらの側にもつくことなく、双方に同等の同情を寄せています。
人間は、あらゆる身勝手な欲望を放棄しているとき、搾取する側、される側のどちらにも属していません。
そして、そのとき人間は真に自由な状態にあります。
もしあなたが自分の心と人生を根気強く観察し、分析したならば、弱さとはそもそも身勝手な欲望から発しているものである、ということにも気づくはずです。
私たちは、自分の心を高めることによってのみ上昇し、克服し、達成します。
そして、その努力を怠ることによってのみ、弱さ、絶望、苦悩のなかに留まりつづけるのです。
人間は、価値ある物事を達成するためには、たとえそれが、どんなに世俗的な物事の達成であっても、身勝手な欲望のなかから抜け出さなくてはなりません。
人間は、もし成功をめざすならば、自分の欲望の(すべては無理でも)かなりの部分を犠牲にしなくてはならないのです。
成功を手にできないのは、どんな人? 自分の欲望を優先させる人間は、明晰な思いもめぐらせず、秩序だった計画も立てられません。
自分の真の能力を発見することも開発することもできず、何を試みても失敗するでしょう。
自分の心を正しくコントロールする努力を怠っているかぎり、私たちは、大きな影響力をおよぼしたり重要な責任を果たしたりできる地位には、けっしてつくことができません。
そのとき私たちは、みずからの足で立ち、責任ある行動をとることができない人間です。
そして、その限界は、私たち自身が選び、めぐらしている思いによって創りだされているのです。
私たちは、犠牲を払うことなくしては、いかなる進歩も成功も望めません。
私たちの成功は、私たちがその達成をどれだけ強く決意し、その計画の上にいかに強く心を固定するかに加えて、自分の欲望をどれだけ犠牲にできるかにかかっています。
そして、私たちが自分の心を高めれば高めるほど……より気高く、より公正な人間になればなるほど……私たちの成功は、より大きな、より祝福された、より持続的なものとなります。
宇宙は、たとえ表面的にはどのように見えようと、貪欲な人間、不正直な人間、不道徳な人間を、けっして援助することがありません。
宇宙は、慎み深い人間、正直な人間、清らかな人間のみを支え、援助するのです。
過去の偉大な教師たちのすべてが、このことをさまざまな言い回しで指摘しています。
そして人間は、自分の心を高め、より気高い人間となる努力をつづけることで、身をもってこの事実を証明することができます。
知的達成は、知識の探求……生命と自然が内包する美と真実の追求……に捧げられた、深い思いの結果です。
この種の達成は、ときおり、虚栄心や野望と結びつけられることがありますが、そういった仮定は誤りです。
あらゆる知的達成が、粘り強い努力と非利己的で純粋な思いの自然な結果にほかなりません。
精神的達成は、神聖な熱望の果実です。
身勝手な欲望を放棄し、けがれのない美しい思いのみをめぐらそうと努めつづける人間は、太陽が天に昇り、月が満ちるのとまったく変わらぬ確かさで気高い人格を手にし、人々に大きな影響をおよぼすとともに、かれらからの大きな敬意を手にしうる地位へと上昇することになります。
あらゆる種類の価値ある達成が、努力と思いによってもたらされる王冠です。
自己コントロール、決意、けがれのない思い、気高い思い、正しい思いの援助を得て、人間は上昇します。
自己コントロールの欠如、怠け心、けがれた思い、卑しい思い、誤った思いの援助を得て、人間は降下します。
そして人間は、この世界におけるすばらしい成功へ、さらには、精神世界内の気高い地位へとさえ上昇したあとで、身勝手な思い、けがれた思いなどにふたたび身を任せることで、弱さと卑しさのなかにふたたび降下することもできます。
成功を維持するためには、警戒が不可欠です。
大きな達成を果たしたとたんに手を抜いてしまい、あっという間に落伍者の群れのなかに転落していった人々がどれほど多いことでしょう。
たとえ実業面の達成であっても、知的、精神的な達成であっても、とにかくあらゆる達成が、明確に導かれた思いの結果であり、同じ法則にしたがい、同じ行程を経て出現します。
それぞれの達成間に存在する違いは、その対象となるものが異なっているということだけです。
成功を手にできないでいる人たちは、自分の欲望をまったく犠牲にしていない人たちです。
人間は、もし成功を願うならば、それ相当の自己犠牲を払わなくてはなりません。
大きな成功を願うならば、大きな自己犠牲を、この上なく大きな成功を願うならば、この上なく大きな自己犠牲を払わなくてはならないのです。
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