築地の会席料理屋築地にある料亭の個室で、由紀は安曇の到着を待っていた。
先週、思い切って安曇にコンサルを依頼してから、由紀はかすかな希望がわいてきたような気がした。
相談相手がいることで、こんなにも精神が安らぐとは思ってもいなかった。
それにしても今日の会議はひどかった。
役員たちは、由紀をお飾りの社長だと思っているのは明らかだった。
彼らは好き勝手に言いたいことを口にした。
「製品(※3)在庫が増えたのは、工場がむやみに作りすぎたのが原因ではないか?」ハンナの大番頭で取締役経理部長(※4)の斉藤が、若い林田製造部長に詰め寄った。
林田は「指示された数しか作っていないし、売れないのはデザインが悪いからです」と、製品企画部長の千田を責めた。
千田は「君の部門で作る製品の品質が悪いから売れないのだ」と、逆に林田を批判した。
由紀には、彼らの会話がさっぱり理解できなかった。
議論が出尽くした頃、斉藤が由紀に慇懃に言った。
「私たちに的確な指示を出すのが社長の仕事です。
ご判断をお願いします」明らかに嫌がらせだ、と由紀は思った。
しかし、どうすることもできない。
じっと我慢するしかなかった。
「いや、遅くなって申し訳ない」もじゃもじゃの髪の毛をかきむしりながら、安曇が個室に入ってきた。
由紀は、立ち上がって深々と一礼した。
安曇は腰をおろすと、コップの水を一気に飲み干した。
「君は、お父さんから引き継いだ会社を、どのようにしたいと考えているのかな?」「先生にお願いするまでは、会社が破産したって構わないと思っていました。
しかし不思議ですね。
日を重ねるごとにハンナを失いたくない、という気持ちが強くなってきました。
でも、正直言って、何をすればいいのかわからないのです」由紀は、自分の気持ちを率直に伝えた。
それまで、目を閉じてじっと耳を傾けていた安曇が口を開いた。
「会社を失いたくない、と思う気持ちはよくわかった。
だが、社長である君は、誰も頼ってはいけない。
社長の仕事は会社を潰さないことに尽きる」由紀は顔から火が出る思いがした。
会社を潰さないことが自分の使命だとは、思ってもいなかったからだ。
単に父親から引き継いだ会社を潰したくない、と思ったに過ぎなかった。
心のどこかで、安曇が助けてくれるだろう、と願っていた。
ところが、安曇は、会社の運命は社長が握っている、というのである。
「社長として最初にするべきことは何でしょうか?」由紀は、おそるおそる聞いてみた。
すると、思ってもいなかった答えが返ってきた。
「まず、会計を学ぶことだ」(会計ですって)由紀は戸惑いを覚えた。
会社を経営するのに、なぜ会計が必要なのか見当もつかない。
それに会計用語は特殊だし、仕訳や数式を見ただけで拒絶反応が起きてしまう。
会計はこの世で最も魅力のない学問に違いない、と由紀はつねづね思っていた。
ルビンの壺の隠し絵「こんなものを買ってきたよ」安曇は紙袋から厚手の本を取り出してページをめくり、そこに描かれた奇妙な壺の絵を由紀に見せた。
「何に見えるかな?」どう見ても、白磁の壺だ。
それでも、と思い直して壺をじっと見続けた。
すると、不思議なことに、男女の顔が向き合っている絵柄がしだいに浮き上がってくるではないか。
「これは、ルビンの壺という名の『隠し絵』だ」それは、見方によって、壺に見えたり、向かい合う顔に見えたりする不思議な絵だった。
「大切な点は、最初は一方の絵しか見えないが、慣れてくると隠された別の絵が見えてくる、ということだ」「この『隠し絵』と会計とは、何か関係があるのですか?」由紀には理解できない。
「決算書(※5)を見るとき、初心者はひとつの見方しかできない。
しかし、訓練すると別の姿が見えてくる。
つまり、会計も『隠し絵』ということだ」(ほんとかしら)と、由紀は疑った。
もし事実なら会計は面白いかもしれない、とも思った。
「ひとつ例を挙げよう。
損益計算書には、目盛りつきの寒暖計が隠されている」「寒暖計ですか?」あまりに突飛な話に、由紀は返す言葉がなかった。
安曇は紙袋から買ったばかりのノートを取り出して、太い万年筆で2本の寒暖計を描いた。
それからマーカーで一方は黒色、片方は赤色に塗りつぶした。
「黒色の寒暖計は売上、赤色は費用(※6)を表している。
ところが利益はどこにもない。
しかし、この絵から利益の大きさを知ることができる。
では、利益はどこに隠れていると思うかな?」由紀は考え込んだ。
安曇の問いかけは何を意味しているか。
そして、今まで深く考えずに使ってきた「利益」とは一体何なのか。
「答えを言おう。
利益とは売上(※7)と費用の差のことだ。
上の寒暖計の長さから下の寒暖計の長さを差し引いた差額が利益を表している。
つまり、黒色の寒暖計が赤色の寒暖計より長ければ、その差が利益ということだ。
逆に、赤の寒暖計が黒色の寒暖計より長い部分が損失だ。
これで黒字と赤字の意味もわかったね」
「つまり、利益は単独には存在しない、ということですか?」由紀は、今まで利益は売上や費用とは別に存在するものだ、と思い込んでいた。
しかし、そうではないのである。
「その通り。
利益は差額概念なのだ」「先生が損益計算書を寒暖計とおっしゃるのには、なにか深い意味があるのでしょうか?」「利益は計算結果であって、手にとって確かめることはできない。
このことが、会計を謎にしているのだよ」「謎ですか」由紀は、安曇の表現が大げさに思えた。
単なる差額計算に過ぎないではないか。
しかし、目の前の会計のプロは、大まじめに謎だと言っているのである。
「これは会計の根幹に関わる重大なテーマだ。
いまはわからなくても、1年後には理解できるはずだ」安曇はこの話を一方的に打ち切った。
老婆と若い美女のだまし絵「会計は『だまし絵』でもある」安曇は別の絵を指さしていった。
「これは何の絵だと思う?」
由紀には若い女の子の後ろ姿のように見えた。
もしかしたら他の見方もできるのでは、と目をこらした。
すると老婆の横顔が見えるではないか。
少女の耳は老婆の目、少女の顔からあごは老婆の鼻だ。
「醜い老婆と若い美女の『だまし絵』だ」「この絵も会計と関係があるのですか?」その質問を予想していたように、安曇はうれしそうに笑みを浮かべた。
「会社が作る決算書は、『だまし絵的』であると言っていい。
会計のプロはさまざまなテクニックを使って、決算書の見栄えをよくしようとする。
女性が化粧をするようにね」「会計は、会社のありのままの姿を表していない、ということですか?」由紀が聞いた。
「そこが微妙な点なのだ。
許される範囲で見栄えを良くしている、と言うべきだろう。
上手な化粧のようなものだ。
しかし、化粧が過ぎると『だまし絵』になる」「私は、決算書は真実を表現したものだと思っていました」由紀には意外だった。
「真実を表現した決算書はこの世に存在しない。
決算書が伝える情報には、会社の主観(※8)が織り込まれている。
その主観によって利益は変動する」「主観ですか?」安曇は大きく頷いた。
「会計って、そのようないい加減なものなのですか?」由紀は納得できない。
会計のことは全くわからないにしても、そんなことがあって良いものか、と思った。
「会計はいい加減ではない。
僕は会計の本質を話しているのだ。
会計は自然科学のように絶対的な真理を追求するものではない。
ルールの上に立った相対的な真実を追求するものなのだ。
会計はルール違反を嫌う。
恣意性が混入するからだ。
恣意性を排除するための大前提が『ルールの継続適用(※9)』だ。
ちょうど道路交通法のようなものと考えたらいい」安曇は、会計を道路交通法に例えた。
日本では車は左側通行、アメリカでは右側通行だ。
どちらが正しいというものではない。
しかし、いったんどちらかを選べば、そのルールは守り続けなくてはならない。
ルールの絶対的な正しさは問題ではない(本当は右側通行が正しい、などという人はいない)。
会計も同じ考え方の上に成り立っている。
ルールを守り続けていれば、それが正しいのである。
会計ルール(※10)が絶対的な真実を求めない以上(もし求めれば、会計ルールそのものが収拾がつかなくなるほど複雑化する)、そのルールを適用した結果としての利益は、絶対的に正しいとは言えない。
会計における正しさとは、恣意性が入らないという意味なのである。
また、会社が選択する会計ルールはいくつか用意されているし、その選択は会社の意思で行うことができる。
ここでも会社の主観が入る。
さらに、多種多様な業態の会社を、限られた会計ルールで表現しようとしているのであるから、そこで描き出された結果(決算書)は、会社の実態の正確な写像ではなく、要約された近似値(※11)にならざるを得ない。
しかも、金額が確定していない費用は、合理的に見積もって計上することが要求される。
ここでも会社の主観が入り込む。
以上のように、会計数値は主観が入り込んだ要約された近似値なのである。
「会計数値や決算書は、程度の差こそあれ『だまし絵的』なのだ。
絶対的に正しいのではない。
経営者である君は、この点を知っておく必要がある」経営を引き継いだばかりの由紀には、まだその意味がよくわからない。
デザートの果物を食べ終わると、安曇は今日のまとめを始めた。
「経営とは会社を潰さないことだ。
そして、経営には会計が不可欠だ。
しかし会計数値を鵜呑みにしてはいけない。
それは『隠し絵』であり、『だまし絵的』であるからだ。
『隠し絵』が見つかれば、数字の裏に潜む本質を的確につかむことができる。
『だまし絵』を信じ込むと、とんでもない判断ミスを犯してしまう」由紀は一言も聞き漏らすまいと、懸命にメモをとった。
「次回からは、具体的な話をしよう。
そして、君は、約束通りここで学んだことを速やかに実行するのだ。
1年以内に高田支店長を脱帽させて、君も破産せず、僕も報酬をいただく。
これぞウィン・ウィンだ」うれしそうに安曇が笑った。
心地のいい酔いが由紀を包み込んだ。
安曇の丸い顔はますます丸くなった。
そして、由紀の気持ちは少しだけ晴れた。
解説損益計算書から読み取れるもの損益計算書は会社の経営成績を表している会社の一定期間の経営成績(業績)を表す決算書を損益計算書と言います。
業績は売上高と費用を比較して利益(損失)で表されます。
人が1年で1歳年を重ねるのと同様、会社も原則として1年間で区切って業績を計算します。
もっとも、めまぐるしく変化するこの時代に1年は長すぎます。
そこで、財務会計では半期あるいは四半期に一度決算して業績報告することが求められてきました。
また、経営者(社長や役員)や管理者(部課長)は、もっと短いスパンで業績をつかむ必要があります。
管理会計では通常、1カ月ごとに決算を行います。
これを月次決算と言います。
損益計算書からわかるさまざまな利益収益と費用は、ともに性質の異なるいくつかのグループによって構成されています。
したがって、どの収益と費用を比較するかで、差額としての利益(損失)の種類は異なります。
販売した商品や製品の代金(売上)から原価(売上原価)を差し引いた値が「売上総利益」です。
これを「粗利益」と呼ぶこともあります。
例えば、製品を100万円で仕入れて150万円で売れば、粗利益は50万円です。
これは、その販売して得た製品やサービスの付加価値の大きさを表しています。
次に、売上総利益から販売費と一般管理費を差し引いた値(つまり、売上高(売上原価販売費及び一般管理費))が「営業利益」です。
これは会社が本業で得た利益です。
商売をするには財務的(つまりお金の)基盤が不可欠です。
お金に余裕があれば預金や株式に一時運用しますし、逆に不足すれば銀行借入が必要になります。
営業利益に、これら財務活動から生じた営業外収益(受取利息と配当)と営業外費用(支払利息)を加減した値が「経常利益」です。
収益と費用の範囲を営業活動と財務活動まで広げた場合の利益です。
これは、会社の現実の実力を表しています。
「営業利益」があっても「経常損失」になってしまう理由は、財務的基盤が弱いからです。
経常利益に臨時的あるいは偶発的に生じた利益と損失を加味した値(つまり、すべての収益と費用の差額)が「税引前当期利益」です。
さらに法人税等を差し引いた値が「当期利益」で、年間の最終的な業績を表わします。
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