丸の内のワインレストラン由紀は丸の内の「仲通り」を有楽町に向かって歩いていた。
世界の有名ブランド店が軒を連ね、ビルのあちこちからピアノやバイオリンの生演奏が聞こえてくる。
安曇が指定した場所は、この通りにあるワインレストランだ。
その店は隣接するショップから好きなワインを持ち込めるので、ワイン愛好家に人気がある。
由紀は約束の時刻に5分遅れて到着した。
ところが、いつも時間厳守の安曇の姿が見あたらない。
あたりを見渡すと、ワインを片手に持った安曇が手を振りながら歩いてきた。
「いや遅れて済まない。
君に飲ませたい赤ワインを見つけるのに手間取ったよ」安曇は子供のような笑みを浮かべた。
「シャトー・ローザンセグラ。
ボルドーマルゴー村の2級ワインだ。
香りがすばらしく、タンニンがしっかりして力強い。
君も知っている、あのシャネルと同じオーナーだ」ソムリエが濃い紫色の液体をグラスに注ぐと、果実の香りが広がった。
由紀は飲むのを我慢して近況を説明した。
業績は順調に回復している。
しかし相変わらず製品在庫が多い。
先週も余った在庫をバーゲンで処分したのだが、その売値は悲しくなるほど安かった。
中には、定価の2割で引き取ってもらった製品もあった。
「結局、紳士服が残ってしまいました」「君の会社が目指すのは、バーゲン品メーカーか?それともシャネルか?」安曇は微笑みながら、きつい言葉を吐いた。
そして、何か言おうとする由紀を遮って話を続けた。
「シャネルの製品はなぜ高価なのか。
品質とデザインがすばらしいからか。
消費者の虚栄心をくすぐるからか。
あるいは、生産者の自信の表れなのか」すべて当てはまる、と由紀は思った。
シャネルの店には、途方もなく高価な製品が並んでいる。
しかし、それらは飛ぶように売れるのだ。
シャネルのバーゲンセールなんて聞いたことがない。
製品はすばらしい。
デザインも品質も文句がつけられない。
身につけているだけで心が弾む。
これは一体何なのか。
ワインにしても同じだ。
今飲んでいるローザンセグラの値段は、テーブルワインとは桁が違う。
それでも、客は買うのである。
「日本の生産者がこれと同じ値段のワインを作りたくても、そう簡単には作れない。
このワインのうまさは、ボルドーにあるマルゴー村の特殊な土壌と気候、栽培技術、醸造方法が作り出しているのだ。
しかし、高くても売れる理由はそれだけではない。
血のにじむ努力を重ねて、ブランド価値を高めた結果と言っていい。
君の会社とはすべてが違う」そんな有名な会社と比較されても困ります、と由紀は思った。
ハンナは所詮中小企業なのではないか。
由紀は少しふくれた。
「君の顔を見れば、今何を思ったのか察しはつく。
だが、この会社の姿勢を、経営者である君は学ばねばならない」「製品の売れ残りが減れば、経営は楽になるのですが」由紀は小声で言った。
「なぜ、バーゲンで処分するほど大量の製品在庫を抱えてしまうのだろう?」由紀はすぐに答えた。
「売れない製品が多すぎるからです」「ならば、なぜ売れない製品を作るのだろうか?」「」「以前、君に顧客のニーズを絞り込めないから売れない、と言ったことがあるね。
はっきり言おう。
顧客のニーズを絞り込めないのは君やデザイナーに自信がないからだ。
自信がないから製品の種類を増やし、ブランドを増やす。
どれかが当たってくれればいい、と思っている。
これでは、消費者に受け入れられるはずがない」製品が売れないことには、ビジネスは続かない。
かといって、ダメもとで品種を増やせば製品は売れ残り、在庫は増えてしまう。
「私はどうすればいいのですか?」「品種を絞り込み、その上でブランド価値(※20)を高めるのだ。
シャネルのようにね。
君は、働く女性を支えることのできる服を作りたい、と言ったじゃないか。
婦人服に絞り込んで、君の夢を実現するのだ」ブランド価値とは見えない現金製造機のこと「基本的な質問ですが、ブランド価値って何でしょうか?」由紀は、ファッションの世界にいながら、この意味がわからない自分が情けなかった。
「一言でいえば、見えない現金製造機(※21)だ」以前、安曇から固定資産は現金製造機だ、と教わった。
今度は、ブランド価値を見えない現金製造機というのである。
「ブランド価値がある会社は、ブランド価値がない会社に比べて、同じ製品であってもより多くの現金を稼ぎ出せる、ということだ」と安曇は付け加えた。
固定資産がなぜバランスシート上の資産としての価値があるかというと、それが将来にわたって現金を稼ぎ出すからである。
ハンナの北海道工場のように現金を稼げなくなれば、それは資産としての価値がないのである。
目には見えないブランド価値であっても、現金を稼ぐ力があれば、バランスシートに資産として計上するのは極めて当然だ。
「でも、どのようにブランド価値を評価するのですか?」由紀はいまだにピンとこない。
「ブランド製品が、ノンブランド製品等を上回って、将来にわたりどれだけの現金を超過的に稼ぎ出せるか、で評価するのだ」ノンブランド品なら稼げる現金は1億円であるとする。
しかし、ブランドがあることで将来にわたって2億円稼げるとする。
この場合、そのブランド価値は差額の1億円ということになる。
しかし、今日の1億円と1年後の1億円とでは価値は違う。
1年後の現金はリスクを供なう分だけ価値は少ない、と考えるべきだ。
そこで、リスクを割り引いて求めた現在価値が、そのブランド価値である。
「値崩れや売れ残りをなくすためには、ブランド価値は不可欠ですね」と、由紀がポツリと言った。
「シャネルは長い時間をかけてブランド価値を高めてきたのだ。
焦ることはない」ビジネスモデルを構築する「ところで、君の人生を振り返って、ディズニーのキャラクターと、いつどこで出会ったかな?」涼しい顔をして安曇が尋ねた。
いつもの唐突な問いかけだ。
「幼稚園に通っていた頃に父に買ってもらったのが最初です」と由紀は素直に答えた。
それから、ディズニーキャラクターのアニメや、実際の俳優が演じる映画を何度も見た。
子供の頃、由紀の部屋は買いためたキャラクターグッズでいっぱいだった。
今でも、クリスマスシーズンには友達と東京ディズニーランドに行くことにしている。
「君は特別に意識しないまま、ひとつのキャラクターから生まれたさまざまな派生商品を購入しているのだ。
すごいと思わないか。
これがウォルト・ディズニー社が発明したビジネスモデル(※22)だ」(ビジネスモデル)ウォルト・ディズニー社は、漫画本やアニメだけにとどまらずに、次々と関連する製品を開発してビジネス領域を広げた。
つまり、同じキャラクターを使って、何通りもの方法で現金を稼ぐしくみを見つけたのである。
「儲かっている会社は、優れたブランド価値だけでなく、その会社独自のビジネスモデルを持っている。
例えば、キヤノンやエプソンなどのプリンターメーカーはプリンタ本体の販売価格を安く抑えて、インクカートリッジで利益を上げている」ところが、ハンナにはブランド価値も、ビジネスモデルもない。
いつもの時期に、いつものように季節を意識した服を作って売るだけだ。
安曇の言う「見えない現金製造機」は、ハンナにどのような変化をもたらすのだろう。
由紀は安曇に聞いてみた。
「限界利益率が高くなる。
同じ服でも高く売れる。
新製品は発表と同時に完売する」由紀はなんだか楽しくなってきた。
いつの間にかローザンセグラは空になっていた。
「君の夢を叶えるためにも、婦人服だけを残して、あとのブランドは止めなさい」安曇がいつもとは違う強い口調で言った。
由紀は事の重大さを理解した。
もう、悩んでいる時間はない。
由紀は今日勉強したことをノートに書き留めた。
「次は軽めのブルゴーニュにしようか」
そう言い残して、安曇は再びワインショップに向かった。
解説株主価値とは何か?問題株主価値が大きいから株価が高いのでしょうか。
株価が高いから株主価値が大きいのでしょうか。
解答経営者の使命は株主価値を高めることと言われます。
経営者は事あるごとに株主価値の向上を口にします。
ところが、自社の正しい株主価値を知っている経営者は、ほとんどいません。
株主価値という概念は、それだけわかりにくく、意味が曖昧なままひとり歩きしているのではないか、と思います。
2つの株主価値測定法株主価値を測定する代表的な方法として、株式時価総額法とディスカウントキャッシュフロー法(DCF)があります。
まず株式時価総額法ですが、これは市場で決まる株価で評価しようとするものですから、簡単で合理的な測定方法のように感じられます。
しかしながら、この方法が合理性を持つ前提として、株式市場が理想的、効率的に動いていなくてはなりません。
現実には、株価は業績以外のさまざまな影響を受けますから、それが株主価値を表しているとは言えないことが多いのです。
時代の寵児ともてはやされた経営者たちは、「株式の時価総額が株主価値だ」と喧伝して、株価のつり上げに奔走しました。
しかし、彼らの主張が正しくないことは後で証明されました。
株式の時価総額法で株主価値を測定することには無理があるのです。
2つ目のDCF法は、将来予測されるキャッシュフローを現在価値に置き換えた金額を企業価値と考える方法です。
この企業価値から負債を差し引いた差額が株主価値です。
ちなみに、株主価値を発行株式数で割った金額が、株式の時価の理論値です。
DCF法は、最も理にかなっているとされています。
したがって、問題の解答は「株主価値が大きいから株価が高い」が正解です。
しかし、この方法に問題がないわけではありません。
その理由を説明しましょう。
DCF法適用上の問題点(不確実性)ひとつは、将来のフリーキャッシュフロー(FCF)の予測が不確実なことです。
もうひとつは、割引率次第で現在価値が大きく変わってしまうことです。
将来は不確実であるとの前提に立てば、FCFの予測に際してさまざまな仮定を設けざるを得ません。
しかも、その仮定には多分に主観が入り込んでしまいます。
これが第一の落とし穴です。
割引率も同様です。
これは、銀行や社債権者そして株主が要求する期待収益率(資本コスト)です。
つまり、金利、配当、経済情勢などさまざまなリスクを加味したものですから、これも評価する人によって異なってきます。
これが第二の落とし穴です。
DCF法が、以上のような不確実さの上に成り立った評価方法でありながら絶大な支持を得ている理由は、企業は現金製造機、という共通認識にあると思います。
企業を評価する際にキャッシュフロー概念を避けるわけにはいかないのです。
ブランド会計「見えない現金製造機」のうちブランド価値については、それを定量的に評価する動きがあります。
経済産業省経済産業政策局は、ブランド経営の重要性とブランド価値評価の必要性について、ブランド価値評価研究会報告書を公表しました(平成14年6月24日)。
経済のソフト化やIT技術の進展などに伴い、企業価値の源泉として、無形資産(インタンジブル)の比重が増大しており、ブランドは、その中でも最も重要な無形資産のひとつである、としています。
報告書は、ブランド力がノンブランド製品圧倒する競争力を3つ挙げています。
品質や機能が全く同一であるとしても、高い価格で販売できる(価格優位性)顧客が反復継続して購入するようになり、安定した販売数量を確保できる(ロイヤルティ)異業種や海外市場への拡張を用意する(拡張力)そして、ブランド資産をディスクローズ(公表)するとした場合の方法として3案を挙げています。
現行の財務報告制度のもと、連結財務諸表でバランスシートに計上する案現行の報告会計制度のもとで、連結財務諸表に対する注記等としてディスクローズする案現行の財務報告制度にとらわれずに、ビジネス・リポーティングの一環としてディスクローズする案経営の重点は有形資産(タンジブル)から、見えない無形資産(インタンジブル)に軸足が移ってきました。
このひとつの表れが、ブランド価値の「見える化」であり、知的財産権の保護であり、ビジネスモデルの特許化といった流れです。
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