内幸町の中華レストランワインレストランでのレクチャーの翌日、由紀は役員と管理職全員を集め、女性服と子供服を残して他のブランドは廃止する、と伝えた。
由紀は子供服を廃止するかどうか迷ったが、残すことにした。
仕事も子供も、そして家庭も、女性の幸せには欠かせない要素だ、と思ったからである。
斉藤経理部長をはじめ多くの役員から猛烈な反対意見が噴出したが、由紀は断固として譲らなかった。
ブランドの絞り込みは、大勢の従業員の職がなくなることでもあった。
これまで働いてきた従業員を解雇するのは辛かった。
しかし、由紀は人事部に任せることなく、真摯に会社の状況と自分の考えを説明した。
中には激高して声を荒げる人もいたが、大半は理解してくれたようだった。
そんな折、とんでもない事件が起きてしまった。
新規の取引先が、なんと取引開始後3カ月で倒産したのだ。
誠実そうに見えた社長は、ハンナの業績回復を後押ししてくれるはずだった。
パリとミラノに直営店をもち、そこを拠点にしてハンナ製品をヨーロッパで販売してくれる約束だった。
取引口座を開設するにあたって、念のため興信所から決算書を取り寄せたが、財務上不安な点は全くなかった。
興信所がつけた総合評価はAだったのだ。
だが、その後の債権者会議で、弁護士から決算を粉飾していたことが明らかにされた。
この事件を知った斉藤経理部長は、桜庭営業部長を責め立てた。
彼は責任をとって即刻辞表を提出したが、由紀は受理しなかった。
粉飾された決算書は、斉藤をはじめとして、役員全員が目を通し、顧問税理士にも分析してもらっていたのだ。
責任を桜庭ひとりに押しつけることはフェアではない。
由紀は、今回の不祥事の責任は自らにあるとして、減給2カ月を申し出た。
この由紀の決断は、従業員のあいだに瞬く間に広がった。
「新社長はなかなかのものだ」という評判が立った。
だが由紀は、残り少なくなった会社の預金通帳を眺めて、ため息をついた。
今回安曇が指定した場所は、内幸町にある広東料理店だ。
翡翠色の豪華な玄関の向こうは、まさしく中国である。
「安曇さまならすでにお越しです」チャイナドレスを着た女性店員は、由紀を安曇が待つテーブルに案内した。
経営者失格「詐欺にあったそうだね」安曇は今回の事件をすでに知っていた。
「みごとに騙されました」「よくある話だ。
失望することはない」あくどい会社は業績の悪い会社を狙い打ちにするものだ、と安曇は言った。
由紀はハンナが引っかかった手口を説明した。
数回の現金取引のあと、大量の発注が来た。
営業部長の桜庭は喜んで指定された倉庫に製品を出荷した。
ところが、その製品は持ち逃げされたまま行方がわからなくなった。
くだんの社長からも、連絡が途絶えたままだ。
「その会社は、お金に困って初めて詐欺を働いたようです」「それは間違いだ!」安曇は直ちに否定した。
まともな経営者であれば、詐欺行為は絶対にしない、と言った。
「つまり、君はその社長が詐欺師であり、その決算書が粉飾されていたことを見破れなかった、ということだ」「決算書を見て間違いないと思ったのですが」「君はまだまだ甘いな。
粉飾した決算書を見破れないようでは経営者失格だ」由紀は返す言葉が見つからなかった。
粉飾の見破り方「粉飾決算は犯罪だ。
今日は粉飾の見破り方をレクチャーしよう」粉飾決算とは架空の取引をでっち上げたり、認められない会計処理をしたりして利益をねつ造する詐欺行為である。
「ところで、君はバランスシートを見るとき、どこに注目するかな?」昨日の役員会で、斉藤が「取引を始める前に、架空在庫と架空売掛金を見破っていたら詐欺にあわなかったはずだ」と言っていたことを思い出した。
どうやら、在庫と売掛金を水増ししていたらしいのだ。
ただ、どのようにして金額を膨らませたのかは、社内の誰にもわかっていない。
「在庫と売掛金ですか?」「そうだね。
その2つは特に注意すべき科目だ」安曇はノートにバランスシートの絵を描いた。
バランスシートは、左右の合計金額がバランスしているからそう呼ばれる。
もし何らかの方法で左の資産を実態以上に膨らませれば、右にある利益も、その分増えたように見せかけることができる。
これが架空利益であり粉飾決算の原理だ。
北京ダックが運ばれてきた。
店員は黄金色の北京ダックの皮を、手慣れたナイフ捌きで皮をそいで皿に盛った。
安曇はその皮と細長く刻んだネギを米の粉で作った薄皮に巻き、甘いタレを付けて口に入れた。
カリカリに焼き上げた香ばしい北京ダックの皮から汁が解け出し、口の中を流れた。
「在庫を使った粉飾にはどんな手口があるのですか?」「数量と単価の水増しだ」在庫帳に架空製品をそっと載せておく。
あるいは、在庫帳の数字を書き換える。
こうして、数量を実際以上に膨らませるのだ。
もうひとつは、単価の操作だ。
単価を倍にすれば、在庫金額は倍になる。
通常、在庫を使った不正は、この2つの方法を組み合わせて行われる。
在庫金額を水増しすれば、その分だけ利益も膨らむ。
「今度は僕から君に聞こう。
架空の売掛金を増やすにはどうしたらよいかな?」こちらは簡単だ。
架空の取引をでっち上げる。
売れていない在庫製品を売れたことにする。
翌期の売上を先取りする。
「そうだね。
他にないかな?」由紀は考えた。
「それから子会社に無理に売りつける」と言った瞬間、由紀の脳裏にあの会社の手口が閃いた。
誠実そうな顔をした社長は、実は製品をパリとミラノの子会社に見せかけの製品販売をしていたのだ。
それだけではない。
売った製品を元の価格で買い戻して、また売ったに違いない。
取引はペーパー上の操作だけで行って、製品は倉庫に保管したまま動かさない。
同じ製品を子会社との間で売ったり買ったりすることで、売上と利益が積み上がる。
その結果、売掛金と在庫金額も膨れ上がったのだ。
「そんなところだろう」と、安曇は当然のように言った。
「在庫と売掛金以外に、粉飾の手口を思いつかないかな?」今期の利益を増やすには、今期の費用を翌期に付け替えればいい。
由紀は、交際費予算を使い果たした営業部員が、それを仮払金で処理しておき、翌期になって交際費として精算していたことを思い出した。
この手だ。
費用を仮払金にすれば、その分当期の利益が水増しできる。
金額が突然大きく増えたり、減ったりした科目に注意「粉飾の手口はわかりました。
でも、売掛金や在庫が多いからと言っても、その会社が粉飾しているとは限らない、と思いますが」粉飾を見抜けなかったのは営業部長だけではなかった。
在庫や売掛金が多いことは斉藤総務部長も気づいていたはずだ。
ところが、彼は粉飾決算とは考えなかった。
在庫や売掛金が多い会社はよくあるからだ。
現にハンナも売掛金や在庫は多い。
しかし、粉飾はしていない。
問題は、粉飾決算書とそうでない決算書をどのようにして見分けるのか、という点だ。
これは難問だ。
「決算書を見ただけで粉飾は見抜けるのですか?」由紀が尋ねた。
「会計のプロは、見抜くことができる」「本当ですか?」「まっ、多少の工夫を必要とするがね」と言って、安曇は粉飾の見抜き方のレクチャーを始めた。
「まずは比較だ」バランスシートの科目を3期分横に並べてみる。
ここで注意すべき点は、金額が突然大きく増えたり、減ったりした科目だ。
大きく動いた裏には何らかの事情がある。
それが何かを調べなくてはならない。
もうひとつのポイントは勘定科目だ。
在庫(材料、仕掛品、製品、商品)、売掛金、仮払金、繰延資産などは粉飾に利用されやすいので要注意だ。
損益計算書についても、同じように勘定科目を3期分並べる。
特に、なじみのない勘定科目には注意すべきである。
事業再生費用引当損だとか、引当金戻入益などといった科目が出てきたら要注意だ。
また、保有する自社株式(金庫株)や土地の売却収入を、売上高に紛れ込ませているかもしれない。
急に売上高が増えたら、その理由を聞くことだ。
さらに、利益率の推移にも注意が必要だ。
突然利益率が良くなった年は、何か特別なことがあったと考えてよい。
「しかし、なにより大切なことは、経営者から直接話を聞き、会社の営業所や工場を見せてもらうことだ。
百聞は一見に如かずと言うではないか」と言って、安曇は締めくくった。
在庫を使った粉飾は麻薬「ひとつ質問をしよう。
一度製品在庫を使った粉飾に手を出すと、その翌年はもっと多額の粉飾に走りがちだ。
なぜだかわかるかな?」簿記を勉強したことがない由紀には、その理屈がさっぱりわからない。
「製品在庫を過大に計上するということは、当月の費用(売上原価)の一部を翌月に付け替えるのと同じことだ。
その結果、当期の利益はその分多く計算される。
ところが、翌月の費用がその分多くなるから、利益は自動的に少なく計算されることになる」在庫を使った利益操作の原理は、今期の費用(売上原価)を資産(製品)として翌期に先送りすることである。
翌期に繰り越された資産(製品)は翌期の費用(売上原価)になるから、費用は増えて利益はそれだけ少なくなる。
つまり、在庫を使った粉飾は、「利益の先食い」と同じことなのだ。
「一度在庫を操作すると、翌期の利益はその分少なくなる。
だから、翌期はもっと大規模の在庫操作に走りがちだ。
在庫金額が年々大幅に増えている会社は要注意ということだ」「麻薬のようですね」「その通り。
在庫を使った粉飾を放置すれば、その先に経営破綻という悪夢が待っている」杏仁豆腐が運ばれてきた。
こってりとして料理の後にはうってつけのデザートだ。
「今日学んだことを一言で表してごらん」「粉飾決算書には気をつけよ、ですか」「整形美人にご用心、の方がいいな」
と言って、安曇は笑った。
解説その他のよくある粉飾決算の手口本文で取り上げた以外の粉飾の手口を紹介しましょう。
費用の繰り延べによる粉飾ソフトウェア開発会社や建設工事会社でよく見られる粉飾の手口があります。
それは、完了したプロジェクトが赤字になることがわかった段階で、その費用を別の進行中のプロジェクト(つまり仕掛品)に付け替える方法です。
完成したプロジェクトの費用ですから、今期の費用とするのが正しい処理です。
しかし、別の仕掛中のプロジェクトに忍び込ませるとその費用は翌期以降に繰り越されます。
こうして、費用を資産(仕掛品)化して利益を水増しさせるのです。
プロジェクトごとに受注から完成までのデータを追っていけば、粉飾の事実は自ずと見えてきます。
連結外しによる粉飾カネボウ事件とライブドア事件は、悪しき粉飾事例として歴史に残ると思われます。
両社が使った共通の手口は「連結外し」です。
連結決算では、連結会社間の取引はなかったものとされます。
例えば、親会社から子会社へどれだけたくさん売り上げても、その売上は損益計算には計上されません。
もし、子会社を連結対象から外せば、その会社に対する売上は計上されることになります。
また、連結対象会社が赤字の場合、それを連結の対象から外せば、グループの業績を良く見せることができます。
カネボウは、取引先の毛布メーカー「興洋染織」など不採算関係会社15社に損失を押しつけるとともに、意図的に連結決算から外して660億円もの損失を隠しました。
また、ライブドアは投資事業組合から得た自社株の売却益をグループの利益として水増ししていました。
これらの取引をひとつひとつ会計ルールに照らし合わせると、ルール違反かどうかの境界線上、と言えなくもありません。
しかし、全体を俯瞰すれば、利害関係者を騙すことを目的とした偽装行為であることは明らかです。
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