原価引き下げの3つの提案翌日、由紀は林田製造部長を呼んで、今後の原価計算の方針を話し合った。
林田は、「いままで何度も原価計算を試みましたが、いつも従業員の反発で失敗しました。
今回は全社プロジェクトですから必ず成功させます」と力強く言った。
その日の午後に幹部会が開かれた。
そこで大森生産管理部長からドラスティックな製品原価引き下げの方法について、三つの提案があった。
第一は、富山工場を閉鎖して生産拠点を中国に移す案。
生産部門の従業員の一部は新会社に転籍する。
中国に子会社を作れば、安い製品を安定的に調達できる(中国進出案)。
第二は、同じく富山工場を閉めて、生産のすべてを中国企業に委託する案。
この案を採用すれば、ハンナは企画部門と販売部門だけで、生産部門は不要になる(生産委託案)。
そして最後の案は、自社工場はそのままにして、積極的に協力会社を活用するというものだった(外注工場積極活用案)。
顧客から追加で注文を受けた場合、特に効果がある、と大森は強調した。
これら3つの案すべてに対して、林田製造部長は否定的だった。
由紀と打ち合わせた通り、まず富山工場の生産性を上げることに専念すべきだ、と主張した。
「工場はまだまだ改善の余地がありますし、中国進出のリスクは絶対に避けるべきです」林田の発言を遮るように、斉藤経理部長が由紀に向かって言った。
「大森君の提案について、経営の最高責任者である社長の指示をお願いします」斉藤のわざとらしい言い方に悪意が感じられた。
由紀は、またもや難題を抱え込んでしまった。
神楽坂にあるワインレストラン神楽坂にあるワインレストランは、いつものようにごった返していた。
フランス人のウェイターがメニューを手渡すと、安曇はシャンボールミュジニーを注文した。
ほのかに果実の香りがする上品で繊細なブルゴーニュの赤ワインだ。
「また頭の痛い問題を抱えてしまいました」由紀は幹部会でのやりとりを安曇に伝えた。
「生産管理部長の大森が中国に生産子会社を作りたい、と言うのです。
斉藤経理部長も大賛成のようです。
会議が終わってから斉藤に『経営者は常に機会損失(※25)を考えなくてはいけません』と忠告されてしまいました」「斉藤さんは、中国に進出しないと会社は損失をする、と言いたいのだね。
それで君はなんと答えたのかな?」「時間をください、と言っただけです」由紀には機会損失の意味がわからなかった。
そして、斉藤のいやみな忠告も不愉快だった。
由紀はシャンポールミュジニーを一口飲んだ。
その繊細で優雅な香りと味が、高ぶる気持ちを抑えてくれるのを感じた。
経営者の仕事は機会損失を最小にすること「ところで、君は株をやったことはあるかな?」いつもの唐突な質問が始まった。
「私は株はやりませんが、母は大好きです」「お母さんは株で儲かっているの?」「いいえ。
いつも、あの株を買うべきだったとか、あの株を売るべきではなかったとか、年中不満ばかり言っています」「君のお母さんは、機会損失を悔やんでいるわけだ」「これも機会損失なのですか?」「その通りだ。
他の株式を購入していたら得られたであろう値上がり益が機会損失だ。
逆に、株を売ったときも、もしその株を持ち続けていたら得られたであろう利益が機会損失となる」「機会損失って、経営に必要な概念ですか?」「経営で最も大事な概念と言っていい。
経営者の仕事は機会損失を最小にすることだ」今まで教わってきた概念とはどうも考え方が違うようだ。
由紀は、もっと具体的に知りたくなった。
「機会損失の管理に失敗すると、会社はどのような事態になるのでしょうか?」「僕が半導体企業のコンサルタントをしていたときの話をしよう。
半導体の値崩れで、その会社の業績は悪化した。
しかし、そこで新規設備投資を躊躇すれば、韓国、台湾勢に水をあけられるのは明らかだった。
今こそ勝負を賭けるべきだ、と社長を説得したが投資は先送りされた。
その隙をついて、競争相手の韓国企業は5000億円以上の研究開発や新世代半導体の設備投資に打って出た。
結果として、僕のクライアントは、シェアを一気に奪われてしまった。
実際の機会損失は、社長が予想した額をはるかに超えていたのだ。
君のお母さんが買い損なった株の値上がり益と、理屈は同じだ」中国進出案由紀には、中国に生産子会社を設立する案が合理的なのかどうか、全く見当がつかない。
そもそも、中国に子会社を設立するメリットがはっきりしないのだ。
大森は、中国は低賃金だから自社で作るよりずっと安く作れるという。
だが、最初の投資資金を考えると、本当に有利なのか、判断がつかない。
由紀は考えあぐねた。
「これまでに勉強したことを思い出してみなさい。
子会社を設立するということは、新たに現金製造機を購入することと同じだ。
この投資が合理的かどうかは、その子会社が将来にわたってもたらす現金(キャッシュフロー)の大きさによって判断すべきだ」「最初の投資金額と増加するCF総額の現在価値の比較ですか」「その通り。
ハンナは中国子会社からの仕入価格をできる限り低く抑える(中国の会社は利益は出さないようにする)。
こうすればハンナの仕入原価は下がり、下がった分だけハンナの利益は増える。
そこで、将来見込まれるCFの現在価値と当初の投資金額を比較して、CFの現在価値が投資金額より大きければ、中国に子会社を設立する案は有利と判断できるのだ」由紀は中国に行ったことがないが、中国ビジネスの難しさは話に聞いている。
本当に十分なCFを獲得できるのだろうか。
仮にCFが見込めるとして、どのようにして現在価値を計算するのだろうか。
「現在価値の計算はそれほど単純ではない。
リスクが見込めないからだ」CFの現在価値は、前提とする条件により大きく変わる。
将来のリスクを考慮すると結論は逆転することもありえる。
例えば、中国ビジネスの場合、現在価値の割引率は日本で投資するよりも高い。
そうなれば、CFの現在価値は予想以上に低くなり、当初の投資金額には及ばないかもしれない。
ところが、大森はこうしたリスクを考えずに、製品原価が下がるから中国進出は有利だ、と短絡的に結論を出したのだ。
「先生は中国進出案に賛成ですか?」「僕は子会社を設立して進出する案には賛成できないな。
ハンナの人材ではこの会社を経営しきれないだろう。
しかも、もし経営に失敗しても、簡単には撤退できない。
どういうことかというと、会社を清算するには中国政府の許可が必要になるのだ。
許可が下りるまで、現金は垂れ流し状態になりかねない」由紀の腹は固まった。
中国進出案は却下だ。
中国企業に生産を委託するべきか?「富山工場を閉鎖して、提携先の中国メーカーにすべての製品を生産委託する、という案はどうでしょうか?」「これも止めるべきだ」安曇は即座に否定した。
海外生産の場合、製品原価と運送料の引き下げを同時に実現するため、一度に少品種の製品を大量に発注する。
このため、国内生産と比べて製品の企画からリリースまでの期間が長くなる。
通常、半年前には新製品の生産準備を始めなくてはならない。
ところが、アパレル製品は、何がヒットするか予測が難しい。
天候に大きく左右されるし、競争相手は数え切れない。
「もっと早く発表すべきだった。
もっと多く作ればよかった。
もっと生産量を少なくすべきだった」といったように、機会損失との戦いでもある。
だから、市場情報に細心の注意を払いながら、生産と在庫枚数を決める必要がある。
よほど経営戦略がしっかりしていない限り、海外生産はリスクが大きすぎるのである。
「君が目指そうとしている会社には海外生産は向かない。
しかも、現金が長期間寝てしまう。
つまり資金効率が悪い。
この重大な時期に自社工場を閉鎖して、海外の会社に生産委託する案は全く話にならない」由紀は、頭の中を支配していたモヤモヤが一気に晴れた気がした。
これで、2つ目の提案も却下だ。
自製か外注か3つ目の案である。
生産管理部長の大森が外注を積極的に使いたいと考えるのには、それなりの理由があった。
自社工場の現状では、残業をしないと追加注文に応じきれない。
残業代を支払うと赤字になってしまう。
しかし、加工単価が安い外注を使えば十分利益が出る、というのだ。
「大森がこんな説明をしていました。
先週、冬物コート100着を120万円(1枚1・2万円)で追加注文がありました。
この製品原価は1着あたり1万円(材料費6千円、加工費(※26)4千円)です。
自社工場で生産すると、残業手当と電気代合わせて残業代が20万円余計にかかります。
100着の製品原価は、この残業代を加えると120万円になりますから、利益はありません。
でも、外注で作れば40万円で済みます。
材料費60万円を加えると製品原価は100万円となり、20万円の利益が出る、というのです」
由紀は大森の案には抵抗があった。
お金はできる限り使いたくない。
ところが大森は、社外に現金が出ていく案の方が合理的だというのである。
由紀には理解できなかった。
由紀はなるべく自社工場で対応したいと考えている。
残業手当が増えれば従業員は喜ぶはずだ、とも考えた。
「大森さんは外注を使った方が20万円分有利になると言うのですが、私には納得いかないのです」「君の直感が正解だ」安曇は説明を始めた。
「自社で作っても、外注で作っても、工場の維持費(固定費)は変わらない。
この費用は意思決定をする上で考える必要はない(埋没原価(※27))。
また、材料もすでに購入済みだから、これも新たな現金の支出は生じない(同じく埋没原価)。
今回のケースで変化するのは、残業代と外注費だ。
自社工場で生産すれば、120万円の現金収入(売上)と20万円の現金支出(残業代)をもたらすから、儲けは100万円だ。
外注で作れば、儲けは80万円(現金収入120万円外注への支払い40万円)となる。
つまり、儲けの大きさは、自社で作る方が外注を使うより20万円多い(差額利益(※28))ことになるのだ」
「自社工場で作った方が有利ということですね」「その通り。
大森君は残業代の分だけ製品原価が増える、と単純に考えてしまったようだ」「この提案も却下ですね」由紀の顔から笑みがこぼれた。
「前回教えたように、材料費と工場維持費の削減、そして製造スピードを速くすることに全力をあげなさい。
そうすれば、製品原価は間違いなく下がる」この3つの案は大森と斉藤が考えたのだろう、と由紀は感じていた。
難題を突きつけて、意地悪しようとしているのだ。
そんな彼らの術中にはまり、うろたえてしまった自分が情けなくなった。
気がつくと、料理もワインもなくなっていた。
安曇は食べ足りないのか、由紀に言った。
「寿司でもつまみに行こうか?」
安曇と由紀は店を出て神楽坂を下った。
解説戦略的意思決定と戦術的意思決定経営の意思決定には、戦略的意思決定と戦術的意思決定があります。
戦略的意思決定は、長期的視点に立って、何を実行し、何を実行しないかを選択し、経営資源を集中する意思決定です。
換言すれば、人・モノ・金といった経営資源の配分の決定であり、中期経営計画を実行に移す意思決定です。
大森が提案した第1案と第2案が該当します。
戦術的意思決定は、短期的な視点で、現実に起きた課題(障害物)にどのように対処するかを決定することです。
従業員数や設備などの経営資源を前提(中期経営計画で配分済み)として、日常的な業務活動において行われる意思決定です。
本文でいうと、3案(自製か外注か)がその代表例です。
戦略的意思決定は、それが将来の方向性を決める(布石を打つ)という意味で、会社に決定的な影響を及ぼします。
安曇教授が挙げた日本の半導体業界がそろって韓国勢に遅れをとってしまったのも、逆に、トヨタ自動車が積極的な投資で世界第二位の自動車メーカーに名乗りを上げたのも、戦略的意思決定の結果(機会損失の管理)がもたらした現実でした。
一方、戦術的意思決定は、人・モノ・金などの経営資源の配分結果を前提としていますから、判断ミスの修正は比較的可能です。
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