第10章おわりに──自分自身をじっと見つめるセレンゲティのサバンナでサーベルタイガーに追いかけられながら、私たちは旅を始めました。本書も残り数ページとなり、私たちの旅も終わりに近づいています。旅の途中では、チンパンジーが驚異的な自制心を発揮したかと思えば、多くの人が理性を失ってしまう姿も目にしました。数々の研究所を訪ね、ダイエット中の人たちがチョコレートケーキに必死に抵抗する姿や、神経科学者によって解明された報酬を期待する脳の働きが、神経学マーケティングに利用されている様子も目撃しました。行動を変えるためのモチベーションを向上させるさまざまな方法も学びました。プライド、自分を許すこと、エクササイズ、瞑想、仲間どうしの励まし合い、お金、睡眠など、じつにいろいろな方法がありました。また、科学の名においてラットに電気ショックを与えたり、喫煙者を苦しめたり、4歳の子どもをマシュマロで誘惑したりするような心理学者たちにも出会いました。この旅が読者のみなさんにとって、科学の素晴らしい世界を垣間見る機会となっただけでなく、多くの収穫をもたらすように祈っています。私たちはそれぞれの研究事例から、自分自身や意志力のチャレンジについて学ぶことができます。そして、自分がどの程度の自制心を持ち合わせているかを認識することもできます──ときには思うように発揮できないこともあるとしても。また、研究事例を自分の身にあてはめてみることで自分の欠点に気づき、それを克服する方法を知ることができます。そうしたなかで、人間らしさとはどういうものかもわかってくるでしょう。たとえば繰り返し見てきたように、私たちのなかにはひとりではなく何人もの自己が存在します。ひとりの人間のなかには、目先の快楽に走ろうとする自己と、もっと大事な目標を忘れない自己が存在します。私たちは生まれつき誘惑されやすくできていながら、いっぽうで抵抗する力ももっています。ストレスや恐怖を感じたり、理性を失ったりするのも人間らしいことなら、ぐっと踏みとどまって冷静さを保ったり、よく考えて選択したりするのも、同じくらい人間らしいことです。自己コントロールとは、そのような自分自身のさまざまな一面を理解できるようになることであり、まったくちがう人間に生まれ変わることではありません。自己コントロールの探求においては、私たちが自分に向かってふりかざすおきまりの武器──罪悪感、ストレス、恥の意識──は何の役にも立ちません。しっかりと自分をコントロールできる人は、自分と戦ったりはしません。自分のなかでせめぎ合うさまざまな自己の存在を受け入れ、うまく折り合いをつけているのです。自己コントロールを強化するための秘訣があるとすれば、科学が示しているのはただひとつ、注意を向けることがもたらす力です。すなわち、行動を選択すべきときはそれをしっかりと意識して、ただ漫然と惰性に従って行動しないように注意すること。言い訳をして物事を先延ばしにしたり、よいことをしたのをいいことに自分を甘やかそうとしているのに気づくこと。報酬の予感は必ずしも報酬をもたらすとは限らない、そして将来の自分はスーパーヒーローでもなければ赤の他人でもないと認識すること。身の周りのどんなものが──販売戦略からソーシャルプルーフまで──自分の行動に影響を与えているかを見極めること。いっそ分別など捨てて誘惑に負けてしまいたいようなときに、ぐっと踏みとどまって自分のなかの欲求を静かに見つめること。そして、自分がほんとうに望んでいることを忘れず、どうすれば心からうれしく思えるかをわきまえていることでもあります。このような自己認識は、自分が困難なことや最も大事なことを行なうときに、つねに力を貸してくれます。それこそ、意志力とは何たるかを最もよく表しているでしょう。最後に科学的な探究の精神にのっとって、私は「意志力の科学」の講座の最後に受講生たちに必ず質問します。これまでに学んだことや試してきた実験のなかで、とりわけ印象に残っていることを訊くのです。最近、科学者の友人がいみじくもこう言いました。科学的な思想に関する本にふさわしい結び方があるとすれば、それは「あなた自身の結論を導いてください」ということにほかならないだろう、と。そこで、最後にひとこと述べたい誘惑にかられながらも、「やらない力」をふりしぼってみなさんに質問します。・意志力や自己コントロールについてのあなたの考えは変わりましたか?・どの意志力の実験があなたにとって最も役に立ちましたか?・〝目からウロコ〟の瞬間を味わったのはどんなときでしたか?・これからも実践しようと思っていることは何ですか?どうぞこれからも科学者のようなものの見方で臨んでください。新しい方法をどんどん試し、自分自身のデータを集め、得られた事実をじっくりと観察しましょう。あっと驚くようなアイデアにもつねに心を開き、失敗と成功の両方から学んでください。効果のある方法を継続し、学んだことを他の人たちと分かち合いましょう。さまざまな人間らしい矛盾を抱え、誘惑にあふれた現代に生きる私たちにとっては、それが自分にできる最善のことです。しかし、好奇心と自分への思いやりを忘れずにそれを行なっていけば、充分すぎるほどの見返りがあるでしょう。
訳者あとがきケリー・マクゴニガルは、スタンフォード大学の新進気鋭の心理学者です。本書のベースとなった「意志力の科学」をはじめ、「思いやりの科学」「マインドフルネスの科学」など興味深い授業を展開していますが、なかでも「意志力の科学」は〝人生を変える授業〟と絶賛され、大人気を博しています。そんなマクゴニガルの授業は高い評価を受け、スタンフォード大学で最も優秀な教職員に贈られるウォルター・J・ゴアズ賞をはじめ数々の賞を受賞しました。CBSやCNN、「タイム」、「USAトゥデイ」などメディアで広く取り上げられ、2010年には「フォーブス」の「人びとを最もインスパイアする女性20人」にも選ばれています。今後さらなる活躍が期待される注目のリーダーです。講座「意志力の科学」では、心理学、神経科学、医学の各分野から自己コントロールに関する最新の見解をわかりやすく説明し、意志力を強化するためのさまざまな戦略を紹介します。各受講生は「なりたい自分」になるための身近な目標を設定し、その目標を達成するために、授業で学んだ戦略を次の授業までの1週間、実生活において試すという「実験」を行ないます。その結果、自分にとってどの戦略が効果的だったかについて、受講生たちは教室のみんなの前で熱心にフィードバックを行ないました。そして、試行錯誤を繰り返しながらも、ついには目標を達成し、「なりたい自分」に一歩ずつ近づいていきました。本書は講座と同じく10週間のプログラムとして構成されています。本書を読みながら、各章の戦略を受講生のようにひとつずつ試して「実験」を行なっていけば、自分にとって最適な自己コントロールの方法を発見することができます。意志力というと、「意志あるところ道は開ける」「精神一到何事か成らざらん」などのことわざが思い浮かび、とかく精神論に傾きがちです。けれども、意志力の問題はすべての人に共通の悩みであり、意志力を強化することは精神論とは無縁であることを、マクゴニガルは科学的にはっきりと示しています。意志力を強くするために必要なのは、失敗に対する罪悪感や自己批判ではなく、自分に対する思いやりと、自分の心と体の反応を科学者の目で観察することだと説いています。そして、思考や感情を抑えつけたり、欲求を頭から否定したりせず、行動をコントロールする方法を身につけることが重要だと述べています。つまり、エクササイズのように正しい方法を実践すれば、意志力を鍛える方法を身につけることができるのです。心身相関(心と体の関係)を重視するマクゴニガルは、ヨガ、瞑想、統合医療に関する学術専門誌「インターナショナル・ジャーナル・オブ・ヨガ・セラピー」の編集主幹を務めています。授業や活発な講演活動のあいまに、みずからヨガや瞑想、グループ・フィットネスのクラスを教えており、まさに実践の人です。前著、”YogaforPainRelief:SimplePracticestoCalmYourMindandHealYourPain”(『痛みを和らげるヨガ──心を落ち着け、痛みを緩和するためのシンプルヨガ』未邦訳)では、神経科学および医学の最新の知見を、慢性の痛みやストレス、憂うつ、不安の緩和に役立てる方法を示しています。本書にも意志力を鍛える方法のひとつとして、瞑想の呼吸法を利用したテクニックが紹介されていますが、実践に基づいているだけあって非常に説得力があります。本書は自分の意識と行動を変え、「なりたい自分」になるためのきわめて実践的な本です。本書を訳しながら、シンプルでわかりやすい説明や、親しみやすくウィットに富んだ語り口に、人びとの痛みや悩みに寄り添う著者の姿勢を感じました。また、受講生たちのエピソードからは、自分についてさまざまな発見をし、「なりたい自分」になれた興奮と喜びが伝わってきました。読者のみなさまにも、「スタンフォードの自分を変える教室」の興奮と喜びを味わっていただければ幸いです。2012年10月神崎朗子
[著者]ケリー・マクゴニガル(KellyMcGonigal,Ph.D.)ボストン大学で心理学とマスコミュニケーションを学び、スタンフォード大学で博士号(心理学)を取得。スタンフォード大学の心理学者。専門は健康心理学。心理学、神経科学、医学の最新の研究を応用し、個人の健康や幸せ、成功および人間関係の向上に役立つ実践的な戦略を提供する講義は絶大な人気を博し、スタンフォード大学で最も優秀な教職員に贈られるウォルター・J・ゴアズ賞をはじめ数々の賞を受賞。各種メディアで広く取り上げられ、『フォーブス』の「人びとを最もインスパイアする女性20人」に選ばれる。ヨガ、瞑想、統合医療に関する研究をあつかう学術専門誌『インターナショナル・ジャーナル・オブ・ヨガ・セラピー』編集主幹を務める。[訳者]神崎朗子(かんざき・あきこ)翻訳者。上智大学文学部英文学科卒業。外資系生命保険会社の社内翻訳等を経て、第18回DHC翻訳新人賞優秀賞を受賞。訳書に『ぼくたちが見た世界』(柏書房)、『ベスト・アメリカン・短編ミステリ』(共訳、ディーエイチシー)がある。
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