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第三章器を大きくするための修行の日々(柴村恵美子)

一人さんと出逢って、私は本当に変わりました。

一生、困らないだけのお金を持つことができただけじゃなく、ステキな仲間が北海道から九州・沖縄までたくさんできて、毎日を本当に楽しく過ごさせてもらっています。

それもこれも、一人さんから商人としての器量、大きなお金を持てるだけの器量、たくさんの人に応援してもらえるだけの器量を身につける方法を学んだからなんです。

本章では、今まで講演や著書の中でもほとんど語ってこなかった話……私が一人さんと出逢ってから、どのようにして、こうした器量を身につけていったか……を紹介したいと思います。

目次

私の生き方を変えた運命の出逢い

私が生まれたのは、北海道の上士幌という、山に囲まれた小さな村です。私は小さいころから歌うことが大好きで、歌手になるのが夢でした。

高校一年生のときに、ある公開オーディション番組の北海道予選に出場して、優勝したことがあるんです。

そのとき、母やまわりの人に反対されて、東京の本選には出場することができませんでした。そこで私は、高校を卒業したら歌手になるために東京へ行こうと決めました。

しかし、歌手になるために東京に行くと言ってもゆるしてはもらえません。

どうしたら母やまわりの人たちに反対されずに東京へ行けるだろうかと考えていると、ふと、あるアイデアが浮かびました。

それは、指圧の勉強をするために東京へ行くということです。実は母は、雑貨店を経営する傍ら、指圧師の仕事もしていました。

そこで私は、母のあとを継ぎたいから、東京の指圧の専門学校に行かせてほしいと言ったのです。

最初は、それなら札幌にもあるだろうと言われたのですが、私はどうせなら、いちばん有名なところで習いたいと言いました。すると母もそれをゆるしてくれたのです。

こうして私は、念願の東京行きを実現させることができました。そして専門学校の入学式の日、クラスメートとなった、ある人との出逢いがありました。

その人との出逢いが私の生き方を変える、運命の出逢いになるとは、そのときはまったく思いもしませんでした。

その人とはもちろん、斎藤一人さんです。ここから私の器を大きくする旅が始まったのです。

夢は歌手から事業家へ

専門学校での授業が始まると、私は一生懸命、勉強しました。それは、東京へ送り出してくれた母への罪悪感のような気持ちがあったからなのかもしれません。それでもやはり、歌手になるという夢は持ち続けていました。

指圧の勉強は一生懸命するけど、東京にいれば必ず、歌手になる道が開けると思っていたのです。もちろんその夢は、母にも親しい友達にも内緒にした、私の秘めたる想いでした。

そんなある日のこと、クラスメートである一人さんが、私にこんなことを言いました。

「最近の若い女の子は歌手やアイドルになることに憧れるけど、テレビの画面を通して見る世界と、実際の世界が違うことに気づいてない子が多いんだよね。それで、世の中には歌手やアイドルよりももっと楽しい世界があるんだよ。そのなかでも事業家は、世の中の流れを変えることができる、とても重要で楽しい仕事なんだよね」

さらに一人さんは私の顔をじっと見つめて、こう言いました。

「恵美ちゃんはすごく働き者だね。だから、事業家向きだよ。あのね、世の中にはお金が流れる川があるんだよ。その川にちょっと手を入れると、川の流れが自分のところにスーッと入ってくるの。どうだい。その川に手を入れて、流れを変えてみないかい?

私はその話を聞いて、まずはビックリしました。

世の中にはお金の流れる川があって、事業家はその流れを変えることができるということに驚いたのです。

そしてその事業家に向いていると言われたことが、何よりもうれしかったのです。

確かに私は小学生のころから家の雑貨店の手伝いをしたり、新聞配達をしたりしていましたので、働くということは自分にとっては当たり前のように身についていました。

それを一人さんは見抜いてか、「働き者だね」と言ってくれたことがすごくうれしかったのです。そして何より、こんな自分が事業家向きだと言ってもらえたこと。

北海道の田舎から出てきたばかりの、ほっぺたの赤い、お金も学歴もない、こんな私が事業家となって、世の中のお金という川の流れを変えることができるだなんて、考えただけでもワクワクします。

そのときを境に、私の夢は歌手になることから、事業家になることに変わりました。

ちなみに私は、その話を聞いてずいぶん経ってから一人さんに、「実は私、本当は歌手になりたかったんだ」と打ち明けたことがあります。

すると一人さんは「知ってたよ」って言うんです。誰にも言っていなかったことを見抜いたり、私の〝働き者〟という器の資質を見抜いたりする一人さんに、「やっぱりこの人はタダ者じゃない」と思った瞬間でした。

困ったことは起こらない

専門学校時代の一人さんも、やはり今と変わらずみんなから大人気でした。休み時間には男女問わず、一人さんのまわりに人が集まってきて、自然と輪ができます。

遅刻したり休んだりすることの多かった一人さんですが、来れば必ずクラスの人気者。来ないときは誰が決めたわけでもなく、また、頼まれたわけでもないのに、誰かが一人さんの代返をするのです(笑)。

このころの一人さんには地位も名誉もお金もありませんでしたが、不思議な魅力と言いますか、人を優しく包みこむ、大きな器があったのです。

それは今も変わりません。学生時代の一人さんとのエピソードのなかで、初めて一人さんの考え方にふれた、こんな出来事がありました。

学校で運動会の準備をしているとき、直前になって競技種目の一つである「玉ころがし」に使う〝玉〟がないことが判明しました。

そこでクラスのみんなで手分けして、あちこちに〝玉〟を貸してもらえるところがないか探しました。しかし、それがなかなか見つかりません。

ほとんどあきらめムードで、みんなが「困った。困った」と言っていると、そこにフッと一人さんが現れて、「どうしたの?」と聞きます。

私が事情を説明すると、一人さんはひと言、「困ったことは起きないよ」って言うんです! 私は最初それを聞いて、「この人、何を能天気なことを言ってるんだろう。現にみんな、玉が見つからなくて困っているのに」と思いました。

しかし一人さんはいつもと変わらずニコニコしながら、あちこちに電話をかけ始めたのです。何件電話して断られても、一人さんは決してあきらめません。

それで結局、玉を貸してくれるところが見つかって、私たちは無事、運動会で「玉ころがし」をすることができたのです。

〝目的〟をあきらめないこと

私はこのとき一人さんに、「一人さんって粘り強くて、決してあきらめない人なんですね」と言いました。

すると一人さんは、こう答えてくれたのです。

「恵美ちゃんが言う〝あきらめない〟と、俺が考える〝あきらめない〟はちょっと違うんだよね。俺の場合は、〝目的をあきらめない〟の。つまり、運動会を楽しくするっていう目的をあきらめないんだよ。目的に対してやり方は無限にあるんだよ。それで、〝玉が必要だ〟となれば、その玉が見つかるまで電話するの。

それで、見つからなかったらどうするのかっていうと、それは〝いらなかったんだ〟っていうことなの。だって見つからなかったんだからね。

それって、天はそれをいらないって言ってるんだよ。そうなれば、玉がなくても、もっと楽しい運動会にすることを考えればいいんだよね。

たとえば、玉の代わりに何か転がせるものを自分たちで作ってもいいし、玉の代わりに人間が転がって、『人間玉ころがし』をやってもいいの。

また、『玉ころがし』以外の競技で、できる競技を探してやってもいいんだよね。だからここでいちばん大切なことは、玉を探すことじゃなくて、楽しく運動会を成功させることなんだよ。

これって人生でも同じことが言えるんです。

何事もあきらめずに努力することってすごく大事なことなんだけど、ずっと同じことをすることが大事だと思っている人がいるんだよね。それって、大きな目的から外れてるんだよ。

それで、俺が言う〝困ったことは起こらない〟っていうのは、困ったことが起きてるんじゃなくて、やり方を変えなさいっていう合図なんだよ。

それで一生懸命やってみて、それでもうまくいかないときは、それって本当に必要なのか、それがないと目的は達成できないのかって考えるの。

そうしたときに、本当に大切なことが何かってことが見えてくるんだよね」 私たちに起こった「玉ころがしの〝玉〟がない」という出来事は誰にとっても同じですが、私たちはそれを「困ったこと」ととらえ、一人さんは「やり方を変えてみる」ととらえたのです。

器を大きくしていくと、物事をより多面的にとらえることができ、大きな視野で判断できるようになるのですね。

さらなる転機がやってきた

専門学校を卒業した私は、赤坂にある治療院に勤めることになりました。そこは政治家の方や、一部上場企業の役員クラスの人たちが御用達にしている治療院でした。

勤めるといっても、給料が保障されているわけではありません。そこは完全な歩合制だったのです。そこで私は自分自身の技術の向上に励みました。

それと同時に指圧の技術だけではなく、接客の技術も工夫していったのです。なかでもいちばん役に立ったのは、一人さんから聞いた、さまざまな話でした。

一人さんから聞いた話は政治や経済、ちょっと不思議な話からジョークやおもしろい話まで、多岐にわたる内容でした。

それをお客様の好みや関心ごとに合わせて話をするのですが、それがすごく好評で、私を指名してくれるお客様がだんだん増えていったのです。

こうして私は指圧師としての器を技術面だけではなく、接客面やサービス面など、多面的に磨いていきました。

そして気がつけば、私はその治療院でナンバーワンの指圧師になっていたのです。

そのうわさを聞きつけてか、「今度、ハワイに治療院を作ることになったから、そこの責任者として行ってくれないか」とか、「今よりいい条件を出すから、うちの治療院に来てくれないか」など、さまざまな引き抜きや仕事のオファーの話を数多くいただきました。

そんな、指圧師としては順風満帆なころに突如、北海道の母が倒れたという連絡が私のもとに入りました。

幸い命に別状はなかったものの、長期の看護が必要となりました。そこで私は思い切って、北海道に帰ることを決意しました。

今思えば、このときに北海道に帰っていなければ、そのまま東京で指圧師としての仕事を続けて、一人さんの仕事を手伝うこともなかったかもしれません。

そして今ほど豊かで幸せな暮らしができることもなかったかもしれないのです。それを考えれば、このとき母が倒れたことや、北海道に帰ることを決断させたのは、天の配剤だったのかもしれません。

技術者〝あたま〟から商人〝あたま〟へ

こうして私は北海道に帰り、帯広で治療院を始めました。

オープン当初は暇だったのですが、地元の新聞で紹介されたことをキッカケにお客さんが増え、そのお客さんがリピーターになり、また口コミで増えていったりで、売り上げは順調に伸びていきました。

そんなある日、一人さんが北海道に遊びに来てくれました。

小さいながらも自分のお店を持ち、順調に売り上げも上がってきて、経営者としての一歩を踏み出した私のことをほめてくれるのではと期待していた私に、一人さんは意外なことを聞きました。

「このお店の広さは何坪あるんだい? 月の家賃はいくらだい? 恵美ちゃんはこのお店を二四時間、一〇〇%活用することができてるかい?」 私は一人さんのこの問いに、答えることができませんでした。

実は私自身も、薄々自分の商売の限界を感じていたのです。お店がどれだけ忙しくなっても、私一人が治療をしているので、こなせるお客様の数には限りがあります。

それに、もし私が風邪をひいたり、体調を崩して休んだら、お店の売り上げはゼロになってしまいます。これではとても、二四時間、一〇〇%活用しているとは言えません。

私は指圧師になったときから、自分の技術を上げることが唯一の道だと信じて、その技術の向上に努めてきました。しかし、独立して経営者となった今、それだけではダメだったのです。つまり、自分の頭を技術者頭から、経営者頭、商人頭にしなければならなかったのです。

私がもし、ずっと技術者にこだわっていたら、技術者としての器しか育たず、それ以上に自分や場を活かすということもできなかったと思います。そのことを一人さんは私に教えてくれたのです。

急に高いところに上ると不安になる

一人さんに助言をいただいた私は、お店の空いているスペースを利用して、一人さんが作っている健康食品を販売することにしました。

すると、その健康食品を飲んだ人が知り合いに勧めるなどして、口コミで徐々に広がっていきました。さらには便秘が治った、肩こりや腰痛がなくなった、やせたといった、喜びの声が徐々に増えていったのです。

そのことを一人さんに報告すると、「じゃあ、そのお客様の声を一度、まとめてみたら」ということで、あらためてインタビューをするなどしてまとめました。

そしてそれをお客様にお渡しすると、すごく喜ばれたのです。

そこでさらに一人さんに助言をいただき、お客様の声をまとめたものを新聞の折りこみチラシとして入れたところ、これが大ヒット! 治療院を始めたころの月の売り上げは五〇万円くらいだったのが、一気に三〇〇万〜五〇〇万円くらいまで増えたのです。

指圧の治療の場合、私がどれだけがんばっても一時間にいただける金額はせいぜい三五〇〇円くらいだったのが、一人さんの健康食品の販売だと、数分で何万円というお金が稼げたのです。

そこで私は指圧の治療をやめ、健康食品の販売に専念するようになりました。

治療院をしていたころは一日に数万円を稼ぐのがやっとだったのが、一人さんの健康食品を扱うようになって、一日に何十万円も入ってくるようになったのです。

それで忙しくて銀行へ頻繁に行くこともできないので、ましてや銀行の方が売り上げをとりに来てくれるなんていうことも知らなかったので、入ったお金はそのままタンスにしまいこんでいました。

するとそのお金は何百万という額になり、私は「泥棒に入られたらどうしよう」などと考えるようになり、自分が大金を持っていることが怖くなってきたのです。

お金があると好きなものも買えるし楽しいけど、盗られたらどうしようとか、さらにはこんなことがこの先も続くかどうかということを考えだしたとき、不安でしょうがなくなったのです。

そこで、そのことを一人さんに相談すると、こんなアドバイスをいただきました。

「人は急に高いところに上るとまわりが低く見えるから、それで怖くなるんだよ。だけど、そのうち慣れるから大丈夫だよ。それに、恵美ちゃんはお客さんに喜ばれて、世間の人にも喜ばれてるんだよね。あとは天が喜んでくれるようなことを心がけていたら、天が必ず味方してくれるから、心配しなくても大丈夫だよ

一人さんの助言を聞いてから、私の不安はスッとなくなりました。

それからはお金を儲けるための器だけではなく、お金を持って、維持するための器も大きくしていこうと決めたのです。

お客様の声に支えられて

お客様からの喜びの声や感動の体験談がたくさん寄せられるようになり、それを文章にして、チラシにして配ると、すごい反響が来るようになりました。

当初は、私の知り合いにパートとして手伝いに来てもらっていたのですが、お客様からの注文をさばききれなくなりました。

すると知り合いの紹介でオペレーションセンターを借りることができたのです。それで新聞の折りこみチラシを入れると、その日の朝から一斉に電話が鳴りだす。

私はお客様の質問や相談を受けたり、ご注文いただいた商品の荷造りや出荷など、なんでもこなしました。

一日の出荷数は二〇〇個を超え、私とスタッフたった二人で、一か月間で二五〇〇万円の売り上げにもなりました。

さらには出荷数が二週間でデパートを抜くなど、〝売れてる〟といううわさがうわさを呼び、さらに売り上げは上がっていったのです。

私はお客様からの注文を受けると、「着いたらまたお電話くださいね」と言うようにしていました。

そしてかかってきたら商品の飲み方を再度、説明する。

そして、「また困ったことがあったらお電話くださいね」と言っておくと、また電話がかかってきて、注文がもらえるのです。

このときに一人さんからいただいたアドバイスは、「お客様と一緒に、ともに歩く、パートナーになるんだよ」ということでした。

そこで私は健康やダイエットのことを一人さんに聞いたり、本を読んだりして、一生懸命、勉強しました。そして私自身がお客様の健康のパートナー、ダイエットのパートナーとなることに努めたのです。仕事の範囲は帯広から札幌、そして北海道全域へと広がっていきました。

そしてさらに一人さんから、「大阪という大きな市場を任せるから、大阪に行って、営業所を立ち上げてくれないか」と言われました。

こうして私は活動の場を大阪へと移したのですが、北海道の社員からは毎日のようにお客様から「柴村さんはどうしたんだい?」という問い合わせがあるという報告を受けます。

社員には、「今、大阪に出張中です」というふうに答えてとだけ言っておきました。するとお客様は、「じゃあ、北海道に帰ったら電話ちょうだいって、言っておいて」と。

実は私は、自分が社長であるということを、お客様には言えずにいたのです。

それは社長としてではなく、一人のアドバイザーとして、健康やダイエットのパートナーとして、お客様と接したかったから。

だけど、とうとうあるおばあちゃんの電話を受けたとき、そのおばあちゃんがこう言いました。

「あんたの電話、待ってたんだよ」「あんたと電話すると元気が出るんだもの」。その言葉に胸がいっぱいになり、涙があふれてきました。

「私も ○ ○さんとしゃべっていたとき、すごく楽しくて、本当に幸せでした」。そして言いました。

「実は、これが最後の電話になるかもしれないんです……」「どうして?」「私ね、社長になったんです」。

そうしたら、そのおばあちゃん、「えーっ!」ってすごく大きな声を出して喜んでくれて、「そう! そしたらがんばりなさい。あんたが出世したこと、自分の子どもや孫のようにうれしいよ」と言ってくれました。

仕事冥利に尽きる! ってこのことです。こんなふうに待っていてくれる人、喜んでくれる人がいるから、がんばれる。心の底から、そう思いました。

それと同時に、商人としての器を大きくしていくと、こんなにも受け取れるものが多くなるのだなと実感したのです。

怒涛の仕事の日々

一人さんから大阪へ行くことを聞かされたとき、実は、私にも少し不安がありました。

というのも、その当時、大阪や神戸では暴力団同士の抗争事件が頻発していて、それを知っていたからです。

でも一人さんの言うことに間違いはないし、一人さんが言うように、「きっと天が味方してくれる」ということを信じて、大阪行きを決意しました。

大阪へ行く当日、なんと台風直撃! 暴風雨警報が出て、飛行機が飛ぶかどうかわからないまま、空港で四時間も足止めとなったのです。

そして四時間後、「出発しますが、大きな揺れが心配されます」とのアナウンス。「行くと決めたら行く!」。私は、もちろん飛び乗りました。

まだ少しの不安を抱えながら機内での時間を過ごしていると、「まもなく当機は大阪伊丹空港に到着します」というアナウンスが流れてきました。

大阪の街並みをひと目見ようと窓の外に目をやると、私の目に飛びこんできたのは、台風一過のあとの燃えるように真っ赤な夕焼けと、立ち並ぶビルの赤いライト。

そこに突入していくように飛行機は進んでいったのです。そのとき私の頭に、ある言葉が浮かんできました。それは一人さんの「この街を豊かにしてくるんだぞ」。

その言葉をもう一度噛みしめながら、景色を見つめていました。

だんだん私の心も熱く燃やされ、ここが良き戦いをする場所なんだと思ったらわくわくしてきたのです。こうして私の大阪での仕事の日々がスタートしたのです。

いざ大阪に来てみると、私が心配していたようなことはまったくなく、土地に不慣れな私に大阪の人たちはみなさん、優しく親切に接してくれました。

無事に事務所を借りることができて仕事をスタートさせた私がまず考えたことは、とにかく数字を、売り上げを上げようということでした。

私のことを信頼して、日本で二番目に大きい大阪という市場を任せてくれた一人さんに、とにかく報いたいという一心でした。

そのためには、私自身の商人としての器をもっともっと大きくしていかなければなりませんでした。

そのために私自身が陣頭指揮をとり、自らも電話をとるなどして、朝早くから夜遅くまで、仕事に明け暮れる日々が続きました。

社員のみんなも私の期待に応えて、本当に一生懸命、働いてくれました。それこそ、トイレに行くときと昼食のとき以外はずっと電話中。

仕事が終わったときにはもう、誰とも話したくないくらいに疲れ果てていました。そして仕事が終わったらみんなで、焼き肉など、ご飯を食べに行くのです。いつも夜の一〇時を回っていたけれど、必ず一緒にご飯を食べました。

あまりにも毎晩行くものだから、御用達の「まるかん社員食堂」と呼ばれていたくらい(笑)。

ご飯を食べながらのミーティングってすごく大事です。「同じ釜の飯」を食べてみると心和み、言いたいことも言い合えるのです。聞くと昼間、お互いに頭にくることもたくさんあったみたい(笑)。

でもご飯を食べているうちに、心にためないで「ちょっと言っちゃうけどさぁ」と打ち明けていたんですね。

そうするとお互いにゆるせたり、正直に面と向かって言うから納得してスッキリして帰るのです。

ズレを修正するときも、ともかく集まって一緒にご飯を食べながらみんなの意見を少しずつ聞いて話をする。

そうするうちに修正できていきました。そしてとにかく盛り上がるのは、売り上げをアップさせるためのディスカッション。

話していくうちに、次なる対策やいろんなアイデアが生まれ、それが本当に楽しくて、わいわいやっていました。

今思えば、一人さんが私たち弟子にそうやってきてくれたんですね。みんなで旅行に出かけては、腹を割ってご飯を食べて、いつもわいわい仕事の話。それを私も自然とやっていたのかもしれません。こうして気づいたら、自然とチームの絆ができていました。

仲間たちとの絆

このころには一人さんを慕ってきたお弟子さんたちが、次々と一人さんの仕事を手伝うことになり、それぞれが担当の地域を受け持って、仕事をするようになっていました。

そこで一人さんは、私たち弟子がそれぞれに仕事上で切磋琢磨できるようにと、あるゲームを考えてくれました。

その名も「国とりゲーム」です。

どういう内容かといいますと、日本全国でまだ担当が決まってない地域を、一年間の売上順位で一位の人が、自分の好きな都道府県を担当エリアにすることができるというものです。

売上順位といっても、ただ金額の高さだけでは決まらないのです。全員が公平にチャレンジできるよう、それぞれの担当地域の人口比率に応じた売り上げを上げなければいけません。

ですから私のように大阪という人口が多い地域を担当していると、それに見合った売り上げを上げなければならないのです。

このときは「燃えろいい女!」と題して、私もそうですが、社員全員が一丸となって、仕事に燃えました。ある売り上げの集計日の前日に、台風が近畿地方を直撃したことがありました。

早く帰らないと電車が止まって帰れなくなることもあるので、私がみんなにそのことを伝えるのですが、誰も帰ろうとはしません。

それどころか、電車が止まって明日、会社に来られなくなるかもしれないので、会社に泊まりこむというのです。

こうしてギリギリまであきらめず、そして油断せずに全員が一丸となってこのゲームに取り組みました。

そして見事一位を獲得して新たな地域をゲットすると、今度はその地に社員が乗りこみ、営業をするのです。

私たちはその人たちのことを「コマンド部隊」と名づけました。「コマンド部隊」に選ばれた人は、知らない街に行って、何か月もホテルでの生活が強いられます。

なかには恋人と何か月も会えない子もいました。

私は心配になって、「会えなくても、大丈夫?」と聞くと、「彼氏よりも仕事が大事です! それに、そんなことぐらいで不満を言う男なら、こっちから別れてやりますよ!」と、誰も不満や泣き言を言わないのです。

こうして自分たちのできることを出し切っていくと、それぞれの器がひとまわりも、ふたまわりも大きくなっていくのを感じました。

そしてこんなすばらしい、志をともにする仲間がいてくれたおかげで、私は一三都道府県を担当させていただくまでになったのです。

良きライバルにも恵まれて

私が仕事で成功して、こうして億万長者になれたのは、一人さんというすばらしい師匠にめぐりあえたおかげです。

そして、すばらしいお客様、すばらしい仲間に恵まれたおかげでもあります。しかしもう一つ、忘れてはならないものがあります。それは、良きライバルの存在です。

私たち一人さんの弟子は、それぞれが担当の地域を持った、「銀座まるかん」の販売会社を経営しています。

だからお互いが良き仲間であり、良きライバルなのです。ただ、世間がいう〝ライバル関係〟とは、まったく違います。

それぞれの販社の売り上げは、毎日「銀座まるかん」本社で集計され、全体売上や、人口比率で割った売り上げも発表されます。

さらに、どこで何がどれだけ売れているかもわかるのです。

そこで売り上げが上がっている人のところに電話をして、売り上げが上がっているわけを聞くのです。

すると「いいチラシができたのよ」とか、「こんなキャンペーンをやったら評判がすごくよかったよ」と、隠さず細かに教えてくれるのです。

もちろん、仲がいいだけではありません。お互いがライバルとして認め合い、しっかりと数字を競い合っていくのです。競争ですから勝つときもあれば負けるときもあります。

勝てばすごくうれしいのですが、負ければやっぱり悔しい。でも私たち一人さんの弟子は、勝ったときには威張らない、驕らない。負けたときにはいじけない、妬まない。

そして結果がどうあれ、会えばみんな仲よしなんです。とにかく一人さんの弟子たちはみんな、すごく性格がいいのです。そこはさすが、一人さんの弟子たる所以なんでしょう。

こうしたすばらしい仲間であり、ライバルがいたからこそ、お互いを高め合い、競い合って、お互いの器を大きくすることができたのだと思います。

失敗からも学ぶ

こうして書いてくると、私が失敗には無縁で成功を手にしたように思われるかもしれませんが、私はここに至るまで、数多くの失敗もしてきました。

そしてそれらはたいてい、一人さんから言われたことを守らずにやったことが原因だったりするのです。

たとえばあるとき、われながらすごくいい! と思うチラシができました。

いつもなら一人さんにチェックしてもらうのですが、師匠の手をわずらわせるのも悪いなという気持ちと、これなら絶対大丈夫という驕りの気持ちがあったのでしょう。

だから一人さんには相談せずに、そのまま私の判断で撒くことにしました。

さらに私は、一人さんから「新しいチラシを作ったら、必ず小さい地域で試し撒きをしてから、広い地域に撒くんだよ」と言われていたのを無視して、一気にチラシを刷って撒きました。

すると結果は惨憺たるものでした。チラシの反応はほとんどなく、数千万円の大損です。人はうまくいっているとき、自分の力を過信してしまいます。

その過信が、大きな失敗を招いてしまうこともあるのです。うまくいっているときにこそ、相手に、世間に、そして天に感謝。

そして失敗したときは、失敗の原因を知り、二度と同じ過ちをしないようにするのです。そのことから学ぶことができれば、失敗も成功への大きなステップとなるのです。

そして、その失敗を克服したとき、その人の器はまたひとまわり、大きくなるのだと思います。

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