MENU

1章《人として強くなるために》40代が、心に刻むべきこと

はじめに人としての強さを磨き、四十代からの人生を太く、たくましくする。それが、本書のテーマです。四十代は、仕事でもプライベートでもさまざまな問題が一気に押し寄せてくる年代です。職場では責任が重くなり、自分で結果を出しつつも後進を育てなければならない状況になります。子どもの教育に頭を悩ませる機会が多くなります。親の介護の問題も避けて通ることはできません。住宅ローンなどお金の問題もあるでしょう。それらの諸問題にうまく対応していくためには、「心身ともにタフな人間」にならなければなりません。そうでなければ、人生はどんどん先細っていくでしょう。「人としての強さ」をどう磨くか。その方法は、『論語』『老子』『孫子』から佐藤一斎の『言志四録』まで、すべて東洋思想から学ぶことができます。「水のような生き方こそ最強である」「世の垢にまみれながらも清廉に生きる」「志を、人間関係の結び目にせよ」「後生おそるべし。若者をあなどるな」「信頼を得る秘訣は、常なる言行一致である」「家庭が円満な人間は、例外なく強い」「成長し続けるのは、恥を知る人間だけである」など、本書では、四十代への戒めや、四十代から大きく成長していくための指針、これからをより愉快に生きていくためのヒントを東洋思想から引き出し、紹介します。私は、四十代の人を見ていて、非常に危ういものを感じるときがあります。社会人になって二十年以上も経ち、職場にも仕事にも慣れてきた。重要な仕事を任される場面も増えた。社内の事情にも明るい。業界にも顔が売れてきた……。そういったことから、いっぱしの人間になったような錯覚に陥ってしまうのでしょう。それがたるみとなって、仕事に取り組む姿勢に真剣さ、慎重さが欠ける嫌いがあるのです。「まだ半人前だ。実力なんか全然ついていない」といいたいのではありません。四十代は、人生も、ビジネスのキャリアも、まだようやく半ばです。本物の実力をつけるのはこれからだ、といいたいのです。四十代はとにかく忙しい。しかし、それを言い訳にしていると、「仕事のスキルアップを怠った」「本の一冊も読まなかった」「人と交流する場に顔を出さなかった」「趣味を楽しんだことがなかった」「家族とろくすっぽ会話もしなかった」なんて一年を繰り返していくことになりかねません。どんなに忙しくとも深謀遠慮をめぐらせ、この先の〝自分強化計画〟を持てるかどうか。それが、四十代から人として強くなれるかどうかの分岐点です。私自身の人生を振り返っても、「四十代のあのときが将来をつくる節目だった」「四十代に踏ん張ったからこそ、いまの愉快な人生を手にできた」と実感しています。みなさんも、いまこそ踏ん張り、仕事やプライベートのさまざまな問題にうまく対応しつつ、「人としての強さ」を磨き、四十代からの人生を太く、たくましくしていってください。田口佳史

はじめに1章《人として強くなるために》40代が、心に刻むべきこと「水」のように生きる――四十代からの「最善・最強」の生き方「無用な争い」をしない――人をふところ深く受け入れる度量を持つ「自活力」を磨く――自分の中の「カネのなる木」の育て方「慢心」しない――四十代の慢心は、これほど恐ろしい「悪事」に手を染めない――「裏街道」は、一度入ったら抜け出せない「不善」を恥じる――世の垢にまみれながらも清廉に生きる「守り」に入らない――攻めない四十代に魅力はない「群れ」から離れる――「志」を、人間関係の結び目にする「余裕」をつくる――いかにして心と時間の器を大きくするか

2章《40代からの「戦略的な生き方」》年相応の「したたかさ」を持つ

「人生戦略」を立てる――孫子に学ぶ、「十年計画」のつくり方「得意技」を磨く――四十代は、戦い方のバリエーションを豊富に持て「復元力」を強化する――「中間管理職」が知っておくべきこと「自分の値段」を上げる――あなたは、他社にいくらで買ってもらえるか「欲望」を操る――成功者はみな、欲の一点集中主義者である「組織」に使われない――自分のために会社を使え「恨み」を買わない――敵をつくらないための絶対ルール「言動」を慎む――うまくいっているときこそ脇を固めよ

3章《いかにして「人望」を磨くか》人を動かすための、10の心得

「後進」を育て上げる――「部下のため」が「自分のため」になる「言行一致」でゆく――確かなことしか「いわない」「やらない」「徳」を積む――「運」を呼び込むための仕事のルール「ここぞ」の場面で輝く――四十歳を過ぎたら「才気走らない」部下に「主役を譲る」――「自分でやる」から「人を動かす」働き方へ「信頼」を勝ち取る――「いまは、社長より君の話が優先だ」「全体最適」を優先する――四十代には、非情に徹すべきときがある「下の者」からよく学ぶ――「後生おそるべし」という孔子の教え誰かの「いいなり」にならない――「卑屈な人間」にならないための鉄則「有事」に強くなる――できるリーダーほど「悲観的に準備する」

4章《50代を見据えて──》この「自己投資」を、やっておく

「恩」を稼ぐ――そうすれば、お金はあとからついてくる「新しい能力」を開発する――十年あれば、たいがいのことはできる人生を「面白がる」――「学ぶ・果たす・楽しむ」のサイクルを回せ「自分」に金をかける――〝ハイリターン〟を約束してくれる自己投資術「大局観」を持つ――できるリーダーの「深く広い思考法」「腹」を据える――常に、事の「大小軽重」を見極めよ太らない――自分の体も管理できない人間は、二流「本物」の教養を身につける――歴史を学べ、人間通になれ「天命」を知る――あなたには〝果たすべき役割〟がある「家族」を大事にする――重要なのは、「時間」ではなく「思い」「厳しい道」を選択する――四十代は、〝男坂〟の時代「呼吸」を深くする――老子に学ぶ、「達人」になるための健康法

5章《忘れてはならない〝世の中のルール〟》「社会」とどう向き合っていくか

「礼儀」を尽くす――非礼、無礼な人間に未来はない「常識」を外さない――どこに出ても恥ずかしくない人間になれ「恥」を知る――死ぬまで成長し続けるために「風格」を身にまとう――「知者」のように、「仁者」のように生きる

「責任」を取る――「誰が悪い、何が悪い」を捨て去る「シンプル」に生きる――余計なことは「減らす」「手放す」「忘れる」「終わり」を意識する――成功者は、最後の詰めを怠らない

「水」のように生きる四十代からの「最善・最強」の生き方四十代で、仕事においても、また人間的にも成長が止まってしまう人がいます。それは、なぜか。「柔軟さ」「謙虚さ」を失ってしまうからです。四十代のみなさんは、いま、部下を持つ中間管理職として、あるいはマネジメント層の一人として、組織をよりよい方向に動かす中核を担う立場にある人が多いと思います。もはや二十代、三十代の若造ではないのですから、ただがむしゃらに突っ走るだけでは能がない。これまでの蓄積を生かして、「四十代にふさわしい人格と力量」というものをフルに発揮することが求められます。では、そのために必要な「心構え」とは、なんでしょうか。まず肝に銘じておきたいこと。それは、「水のような精神を持つ」ということです。「水のような精神」とはいったい、どのようなものか。それをずばり言い表しているのが、『老子』にある次の言葉です。「上善は水の若し。水善く万物を利して争わず」最初の一文は、非常に有名ですね。文字どおり「水のようなものが最善である」という意味です。続くくだりで、「水は万物の成長を助けて、しかも他と争ったりしない」と、その理由が述べられていますが、これが、まさに四十代の心構えとして、もっとも重要なポイントの一つといえます。川の水は山間を、鉱物や藻などと触れ合いながら、流れています。「あなたには近づきたくない」などといわず、相手を選ばずに交わり、その中でみんなから少しずつ栄養分を〝いいとこ取り〟している。だから水は豊かなのです。老子は、その水を見習いなさい、といいます。そして、「触れ合う人たちは誰もが師だと思って、一つでもいいところを教わるといい。触れ合う人が多ければ多いほど、多くのことが学べると思うよ」とアドバイスしています。いうなれば、「触れ合う人はみな、師」。手本とすべき師もいれば、反面教師とすべき師もいる。自分の心がけしだいで、触れ合う人は誰もが師になる。それが「水の精神」であり、また、人として成長し続け、人として強くなるための秘訣でもあるのです。『論語』でも、同じことを説いています。「三人行けば、必ず我が師有り」自分を含めて三人集まれば必ず自分にとって師となる人がいる、といい、「其の善なる者を択びて之に従い、其の不善なる者にして、之を改む」と続けています。善い人のことを見習い、善からぬ人は反面教師にせよ、ということですね。二十代、三十代の若い頃は知らないことが多いし、教えられる立場にあるので、この精神を発揮しやすいでしょう。しかし、四十代にもなると、さまざまな経験や知識を積み重ねたぶん、なんでも知っている気になって、他者の考えや意見、アイデアを受け入れようとしなくなる。そのために傲慢になったり、慢心したりしがちです。そして、成長が止まり、オールドタイプに成り下がっていくのです。おそらく、みなさんは一日に少なくとも二、三人、多いときは十人、二十人の人と出会うでしょう。そのとき、他者の考えや意見、アイデアを柔軟かつ謙虚に、また積極的に取り入れる「水の精神」を持っていると、四十代になってもさらに能力を伸ばし、成長していくことができるのです。四十代で傲慢にならない。慢心しない。柔軟かつ謙虚でいる。そのためにも、生命力の源泉としての「水」のすごさ、強さ、すばらしさを認識し、「水」のような生き方をめざす。四十代から人として強くなるための道は、すべてここから始まります。

「無用な争い」をしない人をふところ深く受け入れる度量を持つ四十歳も過ぎてまだ、しょっちゅう人とぶつかって、争っている人がいます。小さなことでも勝敗にこだわり、相手を打ち負かすことに躍起になっている。それは「自分は狭量な人間だ」と白状しているようなものです。そんな人間は、人から信用されないでしょう。三十代までは、「能力」があれば頭角を現していくことができます。しかし、四十代からは、条件が変わります。組織の中核を担う人間としての、人の上に立つ人間としての「信用」や「信頼」がないと、出世も頭打ちになります。もう伸びていけないのです。前項で述べた、「触れ合う人はみな、師である」という考え方。そう思って人づき合いをするということは、「無用な争いをしない」ということです。そして、これは「水のような精神を持つ」ことに通じます。自分の思いどおりに事を動かそうとして、あるいは何がなんでもライバルに勝とうとして争ったところで、何もいいことはありません。周囲の反発や恨みを買って、倍返しをされるかもしれないし、「あの人は手段を選ばない人間だ」と思われて信用を失う危険もあります。私自身、いまにして、「争って勝って、相手を打ち負かし、何か得したことがあっただろうか」と考えると、「何一つなかった」と答えざるをえないところです。人と無駄に争わず、無用な敵をつくらず、出会う人すべてをふところ深く受け入れていく――。四十代は、そういう力量と度量を発揮していかなければなりません。水には「形」がありません。だから、どこにでも入っていくことができます。ほとんど隙間のないところでさえ、じわじわと滲みていきます。また、水のしずくは非常に小さな力ですが、同じところに繰り返しポトリ、ポトリと落ちると、長い間にはかたい岩に穴を開けることもできます。「雨だれ石をも穿つ」といわれる、そんな強さも秘めています。『老子』にこうあります。「天下の至柔にして、天下の至堅を馳騁す。無有にして無間に入る」人間関係に引き寄せていえば、ここは、「自分の考え方ややり方を相手に押しつけるのではなく、相手に合わせて柔軟に対応することが大切だよ」と読めます。私の経験上、たいていのことは、相手の言い分に対して「なるほど」「そうですね」と引き受けておいてなんの問題もありません。とりあえず多少の違いには目をつぶって賛同し、そのうえで「これに関しては、こういう考え方もあると思います」とか、「このあたりは、もう少し細かく詰めていきましょう」と調整していけばいいのです。そう、四十代というのは、正面からぶつかるだけでなく、「調整力」でもって柔軟かつ確実に物事を進めていく知恵が求められるのです。セールスにたとえれば、挨拶もそこそこに自社の商品・サービスの売り込みを始める。そんなやり方は「自分の形」を相手に押しつけることになりますから、「水の精神」に反していますね。それよりも、まず相手のことを問う。たとえば、「何かお困りのことはありませんか?」「いまの仕事で面倒だな、効率が悪いなと感じることはありませんか?」というふうに問えば、相手は悩み相談を持ちかけるようにして、自分の形を示してくれるでしょう。それを受けて、「ああ、そうですか。よくわかります。本日お伺いしてよかった。じつはその悩みを解消できる商品があるのです」と本題に入っていく。こういう形が、「水の精神」にかなった方法です。これはセールスに限った話ではありません。社会構造も人間心理も複雑化する時代にあって、こちらが相当な柔軟性を持っていないと対応できないことが増えてきました。そのときに求められるのが「問う力」なのです。四十代には、「水の精神」を持って、「自分の形」を主張する前に、「問う」ことによって相手の形を知る柔軟さが必要です。ただし、「水」に自分の主張がないのかというと、そんなことはありません。たとえば洪水や鉄砲水、土石流など、数年とか数十年に一度、自然がものすごい破壊力を見せるように、人間も「ここぞ」というときには、周囲を飲み込むほど強い主張をする。つまり、常に相手に合わせて柔軟に対応しながらも、譲れないときには相手に有無をいわせぬくらいの迫力で主張する――。それが、四十代が身につけるべき「水の精神」であり、四十代に求められる「強さ」であり、四十代からさらなる飛躍を遂げるための「条件」でもあるのです。

「自活力」を磨く自分の中の「カネのなる木」の育て方「自活力を磨け」私は四十代の人に、よくそうアドバイスします。おそらく大半の人が「ちゃんと会社勤めをして、妻子を養っている身なのだから、自活しているよ」と思っているでしょう。しかし、私がここでいう「自活力」とは、「たとえ今日、会社が倒産したり、リストラにあったりして失業したとしても、自活していける実力」のことです。どうでしょうか。自分の能力の中で、今日失業しても、すぐにまた別の道で稼げる可能性のあるものを持っているでしょうか。「ありますよ」と即答できる人は、ごく少数ではないかと推察します。そう思えるくらい、いまのビジネスパーソンは「自活力」に対する意識が希薄です。もっといえば、いま勤めている会社にあまりにも依存しすぎているように思えます。実際、失業したとたんに食えなくなり、生活に困窮してしまう人のなんと多いことか。そこまで想定して、いまの仕事の延長線上で資格を取っておくなり、趣味の分野で実益を兼ねることができる可能性のあるものを磨くなりしておく。そして、「これで食える」というものを複数準備しておく。これは、四十代から人として強くなるための鉄則なのです。私は若い頃から、常に「何をやれば自活できるか」を考えていました。というのも、中学生のときに自活できないことの屈辱をうんと味わったからです。頑張って京都で一番優秀といわれていた中学に入学できたのに、一年も通わないうちに父親が東京に転勤になりました。でも、私は転校したくありませんでした。それを伝えたところ、父親から「ついてこなくていい。そのかわり、自活しなさい」といわれてしまったのです。「売り言葉に買い言葉」で、私も依怙地になって「わかったよ。自活するよ」といったものの、やはり、さすがに中学生には無理でした。その悔しさから、高校生から大学生のときは常に「カネになる仕事はないか」という観点から「自活の道」を探りました。たとえば、学生服のモデルだの、イベントの構成だの、さまざまなことにチャレンジしました。なかでもジャズギターはちょっとした腕前で、いい収入になりました。大学卒業後もこの道で食っていこうとしたのですが、しかし、指をケガして続けられなくなってしまったのです。そこで次は、大学生の頃から撮影所に出入りしていた縁を利用して、映像の世界へ。けれども、ほどなく思わぬ事故に見舞われました。撮影で訪れたタイ国のバンコク市郊外の水田の中で、巨大な水牛二頭に串刺しにされ、生死の境をさまよったのです。そのときはさすがにまいりました。リハビリに時間を要し、後遺症もひどく、体の自由がきかない。自活の道が閉ざされたような思いがしました。しかし、その中で私は、「何ができるか」を考え、書き出してみました。その一つが「書く」仕事。「ベッドの中でもできる」と思ったのです。それからはテレビやラジオの放送台本、政治家の演説原稿、漫画の原作など、ありとあらゆる分野の文章を書きまくりました。やがて、体が回復し、イメージプランという会社をつくり……以後も紆余曲折ありましたが、どんな状況にあっても常に「自活力」を強く意識していました。そのとき生業としている仕事で食えなくなっても、またすぐに食える仕事にシフトできるだけの準備をしてきたわけです。私がいま、一番得意としている「東洋思想をベースにしたコンサルティング」という能力だって、大ケガをしたときに病床で『老子』に出会って以来、長年にわたって勉強してきたもの。これをビジネスのコンサルティングと結びつけることで、新たな道を開いたのです。少々長くなりましたが、そんな自身の経験から四十代のみなさんにアドバイスしたいのは、「自分の能力の中でカネになる可能性のあるものを複数用意しておき、それをしたたかに磨いておきなさい」ということです。自分の中に〝カネのなる木〟をたくさん育てる――。それが、今後先細ることなく、人生を太く、たくましく生きるうえで非常に重要であるということです。それをしないと、四十代からは、どんどん人間が弱くなっていきます。そのことへの危機感を持ってください。

「慢心」しない四十代の慢心は、これほど恐ろしい四十代で、周りに人がいなくなってしまう人がいます。つまり、孤立してしまう。その原因は何か。「慢心」です。慢心はどんなときに生じるのか。多くは、大なり小なり成功をおさめ、何もかもが順調にいっていて有頂天になっているときです。たとえば、トップセールスを達成したようなとき。自分の実力を過信して、「もう向かうところ、敵なしだ」などと天狗になる。あるいは、スピード出世を果たし、すぐそこに役員の座がちらつくまでにのぼり詰めたとき。「自分は出世頭だ。同僚に勝った」といい気になり、周りを見下すような振る舞いをする。ほかにも、大金を稼いで贅沢三昧な生活を送るとか、家族や恋人が注いでくれる愛情に甘えて好き勝手に行動するなど、人はうまくいっていると、つい傲慢な態度を取ってしまうものです。しかし、好調であればあるほど「慢心」という悪魔の手にからめ取られる危険が増します。俗に、「禍福はあざなえる縄のごとし」とか「人間万事塞翁が馬」とかといわれるように、よいときも、悪いときも、それは長続きしません。四十代にもなって、そういった「この世の法則」を心得ていない人は危険といえます。「天の配剤」というべきか、この世の中には「偏りがあれば平坦にならす力」が働いています。「高き者は之を抑え、下き者は之を挙ぐ」という『老子』にあるこの言葉が、それを端的に表しています。慢心すると、努力を忘れます。好調を支えるものは、より高きをめざして進む日々の努力にほかなりません。まだ四十代という若さで、その努力を怠けてどうするのか。四十代までに手にする成功など、たかが知れています。今後のさらなる飛躍のための通過点にすぎません。そこで満足している場合ではないのです。ですから、「絶好調が続く中で自己満足に陥っていては、今後は先細りする一方だ」と心得てください。四十代はまだまだ若いとはいえ、この時期に慢心によって凋落すれば、巻き返しができるほどの時間はないことを心に留めておく必要があります。また、慢心すると、周囲の人たちから遠ざけられます。自分の成果を「どうだ、すごいだろ」とやたら吹聴したり、地位を笠に着て高圧的な態度に出たりする人に、誰が好意を持つでしょう。素直に「すごいですね」と思って近寄ってくる人は稀で、大半の人が表面的に尊敬しているふうを装うか、「イヤなヤツだ」と敬遠するか、です。そうして人心が離れてしまうと、周囲の人たちからの協力が得られなくなります。どんな仕事も自分一人の力で成し遂げられないのですから、その後の成果は望むべくもありません。「孤立」すると、仕事人として弱くなるのは確実です。「自ら伐らず、故に功あり。自ら矜らず、故に長たり」『老子』のこの言葉は、「自分の業績や才能を誇らない。だから、ますます認められる」という意味です。「慢心してはいけない」とわかっていても、絶好調のときはつい周囲にアピールしたくなる。そこをぐっとこらえて、謙虚さを取り戻すのはなかなか難しいものです。そこで、慢心を退ける妙薬となる方法を一つ、紹介しましょう。それは、「絶好調の自分でも到底かなわない大物に会う」ことです。いい気になっているときは、だいたい「井の中の蛙」になっています。だから、「大海」を知る必要があるのです。世の中には、誰もが認める傑物がたくさんいます。そういう人に直接会えないまでも、講演会に出かけたり、著書を読んだりすることはできるでしょう。その人物の威厳に満ちた姿や言葉、態度、振る舞い、人間性などに触れれば、自然と「自分はまだまだだな」と謙虚な気持ちになれるはずです。また、その傑物を昔のすぐれた人物に求めてもいいでしょう。佐藤一斎は『言志録』で、「いま生きている世の中の人の中で第一等の人物になろうなんて、そんな小さな物差しで考えるな。死んで故人の仲間入りをしたら、いまの何万倍・何十万倍もの聖人・賢人・英雄・豪傑たちがうじゃうじゃいる。彼らと比べて見劣りする自分だったら、恥ずかしいじゃないか」とし、こういっています。「志有る者は、要は当に古今第一等の人物を以て自ら期すべし」古今東西第一等の人物たらんという大きな志を持つ。このくらい大きなスケールで自分をとらえると、四十代の慢心など起きようがありません。

「悪事」に手を染めない「裏街道」は、一度入ったら抜け出せない四十代で、「悪事」に手を染めて身をほろぼす人がいます。度量の大きさをたとえて、「清濁併せ呑む」という言葉がよく使われますが、これは、本来は「善悪こもごも、来るがままに受け入れる」ことを意味し、間違って拡大解釈されることが多いようです。「世の中、きれいごとだけでは渡っていけない。事を成し遂げるためには、ときには悪事に手を染めるくらいの度量が必要だ」というふうにです。「清濁併せ呑む」は、なんとなく大物を彷彿とさせる、かっこいい言葉のようですが、これを、悪事を行なう言い訳のように使うのは困りものです。まるで法の網をくぐり抜けるようにして悪知恵を働かせたり、「悪もまた善である」と見せかけたりすることまで「是」とする生き方になってしまいます。四十代ともなれば、仕事である程度の裁量を任されている人が多く、たとえば、裏取引めいた話を持ちかけられる可能性も増すでしょう。そういうときに、「もう四十を過ぎたのだから、清濁併せ呑む力量を持たなければ」などと考えて、誘いに乗るのは完全な誤りです。あくまでも「清濁」の「清」を呑む――。これが基本であることをけっして忘れてはいけません。そうでないと、そのうち何が「清」で、何が「濁」かが自分の中でわからなくなって、「裏」の世界でしか生きていけなくなります。というのも、「裏」の世界で動くことには、一種の「快感」があるからです。私の知人にも、三十歳の頃から上司に命じられて裏取引ばかりやらされた人がいます。彼も最初は良心の呵責に苦しめられ、自殺しようかと思うほど悩みました。ところが、その世界に足を踏み入れ、うまく事を運ぶことができたとき、大変な快感が得られたそうです。以来、「裏取引なら、あいつに任せろ」となって、定年までの三十年間、〝裏街道〟を一筋にいくことになってしまったのです。そういうダーティな、後ろめたい人生は、人間を弱くします。だから、「濁を呑む」ことにはくれぐれも用心が必要なのです。

「不善」を恥じる世の垢にまみれながらも清廉に生きる四十代の多くは、リーダーとして、あるいはマネジメント層の一人として、部下を指導する立場にあります。それなのに不正・不善に自ら身を投じる、あるいは部下に不正・不善を強いるようでは示しがつきません。自分を律することで、部下の手本とならなくてはいけないのです。前項で、「清濁併せ呑む」という言葉があるが、これはあくまでも「清」を呑むことが基本であり、間違っても濁にまみれる方向にずぶずぶと足を突っ込んではいけないよ、といいましたが、濁を呑み、「フィクサー」のような異名を取ったところで、いい人生とは無縁です。もし子どもから「お父さん、どんな仕事をしているの?」と聞かれたときに、胸を張っていえないような仕事をすべきではありません。『菜根譚』にこんな一文があります。「巧を拙に蔵し、晦を用て明とし、清を濁に寓し、屈を以て伸と為す。真に世を渉るの一壺にして、身を蔵すの三窟なり」これは「世渡りの極意」をズバリ表現したものです。すぐれた才能を持っていても、そんなふうはおくびにも出さない。表面的にはぼんくらに見えて、じつは見識が高い。世俗の垢にまみれながらも、清く正しく生きる。小さくなって生きているようで、じつはのびやかで自由な心を持っている。こんなふうに身を処すことが、世間の荒波から身を助ける浮き袋になる。また、わが身を安全に隠す三つの穴にもなる。――そういう意味です。「濁」に関していえば、「不正や悪事が横行する世の中に身を置いていても、それを濁と見極め、自分は清廉を貫いて生きなければいけないよ」ということです。『論語』では、リーダーのあり方について、次のように説いています。「之を道くに政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥づる無し。之を道くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥づる有りて且つ格る」これは、「法律に基づいて政治を行ない、刑罰を設けて治安を保つような方法では、国民は法律に引っかかることさえしなければいいと思い、人の道に外れることをしても恥とも思わなくなる。そうではなく、政治は道徳に基づいて行ない、治安は人として守るべき規範を第一に保たなければならない。国民は自然と不善を恥じるようになり、善き社会が形成される」という意味で、多くの法律、規制、制度と、それを破った者に対する罰則制度がセットで存在する現代社会にもそのまま当てはまります。「法と刑罰で人々を律し、社会を形成する」手法で国を治める、そのことに孔子は警鐘を鳴らしているのです。たしかに、法や規制や刑罰があるから、そこを巧みにかいくぐって悪事を働く人が増えるともいえます。「不善を恥じる気持ち」がどこかに置き去りにされてしまうからです。そうならないように、リーダーは道徳的規範を自ら示し、部下に「君たちは、自らに恥じるところのない行動をしているか」と問う。そうすることによって善い集団を形成していくのが本来の役割だと心得ましょう。「清濁」の「清」をとことん貫く。このことは、人として強くなるために、とても重要なことです。

「守り」に入らない攻めない四十代に魅力はない私はよく、四十代の人に、「四十代で守りに入るのはまだまだ早い。壁の中で仕事をしてはいけないよ」と伝えます。四十代も半ばくらいになると、会社人生も一段落。めざしていた管理職の地位を手に入れたり、現場仕事が減っていったりする中で、「会社員人生のピークも過ぎたな」というふうに感じる人が多いかもしれません。「ここまでよく頑張ったな。あとは管理職として、つつがなく仕事をしていれば、無事に定年を迎えられるだろう」などとふっと一息つき、もう目標を達成したかのような錯覚に陥る人もいます。とくに大企業の人には多い。その瞬間、これまで積極的、攻撃的に仕事をしてきたことから一転、守りに入る意識が強くなるものです。しかし、野球でもサッカーでも将棋でもなんでも、勝負事はすべて「守りに入った瞬間、勝利が危うくなる」ことが多いでしょう。僅差で勝っている――その状態のまま逃げ切ることばかり考えていると、無意識のうちに縮こまって、攻撃的なプレイができなくなってしまうからです。よしんば逃げ切り勝ちができたとしても、ゲームを楽しめず、勝った心地がしないのではないかと思います。仕事も同じです。人生をかけた勝負なのですから、四十代早々に守りに入ったのでは、情けなさすぎます。残りの仕事人生をラクに過ごせても、「楽しむ」ことはできません。守りに入ると、当然、新たな仕事に挑戦する気持ちが弱くなります。まだ四十代という若さで、「事なかれ主義」に陥ってしまうのです。あるいは、知識と経験が増えたぶん、やってみる前から「うまくいかないだろう」という否定的な予測が先に立ってしまいがちです。そんなふうに保守的な考えに傾いたときは、『論語』にあるこの言葉を戒めとしてください。「今汝は画れり」これは、孔子が、すぐれた弟子である冉求と問答をしたとき、最後にいった言葉です。冉求が「先生の説く道に不満があるわけではありません。ただ、自分の力が足りなくて実行できないのです」といったことに対して、孔子は、ちょっと怒ったのでしょう、「君は自分で自分に見切りをつけているんだよ」と厳しく諭したのです。四十代で守りに入ろうとしている人は、まさにこの冉求です。勝手に自分で自分を見限って、自ら可能性を閉ざしているだけ。そういう気持ちが「実行する前にできない言い訳をする」といった態度につながります。二十代、三十代の頃を思い出してください。やったことのない仕事ばかりではありませんでしたか?そういった新しい仕事に挑戦するたびに、いままでの自分にはない能力が開発されたり、大きな達成感を得られたりしたはずです。だから、四十代のみなさんはすでに「新しい自分と出会うことの喜び」を知っています。そのときの気持ちの高揚を思い起こしていただきたい。守りに入ろうだなんて気持ちは吹き飛びます。四十代はまだまだ「攻めの季節」なのです。守りに入るということはまた、言い換えれば四十代にして突き当たった「壁」を破ろうとせずに、壁の中で仕事をする、ということです。上司からも「この仕事は君に任せておけば安心だよ」などといわれると、なおさらあえて「壁」を破ろうとしなくなることもあります。しかし、その信頼は「過去」の実績に対するものでしかありません。それを理解していないと、その信頼は必ず先細りしていきます。「これからの信頼は、未来の仕事がつくる」と、思いを定めてください。振り返れば、明治維新後の大物実業家は岩崎弥太郎にしろ、渋沢栄一、浅野総一郎、安田善次郎、大倉喜八郎にしろ、成功への力強い一歩を踏み出したのは三十五、六歳の頃でした。そういう時期に彼らは、これまで培ってきた経験や知識を整理し、自分の強みを明確にして「人生の本格路線」へと舵を切ったのです。「人生五十年の時代」ですから、あと十数年しか生きられないかもしれない状況の中でも、より大きな成功を求めたのです。寿命が延びたいまでいえば、四十代こそが勝負のとき。みなさんも、ここで過去の棚卸しをし、「本格路線」を再構築するといいでしょう。そうすれば、必ずや目の前の「壁」を打ち破ることができます。

「群れ」から離れる「志」を、人間関係の結び目にする私はよく、四十代の人に、「四十歳からは、特定の人だけとつき合ってはいけないよ」「さらに自分の世界を広げないといけないよ」とアドバイスします。四十代には、組織の力を結集させて結果を出すことが求められます。その大前提は、さまざまな人の集まりである、いわゆる「群れ」の中にいようとも、一人で生きていけるだけの強さを持っていることです。この強さがあればこそ、集団の一人ひとりを大切にする気持ちが持てるのです。周囲といい人間関係を築き、志を一つにして、ともに仕事をしていくことが大切なのです。自分を強く持ち、かつ会社という集団の結束をより固めるにはどうすればいいかを考えてみましょう。一番注意しなくてはいけないのは、特定の人と利害で結びついてしまうことです。よく「社会人になると、人間関係に利害がからむから、純粋な友人ができにくい」といわれますが、実際に、四十代の人の多くが当たり前のように人間関係の結び目を利害ととらえる傾向があります。そこがそもそもいけないのです。『論語』にこうあります。「君子は周して比せず。小人は比して周せず」「君子、つまり立派な人物は特定の人と馴れ合わない。逆に、たとえばイエスマンのような部下だけで自分の周囲を固めて、そうではない部下を遠ざけたり、利権を同じくする者同士で派閥のようなものを形成したりするのは、小人物である」孔子はそういっているのです。後者はまさに「馴れ合いの関係」にほかなりません。そんな狭い世界で自分にとって都合のよい人だけを集めても、そこで人間関係は閉じてしまいます。そうではなく、広く人と親しみ、自分の世界を広げていくことが大事なのです。その意味では、一般的な人づき合いにおいては、『荘子』にあるこの言葉が、一つのいい方向性を示しています。「君子の交わりは淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴の若し」小人物の交際を甘酒にたとえて、「甘くてベタベタした関係だ」と断じているのが面白いところです。「四十代はもういっぱしの人間なのだから、べったりと特定の人と群れずに、一人でも行動できる人間になりなさいよ。そのうえで、水のように淡々と、浅く広く人づき合いを広げていきなさいよ」と読めます。幅広い分野の人たちや、さまざまな才能や個性を持つ人々と交流することが、自分の幅を広げることにつながるのです。一方で、四十代のリーダーは強い集団を形成しなければなりません。そのときにキーワードになるのが「志」です。NHK大河ドラマ『花燃ゆ』では、吉田松陰が新しい塾生を迎えるたびに、「あなたの志はなんですか?」と尋ねていました。松陰が本当にそう問うたかどうかはわかりませんが、あの質問を、たとえば部下に投げかけるのはいい方法でしょう。なぜなら、志を一つにした集団ほど強いものはないからです。一人ひとりに志を問い、そのうえでリーダーがそれらを大きな志に収束させる。でないと、部下は考えも行動もてんでんばらばら。単なる「烏合の衆」になってしまいます。『孫子』ではこのことを、「上下の欲を同じうする者は勝つ」と表現しています。何を目標に、どのように仕事に取り組むかを全員が共有し、それぞれの立場でやるべきことを実行する。そういう態勢を整え、旗振り役を務めるのが、四十代のリーダーの本分というものです。

「余裕」をつくるいかにして心と時間の器を大きくするか「仕事が忙しすぎて、寝る時間も、家族とともに過ごす時間も、休む時間も、遊ぶ時間も、勉強する時間もない。お金もなければ、体力も衰えてきた……」こんな四十代の〝ぼやき〟を耳にします。時間やお金、体力については後述するとして、こと仕事に関しては、四十代は働き盛りですから、忙しいのはやむをえないところでしょうね。問題は、その忙しさが「心の余裕」を失うことに結びついてしまうことです。本来、「忙しさ」は物理的な問題で、「余裕」は心の問題です。どんなに忙しくても、心に余裕があれば「人生が仕事に忙殺されている」ような感覚とは無縁でいられるでしょう。では、暇なら心に余裕が持てるかというと、それも違います。「こんなに暇でいいのだろうか」と焦燥感にさいなまれたり、「暇だな……」とのんびり構えてしまうために何かやるべきことが生じたときにあわてたりします。「暇だから余裕をなくす」ということもあるわけです。中国古典思想特有の「陰陽バランス」でいえば、「忙しいときほど心にゆとりを持ち、暇なときほど有事に備えて心を緊張させる」というのが極意。このことを表したのが、「間時には喫緊の心思あるを要し、忙処には悠間の趣味あるを要す」という、『菜根譚』にある言葉です。では、余裕を持って仕事に取り組むにはどうすればよいか。逆説的になりますが、何度も切羽詰まる状況に陥ることが重要です。そうやって翻弄される中で、さまざまな事態にどう対応すればよいかが経験的にわかるようになるからです。対応法がわかれば、当然、心に余裕が生まれます。さらに、そういう対応力が身につくと、「予測能力」が磨かれます。予測能力がつくと、目の前の出来事に対して、「これは早急に手を打たなければ大変なことになる」とか「この問題は後回しにしても大丈夫だ」など、的確な判断のもとで策を講じることができるようになります。二十代、三十代は、がむしゃらに働くしかないので、心の余裕を持つのはちょっと難しいでしょう。でも、その頃にさんざん切羽詰まった経験をしたからこそ、四十代になってから対応力がつき、常に余裕を持って事に当たれるようになるのです。四十代からは余裕のある人間が勝つ、というのはそういうことです。まだ切羽詰まった経験の少ない人は、いまからでも遅くありません。まずは問題から逃げないこと。問題から逃げれば逃げるほど苦しい思いをすることになると心得て、ジタバタしながら対応力、さらには予測能力を徹底的に磨いてください。器が大きくなり、必ずや、心にも時間にも余裕が生まれます。

 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次